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沖縄 だれにも書かれたくなかった戦後史 〈下〉


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下巻では、多士済々の沖縄の人物たちが取り上げられる。

瀬長亀次郎と言う人物は私もかねてから存在を知っていた。かつて琉球独立論を掲げた人々が沖縄にはいた。瀬長氏もその一人だ。
独立論を掲げた人々は、今でも独立論を堅持し、県政に主張を通そうとしているそうだ。瀬長氏以外にもそうした人々がいる事は知っておきたい。
そもそも、沖縄は独立できるのかとの問いがある。ただ、それは私たちが本土の人間が考える問題ではない。沖縄の人々が主体で考えるべきことだ。
私は日本に属していた方が得ではないかと考える。だが、それは沖縄にとって部外者の私がいっても無意味な話だと思う。

部外者としての私の無知は、模合を知らなかったことでも明らかだ。模合とは、頼母子講や無尽と同じ、民間の参加者同士が掛け金を出し合うシステムだ。
日本の本土では講や無尽は衰えた。だが、沖縄ではまだまだ模合が民間に強く根付いているそうだ。
日本の本土と沖縄で経済活動に違いが生じたのは言うまでもなく、米軍軍政下の時代の影響だ。それによってアメリカの自由主義が沖縄に蔓延し、経済の体質が変わってしまった。それが今に至るまで日本本土とは異なる経済体制を作った原因となった。だが、私たち本土から来た人間がリゾートの沖縄を歩いている間はそういうことには気づかない。私も気づかなかった。それに気づかせてくれるのも本書の優れたところだと思う。

また、本書からとても学びになったのが、軍用地主を扱っていることだ。
沖縄と言えば必ず基地問題がセットでついてくる。私たち本土の人間は沖縄の基地問題と聞けば、民を蔑ろにした国と国との折衝の中で勝手に沖縄の土地が奪われているとの文脈で考えてしまう。
その補助金が沖縄を潤している現実は理解していても、それはあくまで国有地をアメリカに使わせている補償として眺めてしまう。
だから、日米安保の大義名分の中で沖縄を犠牲にする考えが幅を利かせてきた。そして、中国や北朝鮮などの大陸からの圧迫を感じる今になっては、米軍基地の存在に対して考える事すら難しい状況が出てきている。
だから、その米軍に基地を貸し出している地主が33,000人もいると知った時は驚いたし、そこに沖縄の複雑な現実の姿を感じ取った。

私が国のからむ土地の地主と聞いて想像するのは、三里塚闘争で知られたような反戦地主だ。だが、軍用地主はそうした地主とは性質を異にしているという。
むしろ、軍用地は不動産物件としては利回りが大きく、とても地主にとっても利潤をもたらすのだと言う。実際、それは不労所得の真骨頂ともいえる優雅な暮らしを生み出す収入だ。
著者は地元の不動産会社や軍用地主連合会に取材することで、そうした裏事情を私たちに明かしてくれている。著者がいう「軍用地求む」という広告ビラをとうとう私は見たことがない。米軍基地反対運動へのお誘いビラは多く見かけたが。

単純に基地問題といっても、こうした事情を知った上で考えると、また違う見方が生まれる。根深い問題なのだ。

他にも本書には沖縄の知事選を巡る裏事情や、ライブドアの役員が殺害された事件などにも触れている。上巻にも登場したが、沖縄とは剣呑な一面もはらんでいる。特に米兵による少女暴行事件など、民が踏みつけにされた歴史は忘れるわけにはいかない。

その一方で、著者は女性たちが輝く沖縄について筆を進めている。牧志公設市場の異国情緒の中で感じた著者の思い。沖縄とは人の気配が息づく街なのだ。

本書を読んでいると、沖縄の魅力の本質とは人であることに気づく。
平和学習やビーチや水族館の沖縄もいい。だが、長らく中国大陸と日本の影響を受け続け、その間で生き抜いてきた人々が培ってきた風土を知ることも沖縄を知る上では欠かせない。むしろ、その影響がたくましくなって沖縄の人には受け継がれている。それは著者のように人と会ってはじめて気付くことだ。
著者はジャーナリストとしてこのことをよくわかって取材に望んでいることが分かる。沖縄とは人と交流しなければ決して理解できないのだ。

本レビューの上巻では、私が今までの三回、沖縄を旅したことを書いた。そこで私は、何か飽き足らないものがあると書いた。それが何か分かった。人だ。私は旅の中で著者程に人と会っていない。
私が沖縄で会って親しく話した人は、皆さん本土から移住した人だ。観光客の扱いに手慣れた方なら何人かにお会いした。だが、沖縄の情念を濃く伝えた人と親しく話していない。
そのことを私は痛感した。

