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太陽の簒奪者


ハードSFは読んでいる間は楽しく読めるのだが、読み終えるとなぜか中身を忘れてしまうことが多い。本書も同じだった。
設定や頻出する英文字略語、登場人物などは真っ先に忘れる。それらが失われると、筋の運びすらバラバラに解けていく。

本書については、あらすじすらもあやふやになっていた。
そのため、本稿を書くに当たって改めてざっと読み直してみた。
本書のあらすじはこんな感じだ。

突如として水星の地中から高く噴き出した柱。それを発見したのは高校の天文部の部長である白石亜紀。その柱は水星を構成する鉱物資源であり、それは太陽の引力に引かれ、直径8000万キロのリングとなって太陽を取り巻いた。
それによって地球に届くべき太陽エネルギーは激減し、地球は寒冷の星と化した。収穫は減り、それによって多くの産業が衰えていた。大量の人が死んでいき、既存の経済に頼ったあらゆる体制は崩壊していく。
リングがなぜできたのか、リングをどうすればなくせるのか。
長じて科学者となった亜紀は、長きにわたってリングの謎に関わっていく。

本書は異星人とのファースト・コンタクトを描いている。
リングの正体については、本書の中盤あたりで描かれる。だから本稿がネタバレを含んでいても許してほしい。
このリングは、正体の不明な異星人がどこかの星系から次の星系へ船団ごと移動するための手段だ。

リングの構築にあたって、地球と人類に甚大な損害を与えた異星人。異星人を糾弾し、彼らを撃退する迎撃体制が組まれる。そうした風潮に対し、白石亜紀はその異星人が地球に知的生物がいると知らずにリングを設定したのではないかと仮定する。そして、異星人を迎撃しないよう必死に訴える。異星人とのファースト・コンタクトに臨んだクルーは、そこで何を見るのか。

著者は、本書を書くにあたって、異星人とのファースト・コンタクトにおける可能性を熟慮したのだろう。本書を読めばそのことが感じられる。

実際、私たちがファースト・コンタクトを経験する日は来るのだろうか。
私はこの広大な宇宙のどこかに人間と同じような知的生物は存在すると思っている。その存在と遭遇するのはいつか、またはどういう形で遭遇するのか。私にはわからない。そもそも、その存在に確たる証拠がない以上、私がそう思っていることは、もはや信仰に近いのかもしれない。

人類と異星人が遭遇するケースはさまざまに考えられる。例えば、SETI(地球外知的生命体探査)が検出した信号をもとに何かしらの交信が始まることもあるだろう。パイオニア・ボイジャー探査機に取り付けられた銘板を見た異星人が地球を訪問する可能性もゼロではない。逆に、人類の発したメッセージとは無関係に異星人が地球を発見する可能性もありえる。
人類と異星人の遭遇のあり方についてはあらゆるケースを考えた方がいいし、SF作家にとってはテーマとしては使い古されていても、あらゆる書き方が可能である。著者がその一つとして描いたのが本書だ。

異星人の文明が地球よりも相当進化している場合、そもそも遭遇の実際は、人類が想像することすら難しいかもしれない。著者のようなSF作家が知恵を絞っても思い付かないような。

では仮に、私たちの思いもよらない方法で遭遇が実現したとする。
その時、人類は国や民族、宗教の違いによって殺し合うよう段階から、一つ成長できるのではないかと思っている。
異星人は思考回路や思考パターンも人類と違うだろう。そもそも知的水準すら今の人類を凌駕しているとすれば、人類は彼らの思考パターンの片鱗さえも読み取れないはずだ。その時、異星人の容姿や思考回路の違いなど、人類が悩む暇などないはずだ。マスコミが面白おかしく取り上げるとしても。
容姿や思考パターンの違いなど、本書で書かれたようにほとんどの人は触れずに終わってしまうだろう。

ただ、遭遇して初めて人類は知るだろう。それぞれの個人が持つ考え方の違いなど、異星人と人類の違いに比べたら、比較にならないことを。
自分たちが仕事や宗教や文化、価値観の違いに悩んでいることなどちっぽけであることを。それを争いのタネとすることの愚かさを。

そこから人類はどのような道を選んでいくのだろうか。
そもそも今の人類のあり方は、生命として能率的な形なのだろうか。今の生命体としてのあり方は絶対の普遍なのだろうか。
もし、生命のあり方から変えた方がよりよい未来が望めるのなら、どのような生命へと変わっていくのか最適なのか。

