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境界なき土地


著者の『夜のみだらな鳥』は傑作と言うべき作品だった。読者の時空ばかりか道徳をも失わせるような内容にはとても衝撃を受けた。ただ、一方で凝りに凝った複雑極まる構成のため、読むのにとても骨が折れたことを覚えている。一言でいうと難解な小説だ。

それ以来、久々に読む著者の小説が本書だ。ところが、本書はとても読みやすい。時間軸は一度回想シーンが挟まれるだけ。挟まれる場所もせいぜい二カ所ほど。『夜のみだらな鳥』に比べると、本書の読みやすさは段違いに思える。

ところが本書を人畜無害な内容と思うのは早計だ。本書もまた、一筋縄では行かない側面を持っている。それはジェンダーおよびセックスの観点だ。この二つは本作の中で曖昧に取り扱われる。それが読者を惑わせる。『夜のみだらな鳥』に登場するような奇形児は出てこないため毒は幾分薄い。だが、本書の中で描かれる性の混乱は、本作を異色にしている。タイトルには『境界なき土地』とあり、描かれる舞台も境界などなさそうに思える。だが、本書が指す境界の対象とは間違いなく「性」のはずだ。本作が出版された1966年は、今のようにトランスジェンダーや性同一性障害といった認識も薄い。だから本作は相当に衝撃を与えたことだろう。

本作の舞台はある娼館だ。あるくたびれた街エスタシオン・エル・オリーボ。ワイン醸造所が移転してしまい、今にも消え去りそうな街。そこに娼館はある。娼婦たちが住まい、そこを訪れる客。町の住民や街の顔役として存在感を発揮する男。本書の登場人物は一見するとまともだ。ところがそこに住まう娼婦、とくに主人公として娼館を統べるマヌエラの性別が曖昧に描かれている。そんなマヌエラに執心するパンチョ・ベガは明らかに男。マヌエラの年齢もかなり老を食っていることがほのめかされる。そんなマヌエラに執心するパンチョが異様に映る。

彼の執心が一体どこからくるのか。そしてマヌエラの心は雌雄どちらにあるのか。また、マヌエラの過去になにがあったのか。街の顔役、そして代議士のドン・アレホはこの街をどうしたいのか。それらの設定と展開は読者の興味を引き止めることに成功している。読者を惑わせるというよりは、読者に性の曖昧さを伝えることが本書の眼目であるかのようだ。

本書の冒頭にクリストファー・マーロウの戯曲『ファウスト博士』の一節が引用されている。

ファウスト まずは地獄についてお聞かせ願おう。
人間たちが地獄と呼ぶ場所はどこにあるのだ?
メフィストフェレス 空の下だ。
ファウスト それはそうだろうが、場所はどこなのだ?
メフィストフェレス 様々な要素の内側だ。
我らが拷問を受けながら永久にとどまる場所。
地獄に境界はないし、一カ所とはかぎらない。
地獄とは今我らが立つこの場所であり、
この地獄の地に、我らは永久に住み続けることになるのだ・・・・・

この詩を引用したということは、著者は性そのものを地獄と読み替えていた節がある。性の欲望こそが地獄なのだと。しかもその地獄には境界がなく、果てもない。実は外部から区分けがされていて、人がそのなかで過ごせていればどれだけよいか。だが、その区分けが取っ払われた時、人はどれほどの苦痛を感じるのか。とりとめのなく、漂うような不安。踏みしめる大地もなく、よって立つ柱もない現実が人にどれほどストレスを与えるのか。『境界なき土地』とは、人から基準が取り上げられた時の苦痛であり、自らの人生から基準が喪われた時の地獄を指しているのかもしれない。

時代はまだLGBTの理解もなく、あいまいな性が人々に眉をひそめられていた時期だ。だからこそこのような形で描かれた性に興味を持つ。このころのラテンアメリカにはこういう性の取り上げ方は許されていたのだろうか。そして、あえてマヌエラを少しグロテスクな描写にしたのは、当時の性のアブノーマルさが受け入れられなかったということなのだろうか。その苦痛を著者は『境界なき土地』という言葉で表しているのだと思う。

おそらく実際は当時のラテンアメリカにも性的マイノリティの方は多数いて、ある程度は受け入れられていたのかもしれない。しかし、かなり白眼視もされ、場合によっては迫害も受けていたのかもしれない。マヌエラの描かれ方からそんなことを想った。

今の日本ではLGBTがだいぶ知られてきている。だが、このような内容の本がそれほど支持を受けるとは思えない。まだまだキワモノとして受け取られているような気がする。実は日本のLGBTを巡る事情も、当事者に言わせればまだまだ地獄に近いのかもしれない。

あとがきに訳者が、著者の人物を襲ったスキャンダラスな部分を少し紹介している。『夜のみだらな鳥』の異常で衝撃的な描写は、著者の実体験から描かれていたことがわかる。それとともに、本書の曖昧な性の問題も、著者の実像から抽出されたのだろう。これは読みやすい分、くわせものの小説だ。

‘2017/12/11-2017/12/18