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アクアビット航海記 vol.39〜航海記 その24


あらためまして、合同会社アクアビットの長井です。
弊社の起業までの航海記を書いていきます。以下の文は2018/3/29にアップした当時の文章が喪われたので、一部を修正しています。
今回も家の処分について語ってみます。この経験を通して私をとても強くしてくれた家のことを。

家の防犯に取り掛かる


家の処分に着手した私。まず取り掛かったのは、家の防犯でした

当時、私たち夫婦と幼い長女が住んでいたのは、鉄筋三階建ての家屋でした。
その裏には木造二階建ての家が建っていました。本連載の第十九回にも書きましたが、私が初めて妻と出会った旅で泊めてもらった家です。

この家は空き家だったので、種々のリスクの温床となっていました。
たとえば、本連載の三十四回で登場した泥棒を稼業とする方にとって、裏の家は格好の獲物でした。
さらに本連載の第三十八回に書いたとおり、道路拡張を邪魔していると誤認した誰かの嫌がらせの標的になる恐れがありました。
裏の家が空き家で有り続ける限り、わが家は必ずならず者のターゲットになったことでしょう

もう一つの理由として、裏の家を片付ける必要を感じていました。いずれ訪れるはずの引っ越しの際、四代にわたって二軒の家にためこまれたモノの処分に難儀することは確実。今のうちに取り掛かっておかなければ。

初めて自分で契約書を作成する


私の手元に、弁護士のIさん向けに家の流れを説明した年表があります。弁護士のIさんは後の連載に登場していただきます。
その中の2002/12/29の出来事としてこう書かれています。
「友人「山下さん」に現住所木造2階建て家屋を貸す」
これは文字通り、私たち夫婦が住んでいた二軒のうちの木造2階建て(つまり裏の家)を山下さんに貸したことを示しています。

山下さんは私の大学の先輩にあたります。私が山下さんと知り合ったのは大学時代ではなく、私が東京に住んでからでした。
それ以来20年ほどは親しくさせてもらっています。私たち夫婦の結婚式では二次会の受付も引き受けていただきました。
当時、山下さんが住んでいたのは、私たち夫婦の家から車で20分ほど離れた賃貸マンションに住んでおられました。近くだったこともあって山下さんに裏の家に住んでもらえないか、と頼んでみたのです。

空き家であるから問題が生じる。それならば、人に住んでもらえばよい。人の気配がすればその家には活気が生じます。そして悪い輩を引き寄せなくなります。その結果、家の敷地全体が私たち家族にとって安全な場所になる。
さらに、山下さんに住んでもらっている間に荷物の片付けを少しずつ進められれば一石二鳥です。
もちろん山下さんのお手間を考慮し、家賃は破格の値段に設定しました。月二万円で町田の駅近一軒家なら、山下さんにとっても悪くない話のはず。つまりこの賃貸契約はどちらにもメリットのあるWin-Winになるに違いない。そう考えて山下さんに話を持っていきました。

この契約は不動産業者を介さずに締結しました。それどころか、契約内容の文言も一から私が練り上げました。おそらくその条文は法的には穴だらけだったはず。そりゃそうです。私は法律の専門家じゃありませんから。
この契約は、契約書の体裁はとったとはいえ、友人の間で交わされる信義に基づいた紳士協定に近かったかもしれません。破ろうと思えば、ほごにさえできたはず。それにもかかわらず最後まで契約に従ってくださった山下さんには感謝です。おかげで泥棒に襲われたのは本連載の三十四回に書いた時の一度だけで済みました。また、引っ越しまでの間に致命的な嫌がらせを受けることもありませんでした。

この時、契約の文章を自分で作ったことは後々の財産になりました。なぜなら、いずれ来る地主との交渉で、契約をめぐって一悶着が起こることは確実だったからです。
そればかりか、“起業”してからもこの時の経験は糧になりました
弊社では基本契約や機密保持契約をひと月に一度は交わしています。その際、契約内容は必ず熟読します。法的文書を読むセンスは、自分で契約書を一から作ったことによって身に付きました

