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戦国姫物語 城を支えた女たち


ここ数年、城を攻める趣味が復活している。若い頃はよく各地の城を訪れていた私。だが、上京してからは家庭や仕事のことで手一杯。城巡りを含め、個人的な趣味に使う時間はとれなかった。ここにきて、そうした趣味が復活しつつある。それも誘ってくれた友人たちのおかげだ。

20代の前半に城を訪れていた頃は、有名な城や古戦場を訪れることが多かった。だが、最近は比較的マイナーな城を訪れている。なぜかといえば、名城の多くは明治に取り壊され、江戸時代の姿をとどめていないことが多いからだ。そうした城の多くは復元されたもので、残念ながらどこかに人工的な印象を受ける。私は今、そうした再建された広壮な城よりも、当時の姿を朽ちるがままに見せてくれる城に惹かれている。中でも山城は、山登りを好むようになった最近の私にとって、城と山の両方をいっぺんに達成できる魅力がある。

城を訪れる時、ただ城を眺めるだけではもったいない。城の歴史や、城を舞台に生きた人々の営みを知るとさらに楽しみは増す。特に人々が残した挿話は、人が活動した場所である以上、何かが残されている。もちろん、今に伝わる挿話の多くは有名な城にまつわるものだ。有名な城は規模も大きく、大勢の人が生活の場としていた。そこにはそれぞれの人生や葛藤が数知れずあるはず。だが、挿話が多いため、一つ一つに集中しにくい。印象も残りにくい。だが、埋もれつつある古城や、こぢんまりとした古城には人もあまりいなかったため、そうした地に残された挿話には濃密な情念が宿っているように思えるのだ。

その事を感じたのは、諏訪にある上原城を訪れた時のことだ。先に挙げた友人たちと訪れたこの城は、諏訪氏と武田氏の戦いにおいて重要な役割を担った。また、ここは諏訪御料人にゆかりのある城だ。諏訪御料人は、滅ぼされた諏訪氏の出で、一族の仇敵であるはずの武田信玄の側室となり、のちに武田家を継ぐ勝頼を生んだ女性だ。自らの父を破った信玄に身を任せたその心境はいかばかりか。戦国の世の定めとして、悲憐の運命をたどった諏訪御料人の運命に思いをはせながら、諏訪盆地を見下ろす。そんな感慨にふけられるのも、古城を訪れた者の特権だ。

戦国時代とは武士たちの駆け抜けた時代であり、主役の多くは男だ。だが、女性たちも男たちに劣らず重要な役割を担っている。諏訪御料人のような薄幸の運命を歩んだ女性もいれば、強く人生を全うした女性もいる。本書はそうした女性たちと彼女たちにゆかりの強い60の城を取り上げている。

本書は全七章からなっている。それぞれにテーマを分けているため、読者にとっては読みやすいはずだ。

第一章 信玄と姫
 躑躅ヶ崎館と大井婦人 / 小田原城と黄梅院 / 高遠城と松姫 / 伏見城と菊姫 / 上原城と諏訪御料人 / 新府城と勝頼夫人
第二章 信長と姫
 稲葉山城【岐阜城】と濃姫 / 小牧山城と生駒吉乃 / 近江山上城とお鍋の方 / 安土城と徳姫 / 金沢城と永姫 / 北庄城とお市の方 / 大坂城と淀殿 / 大津城とお初 / 江戸城とお江 / 岩村城とおつやの方 / 坂本城と熙子
第三章 秀吉と姫
 長浜城とおね / 山形城と駒姫 / 小谷城と京極龍子 / 美作勝山城とおふくの方 / 忍城と甲斐姫
第四章 家康と姫
 勝浦城とお万の方 / 岡崎城と築山殿 / 浜松城と阿茶局 / 鳥取城と督姫 / 松本城と松姫 / 姫路城と千姫 / 京都御所と東福門院和子 / 宇土城とおたあジュリア / 江戸城紅葉山御殿と春日局 / 徳島城と氏姫
第五章 九州の姫
 首里城・勝連城と百十踏揚 / 鹿児島城と常盤 / 平戸城と松東院メンシア / 佐賀城と慶誾尼 / 熊本城と伊都 / 鶴崎城と吉岡妙林尼 / 岡城と虎姫 / 柳川城と立花誾千代
第六章 西日本の姫
 松江城と大方殿 / 吉田郡山城と杉の大方 / 三島城と鶴姫 / 岡山城と豪姫 / 常山城と鶴姫 / 三木城と別所長治夫人照子 / 勝龍寺城と細川ガラシャ / 大垣城とおあむ / 彦根城と井伊直虎 / 津城と藤堂高虎夫人久芳院 / 掛川城と千代 / 駿府城【今川館】と寿桂尼
第七章 東日本の姫
 上田城と小松殿 / 越前府中城とまつ / 金山城と由良輝子【妙印尼】 / 黒川城【会津若松城】と愛姫 / 仙台城と義姫 / 米沢城と仙洞院 / 浦城と花御前 / 弘前城と阿保良・辰子・満天姫

