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吹けよ風呼べよ嵐


川中島にいまだ訪れたことがない私。それなのに、川中島の戦いを描いた小説を読む経験だけは徐々に積んでいる。そして合戦シーンに血をたぎらせては、早く訪問したいと気をはやらせている。そんな最近だ。友人が貸してくれた本書もまた、私の心を川中島に向かわせようとする。

だが本書の中において、川中島の戦いが描かれるシーンはほんのわずかしかない。386ページある本書の終盤、多めに数えてもせいぜい60ぺージほど。では、あとのページは何の描写に費やしているのか。それは、村上義清軍の戦いを追うことで費やしている。本書は上田原の戦いから始まる。上田原の戦いといえば、村上義清と武田晴信によってなされた信濃の覇権をめぐる一連の戦いでも初期に行われた合戦だ。上田原の戦いで武田軍の侵攻を退けた村上軍は、続けて武田軍に後世、砥石崩れと称される程の痛手を負わせる。北信濃に村上義清あり、と高らかに謳うかのような戦い。本書の主人公である須田満親は、従兄でかつ刎頸の友である信正とそれらの戦いを間近にみていた。

だが、村上義清がいくら北信濃で武名を高めようとも、勢力としては信濃の一地域を治めるだけの存在にすぎない。そもそも、信濃とは諸豪族が割拠する地。戦後史においては、信濃における二大勢力として小笠原長時と村上義清の両雄が並び称されていた。だがそれぞれは勢力として小粒。それゆえ、甲斐から侵略を進める武田軍に徐々に突き崩されてゆく。しかも武田軍は武で成果がなければ調略を試すなど、柔軟かつ老練な攻め手を繰り出してくる。硬軟取り混ぜた武田軍の攻撃に徐々に勢力を削られてゆく村上軍。その調略の先は、信正の親である須田信頼にも伸びる。その結果、須田信頼と信正親子は武田軍にくみする。つまり、須田満親と信正は敵味方となってしまうのだ。満親を襲った凶報は、満親と信正を互いにとっての仇敵に仕立て上げることになる。上田原の合戦見物の際は、弥一郎、甚八郎と呼び合っていた二人。それが憎み合い戦場で剣を交えるまでに堕ちてしまう。戦国の世の習いの無残さを思わせる展開だ。

仲の良かった従兄が敵味方に分かれる。そんなことは下克上のまかり通る戦国時代にあって特に珍しくもなかったはず。そして豪族が相打ち乱れ、合従連衡を繰り返す信濃にあってはより顕著だったに違いない。つまり戦国期最大の合戦として後の世に伝わる川中島の戦いとは、ついにまとまる事を知らぬまま、乱れに乱れた信濃が堕ちるべき必然だったのだ。信濃の地で戦われた合戦でありながら、甲斐の武田と越後の上杉の戦場となった川中島とは、つまるところ信濃の豪族たちのふがいなさが凝縮した地だったともいえる。

だが、その事実をもとに須田満親を責めるのは酷な話。彼は村上家にあって生き延びるため、そして須田家を存続させるため、懸命に働く。満親の働きは、村上家がいよいよ武田軍の攻勢を防ぎきれず上杉家を頼る際に彼自身の運命を切り開く。村上義清によって上杉家への使者に命じられることで。それまでに使者として上杉景虎の知己を得ていたことが上杉家への使者として適任だったのだ。それは、須田満親を次なる運命へと導く。つまり、川中島の戦いへと。満親の嫁初乃はもともと信正の妹として満親に嫁いできた。だが、武田軍の調略が須田家を引き裂いたため、兄信正と初乃は敵対することになる。そんな運命に翻弄されながら、彼女は世をはかなむことなく満親へ付き従い越後へと落ち延びる。本書で描かれる彼女の運命は戦国の時代の過酷さ、そして確固たる権力に恵まれなかった信濃に生まれた女子の運命を如実に書き出している。

親しさの余りに、憎さが百倍したような満親と信正の関係。それは、幾度もの運命の交錯をへてより複雑さを増してゆく。そしてついには川中島の戦いでは上杉軍と武田軍として相まみえ、剣を交えさせることになるのだ。

残された記録による史実によれば須田満親は1598年まで存命だったようだ。つまり満親は川中島を生き残ったのだ。では信正はどうだったか。史実によれば武田家滅亡後に上杉家に属したと伝わっている。だが、本書では川中島以降の両者には触れていない。あるいは、上杉家で旧交を温め直したのか、それともかつての反目を引きずりながら余生を過ごしたのか。本書には、上杉家での二人の邂逅がどうだったかについては触れておらず、読者の想像に委ねている。

