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教場


以前から評判になっているとは聞いていた本書。読んでなるほどと納得した。面白い。

本書は警察の内部を描いている。しかも警察学校を。わたしはミステリが好きだが、警察小説はそれほど読み込んでいない。警察学校を舞台にした小説も本書が初めてのはず。

今までに出版された多くの小説でも、警察学校がここまで描かれたものはなかったのではないか。なぜなら警察学校を描くということは、警察の業務内容を一部でも公開することになるから。警察のノウハウを描くには骨の折れる作業があることは容易にわかる。今までに出版された数多くの推理小説で、刑事による捜査はいろんな切り口で描かれて来たはず。だから、捜査メソッドを描いても目新しさはない。でも、本書で紹介された職質や交番巡査による巡回のやり方などは、あまり紹介されたことがないと思う。しかも教官の口から伝えられるセリフは、より一層の真実味を読者に与える。

本書が新鮮な点がもう一つあって、それは教官と生徒の関係の描かれ方だ。警察志望の生徒が警察に抱くような希望や憧れ。まず教官はそこをつぶしにかかる。かつての兵学校とはこんな感じなのだろうか。規律そして規律。規則と条文が支配する世界。そこには当然、さまざまな生徒が入学してくる。厳しい授業に耐えきれず、常軌を逸した行いに及ぶもの。教官の寵を得ようともくろむもの。後ろ暗い秘密を抱えたもの。規則あるところに逸脱や反抗が生じるのは自然の流れだ。

対する教官は、専門分野こそさまざまだが、警察のイロハを知り尽くした海千山千の猛者。生徒たちを見る目は厳しく、しかも容疑者に対したときのように鋭い。生徒と教官の表裏それぞれの駆け引きが面白い。本書は風間という担当の教官が主要な人物として配され、生徒たちのたくらみの先を行く。

教育は社会にとって不可欠。特に青年期までの教育の重要性はいうまでもない。今、人権を重視する風潮が高まり、教育から厳しさが排除されつつある。だが、厳しさが不可欠な教育もある。戦争や軍事に関わる教育がそうだ。そういう教育は、人を育てるよりも相手を殺すことが目的であり、本来の教育の理念にはそぐわない。では、本書で描かれる警察学校はどうか。緊張感と命に関わる厳しさがあり、それでいて人を救い、治安を維持する大義名分がある。教育の本分にのっとっており、なおかつ前向きだ。

本書のそれぞれの編では、生徒間の微妙な思惑のズレと駆け引きが描かれる。そして生徒の悪巧みを風間教官が未然に防ぐ。時には非情な手段を使って。そこには生徒と教官の麗しき師弟愛などない。冷徹な組織の論理が優先され、そこにそぐわない生徒は容赦なく切り捨てられる。人命救助や治安維持といった大義名分と非情さのギャップこそが本書の魅力だろう。

だが、警察の現場とは過酷な毎日のはず。それを教えるのに非情さが欠かされないのは想像できる。だからこそ、本書で描かれる厳しさは腹に落ち、納得できる。そして犯罪者に対峙するためには甘さや憧れはいらず、規律と任務が全てという世界観も。もちろん、タコツボ思考に陥る危険性と警察学校の教育が表裏一体であることは当然だが。

本書は六編からなっている連作短編集の体裁だ。各編は独立しているが、六編を通して同じ学校の98期生の一年を描いている。各編ごとに細かな伏線が張られ、全体としても伏線が張られている。共通する登場人物は風間教官だけかと思いきや、前の編に出てきた人物がひょこっと出て来て、各編ごとのつながりの存在を示す。各編ごとのつながり方に独特のリズムが刻まれているのだ。それが本書全体の構成にも締まりを与えている。

本書の各編が刻むリズム感は、著者の作風なのだろうか。著者の作品を初めて読む私は、著者の作風を知らない。もし、本書のリズム感が、警察学校という隔絶された環境と、その規律を意図して作り出されたとすれば見事というほかない。本書には続編があるという。著者の他の作品とあわせて読んで見たいと思う。

‘2016/09/26-2016/09/27


都心には皇居という緑があるのに、自然には冷たい


梅雨入りとなり、湿度の高い日々が続きます。そんな湿っぽい日常をもっと湿らせる光景を目撃しました。 それは、燕の巣に対するこの仕打ち。 IMG_5934

毎日通っている客先近くのビル。このビルの一階部分は、立体駐車場の入口も兼ねています。この入口の天井には警告用のパトランプが備え付けられていて、毎年、燕が営巣します。今年も五月の連休が明けた頃、巣作りに励むつがいを見かけました。野生でありつつ、たくましく人間の施設を利用する子育てに共感し、毎日の通りすがりに応援していました。 IMG_5053

やがて雛たちも数羽姿を見せ、ますます賑わいを見せる天井の巣。私も毎日巣を横目に見ながらその家庭的な営みに癒されていました。ところがある日、巣を残して忽然とツバメ達は姿を消してしまいました。私も相当落胆しました。 ところが、数日後、何気なく通りがかったところ、パトランプの反対側に巣が出来ているではありませんか!不屈のツバメがめげずに営巣の準備に勤しむ様子を確認できました。或いは別のツバメがよい場所を見つけたとやってきたのかもしれませんが、やった!頑張れ~と私は内心で喝采を叫びました。

ところが翌日、わくわくしながら、雛の誕生を見に行ったのですが、そこで見たのは冒頭に載せた写真のような衝撃的な仕打ちでした。燕の営みは破壊され、二度と復活出来ないようにされていました。

毎朝この場所を通うようになって、三度目の春です。実は巣が壊される光景を見るのは今回が初めてではありません。この場所で巣作りをしたツバメは、毎年何者かに巣作りを中断させられているのです。壊されたり撤去されたり。それにも関わらず、今年も果敢にチャレンジしたつばめの行為は無惨な結末を迎えました。それも今まで見た中で一番救いのないやり方によって!