なぜそう思うのか。それは、本書に出てくる異星人が、生物としてのあり方を根本から変革しているからだ。
われわれの存在と違う形で発展した異星人の姿が描かれた本書は、今の人類のあり方に問いを投げかける。

今の人類は、それぞれの個体がそれぞれの思惑や欲求をばらばらに抱えている。だから、生まれた民族や文化や宗教や土地に縛られた思考しか巡らせられない。
そのあり方のままで果たして、種族としての進化は可能なのだろうか。

そうした思索からは、根源的な疑問すら湧き上がる。私たちの存在のあり方が理想の形なのだろうかという。
全ての思考の型が今までに人類の発展する中で設けられた枠から抜けられないとすれば、人類が次の段階に進むことは到底無理だろう。
もし人類が次の段階に進みたいのであれば、私たちは徹底的に自らを客観的に考える訓練をしなければならない。自己の思考の道筋を客観的に考え、その思考の道筋を自分の主観から自由にする。それはまさに哲学が今まで苦闘してきた道そのものだ。

SFとはサイエンス・フィクションの略であることは誰でも知っている。だが、フィクションだからといって、その内容を自己の思索の材料にしないのはもったいない。たとえ壮大な時間軸であっても。

‘2020/05/22-2020/05/23


人間臨終図鑑Ⅲ


そもそもこのシリーズを読み始めたのは、『人間臨終図鑑Ⅰ』のレビューにも書いた通り、武者小路実篤の最晩年に書かれたエッセイに衝撃を受けてだ。享年が若い順に著名人の生涯を追ってきた『人間臨終図鑑』シリーズも、ようやく本書が最終巻。本書になってようやく武者小路実篤も登場する。

本書に登場するのは享年が73歳以降の人々。73歳といえば、そろそろやるべきことはやり終え、従容として死の床に就く年齢ではないだろうか。と言いたいところだが、本書に登場する人々のほとんどの死にざまからは死に従う姿勢が感じられない。そこに悟りはなく、死を全力で拒みつつ、いやいやながら、しぶしぶと死んでいった印象が強い。

有名なところでは葛飾北斎。90歳近くまで生き、死ぬに当たって後5年絵筆を握れれば、本物の絵師になれるのに、と嘆きつつ死んでいった。その様は従容と死を受け入れる姿からはあまりにかけ離れている。本書に登場する他の方もそう。悟りきって死ぬ人は少数派だ。本書は120歳でなくなった泉重千代さんで締めくくられている(本書の刊行後、120歳に達していなかったことが確認されたようだが)。私が子供の頃になくなった重千代さんは当時、長寿世界一の名声を受けていた方。眠るように死んでいったとの報道を見た記憶がある。例えトリを飾った方が消えるように亡くなっていても、他の方々の死にざまから受ける印象は、死を受け入れ、完全な悟りの中に死んでいった人が少ないということだ。多くの方は、十分に死なず、不十分に死んだという印象を受ける。

わたしは30代の後半になってから、残された人生の時間があまりにも少ない事に恐れおののき、焦りはじめた。そして、常駐などしている暇はないと仕事のスタイルを変えた。私の父方の家系は長命で、祖母は100歳、祖父も95歳まで生きた。今の私は45歳。長命な家計を信じたところで後50年ほどしか生きられないだろう。あるいは来年、不慮の事故で命を落とすかもしれない。そんな限られた人生なのに私のやりたいことは多すぎる。やりたいことを全てやり終えるには、あと数万年は生きなければとても全うできないだろう。歳をとればとるほど、人生の有限性を感じ、意志の力、体力の衰えをいやおうなしに感じる。好きなことは引退してから、という悠長な気分にはとてもなれない。

多分私は、死ぬ間際になっても未練だらけの心境で死んでいくことだろう。そしてそれは多くの人に共通するのではないだろうか。老いた人々の全てが悟って死ねるわけではないと思う。もちろん、恍惚となり、桃源郷に遊んだまま死ねる人もいるだろう。ひょっとしたら武者小路実篤だってそうだったかもしれない。そういう人はある意味で幸せなのかもしれない。ただ、そういう死に方が幸せかどうかは、その人しか決められない。人の死はそれぞれしか体験できないのだから。結局、その人の人生とは、他人には評価できないし、善悪も決められない。だから他人の人生をとやかくいうのは無意味だし、他人から人生をとやかく言われるいわれもない。

