Articles tagged with: 恋愛

本格小説 下


上巻からの続きで、下巻は本編から始まる。長い長い前書きではない。

冨美子からハイ・ティーに誘われた祐介は今にも崩れそうな古い別荘に招かれる。重光と三枝、宇多川という表札のかかった古びた洋館。かつて軽井沢が別荘地として旧家を集めていた時期の名残だ。
その洋館で祐介は、冨美子からタローにまつわる長い話を聞かされる。

冨美子の語りに引き込まれていく祐介。
重光家と三枝家、宇多川家は、小田急の千歳船橋駅付近で戦前から裕福な暮らしを送っていた。成城学園に子女を通わせるなど、優雅な毎日。冨美子もそこに家政婦のような立場で雇われた。

では、タローこと東太郎はどのような立場だったのか。

宇多川家がかつて雇っていた車夫は、敷地の一角に居宅を与えられていた。その車夫から、甥の一家が大陸から引き上げてくるから一緒に住まわせてほしと懇願され、同居する事になったのが東家。

大陸からの引き上げ者の息子として、居候のような立場だった太郎。その経済の差は歴然としており、同じ敷地内でも生活や文化などあらゆる違いがあった。
三枝家の娘として何不自由なく育っていたよう子にとっては家格など関係ない。同じ年頃の友達として、太郎とよう子は一緒に遊ぶようになっていた。

幼い頃より、よう子と遊んで過ごす日々の中で、少しずつ太郎はよう子に思慕を抱くようになる。
だが、東家にとって三枝家ははるか上の家格。周りから見ても、当人たちにとっても不釣り合いなことは明らか。

昭和の高度成長の真っただ中とはいえ、摂津藩の家老だった重光家や大正期に商売で成り上がった三枝家は、まだ古い価値観に引きずられている。
有形無形の壁を前にした太郎はよう子との結婚を諦める。そして、単身アメリカへ飛ぶ。

やがて富を重ね、大金持ちになって日本に戻ってきた太郎。そこにはもはや自分の居場所はない。よう子は重光家の御曹司雅之と結婚し、三枝家と重光家は隣の家同士の関係から、親戚になる。

太郎は日本で過ごすことを諦める。が、つかず離れずこの両家の周辺に姿を見せる。冨美子がさまざまな人生の経験をへてもなお、この両家とつながっているように。

やがて、この両家も時代の荒波をかぶり、その栄華の日々に少しずつ影が生じる。
少しずつ衰退に向かっていく三枝家と重光家の周囲に太郎の気配がちらつく。つかず離れずよう子を見守るかのように。

家の格によって恋を引き離された二人の運命。それが描かれるのが本書だ。日本は経済で成長し、古い価値観は置き去られていく。この両家のように。
わが国の歴史が何度も繰り返してきた盛者必衰のことわり。それに振り回される男女の関係のはかなさ。

上巻ては特異な構成に面食らった読者は、下巻では冨美子の語る本編に引き込まれているはずだ。「嵐が丘」を昭和の日本に置き換えた本書の結末がどうなるかと固唾を飲みながら。

ここまで読むと、本書が著者の創作なのか、それとも序や長い長い前書きで著者が何度も強調するようにほんとうの話なのかはどうでも良くなる。
本書の本編は、祐介が冨美子か聞いた太郎とよう子の物語だ。だが、そこで語られた言葉が全ての一語一句を再現したはずはない。そこかしこに著者の筆は入っている。
だから本当のことをベースにした物語と言う考え方が正しいだろう。

本書の終わりはとても物悲しい。
私が『嵐が丘』を読んだのは20代の前半の頃なので、あまり筋書きも余韻も覚えていない。
が、本書の終わり方はおそらく『嵐が丘』のそれを思わせるものなのだろう。

本書の舞台となる時代は、戦後のわが国だ。
一方の『嵐が丘』は18世紀の終わりから19世紀初頭のイングランドが舞台だ。
その二つの時代と国だけでも大きな隔たりがあるが、戦後日本の移り変わりは、まだ旧家の価値観を留めており、物語としての本書の設定を成り立たせている。

