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奥のほそ道


本書は重厚かつ、読み応えのある一冊だ。
それと同時に、日本人が読むには痛く、そして苦味に満ちている。

人は他人にどこまでの苦難を与えうるのか。その苦難の極限に、人はどこまで耐えうるのか。そして、苦難を与える人間の心とは、どういう心性から育まれるものなのか。
本書が追求しているのはこのテーマだ。

本書に登場する加害者とは、第二次大戦中の日本軍。
被害者は日本軍の戦争捕虜として使役されるオーストラリア軍の軍人だ。

海外の映画にはありがちだが、日本を取り上げたものには、私たち日本人から見てありえない描写がされているものが多い。特に映画においては。

だが、本書はじっくりと時間をかけて日本を知り、日本を研究した上で書かれているように思えた。本書からは見当違いの日本が描かれていると感じなかったからだ。
本書は、日本人の描き方を含めても、読み応えのある本だと思う。

第二次大戦中、日本軍がやらかした失敗の数々はよく知られている。
軍部の偏狭さや夜郎自大がもたらした弊害は枚挙にいとまがない。それがわが国を壊滅へと追いやったことは誰もが知っている。
フィリピンのバターン死の更新やビルマの奥地の泰緬鉄道の建設など、国際法を無視し、捕虜の取り扱いに全く配慮を欠いた愚行の数々。
敗戦の事実も辛いが、私は当時の日本がこうした悪名を被ったことがつらい。軍の最大の失敗とは、敗戦そのものよりも、軍紀を粛正せず、末端の将校を野放しにしたことにあるとさえ思う。
日露戦争や第一次世界大戦では、日本の行き届いた捕虜への配慮が武士道の発露と世界から称賛を浴びただけになおさら残念だ。

残念ながら、右向きの人がどれだけ否定しようとも、日本軍がなした愚行を否定することはできまい。あったことよりもなかったことの証拠を見つける方が難しいからだ。量の多寡よりも、少しでも行われてしまったことがすでに問題だと思う。
実際に日本軍からの虐待を告発した方は、中国人、朝鮮人だけではない。他にも多くいる。本書のようにオーストラリア、オランダ、イギリスの軍人を中心に世界中に及ぶ。

著者の父は実際に泰緬鉄道の現場で過酷な捕虜の境遇を味わったという。著者はそれを十二年の年月を掛け、本書にまとめたという。
十二年の時間とは、おそらく著者が日本を学ぶために費やした時間だったはずだ。

日本軍が捕虜を扱う際、なぜ過酷な労働を強いたのか。それは、どのような文化、どのような心性のもとで生まれたのか。
世界から一目置かれる文化を擁するはずの日本人が、なぜあれほどの思慮を欠いた所業に手を染めたのか。著者はその探究に心を砕いたに違いない。

著者はその手がかりを俳句に求める。
自然を愛でる日本人の心性。それが簡潔な形で表現されるのが俳句だ。
私も旅先で駄句をひねることが多く、俳句には親しんでいるつもりだ。

「二人は、一茶の句の純朴な知恵、蕪村の偉大さ、芭蕉の見事な俳文『おくのほそ道』のすばらしさを語るうちに、感傷的になっていった。『おくのほそ道』は、日本人の精神の真髄を一冊の書物に集約している、とコウタ大佐が言った。」(131p)
「日本人の精神はいまそれ自体が鉄道であり、鉄道は日本人の精神であり、北の奥地へと続くわれらの細き道は、芭蕉の美と叡智をより広い世界へと届ける一助となるだろう。」(132p)

この二つの文章は、本書の登場人物でもひときわ印象に残る、日本軍のナカムラ少佐とコウタ大佐が会話する場面から引用した。

俳句とは、現実からは距離を置き、恬淡とした境地から自然を描写する芸術だ。
詠み人の立場や心境は反映されるが、そこで描写される人は、あくまでも風景の登場人物にすぎない。描写される人の立場や心境にはあまり踏み込まない。たとえその人が無作為に非情な運命にもてあそばれていたとしても。
日本の文化には相手への丁寧さがあると言われるが、それは言い方を変えれば他人行儀ということだ。表面はにこにこしているが、何を考えているか分からない日本人、というのもよく聞く日本評だ。
著者は俳句を研究した結果、日本人の心性を解く鍵を俳句に見いだしたのではないだろうか。
本書のとびらには一つの文句が書かれている。
「お母さん、彼らは詩を書くのです。
パウル・ツェラン」
この文句でいう詩とは俳句を指すのはもちろんだ。そして、彼らとはかくも残虐な所業をなした日本人を指しているはずだ。
この言葉には、その行動と詩の間にある落差への驚きがある。

