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この国の未来に私や弊社ができること


金曜日の朝に流れた安倍元首相が銃撃されたニュースはかなりの衝撃を私に与えました。

そのニュースを私は八王子に向かう電車の中で知りました。
八王子駅に着くと、ちょうど日本共産党の候補者の方が街頭演説をしていました。私が通りがかった時、先ほど入ってきたニュースとして銃撃のことに言及されていました。暴力は許されない、私たちは議会で議論してこの国を良くしていく、とその方は熱弁をふるっておられました。

用事を済ませた私がコワーキングスペースで仕事をしていたら、安倍元首相が死去されたニュースが飛び込んできました。
そこから、ジワジワと私の中に衝撃が染み渡ってきました。何か大切なものが抜け落ちてしまったかのような。

その喪失感がどこから来るものなのか。私はその感情を持て余し、衝動的にバーに飛び込みました。
バーから出て八王子の駅に向かうと、読売新聞の号外が配られていたので一枚手に取りました。

帰宅した後も今朝になってもまだその衝撃は去りません。さらに一日おいても。
衝撃を受けた理由を自分なりに考えるため、本稿に著してみます。なぜ衝撃は去らないのか。

その前に私の政治的な立場を明らかにしておきます。
私はどちらかというとノンポリのその他大勢に属しています。特定の政党にも宗教にも属していません。シンパでもなく、オルグもされていません。
改憲には賛成の立場です。ただし、それは武力行使を許すためでなく、逆に専守防衛のために自衛の軍隊を持つことを条文に明記するためです。他にも施行当時にはなかった国民の権利の考えを今の時代に合わせてアップデートすべきだと思っています。多様性を重んじ、LGBTQ+も加味した憲法として。

安倍元首相は改憲に向けてリーダーシップを発揮しておられました。私は氏に改憲の可能性を感じていました。安倍元首相とは目指す方向が違う可能性はありましたが、私は期待し、応援していました。ところが、疑惑を招くような数々の行いがありました。あれには失望させられました。日本を変えたいのなら脇を甘くせず、一切の疑惑を招かないよう、注意深く振る舞ってほしかったと。

ですが、政治家も官僚も人間です。私は人間の能力では皆が完全に納得できる政策を立案し、施行するのは不可能だと思っています。
そして、誤りを犯さない人間もいません。安倍元首相は聖人君子のパーフェクトヒューマンではありませんでした。が、それが逆に、人間の強さと弱さを兼ね備えた名政治家の証だったと思います。

衝撃を受けた理由を考えてみました。

事件が起きたのが、私が三週間前に通りがかった大和西大寺駅の北口だったから何かの数奇な縁を感じたのでしょうか。多分違います。
事件の夜、私は大和西大寺駅前で一緒に飲んだ後輩に連絡しました。すると、その後輩はたまたま大和西大寺駅にいたらしく、駅の写真を撮って送ってくれました。いつもと変わらないであろう駅の様子を見て、私が感じた衝撃の理由が最近に訪れた場所だからではないことが分かりました。

では安倍元首相が有名だからでしょうか。これも違うように思えます。アメリカのケネディ大統領やジョン・レノンが撃たれた時の世間の反応もこのような感じだったのでしょうか。ですが、ジョン・レノンが撃たれた時、私は7歳でした。全く記憶していません。

アメリカ同時多発テロ事件のような、私たちがよく理解できない主義主張による凶行だからでしょうか。これも違うと思います。
今のところ、報道によれば犯人には、政治的な信条の他に動機があるらしいとのことです。多くのアンチを抱えていた安倍元首相ですが、アンチが主張する理由をある程度は知っています。その理由があったからこそ、もっとも安倍元首相が標的に選ばれやすかったことも。

では、日頃から起きている悲惨な事件や事故と今回の事件は何が違うのでしょう。何がこれほどに衝撃を与えるのでしょう。

私は、ネットの暴力がついにリアルを侵食し始めた怖さにあると思います。
今までも、わが国では暗殺が多数なされました。元首相や現職の首相も。テロもそう。平成にはオウム真理教が暴走し、令和でも京都アニメーションの放火が世間に衝撃を与えました。他にも通り魔事件や凶悪な犯罪は何度も発生しています。
ですが、こうした暴力は、私たちにとっては突発のものでした。犯人の中で人知れず憎悪が増幅していたにせよ、私たちがそれを知る術はありませんでした。オウム真理教による脅威はサリン事件の前から一部のマスコミで報道されていましたが、当時はまだネットが未開拓でした。世間にオウム真理教の内情は知られていませんでした。
戦前のテロは社会に不安が高まり、それが新聞などで報道された中で行われていました。ですが、当時はネットもなく、今の情報の広がり方とは明らかに異なっています。
今までの事件は、どれも事態が起こってから、動機を後追いしてさかのぼる種類のものでした。それは論理による振り返りです。

ところが、安倍元首相の場合、ネットの中でアンチの世論が形成されていました。中には見苦しい暴言も散見されました。
今回、犯人の動機が報道されています。それによると政治信条ではなく、私的な理由が動機だそうです。ガードが堅い特定団体の関係者を襲うかわりに、その団体とのつながりを報道されていた安倍元首相を狙ったと。
ここからは私の推測ですが、その団体とつながりがあると報道されたことが犯人の矛先を向かせたのではないかと。もしそうだとしたら、ネットに渦巻くアンチの声は、リアルへの緩衝効果どころか、犯罪を後押しした結果を招きました。

私は今まで、こうしたネット内のアンチの声を鬱憤の発散の場として許容し、甘くみていました。
ですが、たまり続ける鬱憤はリアルの場で暴発する。そのことが実証されたのが今回の事件だったと思います。その恐ろしさが私に衝撃を与えたのだと考えています。論理による振り返りを許さない現実の恐怖。

ネットが出現する以前のメディアや通り魔事件犯人の心の中は、いわば閉じた情報でした。ですが、ネットにあふれる情報は、社会に向けて開かれています。そうした情報は社会に広がっているため、希釈され発散され、凝縮して暴発しない。私はそのように油断し、勘違いをしていました。
犯人の行為は許せません。罪を償ってもらうのは当然ですが、それで終わらせず、社会をなんとかしないと。

このような事態が起こった今、私や弊社のような情報技術に携わるものはどうすれば良いのでしょう。
まず、確認しておきたいのは、今まさに進んでいる情報社会の流れは絶対に後には戻らないことです。これからも社会にはますます情報が流れ、あらゆるものがデータで表現されていくはずです。それは間違いありません。

多分、情報技術に関わる人は、私も含めてこれからも忙しい日々を送ることでしょう。
その時、技術者は個人情報を含む機密情報の扱いには細心の注意を図ることが求められます。ヒューマンエラーをなくすための仕組みの導入を含めて。
ただし、秘匿すべき情報を除けば、これからは逆に情報を開示していく時代になると思います。
すでにビットやバイトなどのパケットの仕組みやネットプロトコルなどのレイヤー1からレイヤー6までは規格が策定され、公開されています。レイヤー7のアプリケーションに関わる部分は私や弊社が関わる部分です。そこも機密情報を公開しない限りにおいて、求められれば開示できるよう、備えておくことが必要です。

これからは、情報は原則として公開するものというポリシーを持つことが私たちに求められます。いわば情報の民主化です。
情報が特定の組織や立場に握られない社会。誰もが公平に世の中の情報を享受できる社会。
国や民族や性別や宗教や信条や立場や門地によって与えられる情報が区別されない社会。
社会から疎外されたと感じる人がいなくなり、いかなるパーソナリティの方でもなじめるような社会。

そうした社会を創るためには、そうした方々にあまねく情報を配信できる仕組みを作らねばなりません。
また、あらゆる方がきちんと情報を扱うリテラシーを備えることも大切です。そのための教育も必要でしょう。
今回の犯人のように、自らの中の衝動に追い詰められる人を少しでも減らしていかなければ。

弊社も私もそのような社会が実現できるよう、努力していきたいと思います。

今日は参議院議員選挙です。私も投票してきました。
皆さんも投票の権利を行使し、社会に参加して、まずは身の回りから不満に思う部分を変えていってほしいと思います。
ただし、それには時間がかかります。すぐに世の中は変わりません。身の回りもすぐには変わりません。何年も何年もかけて変えていかなければ。
事件の翌日、私が好きな場所の一つである、世田谷の慶元寺を訪れました。そこで門前に掲げられていた標語をアップしておきます。何事も好転するまでには若干のタイムラグがあるのです。

末筆になりましたが、安倍元首相に心からの哀悼をささげたいと思います。あなたの死を無駄にはしないように。そして改憲への志を引き継いでいけるように。


無頼のススメ


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私は独り。一人で生まれ、独りで死んでいく。

頭で考えれば、このことは理解できるし受け入れられる。だが、孤独でいることに耐えられる人はそう多くない。
独りでいることを受け入れるのは簡単ではない。

群れなければ。仲間といなければ。
新型コロナウイルスの蔓延は、そうした風潮に待ったをかけた。
独りで家にこもることが良しとされ、群れて酒を飲むことが悪とされた。
コロナウイルスのまん延は、独りで生きる価値観を世に問うた。

孤独とは誰にも頼らないこと。つまり無頼だ。

無頼。その言葉にはあまり良いイメージがない。それは、無頼派という言葉が原因だと思われる。
かつて、無頼派と呼ばれた作家が何人もいた。その代表的な存在として挙げられるのは、太宰治と坂口安吾の二人だろう。

女性関係に奔放で、日常から酒やドラッグにおぼれる。この二人の死因は自殺と脳出血だが、実際は酒とドラッグで命を落としたようなものだ。
既存の価値観に頼らず、自分の生きたいように生きる。これが無頼派の狭い意味だろう。

本書のタイトルは、無頼のススメだ。
著者は、広い意味で無頼派として見なされているそうだ。ただ、私にとって無頼派のイメージは上に挙げた二人が体現している。正直、著者を無頼派の作家としては考えていなかった。

だが、そもそも作家とは、この現代において無頼の職業である事と言える。
ほとんどの人が組織に頼る現在、組織に頼らない生き方と言う意味では作家を無頼派と呼ぶことはありだろう。

今の世の中、組織に頼らなければやっていけない。それが常識だ。だが、本当に組織に頼ってばかりで良いのだろうか。
組織だけではない。
そもそも、既存の価値観や世の中にまかり通る常識に寄りかかって生きているだけでよいのだろうか。
著者は、本書においてそうした常識に一石を投じている。

人生の先達として、あらゆる常識に頼らず、自分の生き方を確立させる。著者が言いたいのはこれだろう。

著者はそもそも出自からしてマイノリティーだ。
在日韓国人として生を受け、厳しい広告業界、しかも新たな価値を創造しながら、売り上げにつなげる広告代理店の中で生き抜いてきた人だ。さらには作家としても大成し、ミュージシャンのプロデュースにまで幅を広げている。著者が既存の価値観に頼っていれば、これだけの実績は作れなかったはず。
そんな著者の語る内容には重みがある。

「正義なんてきちんと通らない。
正しいことの半分も人目にはふれない。
それが世の中というものだろうと私は思います。」(19ページ)

正義を振りかざすには、それが真理であるとの絶対の確信が必要。
価値観がこれほどまでに多様化している中、そして人によってそれぞれの立場や信条、視点がある中、絶対的な正義など掲げられるわけがない。

また、著者は別の章では「情報より情緒を身につけよ」という。
この言葉は、情報がこれほどまでに氾濫し、情報の真贋を見抜きにくくなった今の指針となる。他方で情緒とは、その人が生涯をかけて身に付けていくべきものだ。そして、生きざまの表れでもある。だからこそ、著者は情緒を重視する。私も全く同感だ。