そのかわりに著者は、川中島の戦いで満親と信正に剣を打ち合わせることで、二人のその後に著者なりの解釈を示している。満親に勝たせることで。そして満親にとどめを刺させないことで。その瞬間、二人の間には弥一郎と甚八郎の昔が戻ったのだ。「禍根を断っては、武士は鈍ります。禍根あってこそ、武士はよき働きができます」とは川中島の戦いの後、謙信と語らった際の満親のセリフだ。それを受けて謙信もこう返す。「もう一太刀か二太刀見舞えば、わしは信玄を殺せた」「だがな、馬を返して四太刀目を浴びせようとしたところで気づいたのだ。欲が勝つか義が勝つかは、力で決めるものではなく、天が決めるものだとな」「そうだ。欲に囚われた者は欲に滅ぼされる。最後に勝つのは義を貫く者だ。つまり禍根を断たずとも悪しき者は自ずと立ち枯れる」

ここでいう欲とは武田信玄の領土拡張欲であり、義とは毘沙門天を戴く上杉謙信の信念を表わしている。この二つの概念は、両者を比較する際によく見かける。だが、有名な一騎打ちをこういう解釈で描いた事に、本書の真骨頂がある。川中島の合戦で敵味方に相まみえる事になった須田満親と信正の従兄同士。二人の運命に小豪族の置かれた運命の悲哀を表しただけでなく、義と欲の争いを禍根を断つ形で決着させず、人の生き方として歴史の判断にゆだねた著者の解釈。これもまた、一つの見識といえる。

おそらく、川中島の戦場には、幾多の入り組んだ、長年に渡って織りなされた運命の交錯があったはずだ。満親と信正。信玄と謙信。信繁と景家。川中島には彼らの生きた証が息づいている。人の一生とは何を成し遂げ、何に争わねばならないのか。そんな宿命の数々がしみ込んでいるのだ。そのことを新たに感じ、人の一生について感慨を抱くためにも、私は川中島には行かねばならないのだ。

‘2016/12/24-2016/12/28


我、六道を懼れず―真田昌幸連戦記


2016年の大河ドラマは真田丸。私にとって20年ぶりに観た大河ドラマとなった。普段テレビを観ない私にしてはかなり頑張ったと思う。本書を読み始めたのは第4回「挑戦」を観た後。そして本稿は第8回「謀略」の放映翌朝に書きはじめた。

真田丸の主役は堺雅人さんが演ずる真田信繁(幸村)だ。これは間違いないだろう。ところが、本稿に手をつけた時点で私が印象を受けたのは草刈正雄さん演ずる真田昌幸だ。その存在感は真田丸の登場人物の中でも群を抜いている。あまりテレビを観ない私にとって、草刈正雄さんの演技を初めてまともに観たのが真田丸だ。その演技はもはや名演と呼べるのではないか。かの太閤秀吉に表裏比興の者と呼ばれ、家康を恐れさせた謀将昌幸。草薙さんは老獪な武将と語り継がれる昌幸を見事に演じている。

第4回と第8回は、両方とも謀略家昌幸の本領が前面に押し出された回だった。その時期、真田家は武田家滅亡後の空白を乗り切るため、あらゆる策を講じねばならなかった。弱小領主である真田家を守り抜くため、時には卑劣と言われようと、表裏の者と言われようと一族を守らんとしたのが、昌幸ではなかったか。昌幸が知恵を絞った甲斐あって真田家は戦国から幕末までお家を存続できた。泉下の昌幸にとって満足な結果だったのではないだろうか。

昌幸は謀略の分野で才能を発揮した。しかし、それと本人の人格とは別の話。後世から策士と評される昌幸とて、生まれながらの謀略家だった訳ではない。

本書には、謀略を知らぬ前の純粋で無垢な昌幸が息づいている。

本書は昌幸が源五郎という幼名で呼ばれていた7歳の頃から始まる。

7歳といえばまだ母の温もりが必要な時期。そんな時期に源五郎は父から武田晴信、すなわち後の信玄の小姓となることを命ぜられる。要は人質である。源五郎は到着して早々、新たな主君とのお目見えの場で近習に取り立てられる。7歳にしてそのような重荷を背負わされた源五郎も気の毒だが、7歳の童子に大成の器を見極めた晴信の人物眼もまた見事。

