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府中三億円事件を計画・実行したのは私です。


メルカリというサービスがある。いわゆるフリマアプリだ。
私が初めてメルカリを利用した時、購入したのが本書だ。

本書はもともと、小説投稿サイト「小説家になろう」で800万PVを記録したという。そこで圧倒的な支持を得たからこそ、本書として出版されたに違いない。
あらゆる意味で本書が発表されたタイミングは時宜にかなっていた。
発刊されたのが事件から50年という節目だったことも、本書にとっては追い風になったことだろう。本書を原作とした漫画まで発表され、ジャンプコミックスのラインアップにも名を連ねた。
私も本書には注目していた。なのでメルカリで数百円のチケットを得、本書の購入に使った。

本書は、犯人の告白という体裁をとっている。
事件から50年の月日がたち、真相を埋れさせるべきではないと考えた老境の犯人。彼は妻が亡くなった事をきっかけに、息子に自らの罪を告白した。
親の告白を真摯に受け止めた息子は、これは世に公開すべき、と助言した。
助言するだけでなく、息子は親の告白をより効果的に公開できるように知恵を絞った。身分が暴露されないように、なおかつ告白の内容が第三者に改変されないように。
その熟慮の結果、息子がえらんだ手段とは、小説投稿サイトに投稿し、世間に真実を問うことだった。実に巧妙だ。
その手段は、本書の発表の時期、媒体、内容を選んだ理由に説得力を与えている。さらに、その説得力は本書に書かれた事件の内容が三億円事件の真実かもしれない、と読者を揺るがす。
本書の文章や文体はいかにも小説の書き方に慣れていない人物が書いたようだ。この素人感がまた絶妙なのだ。なぜなら著者は小説家になりたいわけではなく、自らの罪を小説の体裁で世に出したかっただけなのだから。
文中でしきりと読者に語りかけるスタイル。それも、今の小説にはあまり見られない形式であり、この点も著者の年齢を高く見せることに成功している。

だが、そうした記述の数々が不自然という指摘もある。
そうした疑問の数々に答えてもらおうと、BLOGOS編集部が著者にメールでインタビューし、コメントをもらうことに成功したらしい。
こちらがその記事だ。
それによると、著者が手書きで書いた手記を、息子がデータに打ち直し、なおかつ表現も適切に改めているらしい。そうした改変が、70才の著者が書いたにしては不自然な点がある、という指摘を巧妙にかわしている。実に見事だ。

何しろ、三億円事件と言えば日本でもっとも有名な未解決事件と言っても過言ではない。
有名なモンタージュ写真とともに、日本の戦後を語る際には欠かせない事件だといえる。

それほどまでに有名な事件だけあって、三億円事件について書かれた小説やノンフィクションは数多く出版されている。
私にとっても関心が深く、今まで何冊もの関連本を読んできた。

なぜそれほどまでに、三億円事件が話題に上るのか。
それは、事件において人が陰惨に殺されなかったからだろう。
さらに、グリコ・森永事件のように一般市民が標的にならなかったこともあるかもしれない。
ましてや、保険金が降りた結果、日本国内では損をした人間がほぼいなかったというから大したものだ。
あえて非難できるとすれば、長年の捜査によって費やされた税金の無駄を叫ぶぐらいだろうか。

三億円事件は公訴時効も民事時効もとっくに過ぎている。今さら犯人が名乗り出たところで、犯人が逃亡期間を海外で過ごしていない限り、逮捕される恐れもない。
つまり、三億円事件とは、犯罪者の誰もがうらやむ完全犯罪なのだ。
その鮮やかさも、三億円事件に対する人々の関心が続いている理由の一つだろう。

そんな完全無欠の犯罪を成し遂げた犯人だと自称する著者。その筆致は、あくまでも謙虚である。
そこには、勝ち誇った者の傲慢もなければ、上り詰めた人間が見下す冷酷もない。逃げ切った犯罪者の虚栄すらもない。
本書の著者から感じられるのは、妻を失い、後は老いるだけの人生に寄る辺を失わんとする哀れな姿のみだ。