私が本土にいて沖縄を感じるのは、沖縄のアンテナショップで買う物産や、せいぜい琉球音楽の中だけだ。
著者は、沖縄芸能史も本書で詳しく触れている。
いまや、沖縄出身の芸能人は多い。
琉球音楽の観点や、沖縄の三線運動など、沖縄の民俗芸能はそれだけで奥が深い。私も那覇の国際通りでライブを鑑賞したことがあるが、本土の衰退した民謡とは違う明らかなエネルギーのうねりを感じた。著者は最近の沖縄の若者が日本の本土のようになってきたことを憂えているが。

本書は締めで本土の人間にとって関心毎である国内/国際政治と沖縄の関係や沖縄の歴史に立ち戻る。

本書を読んでいると、基地問題もまた別の観点から考える必要があると思える。確かに基地は沖縄にとって迷惑のもと。
ただし、その一方で国からの補助金や助成金によって、沖縄の産業が守られてきたこともまた事実だ。その矛盾は、沖縄の人々をとても苦しめたことだろう。

それを感じさせるのが冒頭の民主党による沖縄の基地問題への対応である。当時の鳩山首相が日米を混乱させる言動を連発したことは記憶に新しい。
沖縄を守るのも殺すのも日本政府に課せられた責任のはずなのだが。
かつて琉球処分によって尚氏を琉球国王の座から追いやり、統治すると決めたのは日本政府。
本書にはその尚氏がたどった明治維新後の歴史も詳しく紹介されている。
そして今や日中間の紛争のタネとなっている尖閣諸島の所有者である栗原家についてのルポルタージュも。

とても濃密な本書は、また沖縄に行く前にも目を通すべき本だと思う。

‘2020/08/23-2020/08/27


沖縄 琉球王国ぶらぶらぁ散歩


家族で訪れた沖縄はとても素晴らしい体験だった。本書はその旅の間に読み進めた、旅の友という本だ。今回、三日間の行程のほとんどは、戦時下の沖縄と、今の沖縄を見ることに費やした。その中で唯一、中世の沖縄を見る機会があった。それは、勝連城跡においてだ。

実は今回の旅行の計画では、当初は首里城に行く予定だった。ところが、沖縄でお会いした友人の方々から薦められたのは海中道路。そこで、首里城ではなく海中道路に旅先を変えた。海中道路だけでなく、浜比嘉島のシルミチューとアマミチューの遺跡や、伊計島の大泊ビーチを訪れた経験は実に素晴らしかった。だが、首里城への訪問は叶わなかった。それだけはない。前日、今帰仁城に訪れるはずだったが、ここにも寄る時間がなかった。妻が美ら海水族館を訪れたついでに寄りたいと願っていたにもかかわらず。

そこで、大泊ビーチの帰りに見かけた勝連城跡に寄った。何の予備知識もなく立ち寄った勝連城跡だが、思いのほか素晴らしかった。私にとって今回の旅のクライマックスの一つは、間違いなく、ここ勝連城跡だ。

この勝連城は、阿麻和利の居城だった。阿麻和利とは、琉球がまだ三山(南山、中山、北山)に分かれ、群雄が割拠していた十四世紀に活躍した人物だ。

今回の旅の九カ月前、私は沖縄を一人で旅した。そして旅の後、私は何冊かの沖縄関連書を読んだ。その中の一冊<本音で語る沖縄史>は琉球の通史について書かれていた。私はその本によって今まで知らなかった近代以前の沖縄を教わった。阿麻和利。その名前を知ったのもその時だ。それまで、本当に全く知らなかった。阿麻和利の乱はその本では一章を費やして書かれており、私の中に強烈な印象を残した。琉球の歴史で欠かせない人物。それが阿麻和利だ。

ところが肝心の阿麻和利の乱の舞台の名前を忘れていた。その舞台こそ、ここ勝連城。私が場所の名前を忘れていたのは、十五世紀の城ゆえ、居館に毛の生えた程度だろうと勝手に軽んじていたからに違いない。ところがどうだ。勝連城の堂々として雄大な構え。日本本土の城にも引けを取らない威容。私は勝連城によって、琉球のスケールを小さく見積もっていたことを知らされた。それとともに、これほどの城を築いた阿麻和利への認識もあらためなければ、と思った。