プロの師匠にご助言をいただけた幸運


同じころ、私はもう一人の方とコンタクトを取り始めました。その方の名はHさんといいます。
本連載の第十九回で社会と接点を持とうとした私がいくつかのオフライン会に出ていたことは書きました。Hさんとはその中で知り合いました。
Hさんは私の結婚式の二次会にも来てくださり、乾杯の発声も引き受けてくださいました。
私が勝手にわが酒飲みの、そして人生の師匠としているHさんは、補償コンサルタントとして早いうちから独立しておられました。補償コンサルタントとはHさん曰く「国が定めた基準に基づいて、建物などの立ち退きに必要な移転の費用を算定する仕事」です。
つまり、わが家のような土地の一部が都市計画の一部に引っかかるようなケースの専門家です。もちろん、わが家のような借地権が絡んだケースも豊富に手がけていらっしゃったことでしょう。これぞまさにご縁のありがたみです

私はこのHさんからたくさんの貴重なご助言をいただきました。
私が関西の実家に帰った折、うちの母を連れてHさんの構える大阪市内の事務所にお邪魔したこともあります。Hさんは私が住んでいた町田の家にまでわざわざ足を運び、家の状況を確認することまでしてくださいました。

前回の連載で私が採るべき七つの案について列挙しました。私は、地主との交渉にあたって、それらの案の中から徐々に方向性を定めていきました。その際にHさんからいただいたご助言がどれだけ役に立ったか。
なお、Hさんは私たち夫婦と町田市や地主との契約には絡んでいません。そもそも大阪にお住まいですし。
その立場でありながら、いろいろとご尽力くださったことに感謝の念は尽きません
人生や酒の師匠であり、私が苦しめられていた家の処分にあたっての恩人だと今も今後も思っています。
Hさんは私が関西に帰省する度、時間を見つけてお会いする方の一人です。コロナがまん延し始めてからはお会いできていませんが、また関西に返ったらお会いしたいと思っています。

私はこうした行動をおそらく2002年の夏過ぎに始めていた記憶があります。2002年の夏。その時、わが国ではとあるイベントが開かれていました。日本のみならず世界を沸かせたイベント。
なんだかわかりますか? そう、日韓共催サッカーワールドカップです。
当時、私はスカパーのカスタマーセンターに勤めていました。そしてスカパーのカスタマセンターはワールドカップ景気に沸いていました。全試合をスカパー加入者であれば無料放映したためです。加入申し込みの殺到で猛烈に忙しい状態が続いたのを覚えています。
そのワールドカップが終わり、一息つけたことでようやく家の処分に着手できたのでしょう。

スカパーカスタマーセンターの仕事に一つの区切りがつき、ようやく家の処分に向けて本腰を入れ始める。それは私にとって一つの転換点でした。
その話はまた次回で。ゆるく永くお願いします。


しゃべれども しゃべれども


著者の本は初めて読んだが、とても面白かった。本書が面白いのは、読者のほとんどにおなじみの「しゃべり」が扱われているからだろう。しゃべること自体が小説のテーマになっていることはそうない。なぜなら人がしゃべるのは日常で当たり前のことだからだ。

話す事で糧を得る人は世の中に多い。落語家もそう。話すこと自体が芸となっている。本書が描き出すのは、落語家の生態や、彼らに伝えられる口承芸ー噺についてだ。ただ、噺家の生態を描くだけではなく、噺家の回りに集う人々との関わりで描くのが本書のいいところだ。噺家の周りに集う人々に共通するのが、話すのが苦手な人というのがいい。話す技術とは、生きていく上で欠かせない。だが、誰もが自在に扱えるかといえばそうでもない。ほとんどの人が身につけていながら、その技を完全にわが物としている人はそうそういない。私もそう。しかも主人公の噺家すら、その難しさに悩んでいるのだから。だから、本書は読者の共感を呼ぶ。

主人公は今昔亭三つ葉。今昔亭小三文門下の二つ目である。ちなみに二つ目とは噺家の階級のこと。「前座見習い」「前座」「二つ目」「真打ち」とあり、三つ葉はプロとして認められた段階だ。ところが、話すことにかけてはプロであるはずの三つ葉は伸び悩んでいる。噺家をなりわいとしていくには芸道の先がみえず、焦る日々を過ごしている。

そんな三つ葉の周りには、不思議なことに話すことが不得手な人が集まる。まずは、いとこの良。彼はドモる癖を持っていて、会話が少し不自由。ドモリがテニスクラブのコーチの仕事にも影響を及ぼしはじめている。

そんなある日、師匠の小三文がカルチャースクールの話し方講座に呼ばれる。付き人として付いて行った三つ葉は、そこで黒猫こと十河を知る。彼女は本音で生きており、その口調は取りつく島もないぐらいに攻撃的。話し方講座とは、話すことが苦手な人の集まりだ。話し方講座を聴講していた良も本気でドモリを治したい、内輪の集まりでよいから、話し方教室を開いてくれといってくる。ならば、と三つ葉はこぢんまりとした落語教室を始める。

