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禁断の魔術


著者の作風に変化を感じたのは「夢幻花」だったと思う。その変化についてはレビューにも書いた。私が感じた変化をまとめると、謎や解決のプロセスを本筋できちっと書き込み、なおかつ、それとは並行する別の筋に作者の想いや主張を込める離れ業を見せるようになったことだ。作風の変化というより作家として新たなレベルへ進化したというべきか。

「夢幻花」はシリーズものではなく単発作品だった。普通は安定のシリーズものではなく単発作品で実験的な手法を試すのが常道だと思う。

だが、著者はガリレオシリーズの一冊である本書で新たな手法を試す。今までガリレオの活躍を読まれてきた方にはお分かりだが、ガリレオシリーズは新しい科学的知見がトリックに惜しみ無く投入される。ガリレオこと湯川学が物理学者としての知見で謎を解くのがお決まりの構成だ。決して理論だけに凝り固まらず、謎や犯人との対峙の中で、ガリレオの人としての温かみが垣間見える。そんなところがガリレオシリーズの魅力である。

本書でもガリレオの前に科学的な装置を駆使した犯罪が立ちふさがる。その装置を使って一線を越えようとする人物の素性も序盤で読者に明かされる。それはガリレオのかつてのまな弟子。師は果たして不肖の弟子の暴走を止められるのか。それがあらすじだ。

もちろん著者は本筋をおろそかにしない。読者は、著者が安定のレベルで紡ぎだす謎解きの醍醐味を味わうことになる。いまや熟練の推理作家である著者にとって、謎の提示と解決までの筋書きを用意するのはさほど難しくないのだろう。

著者が用意した本書の裏の筋は、ここでは書かない。本筋にも関係のあることだからだ。表の謎が解かれた後に明かされる裏の事情。それは正直にいうと「夢幻花」で受けたインパクトよりも弱い。

でも、それはガリレオというキャラクターを語る上では欠かせないピースである。それをあえて本筋の後に持ってきたことにより、著者の新たな挑戦のあとがみえるのである。

あえて難癖をつけるとすれば、犯人の意図を挫くためにガリレオがとった行動にある。うーむ、さすがにそれは間抜けすぎでは、と思った。

‘2016/08/20-2016/08/20


震災列島


著者の作品を手に取るのは、「死都日本」に続き2冊目だ。前作は九州南部に実在する加久藤カルデラがスーパーボルケーノと化し、カタストロフィを引き起こす内容だった。本書では東海地震を取り上げている。ともに共通するのは、今の日本が抱えている破滅的リスクが現実となる仮想未来を題材としていること。いわゆるパニック小説と云ってもよい。

しかし、単なるパニック小説として本書を片付けてしまうのはもったいない。前作においては、しっかりした科学的知見に裏付けられた破局噴火の描写が秀逸だった。前作がいかに科学的知見の裏付けある小説だったかは、実際に行われた火山学者によるシンポジウムが「死都日本」と題されたことでもわかる。絵空事ではない、現実に起こり得る最大限の天災を描いたのが「死都日本」であった。

本書は、前作に比べてよりパニック小説として工夫している箇所が見られる。それは復讐譚としての側面である。前作は火山からの逃避行の描写に多くを割いたため、物語の筋としては一方通行になってしまったキライがあった。本作の構成はその点を踏まえた著者なりの工夫なのだろう。

主人公明石真人はボーリング業者として生活を営んでいる。ボーリング業者とはいわゆる地質屋に等しい。建築物を立てる前にその地層を調べるのが業務内容だ。つまり、地震に対する基礎知識を持った主人公という設定となっている。名古屋市南部の海抜ゼロメートル地帯で親や家族と共に暮らしている。が、そこに工務店の顔をして乗り込んできたのが阿布里組。阿布里組とは企業の顔をしているが実は企業舎弟、いわゆるヤクザである。その阿布里組によって、地域の人々の生活は脅かされる。主人公の父善蔵は、町内会長として阿布里組に抗議する。が、その意趣返しとして主人公の娘友紀は誘拐され、さらには強姦されてしまう。救い出された友紀は自殺を図る。その復讐を遂げるため、前兆現象が確実に起こっている東海地震を正確に予測し、そのどさくさで阿布里組に復讐を企てる。果たしてそのような予測が可能であるかどうかはともかくとして、友紀への強姦シーンを含めた仕打ちの描写は、凄絶なものがある。主人公が阿布里組に抱く復讐動機としては充分すぎるものである。娘を持つ私にも絵空事と見過ごせないと思えてしまうほどの内容だった。