今まで何千億人もの人々が人生を生き、死んでいった。無数の人生があり、そこには同じ数だけの後悔と悟りがあったはず。己の人生の外にも、無数の人生があったことに気づくことはなかなかない。身内がなくなり、友人がなくなる経験をし、人の死を味わったつもりでいてもなお、その千億倍の生き方と死にざまがあったことを実感するのは難しい。

私もそう。まだ両親は健在だ。また、母方の祖父は私が生まれる前の年に亡くなった。遠方に住んでいた母方の祖母と父方の祖母がなくなった際は、仕事が重なりお通夜や告別式に参列すらできなかった。結局、私がひつぎの中に眠る死者の顔を見た経験は数えるほどしかない。ひつぎに眠る死者とは、生者にただ見られるだけの存在だ。二度と語ることのない口。開くことのない眼。ぴくりとも動かない顔は、こちらがいくら見つめようとも反応を返すことはない。私がそのような姿を見た経験は数えるほどしかない。父方の祖父。大学時代に亡くなった友人二人。かつての仕事場の同僚。あとは、6,7度お通夜に参列したことがあるぐらい。祖父と友人の場合はお骨拾いもさせていただいた。もう一人の友人はなくなる前夜、体中にチューブがまかれ、生命が維持されていた状態で対面した。私が経験した死の経験とはそれぐらいだ。ただ、その経験の多少に関係なく、私は今までに千億の人々が死んでいったこと、それぞれにそれぞれの人生があったことをまだよく実感できていない。

『人間臨終図鑑』シリーズが素晴らしいこと。それは、これだけ多くの人々が生き死にを繰り返した事実だけで占められていることだ。『人間臨終図鑑』シリーズに登場した多くの人々の生き死にを一気に読むことにより、読み手には人の生き死にには無数の種類があり、読み手もまた確実に死ぬことを教えてくれる。著者による人物評も載せられてはいるが、それよりも人の生き死にの事実が羅列されていることに本書の価値はある。

人生が有限であることを知って初めて、人は時間を大切にし始める。自分に限られた時間しか残されていないことを痛感し、時間の使い道を工夫しはじめる。私もそう。『人間臨終図鑑』シリーズを読んだことがきっかけの一つとなった。自らの人生があとわずかである実感が迫ってからというもの、SNSに使う時間を減らそうと思い、痛勤ラッシュに使う時間を無くそうと躍起になった。それでもまだ、私にとって自分の人生があとわずかしか残されていないとの焦りが去ってゆく気配はない。多分私は、死ぬまで焦り続けるのだろう。

子供の頃の私は、自分が死ねばどうなるのかを突き詰めて考えていた。自分が死んでも世の中は変わらず続いていき、自分の眼からみた世界は二度と見られない。二度と物を考えたりできない。それが永遠に続いていく。死ねば無になるということは本に書かれていても、それは自分の他のあらゆる人々についてのこと。自分という主体が死ねばどうなるのかについて、誰も答えを持っていなかった。それがとても怖く、そして恐ろしかった。だが、成長していくにつれ、世事の忙しさが私からそのような哲学的な思索にふける暇を奪っていった。本書を読んだ今もなお、自我の観点で自分が死ねばどうなるか、というあの頃感じていた恐怖が戻ってくることはない。

だが、死ねば誰もが一緒であり、どういう人生を送ろうと死ねば無になるのだから、人生のんびり行こうぜ、という心境にはとても至れそうにない。だからこそ私は自分がどう生きなければならないか、どう人生を豊かに実りあるものにするかを求めて日々をジタバタしているのだと思う。

あとは世間に自分の人生の成果をどう出せるか。ここに登場した方々は皆、その道で名を成した方々ばかり。世間に成果を問い、それが認められた方だ。私もまた、その中に連なりたい。自分自身を納得させるインプットを溜め込みつつ、万人に認められるアウトプットを発信する。その両立は本当に難しい。引き続き、精進しなければなるまい。できれば毎年、自分の誕生日に自分の享年で亡くなった人の記事を読み、自分を戒めるためにも本書は持っておきたい。

果たして私が死に臨んだ時、自分が永遠の無の中に消えていくことへの恐れは克服できるのだろうか。また、諦めではなく、自分のやりたいことを成し遂げたことを心から信じて死ねるのか。それは、これからの私の生き方にかかっているのかもしれない。

