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ミサイルマン


「DINER」で再び著者に関心を持ち、本書を手に取った。
かつて「独白するユニバーサル横メルカトル」を読んだ時に感じた強烈な新鮮さは本書にはない。
だが、本書は「独白するユニバーサル横メルカトル」よりも深い文学的な方向へ舵を切ったかに読める。

もっとも、私は「独白するユニバーサル横メルカトル」に描かれた人体を冒涜する描写の衝撃が強すぎて、そこに描かれていた文学的な深さを見逃していただけかもしれないが。
なお、ここで文学的というのは修辞の技法やテーマだけでなく、心理描写も含んでいる。

本書にももちろん、人体が破壊される描写は登場する。
だが、本書は描写の猟奇性よりもむしろ、人体の器官とは人にとって何なのか、という本質を問うことに注力しているように思えた。
身体の器官はなぜそこにあるのか。そこにあることで器官はなぜ器官として動くのか。
これらは、ニワトリが先か卵が先か、という例の問答にも通じる人を惑わせる問いだ。

本書に収められた七編は、どれもがそうした問いを追求した著者の闘いの後だと思えた。

「テロルの創世」は、SFテイストの一編だ。グロテスクな描写はない。
だが本編で描かれるのは、人の体が部品として扱われ、養殖され、培養される世界。部品を育てるために生かされる子供たちの話だ。設定そのものがグロテスクなのだ。
人体の器官は、それを統べる自我の所有物なのだろうか。という私たちが当たり前として持っていた概念に一石を投じる一編だ。

「Necksucker Blues」
ここからがグロテスクな世界の始まりだ。
まず崩れた顔面が登場する。美しく整った容貌は本編において価値を与えられない。なぜならそれは単なる見た目でしかないから。
それよりも本編では人体の純度が追求される。つまり血液のおいしさだ。タイトルから想像される通り、本編は吸血の物語だ。
血のうま味は、摂取する食物や液体によって大きく変わる。何を食えば血は至高の食材と化すのか。
その描写は狂っていて、しかも純粋。
血とは何で、容貌とは何か。そんな普段の社会生活を送る上での観念がひっくり返されること請け合いだ。

「けだもの」
本編は、ミステリの短編に似ている。
不死を与えられた吸血鬼。その呪われた血の物語を閉ざそうとする生き残りは、長寿に飽き、長寿を厭うて日々を送っている。
それにもかかわらず、その呪われた血が受け継がれてしまう悲劇。
私にとって長寿は憧れだが、その憧れも、一度叶ってしまうとどうなるのか。
誰もが一度は考える長寿について、深く掘り下げた一編だ。

「枷」
人体を破壊する営み。それを普通は殺人と呼ぶ。だが、そこに横たわっている倫理という概念をとっぱらった時、人体を破壊する営みとは何なのか。
本編は人体を破壊する営みから倫理的な概念を投げ捨て、殺人の意味を問い直す。そこでは殺人とは殺人者と殺害される側の共同作業として再構築される。
拷問して殺す。その営みは、人体の器官の意味をひっぺがし、解体することに本質を求める。その際、殺される側の意思など顧みないのは当然だ。
その時、殺される側の意思を慮った途端、その営みは殺人として顕現する。
殺人や解体を、器官の解体としてみるか、それとも相手の意思を慮るのか。
牛や豚や魚や鳥の屠殺の本質も問われる本編は、考えさせられる。

「それでもおまえは俺のハニー」
老人の性も、一般にはグロテスクな対象とされる。
本編の狂った二人の物語は、二人から聴覚が失われた時、さらに異常さを加えて暴走を始める。
ある一点を超える、つまり無音状態になった時、相手が老婆だろうがかかわりなく、一切が無意味になる。無音の世界に頼るべき対象は性愛しかない。そのように静寂を突き詰めた先の到達点が強烈な印象を与える一編だ。
老いという現象は生物である以上、避けられない。ならば、老いた後に意思を発揮することは価値がないのか。否、そんなことはないはず。
肉体に価値を認める既成の概念に大きく問いを投げつける一編だ。