主人公と善蔵の見立て通り、本震は発生する。その描写は凄まじいものがある。名古屋中心部のビル街の惨状、津波による街の一掃。メタンハイドレート層の崩壊による爆発。そして、浜岡原発のメルトダウン一歩手前までの事故。こういった描写が科学的知見に裏打ちされていることは前作でも実証済み。起こり得る損害はかなり正確に書かれているのではないかと思う。この辺りは実際の科学者による解説が欲しいところだ。

ちなみに本書が発行されたのは、2004年10月。文庫版である本書でさえ2010年1月に発行されている。東日本大地震と福島第一原発の事故が起きる数年前に、すでに本書のような内容の小説を執筆していたことに畏敬の念を覚えずにはいられない。特に浜岡原発の事故描写の迫真振りといったら、鳥肌が立つほどのもの。発電所長は主人公が住む町の住人で単身赴任しているという設定だが、ご都合主義という批判は脇に追いやるほどの迫真の描写である。

そして、前作と同じく、天災を機に政府が発動する緊急経済政策が登場する。著者にとって、または日本の裏を知る人々にとって、日本の財政問題を解消する手段は天災にしかないかのように。

本書の最期は、復讐劇のクライマックスとなり、47人の阿布里組員達は全て復讐の犠牲となる。が、それはもはや本書の主旨にとって重要なものではなく枝葉の出来事だ。その証拠に復讐を遂げた主人公にあるのは達成感でもなんでもない。ただただ虚脱感があるのみ。虚脱感が巨大地震に襲われた街並みと主人公の心に取りつく。

ただ、本書は虚脱感では終わらない。本書で著者が訴えたかったことは、エピローグにこそある。主人公が発する台詞「生きて考えるよ。不完全な生き物だから」にそれが集約されている。

来ると言われて久しい東海地震。または東南海地震。さらには首都直下型地震。私が生きている間に、おそらくこのどれかに遭遇することだろう。すでに阪神大震災と東日本大震災に遭遇した私だが、災害の覚悟だけは常時持ち続けていたいものだ。ゆめゆめ油断だけはすることなかれ、と肝に銘じたい。本書を読んで得たもの、それは知識だけではない。地震に遭遇しても折れないだけの心の拠り所、だろうか。

2015/8/4-2015/8/6


現代短篇の名手たち1 コーパスへの道


映画化された長編で知られる著者だが、短編集である本書でもその才能は光っている。

本書は比較的長めの二幕物の戯曲一編と、短編が六編で成っている。

著者の作風はどちらかというとダーク調の語り口、世界観に基づいている。本書もまた、その作風に通ずるものがある。

巻頭を飾る「犬を撃つ」は、一番印象を受けた一編。アメリカのサウス・カロライナ州のイードンという町が舞台になっている。観光による町の活性化のため、町が徘徊する野良犬の始末をブルーという男に依頼する。ブルーはベトナム帰りの元兵士で、戦場で極限状況の中に居続けていた。

ブルーは居場所を得たかのように、野良犬を撃つ。そして、ブルーの人生の中で無縁だった女との関わりができる。小さなイードンの町で男達と女達がくっついては別れる。ブルーもその中で人並みの恋愛を求めるが、幸福はブルーには訪れることがない。そして犬撃ちという仕事の非倫理性が問題となり、行ブルーから犬撃ちの仕事が取り上げられてしまう。そのとき、ブルーの鬱屈が臨界点を越え、という話。

孤独な上に、さらに戦場で心を痛め付けられた男の内面を、外からの客観視点だけで描いている。状況の変化はブルーの内面にどう影響を与えるのか。無口なブルーのわずかな台詞と状況からブルーの内面を炙り出す様は鮮やか。設定や描写、結末ともにダークな苦味が残る一編だ。

