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立花三将伝


2020年の夏に福岡へ出張した先のお客様が歴史に深い関心を持ち、立花宗茂を敬愛しておられる方だった。その方のお住まいも立花山城の近くだとか。伺った際に、歴史談義で大いに盛り上がってしまった。
私もせっかくのご縁なので、図書館で見かけた本書を手に取った。また福岡に来ることもあるだろうし。

だが、実は本書には立花宗茂はほぼ出てこない。プロローグとエピローグで立花家の主として間接的に触れられるぐらい。
立花宗茂の父である立花道雪は、本書の後半に重要なキャラクターとして登場する。だが、立花道雪も本書の中では本名である戸次鑑連の名前で描かれる。

立花家と言えば立花道雪と宗茂の親子が有名だ。たが、その二人は実の親子ではない。しかも、二人とも立花家の血筋を引いていない。
立花宗茂の実の親は岩屋城の戦いで知られた高橋紹運。立花道雪に請われて高橋家からの養子として迎えられたのが宗茂。そして、立花道雪のもともとの苗字は戸次。
立花家は、立花宗茂や立花道雪がその名を全国に知らしめる前に筑前で勢力を保っていた。だが、主家である大友家に二度にわたって反旗を翻したことで、結果として廃絶させられている。家名だけ存続させ、主人は戸次鑑連が大友家の命で就いた。立花家の人から見ると乗っ取られたのに等しい。

立花家とはそもそも大友家の家臣として長年奉公してきた。たが、その本拠地は筑前、つまり今の福岡にある。立花家の拠点である立花山城は博多と宗像の中間あたりに位置している。主家である大友家は豊後、つまり大分に本拠を構えており、筑前に盤石の基盤を築いていた訳ではない。
立花山城は、天然の良港である博多を見下ろす要衝にあり、良港を擁するこの辺りは、戦国時代の初期から、立花家、原田家、宗像家、秋月家などで小競り合いが続いていた。
さらにその周囲には龍造寺家や大内家が虎視眈々と狙っており、のちには毛利家や島津家にも狙われる。

立花家が道雪と宗茂によって全国的に名が知られる前の立花家は、不安定な領地を確保する小勢力に過ぎなかった。
そのような脆弱な立花家で奮闘する三人の将の物語。それこそが本書だ。
タイトルにも登場する三将とは、薦野弥十郎こと薦野増時と、米多比三左衛門こと米多比鎮久、そして藤木和泉の三名を指す。私は本書を読むまで、この三将のことは全く知らなかった。三将のうち先に挙げた二人はWikipediaにも項目として設けられている。が、もう一人の藤木和泉はWikipediaでは項目としてすら設けられていない。

Wikipediaで藤木和泉を検索しても、ヒットするのは上のWikipediaに登場する二人の記事のみ。
記事の中では、藤木和泉の名は、薦野増時と米多比鎮久を討伐するため、立花鑑載によって差し向けられた将として言及されている。
しかし、これ以外にあったはずの藤木和泉の事績や生涯の起伏にはWikipediaでは全く触れられていない。

頭ではわかっているつもりでもついつい忘れてしまうこと。それは戦国時代とは、有名な大名や軍師や武将だけの時代ではなかったことだ。庶民には庶民の暮らしがあり、悲喜こもごもの生活を繰り返していた。武将も同じ。巷間に伝えられるエピソードを持つ武将などほんの一部でしかない。ほとんどの武将は伝えるにふさわしいエピソードを持っていても、それが後世に伝わらぬままに戦場で死んでいく。私が知らないあまたの武将たちは、それぞれがそれぞれの縄張りを守るため、必死に戦っていた。彼らの逸話は語り継がれていないだけで、有名な武将たちに遜色のない、むしろそれ以上に勇壮で悲惨な武勇伝や挫折が無数にあったはずだ。

だが、後世の人たちがそれを知る術はない。私たちは藤木和泉が何をした人物かを知らない。ましてや、日々の暮らしでどのような悲しみや喜びを感じ、戦場ではどれほどの苦しみと昂りに炙られていたのかも知らない。

若いころから、米多比三左衛門と薦野弥十郎とともに立花家に忠節を貫いていた藤木和泉。だが、主君が大友家に反旗を翻したことによって家が二つに割れた。それによって固い友情を抱きながらも、三人は敵と味方に分かれ、その結果、生と死も分かれてしまった。米多比三左衛門と薦野弥十郎にとってかけがえのない友であり、名将の資質を存分に発揮していた藤木和泉。たが、若くして亡くなったため、名も残さぬままに戦国の渦の中に消えてしまった。後世の私たちに伝えられることもなく。

ここで登場する立花鑑載が、藤木和泉にとっての宿命だった。立花鑑載は大友家を二度にわたって裏切り、薦野増時と米多比鎮久の二名はその乱の中で親を殺されている。だが、下克上の世にあって藤木和泉は立花鑑載を主君として立てつづけ、忠誠を貫き通した。そして結局は立花家を後世に残すため、従容として死についた。
その覚悟を決めた姿はまさに本作のクライマックスといえる。

本書のプロローグは老年に差し掛かった米多比三左衛門が、関ヶ原の戦いで西軍に身を投じようとする直前にかつての友たちを懐かしむ。また、エピローグも隠居した米多比三左衛門が登場する。
そこに共通するのは時の流れだ。時の流れは斟酌せず、誰の上にも等しく影響を及ぼす。

著者は本書において、歴史に名を残さなかった者に光を当てようとする。歴史に名が残せるかどうかは、本人の能力や運もあるし、周りの協力があってこそだ。その人の実績を悪様に書かれても、本人には修正のしようがない。
それは今の私たちにも通じる。
今の私たちから数百年後の人類に私たちの日々の暮らしや実績を伝えられるだろうか。それはほぼ期待しない方がよい。だが、私たちは日々の生活を真剣に懸命に生きる。それが人生というものだから。

藤木和泉のように歴史に名を残さぬまま、優れた人物だった人は他にも無数にいるだろう。私たちは歴史小説を読むとき、そうした人のあり方にも心を向けたいものだ。

2020/10/12-2020/10/14


真田三代 下


下巻では第一次上田合戦から始まる。
上田の城下町の全てを戦場と化し、徳川軍を誘い込んで一網打尽にする。それが昌幸の立てた戦略だ。
それには領民の協力が欠かせない。なぜ領民が表裏比興の者と呼ばれた昌幸の命に諾々と従ったのか。

「昌幸にはひとつの信条があった。
「戦いにおいては詐略を用い、非情の決断もする。だが、おのが領民と交わした約束は、信義をもってこれを守り、情けをかけて味方につけねばならぬ」」(86-87ページ)

周到に準備しておいた昌幸の策が功を奏し、徳川軍を撃退した真田軍。諸国の武将に真田家の武名がとどろく。

だが、昌幸の智謀がすごみを増す一方で、次男の幸村には父とは違う人格が生まれ始めていた。それは義の道。
幸村は、人質として過ごす上杉家の家風である義の心に感化される。
軍神と称えられた先代の不識庵謙信はすでに世にない。だが、主の景勝とその股肱の臣である直江兼続が差配する上杉家は、先代の義に篤い気風を受け継いでいた。
そこで幸村は策に走る父への疑問を抱く。生き残ることを優先すべきなのか、はたまた義を貫くべきか。

「おのれの利を追うことのみに汲々とするのではなく、さらに大局に立ち、おおやけのため、民のため、弱き者のために行動するのが、
「わしの考える義だ」
と、兼続は言った。」(128ページ)

これは私も常々感じている。利を追ってゆくだけでよいのなら、どれだけ楽か。金を稼ぐ苦労はあっても、それだけにまい進すればよいのだから。
従業員の人件費を削り、精一杯働かせる。顧客には高めの金額を提示し、その差額を利潤として懐に貯めこむ。
それができない私だから、飛躍も出来ないでいる。自分に恥じないような経営をしようと思うと、従業員を使い捨てにするマネはできない。見合った金額を支払い、顧客には高い金額を提示できない。これだと飛躍ができない。
私の根本の経営能力に問題があることもそうだが、こうした理念は卓越した努力と才能を伸ばした結果が伴わなければ倒れてしまう。悩んだことも数知れずだ。

ビジネスマンの愛読書は歴史小説だという俗説がある。歴史小説から教訓を読み取り、それをビジネスに生かそうとする人が多いからだろう。
それが本当かどうかはわからない。だが、私にとっては歴史を取り扱った小説から得られる教訓は多い。
本書を読んでいると、未熟な自分の目指すべき道の遠さとやるべきことの多さにめまいがする。

義を貫きたい幸村の志。それに頓着せず、昌幸は上杉家に人質としている幸村に信幸を接触させる。そして信幸を通し、上杉家を出て豊臣家への人質として大坂へ赴くように命ずる。
義のなんたるかを教えてくれた人物を不本意ながら裏切る羽目に陥った幸村の苦悩。

昌幸の視点には、天下の趨勢が豊臣に傾いていることが見えたのだろう。幸村を豊臣家の人質として送り込むこともまた、真田家を生き延びさせるための一手だった。昌幸の読みは当たり、秀吉は着々と天下を統一していく。
その過程に真田の名胡桃城をめぐる攻防があったことは言うまでもない。

ところが豊太閤の天下も秀吉の死によって瓦解を始める。それから関ヶ原の戦いに至るまで、石田三成と徳川家康、さらには上杉や諸武将の思惑が入り乱れる。
真田の場合、兄信幸が徳川四天王の本田忠勝の娘小松姫を娶っていた。幸村は石田三成についた大谷吉継を義父としている。
二人の境遇が真田家を大きく二つに割った犬伏の別れの伏線となる。

「澄んだ秋の夜空に、星が散っている。そのなかで、ひときわあざやかに輝く六つの星のつらなりがあった。
真田家の六連銭の旗の由来ともなった、
━━すばる
である。
「わしは若いころより、つねに心に誓ってきた。あのすばるのごとく、あまたの星のなかでも群れのなかに埋没せぬ、凛然たる光を放つ存在でありたいとな」
星を見つめながら昌幸は言った。
「徳川内府につけば、わしは有象無象の星の群れのひとつに過ぎなくなる。だが、男としてこの世に生を受けた以上、一度は天上のすばるを目指さねばならぬ。いまこそがその時だ」」(344-345ページ)

まさに私もこの志を持って独立した。しびれる場面である。

昌幸は長男の信幸とたもとを分かち、上田城の戦いでは策略を駆使して徳川秀忠の軍を足止めさせる。その結果、関ヶ原の本戦で秀忠軍は遅参した。

だが、西軍は関ヶ原の本戦で敗れた。局所の戦いでは勝ちをおさめたが、昌幸と幸村の二人は高野山へ流罪の身となった。
以来十数年。昌幸はついに九度山で想いを遺しながら亡くなった。そして、徳川家康は、天下取りの最後の仕上げにとりかかる。残すのは豊臣家の滅亡。
豊臣方も対抗するため、大坂に浪人を集める。幸村も大坂からの誘いを受け、最後の死に花を咲かせるために九度山から脱出する。

「「人の世は、思うようにならぬことのほうが多い。まして、わが真田家は周囲を大勢力に囲まれ、つねにその狭間で翻弄されてきた。だが、宿命を嘆き、呪っているだけでは、何も生まれませぬ。苦しい状況のなかから、泥水を嘗めてでもあらんかぎりの知恵を使い、一筋の道を切り拓いてゆく。それがしのなかにも、そうやって生きてきた祖父幸隆や父昌幸と同じ血が流れているのでござろう」」(465-466ページ)

ここからはまさに幸村の一世一代の花道だ。戦国時代、いや、日本史上でも稀に見る華々しい死にざま。真田日本一の兵と徳川方から称賛された戦い。

「叔父上は、数ある信濃の小土豪のなかから、真田家がここまで生き残ってこれたのはなにゆえと思われます。それは、知恵を働かせて巧みに立ちまわったからだけではない。小なりとはいえ、独立した一族の誇りを失わず、ときに身の丈よりはるかに大きな敵にも、背筋を伸ばして堂々と渡り合う気概を持つ。それでこそ、わが一族は、亡き太閤殿下、大御所にも一目置かれる存在になったのではございますまいか」
「目先の餌に釣られ、世の理不尽にものを言う気概を捨て去っては、一族を興した祖父様や、表裏比興と言われながらも、おのが筋をつらぬいた父上に申しわけが立ちませぬ」(497-498ページ)

幸隆から昌幸、そして幸村と、戦国の過酷な現実を生き抜き、しかも自らを貫き通した。さらには、大名家の家名まで後世に伝えることに成功した。
男としてこれ以上の事があろうか。
真田家の三代の生きざまを読んでいると、何やら胸の内にたぎるものが湧いてくる。私もちょうど幸村が討死した年齢に差し掛かった。
あとどれぐらいの花が咲かせられるだろうか。

本書はビジネスマンに限らず、まだまだ枯れるにははやい中年に読んでほしい。

2020/10/2-2020/10/2


真田三代 上


大河ドラマ『真田丸』は私にとってワクワクする作品だった。結局、第十数話目以降は挫折し、最後まで通して見ることができなかった。だが、機会があれば、もう一度見直してみたいと思っている。

真田の物語の何に惹かれるのか。それは小さな勢力が大きな勢力の間で伍して生き抜く姿にある。その必死さは、私自身の境遇に似ている。
大企業に属さず、個人の力でどこまで経営が続けられるのか。それは私が日々実践している経営のスリルでもある。醍醐味とでもいおうか。
どうすれば大企業に呑み込まれず、自分の力で生きていけるのか。私はそのヒントが戦国時代の真田家にあると思っている。戦国時代を駆け抜けるにあたっての真田家の労苦。私はそこに共感している。

武田家や村上家。上杉家と北条家。織田家に徳川家。真田の郷は、そうそうたる戦国の群雄たちがしのぎを削る狭間の地にあった。ささやかな勢力。周りの国々の間で少しでも均衡が崩れれば、即座に自国に影響が生じる。その時、時代に飲み込まれてしまうのか、生き延びられるのか。それは当主の判断にかかっている。生き馬の目を抜くと称された戦国の日々の過酷さは現代とは比べ物にならない。

真田幸隆、昌幸、そして幸村こと信繁。本書はこの真田家の三代を担った男たちの姿を描く。その男たちに共通するのは、大きな組織に属さず、小さくても独立を貫こうとする誇りだ。

「幸隆は生きるためには詐術も使うが、その身のうちには熱い血潮が滔々と流れている。冷徹なようでいながら、どこまでも人間臭く、人間臭いようでいながら、いざとなれば情を切り捨てる冷たさを持っている。その落差の大きい二面性こそが幸隆の魅力であり、最大の武器でもあった。」(121ページ)

