Articles tagged with: 推理小説

焼跡の二十面相


このところ、著者の描く作品の評価が上がっている。
その著者の齢が90に届きかけているというのに。
生涯作家であり続けるとの覚悟さえ感じられる著者の気迫は素晴らしいとしか言いようがない。

私は著者の作品をかつて何冊か読んだことがある。赤川次郎氏の三毛猫ホームズシリーズにはまっていたころに発表されていた迷犬ルパンシリーズを。私が中学生の頃だ。
中学生の目からみても、三毛猫ホームズの亜流に思えてしまった。その印象が強かったためか、私は著者に対してあまり良い評価を与えていなかった。

その後も著者の作品とはほぼ無縁のままに過ごしてきた。
もともと著者は多くのアニメ作品の脚本家をしていたらしく、とても筆が速かったという。
私の中学生の頃でも著者が著した書籍は膨大にあり、何を読むか絞り切れなかったことも著者の作品に親しめなかった理由だと思う。

だが、多作の著者であっても、年齢を重ねても読者の期待に応えられる水準の作品を著し続けられるのだからすごい。熟練の技に深まりが増し、それが最近の評価につながっているのではないだろうか。
また、最近の著者の作品が高評価を受けている理由として、戦中から戦後にかけての時代を題材にしたものが多いからではないだろうか。
現役の作家の中で戦中から戦後にかけての時代をリアルに描ける書き手として、著者の重みが増しているようにも思う。
つまり、かつての時代を体験した書き手が引退や死によって減る中、記憶と筆力を維持し続けている著者が、その時代を題材にリアルな描写を行うことで評価が上がっているのかもしれない。

本書もまた、戦後すぐの時期を舞台にしている。ポツダム宣言受諾からマッカーサー将軍が厚木に降り立つまでのわずか一カ月ほどの期間だ。
まだ終戦の詔勅がラジオで流れてから日もたっておらず、戦後の混乱すらも始まっていない時代。もちろん、空襲の焼け跡などそのあたりに見慣れた光景として転がっている。
その頃の移動手段といえば、歩くほかにはせいぜいが自転車だろうか。車はまだあまり走っていない。ましてや電車や市電は多くが空襲によって破壊されたままの状態。

著者はそのような時代の中で怪人二十面相や小林少年を活躍させる。
その二人はわが国の推理小説史上、最も有名な犯罪者と探偵の助手といってもよいだろう。ともに江戸川乱歩が創作した著名なキャラクターである。
本書の冒頭では名探偵の明智小五郎は応召され、戦時中からドイツで暗号の研究を行っている設定だ。つまり、まだ復員していない明智小五郎は本書には登場しない。

宿敵である明智小五郎の留守をいいことに怪人二十面相が暗躍する。小林少年や中村警部を相手に芸術的な犯罪で翻弄する。
本書に登場する怪人二十面相の手掛ける犯罪の手口は、私が小学生の頃に夢中になった江戸川乱歩の少年探偵団シリーズそのものだ。江戸川乱歩節ともいうべき特有の語り口をまねて語られるのだからたまらない。

怪人二十面相の手口。
今の言葉でいうと大掛かりなミスディレクションを仕掛け、目をそらすのが彼の手妻だ。それが実際に人々を驚かし、効果を上げられたのは戦前の世界ならではなのだろう。
そもそも、人通りのない屋敷街など現代ではなかなか見られず、舞台設定としては考えにくい。
その視点から考えると、戦前の暮らしは今の尺度では理解できないところもある。おそらく古い作品はそうした部分から古びて行くのだろう。少年探偵団の世界観とて、現代の私たちにとっては例外ではない。

先ごろの戦争の記憶も鮮やかな時代の生々しい雰囲気を、当時の時代を知る著者によって描写される意義はとても大きいと思う。当時の世相を知らずして書けないであろう細かく生き生きとした描写がいい。江戸川乱歩が生み出した怪人二十面相がよみがえって動くように感じあれる。もちろん、小林少年もだ。
著者は現代を生き、私たちと同じ感性を持っている。著者の今に合った感性と江戸川乱歩の世界が混じり合っている本書からは、懐かしい世界観だけにとどまらず、大人の読者の舌を満足させる力が感じられる。
今から考えると、かつて夢中になって読んだ少年探偵団シリーズも、物語の設定や進行やトリックは何か大仰な印象を受ける。
だが、それこそが私たち子どもをワクワクさせた江戸川乱歩の少年探偵団の世界なのだ。
著者は今の感性を持ちながら、あえて江戸川乱歩が著した独特のトリックを文体も似せて表現している。
同時に、本書には鉄っちゃんにとっては垂涎の仕掛けや収集物を登場させ、江戸川乱歩の世界観とは違った面白みも出している。

江戸川乱歩が描いたような明智小五郎と怪人二十面相の対決といった善悪の二元論では現代は通用しない。
そのため、著者は幾重にも登場人物や組織を交わらせ、何層にも物語の輪郭を描いている。
例えば軍事物資の闇流しに手を染めるもの。先遣隊として日本に入った進駐軍。戦後の混乱は想像以上に利害関係が複雑だった。
そのような複雑な関係と対立を描くことで、現代の目の肥えた読者にも耐えうる小説となっている。

令和の小説は江戸川乱歩が活躍した当時に比べて物語性やプロットの構築技術は向上していると思う。
だが、こうした子供の好奇心を満たす小説はどんどん複雑になり、今の大人の読者にとってはかえって子供の頃の郷愁を満たせる小説が見当たらなくなっているようにも思える。
本書はまさに郷愁に対する需要も満たす良い作品だ。

