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太陽の子


本書は、関西に移住した沖縄出身者の暮らしを描いている。
本書の主な舞台となる琉球料理屋「てだのふあ・おきなわ亭」は、沖縄にルーツを持つ人々のコミュニティの場になっていた。そのお店の一人娘ふうちゃんは、そのお店の看板娘だ。
本書は、小学六年生のふうちゃんが多感な時期に自らの沖縄のルーツを感じ、人の痛みを感じ、人として成長していく物語だ

お店の場所は本書の記述によると、神戸の新開地から東によって浜の方にくだった川崎造船所の近くという。今でいう西出町、東出町辺りだろう。この辺りも沖縄出身者のコミュニティが成り立っていたようだ。

『兎の眼』を著した人としてあまりにも有名な著者は、かつて教師の職に就いていたという。そして、17年間勤めた教員生活に別れをつげ、沖縄で放浪したことがあるそうだ。

本書は、その著者の経験がモチーフとなっている。教員として何ができるのか。何をしなければならないかという著者の真剣な問い。それは、本書に登場する梶山先生の人格に投影されている。
担任の先生としてふうちゃんに何ができるか。梶山先生はふうちゃんと真剣に向き合おうとする。ふうちゃんのお父さんは、沖縄戦が原因と思われる深い心の傷を負っていて、日常の暮らしにも苦しんでいる。作中にあぶり出される沖縄の犠牲の一つだ。

「知らなくてはならないことを、知らないで過ごしてしまうような勇気のない人間になりたくない」(282ページ)
このセリフは、本書の肝となるセリフだろう。ふうちゃんからの手紙を、梶山先生はその返信の中で引用している。

ここでいう知らなければならないこととは、沖縄戦の事実だ。

私はここ数年、沖縄を二度旅している。本書を読む一昨年と三年前のニ回だ。一度目は一人旅で、二度目は家族で。

一度目の旅では、沖縄県平和祈念資料館を訪れた。そこで私は、沖縄戦だけでなく、その前後の時期にも沖縄が被った傷跡の深さをじっくりと見た。
波間に浮き沈みする死んだ乳児の動画。火炎放射器が壕を炙る動画。手榴弾で自決した壕の避難民の動画。崖から飛び降りる人々の動画。この資料館ではそうした衝撃的な映像が多く見られる。

それらの事実は、まさに知らなくてはならないことである。

沖縄は戦場となった。それは誰もが知っている。
だが、なぜ沖縄が戦場になったのか。その理由について問いを投げかける機会はそう多くない。

沖縄。そこは、ヤマトと中国大陸に挟まれた島。どちらからも下に見られてきた。尚氏王朝は、その地政の宿命を受け入れ、通商国家として必死に生き残ろうとした。だが、明治政府の政策によって琉球処置を受け、沖縄県に組み入れられた琉球王朝は終焉を迎えた。
沖縄の歴史は、戦後の米軍の占領によってさらに複雑となった。
自治政府という名称ながら、米軍の軍政に従う現実。その後日本に復帰した後もいまだに日本全体の米軍基地のほとんどを引き受けさせられている現実。普天間基地から辺野古基地への移転も、沖縄の意思より本土の都合が優先されている。
その歴史は、沖縄県民に今も圧力としてのしかかっている。そして、多くの沖縄人(ウチナーンチュ)人が本土へと移住するきっかけを生んだ。

だが、日本に移住した後も沖縄出身というだけで差別され続けた人々がいる。ヤマト本土に渡ったウチナーンチュにとっては苦難の歴史。
私は、そうした沖縄の人々が差別されてきた歴史を大阪人権博物館や沖縄県平和祈念資料館で学んだ。

大阪人権博物館は、さまざまな人々が人権を迫害されてきた歴史が展示されている。その中には沖縄出身者が受けた差別の実情の展示も含まれていた。関西には沖縄からの出稼ぎの人々や、移民が多く住んでいて、コミュニティが形成されていたからだ。
本書は、沖縄の歴史や沖縄出身者が苦しんできた差別の歴史を抜きにして語れない。

ふうちゃんは、お父さんが子供の頃に体験した惨禍を徐々に知る。沖縄をなぜ疎ましく思うのか。なぜ心を病んでしまったのか。お父さんが見聞きした凄惨な現実。
お店の常連であるロクさんが見せてくれた体の傷跡と、聞かせてくれた凄まじい戦時中の体験を聞くにつけ、ふうちゃんは知らなければならないことを学んでいく。