これらの組み合わせの中で私が知らなかった城や女性はいくつかある。なにしろ、本書に登場する人物は多い。城主となった女性もいれば、合戦に参じて敵に大打撃を与えた女性もいる。戦国の世を生きるため、夫を支えた女性もいれば、長年にわたり国の柱であり続けた女性もいる。本書を読むと、戦国とは決して男だけの時代ではなかったことがわかる。女性もまた、戦国の世に生まれた運命を懸命に生きたはずだ。ただ、文献や石碑、物語として伝えられなかっただけで。全国をまんべんなく紹介された城と女性の物語からは、歴史の本流だけを追うことが戦国時代ではないとの著者の訴えが聞こえてくる。

おそらく全国に残る城が、単なる戦の拠点だけの存在であれば、人々はこうも城に惹かれなかったのではと思う。城には戦の場としてだけの役目以外にも、日々の暮らしを支える場としての役割があった。日々の暮らしには起伏のある情念や思いが繰り返されたことだろう。そして、女性の残した悲しみや幸せもあったはずだ。そうした日々の暮らしを含め、触れれば切れるような緊張感のある日々が、城を舞台に幾重にも重なっているに違いない。だからこそ、人々は戦国時代にロマンや物語を見いだすのだろう。

むしろ、本書から読み取れることは、戦国時代の女性とは、男性よりもはるかにまちまちで多様な生き方をしていたのではないか、ということだ。男が戦や政治や学問や農商業のどれかに従事していた以上に、女はそれらに加えて育児や夫の手助けや世継ぎの教育も担っていた。結局のところ、いつの世も女性が強いということか。

私が個人的に訪れたことのある城は、この中で25城しかない。だが、最近訪れ、しかも強い印象を受けた城が本書には取り上げられている。例えば勝連城や忍城など。まだ訪れていない城も、本書から受けた印象以上に、感銘をうけることだろう。本書をきっかけに、さらに城巡りに拍車がかかればよいと思っている。まだまだ訪れるべき世界の城は多いのだから。

‘2018/09/25-2018/09/25


列島縦断 「幻の名城」を訪ねて


本書を読む二カ月前、家族で沖縄を旅した。その思い出は楽しさに満ちている。最終日に登城した勝連城跡もその一つ。勝連城跡の雄大な石垣と縄張り。そして変幻自在にくねっては一つの図形を形作る曲輪。勝連城跡は私に城巡りの楽しさを思い出させた。

それまで沖縄のグスクに対して私が持っていた印象とは、二十年前に訪れた首里城から受けたものだけだった。首里城は沖縄戦で破壊され、私が訪れる四年ほど前に復元されたばかり。そのまぶしいまでの朱色は、かえって私から城の印象を奪ってしまった。

今回の旅でも当初は首里城を訪れる予定だった。が、私自身、上に書いたような印象もあって首里城にはそれほど食指が動かなかった。そうしたところ、お会いした沖縄にお住いの方々から海中道路を勧められた。それで予定を変更し、首里城ではなく海中道路から平安座島と伊計島を訪れた。前の日には今帰仁城址を訪れる予定もあったが、美ら海水族館で多くの時間を時間を過ごしたのでパス。なので、本来ならば今回の沖縄旅行では、どのグスクにも寄らずじまいのはずだった。ところが、海中道路からの帰りに勝連城跡が近いことに気づき、急遽寄ることにした。正直、あまり期待していなかったが。

ところが勝連城は私の期待をはるかに上回っていた。ふもとから仰ぎ見る見事な威容。登り切った本丸跡から眺める海中道路の景色。何という素晴らしい城だろう。かつて阿麻和利が打ち立てた勢いのほとばしりを数百年のちの今も雄弁に語っている。阿麻和利は琉球史でも屈指の人物として知られる。南山、中山、北山の三山が割拠した琉球の歴史。その戦乱の息吹を知り、今に伝えるのが勝連城跡。城とは、歴史の生き証人なのだ。