ノウハウもやり方もネットからいくらでも手に入る世の中。であれば、そうした情報に一喜一憂する必要はない。ましてや振り回されるのは馬鹿らしい。
情報の中から自分が必要なものを見極め、それに没頭すること。全く同感だ。

そのためには、自分自身の時間をきちんと持ち、その中で自分が孤独であることを真に知ることだ。

著者は本書の中で無頼の流儀についても語っている。
「「酒場で騒ぐな」と言うのは、酒場で大勢で騒ぐ人は、他人とつるんでヒマつぶしをしているだけだからです。」(64ページ)

「人をびっくりさせるようなことをしてはいけない。」(65ページ)
「人前での土下座、まして号泣するなんて話にもならない。」(65ページ)

「「先頭に立つな」というのも、好んで先頭に立っている時点ですでに誰かとつるんでいるから。他人が後からついてくるかどうかなんて、どうでもいいだろう。」(65ページ)

老後の安定への望みも著者はきっぱりと拒む。年金や投資、貯蓄。それよりも物乞いせず、先に進む事を主張している。

「「私には頼るものなし、自分の正体は駄目な怠け者」」(96ページ)
そう自覚すれば他人からの視線も気にならない。そして、独立独歩の生き方を全うできる。冒頭で著者が言っている事だ。

そもそも著者は、他人に期待しない。自分にも期待しない。
人間は何をするかわからない生き物だと言い切っている。
「実際、「いい人」と呼ばれる人たちのほうが、よっぽど大きな害をなすことがあるのが世の中です。」(107ページ)

著者は死生観についても語っている。
「自分が初めて「孤」であると知った場所へと帰っていくこと。」(130ページ)

「なぜ死なないか。

それは自分はまだ戦っているからです。生きているかぎり、戦いとは「最後まで立っている」ことだから、まだ倒れない。」(131ページ)

本書は一つ一つの章が心に染みる。
若い頃はどうしても人目が気になる。体面も気にかけてしまう。
年月が過ぎ、ようやく私も経営者となった。娘たちは自立していき、自分を守るのは自分であることを知る年齢となった。

これからの人生、「孤」を自分の中で築き上げていかねばならないと思っている。

努力、才能、そして運が左右するのがそれぞれの人生。それを胸に刻み、生きていきたい。

著者は運をつかむ大切さもいう。時代と巡り合うことも運。

私の場合は技術者としてクラウドの進化の時代に巡りあえた。それに職を賭けられた運に巡り合えたと思う。
だが、著者は技術そのものについても疑いを持つ。
「技術とは、人間が信じるほどのものではなくて、実は曖昧で無責任なものではないか。
技術革新と進歩には夢があるように聞こえるけれど、技術を盲信するのは人間として堕落しているということではないか。私は、人類みんなが横並びで進んでいくような技術の追求は、いつか大きな失敗をもたらすような気がしてなりません。」(174ページ)

私もまだまだ。人間としても技術者としても未熟な存在だ。多分、ジタバタしながら一生を生き、そして最後に死ぬ。
そのためにも、何物にも頼らず生きる。その心持だけ常に持ちたいものだ。とても良い一冊だと思う。

2020/9/1-2020/9/1


FACTFULLNESS


本書は、とても学びになった。
本書を読んだ当時の感想は、7日間ブックカバーチャレンジという企画で以下の文書にしたためた。
その時から一年数カ月が経ったが、今も同じ感想を抱いている。

Day1で取り上げるのは「FACTFULLNESS」です。昨年、ベストセラーになりましたよね。

今、コロナを巡っては連日、さまざまな投稿が花を咲かせています。その中には怪しげな療法も含まれていましたし、私利私欲がモロ見えな転売屋による投稿もありました。また、陰謀論のたぐいが盛んにさえずられているのは皆様もご存じの通りです。

私はFacebookでもTwitterでも、そうした情報を安易にシェアしたりリツイートすることを厳に謹んでいます。なぜなら、自分がその道に疎いことを分かっているからです。
ですが、四十も半ばになった今、自分には知識がある、と思い込んでしまう誘惑があることも否めません。
私のように会社を経営し、上司がいない身であればなおさらです。
独りよがりになり、チェックもされないままの誤った情報を発信してしまう愚は避けたいものです。

本書は、私に自分の無知を教えてくれました。私が世界の何物をも知らない事を。

冒頭に13問の三択クイズがあります。私はこのうち12問を間違えました。
著者は世界各地で開かれる著名な会議でも、出席者に対して同様の問いを出しているそうです。いずれも、正答率は低いのだそうです。

本書の問いが重要なこと。それは、経歴や学歴に関係なく、皆が思い込みで誤った答えを出してしまうことです。
著者によれば、全ては思い込みであり、小中高で学んだ知識をその後の人生でアップデートしていないからだそうです。
つまり真面目に学んだ人ほど、間違いを起こしやすい、ということを意味しています。

また著者は、人の思考の癖には思い込ませる作用があり、その本能を拭い去るのはたやすくないとも説いています。

本書で説いているのは、本能によって誤りに陥りやすい癖を知り、元となるデータに当たることの重要性です。
また、著者の意図の要点は、考えが誤りやすいからといって、世の中に対して無関心になるなかれ、という点にも置かれています。

本書はとても学びになる本です。少しでも多くの人に本書を読んでほしいと思います。
コロナで逼塞を余儀なくされている今だからこそ。
陰謀論を始め、怪しげな言説に惑わされないためにも。

正直にいうと、私はいまだに偏見の霧に惑わされている。
というか、偏見に惑わされないと思うあまり、判断を控えている。
コロナの中でオリンピック・パラリンピックを開催し、その後、急に感染者数が減った事。私はこの時、なんの判断も示さなかった。
専門家でないことはもちろんだが、私の中で下手な判断をくだせば逆効果になると思ったからだ。
こればかりはFACTFULNESSを読んでも実践できなかった点だ。

「世界は分断されている」「世界がどんどん悪くなっている」「世界の人口はひたすら増える」「危険でないことを恐ろしいと考えてしまう」「目の前の数字がいちばん重要」「ひとつの例にすべてがあてはまる」「すべてはあらかじめ決まっている」「世界はひとつの切り口で理解できる」「だれかを責めれば物事は解決する」「いますぐ手を打たないと大変なことになる」
これらは本書が説く思い込みの例だ。

コロナは世界中でワクチンの争奪戦を呼び起こした。
その時、先進国ではいち早くワクチンが行き渡ったが、発展途上国ではいまだにワクチンが出回っていないという話も聞いた。
この情報は、果たして正しい情報なのか。
上記に書いた思い込みではないのだろうか。
私はこれもまだきちんと調べられていない。

FACTFULLNESSは怪しげなニュースソースに乗っかって言説を吐くことを諫めてくれた。
だが、このように一大事の際に何をみれば正しい情報を得るのか、という点については、一人一人が探していくしかない。
例えばテレビ番組では連日コロナ関連の報道がなされていたが、ああした番組をただ見比べて自分で判断していく以外に道が見つけられなかった。
テレビ局ごとに別の専門家が意見をいい、それを比較するのが精いっぱい。

本書の説く内容に従うならば、私たちはよりおおもとのニュースソースにあたり、加工・脚色された情報を見極めなければならない。
だが、コロナは遠くの国の出来事ではなく、自らに降りかかった災厄だ。しかも何が正しいのか専門家すらわかっていない現在進行形の出来事。
そうなると冷静に判断することも難しい。
それがコロナの混乱の本質だったように思う。

気を付けなければならないのは、これがコロナに限らないことだ。これから起こるはずのさまざまな事件や災厄についても同じ。
マスコミも私たちも等しく、コロナから学ばなければならないことは多いはず。反省点は多い。
「大半の人がどこにいるのかを探そう「悪いニュースのほうが広まりやすいと覚えておこう」「直線はいつかは曲がることを知ろう」「リスクを計算しよう」「数字を比較しよう」「分類を疑おう」「ゆっくりとした変化でも変化していることを心に留めよう」「ひとつの知識がすべてに応用できないことを覚えておこう」「誰かを責めても問題は解決しないと肝に銘じよう」「小さな一歩を重ねよう」
まずは、これらの提言を実践するしかない。

ただ、本書を読んだ後、私が実践し続けようと心がけていることはある。
それは謙譲の心だ。
上の7日間ブックカバーチャレンジの後、弊社は人を雇う決断をした。そして人を雇った。
それが今年だ。
人を雇うことによって、今までの一人親方として営業と開発と総務経理を兼ねる立場から指導する立場へと役割を変えた。

そうなると指導する前提で話をしなければならない。指導ということはあらゆることに秀でている必要があるのだろうか。
否。そんなことはない。
確かに開発にあたっては、知識が必要だ。
だが、本当に経営者は開発の知識において従業員を上回っていないとだめなのだろうか。
違うと思う。
その時に私の心に去来するのは、謙譲の心だ。決して自分が正しいと思わない。
これは本書から得た学びだ。13問のうち12問を間違えた自分が正しいはずがないのだから。

‘2020/04/20-2020/04/28


なぜ僕は「炎上」を恐れないのか~年500万円稼ぐプロブロガーの仕事術~


何人ものブロガーが発信するブログを集めたBLOGOSというサイトがある。BLOGOS上で何度か著者の記事は読んだことがある。また、他のメディアからも著者が物議を醸すスタイルのブロガーであることは知っていた。「まだ東京で消耗しているの?」というパワーワードは常駐で疲弊していた当時の私の心に刺さったし。
ところが、著者の本を読んだことがなかった。本書がはじめてだ。
実は著者のブログすら、BLOGOに載ったもの以外は読んだことがなかった。本稿を書くにあたり、ようやく目を通した。

そのため、私が著者について知っていることはそう多くない。
その前提で書くと、著者はただ炎上させるだけのブロガーとは思わない。実際、高知に移住し、言行も一致させている。
私はかねがねそうした著者のことを地方創生の観点からも意識していた。

本書を読んだ理由は、まさに本書のタイトルである炎上についてだ。
ブログが物議を醸す、つまり炎上するには、人の目に触れなければならない。それが前提だ。誰の目にも触れていないブログが炎上するわけがないのだから。
では、露出を増やしたいと思った場合、どうすればよいのだろうか。

私が記事を発信する際、媒体は弊社内のブログにまとめている。本ブログも含めて。
それらの記事を書くたびにTwitterやFacebookには投稿しているが、SNSにそれほどのフォロワーがいない私の記事など、万人に触れているとは主張しがたい。
その理由は、人脈や宣伝や告知の不足もあるだろう。だが、そもそもコンテンツが魅力的ではない、という事実は認めなければなるまい。

弊社ブログのアクセス上位は、物申すと題した時事ネタのものが占めている。旅日記や読書ブログや映画・演劇ブログはそれほどPV数を稼いでいない。
読書・映画・演劇レビューは、既存の創作物に乗っかった二次創作物に過ぎない。また、旅日記は個人的な体験に過ぎない。

では、私がもっとも価値を生み出せる記事は何か。それは技術ネタだろう。ただ、技術ネタの場合、読み手の範囲は限定される。
そもそも技術ネタといっても、私の書く記事は、既存の言語やサービスやプラットホームを解説しているだけ。つまり、新奇な主張をものするわけでもない。

ということは、このままでは私の記事は人の目に触れずに埋もれてしまう。
その一方、社会の矛盾や働き方の慣習は変えたい思いがある。その際、既存のやりかたを良しとする人の感情を逆なですることもあるだろう。炎上するかもしれない。