「或る彼岸の接近」
本編は著者が得意とする怪談だ。墓の近くに越してきた一家が、狂わされてゆく様子が描かれる。
タクシー運転手をしている主人公が留守の間に、全ての怪異が妻子をめがけて殺到してゆく。
徐々に侵されてゆく妻が壊れてゆく様子を、徐々に怖さを高めながら描く力はさすがといえる。
本編は人体については触れてはいない。その代わり、人の精神がいかにもろく、外から影響を受けやすいかが描かれる。
本書の中では正統派の怪談ともいえる異色の一編だが、それだけに本編の怖さは出色の出来だ。

「ミサイルマン」
↑THE HIGH-LOWS↓の「ミサイルマン」を歌いながら、殺人と遺体遺棄に励む二人組。
狂った殺人者による身勝手な論理は、ミサイルのようにとどまるところを知らない。彼らが繰り返す殺人と遺体遺棄。その描写は目を覆うばかりだ。
彼らが誤って、以前に殺して埋めた死体を掘り返す羽目になる。
人体もまた有機物であり、腐って土に返る。その途中の経過はおぞましく凄惨だ。
まさにタイトルにふさわしく、人体とは結局はただの有機物の集まりに過ぎない、という達観した思想が本編には込められている。

本書に収められた七編を読んでみると、価値観の転換が呼び起こされる。
九相図という美女が骸に変わってゆく様子を描いた絵巻があるが、その悟りを表したかのような本書は、生きる営みそのものへの鋭い問いを読者に突き付ける。
人の心と体の関係は、こうした極端な描写を通さないと自覚すら難しい概念なのだと思わされる。あまりにも当たり前であるがために。

著者はそのテーマを突き詰め、執筆活動をしている。そして読者に強烈な問いを残していく。
これからも読み続けなければならない作家だと思う。

‘2019/9/11-2019/9/13


私の家では何も起こらない


本書は一軒の家についての本だ。ただし、家といってもただの家ではない。幽霊の住む家だ。

それぞれの時代に、さまざまな人物が住んでいた家。陰惨な出来事や代々の奇矯な人物がこの家で怪異なエピソードを紡いできた。そうした住人たちが残したエピソードの数々がこの家にさらなる怪異を呼び込み、さらなる伝説を産み出す。

本書は十編からなっている。各編はこの家を共通項として、互いに連関している。それぞれの編の舞台はばらばらだ。時間の流れに沿っていない。あえてバラバラにしている。バラバラにすることでかえって各エピソードの層は厚みを増す。なぜならそれぞれの物語は互いに関連しあっているから。

もちろん、そこには各エピソードの時間軸を把握した上で自在に物語を紡ぐ著者の腕がある。家に残された住人たちの思念は、無念を残したまま、その場をただよう。住人たちによっては無残な死の結果、人体の一部が残されている。人体に宿る思念が無念さを抱けば抱くほど、家には思念として霊が残る。この家の住人は、不慮の事故や、怖気を振るうような所業によって命を落として来た。そうした人々によるさまざまな思念と、そこから見たこの家の姿が、さまざまな角度でこの家を描き出し、読者へイメージとして伝えられる。

世にある幽霊屋敷とは、まさにこのようなエピソードと、残留した想いが作り上げて行くのかもしれない。不幸が不幸を呼び、思念が滞り、屋敷の中をこごってゆく。あまたある心霊スポットや幽霊屋敷とは、こうやって成り立ってきたに違いない。そう、読者に想像させるだけの力が本書にはある。冒頭の一編で、すでにこの家には好事家が集まってきている。彼らは、家主の都合など微塵も考えず、今までにこも屋敷を舞台として起こったあらゆる伝説や事件が本当だったのか、そして、今も誰も知らぬ怪異が起こっているのではないか、と今の持ち主に根掘り葉掘り尋ねる。迷惑な来訪者として、彼らはこの家の今の持ち主である女流作家の時間を容赦なく奪ってゆく。もちろん、こうした無責任な野次馬が幽霊屋敷の伝承にさらなる想像上の怪異を盛り付けてゆくことは当然のこと。彼らが外で尾ひれをつけて広めてゆくことが、屋敷の不気味さをさらに飾り立ててゆくことも間違いない。