勝連城を登り、本丸に相当する広場からみた景色は実に素晴らしかった。南ははるかに知念岬を望み、東は平安座島や浜比嘉島が浮かぶ。西や北は沖縄本島のなだらかな山々が横たわり、琉球の歴史を物語っている。勝連城とは琉球の島々だけでなく、琉球の歴史を一望できる地だったのだ。城跡に立ったことで、私はもう一度琉球の歴史をおさらいしたいと思った。

本書には豊富な写真が載っている。それらの写真の威容とわが目に刻んだ勝連城のスケールを照らし合わせながら、琉球の歴史をおさらいした。本書を読んだのは沖縄の旅の間。旅の頼れる相棒として、るるぶと共に私の役に立ってくれた。

琉球の歴史とは、日本の歴史の縮図だと思う。

狭い島国の中で群雄が相撃った歴史。中国大陸、そして太平洋の彼方からの文化を受け入れ、そこからの圧力に抗う地勢。圧倒的な文化の波をかぶり、文化に侵された宿命。基地を背負わされ、占領の憂き目にもあった経験。そうした特色も含めて日本を小さくしたのが沖縄だといえる。

もう一つ言うならば、沖縄の歴史は日本に先んじていると思う。例えば日本の戦国時代より前に三山の戦乱が起こり、日本よりも前に統一が成し遂げられた。日本よりも前にペリー艦隊が来航し、日本よりも前に軍政下に置かれた。沖縄戦もそう。御前会議の場で終戦の聖断がなければ、日本は沖縄に続いて地上戦に巻き込まれていたかもしれない。 とすれば、私たち本土の日本人が琉球の歴史や文化から学べるものはあるのではないだろうか。

本書で琉球の歴史を学ぶことで、私たちは琉球の歴史が日本に先んじていることを悟る。そして、今の沖縄の現状は日本本土の未来である可能性に思い至る。三山の並立やグスク時代、第一、第二尚氏王朝の統治など、琉球の歴史が日本にとって無視できないことを知り、写真からその栄華を想像する。ただし上に書いた通り、スケールは写真だけではらわからない。実物を見て、なおかつ本書を読むべきだ。すると琉球の歴史が実感と文章の両面から理解できる。

だから、本書は旅のハンドブックとして適している。それも、戦跡や海や沖縄の食文化を味わう旅ではなく、御嶽やグスクといった沖縄の歴史を学ぶ旅において役に立つはずだ。次回、沖縄へ行く機会があれば、本書を持っていきたいと思う。

また、本書は琉球王国の終焉、つまり、明治11年の琉球仕置で幕を閉じている。著者はこの処置について、誰にとっても利のない最悪の処置だったと嘆く。日本編入が果たして沖縄にとってどのような現実をもたらしたか。ソテツ地獄や沖縄戦、米軍政やその後の基地問題だけを見れば、あるいは琉球王国が続いていたほうが沖縄にとってはよかったのかもしれない。だが、その一方で熾烈な国際関係の中では琉球は生き残れず、いずれはどこかの国に併合されていた可能性だってある。過去は過去で、いまさら覆すことはしょせん不可能。

であれば、未来を見るしかない。未来を見るには現在を見据えなければ。沖縄の現在が将来の日本の姿を予言している。その可能性は誰にも否定できない。本書を通して日本の未来を占うためにも、本書は存在価値があるのだと思う。

‘2018/03/26-2018/03/30


黙示録


著者の作品を読むのは『テンペスト』以来久しぶりとなる。
テンペスト 上 レビュー
テンペスト 下 レビュー

なぜ4年も遠ざかっていた著者の作品を読もうと思ったか。それは、著者の作品に魔術的リアリズムがあるとの評を見掛けたためだ。先日、寺尾氏の『魔術的リアリズム』を読み、深い感銘を受けた (レビュー)。それを契機に改めて魔術的リアリズムの系譜に連なる我が国の作品を探してみた。すると、著者の作品が引っかかって来た。

そう言われて初めて『テンペスト』にも魔術的リアリズムを思わせる描写があった事を思い出した。 ただ、初めて触れた著者作品 『テンペスト』 の全てに好印象を抱いた訳ではない。沖縄の歴史を細かく、そして大胆に描く構成は良かった。だが、地の文と遊離したせりふのわざとらしいポップさはいささか鼻に付いた。『テンペスト』には今から思うと魔術的リアリズムの魅力が詰まっていたように思う。だが、不自然さを感じさせる文体を欠点として目をやってしまい、そういった作品の魅力的な側面を見逃していた。それもあって、著者の他の作品に食指が動かなかった。