あれほどの犯罪を成し遂げた人でも、老いるとこのように衰える事実。
老いてはじめて、人は若き日の輝きを眩しく思い返すという。だが、本書から感じられるのは輝かしさではない。哀切だ。誰も成し遂げられなかった犯罪をやり遂げた快挙すら、著者には過ぎ去った哀切に過ぎないのだろう。

1968年といえば学生運動が盛んだった時期だ。当時の若者は人生の可能性の広大さに戸惑い、何かに発散せずにはいられなかった。現代から見ると不可解な事件が散発し、無軌道な衝動に導かれた若者たちが暴れていた。中核派が起こしたあさま山荘事件や、日本赤軍がテルアビブ空港で起こした乱射事件。東大安田講堂の攻防戦など、現代の私たちには到底理解できない衝動。その衝動は本書の著者いわく、犯行のきっかけにもなっているという。
若さを縦横にかけまわり、何かに対してむやみに吠え立てていた時期。そうした可能性の時期を経験したにもかかわらず、老いると人はしぼむ。
本書の内容が歴史的な事実がどうかはさておき、本書から得られる一番の収穫とは、無鉄砲な若さと老いの無残の対比だろう。
それが、手練れの文章ではなく、素人が描いた素朴な文章からつむぎだされるところに、本書の良さがあると思う。

著者から感じられる哀切。それは、著者がいうように、犯罪を遂行する過程で人を裏切ったことからきているのだろうか。
そもそも、本書に書かれていることは果たして真実なのだろうか。
そうした疑問も含め、本書はあらゆる角度から評価する価値があると思う。
文章に書かれた筋書きや事件の真相を眺め、それだけで本書を評価するのは拙速な気がする。
発表した媒体の選定から、読者の反応も含め、本書はメディアミックスの新たな事例として評価できるのではないだろうか。

さきに挙げたBLOGOSのインタビューによると、著者は本書の後日談も用意しているという。
たとえば犯罪後、関西で暮らしたという日々。そこでどうやって盗んだ紙幣を世に流通させずに過ごせたのか。そもそも強奪した紙幣のありかは。
そうした事実の数々が後日談では描かれるという。
他にも本書で解決されなかった謎はある。
たとえば、本書に登場する三神千晶という人物。この人物は果たして実在する人物なのか、というのも謎の一つだ。これほどまでにできる人間が、その後、社会で無名のまま終わったとは考えにくい。本書はその謎を解決させないまま終わらせている。
だが、当該のインタビュー記事から1年半がたとうとする今、いまだに続編とされる作品は出版されていない。
そもそもの発表の場となった小説家になろうにも続編は発表されていないようだ。

NEWSポストセブンの(記事)の中で、本書の内容に対して当時捜査本部が置かれた府中署の関係者にコメントを求めたそうだ。だが、「申し上げることはありません」と語ったそうだ。

願わくは、後日談が読みたい。
続編がこうまで待ち遠しい小説もなかなかあるまい。

‘2019/02/03-2019/02/04


売文生活


興味を惹かれるタイトルだ。

本書を一言でいえば、著述活動で稼ぐ人々の実態紹介だ。明治以降、文士と呼ばれる業種が登場した。文士という職業は、時代を経るにつれ名を変えた。たとえば作家やエッセイスト、著述業などなど。

彼らが実際のところ、どうやって稼いでいるのか、これを読んでくださっている方は気にならないだろうか。私は気になる。私は勤め人ではないので、月々のサラリーはもらっていない。自分で営業してサービスを提供して生計を立てている。そういった意味では文士とそう変わらないかも。ただ、著述業には印税という誰もが憧れる収入源がある。IT業界でも保守という定期収入はある。だが、保守という名のもと、さまざまな作業が付いて回る。それに比べれば印税は下記の自分の労働対価よりもよりも上回る額を不労所得としてもらえる。私も細々とではあるが、ウェブ媒体で原稿料をいただいている。つまり著述業者でござい、といえる立場なのだ。ただ印税はまだもらったことがない。そうとなれば、著述業の実態を知り、私の身の丈にあった職業かどうか知りたくなるというもの。

