Articles tagged with: 平安

今こそ知っておきたい「災害の日本史」 白鳳地震から東日本大震災まで


新型コロナウィルスの発生は、世界中をパンデミックの渦に巻き込んでいる。
だが、人類にとって恐れるべき存在がコロナウィルスだけでないことは、言うまでもない。たとえば自然界には未知のウィルスが無数に潜み、人類に牙を剥く日を待っている。
人類が築き上げた文明を脅かすものは、人類を育んできた宇宙や地球である可能性もある。
それらが増長した人類に鉄槌を下す可能性は考えておかねば。
本書で取り扱うのは、そうした自然災害の数々だ。

来る、来ると警鐘が鳴らされ続けている大地震。東海地震に南海地震、首都圏直下地震、そして三陸地震。
これらの地震は、長きにわたって危険性が言われ続けている。過去の歴史を紐解くと発生する周期に規則性があり、そこから推測すると、必ずやってくる事は間違いない。
それなのに、少なくとも首都圏において、東日本大震災の教訓は忘れ去られているといっても過言ではない。地震は確実に首都圏を襲うはずなのにもかかわらず。

本書は日本の歴史をひもとき、その時代時代で日本を襲った天変地異をとり上げている。
天変地異といってもあらゆる出来事を網羅するわけではない。飢饉や火事といった人災に属する災害は除き、地震・台風・噴火・洪水などの自然災害に焦点を当てているのが本書の編集方針のようだ。

著者は、そうした天変地異が日本の歴史にどのような影響を与えたのかという視点で編んでいる。
例えば、江戸末期に各地で連動するかのように起こった大地震が、ペリー来航に揺れる江戸幕府に致命的な一撃を与えたこと。また、永仁鎌倉地震によって起こった混乱を契機に、専横を欲しいままにした平頼綱が時の執権北条貞時によって誅殺されたこと。
私たちが思っている以上に、天変地異は日本の歴史に影響を与えてきたのだ。

かつて平安の頃までは、天変地異は政争で敗れた人物の怨霊が引き起こしたたたりだとみなされていた。
太宰府に流された菅原道真の怨霊を鎮めるため、各地に天満宮が建立されたのは有名な話だ。
逆に、神風の故事で知られる弘安の大風は、日本を襲った元軍を一夜にして海中に沈め、日本に幸運をもたらした。
本書にはそういった出来事が人心をざわつかせ、神仏に頼らせた当時の人々の不安となったことも紹介している。
直接でも間接でも日本人の深層に天変地異が与えてきた影響は今の私たちにも確実に及んでいる。

本書は私の知らなかった天変地異についても取り上げてくれている。
例えば永祚元年(989年)に起こったという永祚の風はその一つだ。
台風は私たちにもおなじみの天災だ。だが、あまりにもしょっちゅう来るものだから、伊勢湾台風や室戸台風ぐらいのレベルの台風でないと真に恐れることはない。ここ数年も各地を大雨や台風が蹂躙しているというのに。それもまた、慣れというものなのだろう。
本書は、歴史上の洪水や台風の被害にも触れているため、台風の恐ろしさについても見聞を深めさせてくれる。

本書は七章で構成されている。

第一章は古代(奈良〜平安)
白鳳地震
天平河内大和地震
貞観地震
仁和地震
永祚の風
永長地震

第二章は中世(鎌倉〜室町〜安土桃山)
文治地震
弘安の大風
永仁鎌倉地震
正平地震
明応地震
天正地震
慶長伏見地震

第三章は近世I(江戸前期)
慶長東南海地震
慶長三陸地震津波
元禄関東大地震
宝永地震・富士山大噴火(亥の大変)
寛保江戸洪水

第四章は近世II(江戸後期)
天明浅間山大噴火
島原大変
シーボルト台風
京都地震
善光寺地震

第五章は近代I(幕末〜明治)
安政東南海地震
安政江戸地震
明治元年の暴風雨
磐梯山大噴火
濃尾地震
明治三陸大津波

第六章は近代II(大正〜昭和前期)
桜島大噴火
関東大震災
昭和三陸大津波
室戸台風
昭和東南海地震
三河地震

第七章は現代(戦後〜平成)
昭和南海地震
福井大地震
伊勢湾台風
日本海中部地震
阪神淡路大震災
東日本大震災

本書にはこれだけの天変地異が載っている。
分量も相当に分厚く、636ページというなかなかのボリュームだ。

本書を通して、日本の歴史を襲ってきたあまたの天変地異。
そこから学べるのは、東南海地震や南海地震三陸の大地震の周期が、歴史学者や地震学者のとなえる周期にぴたりと繰り返されていることだ。恐ろしいことに。