たが今はどうだろう。世の中の動きはグローバルとなり、仕組みもさらに複雑になっている。つまり、本書や『嵐が丘』のテーマとなった価値や信条の大きな断絶が成り立たなくなりつつある。
いや、断絶がなくなったわけではない。むしろ、世の中が複雑になった分、断絶の数は増えているはずだ。
だが、読者の大多数が等しく感じるほどの巨大な断絶はだんだんとなくなっていくように思う。

もちろん、人間と人間の間にある断絶は細かく残り続けるだろう。だが、それを大きなテーマとしてあらゆる読者の心に訴求することにはもはや無理が生じている気がする。
本格小説に限らず、これからの小説に大きなテーマを設定することは難しくなるのではないか。
あるとすれば人間と人間ではなく、人間と別のものではないか。例えば人工知能とか異星人とか。

だが、そのテーマを設定した小説は、SF小説の範疇に含まれてしまう。
人と人の織りなすさまざまなドラマを本格小説と定義するなら、これからの世の中にあって、本格小説とは何を目指すべきなのだろう。

本書のテーマや展開に感銘を受ければ受けるほど、本格小説、ひいては小説の行く末を考えてしまう。

著者の立てたテーマは、本書を飛び越えてこれから人類が直面する課題を教えてくれる。

2020/11/5-2020/11/7


本格小説 上


本書のタイトルは簡潔なようでいて奥が深い。
小説とは何か。そうした定義に思いが至ってしまう。むしろ、何も考えない人はどういう心づもりで本書を読むのかを聞いてみたい位だ。
そんな偉そうなことをいう私も、そのようなことを普段は一切考えないが。

小説だけでも多様なジャンルがある。私小説や、童話、SF小説、ミステリー、純文学。
そのジャンルの垣根を飛び越えた普遍的なものが本格なのだろうか。

それともジャンルに関わらず、プロットや構成こそが本格を名乗るのにふさわしい条件なのだろうか。
または、『戦争と平和』や、『レ・ミゼラブル』のような長い歴史をつづった大河小説こそが本格の名に値するのだろうか。

書き手と読み手の二手にテーマを設定するとさらに解釈は広がる。
「本格」とはその語感から連想される枠の窮屈さではないように思う。むしろ逆だ。受け取り手の解釈によってあらゆる意味を許される。つまり「本格」とは曖昧な言葉ではないだろうか。

読者は本書を手に取る前に、まずタイトルに興味を持つはずだ。
そして、上に書いたような小説とは何か、という疑問をかすかに脳内で浮かべることだろう。それとともに、本書の内容に深い興味を持つはずだ。
いったい、本格小説と自らを名付ける本書はどのような小説なのか。この中にはどのような内容が書かれているのか、と。

本来、小説とは読者にある種の覚悟を求める娯楽なのかもしれない。今のように無数の本が出版され、ありとあらゆる小説がすぐに手に入る現代にあって、その覚悟を求められることがまれであることは事実だが。
時間の流れのまま、好きなだけ視覚と思考に没入できるぜいたくな営み。それが読書だ。読者は時間を費やすだけの見返りを書物に期待し、胸を躍らせながらページをめくる。
例えばエミリー・ブロンテによる『嵐が丘』が世界中の読者の感情をかき乱したように。
本書のタイトルは、そうした名作小説の持つ喜びを読者に期待させる。まさに挑戦的なタイトルだと言えるだろう。

ところが、本書は読者の期待をはぐらかす。
著者による「序」があり、続いて「本格小説の始まる前の長い長い話」が続く。
前者は5ページほど、本書の成り立ちに関わる挿話が描かれている。そして後者は230ページ以上にわたって続く。そこで描かれるのは著者を一人称にした本編のプロローグだ。
読者はこの時点でなに?と思うことだろう。私もそう思った。

本書の主人公は東太郎だ。アメリカに単身で流れ着き、そこから努力によって成り上がった男。

著者は長い長い話の中で東太郎と自らの関係を述べていく。
親の仕事の関係で12歳の頃からアメリカで住む著者。そこにやってきたのがアメリカ人実業家の家に住み込んでお抱え運転手をすることになった東太郎。
そこから著者と東太郎の縁が始まる。
やがてアメリカで成功をつかみ、富を重ねていく東太郎。ところがその成功のさなかに、東太郎はアメリカから忽然とその姿を消してしまう。
成功から一転、その不可解な消え方についてのうわさが著者の耳にも届く。