幼くして鍛錬の場に置かれた源五郎は、信玄の弟典厩信繁に目をかけられ成長を遂げていく。そして信玄の近習として側に仕えながら、薫陶を受けることになる。生活を共にし、戦略を練る姿に親しく接する。その経験は源五郎の素養を確かに育んで行く。そして将来の昌幸を間違いなく救うことになる。機転や頭脳の働かせ方、策の練り方活かし方。活きた見本が信玄だったことは昌幸にとっての僥倖だったに違いない。

元服し、源五郎から昌幸となってすぐ迎えたのが、かの川中島合戦。しかも初陣となったのは、本邦の合戦史でも五指に入るであろう第四次合戦だ。信玄と謙信の両雄一騎討ちがあったとされ、世に知られている。

著者には、第四次川中島合戦を描いた「天佑、我にあり」という作品がある。合戦に至るまでの息詰まる駆け引きから合戦シーンまで、傑作と呼ぶ以外ない一冊だ。「天佑、我にあり」は近くの山から合戦の一部始終を見届ける設定の天海僧正の視点で語られる。だが、本書で語られる第四次合戦は昌幸の視点によって語られる。同じ合戦を同じ著者が描いているのだが、視点を変えているため読んでいて既読感を感じなかった。著者の筆力が一際抜きんでいることの証拠だろう。

第四次合戦において有名な一騎打ちとは大将同士によるそれだ。だが、同じ合戦では武田典厩信繁と柿崎景家との一騎討ちも見逃せない。「天佑、我にあり」で詳細に語られるその一騎打ちの場面は、何度読み返しても魂が震える。本書は昌幸の視点で描かれているため、二人の一騎打ちは描かれない。だが、信繁に目を掛けられ、育てられた昌幸が信繁の亡骸に昌幸が取りすがって号泣する姿は、本書において白眉のシーンだといえる。

また、「天佑、我にあり」では信玄と謙信の一騎打ちも読み応えのある場面だ。そして信玄近習である昌幸は、両雄の間を刹那飛び交った火花の目撃者でもある。昌幸が目撃した両雄の一騎打ちは、「天佑、我にあり」とは違った形で描かれており本書の山場の一つとなっている。

初陣にして己の価値を見出してくれた人物の死に直面した昌幸は、武将の成長をして大人となる。そして、信玄になくてはならぬ側近となってゆくのである。本書は戦国屈指の謀将真田昌幸の成長譚であり、ずっしりとした読み応えが読者に返ってくる。

川中島合戦が収束しても昌幸の身辺は慌ただしい。松という伴侶を得て身を固めたかと思えば、武田家中を襲う謀反劇の直中に巻き込まれる。

桶狭間で主が織田信長に討ち取られてから衰退著しい今川家。信玄嫡男の義信は、その今川義元の娘を正室に迎えている。そして信玄の冷徹な脳裏には今川家を見限り、その替わりに昇り調子の織田家との外交関係を結ぶ戦略が編まれていた。それに反発して実力行使で主君を諫めようとする義信一派。その中には昌幸が幼き頃から共に近習として武田家に仕えた仲間もいた。幼き日からともに学んだ仲間と刀を交える苦味。その中にあって信玄への忠義を揺るがせにしなかった昌幸は、ますます信玄の信頼を得ることとなる。無垢な昌幸は、仲間の死を通して戦国の世の習いを一つ身につける。

武田家に内紛の余韻漂う中、武田家は北条家と戦端を開く。北条家の本拠地小田原を攻め、帰路に三増峠で北条軍と戦う。ここで昌幸は、北条軍にあって武名を馳せる北条綱成と何合か打ち合わせる機会を持つ。本書には昌幸の武士の矜持を持った一面がきっちりと描かれている。謀略家のイメージばかりが取り沙汰される昌幸は歴とした武士だった。著者の視点はそのことにしっかり行き届いており好感が持てる。

関東遠征を経たことで昌幸への信玄からの信頼は一層篤くなる。そして昌幸は信玄の身辺を任されるようになる。寝室や厠近くに侍るようになった昌幸が目撃したのは、咳き込んだ信玄と口からの喀血。その病は後に天下獲り間近の信玄を道半ばで倒すことになる。己に残された時間がもはや少ない事を悟った信玄は、ついに上洛へと乗り出す。

敵の本拠地駿河に進軍してからも徳川軍をやすやすとひねる武田軍。家康にとって終生胆を冷やさせることになる三方ヶ原の敗戦も、信玄にとっては余技のごとく書かれている。事実、当時の戦国最強との呼び声高い武田軍にとっては徳川軍など鎧袖一触。敵役にもならなかったほど弱かったのだろう。しかし徳川家にも武辺者はいた。それは本多忠勝である。昌幸はこの戦場で本多忠勝と相まみえることになる。ここでも若き昌幸は謀将ではなくもののふの姿で描かれている。本書において、昌幸はまぎれもない武将である。それも戦国最強の武田軍の中にあって首尾一貫して。