本書の冒頭では、風ちゃんは自らを神戸っ子であり、沖縄の子ではないと考え、沖縄には否定的だ。
だが、沖縄が被ってきた負の歴史を知るにつれ、自らの中にある沖縄のルーツを深く学ぼうとする。

本書には、山陽電鉄の東二見駅が登場する。江井ヶ島駅も登場する。
ふうちゃんのお父さんが心を病んだのは、ふらりと東二見や江井ヶ島を訪れ、この辺りの海岸線が沖縄の南部の海岸線によく似ていたため。訪れた家族やふうちゃんはその類似に気づく。
どれだけの苦しみをお父さんが味わってきたのか。

父が明石で育ち、祖父母が明石でずっと過ごしていた私にとって、東二見や江井ヶ島の辺りにはなじみがある。
また明石を訪れ、あの付近の光景が沖縄本島南部のそれに似ているのか、確かめてみたいと思った。

そして、もう一度沖縄を訪れたいと思った。リゾート地としての沖縄ではない、過去の歴史を直視しなければならないと思った。沖縄県平和祈念資料館にも再訪して。

私は、国際政治の複雑さを理解した上で、それでもなお沖縄が基地を負担しなければならない現状を深く憂える。
そして、本書が描くように沖縄から来た人々が差別される現状にも。今はそうした差別が減ってきたはず、と願いながら。

‘2020/03/28-2020/03/31


蛍の森


著者は被爆後の広島を語る上で重要な三人の人物を描いたノンフィクション「原爆 広島を復興させた人びと」を著した。私はこの本を読んで著者に注目した。
その著者が初めて出した小説が本書だ。

ハンセン病、またの名をらい病と呼ばれる病気がある。かつては業病として恐れられた。遺伝病と誤解され、患者は忌み嫌われた。各地にハンセン病患者を収容する隔離施設ができ、収容された後は子が作れないよう断種手術がなされた。そんな忌まわしい歴史がある。

今では遺伝病ではなく、菌に侵されることで発病するメカニズムが解明されている。らい菌の感染力は弱く、万が一発病しても殺菌と治癒が可能だという。伝染する可能性も、密接な接触がなければ高くないことが分かっている。

つまり、過去に行われていた患者に対する隔離や断種などの政策はいずれも、医療知識の不足が招いた迫害だったことが判明している。
らい予防法は廃止された。ここ数年はハンセン病患者による国を相手取った訴訟が各地で結審し、国の責任や違憲であったことなど原告の訴えが認められつつある。
ニュース報道の中ではさまざまな迫害に耐えてきたハンセン病患者の涙ながらの訴えがマスコミなどで報じられた。

だが、私たちは、らい病患者が被った苦しみの深さをまだ知らない。

私はかつて、大阪人権博物館(リバティー大阪)で、ハンセン病患者の差別の実態を展示で見たことがある。
だが、それでも迫害の凄まじさやそれに耐えてきた患者たちの慟哭の意味を真剣に考えたことがなかった。そして、彼/彼女らの苦悩について、本書を読むまで私は何も知らなかった。

本書は、香川と徳島の間の山村を舞台としている。差別から逃れ、隠れ住むらい病患者たちを描きながら、人間の暗い本性を暴いている。その描写は、あまりにも陰惨である。
著者は今までノンフィクションの分野でさまざまな題材を手掛けてきた方だ。だが、ノンフィクションの手法を採るとモデルとなった方や関係者に迷惑をかけかねない。おそらく著者はそう判断したのだろう。
著者は本書を小説の形で展開させている。

四国と言えばお遍路さん。よく知られている。四国を訪れるとよく目にする。つまりお遍路さんは街中を歩きまわっていても不自然ではない存在だ。
そのため、四国八十八箇所を巡る以外の目的を持っていても、お遍路さんに紛れて各地を巡ることが可能だ。
本書に登場するのは、らい病の治癒を願いながら旅から旅へと移動し、施しを受けなければ生活がたちいかなかったらい病患者たちだ。

私はお遍路さんの背後にそのような事情があることを知らなかった。そしてこれが著者の独自の創案であるかどうかも知らない。
本書はそうした事情を持ったらい病患者による組織が四国の各地に点在し、その中で外から隔離されたらい病の患者同士でコミュニティーを形成していた設定で話が進む。
らい病のことをカッタイと呼ぶ異名がある。彼らはカッタイ者と呼ばれ差別されていた。
本書ではカッタイ寺の住職を中心に、ほそぼそと隠れ住むらい病患者の暮らしが描かれている。