続いて「ICU」。人生に破れ、何かに追われて病院に忍びこんだダニエルの物語。読者には最後まで何にダニエルが追われているのか明かされない。ダニエルを探す男達の存在が伝聞で聞こえてくるだけである。

病院のICUという、医療の真髄の場所でダニエルは一ヶ月を過ごし、追っ手をやり過ごそうとする。しかし、マイケルという名の患者との会話を通し、ダニエルが何から追われているのかがマイケルの言葉を借りて読者に仄めかされる。しかし、そのような分かりやすいスパイ小説的な展開は本編の表の顔でしかない。おそらくは、ダニエルや我々読者は得体のしれないモノ、つまり自分以外の世界に常に追われているのだ、という寓意を読み取った。

三つ目は「コーパスへの道」。本書のタイトルチューンである。

高校生活最後のアメフトでヘマをし、チームを敗北に導いたライル。ライルに仕返しを食らわそうと空き巣に入るチームメイトたちの乱暴狼藉を描いている。若さゆえの無謀さでライルの家のを破壊するも、偶然帰ってきたライルの妹ラーリーンにその場を目撃される。しかしラーリーンはその破壊に手を貸すばかりか、その勢いで別のもっと豪勢な家への空き巣を提案する。果たしてそこに行った破壊者達は・・・というのが筋。若さゆえの破壊衝動と、権威には弱い人の心の裡を上手く描いている。

4編目の「マッシュルーム」も、危うさにあこがれる若者の心と、行き過ぎる危険の手前で恐れをなす揺れ。その様子が短い掌編の行間に描き表されている。銃の威力が、無音で、ひそやかな動きによって表されているのが印象的な一編。

5,6番目に収められた二編は、お互いに関連している。5番目に収められた「グウェンに会うまで」と6番目の「コロナド」。前者は短編で、後者は戯曲。しかし時間の前後関係では逆である、つまり戯曲が短編の前に来る。短編は、ムショから出所した男を迎えにきた父と思しき男。しかし、父と思しき男は、主人公が収監前に起こした事件で得た成果物を狙っている。事件の過程で、その男は主人公の恋人をも死に至らしめる。戯曲は犯罪に手を染める前の主人公と恋人が事件に深入りしていく様を描いている。短編と戯曲の取り合わせは珍しく、興味深く読めた。ちなみに短編の男二人の交わすやりとりはスリリングで、会話の妙に満ちており、著者がその前段階を戯曲化したくなる気持ちもわかる。ただ、戯曲コロナドは、本書でも紙数を占めており、戯曲慣れしていないと少々辛い。私も辛かった。しかし短編との取り合わせはやはり魅力である。

最期をかざるのは「失われしものの名」。正直いってこのダウナーな世界観には今イチはまり込めなかった。妄想癖を持つ男の一瞬を切り取った一篇だが、本書の他の編にない異色の雰囲気をまとっている。

‘2015/1/29-2015/2/3


白銀ジャック


著者が文庫のために書き下ろしたのが本書。総じて、文庫書き下ろしとの文句には安易な印象が付きまとう。

書き散らし、書き急ぎ、大量生産。私も普段は文庫書き下ろしと謳われた書物には手を出さないのだが、著者は別である。決して寡作ではないのに、出す本出す本が優れている。このことが、著者のもっとも素晴らしい点だと思う。

果たして本書は、著者の他の作品と同じなのだろうか。そんな期待も持ちつつ、本書を手に取った。

結論からいうと、充分楽しめた。流石は著者である。

スキー場を舞台に、スキー場スタッフの視点で書かれた物語を読むのは本書が初めて。舞台装置も作品のスケール感に一役買っている。

伏線の張り方や登場人物の書き方も通りいっぺんなものではなく、工夫を凝らしたもの。スキー場ならではの仕掛けも道理にかなっている。

ただ、苦言を呈するとすれば、動機だろうか。伏線で独創的で合理的な動機が多々提示されていたのに、結末が少々拍子抜けである。

もっとも、分かりやすい動機でもあり、読後の余韻もスッキリしたものである。

敢えて言うならば、この尾を引かない手軽な読後感こそが本書のレベルに関わらず、文庫書き下ろしとなった理由かもしれない。しかし、本書は他の作家で言えば、主戦級といってもよい出来であり、却ってそのことが著者の優れていることを表している。