本書は4年ぶりに読む著者作品となる。本書を読むにあたっては、魔術的リアリズムの描写に注目しながら読み進めた。

本書は琉球舞踊の組踊を取り上げている。玉城朝薫によって創始された琉球舞踊。芸術としての琉球舞踊が真に成立したのは、玉城朝薫の才能によるところが多いという。そして朝薫が活躍した時期、琉球王朝には蔡温という名宰相が、琉球国の基盤を作ろうとしていた。18世紀の頃だ。

清の朝貢国でありながら薩摩藩に侵略された琉球国。それによって清と徳川幕府の二重属国の立場に甘んじていた。そんな祖国を真に独立した国として、さらには世界の中心として輝かせたい。蔡温の野望は大きい。蔡温、朝薫の二人とも、目指すのは琉球の存在意義を周辺国に向け打ち立てることだ。それには清にも大和にも負けない琉球国の威厳を豊饒な文化によって示す。豊饒な文化とは、歌舞音曲によって評価されることが多い。つまり、琉球に独自の歌舞音曲である、組踊を創始すればよい。玉城朝薫は、組踊を創始した偉大な才能である。だが、いくら歌と踊りが創作されても、それらは演者がいてこそ。その踊りの体現者こそが、本書の主人公である蘇了泉であり、そのライバル雲胡である。本書では了泉と雲胡が切磋琢磨しながら踊りの粋を極めていく姿が描かれる。

本書にも『テンペスト』で鼻に付いた誇張されたせりふ回しは健在だった。このせりふ回しによって、主人公が発するせりふが地の文の流れから浮いてしまう。その浮き加減をコミカルで漫画的な読みやすさとして評価する方もいるだろう。が、やはり私にとっては気になった。

とはいえ、本書からは『テンペスト』で感じたようなセリフと血の文の浮き沈みが感じられなかった。本書において、蘇了泉の心は静から動へ幾度も浮き沈みを繰り返す。それは躁鬱とすら思わせるほどの起伏だ。確かに、躁状態の蘇了泉が発するせりふは地の文から浮いて走り回っていた。だが、低いテンションの時のせりふ回しは地の文に足が着いていたといえる。その時、物語のテンポと主人公の心の動きは見事に一致していた。テンションが高い時は、主人公の高揚や躁的な気分を表していると思えば納得して読み進められた。

一方、本書にちりばめられた魔術的リアリズムの手法も確かめた。まだ幾分、躁状態のせりふ回しには 落ち着かなさを感じた。とはいえ、 全体的にはとても効果的に魔術的リアリズムの手法が使われていたと思う。了泉の跳躍が少しずつ空へと飛翔するかのような描写。江戸への琉球使節団団長の御歳130歳の妖怪のような姿。彼の部屋はカビが覆い、床は腐って抜け落ち、少年を歪んだ性の欲望として漁る。そして全く気配を悟らせぬ江戸の瓦版屋の銀次。彼はどこでも神出鬼没に現れる特技の持ち主。彼らの描かれ方は、誇張が与える劇的な効果を確実に本書にもたらしていたと思う。そして本書でもっとも魔術的リアリズムが感じられた描写といえば、了泉と雲胡の踊りだ。二人が舞台で演ずる舞踊は人々を観客席から違う世界へといざなってゆく。 彼らの踊りが人に与える様の描写は、魔術的リアリズムの本分を発揮していたといえるだろう。

寺尾隆吉氏の著書によれば、魔術的リアリズムの定義とは「 非日常的視点を基盤に一つの共同体を作り上げ、そこから現実世界を新たな目で捉え直す」ことだという。ここでいう共同体を本書に移し替えれば琉球の人々が該当するはずだ。また、リアリズムとは、江戸幕府と清の間で二重朝貢を余儀なくされる琉球の現実のこととらえてよいだろう。琉球の存在意義を、独自の文化、特に独自の舞踊に託そうとする思い。琉球が背負う地政の宿命と、そこから次の世界へと琉球を導こうとする朝薫や蔡温の生き方は、リアリズムと呼ぶに値する。そんなリアリズムをしっかりと描きながら、真摯な舞踊が与える感動を、現実から逸脱した描写で描き出す手法は、確かに本書に効果を与えていた。