急激に力を伸ばしてきた武田晴信は、信濃を手中におさめんとしていた。それに対し、信濃を勢力下に収める村上義清は武田家の侵攻に備える。武田家と村上家の勢力図が刻々と変化する中、真田の郷と一族を守るためにあらん限りの知恵を振り絞る幸隆。真田が後世に伝わったのもこの人物のおかげだろう。
その時々の時流を読みながら、武田家と村上家の間を往復し、勢力図に応じて臣従する相手を変える。だが、心底から服従したわけではない。あくまでも幸隆の行動原理は真田一門のため。そのためなら上辺で協力することも厭わない。冷徹な計算を働かせながら、より大きな勢力に恩を売る。

本書が面白いのは、祢津のノノウの歩き巫女だ。巫女として諸国を巡るノノウは、真田が持つ情報源だ。この時代、各大名は乱破、素破、草の者と呼ばれた忍びの者を活用して情報を収集していた。真田の場合、諸国を行脚して回るノノウを自国に抱えていたことが有利だった。ノノウたちの持ち帰る情報は、忍びから得られる情報とは質が違う。
昔も今も情報を制するものが時代を制する。むしろ、情報伝達の量が貧弱だった戦国期だからこそ、情報の重みが今とは比べ物にならないほど大きかったはずだ。
数年前に友人たちと祢津のノノウの郷を訪れた事がある。ひなびた集落に無縁仏が立ち並び、質素な雰囲気を今に残していた。だが、かつてこの地は情報の集積地だったのだろう。どことなく巨大な渦を残滓を辺りに感じた。

幸隆は、真田家の将来を思い、信綱、昌輝、昌幸を武田家の中枢に送り込む。武田晴信の薫陶を受けさせる事が、真田家のこれからにつながると信じて。
幸隆はさらに昌幸の子どもにも目を配ることを忘れない。

「われらのごとき弱小の一族は、人の欲望のありかを冷静に見定め、それを利用して人を動かし、戦いに勝つしか、生き残る術はない。」(353ページ)
これは幸隆から源三郎と源次郎に伝えた言葉だ。

だが、戦国の世を生き抜くには智謀を尽くすだけではどうにもならない。戦国最強と言われた武田家も、晴信をあらため信玄がいよいよ京に攻め上ろうとする時に信玄の病によって野望がくじかれてしまう。
後を継いだ勝頼は、偉大な父を超えようと焦るあまり、かえって武田家を滅亡へと追いやってしまう。

長篠合戦では三兄弟が事前に得ていた情報によって不利な状況が分かっていながら、面目にこだわって戦いを強行した勝頼。その戦いの中、信綱と昌輝は銃弾に命を散らす。
昌幸は父によって兄二人とは違う役割を与えられていた。それによって反発した昌幸は、腐らずに智謀と知見を磨く。
二人の兄がいなくなったことで真田家を継いだ昌幸は、より一層、冷徹な智謀を突き詰めようとする。父をもしのぐほどに。

だが、昌幸は苦労を重ねただけあり、単なる冷酷な知恵だけの人間ではない。
「たしかに信義の二文字は、上辺だけのきれいごとに過ぎぬ。人は信義ではなく、利欲によって動くというのがこの世の真実だ。しかし、目先の小さな利に踊らされ、右往左往していては、われらは心根の卑しい弱小勢力とあなどられるだけだ。ときに小利を捨て、真田ここにありと気骨をしめさねばならぬときもある」(500ページ)

これは、本能寺の変によって織田信長が死んだ後、上州で戦っていた滝川一益が孤立した際の昌幸の言葉だ。この言葉に沿って正幸は滝川一益を助ける。

単に冷徹なだけでは人は動かない。ここぞと言う時に情を発揮してこそ人は動く。そして世に何がしかの爪痕を残すことができる。

人の心をつかみ、利用するだけでなく後々のために生かす。その抑揚と硬軟を取り混ぜた考えこそ、まさに真田昌幸の真骨頂だ。
表裏比興の者と呼ばれた人物だが、私は、その言葉こそが戦国を必死に生き抜こうとした昌幸への誉め言葉だと思う。やるべきことをやり尽くした昌幸だからこそその称号を得たのだと評価したい。
情に流されない強さと冷静さ。周りの評価に動かされない確とした自ら。どれもあやかりたいものだ。

2020/10/1-2020/10/2


信虎


友人に誘われて観劇した本作。
正直に言うと武田信虎の生涯のどこを描くのか、上映が始まる前は全く見当が付かなかった。そのため、私の中で期待度は薄かった。
ところが本作はなかなか見どころがあり面白かった。

本作が描いた信虎の生涯。私はてっきり、嫡子の晴信(信玄)によって甲斐から追放される場面を中心に描くのかと思っていた。
ところが、本作の中に追放シーンは皆無。一切描かれないし、回想で取り上げられる機会すら数度しかない。

そもそも、本作の舞台となるのは1573年(元亀3年)から1574年(天正2年)の二年間を中心にしている。信虎がなくなったのは1574年(天正2年)。つまり、本書が主に描くのは信虎の晩年の二年間のみだ。信虎が甲斐を追放されてから約三十年後の話だ。
1573年といえば武田軍が三方ヶ原の戦いで徳川軍を蹴散らし年だ。その直後、武田軍は京への進軍を止め、甲斐に引き返す途中で信玄は死去した。
その時、足利十五代将軍の義昭の元にいた信虎。将軍家の権威を軽視する織田信長の専横に業を煮やした義昭の元で、信長包囲網の構築に動いていた。

武田軍が引き返した理由が信玄の危篤にあると知った信虎は、娘のお直を伴って甲斐に向かう。
信玄が兵を引いたことで信長包囲網の一角が破れるだけではなく、武田家の衰亡にも関わると案じた信虎。だが、信玄は死去し、その後の情勢は次々と武田家にとって不利になってゆく。
しかも、当主を継いだ勝頼は好戦的であり、信玄の遺言が忠実に守られている気配もない。
信虎の危機感は増す一方。30年以上も甲斐を離れていた信虎は、勝頼の周りを固める重臣たちの顔も知らず、進言が聞き入れられる余地はない。
失望のあまり、勝頼や重臣の前で自らが再び甲斐の当主になると宣言したものの、誰の賛成も得られない。
そこで信虎は次の手を打つ。

本作が面白いのは、信虎が武田家滅亡を念頭に置いて動いていることだ。
京や堺を抑えた信長の勢力はますます強大になり、武田家では防ぎきれない。血気にはやる勝頼とは違い、諸国をめぐり、経験を積んできた信虎には世の中の流れが見える。
武田家は遠からず織田や徳川に蹂躙されるだろう。ただ、武田家の名跡だけはなんとしても残さねば。その思いが信虎を動かす。

本作の後半は、武田家を存続させるための信虎の手管が描かれる。武田家が織田・徳川軍に負けた後、武田家を残すにはどうすればよいのか。

本作は時代考証も優れていたと思う。
本作において武田家考証を担当した平山優氏の著作は何冊か読んでいる。本作は、私があまり知らなかった信虎の人物や空白の年月を描きながら、平山氏の史観に沿っていた。そのため、みていて私は違和感を覚えなかった。
服装や道具なども、作り物であることを感じさせなかった。本物を使っている質感。それが本作にある種の品格をもたらしていたように思う。時代考証全体を担当した宮下玄覇氏と平山氏の力は大きいと思う。
本作は冒頭にもクレジットが表示される通り、「武田信玄公生誕500年記念映画」であり、信玄公ゆかりの地からさまざまな資料や道具が借りられたようだ。それもあって、本作の時代考証はなるべく事実に沿っていたようだ。

いくら時代考証がよくても、俳優たちの演技が時代を演じていなければ、作品にならない。本作は俳優陣の演技も素晴らしかった。
本作に登場する人物の数は多い。だが、たとえわずかな場面でしか登場しない端役であっても、俳優さんはその瞬間に存在感を発していた。
例えば武田信玄/武田信簾の二役をこなした永島敏行さん、織田信長役の渡辺裕之さん、上杉謙信にふんした榎木孝明さん。それぞれが主役を張れる俳優であり、わずかなシーンで存在感を出せるところはさすがだった。

また本作のテーマは、信虎の経験の深みと対比して武にはやる勝頼の若さを打ち出している。その勝頼を演じていたのが荒井敦史さん。初めてお見かけした俳優さんだが、私が抱いていた勝頼公のイメージに合っていたと思う。
その勝頼の側近であり、武田家滅亡の戦犯として悪評の高い二人、跡部勝資と長坂釣閑斎の描かれ方も絶妙だったと思う。安藤一夫さんと堀内正美さんの演技は、老獪で陰険な感じが真に迫っていた。

あと忘れてはならないのが、美濃の岩村城で信虎一行を逃すために一人で槍を受けて絶命した土屋伝助すなわち隆大介さんだ。見終わって知ったが本作が遺作だったそうだ。見事な死にざまだった。
また、本作は切腹の所作も見事だった。見事な殉死を見せてくれたのは清水式部丞役の伊藤洋三郎さん。
最後に、本作にコミカルな味を加えていた、愛猿の勿来も忘れてはならない。

もっとも忘れてはならないのは、やはり主役を張った寺田農さんの熱演だ。熱演だが暑苦しくはなかった。むしろ老境にはいった信虎の経験や円熟を醸しだしながらも、甲斐の国主として君臨したかつてのすごみを発していた。さすがだ。
俳優の皆さんはとても素晴らしかったが、本作は寺田農さんの信虎が中心にあっての作品だ。見事というほかはない。

本作は、私個人にとっても目ヂカラの効用を思い出させてくれた。武田家を後世に残そうとする信虎は、信仰している妙見菩薩の真言を唱えながら、自分の術を掛けたい相手の顔をじっと見る。
その設定は、本作に伝奇的な色合いを混じらせてしまったかもしれない。だが、相手の目を見つめることは、何かを頼む際に効果を発揮する。相手の目を見ることは当然のことだが、その際に目に力を籠める。すると不思議なことに相手に思いが伝わる。
私は、経営者としてその効用を行使することを怠っていたように思う。これは早速実践したいと思った。

‘2021/11/23 TOHOシネマズ日本橋


伊達政宗 謎解き散歩


続けて、伊達政宗を扱った書籍を読む。

本書は、磐越西線の車中で読んだ。ちょうど摺上原の戦いの舞台を車窓から見つつ、雄大な磐梯山の麓を駆ける武者たちを想像しながら。

伊達政宗の生涯を眺めると、大きく二つの時期に分かれていることに気づく。
前半は南東北の覇者となるまでの時期。そして、後半は天下取りを虎視眈々と画策しながら、仙台藩主として内政に専念した時期。
本書はそれに合わせ、前者を第1章「戦国武将政宗編」とし、後者を第2章「近世大名政宗編」としている。

本書が、伊達政宗の生涯を彩ったさまざまの出来事をQandAの形で紹介している。QandAで問いと答えを用意しながら、同時に伊達政宗の魅力を描いている。
本書はまた、カラー写真がふんだんに用いられている。それが功を奏しており、とても読みやすい。また、QandAの形式になっていることで、読者はテーマと内容と結論が明確に理解できる。

読みやすい構成になっている本書だが、本書は「秀吉、家康を手玉に取った男「東北の独眼竜」伊達政宗」に比べると学術的に詳しく踏み込んでいる印象を受けた。本書の中には書状が引用され、古図面が載っている。それらは本書に学術の香りを漂わせる。だが、難しいと思われかねない内容もあえて載せていることが本書の特徴だ。そうした配慮には、著者が元仙台市博物館館長という背景もあるはずだ。
また、本書には著者の個人的な意見や思いや推論はあまり登場しない。「秀吉、家康を手玉に取った男「東北の独眼竜」伊達政宗」には、伊達政宗は天下への野心をどれだけ持っていたかという著者の推論が載っていた。それに比べると、本書の編集方針はより明確だ。

第3章「趣味・教養・その他編」は、戦国時代でも有数の傾奇者だったとされる伊達政宗の文化的な側面に焦点を当てている。
その教養は、幼い時期に師として薫陶を受けた虎哉宗乙からの教えの影響が大きい。だが、戦国の殺伐とした日々の合間を縫って伊達政宗自身が精進した結果でもあると思う。
伊達政宗がそのように自己研鑽を欠かさなかったのも、みちのおく(陸奥)と呼ばれた地に脈々と受け継がれた伊達家の歴史が積み上げた文化や環境の影響があったに違いない。

文武に励んだからこそ、後世まで語り継がれる武将となったこと。
培った素養が伊達政宗の生涯にぶち当たったさまざまな苦難を乗り越える助けになったことも。

武だけで戦国の世は生き抜けない。機転も利かせなければ。それでこそ人間の真価が問われる。機転を利かせるには豊富な前例を知っていたほうがよいことは言うまでもない。
戦国はまた、外交の腕も試される時代だ。外交には交渉や駆け引きの能力が必要。時には故事を引用した文も取り交わされる。
文を受けたとき、とっさに適切な故事を交えた文を返せなければ恥をかく。極端な例では、それがもとで国を喪うことだってある。武将といえども教養が求められるのだ。
この章はそうした教養を備えた武将であった伊達政宗の姿を描いている。

特に筆まめな武将であったとされる伊達政宗の一面を紹介する際は、コミュニケーションに長けていた姿が強調されている。
おそらくコミュニケーションに長けた能力は、伊達家の内政と外交を巧みにさばいていくにあたって大いに助けになったはずだ。

本書を読んで感じた気づき。それは、戦国武将が戦国の世を生き抜くのに最も必要な能力とは対人折衝能力ではないかということだ。
知力や武力といった分かりやすい能力よりも、部下を慰撫して忠誠心を集め、他国の武将と交流してその表裏を見極める能力。それこそが戦国の世にあって最も大切だったのではないか。これは大名や武将だけでなく、農民や商人や僧も含めての話だ。

ただ、歴史上の人物を評する上で対人折衝能力はあまり取り上げられないようだ。
信長の野望などのシミュレーションゲームにおいては、戦国武将を能力値で評価する。
例えば「信長の野望 創造」の場合、武将のパラメーターは「統率」「武勇」「知略」「政治」「主義」「士道」「必要忠誠」が用意されている。
もちろん統率や政治に対人折衝能力が必要なことは言うまでもない。対人折衝能力の総体が統率や政治としてあらわれるのだから。
だが、対人折衝能力だけを抽出しても、戦国武将のパラメーターとしては成り立つように思うがいかがか。