たとえ幽霊屋敷といえど、真に恐るべきなのは屋敷でなければ、その中で怪異を起こすものでもない。恐るべきは今を生きている生者であると著者はいう。
「そう、生者の世界は恐ろしい。どんなことでも起きる。どんな悲惨なことでも、どんな狂気も、それは全て生者たちのもの。
それに比べれば、死者たちはなんと優しいことだろう。過去に生き、レースのカーテンの陰や、階段の下の暗がりにひっそりと佇んでいるだけ。だから、私の家では決して何も起こらない。」(26p)

これこそが本書のテーマだ。怪異も歴史も語るのは死者ではなく生者である。生者こそが現在進行形で歴史を作り上げてゆく主役なのだ。死者は、あくまでも過去の題材に過ぎない。物事を陰惨に塗り替えてゆくのは、生者の役割。ブログや小説やエッセイや記事で、できごとを飾り立て、外部に発信する。だから、一人しか生者のいないこの家では決して何も起こらないのだ。なぜなら語るべき相手がいないから。だからエピソードや今までの成り立ちも今後は語られることはないはず。歴史とは語られてはじめて構成へとつながってゆくのだ。

つまり、本書が描いているのは、歴史の成り立ちなのだ。どうやって歴史は作られていくのか。それは、物語られるから。物語るのは一人によってではない。複数の人がさまざまな視点で物語ることにより、歴史には層が生じてゆく。その層が立体的な時間の流れとして積み重なってゆく。

そして、その瞬間の歴史は瞬間が切り取られた層に過ぎない。だが、それが連続した層で積み重なるにつれ、時間軸が生じる。時間の流れに沿って物語が語られはじめてゆく。過ぎていった時間は、複数の別の時代から語られることで、より地固めがされ、歴史は歴史として層をなし、より確かなものになってゆく。もちろん、場合によってはその時代を生きていない人物が語ることで伝説の色合いが濃くなり、虚と実の境目の曖昧になった歴史が織り上げられてゆく。ひどい場合は捏造に満ちた歴史が後世に伝わってしまうこともあるはずだ。

しょせん、歴史とは他の時代の人物によって語り継がれた伝聞にしか過ぎず、その場では成り立ち得ないものなのだろう。

著者は本書を、丘の上に建つ一軒家のみを舞台とした。つまり、他との関係が薄く、家だけで完結する。そのように舞台をシンプルにしたことで、歴史の成り立ちを語る著者の意図はより鮮明になる。本来ならば歴史とは何億もの人々が代々、語り継いでいく壮大な物語だ。しかしそれを書に著すのは容易ではない。だからこそ、単純な一軒家を舞台とし、そこに怪異の色合いをあたえることで、著者は歴史の成り立ちを語ったのだと思う。幽霊こそが語り部であり、語り部によって歴史は作られる。全ての人は時間の流れの中で歴史に埋もれてゆく。それが耐えられずに、過去からさまよい出るのが幽霊ではないだろうか。

‘2018/07/24-2018/07/25


「超」怖い話


考えて見ると、怪談本を読むのはえらく久々かもしれない。夏といえば怪談、ということで図書館の特集コーナーに置かれていた本書を手に取ったわけだが。

読者からの体験談をもとに、二人の編者が文章を再構成し、編みなおした一冊。怪談ネタなど出し尽くされたのでは、と思うのだが、なかなかどうして、そうではないらしい。かつて谷崎潤一郎が陰翳礼讃で取り上げたような、昔ながらの日本家屋が醸し出す闇。本書にそういう家屋は全く登場しない。だから、ますます怪談の出る幕がないようにも思える。

ところがあらゆる場所が立体である以上、陰もあれば闇も生じる。そして人間の恐れが生み出した幽霊や魂魄も出現する。彼らは陰をねぐらとし、闇に漂う。そんなわけで本書のような怪談は、この技術社会にあっていまだに健在だ。むしろ、かつてのように闇に慣れていない今の私たちのほうが免疫がない分、闇を怖がるのだろう。