日本の歴史とは、天災の歴史だともいえる。
そうした地震や天変地異が奈良・平安・鎌倉・室町・安土桃山・江戸・幕末・明治・大正・昭和・平成の各時代に起きている。
今でこそ、明治以降は一世一元の制度になっている。だが、かつては災害のたびに改元されていたと言う。改元によっては吉事がきっかけだったことも当然あるだろうが、かなりの数の改元が災害をきっかけとして行われた。それはすなわち、日本に災害の数々が頻繁にあったことを示す証拠だ。
そして、天変地異は、時の為政者の権力を弱め、次の時代へと変わる兆しにもなっている。
本書は、各章ごとに災害史と同じぐらい、その時代の世相や出来事を網羅して描いていく。

これだけたくさんの災害に苦しめられてきたわが国。そこに生きる私たちは、本書から何を学ぶべきだろうか。
私は本書から学ぶべきは、理屈だけで災害が来ると考えてはならないという教訓だと思う。理屈ではなく心から災害がやって来るという覚悟。それが大切なのだと思う。
だが、それは本当に難しいことだ。阪神淡路大震災で激烈な揺れに襲われ、家が全壊する瞬間を体験した私ですら。

地震の可能性は、東南海地震、三陸地震、首都圏直下型地震だけでなく、日本全国に等しくあるはずだ。
ところが、私も含めて多くの人は地震の可能性を過小評価しているように思えてならない。
ちょうど阪神淡路大震災の前、関西の人々が地震に対して無警戒だったように。
本書にも、地震頻発地帯ではない場所での地震の被害が紹介されている。地震があまり来ないからといって油断してはならないのだ。

だからこそ、本書の末尾に阪神淡路大地震と東日本大震災が載っている事は本書の価値を高めている。
なぜならその被害の大きさを目にし、身をもって体感したかなりの数の人が存命だからだ。
阪神淡路大地震の被災者である私も同じ。東日本大震災でも震度5強を体験した。
また、福井大地震も、私の母親は実際に被害に遭い、九死に一生を得ており、かなりの数の存命者が要ると思われる。

さらに、阪神淡路大地震と東日本大震災については、鮮明な写真が多く残されている。
東日本大震災においてはおびただしい数の津波の動画がネット上にあげられている。
私たちはその凄まじさを動画の中で追認できる。

私たちはそうした情報と本書を組み合わせ、想像しなければならない。本書に載っているかつての災害のそれぞれが、動画や写真で確認できる程度と同じかそれ以上の激しさでわが国に爪痕を残したということを。
同時に、確実に起こるはずの将来の地震も、同じぐらいかそれ以上の激しさで私たちの命を危機にさらす、ということも。

今までにも三陸海岸は何度も津波の被害に遭ってきた。だが、人の弱さとして、大きな災害にあっても、喉元を過ぎれば熱さを忘れてしまう。そして古人が残した警告を無視して家を建ててしまう。便利さへの誘惑が地震の恐れを上回ってしまうのだ。
かつて津波が来たと言う警告を文明の力が克服すると過信して、今の暮らしの便利さを追求する。そして被害にあって悲しみに暮れる。

そうした悲劇を繰り返さないためにも、本書のような日本の災害史を網羅した本が必要なのだ。
ようやくコロナウィルスによって東京一極集中が減少に転じたというニュースはつい最近のことだ。だが、地震が及ぼすリスクが明らかであるにもかかわらず、コロナウィルスがなければ東京一極集中はなおも進行していたはず。
一極集中があらゆる意味で愚行の極みであることを、少しでも多くの人に知らしめなければならない。

本書は、そうした意味でも、常に手元に携えておいても良い位の書物だと思う。

‘2019/7/3-2019/7/4


平の将門


なぜ本書を読もうと思ったか。その答えは、単に時代小説が読みたくなったからにすぎない。

だが、私と平将門の間に何の縁もきっかけもなかった、といえばウソになる。平将門の首塚に数回訪れたことがあるからだ。
千代田区の丸の内にある首塚は有名だ。
乱に敗れ、京でさらされた将門の首が飛んで戻り、落ちたのがこの首塚の地、と伝えられている。