1952~3年。そして2012年。2つの時代が本書では描かれる。
両者をつなぐのは乙彦だ。

幼い頃、雲岡村に住んでいた乙彦は、父なし子として自分を産んだ母によって育てられた。そうした生まれから、雲岡村の人にはあまり良く思われていなかった。しかも母は自ら首を吊って死んでしまう。その結果、乙彦は村の深川育造の下に身を寄せた。だが、迫害はいっそうひどくなる一方で、ついに村から脱出しようとする。
その時に乙彦は少女の小春に助けられ、カッタイ村の一員として迎えられる。

時は流れて2012年。乙彦の息子である私の視点で物語が進む。
医者であり、結婚もしていた私。だが、父の乙彦が、雲岡村で深川育造を殺そうとした事件が私の人生に深く影を落としている。
リサイクル業で成功し、都議にまで上り詰めた父が、なぜ全てを投げ捨てるような行いをしたのか。その殺人未遂から十年がたち、今度は深川育造ともう一人の男が行方不明になった。ついに我慢の限界を迎えた妻から離婚を突きつけられた私は、雲岡村で行方不明事件の捜査をしている警察から参考人として呼ばれる。

乙彦はどこに行ったのか。そして昔、乙彦の身に何があったのか。
この二つの物語を軸として本書は進んでいく。
その中で本書のテーマであるらい病患者たちが被った迫害の歴史が赤裸々に語られてゆく。

本書は、人間の持つ差別意識など、醜い部分も臆せずに描いている。

2012年のわが国は高度経済成長を遂げ、さまざまな社会的な闇が過去のものとして顧みられなくなりつつある。
だが、つい数十年前までは、この国にはいわれなき差別が横行し、因習やしがらみが色濃く残っていたことは忘れてはならない。
戦後の民主主義が広く国民に伝わったといっても、田舎ではまだまだ過去を引きずっていた事実を私たちは認識しておかねば。なぜなら、かつてのムラ社会にはびこっていた差別は、ネット上に舞台を移してあちこちで被害者を生み出しているのだから。

過去に比べて知識も増え、教育も行き渡った現在。だが、皆の心から差別が一掃されたか。もちろんそんなことはない。
文明のレベルが上がり、国民の識字率が上がっても、人が差別意識を持つ心のあり方は改善されることはないのだ。

著者は、差別する側の人間にも理解を示す人がいたことを記している。その一方でカッタイ村の住民の中にも醜い心を持つ人物がいることも忘れずに書く。

人は、置かれた状況によって醜くもなる。だが、どのような状況であっても心を気高く持ち続けることもできる。

本書の陰惨な余韻は、乙彦がかつてどのような出来事を経験し、それが今にどのような影響を与えたか分かったところで消えない。
むしろ、その余韻は私の心の奥底に潜む本能を引きずり出す。差別をしてしまう本能。
私は本書を読んだことでその本能を突きつけられた。だが、そうした本能の醜さを認めた上で、自分を律して生きていくしかないと思っている。

‘2020/02/02-2020/02/04


エレクトラ


中上健次氏(以下敬称略)の作品で読んだ事があるのは、『枯木灘』くらい。読んだのは記録によると、1996年11月だから二十二年前まで遡らなければならない。内容についてはあまり覚えていない。出口のない閉そく感が濃密だったことだけをかすかな読後感として覚えている。

中上健次が読むべき作家である事は、頭ではわかっていた。だが、私には濃密な世界観に向かい合うだけの余裕も、読み下すだけの自信もなかった。自信がない中、読めないでいた。そんな所に、中上健次の評伝として傑作だ、と本書を勧められた。私に本書を紹介してくれたのは、仕事仲間として知り合った方。だが仕事仲間とはいえ、この方とは文学や音学の趣味が合う。なので、仕事の域を超えて友人としてもお付き合いさせていただいている。この方の推薦とあらば傑作に違いない。

そう思って読み始めた本書は、たしかに評伝として優れていた。そしてすいすいと読み進められた。評伝とは元来、対象人物の由来や育ちを解体し、分析する作業だ。普通ならば劇的な驚きに出会うことは少ない。評伝の対象となる人物の残した業績に、どういったきっかけや学び、またはご縁があるのか。それを知ることで自分のこれからに生かすのが評伝を読む目的だからだ。だが、本書には驚きがあった。それは中上健次の出自が被差別部落にある事が詳細に描かれていた事だ。