おそらく巣を撤去した何者かは、このビルの関係者かもしれません。その何者かが巣を撤去するに当たっては、私などのうかがい知れぬ深い事情があったのかも知れません。店子の車の天井に粗相をしたり、あるいは店子が頭にウンを授けられたりしたのかも。店子の怒髪が天を衝き、巣は刺されたのでしょう。撤去した何者かの気持ちも分からないでもありません。私としても、家の玄関の頭上に営巣されたら温かく見守りますが、妻の歯科診療室の入口頭上に営巣されたら、何らかの策は考えざるを得ません。巣の撤去人の事情が分からない以上は安易な断罪は控えるべきなのかもしれません。ええ、そうですとも。

しかし、あの口をピーチク開けていた雛たちの行く末を思うと、心の片隅がじめじめし、カビが繁殖していくかのようです。梅雨だというのに、誕生日を迎えたばかりというのに。せめて、巣の処刑人が、巣をまるごと安全な場所に移設し、そこで無事に雛を旅立たせてくれていれば、私の心も晴れ渡るのですが。

一方で、そんな私の気持ちを晴れやかにさせる出来事もありました。

我が家の四女であるヨークシャーテリアの野々花。このやんちゃなレディが野生に呼ばれ、行方不明になってしまいました。夜間のことだったので、闇に紛れてしまい、探しても見つからず。しかも悪いことには、今梅雨史上最高の土砂降りが我が家の周辺を襲いました。気温が上がったとはいえ、これだけの雨に叩かれたら、せめて雨の凌げる場所に逃げていてくれたら・・・そんな夜を過ごしました。

翌朝、野々花の行方は、町田警察署からの連絡で判明しました。しかも、保護されたのが雨の降る前だったらしく、つやつやした毛並みのままに。届けて下さった方には感謝の言葉しかありません。その方に直接お礼の言葉を掛けられればどんなに良かったか。(個人情報保護を盾に警察署では教えてくれませんでした。この件については云いたいこともあるので、また書きます)

実は我が家にはチワワのお姉さんも居て、名を風花といいます。この風花も飼い主に似てか、しょっちゅう脱走し、放浪するのです。特に引越日当日にいなくなった際は、全く行方がつかめず、町田市中のペットショップに貼り紙をしてもらい、近所のスーパーにも貼り紙をさせてもらいました。その結果、2週間後に我が家に戻ってきたのですが、その際にも親切なお宅の家で保護されていました。しかも前よりも肥太って悠々と。

私の住む町田は、駅前の繁華街こそ西の渋谷という異名をとるほどに俗っぽくなってしまいました。しかし、私の住む家の近所はまだまだ自然に恵まれ、住宅地と農地が共存できています。そして、犬を愛する親切な人々が住まって下さっている場所でもあります。貴志祐介氏による小説「悪の経典」の舞台でもあるのですが、小説に出てくる「ハスミン」とは違って人情の感じられる場所です。

都会だから酷薄で、田舎だから人情。そういった紋切り型の判断をするのは禁物です。それはよく分かっています。分かってはいるのですが、今回のツバメの一件を思い返すに、どうしてもそういう思いが湧いてしまうのです。一度そう思ってしまうと、このあたりの瀟洒な邸宅街に対して、少し距離を置いた感想を抱いてしまいかねません。住まわれている方々はツバメを排除する人々ではなく、むしろ素晴らしい人々なのでしょう。なのに、ツバメの一件だけでそう思わせてしまうほど、今回の一件からは強烈な印象を植え付けられました。靖国神社や東郷元帥記念公園、清水谷公園、千鳥ヶ淵公園といった素晴らしい公園を擁し、大使館や学校といった上品な建物が多いこのあたり。私もその雰囲気に好意を持っているこの地。

そういえば、この界隈、普段昼食で歩き回っていて、犬や猫にほとんど会うことがありません。ツバメが営巣に来るくらいだから、近隣の自然も相当豊かなのに違いありません。あるいは皇居の森は相当数のツバメの一大繁殖地となっているのかもしれません。このあたり、本来は自然にあふれた素晴らしい場所のはずなのです。私のような町田の農村地に住む者にとっても、このあたりの緑の豊かさは一頭群を抜いています。これは私の故郷大阪の都心部の緑の乏しさと比べれば断然の違いです。例えば大阪環状線の内側で思いつく緑といえば、大阪城公園と靱公園、天王寺公園、御堂筋の並木くらいでしょうか。それに比べ、東京の都心部の豊かさはくらべものになりません。

それなのに街からはツバメを排除し、人間の営みを優先する。何かがズレテイル。

この辺りは、かつて入江でした。入り江であるがゆえに、地盤は脆弱です。そしていずれは来るといわれている首都圏直下型地震もこのあたりに甚大な被害をもたらすとされています。自然を目の前にしながら、自然を忘れた人々。存在を遠ざけ、忘れていた自然から、いつか手痛いしっぺ返しを食らわないとも限りません。

皇居ではよく自然観察会が開かれているといいます。私もまだ一度も参加したことがありません。もし、ツバメの巣を××された方が、ツバメに対して愛着がゼロなのであれば、こちらの拙文を読む機会があったら、一度は皇居の見学会に行かれてみてはいかがでしょうか。普段どれだけの宝物に囲まれ、どれだけの不安定な場所に住んでいるのか、思いを致すとよいです。