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スター・ウォーズ/最後のジェダイ


エピソード7に始まる新三部作はスターウォーズサーガを完全に再生させた。それだけでなく新たな魅力まで備えて。

エピソード4-6までの旧三部作はあまりにも偉大だった。そのため、なぜダース・ヴェイダーがうまれたのかを描くエピソード1-3の三部作は、4-6に矛盾なくつなげる使命が課せられてしまった。その使命は、エピソード1-3を監督したジョージ・ルーカスの想像力の足かせになったのだろう。観客の意表をつくストーリーは影をひそめ、最新の撮影技術の披露、もしくは、ジャー・ジャー・ビンクス、または笑えるくらい敏捷なヨーダといったキャラに頼るしかなくなってしまった。

そこでジョージ・ルーカスが下した決断がすばらしい。まず、ルーカスフィルムをディズニーに売却したこと。さらにスターウォーズに関する一切の権利を委ねたこと。これはジョージ・ルーカスのなした素晴らしい英断だったと思う。なぜなら、この決断によってエピソード7以降のストーリーに命が吹き込まれたからだ。権利がルーカスから離れたことによって、必ずしもルーカス自身が監督しなくても良くなった。そのため、監督の人選が自由になった。その成果が、エピソード7はJ.J.エイブラムス、本作はライアン・ジョンソンという若い監督の抜擢につながった。しかも、別々の監督に委ねたことは、それぞれの作品に変化を加えただけでない。スターウォーズサーガに新たな可能性も加えたのだ。優れた外伝の製作として。言うまでもなく「ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー」のことだ。続いて「ハン・ソロ/スター・ウォーズ・ストーリー」まで公開予定というのだからファンにとってはたまらない。

たぶん、ルーカス監督がエピソード1-3ではなくエピソード7-9を監督しても素晴らしい作品に仕上がったことだろう。だが、一人ではスピンオフ作品までは手が回らなかったはずだ。その意味でもルーカスはスターウォーズサーガの今後にとってベストの決断を下したと思う。

ルーカスの決断が優れているのは、ただ続編の製作に繋がったことではない。世代をこえてサーガが伝わるきっかけを作ったことを評価したいのだ。だからこそ、エピソード7のJ.J.エイブラムス監督とエピソード8のライアン・ジョンソン監督が伝統を重んじ、そこにさらに新たな魅力を加えてくれたことがうれしいのだ。二人は師であるルーカスからスターウォーズサーガを受け継ぎ、弟子として申し分のない仕事をした。そして、万人に納得させることに成功した。

師匠から弟子への伝承。それは、本作そのもののテーマでもある。エピソード7はレイとルーク・スカイウォーカーの邂逅で幕を閉じた。本作ではプロローグから間も無く二人の関係が始まる。これ以上はストーリーを明かすことになるので書かないが、旅立って行くレイに対してこのようなセリフが投げかけられる。「師とは弟子に乗り越えられるためにある」と。

弟子であるライアン監督がそのようなセリフを仕込み、公開する。如実に世代交代を感じさせるシーンだ。

ライアン監督がそう自負したくなるのもわかる。本作はとにかく脚本がいい。今までの8作の中で一番といっても良い。何がいいかというと、シリーズにつきものの予定調和を排する姿勢だ。予定調和こそシリーズものの最大の敵。その排除に腐心した跡が本作から感じられる。エピソード7は、世代交代して最初の作品として、世界観の踏襲に慎重に配慮する姿勢が顕著だった。本作では前作がよみがえらせた世界観に乗りながらも、観客の期待を良い意味で外す演出が目立つのだ。しかもことさらに旧三部作を匂わせつつ、絶妙にはぐらかせる。絶妙に。