本書に収められた話の全てが一級品に怖いわけではない。体験投稿をもとにしているため、むしろ当たり前だ。むしろ、それがかえって本書をリアルにしている。そして作り物と本書の話を分けている。編者と文章の編集を担当しているのは作家の平山夢明氏だ。平山氏は先日当ブログにアップしたDINERの著者だ(ブログ)。DINERもそうだったが、肉体の変容とそのグロテスクさを書かせれば当代きっての書き手だと思う。彼が描き出す霊魂は、悲惨な事故によって肉体をグロテスクに変えられている分、無念さを抱えている。その無念が念入りに描写されていればいるほど、存在自体が恐怖を与える。

よくよく考えると、日本古来の怪談には、本書で平山氏が書いたほどには人体を蹂躙した話が登場しない。せいぜいがお岩さんのような目の上の爛れ。妖怪のように人体の一部が変異を起こした物の怪。そんなところだろう。多分、昔は人体にそこまで強く理不尽な力が加わることもなかったはず。いや、ちがう。戦場では惨たらしい死体などザラにあったはず。ということは死んだ人体が損壊していることなど普通だったはず。ところが、もともと普通の人体だったものが生きながらにして変容することが珍しかったのだろう。それが幽霊となっていったのかもしれない。

その意味では平山氏の書かれたような人体の変容を焦点とした怪談は珍しい。それは怪談にとって新たな機軸となるだろう。なにしろ、現代とは人の死から遠ざかった時代だから。それゆえ、今のわれわれは死に免疫を持たない。そして恐怖におののく。闇だけでなく、死からも遠ざかっているのだ。そして今の世とは、ますます死の実感とかけ離れつつある。人工的なものが我が物顔で世にあふれ、人が動物であることすら忘れてしまう。そんな時代だからこそ、人体が損壊されることでしが死を実感できない。そこに本書が目指す怪談の方向性の正しさがあると思う。

‘2017/08/25-2017/08/26


夕暮れをすぎて


著者の本国アメリカでは、本書は「Just After Sunset」という短編集として出版された。日本ではそのうち前半部が本書となり、後半部は「夜がはじまるとき」として出版されている。どういった契約になっているのかは知らないが、著者の短編集にはこのような形態をとるものが多い。

また、著者の短編集にお馴染みの趣向として、必ず短編集全体に対する著者の解説と、各編に対する解説が付されることが挙げられる。この解説を読むだけでも、稀代のストーリーテラーである著者の創作エピソードが理解できる。本書に収められた諸編は、著者の解説によると短編を書く喜びを取り戻した時期に書かれたものだそうだ。内容的には中編といってもよい分量のものもあるが、いずれも粒ぞろいの秀作揃いといえる。

以下に一編ずつ、レビューを書いていくことにする。

【ウィラ】

列車のアクシデントにより駅に足止めを食らっている乗客たち。彼らは手持ち無沙汰に迎えの列車をただひたすらに待っている。デイヴィッドの婚約者ウィラは待つことに飽き、デイヴィッドと共に近くの街へと向かう。そこで気付くこの世の真実。

気づいた真実を携え、それを他の乗客に伝えるために駅へ戻る二人。しかし、相手にされることはない。もはや迎えの列車など来ないことに気付いてしまった二人と気付かない乗客たち。列車は当の昔に廃線となり、今の自分達が世を去る原因となった事故が完全に復旧されることはもはや永遠にない。生者ではなく死者の視点から残酷な世界を見渡した構図が印象的な一編だ。

【ジンジャーブレッド・ガール】

本書随一の長さを持つ中編。物語の構成としては新味は感じられない。離婚の危機に瀕し、独り島に住まう主人公。そこで殺人鬼に遭遇してしまい、あわや惨殺されそうになる話。著者には悪霊の島という長編が上梓されているが、そのモトネタとなったのが本編ではないかと思われるが、そのことは著者の解説にはない。

【ハーヴィーの夢】

予知夢の話である。倦怠の中にある初老の夫婦。第一線で働く敏腕で成功者の夫との生活にももはや刺激は感じられない。そんな中、急に饒舌に夢を語り始める夫。そのリアルな内容と語り口に引き込まれる妻。

