Articles tagged with: 愛情

夜更けのエントロピー


著者の名前は今までも知っていた。だが、読むのは本書が初めてかもしれない。

著者の作風は、本書から類推するにブラックな風味が混ざったSFだが、ホラーの要素も多分に感じられる。つまり、どのジャンルとも言えない内容だ。
完全な想像上の世界を作り上げるのではなく、短編の内容によっては現実世界にもモチーフを求めている。
本書で言うと2つ目の「ベトナムランド優待券」と「ドラキュラの子供たち」、そして最後の「バンコクに死す」の三編だ。これらの三編は「事実は小説より奇なり」を地で行くように、過酷な現実の世界に題材をとっている。
史実で凄惨な現実が起こった場所。そこを後年の現代人が迷い込むことで起きる現実と伝説の混在。それを描いている。
人の醜さが繰り広げられたその地に今もなお漂う後ろ暗さ。その妖気に狂わされる人の弱さを描き出す。
本書の全体に言えるのは、現実の残酷さと救いのなさだ。

本書には近未来を題材にとった作品もある。「黄泉の川が逆流する」「最後のクラス写真」の二編がそうだ。ともに現実の延長線にありそうな世界だが、SFの空想としてもありうる残酷な未来が描かれている。

残りの二編「夜更けのエントロピー」「ケリー・ダールを探して」は、過去から現代を遡った作品だ。歴史的な出来事に題材をとらず、よりパーソナルな内容に仕上がっている。

本書の全体から感じられるのは、現実こそがSFであり、ホラーであり、小説の題材であるという著者の信念だ。
だが著者は、残酷な現実に目を背けず真正面から描く。それは、事実を徹底的に見つめて初めて到達できる境地だろう。
この現実認識こそ、著者の持ち味であり、著者の作風や創作の意図が強く感じられると理解した。

以下に一編ずつ取り上げていく。

「黄泉の川が逆流する」
死者を復活させる方法が見つかった近未来の話だ。
最愛の妻を亡くした夫は、周囲からの反対を押し切り、復活主義者の手を借りて妻を墓場から蘇らせる。
だが、夫の思いに反して、よみがえった妻は生きてはいるものの感情がない。精気にも乏しく、とても愛情を持てる相手ではなくなっていた。

死者を蘇らせたことがある家族を崩壊させていく。その様子を、ブラックな筆致で描いていく。
人の生や死、有限である生のかけがえのなさを訴える本編は、誰もが憧れる永遠の生とは何かを考えさせてくれる一編だ。

「ベトナムランド優待券」
解説で訳者も触れていたが、筒井康隆氏の初期の短編に「ベトナム観光公社」がある。
ベトナム戦争の戦場となった場所を観光するブラックユーモアに満ちた一編だ。ただ、本編の方が人物もリアルな描写とともに詳しく描かれている。

日常から離れた非現実を実感するには、体験しなければならない。
観光が非日常を売る営みだとすれば、戦争も同じく格好の題材となるはずだ。

その非現実を日常として生きていたのは軍人だろう。その軍人が戦場を観光した時、現実と非現実の境目に迷い込むことは大いにありうる。
本書はブラックユーモアのはずなのに、戦場の観光を楽しむ人々にユーモアを通り越した闇の深さが感じられる。それは、著者がアメリカ人であることと関係があるはずだ。

「ドラキュラの子供たち」
冷戦崩壊の中、失墜した人物は多い。ルーマニアのチャウシェスク大統領などはその筆頭に挙げられるはず。
その栄華の跡を見学した主人公たちが見るのは、栄華の中にあって厳重な守りを固めてもなお安心できなかった権力者の孤独だ。
この辺りは、トランシルバニア、ドラキュラの故地でもある。峻烈な統治と権力者の言動を絡め、残酷な営みに訪れる結末を描いている。
正直、私はルーマニアには知識がない。そのため、本編で描かれた出来事には入り込めなかったのが残念。

「夜更けのエントロピー」
保険会社を営んでいると、多様な事件に遭遇する。
本編はそうした保険にまつわるエピソードをふんだんに盛り込みながら、ありえない出来事や、悲惨な出来事、奇妙な出来事などをちりばめる。それが実際に起こった現実の出来事であることを示しながら。
同時に、主人公とその娘が、スキーをしている描写が挿入される。

スキーの楽しみがいつ保険の必要な事故に至るのか。
そのサスペンスを読者に示し、興味をつなぎとめながら本編は進む。
各場面のつなぎ方や、興味深いエピソードの数々など、本編は本書のタイトルになるだけあって、とても興味深く面白い一編に仕上がっている。

「ケリー・ダールを探して」
著者はもともと学校の先生をやっていたらしい。
その経験の中で多くの生徒を担当してきたはずだ。その経験は、作家としてのネタになっているはず。本編はまさにその良い例だ。