2020/12/15-2020/12/15


樹霊


Amazon

私にとって著者の作品を読むのは初めて。
著者は本格トリックの書き手として注目されているらしく、手に取ってみた。

あらゆるトリックが考案され、あらゆる叙述のテクニックが開発されたように思える今、本格トリックの作家として名乗る心意気は応援したい。

本格トリックの作家にとって、科学が幅を利かせる現代の世界は有利なのだろうか。それとも不利なのだろうか。私にはわからない。

新たなテクノロジーが開発されるたび、その盲点をついたトリックが編み出される。死角をついたトリックが読者の度肝を抜き、また一つ推理小説の世界に金字塔が打ち立てられる。
だが、テクノロジーや技術だけで組み立てられたミステリーには、どこか物足りなさを感じることも否めない。

それは、人の心の奥底に自然へのぬぐい難い思いがあるからだと思う。テクノロジーとは反対の自然。それへの依存をやめ、テクノロジーに全面的に生を委ねる。これは、私たちの後、何世代も過ぎなければ払拭されないはずだ。
自然に対して、心の奥底に潜む恐れの心。そして、自然を慈しむ心。
この自然には、バイナリーでは表せない人の感情の源があるように思う。

横溝正史といえば、わが国のミステリー界では著名な巨匠だ。没後かなりの年数がたっているにもかかわらず、作品が何度も映画にリメイクされ、好評を博している。
その世界観は、まさに、自然への恐れそのものだ。自然に包まれた世界。その中で謎が提出される時、謎の醸し出す効果は倍増し、小説としての効果を高める。

本書は、まさに自然を舞台としたミステリーだ。
しかも、神話が息づくアイヌの森。本書の謎は人々が自然を神として恐れ敬っていた地で展開される。アイヌの神々の神威を思わせるような驚きの事件が私たちの作り上げたテクノロジーをあざ笑うように頻発する。木が自在に動き、人がそこで死ぬ。

完全に地面に固定され、容易には動かせないはずの木。誰がなんの目的で木を動かしたのか。その意図は何か。人が殺されるのは、アイヌの神を怒らせた傲慢さゆえなのか。
読者の興味は本書の発端に惹かれるはずだ。
本書には、ミステリーに失われつつあった自然への恐れが描かれているのだから。

それにしても、著者が創造した〈観察者〉探偵とは、面白い存在だとおもう。
自然の生き物を眺めることに何よりの価値を見いだす。〈観察者〉探偵すなわち鳶山とはそうした人物だ。もちろん推理小説にアクセントを与えるため、探偵らしくエキセントリックな性格で味付けがされている。
観察者とは奇態な職だが、要は名乗ってしまえば何でも良い。

〈観察者〉探偵に対する狂言回しは、語り手である猫田夏海が担う。猫田は植物写真家として日本を巡り、各地の珍しい植生を写真に撮ることを仕事にしている。
その猫田が、アイヌの巨木を求めて訪れた日高山脈の麓(おそらく浦河や新冠のあたりのどこか)で、木が夜中にいつの間にか移動する変事を目撃したことが本書の発端だ。その後、人が死ぬ事態に遭遇したことで、事件の収拾がつかなくなった猫田は、鳶山に助けを求める。
鳶山について来たのが、博多弁を操る高階。生物画を得意とするイラストレーターだ。
孤高の鳶山にかわり、より実務的な捜査を行うのが高階という人物の役回りだ。
この高階の発する博多弁が、本書に良いテンポを生み出している。

今まで私は本書のように博多弁がポンポン出てくる作品はあまり読んだ経験がない。それが本書に特徴を醸し出している。
北海道の山奥で、博多弁が話される意外性。

神がかった事件に遭遇した〈観察者〉鳶山はどう事件を解決するのか。
そして、事件の中で猫田はどう振り回されるのか。

上に書いた通り、ミステリーには自然への恐れが必要だ。
一方で事件が起こるにあたっては原因がある。その原因とは欲や思いなど人の心だ。いわゆる犯行動機だ。
事件の動機についてはどれだけ自然や神の恐れを持ち出そうと説得力を出すのは難しい。
動機をいかに説得力のある形で提示できるか。ミステリー作家の腕の見せ所だ。むしろ素養の一つだとさえ思う。

おそらく今後、ミステリーに求められる動機はより多方面に求められ、複雑になっていくことだろう。
本書で描かれる犯行動機については興を削ぐため本稿では語らない。

だが、あえて言うならばアイヌ民族の民俗知識や、アイヌがあがめる神の恐ろしさ、そして山の神聖さなどの要因が本書にもう少し盛り込んだ方が、物語に深みがでたように思う。

私はかつて、この辺りは三回訪れたことがある。平取町のアイヌ民族の博物館。その近くにある国会議員として知られた萱野茂氏が運営していた私設の博物館なども訪れた。
そこで、自然を敬い、自然の中に生きようとするアイヌの人々の思想に影響を受けた。今でも、いや、今だからこそ、その思想はより知られるべきだと思っている。

大多数の日本人にとって、アイヌ民族の文化や日常はまだまだ知られていない。アイヌ民族が自然の中で培った自然と共生する思想の深みは、これからの地球にとって必要だと思う。
だからこそ本書のようにアイヌに題材をとるのであれば、アイヌの神への恐れの深さを描いたほうがサスペンスの効果も増したと思うのだが。

残念ながら本書については、舞台としてアイヌの森であったことの必然性があまり感じられなかった。それが残念だ。

だが、本格ミステリを紡ぎだそうとする著者の意識の高さは評価したい。トリックも面白かったし。

‘2020/08/30-2020/08/30


叫びと祈り


本書は毎年末に恒例のミステリーのランキングで上位に推された。
連作の短編集である本作は、著者の処女作。初めての小説で上々の評価を得た著者の実力は確かだと思う。

実際、本書はとても面白い。ミステリーの骨法をきちんと備えている。
語りの中にときおり詩的な描写が挟まれ、それでありながら、簡潔な文体で統一されている。さらに短編なので一つ一つの物語がすいすいと読める。ミステリーが苦手な方にも勧められる。