ところがその後、著者の元に東太郎の消息が伝えられる。
伝えたのは祐介という一読者。東太郎に偶然会った祐介は会話を交わす。そこで祐介は東太郎から著者の名前を聞く。かつてアメリカで知り合いだったことを教わる。
そのご縁を著者に伝えるため、祐介は著者のもとにやってきたのだ。

著者は東太郎とのアメリカでの日々から祐介に出会うまでの一連の流れを「本格小説の始まる前の長い長い話」に記す。
そしてこの長い前書きの最後に、著者が考える「本格小説」とは何かについてを記す。

「「本格小説」といえば何はともあれ作り話を指すものなのに、私の書こうとしている小説は、まさに「ほんとうにあった話」だからである」(228ページ)

「日本語で「私小説」的なものから遠く距たったものを書こうとしていることによって、日本語で「本格小説」を書く困難に直面することになったのであった」(229ページ)

「なぜ、日本語では、そのような意味での「私小説」的なものがより確実に「真実の力」をもちうるのであろうか。逆にいえば、なぜ「私小説」的なものから距だれば距たるほど、小説がもちうる「真実の力」がかくも困難になるのであろうか」(231ページ)

「日本語の小説では、小説家の「私」を賭けた真実はあっても、「書く人間」としての「主体」を賭けた真実があるとはみなされにくかったのではないか。」(232ページ)

続いて始まる本編(235ページから始まる)は、祐介の目線から語られる。
軽井沢で迷ってしまい、道を尋ねた民家。そこで出会ったのがアズマという動物のように精悍な顔をした男。冨美子という老女とともに住むその男のただならぬ様子に興味を持った祐介。
後日、軽井沢の街中で冨美子と出会ったことをきっかけに、祐介は老いた三姉妹に別の別荘に招待される。そこで冨美子や老いた三姉妹と会話するうちに、彼女たちにタローとよばれるアズマの事が徐々に明かされていく。

本編に入ると、ところどころに崩れかけた家や小海線、軽井沢の景色が写真として掲げられる。
それらの写真は、本編が現実にあったことという印象を読者に与え、読者を下巻へといざなう。

2020/11/1-2020/11/5


解錠師


本書はMWA(アメリカ探偵作家クラブ)のエドガー賞(最優秀長編賞)とCWA(英国推理作家協会)のイアン・フレミング・スティール・ダガー賞を受賞している。受賞作品という冠は、本書の場合、本物だ。だてに受賞したわけではない。登場人物の造形、事件、謎、スリリングな展開、それらが本書にはそろっている。傑作というしかない。

本書には設定からしてユニークな点が多い。まず、本書の主人公はしゃべれない。八歳の時に起こった事件がもとで言葉を失ってしまったのだ。だから主人公は言葉を発しないけれど、主人公の心の動きは理解ができる。それは、主人公の視点で描かれているからだ。口に出して意志は伝えられないが、独白の形で主人公の心が読者には伝えられる。ているの動き、感情、そして読者は口がきけないことが思考にどう影響を与えるかを想いながら本書を読むことになる。マイク、またの名を奇跡の少年、ミルフォードの声なし、金の卵、若きゴースト、小僧、金庫破り、解錠師と呼ばれた男の物語を。

本書は、刑務所にいるマイクの独白で展開する。そのため、複数の時代が交互に登場する。最初は分かりにくいかもしれないが、著者も訳者も細心の注意を払ってくれているので、まず戸惑うことはないはずだ。それぞれの章の頭にはその時代が年月で書かれているし。

しゃべれなくなったマイクは、叔父リートの店を手伝いながら、店の古い錠前で錠前破りに興味を持ちつつ、コミュニケーション障害を持つ子供たちの学校に通う。進学した健常者の高校では絵の才能が開花する。そして親友のグリフィンと会う。しかしその出会いから、マイクの運命は変転を加えていくことになる。