私は東京に住んで二十年になる。
そしてここ最近になって、ようやく都会や首都の東京ではなく、昔からの坂東に興味を抱くようになってきた。
実際、本書を読む少し前には鹿島神宮にも訪れ、坂東の広さや可能性を学んだばかり。

広い坂東において、千年も前の平将門の説が受け継がれている事実。それは、平将門という人物のカリスマ性を感じさせる。
それだけ当時の坂東(今の関東地方)の民衆に強い印象を与えていたのだろう。
それほどまでに都の人々を恐れさせ、坂東の人々に慕われた将門。果たして平将門とはどのような人物なのだろうか。

坂東の広大な地を一時とはいえ手中に収め、都を恐れさせた平将門。
この人物はどういう人物で、どういう生い立ちをへて青年になり、新王と名乗るまでになったのか。一度知ってみたいと思った。

もちろん本書が歴史小説であり、史実をそのまま反映していない事はよくわかっているつもり。
多分、著者による脚色もかなり含まれていることだろう。
だが、それでもいい。
著者が平安時代の坂東をどう解釈し、その時代の中で平将門をどう走らせたのか。そうした本書の全ては、著者による史実の解釈として楽したい。

まず、おじの平国香、平貞盛に東国の平氏の棟梁の座を良いように操られていた相馬小次郎の日々を描く。相馬小次郎とは平将門の幼名だ。
貞盛は将門を亡き者にしようと、豊田郡から横山まではるばる馬の種付けに遣わせる。
だが、豊田郡とは茨城県の下妻辺り。横山とは東京の八王子辺りだ。今の私たちの土地勘から考えると、茨城の真ん中から八王子までの距離を歩かされたわけだ。しかも当時、道が整備されているはずはない。

それを若干15歳ほどの元服したばかりの将門にやらせるあたり、かなりむちゃな話だ。ところが将門はそれをさも当たり前のことのように承り、出かけていく。それを実際にやり遂げようとした将門もすごい。
今の私たちにとってみると、相当の荒行にも思えるが、案外、見渡す限りが草原であり、道らしき道もないただの平野だと、当時の人々にとって距離感と言うものはないに等しいものだったのかもしれない。
著者はこのエピソードによって、現代の読者に距離感の違いを伝えようとしていると受け取った。

また、この当時の坂東の広さを考えてみるべきだ。
広さに加えて人口の少なさ。それはつまり、人に会う確率が少ないことを意味する。
広い坂東の大地で抗争をしたところで、お互いの勢力がどのように勢力を集め、どういう戦略で戦おうとしているのかすら分からない。
今より格段に情報の少ない時代であり、戦国の世のような状態ですらない。平将門の乱とは、実は素朴で小規模の抗争に過ぎなかったのではないか。

この時、東国の平将門にとって運命を握るべき人物がいた。藤原秀郷である。
この人物が、どの勢力につくかによって平将門の運命はがらりと変わる。
また、藤原秀郷が隠棲し、坂東の情勢を見定めていた地は、今で言う古河の辺りだ。
本書で描かれるのは、古河、筑西、府中、八王子。当時の海岸線が今よりもかなり北に寄っていたことも併せて考えると、こうした地名が登場するのにも納得がいく。人は少なく、争いも起きにくいが、それだけにかえって勢力が明確だったのだろう。

もう一つ、本書には将門が遠ざけられるように都に遣いにだされる下りがある。つまり、将門は都を知らない田舎者ではなかったのだ。これは私たちに新たな将門像を提示してくれる。
将門は都での日々で藤原純友と出会う。
後に二人は平安の世を大きく騒がせた藤原純友の乱と平将門の乱を起こした事で歴史に名を残す。
将門が藤原純友と京都で交わした約束。それは、時期を合わせて東西で同時に乱を起こし、朝廷を慌てさせるものだ。
将門が東国で乱を起こす際は、西国の藤原住友と連携する時期を合わせなければならない。
当時の連絡手段は早馬が使われる。だから、今の私たちの感覚ではとうてい想像できないほど、やりとりに時間が掛かっていた。今の情報社会に生きる私たちの感覚からは相当悠長に思えるほどの。

本書を読んでいて勉強になるのは、距離や時間の感覚の違いだ。
現代の私たちの感覚からは、大きくかけ離れている。それを踏まえなければならない。
それを無視したまま本書を読むと、本書で描かれる将門や住友の行動か意思決定の遅さにイライラする事だろう。
本書を読むには、そうした感覚の違いも味わいながら読むとよい。かつての関東平野は、もっと雄大で、もっとゆったりとし、もっとゆとりがあったのだ。