不思議の国日本、と諸外国から言われるわが国の心性。
それは台風や噴火、地震や飢饉に苦しみ続けてきた日本人が培ってきた感性だ。

そうした非情な現実から距離を置くことが、日本人が過酷な自然から生き延びるために得た知恵。だとすれば、非情な現実とは、自らが捕虜に対する行いにも適用される。
一方で捕虜を過酷な状況の中で使役し、一方で恬淡とした自然の前にある自分を見つめられる心性。
ナカムラ少佐やコウタ少佐にとって、苦役に就く捕虜とは、目の前の光景でしかない。だから捕虜の待遇を良くしようとも思わない。

皮肉なことに、ビルマで本書の主人公であるドリゴを始めとした、オーストラリア軍の捕虜たちを酷使しつづけたナカムラ少佐やコウタ大佐は寿命を全うし、畳の上で死ぬ。
その運命の不条理さに読者は何とも言えない感覚を抱くはずだ。

もちろん不条理さを体現した登場人物はまだいる。
日本軍に属し、捕虜たちに虐待を与える側にたつ朝鮮人チェ・サンミン。
月あたり50円の給金を貰う以外、何の思想も考えも、そして何の誇りもなく任務に従っていた男。
彼はBC級戦犯の裁判の結果、処刑される。
その処刑の描写は、人間が持ちうる圧倒的な空虚さもあいまって読者に強い衝撃を与える。

他にも、本書には九大医学部で起こった捕虜生体解剖の助手をやっていたという人物や、731部隊の関係者も登場する。
いずれも戦後の世界を戸惑いながら生きる人物として描かれる。

本書の主人公ドリゴもまた、凄惨な捕虜の境遇を生き延び、戦後も長く生きる。
ドリゴが日本軍から受けた扱いは、腐った匂いや泥の感触を感じさせる細部までが過酷なものだった。その境遇から生き延び、戦後を生きたドリゴの生活には、どこかしら空虚な影がついて回る。

そしてドリゴは戦前と戦中と戦後をさまよいながら、生の意味を求める。

ドリゴが何気なく手に取った日本の俳人のエピソード。
「十八世紀の俳人之水は、死の床で辞世の句を詠んでほしいと乞われ、筆をつかみ、句を描いて死んでいった。之水が紙に円を一つ描いたのを見て、門弟たちは驚いた。
之水の句は、ドリゴ・エヴァンスの潜在意識を流れていった。包含された空白、果てしない謎、長さのない幅、巨大な車輪、永劫回帰。円――線と対象をなすもの。」(36ぺージ)

そして死に際してドリゴは之水の描いた円の意味を突如理解する。そして、このような言葉を残して絶命する。
「諸君、前進せよ。風車に突撃せよ。」(442ぺージ)
無鉄砲なドン・キホーテの突撃した風車とは、不条理の象徴である。

挿絵のない本書に二回も登場するのが、之水の描いた円の筆跡。
これこそが、すべてのものは回帰する、という俳句の心境であり、ドリゴが悟った生の意味なのだと思う。

人として外道の所業をなした日本軍。組織の中で戦争犯罪に手を染めた軍人たち。死と紙一重の体験を生き延びたドリゴ。ドリゴの被った悲劇に影響された周りの人々。
善も悪も全ては円の中で閉じ、永劫へと回帰してゆく。

本書は日本軍の犯した組織ぐるみの犯罪をモチーフにしているが、作中には日本人や日本文化を批難する言葉はほぼ登場しない。
それはもちろん、著者や著者の父による許しを意味してはいないはずだ。
著者は許すかわりに、日本軍の行いも人間が織りなす不条理の一つとして受け入れたのではないだろうか。
すべての国や時代を通じ、人の生のあり方とは円に回帰する。著者はその視点にたどり着いたように思う。