本書を読み始めた時点で、私は炎上を覚悟して尖った主張も増やそうと考えていた。穏健で配慮が行き届いた主張だけではなく、より尖った主張も盛り込んでみよう、と。
もし私が炎上を恐れているのなら、本書から勇気をもらわねば。ヒントをもらいつつ、炎上を恐れずに書かねばなるまい、と。

そこで本書だ。
本書は私にとっては、わが意を得たと思える主張が多い。
例えば、人はしょせんバカであり、バカであることを認めると、気持ちが楽になり、何をいわれても平気になる、など。

そもそも自分を飾ることについて、私はあまり興味がない。自分の肩書や立場にもあまり執着がない。
だから立場を喪うことや、肩書を批判されることについては耐性を備えているつもりだ。それが私個人の中にある逆鱗に触れる理不尽さがない限りは。
私は今までの人生で多くの失敗をしてきた。怒られてもきた。大トラブルに巻き込まれたこともあるし、何十人もの方に囲まれてバグの原因を説明したこともある。
そうした数多くの失敗が、私に耐性を備えさせた。

ただ、私には炎上させるために欠けている点がある。それは考えてしまうことだ。
例えばある論点がある。それに対してAとBの相対する論陣が張られていたとする。
私はそうした場合、双方の言い分を考えてしまうのだ。
立場、過去のいきさつ、利害関係。それらを考えると、0と1の単純な善悪など決められない。

だが、論陣を張るには、振り切った主張をしなければ目立たない。キャラを立てるというか、旗幟を鮮明にするというか。
私は論を構築するにあたり、中庸を求めてしまう弱点がある。
そのあたりの弱点を補強するヒントも本書には載っている。

だが、本書には、そうした内容よりも重要な学びがある。それは、出過ぎた杭は打たれない、ということだ。つまり、結局は努力。

本書にも紹介されている通り、著者が早稲田大学に合格するために採用した戦略や、その後の社会人生活や独立にあたっての人生行路は、どれも努力を抜きにして考えられない。
集中して学び、知識や能力を備える。すると、自分に自信がつく。自分に自信が持てていれば、炎上にも揺らがない。炎上しても生計の道は絶たれない知識があれば生きていける。身体に危害を加えられない限り、炎上にあたってメンタルに耐性をつけておけば、さほどの害はない。
本書で著者は、そうしたことを語る。著者の論点を理解するにつれ、炎上の持つ意味が変わってくる。
そう、炎上とは、能力や学びや鍛錬の結果に対する嫉妬ややっかみなのだ。出すぎた杭を打とうとする世間からの同調圧力。
ようは、誰にも打たれないぐらい飛び出ればよいのだ。

ただし、本書からそこまで読み取った今も、私は著者の手法の全てをマネしないと思う。著者は本書の中でまずマネることを提唱しており、そこは本書の教えに反する。
ではなぜか。
ブログアフィリエイト、暗号通貨、FinTech、ブロックチェーン、出版。私が推測する著者の経済活動はこんな感じだろうか。情報商材と名のつくものはひととおり試し、勉強しているように見受けられる。
私はそれらにほんの少しだけ関わったことはある。だが結局、本気で足を踏み入れていない。

上記の情報商材は当たれば不労所得のための種となりうる。だが、私は不労所得とは、不労では済まないものだと思っている。事前に情報収集などの労働がついてまわるからだ。
また、わが国ではそうしたものへの風当たりもきつい。
私は労働が必要ならば、想像力や創造の喜びが得られるシステム・エンジニアとして身を立てる方を選んだ。その方がギャンブルの要素がないと考えた。私は今もその戦略をとって生きている。

もちろん、新奇なものをまずは試してから判断する著者の努力はすごいと思う。その戦略は、これからの時代を生き抜くために必要に違いない。
新たなサービスや仕組みへの継続的な勉強。それが著者の成功の秘密であることは間違いない。
努力の底上げがあってこそ、炎上しても耐えられる。そうなったら覚悟を決めた著者を批判しても無意味だ。
それよりも、その人なりのたゆまぬ努力を続け、新たなルール、新たな市場、新たな世界を見つけるのが良いと思う。決して既存のノウハウや手法を墨守するのではなく、自らを常に新たな世界に置くための視点を磨くべきだと思う。

それが本書を読んで感じたことだ。

ちなみに本書を読んですぐ、コロナが世の中を覆いつくし、私は仕事の忙しさと人員の雇用に踏み切ったので、炎上ブログどころではなくなっている。

‘2020/01/09-2020/01/10


本の未来はどうなるか 新しい記憶技術の時代へ


本書が発刊されたのは2000年。ようやくインターネットが社会に認知され始めた頃だ。SNSも黎明期を迎えたばかりで、GAFAMがまだAMでしかなかった頃の話。
ITが日常に不可欠なものになるとは、ごく一部の人しか思っていなかった時代だ。

本書を読んだのは2019年。本書が書かれてから20年近くがたった時期だ。本書を読んでいる今、ITが社会にとって欠かせない存在になっている事は言うまでもない。
情報デトックスという言葉もあるぐらいだ。もしデトックスを行いたい場合、山籠りか無人島で生活するしか手はない。それほど世の中に情報があふれている。
一方で情報があふれすぎているため、情報の発信地だったはずの本屋が次々と潰れている。そして、新刊書籍の発刊も減りつつある。
本を読むには電子書籍を使うことが主流となり、授業はオンラインかタブレットを使うことが当たり前になってきた。

著者はそんな未来を2000年の当時に予測する。そして本という媒体について、本質から考え直そうとする。
それはすなわち、人類の情報処理のあり方に思いをはせる作業でもある。
なので、著者の考察は書籍の本質を考えるところから始まる。書籍が誕生したいきさつと、本来の書籍が備えていた素朴な機能について。
そこから著者はコンピューターの処理と情報処理の本質についての考察を行い、本の将来の姿や、感覚と知覚にデジタルが及ぼす効果まで検討を進める。

本書の記述は広範囲に及び、そのためか少しだけ散漫になっている。
本書の前半は、グーテンベルクによる印刷技術の発明に多くの紙数が割かれている。活版によって同じ内容を刷る技術が発明されたことによって、本が持つ機能は、情報の伝達から消費へと変わっていった。
というのも、グーテンベルクが書物を大量も発行する道を開くまでは、書物とは限られた一部の特権階級の間で伝わるものであり、一般の庶民が本に触れる事はなかったからだ。

それまでの情報とは、人々の五感を通して伝えられるものでしかなかった。わずかに、パピルスや木簡、粘土板、石版に刻まれるメモ程度に使われる情報にすぎなかった。書簡も大量に生み出せないため、人と人の間を行きかう程度で、世にその情報が拡散することはなかった。
その時代、情報とは、人のすぐそばにあるものだった。
情報を欲する人の近くに情報が集まり、人々の脳や感覚に寄り添う。
情報を受ける人間と発信する人間がほぼ一対一の時代。だから、情報が影響を及ぼす範囲とは個人の行動範囲にほぼ等しかった。

ところが、グーテンベルクが発明した活版印刷技術は、発信した本人から空間、時間、時代を超えて情報が独り歩きする道を作った。個人の行動範囲を超えて情報が発信できるようになったこと。それこそがそれまでの情報媒体とは圧倒的に違う点だ。
そして、独り歩きするようになったことで、それまでの一対一でやり取りされた書簡が、一対多で広がっていった。

それによって、当時の人々は知識を大量に取り込むことが可能になった。
当時の有名な書物の印刷部数は、実は現代の一般的な書物の部数と比べて遜色がなく、むしろ多かったという。人々が競って書物を求めたからだろう。
今の私たちの感覚では、現代の書籍の出版部数の方が当時よりも多いと思ってしまう。だが、そうではなかったのだ。これは本書を読んで知った驚きだ。
要するに、今のベストセラーを除いたおびただしい数の書物は、お互いの出版部数を共食いしているのだ。

それはつまり、出版部数には一定の上限があることを意味している。出版業界が好況を呈していた三十年ほど前の状況こそが幻想にすぎなかったのだ。
情報技術が書籍を衰退させたのではなく、もともと書籍の出版部数には限界があった。このことは本書の指摘の中でも特筆すべき点だと思う。

さまざまな本が無数に発行される事は、情報の氾濫に等しい。しかもその氾濫は、真に情報を求める人が必要な時に必要な情報を得られない事態にもつながる。
すでに20世紀中頃、そうした情報の氾濫や埋没を予測していた人物がいる。アメリカの原子力開発で著名なヴァニーヴァー・ブッシュだ。
ブッシュは適切な情報処理の機器としてメメックスを考案した。本書にはメメックスの仕組みが詳細に紹介されている。そのアイディアの多くは、現代のスマホやタブレットPCが実現している。インターネットもブッシュのアイデアの流れを汲んでいる。

情報処理とは、つまりインプットの在り方でもある。この文章を私は今、iPadに対し声で入力している。それと同じアイデアを、当時のブッシュはヴォコーダという概念ですでに挙げていた。まさに先見の明を持った人物だったのだろう。

他にも、ウェブカメラやハイパーリンクの仕組みさえもプッシュの頭の中にアイデアとしてあったようだ。
通説ではインターネットやハイパーリンクのアイディアは、1960年代に生まれたという。ところが、本書によればブッシュはさらに遡ること10数年前にそうしたアイデアを温めていたという。

続いて著者は、ハイパーリンクについて語っていく。
そもそも本とは、ページを最初から最後のページまでを順に読み進めるのがセオリーだ。私自身も、そうした読み方しか出来ない。
だが、ハイパーリンクだと分の途中からリンクによって別のページと情報を参照することができる。Wikipediaがいい例だ。
そうした読み方の場合、順番の概念は不要になる。そこに、情報の考え方の転換が起きると著者はいう。つまり、パラダイムシフトだ。
もっとも私の知る限りだと、アルゼンチンの作家フリオ・コルタサルの『石蹴り遊び』は、各章を順番を問わず行き来するタイプの小説だったと思う。ちょうど、後にはやったゲームブックのように。
その形態がなぜ主流にならなかったのかは考える必要がありそうだ。

情報を断片に分け、その一部だけを得るという考えが、書籍のあり方に一石を投じる。そのような著者の主張にはうなずけるだけの説得力がある。
本を一冊まるまる読む必要もないし、本を最初から順に読む必要もない。
その考えを突き詰めると、本を買うには必要な部分だけでよい、という考えにもつながる。
それは、今の本の流通のあり方そのものに対して変革を促す、と著者は予測する。事実、今はその変革が起こっている最中だろう。まずはWikipediaによって。おそらく著者の分析と予測はあながち間違っていないと思う。

また本書では、タイムマシン・コンピューティングと言う考え方を紹介する。
それは、同じ場所に対して時間による動画や画像の記録を行うことにより、同じ場所にいながら時代を自在に行き来できる概念だ。
私が知る限り、このアイデアは現実の生活では広まっていないと思う。実際の生活で活用できるシーンがないからだろう。
おそらくそうした概念が真に世の中に受け入れられるとすれば、VRが普及した時だろう。だが、今のVRはまだ人間の五感を完全に再現できず、脳内の認識とも調和しきれていないと思っている。私も既に経験済みなだけに。