落語教室の生徒は四人だ。良と十河、そして近所に住む小学校六年生の少年村林。彼は、関西で育ち最近吉祥寺に越してきた。だが、意地になって関西弁を直さずにいるため、クラスでなじめずにいる。もう一人は湯河原。彼は代打専門の元プロ野球選手として有名な人物。ところが、プロ野球のテレビ中継の解説が全くダメで解説者として崖っぷちに立っている。

生徒の四人が四人とも、しゃべることに劣等感を持っている。それが苦手なあまり、世の中に生きにくさすら感じている。三つ葉は、彼らとの落語教室をほそぼそと開きながら、噺家としての日々も送る。師匠からダメ出しをくらい、二つ目として二人会の舞台を催し高座に上がる。だが、噺家として壁にぶつかり、もだえる日々を過ごしている。

話すことは、本当に難しい。私も自分のこととして深く思う。ここ数年、このままでは自分の人生の可能性を生かし切れない、自分のキャリアパスに活路を開かねばならない、と人前で話す機会を増やしている。私の場合、話し方についての師匠はいない。全てが自分の独学。果たして自分の話し方の成長カーブ学校上向いているのかも分からぬままだ。何しろ、自分の話す内容を動画で残さない限り、反省するすべがないのだから。話すとは、その場限りの一瞬の行いなのだ。

だからこそ、場数を踏まねばならないと思う。場数を踏んで、毎回反省し、反省しながら、少し上達していることに気づく。まれに聴講してくださった方から話がうまいといわれて、そうかといい気になる。だが、しゃべるプロたちが立て板に水を流すように淀みなく登壇しているのを見ると、自分の技術がまだまだであることに気づく。そして、話す技術に到達点はない。それは噺家だって同じことだ。

「良は生徒のことを気にしすぎるんだ。あんたがマイクの前に座って視聴者にビクビクするのと同じだ。俺が高座で客の顔色をうかがうのと同じだ。誰だって好かれたいよな。」(220p)。これは、三つ葉が湯河原に向かって言うセリフだ。結局、好かれようとするあまり、いいたいことが言えなくなる。人にしゃべったことがどう思われるか、どう伝わるか。ここを気にしてしまうとうまく話せなくなる。

本稿を書く数日前、懇意にしているデザイナーの方からこんなセリフを聞いた。「絵を描くとき、自分の理想とする絵が頭にあると、失敗作にしかならない。もう、書き始めたら手に全てを委ねてしまう。それがどうあれ作品なのだ。」と。けだし名言だ。クリエイターとはこうあるべき。

もちろん、それには基礎がいる。基礎があれば、表現した内容には何らかの実が伴う。わたしもそう。もう、人の反応は気にしないことにしてから随分とたつ。その境地に至ってからは、人前で話すことが苦ではなくなった。

私がやるべきなのは、基礎となるべき部分をたゆまずメンテし続けること。それさえ怠らずにおれば、あとは、自分の中身を話すのみ。手に委ねるように、口に委ねてしまう。

とはいえ、その境地にどうやって至るのかは人それぞれだ。四人の生徒がしゃべる苦手を克服するには、時間がかかる。きっかけもいる。三つ葉もそれがわかるので、到達点を示そうと発表会を企画する。話す事が苦手な四人は、噺を暗記しなおかつそれを人前で披露する。これは小さな落語教室にとっては大したことだ。小さいながら、さまざまな悶着があり、四人もそろったり来なかったり、関係もごちゃごちゃしたり。

村林は自分をいじめるクラスメイトに野球で立ち向かい、湯河原に教えを請うたにもかかわらず負ける。でも、村林は落語教室が主催する発表会で「まんじゅうこわい」を披露して喝采をさらう。

成長したのは村林だけではない。落語教室に来ていたそれぞれが、それぞれに自分を見つめる。良も十河も、湯河原も、そして三つ葉も成長する。一年の間でも、人はグッと成長できる。人間が持って生まれた性質は簡単には変えられない。それでも成長はできる。成長する機会は生きていれば雨のように降ってくる。それを受け取るのか縮こまって避けるのか。それが成長につながる。妻の母が言っていた言葉だ。