ケリー・ダールという生徒に何か強い縁を感じた主人公の教師。
ケリー・ダールに強烈な印象を感じたまま、卒業した後もケリー・ダールと先生の関係は残る。
その関係が、徐々に非現実の様相を帯びてゆく。
常にどこにでもケリー・ダールに付きまとわれていく主人公。果たして現実の出来事なのかどうか。

人との関係が、本当は恐ろしいものであることを伝えている。

「最後のクラス写真」
本編は、死人が生者に襲いかかる。よくあるプロットだ。
だが、それを先生と生徒の関係に置き換えたのが素晴らしい。
本編の中で唯一、生ける存在である教師は、死んだ生徒を教えている。

死んだ生徒たちは、知能のかけらもなくそもそも目の前の刺激にしか反応しない存在だ。
そもそも彼らに何を教えるのか。何をしつけるのか。生徒たちに対する無慈悲な扱いは虐待と言っても良いほどだ。虐待する教師がなぜ生徒たちを見捨てないのか。なぜ襲いかかるゾンビたちの群れに対して単身で戦おうとするのか。
その不条理さが本編の良さだ。末尾の締めも余韻が残る。
私には本書の中で最も面白いと感じた。

「バンコクに死す」
吸血鬼の話だが、本編に登場するのは究極の吸血鬼だ。
バンコクの裏路地に巣くう吸血鬼は女性。
性技の凄まじさ。口でペニスを吸いながら、血も吸う。まさにバンパイア。

ベトナム戦争中に経験した主人公が、20数年の後にバンコクを訪れ、その時の相手だった女性を探し求める。
ベトナム戦争で死にきれなかったわが身をささげる先をようやく見つけ出す物語だ。
これも、ホラーの要素も交えた幻想的な作品だ。

‘2020/08/14-2020/08/15


サラバ! 下


1995年1月17日。阪神・淡路大震災の日だ。被災者である私は、この地震のことを何度かブログには書いた。当時、大阪と兵庫で地震の被害に大きな差があった。私が住む兵庫では激甚だった被害も、少し離れた大阪ではさほどの被害を与えなかった。

大阪に暮らす今橋家にとってもそう。地震はさほどの影響を与えなかった。今橋家に影響を与えたのは、地震よりもむしろ、そのすぐ後に起きた3月20日の地下鉄サリン事件と、それに続いて起きたオウム真理教への捜査だ。なぜならそれによって、サトラコヲモンサマを崇める宗教が周りの白い目と糾弾に晒されたからだ。それにより、実質的な教祖である大家の矢田のおばさんにかなり帰依していた姉の貴子の寄る辺がうしなわれる。この時、宗教の本尊であるサトラコヲモンサマの名の由来も明かされる。

宗教をとりあげたこのエピソードによって著者は、宗教や信心がいかに不確かなものを基にしているか、その価値観の根拠がどれだけ曖昧であるかを示す。本書は下巻に至り、終盤になればなるほど、著者が本書に込めた真のテーマが明らかになってくる。それは、信ずる対象とは結局、自分自身だということ。他人の価値観や、社会の価値観はしょせん相対的なもの。だからこそ、自分自身の中に揺らぐことのない価値観を育てなければならない。

宗教という心のよりどころを失い、再び、貴子は部屋にこもりきりになる。そして、自分の部屋の天井や壁にウズマキの貝殻の模様を彫り刻み始める。エジプトを去るに当たり、父と離婚した母は、恋人を作っては別れを繰り返す。デートのたびにおしゃれで凛とした格好で飾り立て、独り身になると自堕落な生活と服装に戻る。父は、会社をやめ、出家を宣言する。いまや、家族はバラバラ。「圷家の、あるいは今橋家の、完全なる崩壊」と名付けられたこの章はタイトルが内容そのままだ。

そんな家族の中の傍観者を貫いていた歩。高校時代の最後の年が地震とオウムで締めくくられ、社会のゆらぎをモロに受ける。高校時代、歩が親友としてつるんでいた須玖は、地震がもたらした被害によって、人間の脆さと自らの無力さに押しつぶされ、引きこもってしまう。そして歩との交遊も絶ってしまう。

須玖の姿は私自身を思い出させる。私と須玖では立場が少し違うが、須玖が無力感にやられてしまった気持ちは理解できる。私の場合は被災者だったので鬱ではなく、躁状態に走った。私が須玖と同じように鬱に陥ったのは地震の一年半後だ。私は今まで、阪神・淡路大地震を直接、そして間接に描いてきた作品をいくつも読んで来た。が、須玖のような生き方そのものにかかわる精神的なダメージを受けた人物には初めて出会った。彼は私にとって、同じようなダメージを受けた同志としてとても共感できる。当時のわたしが陥った穴を違う形で須玖として投影してくれたことによって、私は本書に強い共感を覚えるようになった。私自身の若き日を描いた同時代の作品として。そしてそれを描いた著者自身にも。私より四つ年下の著者が経験した1995年。著者が地震とオウムの年である1995年をどのように受け止めたのかは知らない。だが、それを本書のように著したと考えると興味は尽きない。