伊達政宗の場合、もちろん知力や武力が人より抜きんでていたことは間違いない。
だが、本書を読んで伊達政宗の生涯を振り返ってみると、戦場で圧倒的な武力を見せつけたような印象は受けない。また味方をも欺く剃刀のような智謀を発揮した形跡も見えない。
そのかわり、人と交渉することで死地を切り抜け、部下から信望を受け、領国を統治してきた繰り返しが伊達政宗の生涯には感じられる。

なぜそう思えたのか。それは今、私自身が会社を経営しているからだ。
社長とは一国一城の主。弊社のような零細企業であっても主には違いない。
経営してみると分かるが、社長には知力や武力は必要ない。むしろ人とのコミュニケーション能力こそが重要。他社や自社、協力社との対人折衝能力。それこそが社長のスキルであることが分かってきた。

その視点から本書を読むと、実は伊達政宗とはコミュニケーションに長けた武将であることに気づく。また、その能力に秀でていたからこそ苛烈な戦国の世を生き抜き、最後は御三家をも上回る待遇を得たのだ。
言うまでもないが、コミュニケーション能力とは阿諛追従のことではない。実力がないのに人との交流を対等にこなせるわけがない。人と対するには、裏側に確かな武術の素養と文化への教養を備えていなければ。
私も伊達政宗の達した高みを目指そう。そう思った。

‘2020/01/16-2020/01/18


秀吉、家康を手玉に取った男 「東北の独眼竜」伊達政宗


福島県お試しテレワークツアーに参加し、猪苗代と会津を訪れた。
猪苗代は磐梯山の麓に広がる。そこは、摺上原の戦いの行われた地。
その戦いで伊達政宗は蘆名氏を破り、会津の地を得た。

本書を読んだのは、摺上原の近くを訪れるにあたり、その背景を知っておこうと思ったからだ。
戦いのことを知っておくには、戦いの当事者も理解しておきたい。とくに、その戦いで勝者となった伊達政宗についてはもっとよく知る必要がある。そもそも伊達政宗の生涯については戦国ファンとしてより詳しくなっておきたい。
そんな動機で本書を手に取った。

政宗は、本書の帯にも書かれている通り、戦国武将の中でも屈指の人気を誇っている。

その生涯は劇的なエピソードに満ちている。単に自己顕示に長けているだけの武将かといえば、そうではない。中身も備わった武将との印象が強い。
晩年まで天下を狙える実力も野心も備えながら、とうとう時の運に恵まれずに仙台の一大名として終わった人物。後世の私たちは伊達政宗に対してそのような印象を持っているのではないか。

悲運に振り回されながら、実力もピカイチ。そんな二面性が人々を魅了するのだろう。
そんな伊達政宗が若き日に雄飛するきっかけとなったのが人取橋の戦いと摺上原の戦いである。

本書では、それらの戦いにも触れている。だが、それは本書全体の中ではごく一部にすぎない。
むしろ本書は、伊達政宗の生涯と人物を多面から光を当て、その人物像を多様な角度から立体的に浮き上がらせることに専心している。

1章「政宗の魅力〜数々の名シーン〜」では生涯を彩ったさまざまな劇的な出来事だけを取り上げている。それは以下のような内容だ。
疱瘡を煩った政宗の右目をくりぬいた片倉小十郎とのエピソード。
父輝宗が拉致され、それを助けようとしたがはたせず、敵もろとも父を撃ち倒した件。
そして圧倒的に不利な条件から、南奥州の覇を打ち立てた戦いの数々。
実の母から毒殺されかかったことで弟に死を命じ、母を二十年以上も実家に追放した一件。
小田原戦に遅参し、死を覚悟した死に装束を身にまとって豊臣秀吉の前に参じた件。
大崎一揆の黒幕と疑われ、花押の違いを言い訳にして逃れた件。
支倉常長をヨーロッパに派遣し、徳川家の覇権が定まりつつある中でも野心を隠さずにいた後半生。

どの挿話も伊達政宗が一生を濃密に生きた証しであるはずだ。これらの挿話から、現代人にとって伊達政宗が憧れの対象となるのもよくわかる。

続いて本書は派手な面だけでない伊達政宗の一生を追ってゆく。伊達政宗は堅実な一面も兼ね備えていた。伊達という言葉から連想される外見だけの一生ではなかったことがわかる。
2章「政宗の野望」ではそうした部分が活写される。

また、伊達政宗は短歌や連歌をたしなみ、風流人としての一面も持っていた。
晩年、最後に江戸へ参勤交代で参る際には鳥の初音を聞きに仙台の山を訪ね歩いたという。また、伊達政宗は筆まめで手紙をよくしたともいう。そうした武張っただけではない文化人としての一面も紹介する。
3章「政宗のすごさに迫る!」では、そうした伊達政宗の別の面も紹介する。

伊達政宗は家臣にも恵まれていた。文武両面で伊達政宗を支えた人々の列伝が4章「政宗を支えた家臣たち」だ。

続いては5章「伊達氏の歴史と名当主たち」で伊達家に連綿と伝えられた伝統を語る。
そもそも伊達政宗という人物は一人ではない。私たちがよく知る伊達政宗は二代目。一代目の伊達政宗は九代目当主にあたる。室町時代に活躍し、伊達家を雄飛させた明主であり、十七代伊達政宗はその先祖にあやかって名付けられたという。
塵芥集を編んだ伊達稙宗や父の伊達輝宗の事績もきちんと紹介されている。そうした伝統の積み重ねがあってこそ伊達政宗が形作られたことを書いている。

本書が良いのは、見開き二ページを一つの項目としている本書において、項目ごとに内容を図示して読者の理解を深めようとしてくれている点だ。
それによって単なる文の羅列だけでは理解しにくい伊達政宗の人物の魅力がさまざまな角度から伝わってくる。

著者は歴史ライターだそうだ。そして、おそらくそれ以上に伊達政宗ファンに違いない。
ファンである以上、歴史のロマンも持っているはずだ。例えば、伊達政宗が持っていた野心とはどの程度のものだったのか、という問いとして。
歴史/政宗ファンがみた伊達政宗の魅力の一つは、十分な実力と人望を持ちながら生まれる時代が遅かったため、ついに天下を取れなかったという悲劇性にある。
そのため、ファンは勝手にこう望んでしまう。伊達政宗には死ぬまで天下への野心を持っていてほしい、と。

伊達政宗の生涯は華やかだったが、一方では実力を持っている故の葛藤と妥協の連続だったはずだ。
仮に天下への野望を抱いたとして、それはいつ頃からだったのか。そして、その野望はいつまで現実的な目標として抱き続けていたのだろうか。

著者はその仮説を6章「『独眼竜』政宗の野心を検証する」と題した章で開陳する。
さまざまな想像と史実を比べつつ、読者の前に仮説として提示してくれている。だが、著者はファンでありながらも野心については案外冷静に観察しているようだ。
畿内だろうが地方だろうが関係はなく、戦国大名は領国の統治と周囲の大名との関係に気を回すだけで精一杯なのが普通。織田信長こそがむしろ当時にあって異常だったと指摘する。
そこから著者が導いた伊達政宗の具体的な天下への野心を持ち始めた時期は、天下の帰趨が定まった奥州仕置きのあとの時代だと著者は考える。

その野心とは、以下の事績にも表れている。支倉常長をローマに派遣し、改易された松平忠輝に娘の五郎八姫を嫁がせ、大久保長安事件に関連した謀反の黒幕と目されたこと。
どれもが伊達政宗の天下への野心に関連していると著者はみる。だが、本格的な行動を起こすほど伊達政宗に分別はなかったと書いていない。
ここは歴史の愛好家が好きずきに想像すればよいのだろう。

私も猪苗代や会津を訪れた際、伊達政宗が駆けた戦国の残り香は感じられなかった。だが、摺上原の戦いの詳細が本書から詳しく学べなかったとしても、伊達政宗の魅力には触れられた。それが本書を読んだ成果だ。

‘2020/01/14-2020/01/15


島津は屈せず


本書を読んだときと本稿を書く今では、一年と二カ月の期間を挟んでいる。
その間に、私にとって島津氏に対する興味の度合いが大きく違った。
はじめに本書を読んだとき、私にとっての島津家とは、関ヶ原の戦いで見事な退却戦を遂行したことへの興味が多くを占めていた。
当ブログを始めた当初にもこの本のブログをアップしている。
それ以外には幕末の史跡を除くと、島津家の戦跡には行く機会がないままだった。

だが、それから一年以上の時をへて、私が島津家に興味を抱くきっかけが多々あった。九州に仕事で行く機会が二度あったからだ。
訪問したお客様が歴史がお好きで、立花道雪、高橋紹運、立花宗茂のファンであり、歴史談義に興じる機会があった。
また、出張の合間に大分の島津軍と豊臣・大友軍が激闘を繰り広げた戸次河原の合戦場にも訪れることもできた。

本書は、その戸次河原合戦からさらに数年下った、島津軍が大友・豊臣軍に敗れた根城坂の合戦の後から始まる。

根城坂の敗戦は局地の敗戦に過ぎず、豊臣家に膝を屈することはない、と徹底抗戦をとなえる義珍あらため、義弘。その反対に、藩主の立場から他の家臣の意見を聞き、現実的な判断を下そうとする義久。
当時の島津家を率いる二人の武将の考えには、現実と理想に対する点で違いがある。

ただ義弘は、自らの考えを兄の地位を奪ってまで成し遂げようとはしない。あくまでも兄を立てる。そして、統治は兄に任せ、自らは武において与えられた役割を全うしようとする。
本書は、義久ではなく、義弘を主人公とし、安土桃山から江戸に至るまでの激動の時代を乗り切った島津家の物語である。

豊臣家の傘下に組み込まれ、太閤検地を乗り切った後は、朝鮮への出陣でが始まる。
秀吉の野望に付き合わされた島津家も半島へと渡り、そこで鬼石蔓子と敵兵から呼ばれるほどの戦闘力を発揮し、大戦果を上げる。
大義が見えない戦いであっても、一度膝を屈した主君の命とあらば抗えないのが戦国の世の習い。その辺りの葛藤を抱えながらも、武の本分を発揮する義弘。

日本に戻ってからも領内で内乱が起き、島津家になかなか落ち着きが見えない。
そうしているうちに、秀吉の死後の権力争いは、島津家に次の試練を与える。
日本が東軍と西軍に割れた関ヶ原の戦いだ。
各大名家がさまざまな思惑に沿って行動する中、遠方の島津家は行動する意味もなく、藩主の義久は静観の構えを崩さない。内乱で疲弊した領内をまとめることを優先し。
だが、義弘はわずかな手勢を連れて東上しし、東軍へ馳せ参じようとする。
ところが、時勢は島津家をさらに複雑な立場に追いやる。
東軍に参加しようと訪れた伏見城で、連絡の不行き届きと誤解から、東軍の鳥居本忠から追い出されてしまう。

それによって西軍へと旗色を変えた義弘主従。
ところが、西軍の軍勢は兵の数こそ多いが、その内情はまとまっているとは言いがたく、義弘も本戦では静観に徹する。

関ヶ原の戦いは、布陣だけを見れば西軍が有利であり、西軍が負ける事はあり得ないはずだった。
ところが、西軍の名だたる将のうち、実際に戦った隊はわずか。
島津軍もそう。

私も三回、関ヶ原の古戦場を巡った。そして、武将たちの遺風が残っているようなさまざまな陣を見て回った。
島津軍の陣地は、林の中に隠れたような場所だった。だが、激戦地からはそう離れていない場所であり、当日は騒がしかったことと思う。
そんな中、微妙な立場に置かれた義弘は何を感じていたのか。
島津家が一枚岩で五千の軍勢を引き連れていれば、島津家だけでも西軍を勝利に導けたものを。

本書では、義弘の心中や家臣たちの様子を描く。
夜襲を提案しても、戦に慣れていない大将の石田治部は体面を前に立てられはねつけられる始末。
義弘の心中は本書にも描かれている。

そして、小笠原秀秋の寝返りから一気に変わった戦局と、その中で刻々と変わるあたりの様子の中、徳川家に島津の武威を見せつけようとする。
そして、美濃から薩摩へと戦史に残る遠距離の退却戦に突入する。

義弘主従は、大阪で人質の太守の家族を救い、薩摩に帰り着くことに成功する。
しかも、強硬な意思を貫き、本領の安堵を勝ち取ることに成功する。

関ヶ原の戦いで西軍に与し、本領の安堵を勝ち取った大名は、全国を見渡してもほぼいない。ましてや、関ヶ原の本戦に西軍として参加した大名に限れば、島津氏が唯一と言っても良い。

本書では家康が悔いる様子が描かれる。毛利と島津をそのままにしておくことが将来の徳川家の災いになるのではないかと。

著者は、本書の姉妹編として「毛利は残った」と言う小説を出している。

毛利家と島津家。ともに、関ヶ原の合戦によって敗戦側となった。
そして関ヶ原の合戦から260年の後に、ついに政権から徳川家を追いやった時もこの二家が中心となった。

戦国の過酷な世を勝ち続け、徳川家にも勝てる自信を持ちながら、戦国の世の義理の中でと主家を立て通した義弘。

その無念は、島津家に安穏とは無縁の家風を養わせた。260年の間、平和に慣れて保身に汲々とするのではなく、国を富ませ、鍛錬を怠らない。
そのたゆまぬ努力がついに徳川家に一矢を報いさせた。

本書は、その原動力となった挫折と雌伏を描いている。
本書を読むと、人の人生など短く思える。
私は島津家の尚武の気風を学ぶためにも、また機会を見て薩摩軍の戦跡を訪れたいと思っている。今、九州にご縁ができ、私の中で島津家への興味が増した今だからこそ。

‘2019/7/26-2019/7/29


戦国大名北条氏 -合戦・外交・領国支配の実像


本書は手に入れた経緯がはっきりと思い出せる一冊だ。買った場所も思い出せるし、2015/1/31の昼はどこに行き、どういう行動をとったかも思い出せる。

その日、友人に誘われて小田原で開かれた嚶鳴フォーラムに参加した。
小田原といえば二宮尊徳翁がよく知られている。だが、二宮尊徳翁と同じ江戸期に活躍し、今に名を残す賢人たちは各地にいる。例えば上杉鷹山や細井平洲など。
そうした地域が産んだ賢人を顕彰しあい、勉強しあうのが嚶鳴フォーラムだ。

嚶鳴フォーラムが始まる前、私と友人は小田原城を訪れた。
というのも、フォーラムでは城下町としての小田原が整備されるにあたり、北条氏が果たした役割を振り返る講演があったためだ。講師である作家の伊東潤氏は、北条氏の五代の当主がなした治世を振り返り、その治が善政であったことを強調しておられた。

