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アクアビット航海記 vol.26〜航海記 その13


あらためまして、合同会社アクアビットの長井です。
弊社の起業までの航海記を書いていきます。以下の文は2018/1/11にアップした当時の文章が喪われたので、一部を修正しています。

結婚に向けて


東京に居を構え、職も確保した私。
次にやるべきは、結婚へ向けての諸作業です。
町田に住む妻とは家が近くなり、会う機会も増えました。
そこからは10月の婚姻届け提出、11月の披露宴までに向けての半年強を、式場や招待客、新婚旅行の行き先選びに追われていました。そこでもさまざまなエピソードや事件は起こったのですが、本連載はそれらの苦労を語ることが目的ではありません。いつかのゼクシィへ連載する機会に取っておきたいと思います。

それよりも語っておきたいことがあるのです。
語っておきたいこととは、私自身に備わった覚悟と、新居を決めるまでのいきさつについてです。
なぜかといえば、この二つは私のその後の人生航路、とくに起業へ至るまでの複数回の転職に大きく関わってくるからです。

まず、この時期の私に生じた心境の変化から語ってみたいと思います。

親への感謝


連載の第二十一回(https://www.akvabit.jp/voyager-vol-21/)で触れたとおり、私が東京行きを決めてから住民になるまでの期間は二週間ほどしかありませんでした。
その時の私は、何かに突き動かされていたに間違いありません。あまりにも唐突な思いつきと実行、親へ話を切り出した経緯と、親への感謝の思いについては書いた通りです。
ところが、その稿で書いた親への感謝とは、今の私が当時を思い出して書き加えた思いです。
実際のところ、上京へと突っ走る当時の私には、親への感謝を心の中で醸成するだけの余裕も時間もありませんでした。思いつめ、前しか見えておらず、未来へ進むことだけで頭が沸騰していた私の視覚はせいぜい20度くらい。後ろどころか横すら見えていなかったことでしょう。

私が親への恩を感謝するのは、上京してすぐの頃でした。
前触れもなく飛び出すように東京に行ってしまった不肖の長男のために、両親が甲子園から車で来てくれたのです。洗濯機や身の回りの所持品などと一緒に。
私がスカパーのカスタマーセンターに入る前だから1999年4月の中頃だったと思います。
私の父親は当時60歳だったのですが、名神と東名を走破しての運転は骨が折れたことでしょう。
当時の私は新生活に胸を躍らせていました。そして、あれよあれよの間に息子を失った親の気持ちに目を遣る余裕はありませんでした。
私の両親はあの時、東京に飛び去ってしまった長男に会い何を思ったのでしょうか。私の両親の心中はいかばかりだったか。寂しくおもったのか、それとも、頼もしさを感じたのか。私にはわかりません。

それでも今、こうやって当時の自分を思い出してみて、親のありがたみをつくづく思います。

当時、東京にも世間にも不慣れな私は、親の宿泊場所すら手配してあげられませんでした。そのため、私の両親は町田ではなくわざわざ横浜の本牧のホテルに泊まっていました。
数日の滞在をへて最終日、婚約者も含めて四人で横浜中華街を散策します。そして、いよいよ甲子園へと帰ってゆく両親とお別れの時が来ました。
その場所とは忘れもしない、JR石川町駅の近くにある吉浜橋駐車場でした。20年以上が過ぎた今でも、横浜中華街の延平門から石川町駅に向かう途中にその細長い駐車場はあります。
駐車場の端に停めた車へと歩いていく両親の後ろ姿をみながら立ちつくす私。この時の気持ちは今でも思い出せます。せつなく胸がいっぱいになる思い。
泣きこそしなかったものの、この時に感じた哀切な気持ちは、今までの人生でも数えるほどしかありません。横にいる妻(まだ婚約中でしたが)と一緒に東京で頑張っていこうとする決意。そして去ってゆく両親の後ろ姿に叫びたいほどの衝動。
この時に揺れた心の激しさは今も鮮明に思い出せます。また、忘れてはならないと思っています。
私の生涯で親離れした瞬間を挙げろと言われれば、このシーンをおいてありえません。この時、私はようやく東京生活への第一歩を踏み出したのだと思っています。