もう一つ、本書に共感できたこと。それは一気に自由をあたえられ、羽目を外して行く歩の姿だ。東京の大学に入ったことで、目の前に開けた自由の広がり。そのあまりの自由さに統制が取れなくなり、日々が膨張し、その分、現実感が希薄になって行く歩の様子。それは、私自身にも思い当たる節がある。歩の東京での日々を私の関大前の日々に変えるだけで、歩の日々は私の大学時代のそれに置き換わる。そういえば歩がバイトしていたレンタルレコード屋は、チェーン展開している設定だ。まちがいなく関大前にあったK2レコードがモデルとなっているはずだ。著者も利用したのだろう。K2レコードは今も健在なのだろうか。

大学で歩はサブカルチャー系のサークルに入り、自由な日々と刺激的な情報に囲まれる。女の子は取っ替え引っ替え、ホテルに連れ込み放題。全てが無頼。全てが無双。容姿に自信のあった歩は、東京での一人暮らしをこれ以上望めないほど満喫する。鴻上というサークルの後輩の女の子は、サセ子と言われるほど性に奔放。歩はそんな彼女との間に男女を超えたプラトニックな関係を築く。大学生活の開放感と全能感がこれでもかと書かれるのがこの章だ。

続いての章は「残酷な未来」という題だ。この題が指しているのは歩自身。レンタルレコード店の店内のポップやフリーペーパーの原稿を書き始めた歩。そこから短文を書く楽しさに目覚める。そして大学を出てからもそのままライターとして活動を続ける。次第に周りに認められ、商業雑誌にも寄稿し、執筆の依頼を受けるまで、ライターとしての地位を築いてゆく。海外にも取材に出かけ、著名なミュージシャンとも知り合いになる。

貴子は貴子で、東京で謎のアーチストとして、路上に置いた渦巻きのオブジェにこもる、というパフォーマンスで有名になっていた。ところが歩の彼女がひょんな事でウズマキが歩の姉である事を知る。さらに歩に姉とインタビューをさせてほしいと迫る。渋る歩を出しぬき、強引にインタビューを敢行する彼女。それがもとで歩は彼女を失い、姉はマスメディアでたたかれる。

さらに歩には落とし穴が待ち受ける。それは髪。急激に頭髪が抜け始め、モテまくっていた今までの自分のイメージが急激に崩れた事で、歩は人と会うのを避けるように。すると自然に原稿依頼も減る。ついにはかつての姉のように引きこもってしまう。今まで中学、高校、大学、若手、と人生を謳歌していた自分はどこへ行ったのか。ここで描かれる歩の挫折もまた、大学卒業後にちゅうぶらりんとなった私自身の苦しい日々を思い出させる。

そんな歩はある日、須玖に再会する。高校時代の親友は長い引き込もりの期間をへて、売れないピン芸人になっていた。傷を舐め合うようにかつての交流を取り戻した二人。そこに鴻上も加わり、二人との交流だけが世の中への唯一の縁となり下がった歩。そんな歩に須玖と鴻上が付き合い始める一撃が。さらに歩は付き合っていた相手からも別れを告げられる。とうとう全てを失った歩。

本書はそれ以降もまだまだ続く。本書は、私のように同時代を生き、同じような挫折を経験したものにとっては興味深い。だが、読む人によっては単なる栄光と転落の物語に映るかもしれない。だが、そこから本書は次なる展開にうつる。

今までに本書が描いて来た個人と社会の価値観の相克。それに正面から挑み続け、跳ね返され続けてきたのが貴子であり、うまくよけようと立ち回ってきた結果、孤独に陥ってしまったのが歩。本書とは言ってしまえば、二人の世の中との価値観の折り合いの付け方の物語だ。

「「あなたが信じるものを、誰かに決めさせてはいけないわ。」」という、貴子からの言葉が歩に行動を起こさせる。ようやく自分を理解してくれる伴侶を得た貴子がようやく手に入れた境地。自分の中にある幹を自覚し、それに誠実であること。そのことを歩に伝える貴子の変わりようは、歩に次なる行動を起こさせる。

歩は現状を打破するため、エジプトへと向かう。かつて自分が育ち、圷家がまだ平和だったころを知るエジプト。エジプトで両親に何がおこったのか、自分はエジプトで何を学んだのか。それらを知るため旅に出る。圷家と今橋家の過去の出来事の謎が明かされ、物語はまとまってゆく。読者はその時、著者が本書を通して何を訴えようとしてきたのかを理解できるだろう。

親友のヤコブはコプト教徒だった。イスラム教のイメージが強いエジプトで、コプト教を信じ続けることの困難さ。コプト教とはキリスト教の一派で、コプトとはエジプトを意味する語。マイノリティであり続ける覚悟と、それを引き受けて信仰し続ける人間の強さ。