訳者によるあとがきによると、本書の最終稿を著者が出版社に送信したその日、著者は存命だった父に面会し、作品の完成を伝えた。そしてその晩、著者の父は98年の生涯を閉じたのだという。

そうした奇跡のようなエピソードさえも、本書が到達した深みを補強する。

本書は五部からなる。
それぞれの部の扉には句が載せられている。

一部
牡丹蘂ふかく分出る蜂の名残哉 芭蕉

二部
女から先へかすむぞ汐干がた  一茶

三部
露の世の露の中にてけんくわ哉 一茶

四部
露の世は露の世ながらさりながら 一茶

五部
世の中は地獄の上の花見かな 一茶

私たちが日本人の在り方やあるべき姿に悩むとき、俳句の持つ意味を踏まえるとより理解が深められるのかもしれない。
外国人の著者から、そうしたことを教えてもらった気分だ。
本書からはとても得難く深い印象を受けた。

‘2019/5/22-2019/6/8


怪談―不思議なことの物語と研究


このところ、右傾化していると言われる日本。そのとおりなのかもしれない。今になって気づいたかのように、日本人が日本の良さを語る。

とはいえ、従来から日本の良さを語る日本人が皆無だったわけではない。要はこのところの国勢の衰えに危機感を持った方が増えたということだろう。だが、その国の良さを認めるという行為は、本来、国が栄えようが衰えようが関係ないように思える。それが証拠に、古来より他国からの来訪者に我が国の美点を取り上げられることも往々にしてあった。それだけではなく、我々が他国の方の指摘に教えられることも多かったように思う。それら来訪者の方々は、日本が世界の中で取るに足らぬ存在だったころに、日本の良さを称え、賞賛した。古代に朝鮮半島や中国から渡ってきた渡来人達、戦国の世にキリスト教をもたらした宣教師達、幕末から明治にかけて技術を携え来日した雇われ西洋人達、等々。

彼らが見聞きし書き残した古き良き日本。その文章には、現代に通ずる日本の良さが凝縮されている。今の我々の奥底で連綿と伝わっているにも関わらず、忘れさろうとしている日本が。彼ら異邦人から我々が教わることはとても多い。にわか愛国者達がネット上で呟く悪態や、拡声器でがなり立てるヘイトスピーチなど、他国を貶めることでしか自分を持ち上げられない次元とは違う。

著者もまた、異文化である日本の素晴らしさを認め、海外にそのことを伝えた一人。そればかりか、日本に心底惚れ込み、日本人女性と結婚し帰化までした。

本書の現代はKWAIDANである。原文は英文で書かれ、アメリカで刊行された。耳なし芳一、ろくろ首、雪おんな、などといった日本でも著名な物語のほか、あまり有名ではない日本各地の民話や昔話を種とした話が多数収められている。その意味では純然たる著者の創作ではない。しかし、その内容は種本の丸写しではなく、著者が日本に伝わる話を夫人の力を借りて翻訳し、翻案したものという。つまり、日本の精神を、西洋人である著者の思考でろ過したのが本書であると言える。

では、本書の内容は西洋人の異国趣味的な観点から日本の上澄みだけを掬ったものに過ぎないのか。本書を読む限り、とてもそうは受け取れない。本書の内容は我々現代日本人にも抵抗なく受け入れられる。それは我々が西洋化してしまったために、西洋風味の日本ばなしが違和感なく受け入れられるという理屈ではあるまい。ではなぜ西洋人の著者に本書が執筆できたのだろうか。

著者は日本に来日する前から、超自然的な挿話を好んでいたという。そして諸国を渡り歩いた著者が日本を終の地と定めたのも、その超自然的な嗜好に相通ずるものを日本に感じたからではないか。超自然的とは合理的とは相反する意味を持つ。また、合理的でないからといってみだりに排斥せず、非合理な、一見ありえない現実を受け入れることでもある。我が国は永きに亘り、諸外国から流入する文化を受け入れ、自らの文化の一部に取り込んで来た。その精神的な器は果てしなく深く、広い。著者は我が国の抱える器の広さに惹かれたのではなかったか。