自立を自覚すること

誰にでも親離れの瞬間はあります。私が経験したよりもドラマチックな経験をした人も当然いるでしょう。親との望まぬ別離に身を切り裂かれる思いをした方だっているはず。
親との別れは全ての人に等しく訪れます。私の体験を他の人の体験と比べても無意味です。
ただ、私にとってはこの時こそが親から自立した自分を自覚した体験でした。親から離れ、一人で歩もうとする自らを自覚し、それをはっきり心に刻みつけた瞬間。
この経験は後年の私が“起業”するにあたり、よりどころとした経験の一つでした。なぜなら、自分が独り立ちし、一皮向けた瞬間に感じた思いとは、起業を成し遂げた瞬間の気持ちに通じているからです。少なくとも私にとっては。

私が関西の親元に住み続けていたら、間違いなく起業には踏み切れなかったと断言できます。
そして、親からの自立をはっきりと意識する経験がなければ、関東に住んだとしても果たして起業にまで踏み切れたかどうか。

ちなみに念のために言うと、自立と疎遠は違います。
私は上京してまもなく21年になろうとしています。その間、毎年の盆暮れにはほぼ両親のもとへと帰省しています。今でもたまにモノを送ってもらっていますし、仕事もたまに手伝ってもらっていました。

上に書いたような出来事があったからといって、両親を遠ざけたわけではないのです。自立は疎遠とは違います。
この時の自分は、親から自立し、別の家族として別の人生を歩み始めたと思っています。それが大人になった証しなのだと思います。

自分がある日を境に大人になったこと。それは誕生日ではなく、成人式でもありません。何かのタイミングでそのことを自覚した瞬間が、大人になったタイミングだと思います。
その刹那の感覚を記憶し、独り立ちした自分への確かな手応えをつかめているか。これこそが大人になってからの荒海を乗り切るにあたってどれほど大きな助けとなったか。
古くはこれを社会がイニシエーション儀式や元服式として与えてくれていたのでしょう。ですが、成人式が形骸化した今では、一人一人がこの成功体験を何とかして得、それを大切に温めてゆくしかないと思っています。

親から離れて自立したことの感動をもち続けていることは、私が起業に際しての助けとなりました。
自立の瞬間の自覚を胸に大人になった私は、大失敗こそしなかったものの、その後に数えきれないほどの失敗をしでかしています。
でも、今に至るまでやって来れたのも、自立の感動が今もなお私にとって大いなる成功体験だからです。
そして、この成功体験があったからこそ、起業にあたっても尻込みせずに進めたのだと思っています。

次回はこのあたりのことを語りたいと思います。ゆるく永くお願いします。


デヴィッド・ボウイは成人式に出たのだろうか


昨日、デヴィッド・ボウイ死去のニュースが世界を駆け巡りました。

そのニュースに触れたとき、私と妻はコンサルティングを受けている最中でした。変化し続けるために。歯科医院の経営を良くしていくために。奇しくもそれは成人式の日でした。

ショックでした。でも一方では幸せでした。コンサルティングを受けながら、今までココデンタルクリニックの経営に欠けていたピースが目の前で次々と嵌っていくのですから。デヴィッド・ボウイ逝去のニュースを知った時、私はそういう相反する感情に捉われていました。

ショックでしたとはいいましたが、私はデヴィッド・ボウイの全盛期をリアルに体験していません。私が洋楽に興味を持ち始めた頃、デヴィッド・ボウイはティン・マシーンというユニットを組んでいました。今から思えば、彼の長い音楽キャリアの中でも試行錯誤の時期だったのでしょう。1989年、厨三病たけなわの私にとってデヴィッド・ボウイはすでに過去の人でした。