聞けば本書にはこれまた文庫書き下ろしの続編もあるとか。無論読んでみようと思う。

‘2014/11/2-2014/11/4


天使の耳


著者の凄味とは、案外こういった短編集にあるのかもしれない。そう思わされた一冊である。

本作には全部で6編の短編が収められている。いずれも交通事故や車社会に題材を採ったものである。車を日常的に運転している人にはわかるが、免許を取ってからの期間が長ければ長いほど、つい惰性に陥ってしまいがちである。体に沁みこんだ運転技術で、直線やカーブもやすやすと通り抜け、信号や渋滞もなんなくやり過ごす。免許取りたての頃の初心は忘れ去り、全ての集中力を運転につぎ込むまでもなく、到着地まで円滑に走り抜ける。それが大抵のドライバーではないだろうか。しかし、免許更新時の教習ビデオを思い返せば分かるとおり、少しのハンドルの誤りが通行人の、そして自分の人生を狂わせる。理性では分かっていても、惰性に流されてしまう怖さ。交通事故の結果がもたらす破滅への想像力すら衰えてしまうほどの惰性に。

本書の6編に収められている出来事は、車社会で日々起きていてもおかしくないと思える出来事である。車。それ自身が凶器でもあり、そこから投げられるものが凶器にもなり、道端に停めているだけでも凶器たりえる。教習ビデオで観させられる映像では、事故を起こし、悔恨に苛まれる主人公が登場する。そのありきたりな教習ビデオの世界が、作家の手に掛かると見事な短編に生まれ変わる。日常をほんの少しそれた狭間に潜む闇。その闇を著者は短編として浮かび上がらせる。小説で描かれる日常が小説家の描く日常ではなく、読者の周りを普通に取り巻く日常であれば、その小説はリアリティを持って読者の感情に迫る。著者が本作で描く日常のリアルさと闇。その鮮やかな対比には唸るばかりである。

そんなことがもし可能であればだが、悪質ドライバーや惰性で運転する悪質ドライバー予備軍には講習時に本書を読ませ、感想文を書かせても良いかもしれない。そんなことまで思わされるのが本作である。少なくとも私にとって、本書は教習ビデオよりも考えさせられるところがあった。

’14/06/20-‘14/06/21


骨の記憶


著者の名前はミステリ関係のランキング本や新古書店などで目にしていたけれど、手に取るのは初めて。

浅い見方をすればプロットは集団就職での裸一貫での状況からバブルに踊るまでの日本昭和史を背景に絡めたサクセスストーリーで、有りがちといえば有りがちな内容である。が、それだけで切って捨ててしまうには惜しいほどのディテールが込められている。特に前半部、主人公が東北で貧富の差をかみしめつつ、とある出来事にまきこまれるまでの展開において、実に骨太で気合の入った描写が続く。東北弁が縦横に駆使されていて、ほとんど意味がつかめないほどである。私は東北出身者ではないので東北弁が妥当な使われ方をしているのかどうかわからないが、上京後の主人公の運命の変遷によって主人公の言葉が徐々に標準語に置き変わっていく様など、丁寧な描写がなされていることに好感が持てた。

凡百の成功譚や、見せかけの成功を戒める教訓譚からこの本が一線を画しているのも、この丁寧な描写に尽きると思う。

主人公が運をつかみ始めるところから話の展開が速くなるのは、よくある偉人伝と同様な流れであり、成功者の孤独やむなしさ、それを覆う上流社会の暗さの描写もきっちりと押さえた筋の展開は安心して読み進められる。だからといって単調な筋展開に陥らないのは、冒頭に仕掛けられた伏線がかなり印象に残るものであるからであり、どのように主人公が自らの人生の落とし前をつけるか、についての興味は持続し、ページを繰る手は休まらない。

戦後日本が国際経済で覇を唱えるまでの道行と、主人公のそれを重ねて読むことで、戦後日本の光と闇を、集団就職という視点から追体験することも可能な小説である。

’11/12/03-’11/12/05