本書には著者に影響を与えた複数の作品が登場する。ニーナ・シモンのFeeling Goodや、ジョン・アーヴィングの「ホテル・ニューハンプシャー」だ。
前者は、
It’s a new dawn
It’s a new day
It’s a new life
For me
And I’m feeling good の歌詞とともに。全ては受け入れ、全てをよしとすることから始まる。物事はあるがままに無数の可能性とともにある。それをどう感じ、どう生かすかは自分。全ては自分の価値観によって多様な姿を見せる。

育んだ価値観に自信が持てれば、あとはそれを受け入れてくれる誰かを探すのみ。歩は誰かを探す旅に踏みだす。その時、SNSには頼らない。SNSは人との関係を便利にするツールではあるが、自分の中の価値観を強くするためのツールではない。自分の価値観で歩み、SNSに頼らず生身の関係を重んじる。主人公の名のように。

歩も著者も1977年生まれ。私の四つ年下だ。ほぼ同じ年といってよいはず。私も今、自分の人生の幹を確かなものにし、「「自分が信じるものを、誰かに決めさせないため」」に歩み続けている。自らの価値観に忠実であることを肝に銘じつつ。

上巻のレビューで本書が傑作であると書いたのは、本書が読者を励まし、勇気付けてくれるからだ。今どき、教養小説という存在は死に絶えた。だが本書は、奇妙なエピソードを楽しめるエンタメ小説の顔を見せながら、青少年が読んで糧となりうる描写も多い。まさに現代の教養小説といってもよい読むべき一冊だ。

‘2018/08/14-2018/08/16


サラバ! 上


私は本書のことを、電車の扉に貼られたステッカーで知った。そのステッカーに書かれていた、本書が傑作であるとうたうコピー。それが本書を手に取った理由だ。その他の本書についての予備知識は乏しく、それほど過度な期待を持たずに読み始めた。迂闊なことに、帯に書かれていた本書が直木賞受賞作であることも気づかずに。

だが、それが良かったのかもしれない。本書は私にとって予期しない読書の喜びを与えてくれた。上質の物語を読み終えた時の満足感と余韻に浸る。本読みにとっての幸せの一瞬だ。本書はすばらしい余韻を私にもたらしてくれた。

本書の内容は、いわゆる大河小説と言ってもよいだろう。ある家族の歴史と運命を時系列で描いた物語。一般的に大河小説とは、長いがゆえに、読者をひきつけるエピソードが求められる。内容が単調だと冗長に感じ、読者は退屈を催す。だから最近の小説で大河小説を見かける事はあまりない。ところが、本書は大河小説の形式で、読者に楽しみを提供している。本書には読者を退屈させる展開とは無縁だ。奇をてらわずに、読者の印象エピソードを残しつつ、ぐいぐいと読ませる。

本書に登場するのは、ある個性的な家族、圷家。主人公で語り手である歩は、そんな家族の長男として左足からこの世に生まれる。つまり逆子だ。歩が産まれたのはイランのテヘラン。革命前の1977年のことだ。普通の日本人とは違う。生まれが人と違う。ところが本人はいたって普通の人間であろうとする。そればかりか自ら目立たぬように心がけさえする。エキセントリックな姉の陰に隠れるように。

体中で疳の虫が這いずり回っているような姉の貴子。自分が認められたい、注目されたい。そんな姉は産まれてきた唯一の理由が母を困らせること、であるかのように盛大に泣く。欲求が満たされるまで泣く。決して満たされずに泣く。自己主張の権化。ホメイニによるイラン革命の余波を受け、一家が日本に帰国してからも、姉の振る舞いに歯止めはかからない。ますますおさまりがつかなくなる。

よく、次男や次女は要領よく振る舞うという。本書の歩も同じ。長男ではあるが、男勝りの姉の下では次男のようなもの。姉と母の戦いを普段から眺める歩は、自らの身の処し方を幼いうちから会得してしまう。そして要領よく、一歩引いた立場で傍観する術を身につける。

幼稚園にはいった歩は社会を知り、歩なりに社会と折り合いをつけてゆく。ところが、社会よりもやっかいなのが姉の奇矯な言動だ。貴子の扱いに悩む母。「猟奇的な姉と、僕の幼少時代」と名付けられたはじめの章は、まさにタイトル通りの内容だ。猟奇的な姉の陰に隠れ、歩は自らのそんざを慎むことを習い性とする。それに比べて貴子は自らを囲むすべてに敵意と疑いの目を向け続ける。すでにこの時点で本書の大きなテーマが提示されている。人は社会にどう関わってゆくのか、という表向きの大きなテーマとして。