本書は、監視カメラやオーウェルが描いた監視社会についても触れている。また、別のページでは電子ペーパーや電子書籍の考えを説明し、今後はどのようなハードウエアがそうした情報機器を実現するかという論点でも考察を重ねる。
ところが、電子ペーパー自体は現代でもまだ広まっているとはいえない。それは、電子ペーパーのコストが問題になるからだ。
そもそもアプリやウェブページの技術が進んだ今、電子ペーパーがなくとも、端末1つで次々とページを切り替えられる。
だから、電子ペーパーの意味はないという著者の指摘は的を射ていると思う。
デジタル・サイネージは最近街角でもよく見るようになってきた。だが、そうした媒体も、よく見るとスマホやタブレットの延長に過ぎない。電子ペーパーである意味はあまりないのだ。
電子ペーパーを代替するデバイスは、Kindleやkoboやスマホやタブレットが実現したため、電子ペーパーという考え方はまだ時期尚早なのだろう。
その事を本書は20年近くも前に唱えていた。

本書は、感覚そのものをデジタルに変えられないかという取り組みも紹介している。
そして、そうした先進的な取り組みの成果を私たちは、生活の中で目にしている。ウエアラブル・コンピューターについても本書は紹介を怠っていない。感覚もデジタルとして受発信できる機器が、今後はますます登場することだろう。

本書の後半は、本そのものよりも情報を扱うメディアの考察に費やされている。
おそらく今後、本が情報処理や娯楽の主役に返り咲く事はほぼないだろう。それどころか、紙で書かれた本自体、図書館でしかお目にかかれなくなるに違いない。
ただ、情報を保存する媒体は何かしら残るはずだ。それがタブレットなのかスマホなのか、それとも人体のアタッチメントとして取り付けられる記憶媒体なのか。私にはわからない。

だが、情報媒体は、人の記憶そのものを保管する媒体として、近い将来、さらに革新的な変化を遂げることだろう。そして、私たちを驚かせてくれるに違いない。

20年前に出された本書であるが、鋭い視点は今もまだ古びていない。

‘2019/7/10-2019/7/21


社会的な身体~振る舞い・運動・お笑い・ゲーム


最近の私は社会学にも関心を持っている。人はどのように社会と接して行くべきか。その知見は人として、夫として、親として、経営者として欠かせない。

もう一つ私が関心を持っていることがある。それこそが本書のテーマだ。技術が生み出したメディアは人にどう影響を与えるのか。そしてメディアと人はどう付き合って行くべきか。私は技術者として世間に名乗りを上げ、糧を得ている。人並みに発信したい思いも、自己顕示の思いも持っており、このテーマは私にとって興味の的となっている。私の世代が社会に出たのは、インターネットが世間へ浸透した同じ時期だ。どうやってインターネットが社会に広まり、技術の進展がメディアを変えてきたか。それを肌で感じてきた世代だ。だからこそ興味がある。

本書の第一章は「有害メディア論の歴史と社会的身体の構築」と題されている。内容は題名の通りだ。

メディアとは何か。今までの人類の歴史でいくつものメディアが現れてきた。文字、本、小説、紙芝居、テレビ、ラジオ、新聞、野球、スポーツ、ポケベル、たまごっち、インターネット。要するに複数の人々に何らかの情報を同時に届けられるもの、それがメディア。そしてメディアとは、新たなメディアが古いメディアを侵食していく運命にある。いくつかのメディアは既存のメディアの中に既得権を得ていた人々から批判を浴びてきた。本章にもその歴史が紹介されている。

既存のメディアしか知らない人にとっては、新たなメディアは教育に悪く、若者を堕落させ、社会を不安に陥れるものだ。いつだってそうだった。

だが実際は違う。新たなメディアが発明されるたび、人々はそれを己の身体の一部としてきた。著者はその過程を人間が外部に新たな身体を手に入れた、と形容する。それが本書のタイトルの由来でもある。

つまりは比喩的に言えば私たちの身体は、メディアを通して新しい「身体能力」を獲得してきているのだ。それは言うまでもなく、私たちの「生物的身体」が「進化」(あるいは「退化」)していくということを意味しない。自分が可能な振る舞いを変容させ、他人の振る舞いに対する予期を変容させ、社会制度を変容させるといった形で、メディアは「社会的身体」のあり方を解体/構築していくのだ。(39-40ページ)

携帯電話もスマートフォンも、私たちの記憶や脳の一部を外部に具現化する。文字もそう。メディアという形で私たちの体の一部が外部に拡張される現象を指して、著者は社会的身体と言い表す。

私の娘たちにスマホを持たせて何年も過ぎた。でも、私は今でも、子どもが新たなメディアを手にする時期は慎重であるべきと思っている。それは、子供のたちの成長の過程では、旧メディアを含めた人間社会のルールを覚えなければならない。そう思うからだ。新たに生まれたメディアは、まず社会がそれとの付き合い方を覚える。子が覚えるのはそれからでも遅くないはずだ。旧メディアの習得もままならないのに、新たなメディアの習得に走ることは、人類が旧メディアを使いこなしてきた知恵をおろそかにし、歴史で培われてきたスキルを無視することになる。

第二章は「社会的身体の現在-大きなメディアと小さなメディア」と題されている。大きなメディアとはマス・メディアであり、小さなメディアとはインターネットやスマートフォンなどの個人メディアを指す。ここで重要なのは、メディアは入れ替わらず、前のメディアの上に新たなメディアが乗っていくという著者の指摘だ。今の情報化は大きなメディアが小さなメディアに置き換えられて行く過程にある。だが、その中で大きなメディアが小さなメディアによって完全に駆逐されることはない、と著者は説く。ここで言われているのは、インターネットがどれだけ社会に幅を効かせようとも、テレビや新聞は消えないということだ。

その理由とは何か。それこそが著者が唱える社会的身体なのだと思う。人々に一たび受け入れられ広まったメディアを切り捨てることはできない。簡単に着て脱げる衣服とは違うのだ。メディアとは今や、身体の一部となっている。だからこそ、新たなメディアが勃興しても、旧メディアを簡単に捨て去るわけにはいかないのだろう。

第2章と3章の間に挟まれる「ノート 「情報思想」の更新のために」では、より抽象的なモデルを用い、個人とメディア、コミュニティとメディアの関係が語られる。この章では、抽象的なモデルが語られる。読み解くのに頭を使わねばならないが、示唆に富んでいる。

形式か内容か、との対立軸はすでに無効。そもそも既存の社会を前提に考えられたモデルに従ったコミュニケーションのあり方ではなく、常に新たなコミュニケーションのモデルを模索し、刷新され続けているのが今までのメディアの歴史。つまり、現状の個人とメディアとコミュニティの関係を図示したモデルとは、新たな社会を予期するためモデルでもあり、今の社会を説明するためにも有効なモデルだということだ。そこに形式や内容を対立させ、議論することに意味はない。新たなメディアが生まれる度、そのメディアが生み出す思想がモデルを内側から更新し続ける。それが今のメディアを巡る現状ということなのだろう。

本書が説く社会的身体にとって、核となる部分は第2章までで語りつくされる。第3章は「お笑い文化と「振る舞いモデル」」。よくテレビで見かけるお笑い芸人。ここではその系譜と、テレビへの露出の方法の変遷を見る。

まず、その前に本書は「役割モデル(ロールモデル)」と「振る舞いモデル(アティテュードモデル)」の違いから説き起こす。その二つを分けるのは、思想的、社会的役割、そして行為的、個人的模倣だ。お笑い芸人が後者に属することは言うまでもない。本章で描かれるお笑い芸人の系譜は、芸能史の観点からみても興味深い。テレビが象徴するメディアの興隆とともに、お笑い芸人がメディア内メディアとして次々入れ替わる歴史。著者の狙いは芸人一人一人をメディアに見立て、メディアの移り変わりがこれほどまでに頻繁であることを読者にわかりやすい例として示すことだろう。

また、お笑い芸人がテレビで示す笑いが、翌朝、私たちの学校で話題のネタになったように、振る舞いモデルとしての手法の移り変わりも本書は示す。ワイプ画面や、テロップ、そしてニコニコ動画の右から左に流れるコメント。それらは振る舞われる芸人、つまりメディアがわれわれをどうやって「同期の欲望」を満たさせるかの手本にもなっている。同期の欲望とは他者への欲望と同義。著者に言わせれば、テレビもウェブも同期の欲望を満たすためのメディアとしては同じ地平にあり、断絶している訳ではない。

第4章は「ゲーム性と身体化の快楽」と題されている。ここでいうメディアの役割は快楽だ。メディアを身体の延長として受け入れてきた歴史が本書の主題ならば、身体の延長として、自分の振る舞いが即座に反映されるメディアは触れなければならない。それこそがゲームの役割。私の世代はインターネットの勃興が社会人としてのデビューの時期と重なっている。そして、ゲームの興隆にも関わっている。スペースインベーダーは幼稚園。ゲームウォッチは小学校一年、ファミコンは小学校三年。以降、ゲームの進化とともに成長してきた年代だ。自分の操作によってマリオが飛んだり走ったりする操作が快楽をもたらす事を実感してきた。

今はオンラインで複数人がリアルタイムで参加するゲームが主流だ。ところが今の私には、そうしたゲームをする時間がない。だが、娘がやっているのを見せてもらいながら、今のゲームの趨勢はおさえているつもりだ。かつて、スペースインベーダーやゲームウォッチはゲームとプレイヤーが一対一だった。ファミコンではコントローラーが二つあったことで二人プレイができた。目の前のテレビ画面と、その前のプレーヤーたちの関係。それが今はその場にとどまらず、オンラインで世界中のプレーヤーとつながっている。自分のプレイがオンラインのゲーム世界で他のプレーヤーに影響を与えられるのだ。

著者はその現象をウェブ上での「祭り」にも適用させる。祭りとはミスをしでかした個人または組織に対し、不特定多数が誹謗中傷の攻撃を行う現象を指す。ウェブというメディアを用いることで、自分の書き込みが相手にダメージを与える快感。これもまた、社会的身体化の一つの例だろう。

かつてはこうした運動は、自分の体をその場に動かさねばできなかった。例えば国会議事堂前。SEALD’sがいなくなった今、国会議事堂の前でプラカードを持ってシュプレヒコールを上げているのは年配の方がほとんどという現象も、まさに旧メディアの特徴だろう。それに比べてウェブ上での意見表明は、メディアの発展の方向としては正しいのかもしれない。それは匿名での発信も含まれるというのが著者の立場だし、私も広義のメディアという意味では同意だ。

その上でいえば、自らの体に拡張して備わったメディアを匿名で扱うのか、それとも実名で扱うのかは、メディア論としては本質ではない。それはむしろ、社会学でも違う分野の研究に委ねられるのかもしれない。たとえば自己実現や自立、成長を扱うような。ただ、私の立場としては、個人で生きる力がこれからさらに求められる以上、メディアのあり方に関わらず、実名発信に慣れておくべきだ。社会的身体を標榜するには、まず個人がメディアの主役にならなければ。反論や違う意見を、実名の責任で受け止める。そこに痛みが伴ってこそ、社会的身体といえるのだから。

‘2018/09/27-2018/10/04


東京大地震は必ず起きる


確信に満ちた力強いタイトル。地震が取り上げられた文章において、確信は避けられる傾向にある。なぜなら、地震予知は難しいから。急が迫っている場合ならまだしも、何年単位のスパンで確率が何パーセントと言われても、受け取る側に危機感はない。それどころか、下手に煽って経済活動が止まれば経済の損失がかさむ。特に日本のように交通機関のダイヤグラムにうるさい国の場合はなおさらだ。だから地震学者は地震の予知には慎重になる。慎重どころか及び腰になる。そこに来て本書だ。著者は防災科学技術研究所理事長の肩書を持つ方。地震予知が専門でない分、本書のように一歩踏み出したタイトルをつけられるのだろう。そして、本書のようなタイトルの本を著したことに、首都圏に迫る直下型地震の現実味と焦りを感じる。