そうとらえると、本書の内容が今に通じる理由も納得できる。これらの話には、日本の精神的な奥深くにあるものが蒸留され、抽出されている。不思議なものも受け入れ、よそものも受け入れる話が。科学的な検証精神には、荒唐無稽な話として一蹴され、捨て去られる内容が、今の世まで受け継がれてきた。著者もその受け継がれた内容に、日本の精神的な豊かさを感じた。そしてその豊かさは、まだ我々が忘れ得ぬ美点として残っているはずである。

本書にはもう一つ、怪談噺以外にも著者のエッセイ風の物語が収められている。「虫の研究」と題されたその中身は、「蝶」「蚊」「蟻」という題を持つ3つの物語である。

「蝶」は日本に蝶にまつわる美しい物語や俳句があり、そこには日本人の精神性を解くための重要なヒントが隠されているという興味深い考察が為されている。蝶の可憐な生き様の陰には、日本人の「儚さ」「わびさび」を尊ぶ無常観があると喝破し、蝶を魂や御先祖様の輪廻した姿になぞらえるといった超自然的な精神性を指摘する。

「蚊」は日本の蚊に悩まされる著者の愚痴めいた文章から始まる。続いて蚊に対抗するには、蚊を培養する淀んだ水々に油を垂らすことで増殖を抑えることが可能、という対策を紹介する。そこで著者の論点は一転し、科学的に蚊を退治することに疑問を呈する。蚊を退治するために犠牲になる大切な物-佇む墓石の群れや公園の佇まいに対する慈愛の眼を注ぐ。蚊を退治するのではなく、共存共栄の道を探り、西洋的な科学万能な視点からは一線を画した視点を提示する。

「蟻」はその巣を営むためになされる無数の生き様から、社会的な分業の有り方を評価し、個人主義的な風潮に一石を投ずる。そればかりではない。今、最新の科学現場では、生物の生態から有益な技術が多数発見されている。有名なところでは、蜘蛛の糸の強靭な性質性から人工繊維の開発、サメの肌から水の抵抗を抑えた水着の開発、鳥の身体の形状からは新幹線など高速鉄道の形状の開発等が知られている。「蟻」には、このような蟻の社会的な能力から、人間が学べることがもっとあるのではないかという提起が為されている。今から100年以上前に刊行された本書に、今の最新科学技術を先取りした内容が書かれていることは、実に驚きと言わざるをえない。同時代の寺田寅彦博士の諸研究も、今の科学を先取りしていたことで知られる。が、著者の書いた内容も、同様にもっと評価されてもいいと思う。

これら3つの物語に共通するのは、謙譲の精神である。日本人の美徳としてよく取り上げられることも多い。著者が存命な頃の日本には、まだまだこのような愛すべき美徳が残っていたようだ。振り返って、現代の日本はどうだろうか。

もちろん、謂われなき中傷には反論すべきだし、国土侵犯には断固とした対応が必要だろう。ただし、そこから攻撃を始めた攻撃が、他国の領土で傷跡を残した途端、日本の正当性・優位性は喪われる。また、著者の愛した日本のこころも危ういものとなってしまう。著者は晩年、東京帝大の職を解かれ、日本に失望していたと伝え聞く。それは丁度、日清・日露戦争の合間の時期にあたる。著者の失望が、攻撃的になりつつあった日本へのそれと重ねるのは的外れな解釈だろうか。

今の日本も、少し危うい面が見え隠れし始めたように思える。果たして著者の愛した、超自然的な出来事や異文化の事物を受け入れる器は今の日本に残っているだろうか。また、著者の愛した謙譲の精神は今の日本から見いだせるだろうか。

何も声高に叫ぶ必要はない。ヒステリックになる必然もない。そんなことをするまでもなく日本の良さをわかっている人は地球上に数え切れぬほどいる。味方になってくれる人も大勢いる。そのことは、一世紀以上前に日本で生涯を終えたラフカディオ・ハーンという人の生涯、そして本書の中に証拠として残っている。

‘2014/9/19-‘2014/9/23