何よりも面白いのは、本書に登場するそれぞれの物語の舞台が国際色豊かなことだ。本書に収められた五編のうち、日本が舞台の物語は一つもない。

五編の物語はそれぞれ、サハラ砂漠、中部スペインのレエンクエントロの風車、ウクライナに隣接する南ロシアロシア南部の修道院、アマゾン奥地のジャングル、東南アジアのモルッカ諸島の島、といった特殊な環境を舞台としている。

日本人にはなじみのない環境と文化。その中で起こる謎。斉木が解決するのはそのような事件だ。
斉木は、世界の問題を取り上げる雑誌の記者だ。語学に堪能で、海外の暮らしには不自由を覚えることはない。さらに、物事に対する深い洞察力を持っている。

「砂漠を走る船の道」

本編こそが、著者の名を大きく高めた一編だ。

砂漠をゆくキャラバン。
キャラバンが向かうのは塩を算出する場所。ここで岩塩を切り出し街へと運ぶ。
太陽が目を灼き、砂が肌を痛めつける。砂がすぐに覆い隠してしまうため、過酷な道は道の体をなしていない。
その道を間違いなく行き来し、天気や環境を知悉するには長年の経験が欠かせない。
キャラバンの一行は荷駄を預けるラクダとリーダーと二人の助手、そしてリーダーに懐く若いメチャボ。
だが、帰途に砂嵐に遭遇し、リーダーは死ぬ。その帰り道には二人の助手のうち一人がナイフを刺されて死んでいた。

一体、何が動機なのか。その動機の謎と過酷な環境の組み合わせがとても絶妙。その関連が印象に残る。
結末ではもう一つの謎も明かされる。その意外性にも新たなミステリーの地平を見せられた気がする。

「白い巨人」

この一編は、風車をめぐる歴史の謎が絡む。
レコンキスタ。それはかつて、イベリア半島を支配したイスラム勢力を再びアフリカに追いやる運動だ。本編に登場する風車は、レコンキスタの戦いの中で、敵であるイスラム側の戦況を味方に伝えようとした斥候が追われ、逃げ込んだ場所だ。逃げ込んだ斥候は風車の中にうまく隠れ、レコンキスタの成就に決定的な役割を果たしたという。

本編に登場するサクラが、かつて想いを寄せた女性を見失ってしまったのも同じ風車。人を消す風車の謎を軸に本編は進む。

風車の謎以外にも、もう一つの謎が明かされる結末もお見事。

「凍れるルーシー」

生きているように、こんこんと永遠の眠りにつく遺体。それを不朽の体、つまり不朽体という。
西洋にはそうした不朽体がいくつか報告されているそうだ。

十字架の上で死んだメシアが復活する。言うまでもなくキリスト教の教義の中心にある奇跡だ。そうした現象を教義に据えるキリスト教が文化に深く影響を与えている以上、西洋のあちこちで不朽体のような現象への関心が高いことは理解できる。

本編の舞台である南ロシアの修道院にも、不朽のリザヴェータの聖骸がある。今までは世間に知られていなかったリザヴェータを聖人として認定してもらうよう、修道院長がロシア正教会に申請を出したことがきっかけで事件は動く。修道院には聖骸を熱狂的に崇める修道女がいて、聖人申請がうまく行かないのではと不安に苛まれる。

そんな所に修道院長が死体となって発見されたことで、事態は一気に混迷に向かう。

本編も短編ならではの簡潔でキレのある物語だ。効果的な謎の提示と収束が魅力的だ。

「叫び」

本編の舞台はアマゾンの奥地だ。隔絶された部族を取材したクルーが遭遇する殺人事件。
だが、斉木たちクルーが部族の集落を訪れた時点で、集落には正体が不明の伝染病が猖獗を極めていた。殺人が起こる前からすでに絶滅寸前の部族。

そのような絶望的な状況でありながら殺人が起こる。どうせ死んでしまうのに、なぜ殺人を犯す必要があるのか。その動機はどこにあるのか。
そこには部族が持つ独特な世界観が深くかかわっている。

本書を通じて思うのは、著者は動機を考えるのがとてもうまいことだ。
それは世界各国の社会や文化についての深い造詣があるからに違いない。
文化によって守るべき考えはそれぞれだ。ある文化では当たり前の慣習が、ある文化では忌むべき振る舞いとなる。よく聞く話だ。

それを短い物語の中で読者に簡潔に伝え、文化によってはそのような動機もありなのだ、ということを謎解きと並行して読者に納得させる。

その技は簡単ではない。

「祈り」

こちらは今までの四編とは少し趣が違っている。語り手によって語られるのはゴア・ドア──祈りの洞窟についてだ。
語り手は誰に対して物語を語っているのか。そこでは上に紹介した四編の物語が断片的に触れられる。

語りの中から徐々に露になってくるのは、斉木が不慮の事故で記憶を失ったこと。
世界を股にかけ、最も自由な生き方をしていた斉木。日本人の認識の枠を超え、自由な考え方をモノにしていたはずの斉木に何が起こったのか。

文化にはさまざまな形がありうるし、その中ではさまざまな出来事が起こりうる。
文化の違いに慣れ、事故に強かったはずの斉木にも防げなかった衝撃。それだけの衝撃を斉木はどこでどのように受けたのか。