卒業記念に強盗という無法を働こうとしたグループにグリフィンと巻き込まれたマイクは、押し入ったマーシュ家で独り捕まる。そこからマイクの運命はさらに変転を重ねる。マーシュ家で保護観察期間のプログラムとしてプール作りの労働に励むことになったマイク。そこでマイクは錠前破りの弟子としての道を示され、さらにマーシュの娘アメリアに出会う。マイクは錠前破りのプロとして独り立ちし、たくさんの犯罪現場の場数を踏む。その後もマイクの独房での独白は進んでゆくのだが、それ以上は語らないでおきたい。

本書のユニークな点は、錠前破りの論理的な部分を図解なしで紹介することにある。金庫の錠前を破るにはロジックの理解と指先の微妙な感覚を検知する能力が求められる。シリンダーの細かい組み合わせと、そのわずかなひっかかりを基に正しい組み合わせを逆算出するのだから当然だ。もちろん、本書を読んだだけで誰でも錠前破りになれるわけではない。だが、図解なしにそういったセンシティブな部分を書き込むにはかなりの労力を要したことだろう。著者略歴によれば著者はIBM出身だそうだ。本書のロジカルな部分にIBMのセンスが現れている。

だが、本書で見逃せないユニークな点は、マイクとアメリアの間に交わされる絵によるコミュニケーションだ。最初はマイクからアメリアへのポートレイトのプレゼントから始まる。夜間にマーシュ家に忍び込み、寝ているアメリアの横にポートレイトを置いて帰るという向こう見ずな行い。それに気づいたアメリカからの返信の絵。寝室で合った二人は、声を交わす前からすでに恋人同士のコミュニケーションが成り立っている。

むしろ本書は、マイクとアメリアの若い恋人によるラブストーリーと読んでもよいかもしれない。声が出せなくても、マイクには絵という感情と、表情と身ぶりでを想いを伝える手段がある。声を出さないことでアメリアへの思いが発散し、薄れてしまわないように。マイクの内に秘めた熱い感情は声なしでアメリアに伝わってゆく。声というのはもっとも簡単な伝達手段だ。だが、たとえ声が出せなくても絶望することはないのだ。マイクからは口がきけないことを後ろ向きに感じさせない強さがある。

先に、著者がIBM出身であることを書いた。IBMは声を使わない情報伝達を本業としている。そんなIBM出身の著者だからこそ、口がきけないマイクとアメリアの交流を考え付いたのだろうか。多分、ヒントにはなったかもしれないが、それ以上に著者は考えたはずだ。口を使わない情報伝達の限界を。それは単にロジックを考えればよい問題ではない。心と感情について、著者は深く考えぬいたのだろう。心の描写をゆるがせにしなかったことが本書を優れた作品に持ち上げたのだと思う。

マイクから言葉を奪った事件も本書の終わりのほうで語られる。それは、八歳の少年から声を奪うに十分な出来事だ。そんな出来事があったにも関わらず、マイクは強い。芯から強い。アクの強い犯罪者たちの間に伍して冷静に錠前破りができるほどに強い。声を出せないことがマイクをそのように強くしたのか。それとも、そのような試練に打ち勝てるだけの素質がもともとあったのか。マイクの強さと心のまっすぐさは、犯罪を扱っている本書であるがゆえに、かえって強く印象付けられた。

おそらく本書の魅力とは、マイクのひたむきな前向きさにあると思う。

‘2016/08/29-2016/09/05


お目出たき人


著者の没年を見ると、私が三歳の年に亡くなったようだ。つまり私が幼い頃はまだ存命だったことになる。だが、著者の作品をまとまった書籍として読んだ記憶がない。教科書で読んだかどうかもあやふやだ。私の中ではあまり関わりのなかった著者だが、なぜか私にとって著者は文豪としての印象付けられている。私が幼い頃にテレビでお姿を拝見したのだろうか。