お城とは歴史の爪痕。そして兵どもの戦いの場。確かに、イミテーション天守は戴けない。コンクリートで復元された天守も興を削ぐ。その感情がわき起こることは否めない。だが、例え天守がイミテーションや復元であっても、天守台や二の廓、三の廓に立ち、二の丸、三の丸の石垣を目にするだけでも城主の思いや戦国武士の生きざまは感じられるのではないか。私は勝連城を訪れ、あらためて城の石垣に魅了された。

ここ数年、山中に埋もれた山城の魅力に惹かれていた。だが、石垣で囲われた城にも魅力はある。そう思って本書を手に取った。

本書には有名な城もそうでない城も紹介されている。本書は全部で五十以上の条で成っており、それぞれの条で一つの城が取り上げられている。本書で取り上げられた城の多くに共通するのは、石垣の美しさを今に伝える城であること。著者は石垣マニアに違いあるまい。石垣へ魅せられる著者の温度が文章からおうおうにして漂っている。著者のその思いは、本書にも取り上げられている勝連城を登った私にはよく理解できる。

第一章は「これぞ幻の名城ー石垣と土塁が語る戦いと栄華の址」と題されている。ここで扱われている城の多くに天守は残されていない。西日本編として安土城、近江坂本城、小谷城、一乗谷館、信貴山城、大和郡山城、竹田城。東日本編として春日山城、躑躅ヶ崎館、新府城、興国寺城、石垣山城、小田原城、金山城、箕輪城、高遠城、九戸城が登場する。この中で私が訪れたことがあるのは、安土城、一乗谷館、大和郡山城、躑躅ヶ崎館、小田原城だけしかない。他はどれも行ったことがなく、旅情を誘う。各城を紹介する著者の筆致は簡潔で、歴史の中でその城が脚光を浴びたエピソードを描く程度。だが、訪問したいという思いに駆られる。ここに登場する城には土塁や石垣がはっきり残っているところが多い。その多くは戦いのための機能のみならず、統治用の縄張りも兼ねている。つまり軍略と統治の両面を考えられた城がこの章では取り上げられている。そうした観点で見る城もなかなかに魅了させてくれる。

第二章は「大東京で探す「幻の名城」」と題されている。江戸城、平塚(豊島城)、石神井城、練馬城、渋谷城と金王八幡宮、世田谷城と豪徳寺、奥沢城と九品仏浄真寺、深大寺城と深大寺、滝山城、八王子城だ。この中で全域をめぐったといえる城は滝山城だけ。世田谷城も江戸城も深大寺城も奥沢城も渋谷城も城域とされる地域は歩いたが、とてもすべてをめぐったとは言えない。そもそも遺構があまり残されていないのだから。だが、東京に暮らしているのなら、これらの城はまだめぐる価値があると著者はいう。本書を読んで数日後、皇居の東御苑に行く機会があったが、折あしく立ち入れなかったのは残念。また訪れてみたいと思っている。また、この章では最後には桜が美しい城址公園を紹介してくれている。弘前公園、松前公園、高遠城址公園、津山城鶴山公園、名護城址公園の五カ所だ。津山以外はどこも未訪で、津山に訪れたのは三十年以上前のことなのでほとんど覚えていない。ぜひ行きたい。

第三章は「櫓や石垣、堀の向こうに在りし日の雄姿が浮かぶ」と題されている。金沢城、上田城、福岡城、津和野城、女城主井伊直虎ゆかりの城、井伊谷城、松岡城が採り上げられている。金沢と福岡しか行ったことがないが、いずれも石垣が印象に残る城だと思う。直虎を取り上げているが、それは本書の出された時期に放映中の大河ドラマに便乗した編集者のごり押しだろう。だが、一度は訪れてみたいと思っている。ここの章に挿入されたコラムでは、荒城の月の舞台はどこかについて、五カ所の候補とされる城が紹介されている。仙台(青葉)城、九戸(福岡)城、会津若松(鶴ヶ城)城、岡城、富山城だ。九戸と岡はまだ行ったことがない。ぜひ訪れたい。