果たして斉木は復活しうるのか、

本編はミステリーよりも、四編の短編を受けた一つの叙情的な物語の色が濃い。
文化はいろいろとあれど、それらを共有するのも伝え合うのも人、ということだろう。

‘2019/12/8-2019/12/11


ミステリークロック


「トリックの奇術化とは、まさにそういうことなんですよ。機械トリックは、奇術で言えば種や仕掛けに当たりますが、それだけでは不完全です。言葉や行動によるミスリードなどで、いかに見せるかも重要になります。機械的なトリックは、人間の心理特性を考慮した演出と相まって、初めて人の心の中に幻影を創り出すことができるんです」(202-203ページ)

これは本書の中である人物が発するセリフだ。
機械的なトリックとは、古今東西、あらゆる推理作家が競うように発表してきた。
謎にみちた密室がトリックを暴くことによって、論理的に整合性の取れた形で鮮やかに開示される。その時の読者のカタルシス。それこそが推理小説の醍醐味だといっても良い。
その再現性や論理性が美しいほど、読者の読後感は高まる。機械的なトリックこそは、トリックの中のトリックといえる存在だ。

冒頭に引用したセリフは、まさに著者が目指すトリックの考えを表していると思う。

本編にはそうしたトリックが四編、収められている。

「ゆるやかな自殺」
冒頭の一編は、さっそく面白い密室トリックを堪能できる。
やくざの事務所で起こった事件。やくざの組事務所とは、読者にとっては異空間のはずだ。入ったことのある人はそうそういないはず。私ももちろんない。
その事務所内に残された、一見すると自殺にしか見えない死体。
事務所の性格から、厳重に施錠された組事務所に誰も入れなくなったため、鍵を開けるために呼ばれた榎本。彼は、現場の様子を見るやいなや、自殺の怪しさに気づいてしまう。

本編は登場人物にとっても密室だが、読者の通念にとっても密室である。そこが本編のポイントだ。
なぜなら、組事務所という舞台設定は、読者にとって堅牢な固定観念がある。そのため、読者は勝手に想像が膨らませ、著者の思惑を超えて密室を構成する。
そのミスリーディングの手法がとても面白いと思った一編だ。

「鏡の国の殺人」
美術館「新世紀アート・ミュージアム」で起こった殺人を扱った一編。
新世紀とか現代美術という単語が付くだけで、私たちはなにやら難解そうな印象を抱いてしまう。

本編も野心的な光によるトリックが堪能できる。
「新世紀アート・ミュージアム」という、いかにも凝った仕掛けの美術館。つまり、仕掛けは何でもありということだ。
そして、執拗なまでに監視カメラが厳重に設置される館内において、どのように犯人は移動し、殺人を犯したのか。その謎は、どのような仕掛けによって実現できたのか。
トリックの醍醐味である、変幻自在な視覚トリックが炸裂するのが本編だ。

視覚トリックと言えば、私たちの目が錯視によってたやすく惑わされる事はよく知られている。
今までにもエッシャーのだまし絵や、心理学者によるバラエティに富んだ錯視図がたくさん発表されていることは周知の通りだ。
それらの錯視は、私たちの認知の危うさと不確かさを明らかにしている。

著者にとっては、本編のトリックは挑み甲斐のあるものになったはずだ。
本編は、錯視を使ったトリックもふんだんに使いつつ、他のいろいろなトリックも組み合わせ、全体として上質の密室を構成している。そこが読みどころだ。

「ミステリークロック」
山荘で起こった密室殺人。鉄壁のアリバイの中、どのようにして犯罪は行われたのか。
さも時刻が重要だと強調するように、本編では時刻が太字で記されている。

現代の作家の中でも伝統ある本格トリックに挑む著者。本編はその著者が、渾身の知恵を絞って発表した意欲的なトリックだ。
時計という、紛れもなく確かで、そして絶対的な基準となる機械。その時計を、いくつも使用し、絶対確実な時間が登場人物たちの上を流れていると錯覚させる。

記述される時間は太字で記され、読者自身にも否応なしに時間の経過が伝わる。
その強調は、時間そのものにトリックの種があることを明らかにしている。だが、読者がトリックの秘密に到達することは絶対にないだろう。多分、私も再読しても分からないと思う。

ミステリークロックと言うだけあって、本編は時計に対する記述の豊かさと絶妙なトリックが楽しめる一編だ。
冒頭に挙げたトリックに対するある人物のセリフは、本編の登場人物が発している。

本編は、時間という絶対的な基準ですら、人間の持つ知覚の弱点を突けば容易に騙される事実を示している。
これは同時に、人間の感覚では時間の認識することができず、機械に頼るしかない事実を示している。
機械の刻む時が絶対と言う思い込み。それこそが、犯罪者にとっては絶好のミスディレクションの対象となるのだ。

本編は、その少し古風な舞台設定といい、一つの建物に登場人物たちが集まる設定といい、本格ミステリーの王道の香りも魅力的だ。
工夫次第でまだまだトリックは考えられる。そのことを著者は渾身のプライドをもって示してくれた。
本編はまさに表題を張るだけはあるし、現代のミステリーの最高峰として考えても良いのではないだろうか。

「コロッサスの鉤爪」
深海。強烈な水圧がかかるため、生身の人間は絶対に行くことができない場所だ。
深海に潜る艇こそは、密室の中の密室かもしれない。
潜水服をまとわないと、艇の外に出入りすることは不可能だ。また、潜水服を着て外に出入りできたとしても、何千メートルの深海から命綱なしで海面にたどり着くことは不可能に近い。

そんな深海を体験したことのある読者はほとんどいないはず。なので、読者にとって深海というだけで心理的な密室として認識が固定されてしまう。その時点ですでに読者は著者の罠にはまっている。