正夢としか思えないその夢は、彼らの身内に近づく不幸を暗示している。そしてその夢が正夢かどうかは読者に委ねられる。夢と同じく、現実の彼らに電話がなったところでこの物語は終わる。

著者の解説によるとこの物語を閃いたのは夢の中だとか。そのこと自体がすでに一つの物語といえる。

【パーキングエリア】

平凡な教師。それが主人公である。そして、ささやかな作家活動の成果とともに、想像力も人並み以上に持った人物。

その主人公が、たまたまパーキングエリアの女子トイレで虐待現場を目撃する。迷いとの戦いに勝ち、虐待する男を懲らしめる主人公。生まれて一度も喧嘩したことがないのに、生まれてはじめて味わう暴力衝動に驚く。女を解放し、虐待男に対して完全に優位に立つ主人公。主人公を覆う殻が割れた瞬間である。

【エアロバイク】

四年前に妻をなくした画家が、医者から不摂生を警告されるシーンから始まる本編。
無聊を慰めるためと体力をつけるためにエアロバイクを購入した主人公は、地下室に据え付けたそれを漕ぎながら、壁に大作を作り始める。そしてニューヨーク州のポキプシーからハーキマーヘの想像上の旅をエアロバイクに乗って行くことになる。道中見た脳内の風景を壁に描きながら。

トランス状態になるにつれ、壁の絵は主人公の制御から徐々に離れ始める。そして、絵の中で彼が乗る自転車は見えない追跡者に追われることとなる。

追跡者とは果たして、、、?

現実と虚構の境目を曖昧にする奇想の物語である。絵が現実を侵食する話は、著者の他の長編でも見掛ける。が、冒頭の医者による警告が見事に落ちへと繋がる結末は、見事に短編としての構成を成している。

【彼らが残したもの】

9.11の同時多発テロは日本にいる我々にも衝撃的な出来事だった。アメリカの方々にとってはもっと衝撃だったろう。

本編は、私が初めて読んだ9.11に関する一編である。おそらくは他の作家による小説の題材には相当取り上げられているのだろうが。

9.11で亡くなった方々の遺品が、偶然その日に休んで難を逃れた主人公の身辺に現れる。ビルの倒壊する轟音とともにこの世から消えたはずの品々が。

それらの品々は、咎なくして世を去った人々の無念の象徴だ。なぜそれが彼の元へ現れるのか。著者得意の怪異現象である。だが、怪奇現象を怪奇現象に終わらせず、それをアメリカの人々の鎮魂の想いに結びつけるのは流石である。私自身、本書に収められた秀作の中でも本編に最も強い印象を受けた。主人公がそれら遺品を届けるため、遺族を訪ねる結論もよかった。

本編に登場する人物が発するセリフの中で、以下のようなものがある。

「あいつらはあれを神の名のもとにおこなった。でも、神なんかどこにもいないの。もし神がいたのならね、ミスター・ステイリー、神はあの十八人だかの犯人全員を、やつらが搭乗券を手にしてラウンジで待っているあいだに始末していたはずよ。でも、そんな神はいなかった。ただ、乗客に搭乗を呼びかけ、あのクソ野郎どもにゴーサインを出しただけよ」

このセリフがアメリカの声を代弁しているとは思わないが、こういう声もまた、神なき今となっては主流なのだろう。

そして、このセリフは私に別の思いを連想させた。本書の筋やプロットをほぼ同じに、ヒロシマやナガサキを題材に物語を作っても良いのではないか、と。念のためにいうと、原爆を投下したのがアメリカだから因果応報で9.11のテロが起きたとか、そういった意図はない。8.6と8.9と9.11には何の関係はない。ただ、云えるのはあの日ニューヨークの空を覆った焔と煙がアメリカの人々に永久に刻印されたように、日本人にも二つのキノコ雲の映像は永久に刻印されているということだ。テロルや暴力との闘いは人類がいまだに克服できないテーマだ。それに向かい合わねばならない宿命は、日本人であってもアメリカ人であっても等しく持っている。本書の様な着想の物語はヒロシマやナガサキを舞台にあってもよいし、日本人にこそかかれるべきではないかと思った。