著者は率直に述べる。阪神・淡路大震災が予想外だったと。1995年1月17日、著者は地震防災に関するシンポジウムのため大阪のホテルに泊まっていて早朝の地震に遭遇したそうだ。関西では大地震は起きない。そんな定説に安住していたのは何も私たちのような一般市民だけではない。防災学者にとって、関西で地震が起こるなど、ましてやあれほどの被害が発生するとは想像できなかったらしい。

著者は防災の専門家として、阪神・淡路大震災のちょうど一年前にアメリカ西海岸で起きたノースリッジ地震を例に挙げ、そこで高速道路が倒壊したようなことは日本では起きないと大見得を切っていたという。しかし、阪神高速は脆くも倒壊した。わたしの実家のすぐ近くで。著者はその事を率直に記し、反省の弁を述べる。その態度は好意的に受け止めたい。著者の態度は、同時に地震の予知や防災がいかに難しいかを思い知らされる。

たとえ確率が数パーセントであっても、それはゼロではない。そして地震は起こってしまうのだから。事実、阪神・淡路大震災が起こったとき、日本政府も関わっていた地震予知計画は成果があったとして第七次計画中だったが、阪神・淡路大震災を予知できなかったことにより、第七次で打ち切られたという。防災計画も、著者らは火災の延焼による被害が都市にダメージを与えると考えていたらしい。ところが都市直下型地震ではなく、日本の誇る堅牢な構造物すらあえなく崩れる。学者の無知を著者は悔やむ。

著者はその教訓をもとに、首都圏に迫る直下型地震に警鐘を鳴らす。それが本書だ。著者は震災が都市に与える影響を四つに分けていた。火災、情報、ライフライン、経済の四つだ。そして著者は阪神・淡路大震災によって、構造物の問題にも目を向けた。だから今は五つの要素が年に影響を与える。

東海地震や南海地震、それらが複合する東南海地震。これらの地震の発生が差し迫っていることは、ずいぶん前から言われて来た。しかし、この10数年は、それに加えて首都圏の地下を走る断層が引き起こす首都圏直下型地震についてもとり沙汰されるようになった。もし朝夕のラッシュ時に強烈な揺れが都心を襲えば、被害は阪神・淡路大震災の比ではない。私も死ぬことは覚悟しているし、そのリスクを避け、都心での常駐作業をやめた今でも、商談で都心に赴いた際に多い。だから地震で命を落とす可能性も高いと妻子には伝えている。

著者は防災の観点で、首都圏で震度6強の地震が起きたらどうなるかを詳細に書く。兵庫県と比べると東京の抱える人口や経済規模はレベルが違う。路地の狭さや公園の人口あたりの面積も。交通量の多さも。どれもが被害を膨大に増やすことだろう。「東京における直下地震の被害想定に関する調査報告書」は二編で千百ページにも達するという。著者はこの報告書の言いたいことは最初の20ページで良いという。その上で残りの部分を著者が要約し、被害の想定を述べる。

面白いのは著者がこの報告書に批判的なことだ。はっきりと「過小評価」と言っているし、そもそも想定自体が専門家による仮定に過ぎないという。おそらくこの報告書は建築物の分布や、電柱、地盤、道路などさまざまな条件をもとに作られている。だが、当日の気候や風、発生時間、震源地は仮定で考えるしかない。著者が言いたいのは、報告書を鵜呑みにしない、ということだろう。

著者はそれを踏まえ、液状化や火災発生、延焼、停電、断水など報告書で詳しく載せられている23区のそれぞれについて、データの読み方を述べている。この章は、都心に住んでいたり、仕事をしている方には参考になるはずだ。

続いて著者はライフラインとは何か、について述べる。上下水道、ガス、電気、道路、鉄道、電話などだ。本書は東日本大震災の前に出版されているため、福島の原発事故やそれが東京の電力需給に大きな影響をもたらした事には触れていない。そのかわり、阪神・淡路大震災でライフラインが広範囲に断絶した状況について、かなり触れている。

私の経験を語ると、東日本大震災で経験した不便など、阪神・淡路大震災で味わった不便に比べるとわずかなものだ。3.11の当日の停電では、妻は錦糸町から帰れず、私も娘たち二人とロウソクで過ごした。その後の計画停電では、仕事にも支障をきたした。私は当時、毎日日本橋まで通っていたので、交通網の混乱も知っている。だが、阪神・淡路大震災の時はそもそも電気もガスも水道も来ない状態が続いたのだ。わが家は大きな被害を受けた地域の東の端。すぐ近くの武庫川を渡れば、その向こうはまだ生活が成り立っていたので、買い出しや風呂はそこにいけば大丈夫だった。だから当時神戸市内に住んでいた方の苦労など、私に比べたらもっと大変だったはず。
阪神・淡路大地震での体験はこちら
人と防災未来センターの訪問記はこちら
地震に対する私の気構えはこちら

3.11で味わった地震の不便をもとに、首都圏の人が地震の被害を考えているとすれば大きな間違いだと思う。

本書は地震が起こってしまった場合のさまざまなシミュレーションもしてくれている。立川に官邸機能が移ることも。そして、私たちが何をすれば良く、普段から何を準備しておくべきかを記してくれている。本章に書かれた内容は読んでおくべきだろう。また、東京都民であれば、都から配られた『東京防災』も読んでおくことをお勧めしたい。私も本稿を書いたことで、あらためて『東京防災』を読んでおかねば、と思った。

不幸にして揺れで亡くなった場合は、その後のことは考えようがない。だが幸運にも生き残った時、そこには想像以上の不便が待っているはずだから。

末尾には著者が防災専門家の目黒公郎氏と対談した内容が載っている。そこに書かれていることで印象に残ったことが一つある。それは亡くなった方が思うことは、ライフラインの充実ではない。それよりも家の耐震をきっちりやっておけばよかった、と思うはず、とのくだりだ。地震の被災者になった事で、次への備えを語れるのは生き延びた人だけなのだ。私もそう。幸運にも生き延びた一人だ。だからこそ、このような文章も書けるし、日々の仕事や遊びもできる。このことは肝に命じておきたい。

また、村尾修氏との対談では、WTCのテロの現場を視察しに行った村尾氏の経験と、そこからテロに備える防災について意見を交換する。東京は地震だけでなく、テロにも無防備だとはよく言われることだ。だが、テロはどちらかといえば点の被害。震災は面の被害が生じる。また、アメリカは戦争の延長で防災や事後対応が考えられている事が、日本との違い、という指摘は印象に残る。

最後は著者が国会の委員会に参考人として呼ばれた際の内容をおさめている。その内容はまさに本書のまとめというべき。

私も常時都心にいることはなくなったとはいえ、まだまだ都心に赴くことは多い。本書を読みつつ、引き続き備えを怠らぬようにしたい。そして、生き残った者として、何かを誰かに還元する事が務めだと思っている。

‘2017/09/29-2017/10/01


デジタルは人間を奪うのか


IT業界に身をおいている私だが、今の技術の進展速度は空恐ろしくなる。

ハードSFが書くような未来は、今や絵空事でなくなりつつある。自我や肉体がITで補完される時代の到来だ。

自我のミラーリングに加えて自我の世代管理が可能な時代。自我と肉体の整合性チェックが当人の意識なしに、スリープ時にcron処理で行われる未来。太陽系内の全ての意識がデータ化されトレース可能な技術の普及。そんなSF的発想が遠からず実現可能になるのではないか。一昔前ならば妄想で片付けられる想像が、もはや妄想と呼ぶのも憚られる。今はそんな時代だ。

そんな時代にあって自我とは何を意味するのか。そして哲学は何に悩めば良いのか。数多くのSF作家が知恵を絞った未来が、道筋の果てに光となって見えている。今のわれわれはそんな時代の入り口に立ちすくみ、途方に暮れている。

本書は、現代の技術爆発のとば口にたって震えおののく人々のためのガイドだ。

今、最先端の技術はどこまで達し、どこに向かっているのか。デジタルの技術は人間を地球を幸せにするのか。それとも死の星と変えてしまうのか。IT業界に身を置いていてもこのような課題を日々取り扱い、悩んでいる技術者はあまり見かけない。おそらくホンの一握りだろう。

今の技術者にとって、周囲はとても賑やかだ。機械学習にIoT。ビッグデータからAIまで。といっても私のようなとるに足らぬ技術者は、それら最先端の技術から産まれ落ちるAPIをさわって悦に入るしかない。もはや、ITの各分野を横断的に把握し、なおかつそれぞれの分野に精通している人間はこの世に数人ぐらいしかいないと思う。それすらもいるのか怪しいが。

だが例えIT業界に身をおいていないとしても、IT各分野で起こっている技術の発展については表面だけでもは知っておかねばならない。少なくとも本書で書かれているような技術事情や、それが人間と社会に与える影響は知っておくべきだろう。それだけに本書のようなデジタルが人間存在にもたらす影響を考察する書は貴重だ。

著者は科学ジャーナリストではない。デジタルマーケティングディレクターを肩書にしている。という事はIT現場の第一線でシステムエンジニアやプログラマーとして働いている訳ではない。設計やコーディングに携わることもないのだろう。だがマーケティングからの視点は、技術者としての先入観に左右されることなく技術が人々に与える影響を把握できるのかもしれない。「はじめに」で著者は、デジタルの進化に違和感を感じていることを吐露する。つまり技術を盲信する無邪気な楽天家ではない。そこが私にとって共感できる部分だ。

本書冒頭では永遠に動き続ける心臓や精巧に意志を再現する義肢などの最新の技術が披露される。本書では他にも仮想通貨、3Dプリンター、ウェアラブルコンピューター、IoT、自動運転車、ロボット、仮想政府、仮想企業、人口器官などなど様々な分野の最先端技術が紹介される。

だが、本書は単なる技術紹介本ではない。それだけなら類似の書籍はたくさんある。本書の素晴らしい点は、無責任なデマを煽らずにデジタルのもたらす光と影を洗いざらい紹介していることだ。そこでは著者は、冒頭に私が書いたようなSF的な絵空事まで踏み込まない。著者が考察するのは現時点で達成された技術で起こりうる範囲に限定している。

著者の説くデジタル世界の歩き方。それはこれからの時代を生きねばならない人類にとっては避けて通れないスキルだ。テクノロジーがもたらす影を受け入れ、それに向かい合うこと。もののネット化(IoT化)が人にもたらす意味を考えること。人間はロボットを常に凌駕し続け、考える葦でありつづけねばロボットに負けてしまうこと。そのためには人間の思考、感性の力を発揮し続けねばならないこと。

各章で著者が訴えるのは、デジタルをリードし続ける責任を人類が担っていることだ。それがITを産み出した人類に課せられた使命。そのためには人間は考え続けなければならない。ITの便利さは利用しつつも想像力は常に鍛え続ける。そのためのヒントは、情報と知識の使い分けにあると著者は言う。

「情報」はメディアなどを通じて発信者から受信者へ伝達されるある物事の内容や事情に関する知らせで、「知識」はその情報などを認識・体系化することで得られるものである。さらに「思考」は、その知識や経験をもとに何らかの物事についてあれこれ頭を働かせることである。これらの言葉を曖昧に使っていると、大いなる勘違いを招く。(174-175ページ)

情報を知識と勘違いし、知識を知力と錯覚する。それこそがわれわれが避けなければならない落とし穴だ。そこに落ち込まないためには思考の力を鍛えること。思考こそがテクノロジーに飲み込まれないための欠かせない処方箋である。私は本書からそのように受け取った。思考さえ疎かにしなければ、ITデバイスの使用は必ずしも避ける必要はないのだ。著者の提言はそこに集約される。