デヴィッド・ボウイの名前を初めて知ったのも音楽ではなく映画だったし。ラビリンスというファンタジー映画の魔王役だったように記憶しています。

IMG_4844以来、洋楽にはまった私は、80年代、70年代、60年代と色んな音楽にどっぷり浸かった高校時代を送ります。その中でデヴィッド・ボウイが輝いていたことも知りました。80年代の「Let’s Dance」や「China Girl」だけでなく、70年代のベルリン三部作「Low」「”Heroes”」「Lodger」も恰好よく、グラムロックのアイコンであった頃や「Space Oddity」や「・・・Ziggy Stardust and ・・・」ももちろん。凄いと思いました。高校生が背伸びして大人の世界を覗き見るには、あまりにも眩しい存在でした。ここにアップした本はその頃に買いました。初版1986年だから古本屋で買ったのかな?

目まぐるしく変貌を繰り返し、音楽的冒険に果敢に乗り出すデヴィッド・ボウイ。私が初めてリアルタイムで触れたのは「Earthling」。当時drum’n baseに少しはまり、興味を持っていた私は、デヴィッド・ボウイのこのアルバムをすぐ買い、その格好よさにしびれました。

先日もニューアルバムの「★」が出るニュースを知り、買おうかなあ、と思った矢先に今回の訃報です。残念でなりません。

訃報の知らせを聞いたのが、成人式。そしてその時の私は、変わりゆく過程の途中でした。そしてデヴィッド・ボウイといえば、変化の人。changesbowieです。Changesです。

ふと、デヴィッド・ボウイは成人式に出たのだろうか。そんな疑問が頭によぎりました。イギリスに成人式に相当する儀式があるのかどうかはしりません。多分あったとしても、彼自身はそこに何の意味も見いだしていなかったと思います。なぜなら彼の人生そのものが、変貌そして変革。変身そして変身だったからです。

周りにお膳立てしてもらわなくても、自分で変化を遂げられたことでしょう。大人にお膳立てされた場所で暴れて自己表現しなくても、自分で暴れ場所を作り出したことでしょう。それがデヴィッド・ボウイだったのだと思います。

ここ数年、成人式といえば一部の輩による発散の場となっているようです。毎年のように繰り返される「成人式で新成人暴れる」のニュースにはうんざり以前に全く関心がありませんでした。そもそも私自身、成人式には特に思い入れもありません。成人式には行きましたが、市民会館の中には入りませんでしたし。中でやってる式典など眼中になく、市民会館の外で即席の同窓会をやっていた記憶しかありません。同窓会を楽しみ、夜も多数で酒を酌み交わした記憶だけが残っています。

今思い起こしても、成人式に出たからといって何かが変わった実感はありません。成人式よりも、人生に変化をもたらす出来事には沢山出会ってきました。その出来事にうまく乗れたこともあれば、乗り損ねた後悔もあります。でも、私の今までの人生で、変化の切っ掛けが成人式だったとは全く思っていません。

もう、成人式はいいのではないでしょうか。色んな方がブログで書かれているようですが、私ももう成人式は無くしても良いと思います。もっと個人個人の世界で、例えば仲良しでやるもよし、家族で祝うもよし。そんな感じでいいのではないでしょうか。

成人式よりも、その後の人生でいかにして変化の兆しを掴み取り、人生を生きていくか。これこそが大事な気がします。周りに儀式をお膳立てされなくても、人は変わります。変わっていきます。また、変わっていかざるをえません。それが人生だと思います。

そのことを世界中の人々に対し、自分の人生として示し続けたのが、デヴィッド・ボウイだったと思います。残念ながら彼はこの世からいなくなりました。おそらくはジギー・スターダストかトム少佐かシン・ホワイト・デュークかの別人格になって。が、彼の人生の証、人は変われるという証は、26枚のアルバムになって残されています。ゆっくりその遺産を聴きながら、彼を偲びたいと思います。