フォーラムで刺激を受けた帰り、小田原の観光案内所に立ち寄った。
そこで出会ったのが武将の出で立ちに身を包んだ男性。その方は学生で、その合間を縫って観光ガイドを勤めてらした。そしてとても歴史に造詣が深い方だった。
小田原に住み、北条氏を熱く語るその方からは、小田原における北条氏がどのようにとらえられているかを学ぶことができた。彼の熱い思いはわたしにもたくさん伝わったし、私の思う以上に小田原には北条氏の存在が強く刻まれていることも感じられた。
その彼の熱意に打たれ、案内所で購入したのが本書だ。

兵庫の西宮で育った私にとって、地元が誇る大名への思いをストレートに語れる彼はある意味でうらやましい。というのも、西宮に武将の影は薄いからだ。
西宮戎神社を擁する門前町であったためか、江戸時代の大部分を通して西宮は幕府の天領だった。
戸田氏や青山氏が一時期、西宮を領有したこともあったらしいし、さらにその前には池田氏や瓦林氏が統治していた時期もあったようだ。
だが、西宮で育った私には故郷の武将で思い浮かぶ人物はいない。

今、私は町田に20年近く住んでいる。そして、故郷にはいなかった武将の面影を求め、ここ数年、北条氏や小山田氏にゆかりのある地を訪れている。小机城や玉縄城、滝山城、関宿城など。もちろん小田原城や山中城も。
そうした城は今もよく遺構を伝えている。それはおそらく、北条氏が滅亡した後、関東を治めた徳川家が領民を慰撫するために北条氏の遺徳を否定しなかったためだろう。

嚶鳴フォーラムをきっかけとした今回の小田原訪問により、私は北条家の統治についてより強い関心を抱いた。

ところが、本書はなかなか読む機会がなかった。
購入した二年半後には次女と二人で小田原城を登り、博物館で北条家の治世に再び触れたというのに。
本書を手に取ったのは、それからさらに一年四カ月もたってから。
結局、買ってから三年半も積んだままに放置してしまった。

さて、本書は北条氏五代の治世を概観している。
初代早雲から、氏綱、氏康、氏政、氏直と続き、秀吉の小田原攻めで滅亡するまでの百年が描かれている。百年の歴史は、過酷な戦国時代を大名が生き延び、勢力を伸ばそうとする努力そのものだ。

関東に住んでいると、関東平野の広大さが体感できる。
広大な土地に点在する城を一つ一つ切り崩してゆきながら、領内の民衆を統治するために内政にも力を注ぐ北条家。その一方で武田家、上杉家、真田家、結城家、佐竹家、里見家と小競り合いを続け、少しずつ領土を広げていった。
その百年の統治は困難で安易には捨てられない努力がなくては語れないはず。だからこそ、北条氏は容易に秀吉の足下に屈しようとしなかったのだろう。その気持ちも理解できる。

歴史が好きな向きには、北条家が関東で成した合戦がいくつか思い浮かぶだろう。
小田原城奪取、八王子城攻防戦、河越夜戦、二回にわたって繰り広げられた国分台合戦など。
「のぼうの城」で知られる忍城の水攻めも忘れてはならないし、滝山城から多摩川を見下ろしながら、攻め寄せる上杉謙信の残像に思いをはせるのも良い。信玄の旗が掛けられた松の跡から見る三増峠の戦場も趣がある。落城間近の小田原城に思いを漂わせながら、秀吉の一夜城を想像すると時間はすぐに過ぎてゆく。
だが、本書は物語ではない。なのでそうした合戦をドラマティックに書くことはない。むしろ学術的な立ち位置を失わぬようにコンパクトな著述を心がけている。

ただ、史実を時系列に描くだけでは読者が退屈してしまう。そこで本書は、全五章の中で北条氏と周辺の大名との関係を軸に進める。

第一章は「北条早雲・氏綱の相模国平定」として基礎作りの時期を描いている。
今川氏の家臣の立場から伊豆を攻めとり、そこから相模へと侵攻して行く流れ。大森氏から小田原城を奪取し、小田原を拠点に三浦氏との抗争の果て、相模を統一するまでの日々や、武蔵への勢力拡張に進むまでを。

第二章では「北条氏康と上杉謙信」として両上杉氏の抗争の中、関東管領に就いた上杉謙信が数たび関東へ来襲し、それに対抗した北条氏康の統治が描かれる。
北条氏の関東支配はいく度も危機にさらされている。が、滝山城の攻防や小田原城包囲など上杉謙信が関東を蹂躙したこの時期がもっとも危機に瀕していたといえる。

第三章では「北条氏政と武田信玄」として武田信玄が小田原城を攻めた時期を取り上げている。
上杉謙信もいくどか関東への出兵を企てていたこの時期。北条家がもっとも戦に明け暮れた時期だといえる。農民からも徴兵しなければならないほどに。その分、内政にも力を入れた時期だと思われる。そして今川家、上杉家、武田家とは何度も同盟を結んでは破棄する外交の繰り返し。

第四章では「北条氏直と徳川家康・豊臣秀吉」として天下の大勢が定まりつつあった中、関東の雄として存在感を見せていた北条家に圧迫が加えられていく様子が描かれる。
名胡桃城をめぐる真田昌幸との抗争や、佐竹・結城氏との闘い。天下をほぼ手中におさめた豊臣秀吉にとって、落ち着く様子がない関東平野は目立っていたに違いない。何らかの手段で統治せねばならないことや、そのためにはその地を治める北条家と一戦を交えなければならないことも。

終章は「小田原合戦への道」と籠城を選択した北条氏が圧倒的な豊臣連合軍の前に降伏していくさまが描かれる。
敗戦の結果、氏政は切腹、氏直は高野山へ追放されるなど、各地に散り散りとなった北条家。
北条家を滅亡に追いやった小田原合戦こそ、戦国の最後を締めくくる戦いと呼んでもいいのではないか。
もちろん、戦国時代は大坂の役をもって終焉したことに異論はない。ただ、全国統一という道にあっては、小田原の戦いが一つの大きな道程になったことは間違いないと考えている。

小田原の戦いで敗れたことで関東の盟主が徳川家に移った。それなのに小田原においては徳川の名を聞くことはない。
400年たった今も、小田原の人々は北条家の統治に懐かしさを覚えているかのようだ。よほど優れた内政が行われていたのだろう。
この度、小田原の人々から北条家についての思いを伺ったことで、私は北条家の各城を巡ってみようとの思いを強くした。
もちろん本書を携えて。

‘2018/11/10-2018/11/12


戦国姫物語 城を支えた女たち


ここ数年、城を攻める趣味が復活している。若い頃はよく各地の城を訪れていた私。だが、上京してからは家庭や仕事のことで手一杯。城巡りを含め、個人的な趣味に使う時間はとれなかった。ここにきて、そうした趣味が復活しつつある。それも誘ってくれた友人たちのおかげだ。

20代の前半に城を訪れていた頃は、有名な城や古戦場を訪れることが多かった。だが、最近は比較的マイナーな城を訪れている。なぜかといえば、名城の多くは明治に取り壊され、江戸時代の姿をとどめていないことが多いからだ。そうした城の多くは復元されたもので、残念ながらどこかに人工的な印象を受ける。私は今、そうした再建された広壮な城よりも、当時の姿を朽ちるがままに見せてくれる城に惹かれている。中でも山城は、山登りを好むようになった最近の私にとって、城と山の両方をいっぺんに達成できる魅力がある。

城を訪れる時、ただ城を眺めるだけではもったいない。城の歴史や、城を舞台に生きた人々の営みを知るとさらに楽しみは増す。特に人々が残した挿話は、人が活動した場所である以上、何かが残されている。もちろん、今に伝わる挿話の多くは有名な城にまつわるものだ。有名な城は規模も大きく、大勢の人が生活の場としていた。そこにはそれぞれの人生や葛藤が数知れずあるはず。だが、挿話が多いため、一つ一つに集中しにくい。印象も残りにくい。だが、埋もれつつある古城や、こぢんまりとした古城には人もあまりいなかったため、そうした地に残された挿話には濃密な情念が宿っているように思えるのだ。

その事を感じたのは、諏訪にある上原城を訪れた時のことだ。先に挙げた友人たちと訪れたこの城は、諏訪氏と武田氏の戦いにおいて重要な役割を担った。また、ここは諏訪御料人にゆかりのある城だ。諏訪御料人は、滅ぼされた諏訪氏の出で、一族の仇敵であるはずの武田信玄の側室となり、のちに武田家を継ぐ勝頼を生んだ女性だ。自らの父を破った信玄に身を任せたその心境はいかばかりか。戦国の世の定めとして、悲憐の運命をたどった諏訪御料人の運命に思いをはせながら、諏訪盆地を見下ろす。そんな感慨にふけられるのも、古城を訪れた者の特権だ。

戦国時代とは武士たちの駆け抜けた時代であり、主役の多くは男だ。だが、女性たちも男たちに劣らず重要な役割を担っている。諏訪御料人のような薄幸の運命を歩んだ女性もいれば、強く人生を全うした女性もいる。本書はそうした女性たちと彼女たちにゆかりの強い60の城を取り上げている。

本書は全七章からなっている。それぞれにテーマを分けているため、読者にとっては読みやすいはずだ。

第一章 信玄と姫
 躑躅ヶ崎館と大井婦人 / 小田原城と黄梅院 / 高遠城と松姫 / 伏見城と菊姫 / 上原城と諏訪御料人 / 新府城と勝頼夫人
第二章 信長と姫
 稲葉山城【岐阜城】と濃姫 / 小牧山城と生駒吉乃 / 近江山上城とお鍋の方 / 安土城と徳姫 / 金沢城と永姫 / 北庄城とお市の方 / 大坂城と淀殿 / 大津城とお初 / 江戸城とお江 / 岩村城とおつやの方 / 坂本城と熙子
第三章 秀吉と姫
 長浜城とおね / 山形城と駒姫 / 小谷城と京極龍子 / 美作勝山城とおふくの方 / 忍城と甲斐姫
第四章 家康と姫
 勝浦城とお万の方 / 岡崎城と築山殿 / 浜松城と阿茶局 / 鳥取城と督姫 / 松本城と松姫 / 姫路城と千姫 / 京都御所と東福門院和子 / 宇土城とおたあジュリア / 江戸城紅葉山御殿と春日局 / 徳島城と氏姫
第五章 九州の姫
 首里城・勝連城と百十踏揚 / 鹿児島城と常盤 / 平戸城と松東院メンシア / 佐賀城と慶誾尼 / 熊本城と伊都 / 鶴崎城と吉岡妙林尼 / 岡城と虎姫 / 柳川城と立花誾千代
第六章 西日本の姫
 松江城と大方殿 / 吉田郡山城と杉の大方 / 三島城と鶴姫 / 岡山城と豪姫 / 常山城と鶴姫 / 三木城と別所長治夫人照子 / 勝龍寺城と細川ガラシャ / 大垣城とおあむ / 彦根城と井伊直虎 / 津城と藤堂高虎夫人久芳院 / 掛川城と千代 / 駿府城【今川館】と寿桂尼
第七章 東日本の姫
 上田城と小松殿 / 越前府中城とまつ / 金山城と由良輝子【妙印尼】 / 黒川城【会津若松城】と愛姫 / 仙台城と義姫 / 米沢城と仙洞院 / 浦城と花御前 / 弘前城と阿保良・辰子・満天姫

これらの組み合わせの中で私が知らなかった城や女性はいくつかある。なにしろ、本書に登場する人物は多い。城主となった女性もいれば、合戦に参じて敵に大打撃を与えた女性もいる。戦国の世を生きるため、夫を支えた女性もいれば、長年にわたり国の柱であり続けた女性もいる。本書を読むと、戦国とは決して男だけの時代ではなかったことがわかる。女性もまた、戦国の世に生まれた運命を懸命に生きたはずだ。ただ、文献や石碑、物語として伝えられなかっただけで。全国をまんべんなく紹介された城と女性の物語からは、歴史の本流だけを追うことが戦国時代ではないとの著者の訴えが聞こえてくる。

おそらく全国に残る城が、単なる戦の拠点だけの存在であれば、人々はこうも城に惹かれなかったのではと思う。城には戦の場としてだけの役目以外にも、日々の暮らしを支える場としての役割があった。日々の暮らしには起伏のある情念や思いが繰り返されたことだろう。そして、女性の残した悲しみや幸せもあったはずだ。そうした日々の暮らしを含め、触れれば切れるような緊張感のある日々が、城を舞台に幾重にも重なっているに違いない。だからこそ、人々は戦国時代にロマンや物語を見いだすのだろう。

むしろ、本書から読み取れることは、戦国時代の女性とは、男性よりもはるかにまちまちで多様な生き方をしていたのではないか、ということだ。男が戦や政治や学問や農商業のどれかに従事していた以上に、女はそれらに加えて育児や夫の手助けや世継ぎの教育も担っていた。結局のところ、いつの世も女性が強いということか。

私が個人的に訪れたことのある城は、この中で25城しかない。だが、最近訪れ、しかも強い印象を受けた城が本書には取り上げられている。例えば勝連城や忍城など。まだ訪れていない城も、本書から受けた印象以上に、感銘をうけることだろう。本書をきっかけに、さらに城巡りに拍車がかかればよいと思っている。まだまだ訪れるべき世界の城は多いのだから。

‘2018/09/25-2018/09/25


列島縦断 「幻の名城」を訪ねて


本書を読む二カ月前、家族で沖縄を旅した。その思い出は楽しさに満ちている。最終日に登城した勝連城跡もその一つ。勝連城跡の雄大な石垣と縄張り。そして変幻自在にくねっては一つの図形を形作る曲輪。勝連城跡は私に城巡りの楽しさを思い出させた。

それまで沖縄のグスクに対して私が持っていた印象とは、二十年前に訪れた首里城から受けたものだけだった。首里城は沖縄戦で破壊され、私が訪れる四年ほど前に復元されたばかり。そのまぶしいまでの朱色は、かえって私から城の印象を奪ってしまった。

今回の旅でも当初は首里城を訪れる予定だった。が、私自身、上に書いたような印象もあって首里城にはそれほど食指が動かなかった。そうしたところ、お会いした沖縄にお住いの方々から海中道路を勧められた。それで予定を変更し、首里城ではなく海中道路から平安座島と伊計島を訪れた。前の日には今帰仁城址を訪れる予定もあったが、美ら海水族館で多くの時間を時間を過ごしたのでパス。なので、本来ならば今回の沖縄旅行では、どのグスクにも寄らずじまいのはずだった。ところが、海中道路からの帰りに勝連城跡が近いことに気づき、急遽寄ることにした。正直、あまり期待していなかったが。