著者は最後に紙の新聞も読んでいることを告白する。紙の新聞には、電子媒体の新聞にない「閉じた安心感」があるという。全くその通りだと思う。閉じた感覚と開けた感覚の違い。ファミコンやPCエンジンで育った私の世代は、決してITに無縁だったわけではない。ゲームだって立派なIT技術のたまものだ。だが、それらは閉じていた。それが開いたのがインターネットだ。だから、インターネットに囲まれて育った世代は閉じた世界の安心を知らない。だが、閉じた世界こそは、人類の意識にとって最後の砦となるような気がする。紙の本は確かにかさばるかもしれないが、私が電子書籍を読まないのもそれが理由だと思う。

私は閉じた世界を大切にすべき根拠に感覚を挙げたい。触覚もいずれはデジタルによって代替される日が来るだろう。だがその感覚を受容するのがデジタルに寄生された意識であってはならないと思う。今はまだ百パーセント有機生命体である脳が感覚を司っている。そして、それが人が人である定義ではないか。例えば脳疾患の治療でもない限り、頭に電極を埋め込み、脳をテクノロジーに委ねる技術も実現間近だ。そしてその技術が主流になった時、人類は深刻な転換期を迎えるのではないだろうか。

思考こそが人の人たるゆえん。著者の論理に従うならば、我らも思考しなければならない。デジタルデパイスはあくまでも人の思考を助けるための道具。決して思惟する行いをデジタルに丸投げしてはならない。本書を読んでその思いを強くした。

‘2016/05/06-2016/05/07


後藤さんのこと


実験的といおうか、前衛的といおうか。
著者の作品は唯一無二の立場を確立している。

あまたの小説群が山々を成す中、孤峰として独立しているのが著者とその作品群だ。

冒頭の表題作からして、すでに独自世界が惜しげもなく披露される。森羅万象、古今東西に宿る後藤さん一般を、縦横無尽に論じ尽くすこちら。赤字、青字、緑字。黒地、赤地、緑地。そして白地に白字。カラフルな後藤さんが主語となり目的語となり述語となって本編を彩る。本編は壮大かつミニマムな後藤さんの存在論でもある。そして主語とは何かについて果敢に挑んだ記号論の極北でもある。

形而上であり、形而下。ペダンチックであり、ドメスチック。本編で著者は大上段に振りかぶり、大真面目な顔であらゆる角度から後藤さんを斬りまくる。かつて小中学生の頃われわれを悩ませた算数の証明問題。本編は、後藤さん一般を証明するために著者が仕掛けた壮大な問答の成果と言い換えてもよい。

本編から読者は何を得るのか。
その生真面目なユーモアを堪能することも楽しみ方の一つだ。それだけでも本書はじゅうぶんに楽しめる。

だが私は、本編は著者による実験だと思いたい。事物について、物事について語る事を突き詰めたらどうなるか。それが本編なのだ。一つの物事を極めるためには多面的かつ多層的にあらゆる角度からその事物を分析せねばなるまい。そして語れば語るほど、物事を表す語句は重なり合い、ハレーションを起こす。物事を表す語句はゲシュタルト崩壊を起こし、脳内で溶解してゆく。結果、語句は記号でしかなくなる。紙に印刷された後藤さん一般は、フォントの色と地の色によって眼に映るクオリアとしてしか認識できなくなる。本編で著者が仕掛けるのは、記号の本質論であり存在論に違いない。

続いて収められた一編は「さかしま」。「さかしま」とは「道理に反する」といった意味がある。

慇懃な文体でつづられた本編は、お役所が発行する文章のようだ。それが延々と続く。遠い未来の人類にまだお役所というものが残っているとすれば、その機関はこういう文書を発行するのだろう。その未来のお役所は、読者こと帰還者に向けてこの文章をつづり続ける。帰還者は、テラが人類の発祥の地であり、テラはすなわち凍結された領域ウルと等しいとする伝説を信じて帰還してきた人物だ。

宇宙は複数の泡宇宙が並行している。最新の宇宙論にはよく登場する議論だ。本書ではウルが存在する空間とは、時間次元が存在する特異な空間のこと記されている。つまり語り手のお役所と読者こと帰還者の時間の概念は食い違っているのだ。食い違っているというよりは、語り手のお役所には時間自体の認識がないと思われる。論理のみで構成された次元宇宙に存在する語り手のお役所は、時間という異質な次元に絡め取られた存在である帰還者とは本来相容れるはずがない。

では、そのような帰還者でない帰還者に向けて、語り手のお役所は何をそんなに事務的に解説するのだろうか。論理空間の執行者たるお役所が、帰還者に向けては論理にならない論理を堂々と語る。そのこと自体が「さかしま」ではないか、ということになる。つまり、本編はお役所という存在に向けての強烈なアンチテーゼの文章なのだ。固定された論理、つまりは法や条例で時間に生きる住人である帰還者を縛ることそのものが「さかしま」なのだ。著者が告発する「さかしま」とはその根源的な矛盾に他ならない。

続いての一編は「考速」。文章という存在の不可思議な多義性を追求した一編だ。文章が単語の切り方によって幾通りもの意味を持ちうることはよく知られている。いわゆる「ぎなた」読みだ。

弁慶がな、ぎなたを持つ
弁慶がなぎなたを持つ

この二つの文は、音読みすると「べんけいがなぎなたをもつ」となる。同じ読みであっても、句読点の置き方や単語の切り方によって文の意味がまったく違ってくる。本編ではそういった文章の構造論が追求される。追求されるのは「ぎなた」読みの可能性だけではない。文章を一つの図形の展開図としてみなし、それを再び立体に再構成し直す可能性の追求。そこまで著者の手は及ぶ。

思考に思考が追いつくことは果たして可能か。0と1による思考の限界。思考の循環を定理や公理とよぶことで、論理破綻から逃れるという論法。回路図と背理法のコンピューターノイズ。文章の語彙のならびが冗長ゆえに短くあるべきという考えと、文章の長さ故にあるいは圧縮することのかなわぬ長さがあるべきという考えの対立。

本編は、言語の成り立ちを問う。人類が長年の文化的お約束に安住して、なあなあでやりとりする言語の意味を。そもそも見直されなければならないのは言語が生物にのみ許された通信信号-プロトコルであるとの前提ではないか。著者が問うのは曖昧なお約束、つまり言語そのものについてだ。そして著者の問いを突き詰めた先には、人工知能による人工言語が待ち受けているに違いない。

続いての一遍は「The History of the Decline and Fall of the Galactic Empire」。題名からしてデヴィッド・ボウイのあの名曲を想像させる。

そして、本編の内容は本書の中でも一番とっつきやすいかもしれない。「銀河帝国」という語彙を、あらゆる種類の文章にはめ込むことで、銀河帝国という言葉の意味が変容する。銀河帝国の意味は短くもなり長くなる。矮小にも縮めば雄大にも化ける。ユーモラスに変化し、かつ神聖さを帯びる。その自在な柔軟さは、言語がそもそも記号の集まりでしかないという事実を読者に再確認させる。文章論や文体論といったところで、それらを構成する単語のそれぞれはしょせん記号でしかない。本編は、著者が作家として文章へ挑んだ結果ではないだろうか。

たとえば
01:銀河帝国の誇る人気メニューは揚げパンである。これを以って銀河帝国三年四組は銀河帝国一年二組を制圧した。
23:銀河帝国を二つ買うと、一つおまけについてくる。三つ揃えると更に一つがついてきて、以下同文。
41:包帯で変装とは古い手だぞ銀河帝国第二十代幼帝。いや、今は銀河帝国第四十代幼帝とお呼びした方がよいのかな。
48:この世に銀河帝国なんていうものはありはしないのだよ。銀河帝国君。
81:家の前に野良銀河帝国が集まってきて敵わないので、ペットボトルを並べてみる。

続いての一編は「ガベージコレクション」。IT技術者にはこの言葉はよく知られている。プログラム内部で確保したメモリ領域をプログラム終了時に自動的に集めて再使用できるよう解放する機能をガベージコレクションと呼ぶ。昔のプログラム言語にはこの機構が備わっていなかった。つまりプログラマーはきちんとメモリの解放処理を行わねばならない。そうしないと解放されないまま使えないメモリ領域が増大してしまう。その結果、メモリの使用可能域を圧迫し、コンピューターが重くなる原因となる。いわゆるメモリリークだ。

本編で語ろうとしているのは、すべての情報系を制御しようとする試みだ。往々にして情報とは一方向のみに伝わる。すでに発信された情報は、もはや逆方向に戻ることはない。情報を逆流させて制御する試みは、人類に残された最後の領域となる可能性がある。今まで人類が意識したことのない、情報の方向性という問題。それにもかかわらず指数的に増大する情報量は、ログという形でロールバックされることが求められている。それは今後の情報社会の基盤に求められること必至の要件だ。システム開発の現場でもデータベースを使う際はログによる更新の制御は必須だ。障害時に更新前の情報に戻すロールバックや、正常時に情報の更新を確定させるコミットメントは当然の機能として設けられる。これをあらゆる情報系に拡大する思考実験が本編だ。

最終的には超現実数を持ち出すことによって、著者はその解決を図ろうとする。だが、それはその時点でこの試みが頓挫するに違いないということを意味する。情報のエントロピーは増大し続け、それを回収することは誰にもできそうにない。だが、回収できなければ、それはすなわち情報が世にあふれ続けることになる。しかもそのほとんどは無価値な情報のゴミだ。つまりガベージ。いったい、それを誰が解決できるのか。そもそも数学に無限やゼロは許されるのか。本編からはそんな著者の問題提起が読み取れる。

最後の一編は「墓標天球」。

本編は一度読んだだけでは分からなかった。本稿の初稿では本編について書くのを断念したくらいだ。初稿を書いて約一年が経ち、本稿をアップする前に本編をもう一度読んでようやく少し内容がつかめた。

本編は比喩の極北に挑んでいる。本編にあふれるそれらが何に対する暗喩なのか、何を指すメタファーなのか。それを正確に指し示すことは困難だ。それでいて、本書には筋書きがある。いや、筋書きのようなもの、といったほうが良い。その筋書きらしき展開が螺旋状に、もしくは一回転する球のように、もしくは一回りできる立方体のように、どこに向かうでもなく循環する。その筋書きは、少女と少年の周りで時間を巡り、空間を巡る。それは本編に登場する立方体の展開図のようだ。

循環し、周回する天球は本編ではもっとも基本となるイメージだ。天使、または神が最初の天球を回したあと、その内側の天球を別の天使が回し、さらに別の天使が・・・と入れ子構造は無限に小さくなる。アリストテレスの神存在論を逆にゆくような議論だ。その中で天球の内側にいる人間とはただ営むための存在に過ぎない。

私は本編全体が指している比喩の対象とは、この天体の上で繰り広げられるあらゆる意思の営みではないだろうか、と推測する。この天体とは地球に限らない。他の生命体のいる天体でもいい。その上で営める生命の動きを単純化する。本編に出てくる少年とは人類の男。少女とは人類の女の投影だ。人類が過去から未来へと営むあらゆる意思を徹底的に単純化すれば、本編になるのではないか。

インペトゥム。本編で何度か登場する言葉だ。「創造のあと、単純な創造を繰り返す力」と少女がセリフで補足する。つまり、営みとは最初の創造のあとの単純な繰り返しに過ぎないのだ。そこに意味を無理やり付与しようと果てなき努力をする少年=男と、ただあるがままに営みを生きて行く少女=女。