しかし、武運は信玄に味方しなかった。朝倉軍が織田包囲網から離脱し、信玄の描いた戦略に綻びが生じる。それと時を同じくして信玄に巣食う病が重くなる。信玄は昌幸を含めたわずかな家臣を呼んで別れを告げ世を去る。

昌幸の元に遺されたのは碁盤と碁石のみ。病が急変する前、昌幸は信玄と一局打つ機会を得る。六連銭の形におかれた置石から始まった一局で、それまで一度も勝てなかったのに、持碁、つまり引き分けに持ち込む。その遺品は、図らずも己の軍略を伝えようとした信玄の意志そのもののよう。いうなれば、信玄流軍略の一番弟子の形見に碁盤を託された形となる。これまた、本書の中でも印象の深い場面である。

いよいよ本書は最終章にはいる。長篠の戦いである。昌幸には二人の兄がおり、ともに侍大将の立場で武田軍の重鎮となっていた。が、信長軍の鉄砲戦術に二人の兄を始め、主だった武将が餌食となり、戦場に命を散らす。

昌幸が眼にしたのは惨々たる戦場の様子。死体があたりを埋め、血の匂いが立ち込める。その景色は川中島の戦いのそれを思い起こさせる。信繁の死んだ川中島の戦場の様子が兄二人を亡くしたそれと重なり、昌幸の脳裏を憤怒で染める。無垢で純粋だった昌幸が絶望と悲憤の中で殻を脱ぎ捨てる瞬間である。

戦い済んで甲斐に帰った昌幸は、名乗っていた武藤の姓を返上する。そして真田昌幸を名乗る。父も兄たちも居なくなった今、真田家を継ぐのは昌幸しかいなくなったからだ。そして、昌幸の胸にはただ怒りだけが満ちている。それは、長篠の戦いを敗戦へと導いた者たちへの怒りだ。長坂、跡部といった武田家の重臣たち。彼らは武田家を長篠の戦いに導いた。そして自らは後衛に回って戦況をただ見ているだけだった。昌幸の怒りはそのような者を重用し続ける新たな主君勝頼にも向かう。武田家を見限り、真田家のことを考え始める内なる声が昌幸の中でこだまする。

昌幸の叫びは、もはや無垢な青年のそれではない。哀しみや世の無情、真田家を背負う重責を担った漢の叫びである。それが以下の本書を締める三つの文に集約されている。

人には大切なものを失わなければわからない本物の痛みというものがある。そして、失う痛みを乗り越えることでしか見えない地平というものがある。
それに気づいた時が、まさに、その人の立志の時だった。
痛恨の敗戦を経て、昌幸は真田の惣領を襲名する決意を固め、深まりゆく乱世に翻弄される己の運命と真正面から向き合おうとしていた。

(第一部完)

真田丸でみせる老獪な真田昌幸は、本書に続く第二部でこそ花開くのだろう。しかし、謀略を駆使する昌幸の背景には、本書で描かれたような信玄の薫陶や、度重なる戦いで身につけざるを得なかった憤怒があることを忘れてはならない。草刈正雄さんが本書を読んだかどうかは知らない。脚本を書いた三谷幸喜さんが本書を参考にしたかどうかも知らない。でも、視聴者は昌幸の過去に通り一遍でない人生の起伏があったことを知っておくべきだと思う。草刈昌幸を単に腹黒く人の食えぬ親父と見るだけでは彼の真の凄みは味わえない。そこには振幅の激しい人生に鍛えられた一人の男がいる。そう見直してみるとまた違う姿が見えてくるはずだ。真田丸を見ていると、息子信繁(幸村)の名が川中島で討ち死にした武田典厩信繁の名にあやかっていることや、本多忠勝の娘小松姫が長男信之の正室になるなど、若かりしころの昌幸の出会いが真田家のその後に重要な布石となっていることに気づく。

と、こんな偉そうなことを書いている割に、私は結局真田丸を全て観ることは出来なかった。第16回「表裏」あたりまでは、車内で観たりオンデマンドで観たりと観るための努力を続けていたが、それ以降は仕事が忙しく断念した。無念だ。でも、本書の続編第二部は是非読みたいと思っている。そして真田丸全編も必ず観るつもりである。

‘2016/02/16-2016/02/18