本書は歩の視点で圷家の歴史を語ってゆく。歩の幼稚園時代の記憶も克明に描きつつ。園児の間にクレヨンを交換する習慣。一読するとこのエピソードはさほど重要ではないように思える。だが、このエピソードは本書を通して見逃せない。なぜなら、歩がどういう立場で社会に関わっていくかが記されるからだ。そして、このエピソードは、本書に流れる別のテーマを示唆している。人気がある色を好意を持つ相手にあげるのではなく、自分が好きな色を相手にあげる行い。人気があるから選ぶのではなく、自分の価値観に沿っているから選ぶ。そこには自分しか持ち得ない価値観の芽生えがある。歩がひそかに好意を持つ「みやかわさき」も、皆に人気の色には目もくれず、自分の望む色を集めることに執心する。

続いての章は「エジプト、カイロ、ザマレク」。一家は再びエジプトに旅立つ。歩は7歳。つまり歩は小学校の多感な時期の学びを全てエジプトで得る。日本の教育と違ったエジプトの教育。現地の日本人学校には妙な階級意識やいじめとは無縁だ。なぜならエジプトの中で日本人同士、助け合わなければならないから。そんな学校で歩は親友を作り、その親友と疎遠になる。そして、エジプト人でコプト教徒のヤコブと親友になる。

この章で描かれたエジプトは妙にリアル。これは著者のプロフィールによると実際に住んだことがあるからのようだ。アラブの文化が日本のそれとかなり離れており、幼い時期に異文化をたっぷり浴びた経験が、歩と貴子のそれからに多大な影響を与えたことは想像に難くない。

ダイバーシティや多様性の大切さは最近よく言われるようになって来た。だが、それを言い募る人は、本当の意味の多様性を理解しているのだろうか。少なくともわたしは自信がない。せいぜい数カ所の、それも一、二週間程度、海外に渡航した程度では、何もわからないはず。せいぜいが日本の各地の県民性を多様性というぐらいが精一杯だろう。少なくとも本書で描かれるエジプトの生活は、日本人が知る生活や文化とは大きく違っていて、それが本書に大きな影響を与えているのは明らかだ。

さて、本書の主人公である歩は男性、そして著者は女性だ。ずっとわたしは本書を読む間、著者自身が投影されていたのはどちらだろう、と考えていた。歩なのか、貴子なのか。多分、私が思うに、著者が自身を投影していたのは、貴子であり、歩が幼稚園で気にかけていたミヤガワアイなのだろう。そして、彼女たちの姿が歩の視点から描かれている、ということはつまり、本書は著者が自分自身を歩の視点から客観的に描いたとも取れる。本書がもし、著者の自伝的な要素を濃く含んでいて、それがわたしの推測通り、主人公の周囲の人物に投影されていたとすれば、本書がすごいのは自分自身を徹底して客観化させたことではないか。もちろん、本書で描かれた貴子やミヤガワアイと同じ行いを著者がしたはずはない。だが、彼女たちの奇矯な行動は、著者が自分の中に眠る可能性を最大限に飛躍させた先にある、と考えると、著者のすごさが分かる気がする。

私は下巻まで一気に読み終えた後、著者にとても興味を持った。そして面白い事実を知った。それは著者が1977年生まれで大阪育ち、という事だ。私と4つしか違わない。しかも、出身は私と同じ関西大学。法学部だという。ひょっとしたら私は著者と学内ですれ違っていたかもしれない。それどころか政治学研究部にいた私は、法学部に何人もの後輩がいたので、著者を間接的に知ってい他のかもしれない。そんな妄想まで湧いてしまう。

歩の両親に深刻な亀裂ができ、その結果、両親は離婚する。父を残して圷家は日本に引き上げる。歩はヤコブに「サラバ!」と言い残し、エジプトを離れる。なぜ両親は離婚したのか。その事実は歩に知らされない。そして、垰歩から今橋歩に名が変わり、中学、高校と育ちゆく歩。サッカー部に属し、クールでイケてる男子のイメージを築き上げることに成功する。彼女ができ、初めてのキスと初体験。

そんな今橋家の周りを侵食する宗教団体。いつの間にか発生したが宗教団体は、サトラコヲモンサマなる御神体を崇める。教義もなく、自然に発生し、自然に信者が増えたその宗教団体。人望のあった大家の矢田のおばさんの下、集った人々が中心となったこの奇妙な集まりは、無欲だった事が功を奏したのか、歩の周囲を巻き込み、巨大になってゆく。姉貴子も矢田のおばさんの元に熱心に通い詰め、自然と教祖の側近のような立場で見られるようになる。幼い頃から自分を託せる存在を求め続けた貴子がようやく見つけた存在。それが信心だった事は、本作にも大きな意味を与える。「サトラコヲモンサマ誕生」と名のついたこの章は、本書の大きな転換点となる。

そんな周りの騒がしさをモノともせず、青春を謳歌し続ける歩。一見すると順風満帆に見える日々だが、周りに合わせ、目立たぬような生き方という意味では本質はぶれていない。流れに合わせることで、角を立てずに生きる。そんな歩の生き方は、私自身が中学、高校をやり過ごした方法と通じるところがある。ある意味、思春期をやり過ごす一つのテクニックである事は確かだ。だが、その生き方は大人になってから失敗の原因にもなりかねない。今の私にはそのことがよくわかる。