少年は球体を一周させるかのように溝を掘る。丁度人類が伐採し、掘削し、開墾し、建築するように。何の目的かは誰にも分からない。強いていうなら経済のため。そして営みのため。

少年と少女は出会い続ける。そしてすれ違い続ける。出会ったら子供が生まれる。すれ違っても営みは続いてゆく。そうした営みの全ては記録され続ける。ただ記録するために記録され続ける。禁忌は何かのためだけに禁忌であり、豚は食べるためだけの豚に過ぎない。少年と少女の間にやり取りされる封筒の中身は開封するまでもない。常に一つの真実だけが書かれているのだから。

本編が指し示す比喩の対象とは、実は全ての営みには根源的な目的などない、という虚無的な事実なのかもしれない。少なくとも人類にとっては。全ては螺旋階段をだらだらと登り続ける営みに帰着するほかないのだと。それは政治、経済、科学、哲学、恋愛、スポーツ、など関係ない。全ての営みをいったん漂白し、単純に比喩して抽出したのが本編ではないだろうか。

本書には、もう一編が隠れている。それは帯に記されている。帯に記されているのは「目次」というタイトルの目次だけでなる短編だ。40マスある格子状の各ページを進んでいった結果、徹底的に読者は著者と本と読者の間をさまよい、混乱させられることだろう。目次という本そのものの構造すら著者の手にかかれば抽象化され、解体されてしまう。

いったい著者の目指す極点はどこにあるのだろう。私は本稿を書いたことを機に改めて著者に興味を持った。もう少し著者の本を読み込んでみなければ。

‘2016/03/25-2016/03/28


キュレーションの時代 「つながり」の情報革命が始まる


情報の溢れかえる現代。現代とは、情報から価値が急速に失われつつある時代でもある。つまり、情報は無料で手に入るが、情報量に反比例して情報自体の相対価値は減り続けているのだ。現代とは、情報に対して取捨選択するためのスキルが必要な時代でもある。

取捨選択するためのスキルとは、審美眼や知識の蓄積である。ある程度の知識を持っていないと、画一化された情報の下で同じような価値観を植え付けられることになる。最近のネットニュースの氾濫はまさにそうだ。油断していると釣り記事に引っかかり、シェアしてしまった後で決まりの悪い思いをすることになる。ここにきて、ネットに溢れる情報の真贋の見極めがいよいよ重要になりつつあるように思える。

それは逆に、情報発信者にとっては自らの発信する情報が人々に行き渡らなくなることを意味する。かつて情報を発信するためにはマスコミというフィルターを通す必要があった。今は情報が溢れかえるあまり、人々は情報を疑いの目で見る。釣り記事に釣られまいと滅多なことでは情報に食いつかなくなっている。

本書はそういった情報の相対価値が落ちた現代にあって、情報が伝達される形態を考察する。いかにして情報は伝わり、情報を発信した人と受け取った人の間に価値観の共有が行われるのか。もはや従来のマスコミュニケーションによる画一化された情報伝達が通用しない今、我々は何を受けとり、何を発信するべきか。本書から得られる示唆は多い。

私自身、二十歳過ぎの頃の自分を振り返ると、流行に乗るまいと抵抗していた気がする。トレンディ・ドラマには背を向け、オリコンでTOP10に入るような音楽からは耳を塞いでいた。替わりに興味を持っていたのは、ラテンアメリカの文学であり、ラテンアメリカの音楽であり、プログレッシブ・ロックの世界だった。すでに70年代に先鋭的な若者にとってさんざん持て囃されたそれらのジャンルを、遅れてきた青年として背伸びし、吸収しようとしていたのが私だった。

しかし本書では、流行に乗るまいと抵抗するまでもなく、そういったメインストリームの価値観が解体しつつあることを指摘する。人々は自分の信ずる価値観に集い、そこで価値観を同じくする仲間と過ごすことが主流となりつつある。インターネットの出現は、そういった行為をより簡単に成しえるようになった。

本書では、そういった情報の集いをビオトープと表現する。ビオトープとは本書に出ている定義によると「有機的に結びついた、いくつかの種の生物で構成された生物群の生息空間」となる。水槽に海草を生やして魚たちの生態圏を作るようなものだ。つまり本書で著者が言うビオトープとは、情報の海に浮かぶ、価値観の似通った人々によって構成される情報の交換空間とでもいおうか。

ビオトープという情報の集約点が出来るようになったことで、情報発信者はビオトープ目がけて情報を発信するほうが早いことに気付きつつある。その例として、著者は音楽プロモーターの田村直子さんの事例を取り上げる。田村直子さんが発信しようとするのは、ブラジルのエグベルト・ジスモンチの来日公演の告知。ブラジル音楽好きとしては、エグベルト・ジスモンチの名は避けては通れない。私もCDこそ持っていないものの大物として存在は知っている。そして、日本においてはジスモンチの知名度はさほど高くなく、集客に苦労するであろうことも理解している。限られた時間と予算の中、効果的にジスモンチに興味を持ちそうな愛好家たち―ビオトープにどうやって告知を打つのか。そのやり方を、ネット時代の情報発信の手本として著者は紹介する。ジスモンチのビオトープの一つとして、私の好きなマリーザ・モンチのコミュニティも登場している。私にとってなじみのあるブラジリアン・コミュニティの数々が本章には登場し、私にとって親近感のある導入部となった。

第二章は背伸び記号消費の終焉と題されている。従来は大衆向けの一方通行の情報発信が主流だった。情報発信する手段が大衆には与えられていなかったためだ。しかしネットの発展は今や大衆に発信する力を与えている。しかし容易に情報を発信できるということは、すなわち承認欲求の生じる機会を増やすことにもなる。また、情報の流れに参加できないことは、孤立感や焦燥感などを産み出すことにもつながる。本章ではマスコミによる一方通行の情報発信の限界が語られる。そして、それとともに人と人とのつながりや承認欲求の高まりがかつてなく高まっていることが指摘される。ネット時代にあっては、大量消費大量生産大量発信の時代が終わりを告げ、個人の力による情報発信が重く見られつつあることを意味する。

第三章は、視座にチェックインするという新たな行動パターンを解説する。本章ではFourSquareのサービス紹介を中心に話が進められる。実は私は本書を読む前からすでにFourSquareを愛用している。私の場合は他人の視座からその地の風物を楽しむといった活用ではなく、単に私自身のライフログとしての活用なのだが。

FourSquareは、プライバシーの侵害に気を揉むことなく、ネットライフを満喫する手段としてはありだろう。そもそも私自身からしてSNSはそのように使うことが多い。つまり、他の方のアップするイベントの写真と文章からその方の視座から見た人生のヒトコマを楽しむ。私自身がアップするイベントの写真と文章によって、他の方に私の視座を提供する。私が妻と子供とどこに行ってどうしたという体験。この体験に共感し、私という人間の視座を面白がってくれる方には、投稿はよい効果を上げる。それが単なる飯テロやリア充自慢と受け取られてしまったとすれば、それは視座の提供以前の話で、拒絶されてしまっていることを示す。

そもそも、SNSやブログを例に出すまでもない。新聞や雑誌や書籍での文筆家によるエッセイの数々が、すなわち書き手の視座の提供に他ならなかったのではないだろうか。こう考えると、著者の主張する内容も分かる。また、ブログやSNSが流行る意味も理解できる。理解できるばかりか、私自身がSNSで発信を続ける意味についても得心がいった。

第一章で紹介されたビオトープ。私自身の価値観や視座を世の中に提供し、共に人生を豊かにするための場-ビオトープを作る。これこそがSNSやブログの存在意義と云えるのかもしれない。

FourSquareは本書を読んだ時点では、チェックインのみに特化したSwarmというアプリが分離され、しかも本書で紹介されているメイヤーやバッヂの機能が一旦廃止されるなど迷走に入ったかに見えた。現在はそれらの機能は復活したというものの、FourSquareもかつての勢いはないように見える。また、本稿を書いている2016年2月初旬ではSNSの状況も暗い。Google+は完全に頓挫し、Twitterも行く末に迷いが見える。Facebookですら、個人用途とビジネス用途の使い分けを模索しているようだ。SNSの活用方法については、単なる視座の提供や体験だけでは説明がつかない状況にあるといえる。これらの点をどう解釈し、どうプラットホームとして提供できるかが、今後のITを使ったコミュニケーション、つまりICTを語る際には欠かせない視点なのだろう。その答えはまだ出ておらず、SNSの各社ともに模索している状態だ。もちろん、その答えを5年前-2011/2に上梓された本書に求めるのは酷な話だ。

第四章はキュレーションの時代という題名が付されている。本書のタイトルと同じであり、本書の中核を為す思想が詰まっている。プロローグでジョゼフ・ヨアキムという画家のことが紹介される。七十歳になって絵を描き始めるまでのヨアキムの人生は、数奇ではあったが、無名のまま埋もれてもおかしくないものであった。それがたまたま通りに見えるように窓にぶら下げておいた絵が見出され、一躍美術界の寵児となる。つまり、ヨアキムの絵の価値が分かる人間にキュレーションされたわけだ。本章ではヨアキム以外にもキュレーターによって見出された画家が二人登場する。ヘンリー・ダーガーとアロイーズ・コルバス。

彼ら二人の創作活動は、完全に自分のためであった。自分の内なる衝動に導かれ、書かずにはいられなかった絵画。受け狙いや商売気など微塵もなく創られた作品は、キュレーターによって見出されなければ、埋もれたまま廃棄されてしまってもおかしくない。しかしそれを見出し、精神病者や孤独者の視座にチェックインし、その視座のまま世に紹介したのはキュレーターの手柄だ。つまり、いくら優れたコンテンツといえども、キュレーターの存在なしにはコンテンツたりえない。第二章で取り上げた背伸び消費は、キュレーションするまでもなく、対象が個人の嗜好や性格を無視した遍く広い大衆に向けてだった。しかしキュレーション過程を省いたことによって、コンテンツがコンテンツ自身の山に埋もれる結果を招いていた。しかしこれからのコンテンツは背伸び消費の視座ではなく、大衆という括りから外れたアウトサイダーの視座から生まれる。その視座を世に紹介するのがキュレーターの仕事。キュレーターとは創作者の作品に新たな意味を付与し、価値を与えるのが仕事の本質なのだ。

第五章では、それらキュレーターやコンテンツが流通する上で、プラットホームの重要性が改めて説かれる。プラットホームというと画一された価値観のもと、アートすらも一緒くたにして俎上に上げられるという印象が強い。しかし著者は多様性を担保するためには、プラットホームは欠かせないという。ここでいうプラットホームとは画一された価値観のことではなく、コンテンツが流通する上での仕組みとでも言おうか。利便性と交換性に優れたシステム。といえば当然インターネットが連想される。ここで著者がいうプラットホームとは、インターネットを指すと云っても間違いはあるまい。

つまり、コンテンツは、インターネットというプラットホームのもとでキュレーターによって見出され、流通される。流通の中で愛好家によって無数のビオトープが形成される。また、その中には旧い価値観では精神病患者としか見られなかった人々の作品までも含まれる。しかしそういった作品さえもが、精神病者に特有の芸術性を愛好するビオトープというコミュニティでは受け入れられるのだ。

ただでさえ広大な世界でネットを猟渉し、ビオトープを見つけ出す。これは至難の業といってもよい。また、ビオトープがないのなら、自分で作ってしまえという考えもまたありだろう。ただしビオトープを作りだすには、本書に登場したダーガーやコルバスやヨアキムの高みが必要となる。それこそ難易度の極めて高い、アーチストの域だ。