ところが勝連城は私の期待をはるかに上回っていた。ふもとから仰ぎ見る見事な威容。登り切った本丸跡から眺める海中道路の景色。何という素晴らしい城だろう。かつて阿麻和利が打ち立てた勢いのほとばしりを数百年のちの今も雄弁に語っている。阿麻和利は琉球史でも屈指の人物として知られる。南山、中山、北山の三山が割拠した琉球の歴史。その戦乱の息吹を知り、今に伝えるのが勝連城跡。城とは、歴史の生き証人なのだ。

お城とは歴史の爪痕。そして兵どもの戦いの場。確かに、イミテーション天守は戴けない。コンクリートで復元された天守も興を削ぐ。その感情がわき起こることは否めない。だが、例え天守がイミテーションや復元であっても、天守台や二の廓、三の廓に立ち、二の丸、三の丸の石垣を目にするだけでも城主の思いや戦国武士の生きざまは感じられるのではないか。私は勝連城を訪れ、あらためて城の石垣に魅了された。

ここ数年、山中に埋もれた山城の魅力に惹かれていた。だが、石垣で囲われた城にも魅力はある。そう思って本書を手に取った。

本書には有名な城もそうでない城も紹介されている。本書は全部で五十以上の条で成っており、それぞれの条で一つの城が取り上げられている。本書で取り上げられた城の多くに共通するのは、石垣の美しさを今に伝える城であること。著者は石垣マニアに違いあるまい。石垣へ魅せられる著者の温度が文章からおうおうにして漂っている。著者のその思いは、本書にも取り上げられている勝連城を登った私にはよく理解できる。

第一章は「これぞ幻の名城ー石垣と土塁が語る戦いと栄華の址」と題されている。ここで扱われている城の多くに天守は残されていない。西日本編として安土城、近江坂本城、小谷城、一乗谷館、信貴山城、大和郡山城、竹田城。東日本編として春日山城、躑躅ヶ崎館、新府城、興国寺城、石垣山城、小田原城、金山城、箕輪城、高遠城、九戸城が登場する。この中で私が訪れたことがあるのは、安土城、一乗谷館、大和郡山城、躑躅ヶ崎館、小田原城だけしかない。他はどれも行ったことがなく、旅情を誘う。各城を紹介する著者の筆致は簡潔で、歴史の中でその城が脚光を浴びたエピソードを描く程度。だが、訪問したいという思いに駆られる。ここに登場する城には土塁や石垣がはっきり残っているところが多い。その多くは戦いのための機能のみならず、統治用の縄張りも兼ねている。つまり軍略と統治の両面を考えられた城がこの章では取り上げられている。そうした観点で見る城もなかなかに魅了させてくれる。

第二章は「大東京で探す「幻の名城」」と題されている。江戸城、平塚(豊島城)、石神井城、練馬城、渋谷城と金王八幡宮、世田谷城と豪徳寺、奥沢城と九品仏浄真寺、深大寺城と深大寺、滝山城、八王子城だ。この中で全域をめぐったといえる城は滝山城だけ。世田谷城も江戸城も深大寺城も奥沢城も渋谷城も城域とされる地域は歩いたが、とてもすべてをめぐったとは言えない。そもそも遺構があまり残されていないのだから。だが、東京に暮らしているのなら、これらの城はまだめぐる価値があると著者はいう。本書を読んで数日後、皇居の東御苑に行く機会があったが、折あしく立ち入れなかったのは残念。また訪れてみたいと思っている。また、この章では最後には桜が美しい城址公園を紹介してくれている。弘前公園、松前公園、高遠城址公園、津山城鶴山公園、名護城址公園の五カ所だ。津山以外はどこも未訪で、津山に訪れたのは三十年以上前のことなのでほとんど覚えていない。ぜひ行きたい。

第三章は「櫓や石垣、堀の向こうに在りし日の雄姿が浮かぶ」と題されている。金沢城、上田城、福岡城、津和野城、女城主井伊直虎ゆかりの城、井伊谷城、松岡城が採り上げられている。金沢と福岡しか行ったことがないが、いずれも石垣が印象に残る城だと思う。直虎を取り上げているが、それは本書の出された時期に放映中の大河ドラマに便乗した編集者のごり押しだろう。だが、一度は訪れてみたいと思っている。ここの章に挿入されたコラムでは、荒城の月の舞台はどこかについて、五カ所の候補とされる城が紹介されている。仙台(青葉)城、九戸(福岡)城、会津若松(鶴ヶ城)城、岡城、富山城だ。九戸と岡はまだ行ったことがない。ぜひ訪れたい。

第四章は「再建、再興された天守や館に往時を偲ぶ」と題されている。この章で採り上げられた城はどれも復興天守だ。五稜郭、会津若松城、松前城、伏見城、忍城。この中では松前城だけ行ったことがない。本章の最後にはなぜ復興天守は作られるのか、というコラムで著者の分析が収められている。著者が説くのは、観光資源としての城をどう考えるのかという視点だ。その視点から復興天守を考えた時、違う見え方が現れる。私は、復興天守だから一概に悪いとは思っていない。どの城も堀や縄張りは往時をよく残しており、天守だけが廃されている。だからこそ天守を復興させ、最後の点睛を戻したいという地元の人の気持ちもわかるのだ。なお、伏見城は歴史考証を無視したイミテーション天守だが、伏見の山腹に見える天守を見ると関西に帰省した私は心が安らぐのもまた事実。すべての復興天守を批難するのもどうかと思う。

第五章は「古城の風格をいまに伝える名城」として弘前城、丸岡城、備中松山城を取り上げている。丸岡城は母の実家のすぐ近くなので訪れたことがあるが、それもだいぶ前。もう一度訪れてみたいと思っている。ここで採り上げられたどの城も現存十二天守に含まれている。なお、本書のまえがきにも記されているが、現存十二天守とは江戸時代以前に築かれた天守で、今に残されている天守を指す。松本城、犬山城、彦根城、姫路城、松江城が国宝。重要文化財は弘前城、丸岡城、備中松山城、丸亀城、松山城、宇和島城、高知城だ。なぜか前書きからは松山城が抜けているが。私はこの中で弘前城、備中松山城、丸亀城、宇和島城だけ登っていないが、残りは全て天守を登っている。どの天守も登る度に感慨を豊かにしてくれる。

第六章は「北の砦チャシ、南の城グスクの歴史」だ。アイヌにとっての砦チャシ、シベチャリシャシ、ヲンネモトチャシ、首里城、今帰仁城、中城城、座喜味城、勝連城が取り上げられている。本章を読んで、私が北海道のチャシを訪れたことがない事に気付いた。三回も北海道を一周したにもかかわらずだ。いまだに五稜郭しか行ったことがない。これはいかんと思った。そして沖縄だ。まだ訪れていない今帰仁城や中城城、座喜味城にも勝連城を訪れた時のような感動が待っているに違いない。そしてこの章の最後に、石垣マニアの著者が力を入れて取り上げる、石垣が美しい城ベスト5が紹介されている。会津若松城(鶴ヶ城)、金沢城、伊賀上野城、丸亀城、熊本城だ。伊賀上野と金沢は訪れたものの、ずいぶんと前の話。しかも伊賀上野は十年近く前に訪れたが、忍者屋敷に娘たちが見とれていたのを親が見とれていたので、実質は見ていないのと同じだ。石垣だけでも見に行きたい。

最後に巻末資料として、日本の城とは何かという視点で、築城史が紹介されている。また城に関する用語集も載っている。特に虎口や馬出や堀、曲輪、縄張、天主や土塁、石垣などがイラスト付きで載っており、とても分かりやすい。私の生涯の目標として、日本の〇〇百選を制覇することがある。もちろん城もそれに含まれている。城については百名城だけでなく二百名城までは制覇したいと思う。本書を読んだことを機に、城探訪の旅も始めたいと思っている。

‘2018/05/03-2018/05/09


信長の血脈


著者の本を読むのは初めて。だが、ふと思い立って読んでみた。これがとても面白かった。

本書はいわゆる短編集だ。大河が滔々と流れるような戦国の世。その大きなうねりの脇で小さく渦巻く人の営み。そんな戦国の激しくも荒くれる歴史のの中で忘れ去られそうなエピソードをすくい上げ、短編として仕立てている。それが本書だ。

一つ一つは歴史の大筋の中では忘れ去られそうなエピソードかもしれない。だが、戦国史に興味を持つ向きには避けては通れない挿話だ。

例えば平手政秀が織田信長をいさめるため切腹したエピソード。 これなど、織田信長が戦国の覇者へ上り詰めるまでの挿話としてよく取り上げられている。私も歴史に興味を持つ以前から豆知識として知っていた。

一編目の「平手政秀の証」は、まさにそのエピソードが描かれている。しかも新たな視点から。今までの私が知っていた解釈とは、「うつけもの」と言われた織田信長を真人間にもどすために傅役の平手政秀が切腹した、という事実。平手政秀が切腹するに至った動機は、信長が父、織田信秀の葬儀で、祭壇に向かって抹香を投げつけたことにあり、その振る舞いに信長の将来を悲観した平手政秀が織田信長の良心に訴えるために切腹に至った、という解釈だ。その前段で、己の娘濃姫との婚姻に際して織田信長に会った斎藤道三が、信長の器量を見抜いた挿話もある。そう。これらはよく知られた話だ。そして、これらのエピソードにから現れて来るのは分裂した信長像。後年、風雲児として辣腕を振るい、戦国史を信長以前と信長以後に分けるほどに存在感を発揮した信長。いったいどちらの信長像が正しいのか。分裂した信長像を整合するため、平手政秀の諌死によって信長が目を覚ました、との解釈するのが今までの定説だ。

ところが著者の手にかかると、より深いエピソードとして話が広がる。上記のようなよく知られたエピソードも登場する。だが、著者が本書で披露した解釈の方がより自然に思えるのは私だけだろうか。斎藤道三の慧眼から始まり、平手政秀の死をへて、信長の変貌とその後の戦国覇者への飛躍。それらの本編によって綺麗にまとまるのだ。これこそ歴史小説の醍醐味と言えよう。

二編目の「伊吹山薬草譚」も戦国時代のキリスト教の布教と既存宗教の軋轢を描いており、これまた興味深い。現代の伊吹山に西洋由来の薬草が自生している謎に目を付けた著者の着想も大したものだが、そこからこのような物語を練り上げた筆力もたいしたものだ。西洋で荒れ狂った魔女狩りの狂気の波とキリスト教の布教による海外渡航など、当時の西洋が直面していた歴史のうねりを日本の歴史に組み込んだ手腕と、世界のスケールを日本に持ち込んだ大胆さ。ただうならされる。

織田信長がキリシタンを庇護する一方で当時の仏教を苛烈に弾圧したことは有名だ。本編でもその一端が描かれる。伊吹山に薬草を育てる農場を作りたいと願い出たキリシタンの司教に許可を与え、もともとその地を薬草の農園として使っていた寺の領地を一方的に焼き払う許しを与える。焼き払われる寺側は黙ってはいない。さまざまな内情を探りつつ、西洋の侵略に抵抗する。それが本編のあらすじだ。国盗りや合戦が日常茶飯事のできごとであった戦国を、西洋と東洋の摩擦からとらえなおす着眼の良さ。そして植物にも熾烈な領土の取り合いがあったことを、戦国時代の出来事の比喩に仕立てる視点の転換の鮮やかさ。ともに興味深く読める。

三編目の「山三郎の死」は、豊臣秀頼の父が誰かを探る物語だ。史実では豊臣秀吉と淀殿の間の子とされている。だが、当時から秀頼の父は秀吉ではないとの風評が立っていたそうだ。そこに目を付けた著者は、歌舞伎の源流として知られる出雲お国の一座の名古屋山三郎が秀頼の父では、との仮説を立てる。私自身、豊臣秀頼にはかねがね興味を持っていた。大坂の陣で死なず、薩摩に逃れたという説の真偽も含めて。

本編で秀頼の父が山三郎であるとの流言の真偽を探るのは片桐且元。山三郎の身辺調査を片桐且元に依頼したのは、淀君の乳母である大蔵卿局。秀頼に豊臣家の将来を託すには、そのようなうわさの火元を確かめ、必要に応じてうわさの出どころを断ち切っておく。そんな動機だ。片桐且元は探索する。そして出雲お国に会う。さらには名古屋山三郎の眉目秀麗な容姿を確認する。舞台の上で演じられる流麗な踊り。本編にはかぶき踊りの源流が随所に登場する。その流麗な描写には一読の価値がある。かぶきの原点を知る上でも本編は興味深い。

淀君が秀頼を懐妊した当時、朝鮮出兵の前線基地である名護屋にいたはずの秀吉。その秀吉が果たして種を付けられたのか。本編の芯であったはずの謎に答えは示されない。読者の想像の赴くままに、というわけだ。だが、一つだけ本編によって明かされることがある。それは戦国の芸能が殺伐とした中に一瞬の光を見いだす芸能であったことだ。そのきらびやかな光は、当時の庶民の慰めにもなり、うわさの出どころにもなった。秀頼が太閤の子ではないとのウワサ。それはきらびやかな芸能と権力者の間に発生してもおかしくないもの。うわさには原因があったのだ。

四編目の「天草挽歌」は、天草の乱が舞台だ。江戸時代も少しずつ戦国のざわめきを忘れはじめた頃。戦国の世を熱く燃やしていた残り火が消えゆき、徳川体制が着々と築かれていた頃。藩主である寺沢家による苛烈な年貢取り立ては、江戸幕府による支配が生み出した歪みの一つだろう。その取り立てが天草の乱の遠因の一つであったことに疑いはない。そこにキリシタンの禁教の問題もからむので、内政も一筋縄では行かない。

本編は、三宅藤兵衛という中間管理職そのものの人物の視点で進む。三宅藤兵衛は寺沢家の禄を食む武士だ。隠れキリシタンをあぶり出すため、踏み絵を使った各藩の対策はよく知られている。それはもちろん、キリシタンの禁制を国是とした江戸幕府の方針に従うためだ。藤兵衛はキリシタンの取り締まりをつかさどる役職にあった。ところが藤兵衛自身がもとキリシタン。転んで教えを放棄した経歴の持ち主だ。その設定が絶妙だ。かつて自分が信じていたキリスト教を取り締まらねばならない。その葛藤と自己矛盾に悩む様。それは任務に精勤する武士の生きざまにさらなる陰影を与える。

寺沢家の政策の拙さが産んだ現場のきしみ。それはとうとう寺沢家の本家が乗り出し、苛烈な取り締まりをさせるまでに至る。さらに年貢の取り立ても苛烈さの度を増してゆく。そして事態はいよいよ島原の乱に突入していく。もともと、著者は本書において明智左馬助(秀満)を取り上げたかったという。そのような解説が著者自身によってなされている。それで左馬助の子と伝えられる三宅重利藤兵衛を主人公としたようだ。過酷な戦国を生き延びた血脈が、キリストを信じることをやめ、キリストを裁く。その流転こそが起伏に満ちた戦国時代を表しており、妙を得ている。