【卒業の午後】

9.11の生中継映像は私も見た。日本時間では深夜だったが、雲ひとつない鮮やかな背景と、ビルから立ち上る煙り。そこに突っ込んでくる二機目と吹き上がる爆発の炎。そういった映像が無音のまま、何の解説もないまま流される様はまさに衝撃だった。映像越しでも十分に衝撃を受けたのだから、現地での衝撃は尚のことだったろう。

本編は、マンハッタン対岸で卒業式を終えた少女が目撃した、平穏な日々が崩壊する瞬間を描いている。一読しただけでは、ホラー要素が薄く、著者の作風とは違うように思える。しかし、本編は紛れもないホラー作品である。作家の想像力の産物ではない、現実に起こりうる恐怖。それは平穏な日々が崩壊する恐怖であり、現実こそが最も恐ろしい恐怖を潜めているという予感。著者の筆は、その恐怖を余すところなく書いている。そして著者が描くのがマンハッタンの現地ではなく、対岸からの映像として描くことで、リアルと非現実の合間を絶妙に現している。

‘2015/05/18-2015/5/21


眩談


著者の民俗学・妖怪学への造詣の深さが尋常ではないことは、今さら言うまでもない。そのことは、京極堂シリーズをはじめとした著作のなかで実証済みだ。両方の学問に通じた著者は、妖怪の産まれ出でる背景にも造詣が深い。著者の代表作でもある「嗤う伊右衛門」や「覘き小平次」や「数えずの井戸」は、いずれも著名な怪談噺に着想を得ている。妖怪がなぜ産まれるのか、についての深い知識を有する著者ならではの作品といえる。妖怪の産まれ出でる背景とは、開放的でありながら、陰にこもったような日本家屋の間取りをいう。かつて陰翳禮讚の中で大谷崎が詳細に述べたような陰翳の多彩な空間から、妖怪は産まれ出でる。

著者の書く物語、特に本書ではそのあたりが濃密に意識されている。

ただし、本書に収められた小編が家屋を舞台としているわけでない。見世物小屋や温泉旅館、街並みなど、多彩な舞台が用意されている。舞台はそれぞれだが、陰影の醸し出す不安感、畏れがいずれの小編にも濃密に描かれている。

著者は本邦における妖怪の第一人者だけに、闇に潜むモノ、蠢く怪したちの棲む陰影を小説のモチーフとして見逃すはずはない。我が国において産まれ消えていった幾多の妖怪たち。それらを産み出した陰影とそこに棲むモノへの畏れ。著者は本書において、陰影に拘りをもって物語の背景を描く事に筆を費やす。

陰に濃淡を与えるのは、何も光の加減によってのものだけではない。浮世を渡る快活な人々の狭間にも陰は生じる。快活な人々の谷間で世をやっかむように浮世を徘徊する「常ならぬ人」もまた人間の陰を体現している。また、晴朗な精神がふとした拍子に変調し、その途端、曇天の下に隠れるように暗く覆われる心の動きも陰を表現している。とかく世の中にはそのような陰が至る所にある。その影について本書は究める。妖怪が産まれいずる場所を探し求めて。本書には、それら陰影から妖怪が産みだされる瞬間を切り取り、物語として織り上げた成果が収められている。

考えると、今まで著者が世に出した作品のほとんどは、既存の妖怪を下敷きにしていたように思う。先に上げた三作や京極堂シリーズなどはそうだった。しかし本書では、そのような手法から一歩踏み出している。妖怪の産まれる舞台や人の抱く畏れを描き出すことで、著者は新たな妖怪を創造している。伝承や口伝、民話には頼らずに新たな妖怪を創造することは、云う程に容易いことではない。凄いことというしかない。

本書は8編から成っている。

「便所の神様」は、日本家屋の不気味な陰々とした気配の中に棲む、怪しを描いている。本編では家屋の滅滅とした気配のおおもとを執拗に描写する。その描写は視覚だけではない。臭気までをも執拗に描写する。トイレではなく便所。今の水洗トイレからは徹底的に締め出され、蓋をされた便所の匂い。家の汚濁が全て集積した場所。著者の筆は匂いを徹底して描き、暴き立てる。そこに何があるのか、その匂いの中心にいるのは・・・あやしの爺。