三つ葉は、古典落語の装いを愛し、たとえモノマネといわれようと、古典落語の伝統を皆に伝えたいと願う。その思いは、三つ葉をライバル一門の白馬師匠の元に赴かせる。普段から自分の芸をネタにけなす白馬師匠でありながら。その思いが、三つ葉の芸の道を一段上に上げる。そして自分の生徒たちが成長する姿を見てさらに。

本書は落語の芸が詳しく書かれる。噺とは地の文とセリフを一人の話者が使い分け、客に面白く伝える芸能だ。

そこに流れる芸の道とは、小説の技術にも通じる。本書もそうだ。端正な地の文にセリフを挟むことで、ストーリーにリズムと変化がつく。勢いがつく。江戸の言葉、上方の言葉。大人の言葉、少年の言葉。男言葉、女言葉。それらが端正な地の文の間にうまく乗っていることで、本書はさらに魅力を放つのだ。

本書を読むと、きっと落語に関心が向く。そして、好きになれるに違いない。本書をよんだ後、私は落語の寄席に行きたくなった。

‘2017/07/27-2017/08/01


スター・ウォーズ/最後のジェダイ


エピソード7に始まる新三部作はスターウォーズサーガを完全に再生させた。それだけでなく新たな魅力まで備えて。

エピソード4-6までの旧三部作はあまりにも偉大だった。そのため、なぜダース・ヴェイダーがうまれたのかを描くエピソード1-3の三部作は、4-6に矛盾なくつなげる使命が課せられてしまった。その使命は、エピソード1-3を監督したジョージ・ルーカスの想像力の足かせになったのだろう。観客の意表をつくストーリーは影をひそめ、最新の撮影技術の披露、もしくは、ジャー・ジャー・ビンクス、または笑えるくらい敏捷なヨーダといったキャラに頼るしかなくなってしまった。

そこでジョージ・ルーカスが下した決断がすばらしい。まず、ルーカスフィルムをディズニーに売却したこと。さらにスターウォーズに関する一切の権利を委ねたこと。これはジョージ・ルーカスのなした素晴らしい英断だったと思う。なぜなら、この決断によってエピソード7以降のストーリーに命が吹き込まれたからだ。権利がルーカスから離れたことによって、必ずしもルーカス自身が監督しなくても良くなった。そのため、監督の人選が自由になった。その成果が、エピソード7はJ.J.エイブラムス、本作はライアン・ジョンソンという若い監督の抜擢につながった。しかも、別々の監督に委ねたことは、それぞれの作品に変化を加えただけでない。スターウォーズサーガに新たな可能性も加えたのだ。優れた外伝の製作として。言うまでもなく「ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー」のことだ。続いて「ハン・ソロ/スター・ウォーズ・ストーリー」まで公開予定というのだからファンにとってはたまらない。

たぶん、ルーカス監督がエピソード1-3ではなくエピソード7-9を監督しても素晴らしい作品に仕上がったことだろう。だが、一人ではスピンオフ作品までは手が回らなかったはずだ。その意味でもルーカスはスターウォーズサーガの今後にとってベストの決断を下したと思う。

ルーカスの決断が優れているのは、ただ続編の製作に繋がったことではない。世代をこえてサーガが伝わるきっかけを作ったことを評価したいのだ。だからこそ、エピソード7のJ.J.エイブラムス監督とエピソード8のライアン・ジョンソン監督が伝統を重んじ、そこにさらに新たな魅力を加えてくれたことがうれしいのだ。二人は師であるルーカスからスターウォーズサーガを受け継ぎ、弟子として申し分のない仕事をした。そして、万人に納得させることに成功した。

師匠から弟子への伝承。それは、本作そのもののテーマでもある。エピソード7はレイとルーク・スカイウォーカーの邂逅で幕を閉じた。本作ではプロローグから間も無く二人の関係が始まる。これ以上はストーリーを明かすことになるので書かないが、旅立って行くレイに対してこのようなセリフが投げかけられる。「師とは弟子に乗り越えられるためにある」と。

弟子であるライアン監督がそのようなセリフを仕込み、公開する。如実に世代交代を感じさせるシーンだ。

ライアン監督がそう自負したくなるのもわかる。本作はとにかく脚本がいい。今までの8作の中で一番といっても良い。何がいいかというと、シリーズにつきものの予定調和を排する姿勢だ。予定調和こそシリーズものの最大の敵。その排除に腐心した跡が本作から感じられる。エピソード7は、世代交代して最初の作品として、世界観の踏襲に慎重に配慮する姿勢が顕著だった。本作では前作がよみがえらせた世界観に乗りながらも、観客の期待を良い意味で外す演出が目立つのだ。しかもことさらに旧三部作を匂わせつつ、絶妙にはぐらかせる。絶妙に。