戦国の大河が滔々と流れる脇で、忘れさられようとする挿話。それらを著者はすくい上げ、光を当てる。著者がその作業の中で伝えようとした事。それは、人々にとって、自らの生きざまこそが大河であるとの事だ。歴史の主役ではないけれど、それぞれが自分の歴史の主役。そして自らの役割を悩みながら懸命に生きた事実。それは尊い。その尊さこそ、著者が本書で描きたかったことではないだろうか。

‘2017/10/25-2017/10/26


悪忍 加藤段蔵無頼伝


著者は戦闘シーンの書き方が抜群にうまいと思う。川中島合戦を描いた『天祐、我にあり』は戦闘シーンのダイナミズムを間近に感じられる力作だった。

本書は戦闘をより個人的な行いとして描いた作品だ。忍。忍とは人目を忍んで仕事をし遂げるのが極意。本書でも忍びの非道な生きざまはしっかりと描かれている。飛び加藤、鳶の加藤といえば、私も名を知っている有名な忍びだ。確か『花の慶次』にも出てきたはず。加藤段蔵が活躍したのは戦国群雄が割拠し、まだ覇者が誰かすらも定まらぬ時期。つまり、織田信長が頭角を現す前の時期だ。

そのような時期だからこそ、伊賀も自由に自治権を行使し、自由で放埓でありながら、生き延びるには厳しい国であることができた。そして、加藤段蔵のように伊賀ですら窮屈なはみ出し者が存分に活躍できたのかもしれない。伊賀に育ちながら伊賀に歯向かい、自由な一匹狼として忍びの世界で悪名をとどろかせる。痛快ではないか。その生きざまには迷いがない。ただ悪を貫くことに徹している。全ては己の人生のため、己が生き抜くため。武でも忍びでも一流ならば、人を惑わす達者な弁舌もだてではない。

加賀一向宗の実顕を相手にし、越後の長尾景虎を相手に堂々と引かず、朝倉の武将、富田景政を通じて朝倉宗滴に取り入り、甲賀の座無左を欺いて己が手下に使い、伊賀の弁天姉妹と怪しく絡みながら、児雷也を手下に術を掛ける。その一方で千賀地服部や雑賀衆、軒轅などの忍びの軍団とも戦う。本書には伝説の忍びともいわれる加藤段蔵の姿が生き生きと描かれている。まさにエンターテインメントとして楽しんで読める一冊だ。

上にも書いた通り、加藤段蔵が活躍したのは、戦国がもっとも戦国だったころだ。その頃を描いた小説を読むことが最近は多い。それは、人物が諸国を自由に往来し、自由に戦えたからだろうか。登場する人物が生き生きと振る舞っているのだ。それに反し、信長が天下布武を宣してからは、クローズアップされるのはトップの大名である武将たち。忍びや武芸者が活動する余地がどんどん狭まってしまう。要は窮屈なのだ。せいぜい、宮本武蔵のような風来坊の武芸者にしか許されない生き方なのだろうか。私は、組織に属することを潔しとしない人間だ。なので、なおさら、加藤段蔵のような一匹狼に心ひかれてしまうのかもしれない。加藤段蔵のような人間がのびのびと活躍できた頃、戦国が割拠していた頃の物語が面白い。

私にそう思わせるほど、加藤段蔵も、周囲の人物も魅力的だ。登場人物のそれぞれがきっちりと書き分けられているし、魅力的に描かれている。著者の筆の冴えだ。忍びの術を駆使しての戦闘シーンは、声や闘気などの擬音を漢字一文字に凝縮する工夫がとても効果を上げている。それが躍動感を与え、展開にスピーディーなリズムを加えている。忍びとはなんと魅惑に満ちた存在か。最近、和田竜氏による『忍びの国』が映画化された。私はその原作を読んだ(レビュー)。多彩な忍びの技が繰り出され、伊賀を縦横に駆け抜ける内容に、忍術の魅力をあらためて知った。忍びを題材にとった小説など講談もので使い古されたと思いきや、まだまだ書きようによっては魅力的な題材ではないか、ということを『忍びの国』から教えられた。だが、忍びの非情さが描けているか、という観点から読むと、本書のほうが『忍びの国』より上回っていたように思う。それは、本書のテンポや文体が、迅速こそ命の忍びに合っているからだと思う。

私は歴史小説を何冊も読んできたし、名作と思えるものにも数多く触れてきた。だが、細部の描写のうまさは著者が一番ではないかと思うぐらい、著者の細部の描写が気に入っている。こればかりは作家が持って生まれたセンスとしか言いようがない。

ただ、後半にいたり、弁天姉妹が登場し、彼女たちが段蔵にちょっかいをかけ始めるあたりから、少々筆が急ぎすぎてしまったような気がしてならない。前半の濃密な展開が素晴らしかっただけに、少しバランスが欠けたのが残念だ。そのあたりから、段蔵の描写からもすごみが消えたような気がするのは私だけだろうか。弁舌の巧みさは、眼光の鋭さと無類の武芸の強さとのバランスがあってこそ。後半はそのバランスが弁舌に傾きすぎていたような気がする。

さらにいうと、本書の終わり方にも少し不満がある。続編の存在を存分に匂わせつつ、物語が唐突とも言えるほどに終わるからだ。果たして最初から続編を見越して書かれていたのかどうか。それは私にはわからない。本書から6年後に『修羅 = El diablo de la lucha 加藤段蔵無頼伝』が発行されており、本書の続編が書かれたのは確か。ただ、それならばもう少し本書の終わらせ方にも工夫があってもよかったはず。細部の描写が優れているだけに、全体の構成がチグハグだったのが惜しい。著者の他の作品もそう。構成がアンバランスなのだ。

そうした不満はあれど、本書の細部には神が宿っている。この描写の妙を楽しむためにも、続編はぜひ手に取ってみるつもりだ。たとえ構成のバランスが崩れていたとしても、細部の描写で私を魅了させてくれるに違いない。そして私を忍びの世界へといざなってくれるはずだ。

‘2017/10/2-2017/10/4


吹けよ風呼べよ嵐


川中島にいまだ訪れたことがない私。それなのに、川中島の戦いを描いた小説を読む経験だけは徐々に積んでいる。そして合戦シーンに血をたぎらせては、早く訪問したいと気をはやらせている。そんな最近だ。友人が貸してくれた本書もまた、私の心を川中島に向かわせようとする。

だが本書の中において、川中島の戦いが描かれるシーンはほんのわずかしかない。386ページある本書の終盤、多めに数えてもせいぜい60ぺージほど。では、あとのページは何の描写に費やしているのか。それは、村上義清軍の戦いを追うことで費やしている。本書は上田原の戦いから始まる。上田原の戦いといえば、村上義清と武田晴信によってなされた信濃の覇権をめぐる一連の戦いでも初期に行われた合戦だ。上田原の戦いで武田軍の侵攻を退けた村上軍は、続けて武田軍に後世、砥石崩れと称される程の痛手を負わせる。北信濃に村上義清あり、と高らかに謳うかのような戦い。本書の主人公である須田満親は、従兄でかつ刎頸の友である信正とそれらの戦いを間近にみていた。

だが、村上義清がいくら北信濃で武名を高めようとも、勢力としては信濃の一地域を治めるだけの存在にすぎない。そもそも、信濃とは諸豪族が割拠する地。戦後史においては、信濃における二大勢力として小笠原長時と村上義清の両雄が並び称されていた。だがそれぞれは勢力として小粒。それゆえ、甲斐から侵略を進める武田軍に徐々に突き崩されてゆく。しかも武田軍は武で成果がなければ調略を試すなど、柔軟かつ老練な攻め手を繰り出してくる。硬軟取り混ぜた武田軍の攻撃に徐々に勢力を削られてゆく村上軍。その調略の先は、信正の親である須田信頼にも伸びる。その結果、須田信頼と信正親子は武田軍にくみする。つまり、須田満親と信正は敵味方となってしまうのだ。満親を襲った凶報は、満親と信正を互いにとっての仇敵に仕立て上げることになる。上田原の合戦見物の際は、弥一郎、甚八郎と呼び合っていた二人。それが憎み合い戦場で剣を交えるまでに堕ちてしまう。戦国の世の習いの無残さを思わせる展開だ。

仲の良かった従兄が敵味方に分かれる。そんなことは下克上のまかり通る戦国時代にあって特に珍しくもなかったはず。そして豪族が相打ち乱れ、合従連衡を繰り返す信濃にあってはより顕著だったに違いない。つまり戦国期最大の合戦として後の世に伝わる川中島の戦いとは、ついにまとまる事を知らぬまま、乱れに乱れた信濃が堕ちるべき必然だったのだ。信濃の地で戦われた合戦でありながら、甲斐の武田と越後の上杉の戦場となった川中島とは、つまるところ信濃の豪族たちのふがいなさが凝縮した地だったともいえる。

だが、その事実をもとに須田満親を責めるのは酷な話。彼は村上家にあって生き延びるため、そして須田家を存続させるため、懸命に働く。満親の働きは、村上家がいよいよ武田軍の攻勢を防ぎきれず上杉家を頼る際に彼自身の運命を切り開く。村上義清によって上杉家への使者に命じられることで。それまでに使者として上杉景虎の知己を得ていたことが上杉家への使者として適任だったのだ。それは、須田満親を次なる運命へと導く。つまり、川中島の戦いへと。満親の嫁初乃はもともと信正の妹として満親に嫁いできた。だが、武田軍の調略が須田家を引き裂いたため、兄信正と初乃は敵対することになる。そんな運命に翻弄されながら、彼女は世をはかなむことなく満親へ付き従い越後へと落ち延びる。本書で描かれる彼女の運命は戦国の時代の過酷さ、そして確固たる権力に恵まれなかった信濃に生まれた女子の運命を如実に書き出している。

親しさの余りに、憎さが百倍したような満親と信正の関係。それは、幾度もの運命の交錯をへてより複雑さを増してゆく。そしてついには川中島の戦いでは上杉軍と武田軍として相まみえ、剣を交えさせることになるのだ。

残された記録による史実によれば須田満親は1598年まで存命だったようだ。つまり満親は川中島を生き残ったのだ。では信正はどうだったか。史実によれば武田家滅亡後に上杉家に属したと伝わっている。だが、本書では川中島以降の両者には触れていない。あるいは、上杉家で旧交を温め直したのか、それともかつての反目を引きずりながら余生を過ごしたのか。本書には、上杉家での二人の邂逅がどうだったかについては触れておらず、読者の想像に委ねている。

そのかわりに著者は、川中島の戦いで満親と信正に剣を打ち合わせることで、二人のその後に著者なりの解釈を示している。満親に勝たせることで。そして満親にとどめを刺させないことで。その瞬間、二人の間には弥一郎と甚八郎の昔が戻ったのだ。「禍根を断っては、武士は鈍ります。禍根あってこそ、武士はよき働きができます」とは川中島の戦いの後、謙信と語らった際の満親のセリフだ。それを受けて謙信もこう返す。「もう一太刀か二太刀見舞えば、わしは信玄を殺せた」「だがな、馬を返して四太刀目を浴びせようとしたところで気づいたのだ。欲が勝つか義が勝つかは、力で決めるものではなく、天が決めるものだとな」「そうだ。欲に囚われた者は欲に滅ぼされる。最後に勝つのは義を貫く者だ。つまり禍根を断たずとも悪しき者は自ずと立ち枯れる」

ここでいう欲とは武田信玄の領土拡張欲であり、義とは毘沙門天を戴く上杉謙信の信念を表わしている。この二つの概念は、両者を比較する際によく見かける。だが、有名な一騎打ちをこういう解釈で描いた事に、本書の真骨頂がある。川中島の合戦で敵味方に相まみえる事になった須田満親と信正の従兄同士。二人の運命に小豪族の置かれた運命の悲哀を表しただけでなく、義と欲の争いを禍根を断つ形で決着させず、人の生き方として歴史の判断にゆだねた著者の解釈。これもまた、一つの見識といえる。

おそらく、川中島の戦場には、幾多の入り組んだ、長年に渡って織りなされた運命の交錯があったはずだ。満親と信正。信玄と謙信。信繁と景家。川中島には彼らの生きた証が息づいている。人の一生とは何を成し遂げ、何に争わねばならないのか。そんな宿命の数々がしみ込んでいるのだ。そのことを新たに感じ、人の一生について感慨を抱くためにも、私は川中島には行かねばならないのだ。

‘2016/12/24-2016/12/28


真田幸村のすべて


本書を読んだ時、NHK大河ドラマ真田丸によって真田幸村の関心は世間に満ちていた。もちろんわたしの関心も。そんな折、本書を目にし手に取った。

編者は長野県史編纂委員などを務めた歴史学の専門家。真田氏関連の著書も出しており、真田家の研究家としては著名な方のようだ。本書は編者自身も含め、9名の著者によって書かれた真田幸村研究の稿を編者がまとめたものだ。

9人の著者が多彩な角度から真田幸村を取り上げた本書は、あらゆる角度で真田幸村を網羅しており、入門編といってもよいのではないか。以下に本書の目次を抜粋してみる。

真田幸村とその時代・・・編者
真田幸村の出自・・・・・寺島隆史氏
真田幸村の戦略・・・・・編者
真田幸村と真田昌幸・・・田中誠三郎氏
真田幸村の最期・・・・・籔景三氏
真田家の治政・・・・・・横山十四男氏
「真田十勇士」考・・・・近藤精一郎氏
九度山の濡れ草鞋・・・・神坂次郎氏
真田幸村さまざま・・・・編者
真田幸村関係人名事典・・田中誠三郎氏
真田幸村関係史跡事典・・石田多加幸氏
真田幸村関係年譜・・・・編者
真田家系図・・・・・・・編者
真田幸村関係参考文献・・編者/寺島隆史氏

ここに掲げた目次をみても考えられる限りの真田幸村に関する情報が網羅されているのではないだろうか。もちろん、他にも書くべきところはあるだろう。例えば真田丸のことや、第一次第二次上田合戦のことをもっと精緻に調べてもよかったかもしれない。また、豊臣家や上杉家で過ごした幸村の人質時代にいたっては本書ではほとんど触れておらず、そういう観点が足りないかもしれない。