本書の論旨から考えるに、これからの表現者とはコンテンツの創造者とイコールではない気がする。むしろ、コンテンツを探しだし、それを世の中にキュレーションすることが表現者に必須のスキルとなるのではないだろうか。無論、コンテンツを産み出すだけではなく、その価値を自身で世界に広められることに越したことはない。だが、ビオトープを探し出すための嗅覚や、広めるためのプレゼン能力を備えることも、情報の発信者としてこれからの時代に求められる。それが著者の言いたかったことだと思う。

私にそれが出来るか。出来ると思うし、やるしかないだろう。私自身、誇れる部分として、サイボウズ社のクラウドアプリkintoneのβテスト時から将来性を見込んだことがある。これは今に至るまでkintoneエバンジェリストとしての活動の原点だ。また、ブログにアップしているメジャーではない本のレビュー執筆は、このところすっかり私の作業としてお馴染みになっている。私には出来る、と信じて進むのみ。

今後も私自身が情報発信者でありたいとすれば、引き続き努力するだけの話。私が表現者として認知されるかどうかは分からないが、本書で得られたキュレーションという営みから示唆をもらいつつ、文章書きの作業を続けていきたいと思っている。

’15/04/06-15/04/07


紙媒体の未来


十日ほど前、山手線の王子駅近くにある紙の博物館に行ってきました。

王子と紙、といえば王子製紙が思い浮かびます。王子は日本の製紙業、それも洋紙業の発祥の地です。今もなお、洋紙会社の本社や工場が集まり、国立印刷局の王子工場も健在です。

今回私が紙の博物館を訪問した理由は二つあります。一つは、紙の歴史やリサイクルの仕組みに興味があったこと。一つは、情報表示媒体として、ディスプレイに対抗する紙の将来性を知りたかったことです。

紙の歴史やリサイクルの仕組みについては、非常に勉強となりました。日本の古紙利用率が六割にもなること。また、紙を発明したのは漢の蔡倫ではないこと。蔡倫よりも二三百年前に紙が使用されていた事が発掘物より証明されていること。また、PCなどのIT機器に欠かせない基盤も、実は紙の一種であることを知りました。このように、紙の歴史やリサイクルの仕組みについては、得るところが多かったです。特に蔡倫が紙の発明者でないことは知らずにおり、定説に寄りかかっていた自分の怠慢を反省しました。

ただ、情報表示媒体として、ディスプレイに対抗する紙の将来性については、残念ながらそれに関する展示には巡り会えませんでした。

そもそもなぜ私がこのような事に興味を持っているか。それは情報媒体としての紙の価値を再発見したからです。IT業界の端くれで飯を食っていながら、なぜディスプレイではなく紙なのか。

そもそも私は、本を読むのが好きです。電子書籍よりも紙の本の愛好家です。もちろん、電子書籍も使いますよ。Kindle端末こそもっていませんが、タブレットにはKindleアプリも入っています。しかし、私にとっての情報媒体とは、相変わらず紙なのです。本のページを繰ることに至福の時間を感じます。Kindleアプリで本を読むことはほとんどありません。

なぜ私が紙の本を好むのか。最初はそれを、本好きの執着心だと思っていました。IT業界にいながら保守的な自分を怪訝に思うこともありました。私の収集癖を満たすには本を貯めこむことが一番だからと思ったこともありました。

でもどうやらそうではなさそうです。この数年、参画しているプロジェクトで毎週議事録を書いています。経営層にまで閲覧される議事録ですから、チェックは欠かせません。チェックを行う上で、紙を節約しようとディスプレイをにらみ付けます。眼球が充血するまで読み込んだ後、印刷して紙面で読むと、誤字が湧くのです。まるで隠れていたかのように。

これはなんでしょうか?

何度も印刷した紙から誤字が湧き出すのを見るにつけ、私には一つの妄想から逃れられなくなりました。液晶ディスプレイには、何かしら人間の視神経を阻害し、集中力を減退させる仕掛けがあるのでは?と。

紙の博物館では、ディスプレイに対する紙の優位性についての答えは得られませんでした。ですが、同様の研究はあちこちで行われているようです。森林保護は共通の課題なのでしょう。私もネット上で様々な考察や研究論文に目を通しました。

それら論文や考察によれば、液晶ディスプレイは、ディスプレイの表面と図像を表示する層にわずかな距離があるようです。今の技術では数ミリ単位よりも少ないほどの。そして、そう意識して液晶ディスプレイを凝視してみると、焦点がぼやけていることに気付きます。一方、紙の文字を見るとくっきりと焦点を結びます。それは反射や透過や発行する液晶の性質によるのかもしれません。おそらくはこのわずかなずれが網膜に映った文字と脳内の認識のずれに繋がっているように思います。

では、ディスプレイのボケた焦点は、ディスプレイの解像度をあげれば解消するのでしょうか。私はそれだけではないように思いました。

紙とディスプレイ。表に出ているのは、共に文字や画像です。しかし、ディスプレイの背後には我々の気を散らすアプリが盛りだくさんです。例えパスワードロックを掛けて集中モードにしても、鉄の意思で画面に集中しても、ディスプレイの背後に隠れているモノが脳に何らかの連想を与えるのでしょう。では紙はどうか。紙は紙でしかありません。印刷されている情報はインクの集まりでしかなく、その背後には何も潜んでいません。

この事は、我々IT屋がアプリにいろんな機能を盛り込んでしまうことへの警告かもしれません。もはや、ディスプレイとその背後に控える情報量は人間の頭脳に余る。そう思います。ITの普及は人間の処理能力を遥か後ろに置き去りにしました。

多分このことは、電子ペーパーが普及し、解像度や触感が紙そっくりに再現されたとしても変わらないでしょう。紙はそこに印刷された情報以外のものを含まず、我々に余計な連想をさせないから集中できる。そう結論付けて構わないと思います。

紙の博物館でも、ディスプレイに対する紙が優位なのは何かをどんどん研究して頂きたいと思います。無駄な紙の使用はやめるべきですが、人間の脳を焼き切らせないためにも、紙に活躍の場は残されているはずです。

そしてその研究成果は、最近ホットな「人工知能は労働者の職を奪うか」の問いに対するヒントになるかもしれません。大容量の情報の受け渡しは、人工知能に任せましょう。人間は人間の脳が許容できる情報を発信し、それを受け取る。IT嵐の後も生き残る仕事とは、そのような仕事である気がします。


Facebookのフランス国旗騒動について


Facebookのプロフィール画像のフランス国旗化の話。案の定騒ぎになっていますね。

とはいえ、変える変えないは個人の自由です。言うまでもなく。なので、変えたからと言って引け目を感じる必要もなく、変えなかったことを誇る話でもありません。

ただ、皆さんのプロフィール画像が一斉に三色に染められて行く様は、興味深いものがありました。で、しばらくするとある記事がシェアされ始めました。プロフィール画像を設定すると個人情報が抜かれるというあれです。すると、みるみるうちに皆さんの画像が元へ戻っていきました。

その様子をみていて、思う事があったので、記事を書いてみます。

思う事とは、情報の受け止め方とその反応についてです。時代に合わせて、新聞、テレビ、ネットとメディアの主役は移り変わりました。それに伴い情報を受け取った我々の反応も変わりつつあります。

新聞が情報源だった頃、我々は時間をおいてニュースを知り、時間をおいて義援金を送るなどして現地に反応していました。その際も我々にはニュースに対して考える時間が与えられていたように思います。テレビが情報源だった頃は、リアルタイムで情報は届きました。しかし、それに対する反応の時間はまだ与えられていたように思います。

今、ネットの時代の真っ只中です。ニュースは発生から間髪入れずに我々の元へと届けられます。国民総ジャーナリストですから。また、我々にも現場に対する反応が即座に返せる環境が整いました。

ただ、その便利さを享受する替わりに、我々には無言無形の圧力が課せられるようになったのかもしれません。それは、ニュースを受け取ったら反応しなければならない、という圧力です。今のニュースに対する反応を見ると、そのような圧力が生まれ、それに流されてはいないか、と思うのです。

勿論、ニュースにたいし、無反応でいることは自由です。また、ニュースにたいしてじっくりと考え、考えを表明する自由もあると思います。

しかし、今生まれつつある圧力はそれを許さない方向へと向かっているように思います。ニュースを吟味し考える余裕も与えられぬまま、情報に対して即座にレスを返すことが求められているように思えるのです。
情報に対する判断力、決断力は無論重要でしょう。特にビジネスの世界においては。でも、今回のフランスでのテロに関しては、なにかそういう圧力が働いていたかのようでした。

情報に対して無反応であったり、時期を逸して意見を発したりすると情報弱者と見なされる風潮。そういう風潮にはなってほしくないですね。そう思いません?


Emailの限界と次世代のコミュニケーション手段


日本年金機構の漏洩問題ですが、この件によって今までに表面化していなかった問題がクローズアップされました。

それは、メール経由のウィルスをウィルス除去ソフトが検知できなかった件です。以下のURLにもその旨が報道されています。
https://www.yomiuri.co.jp/national/20150603-OYT1T50036.html

実は数年前から、大手ウィルスソフト会社のスポークスマンの口から弱音が吐かれていました。「全てのウィルス検知はもう無理」と。
https://gigazine.net/news/20140507-antivirus-software-is-dead/

怪しいメールからの添付ファイルは開かないのは常識です(今回はその常識も通じなかったようですが・・・・)。ところが、もし知り合いがメールアカウントを乗っ取られた場合、我々はそのメールを安易に知り合いからのものと認識し、添付ファイルを開けてしまいます。そしてその添付ファイルが既知のウィルスソフトで検知できないものだったならば・・・我々にとっても今回の漏洩事案については、他人ごとではありません。ただでさえ真に迫ったメールが飛んでくる昨今ではなおさら。

もはやEmailのインフラとしての信頼性は揺らいでいるといっても過言ではないでしょう。先見の明を持つ企業は、だいぶ前からEmailの限界に気付いています。例えばサイボウズさんのNO-Emailワークスタイルなど。https://no-email.cybozu.co.jp/
実は私とサイボウズさんのご縁もこのキャンペーンから始まりました。当時もEmail排除の思いに強く共鳴した私ですが、残念ながら私の仕事からまだEmailは駆逐できていません。

今回の件で、日本年金機構の体制の緩みをあれこれ云う事は簡単です。が、そもそもウィルス検知が機能しなかったことにもっと論点が当たるべきと思います。そしてEmailというインフラから、次の世代のインフラへ。そのような議論が熱くならねば嘘です。

プライベートの会話市場はLINEが席巻しているわけですが、ビジネス向けのやりとりをセキュアに、しかも簡単にできる仕組みはまだ寡聞にして知りません。Emailの次を担うコミュニケーション手段はグループウェアに相当するのでしょうが、One Stepで繋がりまで行けないのが難しいところです。

例えばですが、ログインやつながりの仕組みはLINEのようにし、やりとりの部分をメールソフトのインターフェースと同様にしたらどうでしょう。メールソフトのように時系列やスレッド単位、あとは相対する方とのやりとりのみ、グループのみのやりとりのみ、といった複数の表示が切り替えられるソフト。この要件であれば充分ビジネスユースにも耐えうるものが出来る気がするのですが・・・

メールの信頼性が揺らいでいる今、日本年金機構だけに限らずメール代替手段への機運が盛り上がるべきでしょう。

というエントリーを昨夜アップしようとしたらPCが固まってしまい、アップが遅れてしまいました。その間、日本年金機構はメールの使用を当分辞めるという発表を行い、それを受けて虚構新聞が狼煙という秀逸な記事をアップしました。が、未だウィルスの正体や突破されたウィルス検知ソフトは明かされずじまいです。