少なくとも、本ブログを初めてから、著者の作品を意識して読むのは初めてだ。では今になってなぜ著者の作品を読もうかと思ったか。それは、別冊宝島「巨人列伝」の中に収められている倉阪鬼一郎氏の文章がきっかけだ。倉阪氏は巨人列伝の数多くいる著者の一人として、文豪で奇人といえる人物を取り上げている。そこで著者の最晩年のエッセイが血祭りに上げられている。そのエッセイは抜粋されているが、まさに戦慄すべき内容だ。本当に公に発表された文章とはとても思えない。もはや文章の体をなしていない。それが逆に私の興味を惹いた。著者はどんな作家なのだろう。そんな好奇心が頭をもたげ、あらためて著者の作品を読んでみた。

興味本意で読み始めた本書。上に書いたエッセイのような支離滅裂さを期待したがその期待は外れた。その替わり、著者についてかつて文学史の文脈で学んだ断片知識を思い出した。それは、無垢とまでいえる天真爛漫な純粋さだ。

本書の主人公は26歳の男。鶴という女学生に一方的に懸想し、一人悶える。片思いもいいところの片想い。それでいて本人には話し掛けず、ついには間に人を介して結婚を申し込もうとする体たらく。が、先方からは時期尚早とお断りを入れられ煩悶し、妄想の中で鶴を恋人に仕立てあげる。もちろん、明治40年当時の恋愛観を今と比べることの愚かさは分かっている。それは分かっているが、主人公の鬱々とした独白は現代人にとって焦れったいことこの上ない。もはや苛立ちすら感じさせるレベルに至っている。だが優柔不断を絵に描いたような主人公は、自分の脳内の世界では青年らしく高潔たらんとし、騎士を演じる。そのギャップの激しさは、ある種の文学の高みといっても良いほどだ。

著者が本書を書いたとき、ちょうど主人公の年齢と同じ26歳だったらしい。つまり、主人公とは著者を投影した人物と思えないだろうか。日露戦争に勝って意気軒昂な当時の富国強兵日本。その当時、柔弱な文士という偏見がどこまでまかり通っていたかはわからない。ひょっとすると文士が軟派であることは、逆に社会的に許容されていたのではなかろうか。そう思わせるほど、主人公の独り相撲と自己愛は常軌を逸するレベルにまで高められている。

主人公の独白に付き合ううちに、私の脳裏にはある人物の顔が浮かんだ。それは、今から数代前の日本国首相を務めた鳩山由紀夫氏である。友愛をキーワードに理念先行の政治を推し進め、却って混乱を招いて退陣した鳩山氏。私は鳩山由紀夫氏の友愛についての本を読んだことがある。なので、人間としての鳩山氏が目指したかった理想を少しは理解している。氏の掲げた友愛を妄想と一方的に片付けるのは可愛そうだと思う。むしろこういう理想を語る政治家が居てもよいではないか、と好意的に考えていた。日本のリーダーとしては相応しくなかったが、私はこういう理想を語る人は好きだ。直接的に私に害を及ぼさないかぎりは。なので、本書の主人公も著者のことも鳩山氏も理想を語る人間としては等しく好意を持って見ているつもりだ。私自身、かつては本書の主人公の様な理想論に凝った時期もあったのだから。

それより凄いと思えることが一つある。それは、著者にしても鳩山由紀夫氏にしても、その無垢な性質を保ったまま中年期を迎えられたことだ。その凄さの源がどこにあるかを考えた時、一つの結論にたどり着く。それは、二人とも名家の御曹司ということだ。かたや公家の血を引く武者小路伯爵家。かたや明治から政治家一家として知られる鳩山家。著者については、出生から青年期に至るまでを東京麹町で過ごしている。麹町とは今でも高級マンションや大使館が軒を連ねるエリア。おそらく当時は今よりもさらにステータスが高かったのではないか。そこに生まれ育った著者は、御曹司として恵まれた青年時代を過ごしたことになる。奇遇にも著者の生誕地は、ここ数年の私が客先常駐する現場のすぐ近くにあるらしい。著者の理想主義を育んだ地は、私にとっても馴染みのある場所だったわけだ。