藤原純友とのタイミングは合わなかったとはいえ、一度は東国に覇を唱え、朝廷に対し新皇を名乗るまでに成長した将門。
果たして、平将門が敗れる事なく政権を維持できていたら、東国の歴史はどうなっただろうか。
都が東京に来るのタイミングはもっと早かったかもしれない。
ところが平将門が敗れた後、坂東の地に中央政府が根付くことは、鎌倉幕府を除けば徳川家康が都を構えるまで、800年ほど空白の期間がある。
なぜその間、何も起きなかったのだろうか。

それには、将門の乱が起きる前から頻発していた富士山の噴火や地震など、関東を舞台に起きた天変地異を考える必要がある。
そもそも平将門の乱であれほど将門が縦横無尽に動けたのは、それまでの天変地異で人口が激減していたからとは言えないだろうか。
そのことは、本書では触れていなかったにせよ、当時の平安朝が各地の天変地異に慌てふためいていたことを考えると、考慮すべき要因だと思う。
天変地異や疫病など、災いは全て怨霊のせいにされていた時期だったことも含め。

都の人には、平将門の乱も、坂東で続いた天変地異の最後の締めとして起こったととらえられていた節がある。

そう考えると平将門の首が関東に飛んで帰り、関東で祀られたことと、そしてその後、関東では天変地異の発生が止んだ事が、神田明神をはじめとした平将門の霊が関東の守護神として次第に祀られるようになった理由ではないだろうか。
そうした坂東の当時の地理に加え、天候や地政学を考えてみるとよい。

本書の背後には、そうした時代の流れや天災の不利にも負けず、精一杯駆け抜けようとした板東武士の心意気が見えないだろうか。

‘2018/10/25-2018/10/28


有頂天家族


京都には、あやかしのモノが似合う。

江戸にみやこの座を貸し出したとはいえ、千年以上みやことして栄えた京都。平安の御代から偸盗が跳梁し、あやしのモノどもが跋扈した街。あまたの戦乱に耐え、今に碁盤の目を伝える街。今に至ってもなお、愛想良い笑顔の陰で一見さんを排除する街。

日本の歴史を見続けてきたその懐は、果てしなく深く、そして暗い。

科学万能の今でも、この街にはあやしの類いがよく似合う。狐狸や天狗、蛙の類いが。

本書には、そのいずれもが登場する。普段は人間の振りをしながら京都の街に長らくのさばり、世の移り変わりを眺めてきた人外のモノ共。

しかし人外と云っても、本書に登場する彼ら彼女らは陰惨で残忍なモノノケではない。逆。長い間、人に化けることを営んできたからか、その言動には果てしなく 愛嬌が付きまとう。人並みの感情を持ち、人情の機微を解し、悩みもすれば有頂天にもなる。実に愛すべき「もののけ」たちである。読者は本書を読み進めるにつれ、もののけの彼ら彼女らに強く惹かれるに違いない。

本書は、奇妙奇天烈な能力の持ち主である登場魔物たちが、京の街を縦横無尽に駆け巡る物語である。

若いおなごに耽溺し、落ちぶれた天狗はただ情けなく。狸一族を統べる頭領一家も兄弟は仲が良かったり喧嘩したり、はたまた世をはかなんで井の中の蛙に化けたりと忙しなく。頭領の母は宝塚ミーハーとして夜な夜な男装の麗人に成りすまし。

そんな愛すべき狸達と老いぼれ天狗が、賑やかに、猥雑になった京の街に自分達の居場所を求め、懸命に生き、そして戦う。戦いと云っても、ただただ野放図な能力をばらまき、当り構わず好き放題で、読んでいて喝采を叫ぶこと間違いなしである。

たまに萎れたり、舞い上がったり、水面に映る自分に涙したりしながら、彼ら一家の表情はどこまでも明るい。有頂天一家の題に恥じない楽天家ぶりである。そのパワーには、怪しげで暗いはずの京の町を陽気なエネルギーに溢れたるつぼへと返る。

楽しく、明るく、充実した狸一家は、どこまでも人間臭く、モノノケにもケモノにも思えなくなる。人間がしかめ面して悩むのと、彼らの切実な悩みとどちらが高尚か。そんな問いなどどうでもよくなるほど、笑い飛ばしたくなる。そんな快活な作品が本書である。

‘2014/09/08-‘2014/09/12