もちろん、中上健次の出自が部落にあること自体はおぼろげに知っていた。私の蔵書の中に解体新書というものがある。本の雑誌ダ・ヴィンチが発行した作家を詳しく紹介したMOOKだ。そこで中上健次も取り上げられており、被差別部落の出であることは触れられていた。だが本書を読むまで、中上健次の文学が被差別という立場から書かれたという視点は私から全く抜け落ちていた。

念のため言っておくと、私は自分では、歴史的に差別を受けた出自を持つ方への偏見はあまりないと思っている。今でも被差別の目で周囲から見られる地域があることや、週刊誌などでたまに出自を暴かれる有名人がいることも知っている。

とはいっても、関西に住んでいた頃は全く同和問題には無縁ではなかった。わたしが幼い頃の西宮には明らかにそうと思える場所も残っていた。また、差別されいじめられている人もいた。大学のころには芦原橋にあるリバティ大阪(大阪人権博物館)にも行ったことがあるし、本書を読んだ9カ月ほど後にもリバティ大阪を再訪した。

だが、日常生活の皮膚感覚ではそうした差別意識に出会う機会は日に日にまれになっているように思う。私のようにいろいろな方と仕事や交流会で会う機会が多いと、中にはそういう出自を持つ方にも会っているはずだ。だが、仕事である以上、相手の出自などどうでもいい。要は結果が全てなのだから。だからかもしれないが、東京に出てからの私に同和問題を意識する機会は薄らいでいた。

とはいえ、関西にいまだに被差別部落といわれる地区は存在していることは確かだし、わたしの幼少期に文壇デビューした中上健次にとっては出自の問題はより切実だったに違いない。ましてや中上健二の故郷新宮にあっては、なおのこと切実だったと思う。

数年前、妻と紀伊半島を半周する旅をしたことがある。新宮にも立ち寄ってめはり寿司に舌鼓を打った。この時、新宮駅前や徐福公園、浮島の森に行こうと思い、駅前周辺をあちこち車で移動した。この時は何も感じなかったが、本書を読んで、なんとなくこみごみした路地を車で通ったことを思い出した。今、地図を見てみると中上健次生誕の地は駅のすぐ横のようだ。おそらく、私もすぐそばを通ったはずだ。新宮を旅行した時、私はすでに『枯木灘』は読んでいた。それなのに、その時の私が中上健次のことを思い浮かべることはなかった。

本書は、中上文学が差別の現実に苦しむ露地から何をすくい上げ、どう作品に昇華させたのかが描かれている。

本書の扉には、ソポクレスの『エレクトラ』が引用されている。
「さて、故国の土よ、氏神様よ、願わくはわたしがこの旅路を首尾よく終えて帰国を果たせますように。なつかしい父祖の館よ、そなたもわたしの願いをきいてくれ。」

『エレクトラ』は本書の題名にもなっている。そして、中上健次がまだ無名のころに書いた小説のタイトルでもある。本書は、無名時代の中上健次が、編集者に叱られ、励まされる姿で幕を開ける。続いて著者は、無名の中上健次が文学に青春をささげる背景を探る旅に出る。

著者は中上健次の故郷、新宮の春日地区を取材する。そして、生前の中上健次を知る存命者を訪ねて回る。著者の取材と描写は徹底していて、在りし日の春日地区がよみがえってくるようだ。今や再開発が進み、春日地区にかつての雰囲気は残されていないとか。それでも著者は春日地区で生を受け、成長した中上健次の在りし日をよみがえらせようとしている。春日地区の方々が人生を切り開こうとして苦闘した姿。差別という現実に、ある者は風評に負け、ある者は人生を諦める。そうした人々の哀しみや怒りは、中上健次の作品群にありありと表れていることをしめすため、著者はあらゆる中上作品を豊富に引用する。そこには差別という現実を決して隠そうとせず、文学を通して世の中に叩きつけようとする中上健次の怒りがある。