たとえばエピソード5の「帝国の逆襲」では、ヨーダの元で修行するルークが描かれる。それは主にフォースを体得するための努力だった。しかし、本作にはそういう努力のシーンが少ない。ルークはレイをベン・ソロすなわちカイロ・レンに匹敵するフォースの持ち主と恐れる。つまり、努力よりも素質が重んじられる。その違いは、ルークが修行中に闇へとつながる洞穴に赴くシーンで示される。ルークは洞穴でダース・ヴェイダーの影を憎しみに任せて切ってしまう。あのシーンに対比する本作のシーンは、映像技術の進歩を感じさせながら、よりフォースの本質に迫っている。素晴らしいシーンだ。そこではフォースの力とその根源を示し、なおかつ観客には筋書きに通ずる深い示唆を与えているのだ。

本作において、師に迫るための努力はそれほど重要とされない。グルやメンターはジェダイには不要なのだ。むしろ、フォースの力とそれを操る素質に重きが置かれている。さしずめ、弟子のライアン監督が師ルーカス監督を凌駕する本作を生み出したのは、飛躍的に進歩した撮影技術の力が大きいことの証しだとでもいうように。

ファンにとって新三部作の今後に不安はない。それどころか、スターウォーズサーガ自体が世代をこえて愛されることも本作で約束されたのではないか。新しく生まれ変わったスターウォーズサーガの今後に曇りはない。

かつて私が映画にはまった中学生の頃。旧三部作のノベライズ版も買いそろえ、エピソード7以降のストーリーが発売されているとのうわさを聞き、読みたさに心焦がれたことがある。あれから30年。本作でそれが叶った。こんな幸せなことはない。願わくは、私が死ぬ時までスターウォーズサーガの続きに耽溺させてもらえれば。

もはやその楽しみに預かれないレイア姫。本作のエンドクレジットにも以下の言葉が登場する。

in loving memory of our princess
Carry Fisher

いい演技だった。安らかに。

’2018/02/08 ムービル


禁断の魔術


著者の作風に変化を感じたのは「夢幻花」だったと思う。その変化についてはレビューにも書いた。私が感じた変化をまとめると、謎や解決のプロセスを本筋できちっと書き込み、なおかつ、それとは並行する別の筋に作者の想いや主張を込める離れ業を見せるようになったことだ。作風の変化というより作家として新たなレベルへ進化したというべきか。

「夢幻花」はシリーズものではなく単発作品だった。普通は安定のシリーズものではなく単発作品で実験的な手法を試すのが常道だと思う。

だが、著者はガリレオシリーズの一冊である本書で新たな手法を試す。今までガリレオの活躍を読まれてきた方にはお分かりだが、ガリレオシリーズは新しい科学的知見がトリックに惜しみ無く投入される。ガリレオこと湯川学が物理学者としての知見で謎を解くのがお決まりの構成だ。決して理論だけに凝り固まらず、謎や犯人との対峙の中で、ガリレオの人としての温かみが垣間見える。そんなところがガリレオシリーズの魅力である。

本書でもガリレオの前に科学的な装置を駆使した犯罪が立ちふさがる。その装置を使って一線を越えようとする人物の素性も序盤で読者に明かされる。それはガリレオのかつてのまな弟子。師は果たして不肖の弟子の暴走を止められるのか。それがあらすじだ。

もちろん著者は本筋をおろそかにしない。読者は、著者が安定のレベルで紡ぎだす謎解きの醍醐味を味わうことになる。いまや熟練の推理作家である著者にとって、謎の提示と解決までの筋書きを用意するのはさほど難しくないのだろう。

著者が用意した本書の裏の筋は、ここでは書かない。本筋にも関係のあることだからだ。表の謎が解かれた後に明かされる裏の事情。それは正直にいうと「夢幻花」で受けたインパクトよりも弱い。

でも、それはガリレオというキャラクターを語る上では欠かせないピースである。それをあえて本筋の後に持ってきたことにより、著者の新たな挑戦のあとがみえるのである。

あえて難癖をつけるとすれば、犯人の意図を挫くためにガリレオがとった行動にある。うーむ、さすがにそれは間抜けすぎでは、と思った。

‘2016/08/20-2016/08/20