たとえばエピソード5の「帝国の逆襲」では、ヨーダの元で修行するルークが描かれる。それは主にフォースを体得するための努力だった。しかし、本作にはそういう努力のシーンが少ない。ルークはレイをベン・ソロすなわちカイロ・レンに匹敵するフォースの持ち主と恐れる。つまり、努力よりも素質が重んじられる。その違いは、ルークが修行中に闇へとつながる洞穴に赴くシーンで示される。ルークは洞穴でダース・ヴェイダーの影を憎しみに任せて切ってしまう。あのシーンに対比する本作のシーンは、映像技術の進歩を感じさせながら、よりフォースの本質に迫っている。素晴らしいシーンだ。そこではフォースの力とその根源を示し、なおかつ観客には筋書きに通ずる深い示唆を与えているのだ。

本作において、師に迫るための努力はそれほど重要とされない。グルやメンターはジェダイには不要なのだ。むしろ、フォースの力とそれを操る素質に重きが置かれている。さしずめ、弟子のライアン監督が師ルーカス監督を凌駕する本作を生み出したのは、飛躍的に進歩した撮影技術の力が大きいことの証しだとでもいうように。

ファンにとって新三部作の今後に不安はない。それどころか、スターウォーズサーガ自体が世代をこえて愛されることも本作で約束されたのではないか。新しく生まれ変わったスターウォーズサーガの今後に曇りはない。

かつて私が映画にはまった中学生の頃。旧三部作のノベライズ版も買いそろえ、エピソード7以降のストーリーが発売されているとのうわさを聞き、読みたさに心焦がれたことがある。あれから30年。本作でそれが叶った。こんな幸せなことはない。願わくは、私が死ぬ時までスターウォーズサーガの続きに耽溺させてもらえれば。

もはやその楽しみに預かれないレイア姫。本作のエンドクレジットにも以下の言葉が登場する。

in loving memory of our princess
Carry Fisher

いい演技だった。安らかに。

’2018/02/08 ムービル


禁断の魔術


著者の作風に変化を感じたのは「夢幻花」だったと思う。その変化についてはレビューにも書いた。私が感じた変化をまとめると、謎や解決のプロセスを本筋できちっと書き込み、なおかつ、それとは並行する別の筋に作者の想いや主張を込める離れ業を見せるようになったことだ。作風の変化というより作家として新たなレベルへ進化したというべきか。

「夢幻花」はシリーズものではなく単発作品だった。普通は安定のシリーズものではなく単発作品で実験的な手法を試すのが常道だと思う。

だが、著者はガリレオシリーズの一冊である本書で新たな手法を試す。今までガリレオの活躍を読まれてきた方にはお分かりだが、ガリレオシリーズは新しい科学的知見がトリックに惜しみ無く投入される。ガリレオこと湯川学が物理学者としての知見で謎を解くのがお決まりの構成だ。決して理論だけに凝り固まらず、謎や犯人との対峙の中で、ガリレオの人としての温かみが垣間見える。そんなところがガリレオシリーズの魅力である。

本書でもガリレオの前に科学的な装置を駆使した犯罪が立ちふさがる。その装置を使って一線を越えようとする人物の素性も序盤で読者に明かされる。それはガリレオのかつてのまな弟子。師は果たして不肖の弟子の暴走を止められるのか。それがあらすじだ。

もちろん著者は本筋をおろそかにしない。読者は、著者が安定のレベルで紡ぎだす謎解きの醍醐味を味わうことになる。いまや熟練の推理作家である著者にとって、謎の提示と解決までの筋書きを用意するのはさほど難しくないのだろう。

著者が用意した本書の裏の筋は、ここでは書かない。本筋にも関係のあることだからだ。表の謎が解かれた後に明かされる裏の事情。それは正直にいうと「夢幻花」で受けたインパクトよりも弱い。

でも、それはガリレオというキャラクターを語る上では欠かせないピースである。それをあえて本筋の後に持ってきたことにより、著者の新たな挑戦のあとがみえるのである。

あえて難癖をつけるとすれば、犯人の意図を挫くためにガリレオがとった行動にある。うーむ、さすがにそれは間抜けすぎでは、と思った。

‘2016/08/20-2016/08/20