本書に引用されている詩の豊富さは、特に目を引く。詩とはイメージの氾濫であり、理屈ではない感情の裸の部分だ。これらの詩を読んでいると、発表された小説だけでは 中上健次の世界感は到底理解できないことに気づく。第四章のタイトルにもなっている「故郷を葬る歌」は、なかなかに物騒な内容だが、著者はそのねじれた感情を見破り、最後の締めに中上健次の甘えを見て取り、「尻の青い、甘ったれの詩であった」と両断している。

本書は一人の少年が、熊野から上京し、芥川賞受賞を果たし、小説家として押しも押されもせぬ存在になるまでが描かれる。そこには、なぜ小説家にならねばならないのか、という一人の人間の切実な動機があったのだ。そしてそれを見抜き、小説家としての大成を見守った編集者の役割も見逃せない。本書は高橋一清、鈴木孝一の二人の編集者による作家を養成する軌跡でもある。二人の編集者による魂を削るかのような叱咤と激励が中上健次を大成させたと言っても言い過ぎではない。私は本書ほど編集者が作家に与える影響力の大きさを描いた書物を読んだことがない。編集者が小説家を生かしもするし殺しもするのだ。本書で印象に残る表現に梅干の種がある。梅干の種までは小説家なら誰でもたどり着ける。その種をさらに割って、核までたどり着く。そのような覚悟を鈴木氏は幾度も中上健次に迫ったという。

いうまでもなく、ここで言う核とは被差別の出自を示しているのだろう。種をどうやって割り、どうやって核を引きずり出すのか。中上健次は詩や散文などあらゆるやり方で己の中にある核に迫ろうと奮闘する。新宿での無頼で自由な日々をへて、連続射殺魔として世を騒がした永山則夫に共感を抱き、結婚して家族を持つ。中上健次はそこでいったん現実を見つめ、国分寺に家を構え、毎日仕事をしに羽田空港まで出かける。たいていの人はそのまま一生を終えてしまうが、彼はその長距離通勤にも負けず、家族を守りながら小説家として一本立ちする。そのいきさつが本書にはつぶさに書かれている。日々の仕事をこなしながら、彼が小説家への志を捨てなかったのも核を持っていたからだろう。被差別を出自とした自らの故郷への愛憎、それに立ち向かわねばならないという確固たる意志。そこに中上健次の作家の真価がある。そしてそれに気づき、引き出そうとした編集者の慧眼。

中上健次の核は、『十九歳の地図』『火宅』『蛇淫』『岬』といった諸作で種の表皮に徐々にひびがはいり、ついに『岬』で芥川賞を受賞して日の目をみる。本書において著者は、芥川賞を受賞して以降の作品にあまり重きを置かない。『枯木灘』でさえも。『枯木灘』とはそれら短編で研ぎ澄まされた作品世界を長編として生まれ変わらせた作品であり、それ自体に新鮮さを求めるのは間違いかもしれない。いうなれば総集編というかベスト盤。となると『枯木灘』しか読んでいない私は、中上健次の真価に触れずにいるのだろう。

『岬』で一躍、世間的に脚光を浴びた中上健次。それ以降の作品で本書が多くを触れるのは熊野のルポルタージュである『紀州 木の国・根の国物語』の苦闘のいきさつだ。その他の作品は本書ではほとんど触れられない。小説家として不動の地位を築いてからの作品にも高い評価を受けた作品は多い。だが、著者によれば、それらの作品はいまや核を割ることに成功した小説家の、いかに核を味わうか、の技巧の結果でしかないようだ。

自らの中にある核を取り出した後、中上健次にできることは己の出自にけじめをつけることだけ。熊野の被差別部落を葬ったのは実質、中上健次自身であることが本書には記される。改善事業や文化会の開催など、春日地区の改善に貢献したあと、やるべきことがなくなったかのように、中上健次はガンに侵される。本書では特に触れられていなかったが、死の前に中上健次は、路地、つまり被差別をモチーフとしない作品への転換を模索していたらしい。ところがその成果は世に出る事はなかった。それもまた運命なのだろうか。中上健次がなくなったのは那智勝浦。故郷に帰って死ねたのがせめてもの慰めだったと思うほかはない。

46歳の死はあまりにも早い。また、惜しい。そして私はその年齢に近づきつつある。それなのに、総集編としての『枯木灘』しか読んでいない私の読書体験の乏しさに焦りが生まれる。まだ間に合うはずだ。読むべき本の多さに圧倒される思いだが、読んでおかなくては。本書はよい機会となった。友人に感謝するしかない。

‘2017/06/04-2017/06/08