「歪み観音」は、本編の中では毛色の変わった短編である。主人公は高校生の女の子。会話からして今風で、出てくる言葉もCGやら食洗機やら。陰影など出てくる余地がなさそう。しかし、そうではない。女の子の陰。目に映るものすべてが歪む心の陰が執拗に描き尽される。心の中の歪みそのものが妖怪であるかのように。主人公の女の子は歪んだ世の中を成敗するかのように観音様に罰当たりな行為をする。その瞬間、女の子の心の歪みは歪んだ世界に同化する。うつつか夢か、夢か歪みか。まさに妖怪の産まれた瞬間である。

「見世物姥」は、昔の縁日でよく出ていたという見世物小屋に舞台を借りた一編。見世物小屋は、その特異な怪しさから言って日本の怪談にとって欠かせない舞台装置だと思う。本編では神隠しと見世物小屋という二つの怪談要素を複合させ、一編の怪談として仕立てあげている。かつての少年にとって、夜店の雰囲気は魅惑的な大人の世界の入り口として避けて通れない存在だった。私にとってもその想い出は強く残っている。本編の主人公のように幼馴染の女の子を連れて行ったら神隠しにあったという経験は、少年の心に決定的に妖怪の存在を刻印したことだろう。

「もくちゃん」は、あるいは本書の中でも一番の問題作かもしれない。私の幼少期には、家の近所に少しおかしな人が普通に住んでいた。子どもの頃は気になったけれど、忙しい大人になると急に見えなくなってしまうおかしな人。本編ではそのおかしな人に憑かれてしまう恐ろしさを描いている。決して悪気がなさそうなのに、何を考えているか分からないおかしな人。本編では注意深く言葉狩りに遭いそうな語彙は避けられている。そういった語彙は出さないが、本編はおかしな人が妖怪に変わる瞬間を描く。かなり印象に残る一編である。妖怪の本質とは、人の心に棲む畏れが変化したものなのだろう。その変化は、こういったおかしな人への畏れからも産まれるともいえる。これは差別意識を通り越した、普遍的な人の心の有りようなのかもしれない。

「シリミズさん」は、「便所の神様」にも通ずる家屋の闇を描いた一編。とはいえ、本編は陰惨な様子は描かれない。その替り描かれるのは付喪神が憑いていそうな古い家屋に、来歴不明で祀られ続けている謎の生物である。本編の語り口は実に軽い。敢えて陰影を遠ざけるかのように軽い語り口で語られる。しかし起こる出来事は支離滅裂で怪異の極みである。産まれいずるというより、そこに前からいた妖怪の不条理を描いた一編である。産まれるのではなく、元から或るというのも妖怪の存在様式の一つであることを描いている。

「杜鵑乃湯」は、ひなびた温泉旅館に起こる怪異を描いた一編である。離れにある不気味な湯に取り込まれる男の心理描写が秀逸である。妖怪とは怪異とは、心に疚しい思いを抱く者の心に容易に現れ、その者を容易く取り込んでしまう。まさに本編は自らの心が産み出した妖怪に取り込まれる男の自滅を、ホラータッチで描いている。本書の中では唯一怪談ではなくホラーに相応しい一編といえる。読んでいて怖気に襲われた。

「けしに坂」は、前の一編と同じく心に疚しさを抱える男の産みだす物語である。本編に登場するのは幽霊。舞台も葬式。葬式の場で、無意識に秘めた罪悪感が次々と男の視界に怪異と幽霊を産み出す。妖怪が産まれるのが、心の闇や陰であることを示す一編である。

「むかし塚」は、時間の流れをうまく使った一編。時の流れに沿って思い出が消え去り、街並みも変わっていく。その時間の中で浄化される想い出もあれば、変質してしまう思いでもある。その時間の経過は人の心に陰を落とし、怪しの跋扈する隙を与える。まるで百年経った道具が妖怪に変わるかのように。本編では子供の頃に借りたマイナーな漫画という小道具で、その想い出の陰影を色濃く出している。

‘2014/11/23-2014/11/28