‘2017/07/25-2017/07/26


モナドの領域


本書の帯にはこう書かれている。「我が最高傑作にしておそらく最後の長編」

本書が著者の最高傑作かどうかは、書き手と読み手の主観の問題だ。私にとって著者の傑作短篇はいくつも脳裏に浮かぶ。が、長編の最高傑作と言われてもすぐには選べない。だが一つだけ確かにいえるのは、本書が著者の思索の到達点であることだ。

作品の舞台を全くの異世界に置き、異世界を訪れた人類が認識のギャップに右往左往する様を描いたSF的手法から始まった著者の作家生活。著者の文学的冒険は、読み手と書き手の世界を客観的に描写するメタ手法へと進む。さらに認識や現象の本質に迫る哲学的な作品まで。著者の扱うテーマはどんどんと進化を遂げてきた。

そして本書だ。

本書で著者は、あらゆる存在の創造主を登場させる。地球や地球の属する宇宙よりもさらに上のレベルの枠組みを創造した存在。人間が思い浮かべる神よりももっと先の超越した「それ」。「それ」が本書に出てくる創造者だ。

ある目的があって人間の体を借りた創造者は、人々の過去や正体をこともなげに当ててゆく。おりしも、街には片腕と片足だけが突如現れる事件が起こり、物騒な雰囲気が漂っている。創造者はあえて自分を公衆の目に晒す。創造主の目的は、本稿では書かない。だが、本書を掌る役目なのは創造者だ。そして創造者は著者の分身となって物語を自在に進行させる。

本書で圧巻なのは創造者と人々の対話シーンだろう。いや、対話とは言いすぎか。人々と創造者が対等なはずがないからだ。そのシーンでは人々が創造者に問い掛け、創造者がそれに答える。その様子は師と弟子の問答のよう。人々が創造者に問いたいことは様々だ。検事が、クリスチャンが、哲学者が、サラリーマンが、弁護士が、科学評論家が、経営者が、政治評論家が、それぞれの悩みを創造者に問う。

彼らの問いは、彼ら自身にとっては切実なものだ。創造者はそれらの問いを造作なくさばいてゆく。創造者にとっては取るに足りない問いといわんばかりに。多分、82歳の著者にとってもそれらの問いの多くは取るに足りないものなのだと思う。そして、本書に登場する問いからは、著者の関心分野も読み取れて興味深い。ちなみに問いの中には宗教間の争いも、科学技術の行く末や、環境問題の解決法についても登場する。ところが、国際政治、特に日中韓の関係について問いかけようとする人物はいるが、その質問者はすぐに退場させられる。本書で取り上げられる他の問題に比べれば、国と国の間の関係はあまり大したことではない、という著者の考えが垣間見える。国際政治に関する著者のスタンスがうかがえて興味深い。

さらに本書を読んで感じたのは集合知の未熟だ。本書を読んでいると、ITがもたらしたはずの集合知が人々の切実な問いに答えられない事実を痛感する。知恵袋やOK waveといったQAサイトはあるが、それらのサイト内で人々の悩みに答えるのは他の回答者。つまり人力だ。哲学的な問題や科学技術の問題もそう。ITがそれらの問題に回答できる日が来るのはいつの日だろうか。今のITに期待される知恵とは、ビッグデータの集積から導き出される人工知能による回答をさす。だが、今のITに蓄積されつつある集合知とは、人間の知恵の延長線上にある。つまり今の段階ではITは神にはなり得ていないのだ。

そして著者はSF的な設定手法を本書に持ち込みつつも、技術論や科学論の袋小路に入り込んむ過ちを犯さない。しかもそれでいて難解な人間存在のあり方について分かりやすく説く。SFにはこういうアプローチもあるのだと感心させられた。

思索の内容といい、アプローチの手法といい、本書は著者の思索の到達点だ。その思索の成果を創造者の口を借りて語ったのが本書だ。だからこそ、著者をして最高傑作と言わせたのだろう。私も本書を著者の代表作の一つに推したい。ただ著者のファンとしては、ここまでの高みに登ってからの作家活動が気になる。可能ならばあと一編は著者の長編を読みたいものだ。そんな願いを抱きつつ、著者のブログ「偽文士日録」をチェックしよう。

‘2017/03/17-2017/03/17