結局、ここまで書かれてきた歩と貴子の危うさとは、同じ道を通ってきた大人の読者にしかわからないと思う。若い時分の危機を乗り越えてきた大人と、若い読者。ともにやきもきさせながら、歩と貴子の二人の人生は、強い引力と放ち、読者をひきつける。そして結末まで決して読者を離さない。なぜならば、読者の誰もが通って来た道だから。そして、たどろうとする道だから。個性のかたまりに見える歩と貴子だが、誰もが心のどこかに二人のような危うさを抱えていたはず。

‘2018/08/13-2018/08/13


半分のぼった黄色い太陽


ラテンアメリカの作家や小説が好きな私。アフリカのことだって好きになれるはず。機会があればアフリカを描いた小説を読みたい、と思っていた。

本書は私にとって、はじめて読むアフリカ人が書いた小説だと思う。本書の舞台はナイジェリアだ。ナイジェリアで1960年代に起こった内乱、ビアフラ戦争が大きなテーマとなっている。アフリカと聞いても日本人の多くは内乱と飢餓、サバンナと砂漠しか思い浮かべられないかも。少なくとも私はそうだった。

しかし、アフリカとはそのような通り一遍の知識だけで語れる地ではない。政情が安定している時のアフリカは、文化的に充実した暮らしが送れた地だったのだ。酒を飲みながら論議にふけり、召使いに生活の雑事を任せ、学問が尊重される生活。本書の前半にも登場するような洗練された暮らしは、アフリカへの偏見を払拭させてくれる。

イボ族に生まれたオランナとカイネネの姉妹は、裕福な環境を満喫している。彼女たちの父は建設会社を経営し、財務大臣を家に招けるだけの地位を築きあげた。財産だけでなく容姿にも恵まれた姉妹には縁談や誘惑も絶えない。だが、彼女たちは自分で相手を選ぶ。その相手がオニデボとリチャード。オニデボは地元大学で数学の講師を勤め、教授への野心を隠そうともしない。社会や政治にも旺盛に口をだし、自らの理想を実現しようと日々を過ごしている。自宅で開くサロンでも他の場所でも、彼の周りには人が集まる。一方のリチャードは、イギリスからイボ美術の文様に魅せられてやって来た白人。リチャードは少し内気で、自らの容姿がナイジェリアでは目立つことを気にしている。そうしながらも、少しずつアフリカの暮らしになじんでいる。そしてある日、カイネネに惹かれ、二人は付き合うようになる。

そんな四人を観察するのは、オニデボがハウスキーピングに雇った少年ウグウ。彼の少年ならではの視線は、オランナとオニデボの二人を観察する。そして二人の間に起こるすれ違いや睦まじい関係を描き出す。たまにやってくるカイネネとリチャードや、周りの人々との交流も召使の注意深さで見逃さない。

本書は四部で構成されている。まず60年代前半。次いで60年代後半。そしてまた60年代前半に戻り、最後は60年代後半で締めくくる。

最初の第一部で描かれるのは、ナイジェリアが満たされていた1960年代前半の日々だ。何もかもが順調。困ったことといえば、古い部族の因習に縛られたオニデボの母がオランナとの間に巻き起こす女同士の争いぐらいのもの。争いといってもいわゆる嫁と姑の間に散る火花のような程度。しかしその対立は、オニデボの母がオニデボとオランナを引き離そうとするたくらみにつながる。それは、四人の間にある事件を引き起こす。ただ、それも家庭の問題にすぎない。ナイジェリアはいたって平和であり、特権階級に安住していた彼女たちに何の不安も起こるはずはなかった。

第二部で本書は60年代後半を描く。ビアフラ内乱の情勢は急を告げ、不穏な空気が特権階級を圧迫し始める。だんだんと日常からゆとりが奪われ、議論や文化が喪われてゆく。理想に燃えたオニデボの周りにはしだいに現実の厳しさが濃くなってゆく。そしてついには家も職も安定も平和も消える。

ここで簡単に触れておくと、ビアフラ戦争とはナイジェリアの政情が不安になったことにより、イボ族がビアフラ共和国を建国してナイジェリアから分離独立を果たしたが、3年後に内戦に敗れて再びナイジェリアに併合された一連の流れを指す。本書のタイトルでもある「半分のぼった黄色い太陽」とは、3年の間だけ掲げられたビアフラ共和国の国旗のデザインのことだ。3年の日々はイボ族にとっての試練であり、イボ族のオランナとカイネネの姉妹、それにオニデボにとっても苦しい時期だった。地位どころか生存すら脅かされる日々。

第三部ではまた60年代前半に立ち戻る。第一部で四人の間に亀裂を入れた出来事は何だったのかが明かされる。オニデボの母によるたくらみ。それが四人に与えた深刻な影響。第二部ではそのできごとには触れていない。それがかえって、オランナとカイネネの姉妹とオニデボの間に流れる緊張感とあいまって、ビアフラ戦争が彼らに及ぼす影響の不気味を表わしていた。著者の筆は、流れるようにその一連の出来事をさばいてゆく。読者はただその流れに乗っていけばよい。