本書の中には人々のつづる漢文詩や、ウチナーンチュ(琉球語)による美しい歌詞が随所に登場する。それらは、大陸文化と大和文化が交わり、独自の進化を遂げた琉球文化の豊かさを存分に意識させる。そんな文化的土壌をしっかりと描きつつ、その成果として、組踊の持つ果てしない可能性をしっかりと語っているのが本書の魅力なのだ。

本書を読み終えて一年後、私は沖縄の地を22年ぶりに訪れた。その際、沖縄第一の聖地として知る人ぞ知る斎場御嶽にも訪れた。なぜ私が斎場御嶽を訪れようと思ったか。その答えの一端は本書の中にある。

踊りの魅力を文章で現す。それは実際のところ、至難の業ではないだろうか。音楽と動きの融合芸術である舞踊は、単に文章に落とし込むだけではその魅力は伝わらない。しかし、本書はそんな難問の答えに限りなく近づいているように思える。本書で描かれた組踊の奥深さや魅力は、私のような踊りの門外漢にもしっかりと伝わった。そればかりか、踊りを描くには魔術的リアリズムの描写こそ最適であることも知った。芸術や芸能を描いた作品として、本書の名前は忘れないだろう。私の中でしっかりと刻み付けられたのだから。

琉球の地理的な位置。華やかな宮廷生活とさげすまれるニンブチャーという身分の人々の現実。そういった琉球の光と影を描き出し、そこに踊りのあでやかな描写で彩った本書は、沖縄を描いた傑作といえる。私は著者が『テンペスト』に描いた沖縄よりも、本書で描かれた沖縄にこそ惹かれる。22年ぶりの沖縄訪問にあたっては、本書で知った組踊にも少しは触れたかった。だが、時間がそれを許さなかった。次回の訪問時にはぜひ組踊を鑑賞してみようと思う。

‘2016/07/11-2016/07/15


テンペスト 下 花風の巻


本書は日本と清国に翻弄された琉球の歴史が舞台だが、琉球の埋もれようとする歴史以外に著者が問うているのは、ジェンダーとしての性についてである。

女であるがゆえに科試を受けることのできない主人公が、宦官として科試に合格し、役人として生きていき、科試に挫折した主人公の兄は女形としての人生を選ぶ。主人公は後に役人でありながら、王に気に入られ後宮に入って王の子をなす別の人生も同時に生きる。

かなり荒唐無稽な設定と筋立てであるが、思い切った設定によって、かえって本書が性の平等をなくすことがどれだけ難しいかについて、問題提起しているように思える。性別による差別をなくすことと、性別を超越して活躍することは別であることを示している。

男女関係なく、能力がある人は登用すべきだし、活躍すべきだが、生物として限界があるのもまた事実。

本書で主人公の波乱万丈な女としての一生に、性というものの不思議さと、社会が被せる不条理な規制を考えてみるのもよいかもしれない。

’12/04/04-12/04/05


テンペスト 上 若夏の巻


本書については、賛否両論あると思う。

会話や地の文、登場人物の言動が戯画化されすぎているという短所についてはもっともかもしれない。主人公の行動についても、あれでばれないのはおかしい、とあまりに現実離れした内容への批判もあると思う。

私はそれらの短所も、本書で訴えたい内容をどうやって活字離れが著しい読者に対して届けるか、という著者の苦心の跡と前向きにとらえたい。

本書は薩摩藩に搾取されていた琉球の、朝貢先である日本の幕末から開国の歴史に翻弄される様が描かれている。そのころの琉球は、日本の情勢だけでなく、アヘン戦争をはじめとした列強からの侵略の渦に巻きこまれる清国の情勢をもにらんだ二重外交を駆使せねばならず、それにも関わらず、時流に抗することはできず、琉球処分を受けて、尚氏王朝とともに日本の支配下に入る。

多くの日本人が沖縄に持つ負い目とは、太平洋戦争時の沖縄戦と、その後の米軍統治、米軍駐留の今に至る歴史についてだろう。だが、それだけではないことを著者は本書で指摘したかったのではないだろうか。つまり、琉球処分で強引に琉球を日本の支配下においた経緯を、今の日本人に対してどうやって目を向けさせるか、を考えた結果、重い内容と釣り合いをとるために軽い言動や文章にしたのでは、と考える。

著者の作品は本書が初めてで、他の著書を読んでいないため、ひょっとしたら的外れな感想かもしれないが、読んでから半年以上経つ今も、琉球外交に苦心する主人公と、琉球王朝の陰湿な人間関係の様が印象に残っているため、あながち著者の狙いも的外れではなかったのかもしれない。

’12/04/01-12/04/03