そうした非現実的な場所で起こった事件だからこそ、著者はトリックを縦横無尽に仕掛けることができる。そしてその謎を追う榎本探偵の推理についても、読者としては「ほうほう」とうなずくしかない。
それは果たしてフェアなのだろうか、という問いもあるだろう。
だが、密室ミステリとは、犯罪が不可能な閉じられた場所の中で、解を探す頭脳の遊びだ。
だから本来、場所がどこであろうと、周りに何が広がっていようと関係ないはずだ。その場所に誰が行けるか、誰が事件が起こせるか。
その観点で考えた時、トリックの無限の可能性が眠っているはずだ。
それを教えてくれた本編は素晴らしい。

今や、ミステリの分野でトリックのネタは尽きたと言われて久しい。
ところが、人の心理の騙されやすさや、人の知覚の曖昧さにはまだ未知の領域があるはず。
そこに密室トリックが成り立つ余地が眠っていると思う。
本書のように優れたトリックの可能性はまだ残されているのではないだろうか。

本書にはミステリの可能性を示してくれた。そして頭脳を刺激してくれた。

‘2019/6/12-2019/6/13


嘘をもうひとつだけ


私がまだ読んでいない「加賀恭一郎」シリーズは数冊ある。本書もその一つ。本作は連作短編集だ。五編が収められている。

本書の全体に共通しているテーマは女性のうそについて。女性がつくうそにはさまざまな目的がある。その多くは自らの過失や犯した罪を隠すため。そんなうそはその場しのぎであり、入念な計画もなく、狡知をこらしてもない。全ては急ごしらえなうそ。だから聡い人物にかかるとばれてしまう。それが加賀恭一郎であればなおさら。

どの謎も、あとから分かればいかにもその場しのぎの偽装だ。ところが、偶然が重なったり、部外者が後からみた程度ではすぐには見当がつかない。しかし、わずかなほころびが加賀恭一郎には矛盾と映る。そしてそれを見越した巧妙なカマをかけると、背後の犯罪が暴かれる。すべてが推理小説の、捜査の常道に沿っている。五編ともお見事だ。ただし、この後に発表される『赤い指』に比べると、少し物足りなさは感じた。本書は「加賀恭一郎」シリーズでも中期に位置する。『赤い指』は冷徹な頭脳を持つ加賀恭一郎を豊かな人情を秘めた魅力的な人物として書かれた傑作だ。「加賀恭一郎」シリーズはここで確立したともいえる。それからすると、本書は短編集だ。どちらかといえば優れた頭脳の持ち主としての加賀恭一郎が前面に出ていた。キャラクターの魅力が確立される直前の作品といえる。

だが、加賀恭一郎が持つ別の魅力は、五編においてきっちり書かれていた。それは謙虚さだ。聞き込みのセリフの一言一言に、加賀恭一郎の謙虚さがにじみ出ている。そういえば、このシリーズ全体に通ずるのが、物的証拠より聞き込みによって事実に迫ることを重んじていることだ。物的証拠とは聞き込みで得た結果を補強するものでしかない。聞き込みによって事件の全貌を見いだしてゆく加賀恭一郎の特徴が、本書ですでに確立しているのがわかる。

「嘘をもうひとつだけ」
「冷たい灼熱」
「第二の希望」
「狂った計算」
「友の助言」
とある五編のそれぞれのタイトルは、それぞれを読み終えてから見てみると、言いえて妙なタイトルになっている。その中でも「冷たい灼熱」という反語的なタイトルをもつこちらは、一番ひねりが効いているように思った。内容も「冷たい灼熱」は、他の四編と一線を画している。本編のキーとなるのはとある悪癖だ。だが、最期までその悪癖の固有名詞は明かされないままだ。多分業界への配慮なんだろう。けれど、それがかえって印象に残った。

うそとは多くの場合、自分にとっての利益が他人にとってのそれと相反する場合に生まれる。自分の願う利益が他人にとって不都合な場合、それを押し通すためには事実を隠したりうそを言ったりしなければならない。それは本来、許されることではない。だが、人はうそをついてしまう。もしばれた場合には社会から制裁が科される。だが、それを覚悟してまでうそをつく。人をそうまでさせる理由は人によってそれぞれだ。そこをいかに現実にありそうな理由として書くか。そして、うそを付くほか選択肢がなくなった、追い詰められた人間の弱さをどうかくのか。それもまた、推理小説にリアルさを与える。しかも短編の場合は、うその原因を簡潔に記さなければならない。推理小説の作家の腕前が試される点はここにもある。そこがしっかりと説得力を備えて書かれているのが、本書の魅力だ。

そもそも推理小説とはうそを出発点としなければ成り立たない。動機よりもアリバイよりもトリックよりも、まずはうそが優れた短編を生む。どうやってうそにリアルさを持たせるか。どのようにうそに説得力を持たせるか。そして、いかにして簡単にばれないうそを仕込むのか。優れたうそをひねり出すのは、簡単なようでとても難しいはず。あえて言ってしまうと、推理小説を書く作家とは、とびきりのウソツキでなければならないのだ。多分、著者はそれを十分に理解していたはず。だからこそ本書が生まれたのだろう。うそに目を付けたのはさすがだ。

冒頭に書いた通り、本書は推理小説の短編はこう書くべき、の見本だ。「加賀恭一郎」シリーズというより、すぐれた推理小説の短編として読むのがオススメだ。

‘2017/08/11-2017/08/12


再会


「カラマーゾフの妹」をレビューでアップしたことで、あらためて江戸川乱歩賞に興味を持った。レビューの中で、歴代の受賞作品のおおかたは読んでいると書いた。ところがいくつか読めていない作品があった。本書もその一つ。本書は図書館で借りた。本書の次に読んだ「よろずのことに気をつけよ」とともに。