あと、本書は小説的な脚色がとても少ない。わずかに九度山での蟄居暮らしを書いた「九度山の濡れ草鞋」が小説家の神坂氏によって脚色されているくらいだ。そのため本書には大河ドラマ真田丸や真田十勇士などの小説にみられる演出色が薄い。劇的な高揚感が欠けていると言ってもよい。だが、そのため本書には史実としての真田幸村が私情を交えずに紹介されている。史実を大切にするとはいえ、伝承の一切を排除するわけではない。人々に伝えられてきた伝承は、伝わってきた歴史それ自体が史実だ。伝承そのものが人々の伝わってきた文化という意味で。また、十勇士を含めた真田幸村の逸話が講談や立川文庫を通して世に広まっていった経緯が史実であることを忘れるわけにはいかない。だからこそ本書は、史実の名である真田信繁ではなく講談で広まった真田幸村という名前をタイトルにしているのだと思う。

それが顕著に出ているのが、講談に登場する十勇士が史実ではどうだったかを分析した箇所だ。実は本書で一番興味深いのはこの分析かもしれない。どこまでが史実でどこまでが虚構の部分なのか。幸村と信繁を分かつ分水嶺はどこにあるのか。それが分析されている。真田幸村ほど虚実取り混ぜて描かれてきた人物もいないだろう。だから、本書のような虚実の境目を明らかにしてくれる書物はとてもありがたい。さらに僅か数ページではあるが、先日読んだ「秀頼脱出」の伝説を検証するかのように、大坂落城後の真田幸村生存説にまつわる挿話がいくつか紹介される。

本書はどちらかというと網羅的に真田幸村を紹介する本だ。一方で編者はなるべく史実に忠実に沿うことを旨としている。虚像の真田幸村を史実として扱うことはできないが、虚像の真田幸村が講談その他で広まったことは紛れも無い史実だ。その釣り合いをどう取るか。それが編者に求められる部分だ。そして本書はその点を満たしているのではないだろうか。

かつて大阪の真田山公園を訪れたことがある。本書にも多数の幸村関係の史跡が紹介されているが、私が未訪の場所も多数ある。上田、九度山、犬伏、大阪近辺の史跡も。そろそろ真田丸ブームもひと段落してきたと思う。時機を見てこれらの場所を訪れ、より深く幸村の生涯を追想してみるつもりだ。

‘2016/03/31-2016/04/01


我、六道を懼れず―真田昌幸連戦記


2016年の大河ドラマは真田丸。私にとって20年ぶりに観た大河ドラマとなった。普段テレビを観ない私にしてはかなり頑張ったと思う。本書を読み始めたのは第4回「挑戦」を観た後。そして本稿は第8回「謀略」の放映翌朝に書きはじめた。

真田丸の主役は堺雅人さんが演ずる真田信繁(幸村)だ。これは間違いないだろう。ところが、本稿に手をつけた時点で私が印象を受けたのは草刈正雄さん演ずる真田昌幸だ。その存在感は真田丸の登場人物の中でも群を抜いている。あまりテレビを観ない私にとって、草刈正雄さんの演技を初めてまともに観たのが真田丸だ。その演技はもはや名演と呼べるのではないか。かの太閤秀吉に表裏比興の者と呼ばれ、家康を恐れさせた謀将昌幸。草薙さんは老獪な武将と語り継がれる昌幸を見事に演じている。

第4回と第8回は、両方とも謀略家昌幸の本領が前面に押し出された回だった。その時期、真田家は武田家滅亡後の空白を乗り切るため、あらゆる策を講じねばならなかった。弱小領主である真田家を守り抜くため、時には卑劣と言われようと、表裏の者と言われようと一族を守らんとしたのが、昌幸ではなかったか。昌幸が知恵を絞った甲斐あって真田家は戦国から幕末までお家を存続できた。泉下の昌幸にとって満足な結果だったのではないだろうか。

昌幸は謀略の分野で才能を発揮した。しかし、それと本人の人格とは別の話。後世から策士と評される昌幸とて、生まれながらの謀略家だった訳ではない。

本書には、謀略を知らぬ前の純粋で無垢な昌幸が息づいている。

本書は昌幸が源五郎という幼名で呼ばれていた7歳の頃から始まる。

7歳といえばまだ母の温もりが必要な時期。そんな時期に源五郎は父から武田晴信、すなわち後の信玄の小姓となることを命ぜられる。要は人質である。源五郎は到着して早々、新たな主君とのお目見えの場で近習に取り立てられる。7歳にしてそのような重荷を背負わされた源五郎も気の毒だが、7歳の童子に大成の器を見極めた晴信の人物眼もまた見事。

幼くして鍛錬の場に置かれた源五郎は、信玄の弟典厩信繁に目をかけられ成長を遂げていく。そして信玄の近習として側に仕えながら、薫陶を受けることになる。生活を共にし、戦略を練る姿に親しく接する。その経験は源五郎の素養を確かに育んで行く。そして将来の昌幸を間違いなく救うことになる。機転や頭脳の働かせ方、策の練り方活かし方。活きた見本が信玄だったことは昌幸にとっての僥倖だったに違いない。

元服し、源五郎から昌幸となってすぐ迎えたのが、かの川中島合戦。しかも初陣となったのは、本邦の合戦史でも五指に入るであろう第四次合戦だ。信玄と謙信の両雄一騎討ちがあったとされ、世に知られている。

著者には、第四次川中島合戦を描いた「天佑、我にあり」という作品がある。合戦に至るまでの息詰まる駆け引きから合戦シーンまで、傑作と呼ぶ以外ない一冊だ。「天佑、我にあり」は近くの山から合戦の一部始終を見届ける設定の天海僧正の視点で語られる。だが、本書で語られる第四次合戦は昌幸の視点によって語られる。同じ合戦を同じ著者が描いているのだが、視点を変えているため読んでいて既読感を感じなかった。著者の筆力が一際抜きんでいることの証拠だろう。

第四次合戦において有名な一騎打ちとは大将同士によるそれだ。だが、同じ合戦では武田典厩信繁と柿崎景家との一騎討ちも見逃せない。「天佑、我にあり」で詳細に語られるその一騎打ちの場面は、何度読み返しても魂が震える。本書は昌幸の視点で描かれているため、二人の一騎打ちは描かれない。だが、信繁に目を掛けられ、育てられた昌幸が信繁の亡骸に昌幸が取りすがって号泣する姿は、本書において白眉のシーンだといえる。

また、「天佑、我にあり」では信玄と謙信の一騎打ちも読み応えのある場面だ。そして信玄近習である昌幸は、両雄の間を刹那飛び交った火花の目撃者でもある。昌幸が目撃した両雄の一騎打ちは、「天佑、我にあり」とは違った形で描かれており本書の山場の一つとなっている。

初陣にして己の価値を見出してくれた人物の死に直面した昌幸は、武将の成長をして大人となる。そして、信玄になくてはならぬ側近となってゆくのである。本書は戦国屈指の謀将真田昌幸の成長譚であり、ずっしりとした読み応えが読者に返ってくる。

川中島合戦が収束しても昌幸の身辺は慌ただしい。松という伴侶を得て身を固めたかと思えば、武田家中を襲う謀反劇の直中に巻き込まれる。

桶狭間で主が織田信長に討ち取られてから衰退著しい今川家。信玄嫡男の義信は、その今川義元の娘を正室に迎えている。そして信玄の冷徹な脳裏には今川家を見限り、その替わりに昇り調子の織田家との外交関係を結ぶ戦略が編まれていた。それに反発して実力行使で主君を諫めようとする義信一派。その中には昌幸が幼き頃から共に近習として武田家に仕えた仲間もいた。幼き日からともに学んだ仲間と刀を交える苦味。その中にあって信玄への忠義を揺るがせにしなかった昌幸は、ますます信玄の信頼を得ることとなる。無垢な昌幸は、仲間の死を通して戦国の世の習いを一つ身につける。

武田家に内紛の余韻漂う中、武田家は北条家と戦端を開く。北条家の本拠地小田原を攻め、帰路に三増峠で北条軍と戦う。ここで昌幸は、北条軍にあって武名を馳せる北条綱成と何合か打ち合わせる機会を持つ。本書には昌幸の武士の矜持を持った一面がきっちりと描かれている。謀略家のイメージばかりが取り沙汰される昌幸は歴とした武士だった。著者の視点はそのことにしっかり行き届いており好感が持てる。

関東遠征を経たことで昌幸への信玄からの信頼は一層篤くなる。そして昌幸は信玄の身辺を任されるようになる。寝室や厠近くに侍るようになった昌幸が目撃したのは、咳き込んだ信玄と口からの喀血。その病は後に天下獲り間近の信玄を道半ばで倒すことになる。己に残された時間がもはや少ない事を悟った信玄は、ついに上洛へと乗り出す。

敵の本拠地駿河に進軍してからも徳川軍をやすやすとひねる武田軍。家康にとって終生胆を冷やさせることになる三方ヶ原の敗戦も、信玄にとっては余技のごとく書かれている。事実、当時の戦国最強との呼び声高い武田軍にとっては徳川軍など鎧袖一触。敵役にもならなかったほど弱かったのだろう。しかし徳川家にも武辺者はいた。それは本多忠勝である。昌幸はこの戦場で本多忠勝と相まみえることになる。ここでも若き昌幸は謀将ではなくもののふの姿で描かれている。本書において、昌幸はまぎれもない武将である。それも戦国最強の武田軍の中にあって首尾一貫して。

しかし、武運は信玄に味方しなかった。朝倉軍が織田包囲網から離脱し、信玄の描いた戦略に綻びが生じる。それと時を同じくして信玄に巣食う病が重くなる。信玄は昌幸を含めたわずかな家臣を呼んで別れを告げ世を去る。

昌幸の元に遺されたのは碁盤と碁石のみ。病が急変する前、昌幸は信玄と一局打つ機会を得る。六連銭の形におかれた置石から始まった一局で、それまで一度も勝てなかったのに、持碁、つまり引き分けに持ち込む。その遺品は、図らずも己の軍略を伝えようとした信玄の意志そのもののよう。いうなれば、信玄流軍略の一番弟子の形見に碁盤を託された形となる。これまた、本書の中でも印象の深い場面である。

いよいよ本書は最終章にはいる。長篠の戦いである。昌幸には二人の兄がおり、ともに侍大将の立場で武田軍の重鎮となっていた。が、信長軍の鉄砲戦術に二人の兄を始め、主だった武将が餌食となり、戦場に命を散らす。

昌幸が眼にしたのは惨々たる戦場の様子。死体があたりを埋め、血の匂いが立ち込める。その景色は川中島の戦いのそれを思い起こさせる。信繁の死んだ川中島の戦場の様子が兄二人を亡くしたそれと重なり、昌幸の脳裏を憤怒で染める。無垢で純粋だった昌幸が絶望と悲憤の中で殻を脱ぎ捨てる瞬間である。

戦い済んで甲斐に帰った昌幸は、名乗っていた武藤の姓を返上する。そして真田昌幸を名乗る。父も兄たちも居なくなった今、真田家を継ぐのは昌幸しかいなくなったからだ。そして、昌幸の胸にはただ怒りだけが満ちている。それは、長篠の戦いを敗戦へと導いた者たちへの怒りだ。長坂、跡部といった武田家の重臣たち。彼らは武田家を長篠の戦いに導いた。そして自らは後衛に回って戦況をただ見ているだけだった。昌幸の怒りはそのような者を重用し続ける新たな主君勝頼にも向かう。武田家を見限り、真田家のことを考え始める内なる声が昌幸の中でこだまする。

昌幸の叫びは、もはや無垢な青年のそれではない。哀しみや世の無情、真田家を背負う重責を担った漢の叫びである。それが以下の本書を締める三つの文に集約されている。

人には大切なものを失わなければわからない本物の痛みというものがある。そして、失う痛みを乗り越えることでしか見えない地平というものがある。
それに気づいた時が、まさに、その人の立志の時だった。
痛恨の敗戦を経て、昌幸は真田の惣領を襲名する決意を固め、深まりゆく乱世に翻弄される己の運命と真正面から向き合おうとしていた。

(第一部完)

真田丸でみせる老獪な真田昌幸は、本書に続く第二部でこそ花開くのだろう。しかし、謀略を駆使する昌幸の背景には、本書で描かれたような信玄の薫陶や、度重なる戦いで身につけざるを得なかった憤怒があることを忘れてはならない。草刈正雄さんが本書を読んだかどうかは知らない。脚本を書いた三谷幸喜さんが本書を参考にしたかどうかも知らない。でも、視聴者は昌幸の過去に通り一遍でない人生の起伏があったことを知っておくべきだと思う。草刈昌幸を単に腹黒く人の食えぬ親父と見るだけでは彼の真の凄みは味わえない。そこには振幅の激しい人生に鍛えられた一人の男がいる。そう見直してみるとまた違う姿が見えてくるはずだ。真田丸を見ていると、息子信繁(幸村)の名が川中島で討ち死にした武田典厩信繁の名にあやかっていることや、本多忠勝の娘小松姫が長男信之の正室になるなど、若かりしころの昌幸の出会いが真田家のその後に重要な布石となっていることに気づく。

と、こんな偉そうなことを書いている割に、私は結局真田丸を全て観ることは出来なかった。第16回「表裏」あたりまでは、車内で観たりオンデマンドで観たりと観るための努力を続けていたが、それ以降は仕事が忙しく断念した。無念だ。でも、本書の続編第二部は是非読みたいと思っている。そして真田丸全編も必ず観るつもりである。

‘2016/02/16-2016/02/18


とっぴんぱらりの風太郎


関西人である私にとって、万城目ワールドはとてもなじみがある。デビュー作から本書までの7作は全て読んでいる。特に長編だ。京都、奈良、大阪、長浜。それら関西の町を舞台として繰り広げられる物語はとても面白い。古い伝承が現代に甦り、波乱を巻き起こす。関西の言葉や文化で育った私にはたまらない。物語の構成は、古き伝承をモチーフとし、現代を舞台に進行する。伝承を題材にしつつ、現代を舞台に奇想天外な物語を産み出す著者の作品は、読者をわくわくさせてくれる。

そして本書だ。

本書は著者の新境地ともいえる一冊に仕上がっている。本書の舞台は過去。現代は全く出てこない。つまり、著者にとっては初の時代小説となる。

本書の主役は抜け忍の風太郎。伊賀の衆だ。伊賀は言うまでもなく忍びの里だ。山間の小国は忍びの技を研ぎ澄まし、動乱の戦国の世を生き延びてきた。天正伊賀の乱など周辺国からの弾圧を跳ね除け、忍びの国として生き残る。それを可能としたのは苛烈な忍びの掟。弱者は容赦なく切り捨てられ、一人前の忍びとして生き残るのは一握り。幼い頃から風太郎を縛り付けてきたのは、ただ冷徹な忍びの掟だった。そんな過酷な環境で生き残びた風太郎の周りには一癖ある連中ばかりが残っている。子供時代からともに切磋琢磨し、生き延びた仲間達をも瞬時に裏切り、相闘うことも辞さない。そこにあるのは非情な関係。