第四章は「再建、再興された天守や館に往時を偲ぶ」と題されている。この章で採り上げられた城はどれも復興天守だ。五稜郭、会津若松城、松前城、伏見城、忍城。この中では松前城だけ行ったことがない。本章の最後にはなぜ復興天守は作られるのか、というコラムで著者の分析が収められている。著者が説くのは、観光資源としての城をどう考えるのかという視点だ。その視点から復興天守を考えた時、違う見え方が現れる。私は、復興天守だから一概に悪いとは思っていない。どの城も堀や縄張りは往時をよく残しており、天守だけが廃されている。だからこそ天守を復興させ、最後の点睛を戻したいという地元の人の気持ちもわかるのだ。なお、伏見城は歴史考証を無視したイミテーション天守だが、伏見の山腹に見える天守を見ると関西に帰省した私は心が安らぐのもまた事実。すべての復興天守を批難するのもどうかと思う。

第五章は「古城の風格をいまに伝える名城」として弘前城、丸岡城、備中松山城を取り上げている。丸岡城は母の実家のすぐ近くなので訪れたことがあるが、それもだいぶ前。もう一度訪れてみたいと思っている。ここで採り上げられたどの城も現存十二天守に含まれている。なお、本書のまえがきにも記されているが、現存十二天守とは江戸時代以前に築かれた天守で、今に残されている天守を指す。松本城、犬山城、彦根城、姫路城、松江城が国宝。重要文化財は弘前城、丸岡城、備中松山城、丸亀城、松山城、宇和島城、高知城だ。なぜか前書きからは松山城が抜けているが。私はこの中で弘前城、備中松山城、丸亀城、宇和島城だけ登っていないが、残りは全て天守を登っている。どの天守も登る度に感慨を豊かにしてくれる。

第六章は「北の砦チャシ、南の城グスクの歴史」だ。アイヌにとっての砦チャシ、シベチャリシャシ、ヲンネモトチャシ、首里城、今帰仁城、中城城、座喜味城、勝連城が取り上げられている。本章を読んで、私が北海道のチャシを訪れたことがない事に気付いた。三回も北海道を一周したにもかかわらずだ。いまだに五稜郭しか行ったことがない。これはいかんと思った。そして沖縄だ。まだ訪れていない今帰仁城や中城城、座喜味城にも勝連城を訪れた時のような感動が待っているに違いない。そしてこの章の最後に、石垣マニアの著者が力を入れて取り上げる、石垣が美しい城ベスト5が紹介されている。会津若松城(鶴ヶ城)、金沢城、伊賀上野城、丸亀城、熊本城だ。伊賀上野と金沢は訪れたものの、ずいぶんと前の話。しかも伊賀上野は十年近く前に訪れたが、忍者屋敷に娘たちが見とれていたのを親が見とれていたので、実質は見ていないのと同じだ。石垣だけでも見に行きたい。

最後に巻末資料として、日本の城とは何かという視点で、築城史が紹介されている。また城に関する用語集も載っている。特に虎口や馬出や堀、曲輪、縄張、天主や土塁、石垣などがイラスト付きで載っており、とても分かりやすい。私の生涯の目標として、日本の〇〇百選を制覇することがある。もちろん城もそれに含まれている。城については百名城だけでなく二百名城までは制覇したいと思う。本書を読んだことを機に、城探訪の旅も始めたいと思っている。

‘2018/05/03-2018/05/09


武田家滅亡


武田家滅亡。そのものズバリの題名だ。だが、私にとってこの題名はそれだけではなく、何か響くものを感じる。

それは、私にとって武田家とは滅亡した一族ではないからだ。

確かに戦国大名としての武田家は、最後の当主勝頼公が勝沼近くの天目山で自害して滅んだ。と、されている。が、滅亡の際、武田家に縁のある人々が八王子辺りに逃れたことは戦国史に詳しい方なら既知の話だと思う。私の妻が昔から親戚同然でお付き合いしている方は、まさしく八王子の武田さんという。私も以前、自宅にご招待頂いたことがある。詳しい系図を伺ったことはないが、おそらくは直系でないにせよ、武田家初代義光公のご縁に連なる一族なのではないか。

我が家は「週末は山梨にいます」と銘打たれた観光ポスターのコピーがはまるほど、頻繁に山梨を訪れている。また、ここ数年は友人と連れ立って武田家関連の史跡の訪問も重ねている。ただ、私にとって心残りなのは、未だに天目山の景徳院に訪問できていないことだ。それもあって武田家滅亡については一度きっちり勉強したいと思っていた。そんなところに本書を見かけ、手に取った。