彼らの理想主義が裕福な財政を後ろ盾にした理想主義であったならば、少し割り引いて考えなければなるまい。たとえ人間的には好意をもったとしても、その理想論にたやすく追随するわけにはいかないのだ。そしてそれを裏付けるように、本書の主人公の言動からは生活のために働かなくては、との切迫感が全く感じられない。そもそも本書には主人公が働く描写がほとんど出てこないのだから。

ただし、本書に救いが見当たらないかというとそうでもない。その救いは本書の題名に隠れている。「お目出たき人」という題名には明らかに自嘲の響きがある。著者は自らの境遇を明らかに客観視しているようだ。自らを客観視できたことは、著者を作家として大成させる原動力となったはずだ。

ただ、晩年に入った著者は客観を忘れてしまったようだ。文豪と崇め奉られる余りに編集者からの指摘も受け付けられなくなった。冒頭に書いたエッセイの無惨さは、そんなところに遠因があったように思う。

そういう観点から本書を読むと、理想主義の結末が見えてしまうようで悲しい。老いてもなお理想は掲げていたいものだ。もちろん現実を見据えた上で。今までの無理解を取り戻すためにも、調布の記念館には一度行ってみたいと思う。

‘2016/05/28-2016/05/29


図書館戦争


著者の作品は十冊近く読んでいる。が、著者の出世作として知られる図書館戦争シリーズを読むのは今回が初めて。

結論からいうと、私は本書の世界観には入り込めなかった。残念なことに。

本好きの端くれとしては、検閲や焚書に抗する図書館という構図は分かる。応援もしたい。だが、入り込めなかった。それは、武力をもって本を守るという、本書の世界観に共感できなかったためなのだろうか。本書を読み終え、このレビューを書き始めてもなお、その理由を探っていた。

本書の世界観の基になっている、図書館の自由に関する宣言は実在している。

図書館の自由に関する宣言
一、図書館は資料収集の自由を有する。
二、図書館は資料提供の自由を有する。
三、図書館は利用者の秘密を守る。
四、図書館はすべての不当な検閲に反対する。

図書館の自由が侵される時、我々は団結して、あくまで自由を守る。

著者があとがきに書いているが、この宣言の好戦的な調子から、本書の構想がまとまったという。

確かにそう思える。実際、私も本書を読んでから図書館に掲示されている宣言を改めて読んてみた。静謐な図書館の空間にこのような宣言があると若干違和感を覚えるのは事実。ただ、その違和感は、図書館を舞台にして戦闘を行うことという違和感とも違う。それは私が本書の世界観にに入り込めなかった理由ではなさそうだ。

違和感の由来は何なのか、つらつら考えてみた。そして、一つの感触を得た。それは、図書館に軍隊があるチグハグさによるものではないか、ということだ。図書館は、上に挙げた宣言にあるとおり自由を尊ぶ場である。それに対し軍隊とは規律と統制の権化と言ってよいだろう。

本書で登場する図書隊員は、階級が設定されている。特等図書監を筆頭に一等~三等図書監、一等~三等図書正、図書士長、一等~三等図書士という具合だ。自衛隊や旧軍の呼称と違うようだし、気になって調べたところ、海上保安庁で今も使われている呼称を流用しているようだ。

つまり私の感じた違和感とは、私自身が元々階級や組織を好きでないのに、好きな図書館に階級や組織が取り入れられているという世界観に馴染めなかったことに由来するのではないか、と。

しかし、それは本書を貶す理由にはならない。本書で書かれているのはパラレルワールド。昭和の次が平成ではなく、正化という異世界の話。世界観が違うからといってその小説の価値が落ちる訳ではない。それを違和感の理由とするのはフェアではない。そこは本書のためにも言い添えておかねば。

依然として、私の違和感の原因は掴み切れていない。

本書の概略は次の通りである。

メディア良化法の成立によって、検閲が正当化された世界。しかし図書館も手をこまねいていたわけではなく、警備隊を持つに至る。それが図書隊。超法規的解釈がなされ、良化特務機関(メディア良化隊)と図書隊の戦闘による争いが合法化されるに至る。