本書はとても手堅く書かれている。そこに好ましい印象を持った。著者はまだ職業作家ではないそうだ。公務員の仕事の合間に八年連続で応募し、今回の受賞に至ったとか。心血を注いで書いた跡が内容から伝わってくる。

正直なところ、本書のプロットはありきたりだ。手垢が付きまくっているといってもよい。幼馴染たちが大人になって故郷で再会し、事件に遭遇する。その事件の鍵は彼らが子供時代にあった何らかの事件にある。そんな展開の小説や漫画、映画は無数にある。著者とて、そのことは分かったうえで本書を書き、応募したはずだ。それでもなお本書で受賞の栄誉に浴したのは、使い古された構成であっても、丁寧にきっちり書き込めば評価されるという証拠だ。

本書は流れも丁寧に書かれている。特に前半部分。冒頭の出来事から徐々に過去があらわになっていく展開。そのあたりはとても自然だ。幼馴染のそれぞれの視点から語られる筆さばきにも強引さは感じない。とても自然に思えた。そうやって複数の視点をからめることで物語の肝心の謎を終盤まで引っ張りつづけながら、次々と新たな謎を登場させる。本書の展開の巧みさは読んでいてとても安心できた。

ただ、前半は流れるように読めたのに、後半の解決に向けた展開で余計な人物が出てきたのが気になった。選評の一つにもご都合主義の典型と批判されていた。私も同じ意見だ。これはちょっと余計な展開だったと思う。あと、もう一つ選評で指摘されていたのが、事件の発端となった少年に対するフォローがないこと。これも私も読みながら思ったことだ。手堅く書かれた本書でありながら余計なことを書いてしまう。そして書くべきところを落としてしまう。小説を書くとは難しいことなのだな、とあらためて思わされた。

気楽な読者の立場で本稿のようなレビューブログを書いている私も、いざ物語を構築しようとすれば本書が指摘されたような傷をいっぱいこしらえるに違いない。著者はそれをものともせず、8年欠かさず挑戦して受賞を勝ち取った。これはとても素晴らしいことだと思う。

読んだ後、私にも小説を書いてみようかな、と思わせる作品にたまに巡り合う。本書もまたその一冊だ。これは本書を否定するのではなく、著者の努力が感じられるからの誉め言葉だ。

‘2017/06/02-2017/06/03


隻眼の少女


著者の本を読むのは随分久しぶりだ。かつて著者のデビュー作である「翼ある闇」を読んで衝撃を受けた。読んですぐ弟に凄いから読んでみ、と薦めたことを思い出す。それなのになぜかその後、著者の作品からは遠ざかってしまっていた。「翼ある闇」のあまりに衝撃的な展開に毒気を抜かれたのかもしれない。

多分、著者の作品を読むのはそれ以来だから20年振りだろうか。本書で著者は日本推理作家協会賞を授かっている。江戸川乱歩賞、日本推理作家協会賞の受賞作を欠かさず読むようにしている私にとっては本書を読むのが遅すぎた。というよりも著者の作品に戻ってくるのが遅すぎたといっても過言ではない。本書は20年前の衝撃を思い出させる内容だったから。

ノックスの探偵小説十戒は、ミステリー好きにとってお馴染みの格言だ。本書はその十戒に抵触しかねないぎりぎりの域を守りつつ、見事な大団円で小説世界を閉じている。横溝正史の作品のようなムラ社会の日本を思わせる世界観に沿いつつも、現代ミステリーとして成立させる技は並大抵のものではない。

もちろん、本書の構成を実現するにあたっては力業も使っている。つまりは牽強付会というか無理やりな設定だ。私もなんとなく違和感を覚えた。だがそれは、本書で著者が仕掛けた大きなミスディレクションによるためだ。たいていの読者はその点を気にせず読み進められる。そして読み進んでいき、著者が開陳する真相に驚愕するだろう。私自身、違和感は感じたとはいえ、まさかの真相にやられたっと思ったのだから。その驚きはまさに「翼ある闇」を読んだ時の体験そのもの。

さて、これ以上本書の真相を仄めかすようなことは書かないでおく。書くとすれば、本書で著者が作り上げる世界観についてだ。上に横溝正史的な世界観に沿いつつと書いた。本書で著者は横溝正史が傑作の数々の舞台とした世界観の再現に成功している。しかし一方で、そういった世界観が今の時流に逆らっていることを著者が自覚しているからこその描写も登場する。それは作中の展開上、仕方のないことだったとしても。今や建て売りの2×4や画一化された間取りのマンションに日本人は住む。そのような住まいはトリックの舞台として相応しくない。もう底が割れてしまっている。あまりにも機能的でむやみに開放的な今の住居の間取りは、我が国からお化けや幽霊、妖怪だけでなく、ミステリーの舞台をも奪い去った。

本書はあえてその課題に挑戦した一作だ。著者が挑んだその偉業には敬意を表したい。敬意を表するのだが、私の感想はもう一つ別にある。それは、本書以降、現代を舞台として横溝正史的な世界観のミステリーを書き上げることは無理ということだ。本書は、著者の力量があってこそ成り立った。そもそも他の作家であれば本書のような道具立ては採らないのではないだろうか。著者がいくら筆達者であっても、もはや読者の知識がついていけなくなっている。そう思う。鴨居や床の間、欄間や雨戸。それらを知る読者はこれからも減っていくに違いない。