だが、本書を手に取ったのは題名もあるが、著者の存在も大きい。というのも本書を読む8ヶ月ほど前、先に書いた友人と共に著者の講演を拝聴させてもらっているからだ。それは小田原市で行われた嚶鳴フォーラムでのこと。著者は北条氏五代を題材にとり、小田原の城郭都市としての成り立ちについて話されていた。その講演の際、私の印象に残っているのは、自己紹介でIT系の会社から作家への転身を成し遂げたとのくだりだ。IT系の会社から歴史作家への転進というのは、なかなか興味深い。私が飯を食っているITの世界の激務の合間を縫い、歴史を紐解きそれを物語りとして世に問うことは早々出来ることではない。それで著者にはなおさら興味を持った。それ以来8か月、本書が私にとってようやくの著者デビューとなる。

本書の舞台は戦国時代の甲斐国。長篠の戦いで織田・徳川連合軍に敗れてすぐの武田家の本拠が舞台だ。武田家は信玄公亡き後、勝頼公が後を継ぐ。が、武運拙く長篠の戦いで一敗地に塗れることになる。本書では長篠合戦大敗の後、再起を果たさんとする勝頼公を中心に、それぞれの思惑を抱えた武田家の人々が描かれる。

複数の人々の思惑を描くにあたり、本書は複数の視点を語り手として物語を進める。その視点とは勝頼公、勝頼公の継室で北条夫人として知られる桂、そして長坂釣閑斎、などの人々のそれだ。

戦国時代といえば下克上の世として知られている。しかし、主従の縛り以上に軽視されたのは契約と女性だ。とくに武田家が治める甲斐は、相模の北条、駿河の今川、のちに徳川、そして越後の上杉などの強国に囲まれる地勢にあった。外交が固まらないことには国の経営も難しい複雑な国情。そんな山国が戦国の世を乗り切るには、犠牲にしなければならないものも多々あったはず。それは契約に左右される人々の運命であり、政略結婚という名の輿入れを強いられた女性たちだったろう。そして、信玄公の治下、一枚岩だった人々の思いは、その重石が取れたことによって千々に乱れ、それが武田家を滅亡へと導いて行く。

著者の筆さばきは、このあたりの人々の思惑を丹念に描いていく。それぞれの時局でなぜそのような判断、決定が成されたかをおざなりにせず、きっちり書き込む。そのあたりの論理の構築と、プロセスの進展は見事というほかない。著者がIT業界で培ったスキルの賜物だろう。

山に囲まれた武田家がなぜあれほどの軍勢を養えたか。その財源が黒川金山と湯之奥金山から算出される金にあったことは、武田家に関心がある方にとってはよく知られる事実のようだ。私も以前、湯之奥金山に訪れたことがあるが、往時はかなりの金産出量を誇っていたと聞く。それが信玄公存命中から枯渇の兆しを見せたことが、武田家の政策を誤らせたと著者は見る。

教科書的知識では、武田家の衰滅の因は長篠の戦いで騎馬軍団が信長軍の鉄砲隊に全滅させられたことにある。しかし、著者はそこに決定的な原因を置いていない。武田家の軍勢は長篠の大敗後もまだ戦国大名としての体裁を保っていた。しかし、著者の解釈では、長篠の戦いで信玄公の薫陶を受けた宿老たちが戦死し、そこに乗じて権勢を手にしたのが長坂釣閑斎で、彼が国策を誤らせた元凶としている。

釣閑斎は、信玄公直々の薫淘を受けた宿将ではない。どちらかといえば信玄公の父信虎公に属していた。そのため、信玄公の治下にあっては不遇を囲っていた。また、信玄公の嫡男義信公が、父への謀反を疑われて自害を命じられた事件に連座して我が子源五郎を殺されている。本書は、釣閑斎がその処遇に関する私怨を宿老たちに抱いているとの設定だ。そのような暗さを視線に含む釣閑斎が、枯渇した金山の替わりとなる財源を求めているところに、上杉景勝公の名代として訪れた直江兼続の見せ金に目がくらみ、伊豆の土肥金山を狙って北条との絆を断ったのが武田家衰亡のはじまり。そう著者は分析する。このあたりは甲陽軍鑑にも書かれている話らしく、真偽は不明ながらも一定の評価を得た史観を題材に筋が組み立てられていることがわかる。ただ、それだけでは足りないので、釣閑斎に宿老への暗い私怨を抱かせ、それが信玄公の遺した国策と違った方向へ武田家を導いたというのが著者の描いた構図である。