本書はアフリカが舞台という予断を持って読んではならない。予断を持つと、著者の見事な心理描写や事物に人物の心理を語らせる達者な小説技巧を見逃すことになるからだ。本書にはビアフラ紛争で次第に苦しめられていくナイジェリアが描かれているが、そこに至るまでの平和な日々の様子と登場人物たちの織りなす複雑な心理の綾を味わうだけでもよい。また、二組の男女が苦難の日々を乗り越えてゆくラブストーリーとして読んでもよい。どちらの読み方でも存分に本書を楽しめるはずだ。

二組の男女の愛のカタチ。それがビアフラ紛争によって次第にゆがめられ、引き裂かれていく姿。そこに行きつくまでの愛の形が鮮やかに描かれているからこそ、紛争によって無残になってゆく人の心のもろさと、戦争のむなしさが浮き彫りになってゆく。第一部から第三部まで著者がじっくり描いてきた物語のエネルギーは、最終部である60年代後半で一気に昂進する。この部ではウグウはあまり登場しない。拉致されるようにビアフラ軍に徴兵されるからだ。徴兵され、半死半生の目に合わされる。カイネネにも無慈悲な運命が襲い掛かる。なまじ生活力がある彼女は、ビアフラ全体が飢餓に苦しめられる現状を打破しようと行動を起こし、あげくの果てに行方不明になってしまう。そしてもっとも無残なのはオニデボだ。ビアフラ共和国に賭けた民族が自立する夢は残酷に砕け散り、職も理想も失った彼。かつて覇気はどこへやら。気力を失い、酒に逃げるだけの男になってしまう。オランナが絶望に負けず、強い自我を保っているのとは対照的に、オニデボの弱さが対極的に描かれる。白人であるリチャードはただカイネネの帰りを祈るしかなすすべがない。

二組の男女のそれぞれの姿からは、男はいざとなると弱く、女は強いという構図が透けて見える。それは著者が女性ということも関係あるはず。だが、本書において男女の違いは重要ではないと思う。それよりも重要なのは、アフリカの内実をアフリカ人が自ら語ったことにある。それによってアフリカについて、ナイジェリアについての知識を持たない私のような読者が、本書から得られるアフリカへの手ごたえ。頭ではわかっているつもりでも、ナイジェリア人が日本人と同じ喜怒哀楽を持ち、男女の愛や愚かな行為に囲まれて生活している事。それを生き生きと感じさせてくれたことこそ、本書の価値ではないかと思う。

本書のあとがきで訳者が著者やナイジェリアについて詳しく解説を書いてくれている。その内容は一読の価値がある。著者の他の作品には、アフリカを母国としたアイデンティティと、アフリカの等身大の姿を書く姿勢が詰まっているに違いない。読まなければと思った。

‘2017/10/31-2017/11/17


最後の注文


人生。儚く、危なっかしく、そして愛すべきもの。出会い、別れ、喜びと苦しみ。人の数だけそれぞれの生が営まれ、生き様が刻まれる。それは、死に際しても同じ。生の数だけ死が、生き様に応じた死に様がある。

有史以来書かれたあらゆる小説は、人生を描く芸術であり、表現といっても言い過ぎでない。あらゆる作家によって、あらゆる登場人物の人生が記され、描き出されてきた。

本書もまた、その系譜に連なる一書である。

本書の登場人物は主に五人である。生者が四人、死者が一人。死者が遺言として残した、自分が死んだら遺灰をマーゲイトの海に撒いてくれ、という願い。この願いを叶えるために集まった三人の親友と血のつながらない息子の四人の旅路。端役も含めた七人の語り手によって紡がれる、人生の物語が本書の粗筋である。

もっとも、本書の要約だけ書くと、いかにも使い古された構成である。小説や映画で似たような構成の話は、掃いて捨てるほどある。

本書は英国の著名な文学賞であるブッカー賞を受賞した作品である。本書は何故ブッカー賞を獲得できたのか。単なる旅行譚ではそこまでの評価など与えられはしない。本書が本書である所以は何か。それは、人生の追体験である。

死者の願いを叶える旅の中で、それぞれの登場人物は、それぞれの生を生き直す。死者が生前に手配した導きに引かれるようにして。三人の老い先短い人生を精算する時期に、死者の分身ともいうべき息子が、父の遺志を遂行すべく、三人の人生が浄化されていく。楽しかったことも後ろめたいこともひっくるめて。その過程が、実に入念に練られた本書の語りや構成によって、われわれ読者の前に提示される。そして読者は本書を読みながら、読者自身の人生も思い起こすことになる。