本書の主人公は、図書隊に志願して入隊した郁。郁と、図書隊の皆との交流や友情、そして著者の得意とする恋愛模様が本書の筋を形作っていると云えようか。そして、こういった人間関係やそれぞれの心の動きを書かせると著者は実にうまい。すんなりと入れる。舞台が著者の書くものによく登場する自衛隊の世界にも似た図書館とあればなおさら。

訓練で上々の成績を上げた郁は図書特殊部隊の紅一点として配属される。そこではさらに色々な出来事が発生し、その都度己の未熟さを感じたり、周りの助けの有難さに触れたり。本書を通じて郁は成長を遂げてゆく。そのためのエピソードが本書には多々用意されている。情報歴史資料館からの資料撤収、拉致誘拐された稲嶺図書指令の救出。等々。

本書の前半で郁が図書隊を志願した理由が紹介される。その出来事とは、書店において、郁が探していた本を買おうとしたところ、折悪しくメディア良化隊の踏込を受ける。しかしそこに現れた図書隊員が機転を利かして郁とその本を助けたというものだ。本書の後半で、我々読者はその隊員の素性を知ることとなる。

そして、私はここに至って、ようやく本書から感じる違和感の正体が分かった気がする。それは、本書が意図して世界観を守るために、現況を意図して抜かしていることに発する。

本書の舞台は正化三十一年。正化を平成に置き換えたとして、平成三十一年、つまり2019年のことだ。そして、それは現代よりもさらに3年先の未来の話。当然今よりもIT技術は進歩しているに違いない。しかし、IT技術を前面にだすと、本書の世界観は根底から崩れる。

つまり、本書が依って立つ世界観は全て紙の本の存在を前提としている。図書館しかり、本屋しかり、情報歴史資料館しかり。しかし、現代は紙の本が凄まじい勢いで廃れつつある時代だ。本屋や取次、出版社倒産のニュースは珍しくない。その中で紙の本が不可欠な本書の世界観に、私は決定的な違和感を抱えたのだと思う。

いくらメディア良化隊が現実の図書館や本屋を襲撃して検閲を行おうとも、そもそも表や裏ネットで大量に流通される電子データの前には無力な存在でしかない。そして、そこに戦闘行為を発生させようという試みがそもそも違和感の基なのだ。著者はそれが分かっていたはず。なので敢えて、図書館にある情報端末ぐらいしか本書には登場させていないのかもしれない。

惜しむらくは本書の時代設定である。時代設定をもう少し前に、例えば正化7年ごろにしてもらえれば。そうすれば、本書から感じた違和感は大幅に払拭されたはずなのだが。

または私が本書を読むのが遅すぎたのかもしれない。

だが、あえてもう一ひねりして穿った見方をする。本書はこういった世界観を敢えて採用することで、紙の書籍文化華やかなりし頃の熱気を再現させたかったのかもしれない、と。

‘2015/04/30-2015/05/02


そうか、もう君はいないのか


巻末の児玉清さんの解説にすべてが書かれている。本文でも静かな共感と感動が、そして読み終えた終わった後には児玉さんの文章にまた心を動かされる本である。

著者が亡くなった後に、依頼を受けて書いていたという奥様とのなれそめや思い出を綴った原稿を、残された遺族の方がまとめたという本書は、原稿に対する気負いも重圧もなく、ただひたすらに著者の愛妻家ぶりと自分の一生への肯定的な気持ちが伝わり、すがすがしい気持ちになる。

私の少ない読書体験の中では、著者の自伝にはまだ巡り会っていないけれど、愛妻との出会い、そして名古屋への通勤から茅ヶ崎への転居、小説家としてのデビューが淡々とした筆致で語られており、本書こそが著者の自伝といっても過言ではないだろう。

巻末には原稿を編纂した遺族の娘さんによる文章も載っており、著者の主観的な文章と、娘さんの客観的な視点から、氏の愛妻家や人柄が伝わってくる。

職住近接のススメとして、本書を取り上げてもいいかもしれない。

なお、この本の解説を児玉さんが書かれたのは、なくなる一年前である。あくまで想像だけれど、お亡くなりになる前に、改めて本書の想いを味わいつつ、旅立たれたのではないだろか。

’12/1/30-’12/1/31