本書の幕開けは、北条家から勝頼公の正夫人として政略結婚で輿入れしてきた桂の描写で始まる。だが、桂と勝頼公の蜜月は、北条家と武田家を土肥金山欲しさに離間させようとする釣閑斎の謀りの前に、あっけなく崩される。しかし、勝頼公に遠ざけられてもなお勝頼公を信じ、武田家のために生きようとする桂のけなげさが、政略ロジックが縦横する本書にあって、彩を放っている。

一方、甲斐武田家最後の当主である勝頼公。ともすれば暗君として見られがちな勝頼公は、最近の研究ではむしろ武に優れ、英明な君主だったとの見方をされている。だが、自身が諏訪氏を継ぎ、信玄公の治下にあっては世継ぎではなく義信公の下に置かれていた立場から一点、義信公の謀反死によって後継ぎの座を得られた。そんな経緯が勝頼公に遠慮を抱かせ、それが君主としての隙を産み、ひいては釣閑斎に乗じられる悲劇を生んだというのが著者が勝頼公に投げるまなざしだ。なので、本書が勝頼公を書く筆致には愚かさというよりは哀しみを感じさせる。釣閑斎の奸計で遠ざけられた後、桂が勝頼公の誤解を解き、再び夫婦として愛を育む。その時すでに二人には残された時間は限られており、事態は急流のように二人を死へと追いやる。そのあたりの悲哀が武田家滅亡を弔う調子となって効果的に響く。

本書で二人の夫婦の周辺を固める人物達の造型も実に豊かだ。

釣閑斎が権勢を築くなか、釣閑斎の政策への反対派として追放した武士が何人か登場する。そのうち小宮山内膳は修験者や旅の僧に身をやつし、武田家に恩返しする日を待っている。また、同じく追放された辻弥兵衛は徳川に仕官するために間者に身を落とし、武田方の高天神城の落城に暗躍し徳川方に恩を売ろうとする。

その高天神城では伊那の地侍の片切監物と宮下帯刀と四郎佐の親子三代が徴兵され、守りについている。高天神城の落城後、城内にいた武田家の姫君を甲斐へ落ち延びさせる役割を担い、勝頼公の敗走ルートを辿ることになる。

こういった人々が、武田家の最期に向かって天目山に集ってゆく。そして武田家の最期を飾るに相応しい舞台の登場人物としてそれぞれの役割を果たす。最期の最期まで辻弥兵衛の策に踊らされ、勝頼公と桂が一縷の望みを掛けた亡命策まで奪われてしまう筋の組み立てには隙がない。小山田信茂公も土壇場で主君を見限った不忠者として後世に汚名を残しているが、案外真相は本書で書かれたような徳川方の離間策に嵌ったためではないだろうか。そして小宮山内膳は最後に盟友辻弥兵衛を武田家の家臣として名誉のうちに葬り去り、片切四郎佐は四郎佐は勝頼公の最期まで共に戦い、命を落とす。共に武士道を体現したかのような鑑のような最期を遂げる。そしてその父帯刀は姫君を八王子まで落とすという役割を全うする。

あの武田軍団が最期は十数騎を数えるほどまで残骸をさらし、勝頼公と桂は、そして嫡男である信勝は武田家の最後に恥じぬ自死を遂げる。そして全てが終わった後に姫君を送り届けた帯刀が彼らの遺骸を懇ろに葬り、故郷の伊那に帰ったところで物語は終わる。

武田家の家臣達の多くは徳川家に丁重に迎えられ、江戸時代を全うした家も多いと聞く。あまりにあっけなく滅亡した武田家だが、早晩山国の甲斐では衰退は避けられなかったのかもしれない。しかし「人は城 人は石垣 人は堀」という言葉を残した信玄公は未だに甲州各地で偲ばれている。それは伊那に帰った帯刀のような人物がその威徳を伝え残したためだろう。国破山河在で知られる杜甫の春望を例に引くとすれば、国破人声在と400年以上も人々の声を残し続けたのが武田家だったのではないか。

見事な滅亡の謎解きと、ロジックを越えた所にある人の心情や友情を書き尽くした著者はただただ見事。IT系の企業出身であることは嚶鳴フォーラムの自己紹介で知っていた。が、本書の奥付の記載で著者が日本IBM出身であることを知った。猛烈に働く人々の多いかの会社から著者のような作家が登場したことに例えようもないほどの励みをもらった。行きたいところがありすぎる私だが、なるべく早く天目山には訪れたいと思っている。おそらくは著者も立って、武田家に思いを馳せた場所で。

‘2015/9/24-2015/9/28