数奇な人生でなくてもよい、人の生の営みとは単調に見えても、ドラマに満ちている。平穏の積み重ねであるようでも、波乱に翻弄された歴史である。本書の登場人物たちの一生がまさにそうである。英雄譚はなくとも、人生とは積み重ねた年の数だけ挿話に満ちているもの。今がつらくても、過去が面白くなくても、未来に希望が持てなくても、精算の時期になれば皆平等なのが人生。生きてきた全てが儚く、危なっかしく、そして愛すべきものとなる。

自分の人生の回顧録を書いてみたくなるような、そんな小説が本書である。

’14/05/07-’14/05/16


マレフィセント


眠れる森の美女。ペローやグリムによる紹介により、かなり知られている童話である。ディズニーアニメよりも前に子供用の絵本で本作に触れた方も多いことであろう。

本作は、その童話の悪役マレフィセントに焦点を当てた作品である。なぜマレフィセントはオーロラ姫に呪いを掛けたのか。一般的にはオーロラの誕生パーティーに招かれなかったから。という理由になっている。だが、本作ではマレフィセントの幼少期にまで遡り、全く違う視点からの物語を描くことで、有名な物語を根底から覆すものとなっている。

角を生やし、紫色のローブに身を包んだマレフィセント。その姿は、悪魔的なイメージそのものである。だが、本作では、冒頭から幼少期の妖精としてのマレフィセントを登場させ、意表を突く。劇場でさんざん流された予告編で、本作は、アンジェリーナ・ジョリー扮するマレフィセントの妖艶な冷笑が採り上げられている。しかし、それは製作側の仕掛けたトリックであり、予告編で植え付けられた想像は、見事にひっくり返されることになる。天真爛漫でのびやかで愛らしい妖精のマレフィセント。空を自由に疾駆し、生きとし生けるものを愛するマレフィセント。

そんな愛らしいマレフィセントがなぜオーロラに呪いを掛けるまでになったのか。予告編を観る限りではその謎解きこそが本編の大きな筋と思い込んでしまう。しかし、その見せ場は前半部分までに実現してしまう。マレフィセントが呪いを掛ける理由が筋書きとして紡がれ、呪いはあっさりと掛けられる。

本作の見どころはその後にある。マレフィセントがどうやってオーロラに関わっていくか。そして呪いは実現されてしまうのか。呪いはその後どのような結末を招くのか。

アンジェリーナ・ジョリーの表情の移り変わりから、目が離せない。ディズニーキャラクターでマレフィセントが一番好きだったと語るアンジー。製作も兼ねた彼女の渾身の役作りが圧巻である。言動以外に表情で観客に語りかけるアンジー。アクション女優のイメージが未だに抜けきらなかった私には、新たな一面を見せられた思いである。

このところ童話の翻案作が目立つハリウッドであるが、同じように目立つのが男性の卑下化である。本作もそれは例外ではなく、いたるところにそのような描写が目立つ。

だが、それはそれとしても、本作に込められた女性の情念の複雑さ。そして、アンジーの作り上げたキャラクター、マレフィセントが数百年に亘るイメージを破り、全く新たな視点からの悪役像を提供した本作。その衝撃は、一見の価値がある。

本作を機に、著名な脇役キャラを別の側面から描いた作品が出てくることを予言したい。

それにしても、ここまで西洋の物語をイメージ化した作品に出会ったことがない。西洋の持つ童話世界、アーサー王物語に始まるファンタジーの世界が見事に映像化されている。今の映像技術が西洋発祥の物が多いとすれば、それは西洋人が心に持つファンタジー世界を映像化するためだったのではないかと思う程である。

’14/7/20 イオンシネマ 多摩センター


そうか、もう君はいないのか


巻末の児玉清さんの解説にすべてが書かれている。本文でも静かな共感と感動が、そして読み終えた終わった後には児玉さんの文章にまた心を動かされる本である。

著者が亡くなった後に、依頼を受けて書いていたという奥様とのなれそめや思い出を綴った原稿を、残された遺族の方がまとめたという本書は、原稿に対する気負いも重圧もなく、ただひたすらに著者の愛妻家ぶりと自分の一生への肯定的な気持ちが伝わり、すがすがしい気持ちになる。

私の少ない読書体験の中では、著者の自伝にはまだ巡り会っていないけれど、愛妻との出会い、そして名古屋への通勤から茅ヶ崎への転居、小説家としてのデビューが淡々とした筆致で語られており、本書こそが著者の自伝といっても過言ではないだろう。

巻末には原稿を編纂した遺族の娘さんによる文章も載っており、著者の主観的な文章と、娘さんの客観的な視点から、氏の愛妻家や人柄が伝わってくる。

職住近接のススメとして、本書を取り上げてもいいかもしれない。

なお、この本の解説を児玉さんが書かれたのは、なくなる一年前である。あくまで想像だけれど、お亡くなりになる前に、改めて本書の想いを味わいつつ、旅立たれたのではないだろか。

’12/1/30-’12/1/31