そんな日々の中、伊賀上野城を舞台とした密命を帯びた風太郎は、侵入にあたって石垣を傷つけてしまう。伊賀の殿様は、築城の名手として知られる藤堂高虎。本書では異常なほど城に偏愛をもつ人物として語られる。

城を傷つけた下手人には死あるのみ。風太郎は死をもって失敗を償わされそうになる。それを救い、死んだことにしてくれたのは、忍びを統べる采女様。

忍び失格として伊賀を放逐された風太郎は、当てもなく京にでる。太閤秀吉亡き後、風太郎が棲みつく京は徳川家の威風に服している。天下分け目の関ヶ原の戦いに勝利し、徳川家にとって残る仮想敵は大坂城だけ。大坂城の秀頼・淀殿と徳川家の間に張り詰めた緊張は、京の街にも及んでいる。そんな大坂冬の陣を間近にして、風太郎は京でその日暮らしを送る。

風太郎は、劣等感に塗れている。忍びを逐われ、根なし草となった自らの境遇に。だが、江戸と大坂の間に張り巡らされた陰謀の糸は、風太郎の人生を変えて行く。

今までの著者の作風とは違い、本書は時代小説の骨格をがっちり備えている。では、時代小説に手を染めるにあたって著者は作風を変えたのか。今までの著者の作品の底に流れていた大真面目に奇想天外を語る魅力。その魅力はうれしいことに本書でも健在だ。

本書では、瓢箪に宿る因心居士が物語のトリックスターのような役割を果たす。ところどころでひょいと風太郎の前に現れては、風太郎の生きざまを導いていく。

また、風太郎の周囲には個性的な人物達が登場し、風雲があわただしさを増す京の町に暗躍する。風太郎とともに伊賀で忍びの掟を生き抜いた忍び、黒弓、蝉、百市。さらには故太閤秀吉の奥方である北政所。京都所司代の隠密として風太郎を付け狙う残菊。産寧坂で瓢箪を商う飄六で働く芥下。さらには、大坂城にいるはずのあのお方。風太郎を取り巻く登場人物は一癖も二癖もある連中だ。

本書は全編が極上の伝奇時代小説の趣に満ちている。本書は娯楽として読んでも無論面白い。特にラストなど、大団円に相応しい派手な幕切れである。しかし、本書には娯楽小説としてで片付けるにはもったいない深みがある。

大坂の陣といえば、応仁の乱に端を発した戦国時代を締めくくる出来事として知られる。戦国の世の終わり。それは忍び達が要らなくなる時代の到来でもある。徳川の世になって、もはや忍びの技能は滅び行くしかなく、種族としても時代の流れに取り残されてゆく宿命を背負う。そんな時代の変わり目にあって、忍び一族の哀しみが書かれているのが本書だ。そもそも風太郎からして、伊賀に戻りたくても戻れない忍びの成れの果て。戦国の殺伐とした世にあっては忍びの世界では抜忍成敗。使えない忍びは死ぬ他ない。風太郎のような立場で生きていけることがすでに時代の移り変わりを表している。黒弓、蝉、百市といった忍びもまた同じ。忍び以外の職に身をやつしながら密命を帯びて行動している。

つまり、時代の変わり目にあって人はいかに生きるのか。そこに本書のテーマが見え隠れする。

そして、大坂の陣を目前にして、感慨にふけるのは忍びだけではない。

豊臣家の人々の上にも滅びの予感が濃い影を落としている。豊臣家もまた、戦乱から平和への時代の変わり目に取り残されようとする一族だ。そして本書に登場する主な豊臣方の人物は、そのことを自覚し覚悟を決めている。それは北政所のねねと秀頼公だ。それとは逆に、滅び行く豊臣家に与して戦国の仇花を散らそうとする武将たちはほぼ登場しない。大坂の陣に登場する著名な大坂方の人々は本書にはほぼ出てこない。例えば、真田幸村や毛利勝永、後藤又兵衛といった人々。大野治房は一瞬だけ登場するが、淀殿はほぼ
登場しない。

豊臣家の滅亡を予感した人々、忍びが要らざる世を感じ取った人々。本書は時代の変わり目にあって、去り行く人々の潔さ、または美学を書いた小説なのかもしれない。

その象徴こそが、本書の幕切れを飾る大坂城が倒壊する様子だ。むしろ小気味良いといっても良いほどに、戦国の世の終焉を知らしめる爆発や火災は、本書のテーマに相応しい。

‘2016/02/10-2016/02/15


横浜の戦国武士たち


3,4年前になろうか、フラのレッスンを受ける妻子を新横浜まで送迎したことがある。レッスンの間、何をしようかと思案したあげく、近くの小机城址を散策することにした。

横浜国際競技場を横断し、小机駅から線路沿いに北上することしばらく。線路沿いの小高い丘に小机城址はあった。小机城の沿革について、特別な知識は持って散策した訳ではない。けれども、それなりに楽しんで散策を行えた。建造物は残っていなかったが、堀や郭など、城の遺構がそれなりに残っており、歴史の世界に浸ることができたためであろうか。

以来、中世・戦国期の横浜近辺の城にはなんとなく興味を持っていた。そんなところに、横浜のセンター北の書店で見かけたのが本書である。ぱらぱらとめくってみたところ、小机城についての記載がかなりあり、購入した。

歴史・時代小説は、話の筋を面白くするための工夫がなされている。例えば、作家による脚色や筆致などである。歴史家にとってみれば言語道断な脚色がされていることも往々にして見られるが、読者にとっては読みやすい。

だが、本書はそういった読みやすさにはかなり乏しい。著者は歴史家であり、内容の面白さよりも古文書などの文献から導き出される史実を重視する立場の方である。なので、どうしても史実の羅列が続く。物語を読む喜びとは真反対の方向にあるのは仕方のないのかもしれない。私にとっても本書は面白く読み進められたとは言い難い。

では、本書の内容は取るに足りないものなのか。いや、そんなことはない。本書は、横浜の歴史に興味を持つ人のためのものである。昔の横浜がどういう地勢で、どういう勢力が領土を争い、どんな戦いが繰り広げられたのか。本書ではそれらの史実を古文書を多数紹介することで、横浜の歴史に興味を持つ読者の想像力の手助けを行う。物語を読む喜びはなくとも、史実を辿る喜びが本書にはある。

本書は小机城だけでなく、現横浜市域や一部大田区や川崎、鎌倉や横須賀といった各地域が頻繁に出てくる。章としても、小机城以外にも蒔田城や神奈川湊、玉縄城といった中世・横浜の歴史を辿っている。登場人物の殆どは、後北条氏かその配下、または対抗勢力の人物である。または関東管領の上杉氏やその配下である太田氏に関する人物である。横浜の中世・戦国を駆け抜けた人物が許される限りに紹介されている。

小机城も太田道灌、山内上杉氏といった勢力争いの舞台となり、後北条氏の支配から、小田原合戦の後は廃城となった。そんな歴史の荒波に洗われた変遷も本書から学ぶことができる。私が小机城を探検した際に思い描いた想像が、本書によって裏付けられるのである。本書のような書物を読むときの喜びはここにある。

今も横浜に点在する古刹の保管する文書からは、本書で紹介される古文書が多数発掘される。一見何の変哲もなさそうな古刹にも、歴史とからめることで、より興味深い対象となりそうである。本書からは改めてそのような事も学ばせてもらった。

’14/2/27-’14/3/5


哄う合戦屋


生き急ぐ多くの現代人にとって、過去を描く歴史・時代小説は、教養臭いものとして遠ざけられがちである。

だが、私は将来への展望とは、過去の土台があってこそ、と常々考えている。実在・架空を問わず、歴史上の登場人物のたどった歩みには、自分の行先にとっての参考や指針となることがおうおうにしてある。

昨年末に友人より薦めて頂き、お借りした本書には、私にとって得るところが多々あった。

時は16世紀半ば。越後の上杉家が台頭し、甲斐では、武田晴信(信玄)が領土拡大の野望を隠そうともしない。両者の激突場となる気配濃厚の、川中島合戦前夜の信州が本書の舞台である。

二大勢力の狭間でしのぎを削る豪族たちの一つ、遠藤家は、内政に定評のある当主吉弘の下、領民一体となった経営を行っている。そこに風来坊として仕官する石堂一徹と、遠藤吉弘の娘若菜。そして吉弘を交えた3人が本書の主人公である。

題名からも想像できるとおり、表向きの主人公は、世に聞こえたいくさ上手として設定された石堂一徹となっている。名利を求めず、己の能力がどこまで戦国の世に通ずるかを人生の目的に据えた男として。本書を通して、軍師として主君を支える男の生き様の潔さに心震わすことも一つの読み方。

しかし、私は本書の面白みは他にもあると思う。むしろ、本書に込めた著者の思いとは、「物事の本質を見抜くことの美しさと苦み」にあったのではないか、と。

苦みとは、人々と視点の達する深みが違うため、感情や考えがずれる生きづらさを指す。たとえば、一徹がいくさの手柄話をせがまれる場面。そこで一徹は、首級を挙げたことよりも、戦況を自由自在に操ったことを手柄とする。もちろんそれは家臣たちには伝わらず、困惑で迎えられる。また、隣国との争いの一番手柄を最初に情報を知らせた者に与え、肝心の戦いで敵の大将を討ち取ったものに与えない。それがもとで、その者から恨みを買う。

美しさとは、外面の技巧よりも、内面にその物の真実を見て取る考えを指す。たとえば一徹は、若菜の描いた絵に、技巧ばかりが先走る若さを見抜き、その絵から想像がふくらむ余地のないことを指摘する。また、領民に慕われる若菜の、才能から来る無意識の打算に対し、その無意識を意識する強さと、そうせざるをえない立場の弱さに対し、共感を覚える。

そして吉弘はその間に立ち、領主としての立場や体面といった、物事の表面を完結させようとする。それは、娘を一徹に渡したくないとの親のエゴであり、一徹のお蔭で領地を拡大できたのに、その地位に甘んじて一徹を疎んずると心の弱さである。吉弘は、本書では物事の本質を見抜くことと逆の、人間的な弱さの持ち主として描かれる。

本書の面白みは、表立った激動の歴史を追うことよりも、この3者の心の動きを追うことにあると思う。そして彼らの世渡りの術とは、現代に生きる我々にも参考になるのではないか。会う人々、抱える仕事、あふれる情報。その中からどのようにして本質を見極め、自分の行動を律するか。本書から考えさせられることは多い。

いままで、本書についても著者についても知らずにいた。このような佳作を生み出す作家がまだまだ多数、私の読書経験から漏れている。読書は人生にとって涸れない泉とはよく言ったもので、こういう新たな喜びが与えられるから、読書は面白い。

’14/01/15-14/01/16


孤闘―立花宗茂


柳川のお堀めぐりを堪能したのは、今から17年前。大学の面々数人で廻った柳川の街並みは今も覚えており、再訪したい場所の一つ。

のんびりとした舟旅の中、行く先々の景色も良かったが、お堀めぐりの終盤に現れる、御花の広大な様子も印象深いものがある。ところが同行者に歴史好きが揃っていて、私自身もそうだったにも関わらず、時間の都合もあって御花には立ち入らずじまいだった。

立花家で最も著名な宗茂公の事は当時から知っていたものの、私がその後で訪れた各地の史跡には宗茂公に関するものがなく、宗茂公が関ヶ原合戦の本戦に参戦しなかったこともあり、事績や故事、さらには書物にも触れぬまま、御花に感銘を受けてから永い年月が過ぎてしまっている。

ところがその名は忘れるどころか、ゲーム内での勇猛さ、関ヶ原後の改易にも関わらず復活を遂げた大名として、私の中でより深く知りたい人物の一人としてますます存在は大きくなるばかり。

そんなところに本書を手に取る機会があり、面白く読ませてもらった。高橋家から立花家へ養子に行ってからの苦労に話の重点が置かれており、有名なイガのとげを踏み抜いた際のエピソードなど、入門書としては最適ではないかと思う。養子ゆえの正室との確執や改易後の仲直りなど、誾千代との感情の行き違いの歴史も一つの主要テーマになっているため、単なる武勇伝の要約に堕していないところも評価できる。

ただ、難点としては、話がするすると進み過ぎるように思う。タメの部分が少なく、一気に読めてしまうことと、浪人時の苦難の生活にも宗茂公の人物史の豊かさが含まれているように思えるので、この部分をもう少し読みたかったように感じた。

’12/1/24-’12/1/25


のぼうの城


何か月か前に雑誌歴史人で忍城の攻防戦が取り上げられていた際に、著者のインタビューも掲載されていて興味を持っていた本。

この本は面白い。歴史小説はそれほど読みつくすようにして読んでいないけれど、隆慶一郎氏の作を初めて読んだときのようなすぐれた娯楽小説として一気に読み終えました。

もともとは脚本で、その舞台作品が映画化されるにあたりノベライズとして書かれたこの本。ノベライズというだけで何やら薄っぺらな印象がありがちだけれどそんなことはなく、何よりも話の筋として肝心な成田長親の性格の多彩な点、陰影を書くことに成功している。映像作品に対して小説がなしうる意義を、目に見えない心のうちを描くことにあると定義するならば、この本はノベライズ、または単なる小説化というだけではなく、異なるメディアとして小説の可能性を示してくれていると思う。

映画も機会があれば観てみようと思う。

’11/9/27-’11/9/28


だれが信長を殺したのか


この夏に石田三成公の史跡を追って関ヶ原に行った際、島津義弘公の陣跡に行ったのをきっかけに読んだのがこちらこの著者の視点の切り口に興味を持ち、もう一冊借りてみたのがこちらの著書。

新たな視点とあるけれども、私にとっては既に既出の論点でした。夏草の賦で若干その流れに触れられていたのか、他の書物で触れたのか、ウィキペディアかは忘れましたが・・・

でも既出の論点であっても私には見知らぬ資料が出てきて論点を補強していく様はさすがというべきか。

少なくとも私の中ではこの説が一番信憑性あるように思えてきました。

’11/9/23-’11/9/24


敗者から見た関ヶ原合戦


この夏、宝塚をきっかけに興味を持った妻と十数年ぶりに関ヶ原の陣地や石田集落廻りをしました。そこにきて、こちらの本。面白い視点で、かつ説得力のある論考の数々を繰り広げてくれます。けっして我田引水のような強引な、トンデモ論法ではなく、実際に現地に行った私をも引き付ける論点でした。

’11/8/22-11/8/23