そういった意味でも本書は、古い日本を世界観に採ったミステリーとしては最後の傑作ではないだろうか。

‘2016/05/04-2016/05/04


誘拐


誘拐ものには印象的な作品が多い。こうやって書いている今も私の脳裏には何冊か浮かんでくる。それらはいずれも秀作だ。そして本書もまたその系譜に連なる一作である。なにせ本書は題名からしてストレートに”誘拐”なのだから。

誘拐ものは私の読書経験ではハズレがない。大体が面白い。著者にとってもとっておきのアイデアを注ぎ込む、いわば挑戦作といってもよい。これは面白いから存分に堪能しな、と読者を挑発するような。私にとって著者の作品は初めて読むこともあり、面白さは未知数だった。だが、”誘拐”という一点に惹かれて著者の挑戦に乗って手に取った。

誘拐ものは倒叙形式で書かれる事が多い。倒叙形式とは事件発生時から犯人側の視点で描く手法だ。本書もまた倒叙形式を踏襲している。

犯人側から犯罪を描くということは、即ち手の内を明かすこと。誘拐犯が警察に挑み、どう手玉にとるのか。そして読者は犯人の視点で誘拐の進捗を追っているつもりが、まんまと著者の仕掛けた罠にはめられる。そこに誘拐ものを読む醍醐味はある。

その際、読者が誘拐犯の立場にたてば立つほど、感情移入をすればするほど、著者の仕掛けた読者への罠は効果を発揮する。では本書はどうやって読者を誘拐犯の見方になってもらうか。著者はそのために誘拐犯、つまり主人公の境遇を落とすだけ落とす。

プロローグで主人公が落魄させられてゆく経緯はあくまで自然。自然でいてなおかつ本書の誘拐のプロットに直接繋がっている。ここら辺りは見事なものだ。

また、誘拐犯が警察に接触する手法もなるほどと思える。確かに地味で労力もかかるが秀逸な方法である。

また、誘拐によって一番衝撃を受ける現職首相の焦燥具合の描写も悪くないと思った。ここらあたり登場人物の描写はきっちりしたものだ。著者の作品は初めて読んだがなかなか良い。

だが、一点だけ不満な点もあった。これは全体のどんでん返しのタネなのでここには書かない。だがこれはプロローグをもう一工夫しておけば防げたのではないか。おかげで本書を読む途中でタネに思い至ってしまった。普段の私は推理小説を読んでいても著者の罠にまんまとはまるタイプなのに。本書は珍しく途中で真相の一部を悟ってしまった。

‘2016/03/17-2016/03/18


造花の蜜〈下〉


下巻である本書では、視点ががらっと変わる。

上巻では圭太君の母香奈子や橋場警部に焦点が当たっていた。しかし、本書では犯人側の内幕が書かれる。その内幕劇の中で、実行犯とされる人物は逃亡を続ける。何から逃亡しているのか。そしてどこに向かっているのか。やがてその人物は逮捕され、取調べを受けることになる。本書は、実行犯であるその人物の視点で展開する。そして、視点は一瞬にして転換することになる。読者にとって驚きの瞬間だ。

実行犯の背後には黒幕がいる。その人物は狡知を張り巡らせ、正体をつかませない。実行犯の視点で描かれているとはいえ、それはいってみれば遣いッ走りの視点でしかない。黒幕は一体誰なのか。いや、これからこの物語はどこへ行こうとするのか。読者は本書の行く末が読めなくなる。

圭太君の誘拐劇の背後に家庭事情が絡んでいることは上巻のあちこちで触れられていた。本書ではそれらの事情も種明かししながら、実は圭太君の誘拐劇の裏側には違う犯罪が進んでいたことが明らかとなる。複雑な構成と胸のすくような転換の仕込み方はお見事という他はない。そう来たかという驚きは優れた推理小説を読む者にのみ与えられる特権だ。

そして、この時点で黒幕である人物はまだ捜査の網の外にいる。事件はまだ終わっていない。

ここで、本書は2回目となる視点の転換を迎える。圭太君の誘拐劇の舞台となった小金井や渋谷ではなく、今度の場所は仙台。圭太君誘拐劇から1年後のこと。ここに圭太君誘拐劇に関わった人物は誰一人現れない。たまたま仙台に来ていた橋場警部を除いては。人物の入れ替わりの激しさは、もはや別の物語と思えてしまうほどだ。本書はここで大きく二つに割れる。

第三部ともいえる仙台の事件をどう捉えるか。それは本書への評価そのものにも影響を与えると思う。私自身、仙台の話は蛇足ではないかと思ってみたり、黒幕の知能の高さを思い知る章として思い直してみたり。第三部については正直なところいまだに評価を定めきれずにいる。

誤解しないでもらいたいが、第三部も完成度は高いのだ。そして一部と二部で打たれた壮大な布石があってこその第三部ということも分かる。しかし第一部と第二部だけでもすでに作品としては完成していることも事実だ。それなのに第三部が加えられていることに戸惑いを感じてしまう。実は本書の最大の謎とは第三部が加えられた意味にあるのではないかとまで思う。読者を戸惑わせる意図があって曖昧に終わらせたのならまだ分かる。しかしそうではない。第二部が終わった時点で読者は一定の達成感を感ずるはずだ。

読者は本書を読み終えて釈然としないものを感じることだろう。そしてその違和感ゆえに、本書の余韻は長く続くこととなる。

第三部のうやむやを探ろうと著者自身に聞きたいところだが、それはもはや叶わない。残念なことに著者は亡くなってしまったからだ。どこかで著者が本書の第三部について語った内容が収められていればよいが、その文章にめぐり合える可能性は低い。あるいは著者は、死してなおミステリ作家であり続けたかったのかもしれない。自らの作品それ自体をミステリとして存在させようとして。あるいは、著者の他の作品に謎を解く鍵が潜んでいないとも限らない。私自身。著者の読んでいない作品はまだたくさんある。それらを読みながら、第三部の謎を考えてみたいと思う。

‘2015/11/21-2015/11/22


造花の蜜〈上〉


本書のレビューを書くのはとても難しい。

推理小説であるため、ネタばらしができないのはもちろんだ。でも、それ以上に本書の構成はとても複雑なのだ。小説のレビューを書くにあたっては最低限の粗筋を書き、レビューを読んでくださる方にも理解が及ぶようにしたいと思っている。しかし、本書は粗筋を書くのがはばかられるほど複雑なのだ。そして粗筋を書くことで、これから読まれる方の興を削いでしまいかねない。

本書下巻ではテレビドラマ脚本家の岡田氏による解説が付されている。岡田氏も本書の解説にはとても苦労されている様子が伺える。そして、私も本稿には難儀した。本書はレビュアー泣かせの一冊だと思う。

でも、本書はとても面白い。そして構成が凝っている。ミステリーの系譜では誘拐ものといえばそうそうたる名作たちが出揃っている。本書はその中にあっても引けをとらないほど面白い仕掛けが施されている。子供を間に置くことで、視点の逆転をうまく使っているのが印象的だ。

上巻である本書では、圭太君の母香奈子と橋場警部に焦点を当てつつ話は展開する。圭太君があわや連れ去られそうになるが、実は誘拐未遂であり、しかも実行犯が父親というのがミソだ。そしてその体験を語るのが幼い圭太君であることが、混乱を誘う。圭太君の言葉は無垢な言葉であり、その言葉には作為は混じらない。だからこそ大人は惑わされるのだ。冒頭の誘拐未遂の挿話で読者ははやくも著者の仕掛けた謎に惑わされてゆく。

はたして一カ月後、圭太君は再度誘拐される。犯人の知略にもてあそばれる警察側。著者によって小道具が効果的に出し入れさえ、巧妙に視点と語りが混ぜ込まれる。著者の幻惑の筆は冴え渡る。なるほど、こういう誘拐の手口もあるのか、と読めば驚くこと間違いなし。造花の蜜という題名のとおり、本書では金という甘い蜜を巡って虚虚実実の駆け引きが繰り広げられる。ここでいう蜜とは、金の暗喩であることは言うまでもない。そして蜜は金としてだけでなく、小道具としても印象的に登場する。蜜に群がる蜂を多く引き連れて。

鮮やかな誘拐劇の中、ほんろうされ続ける橋場警部。

上巻は、犯人への対抗心に燃える橋場警部の姿で幕を閉じる。これが下巻への布石となっていることはもちろんだ。

‘2015/11/20-2015/11/21


彼女はもういない


本稿を書き始めてから、個人的に驚いたことがある。それは著者の作品を今まで読んだことがなかったということだ。本書の面白さに触れ、著者の実力を知り、それなのに今まで著者の作品を逃していたことはちょっとしたショックだった。

著者の名前は当然知っていた。毎年年末に宝島社が出す「このミステリーがすごい」は欠かさず買っている。著者の名前はその中で何度も登場している。なぜ、今まで著者の作品を読まずに来たのか、さっぱりわからない。

本書は倒叙ミステリーである。つまり、犯人側の視点を通して話は進む。明確な殺意と動機も最初から読者に提示される。やがて始まる連続殺人。殺害手口の一部始終をDVDに録画し関係者宅に電話した上で投函する。それはまるで劇場型犯罪のよう。派手派手しく、遺留品も大量に残したままの杜撰にも思える連続殺人を重ねる犯人。

一方で、各連続殺人の合間には、警察側の視点で物語は書かれる。やがて、城田理会警視の慧眼によって、着々と犯人像は絞られるが・・・・

本書は実に素晴らしい。私も想像していなかった結末で締めくくられる。しかもそれらの伏線は読者の前に早い段階で提示されている。実にお見事な犯罪計画であり、それを見破った警視の推理も半端ではない。

だが、惜しいと思ったのは、本書の冒頭ですぐに明かされる殺意の説得力が今ひとつだったことだ。犯人である文彦の憎悪がどこから湧くのか、殺意の源泉が述べられているのだが、ここの説得力が少し欠けるように感じた。もっというと犯罪へと至る直接の引き金になった出来事が、如何にして殺意へと昇華されたのか、という描写がピンと来なかった。

本書を解く鍵はとあるキーワードにある。本書の半ば過ぎでそのキーワードは登場する。そのキーワードは、文彦の殺意には直接は関係しない。なので、なおさら冒頭で殺意が湧きおこる瞬間の動機を練って欲しかったと思う。惜しい。同じことは、繰り返し本書で歌詞が引用されるスティーヴィー・ワンダーの「Isn’t She Lovely」からも言える。言わずとしれた名曲である。そして、その歌詞は、おそらくは冒頭で描かれる文彦の殺意に直結している。しかし、それが先に上げたキーワードとは直結してない。ここでもう少し違う曲が採り上げられ、文彦の殺意の動機と、キーワードを橋渡すものになってくれたらと思った。つまり、文彦の殺意の理由と謎を解くキーワードが今一つ連結されておらず、唐突なのだ。

あえて言えば、その役を担っているのは、Isn’t She Lovelyではなく、本書の題名になるのではないか。この題はうまくダブルミーニングになっていると思う。文彦の殺意の唐突さが、とっぴであればあるほど、文彦の犯す犯罪が大仰であればあるほど、このタイトルがもつ意味が理解できる仕掛けだ。

その点を除けば、本書の謎の提示の仕方と推理の経緯には実に読み応えがあった。著者の他の作品をこれから読んで行かねば。

‘2015/10/9-2015/10/11