といっても本書は、下世話なルポルタージュでもなければ、軽いノリで著述業の生態を暴く類いの本でもない。本書はいたって真面目だ。本書で著者は、著述業の人々が原稿料や印税について書き残した文章を丹念に拾い、文士の生計の立て方が時代に応じてどう移り変わってきたかを検証している。

著述を生業にしている人々は、収入の手段や額の移り変わりについて生々しい文章をたくさん残している。文士という職が世に登場してから、物価と原稿料、物価と印税の関係は切っても切れないらしい。

だが、かの夏目漱石にしても、『我輩は猫である』で名を高めたにも関わらず、専属作家にはなっていない。五高教師から帝大講師の職を得た漱石。のちに講師の立場で受けた教授への誘いと朝日新聞社の専属作家を天秤にかけている。そればかりか、朝日新聞社への入社に当たっては条件面を事細かに接触しているようだ。著者は漱石が朝日新聞社に出した文面を本書で逐一紹介する。そして漱石を日本初のフリーエージェント実施者と持ち上げている。ようするに、漱石ですら、筆一本ではやっていけなかった当時の文士事情が見てとれるのだ。

そんな状況が一変したのは、大正デモクラシーと円本の大ヒットだ。それが文士から作家への転換点となる。「作家」という言葉は、字の通り家を作ると書く。著者は「作家」の言葉が生まれた背景に、文士達が筆一本で家を建てられる身分になった時代の移り変わりを見てとる。

文士、転じて作家たちの急に豊かになった境遇が、はにかみや恥じらいや開き直りの文章の数々となって書かれているのを著者はいたるところから集め、紹介する。

そこには、夏目漱石が文士から文豪へ、日本初のフリーエージェントとして、文士の待遇改善を働きかけた努力の結果だと著者はいう。さらにその背景には漱石が英国留学で学んだ契約社会の実態があったことを喝破する。これはとても重要な指摘だと思う。

続いて著者が取り上げるのは、筒井康隆氏だ。氏は今までに何度も日記調のエッセイを出版している。そのあからさまな生活暴露や、摩擦も辞さない日記スタイルは、私にも大きく影響を与えている。筒井氏は、日記の中で原稿料についても何度も言及している。本書で著者が引用した箇所も私に見覚えがある文章だ。

筒井氏は、長らくベストセラーとは無縁の作家だった。けれども、才能と着想の技術で優れた作品を産み出してきた。筒井氏のブログ「偽文士日録」は私が読んでいる数少ないブログの一つだが、その中でも昨今の出版長期不況で部数が低下していることは何度も登場する。

著者は、フィクション作家として筒井康隆氏を取り上げるが、ノンフィクション作家もまな板にのせる。立花隆氏だ。多くのベストセラーを持つ立花氏だが、経営感覚はお粗末だったらしい。その辺りの事情も著者の遠慮ない筆は暴いていく。立花氏と言えば書斎を丸ごとビルとした通称「猫ビル」が有名だ。私も本書を読むまで知らなかったのだが、あのビルは経営が立ちいかなくなり売却したそうだ。私にとって憧れのビルだったのに。

著者はこの辺りから、現代の原稿料事情をつらつらと述べていく。エピソードが細かく分けられていて、ともすれば著者の論点を見失いそうになる。だが、著者はこういったエピソードの積み重ねから、「文学や文士の変遷そのものではなく、それらを踏まえた「ビジネスモデルとしての売文生活」(229p)」を考察しようとしているのだ。

サラリーマンをやめて、自由な立場から筆で身をたてる。独立した今、私は思う。それはとても厳しい道だと。

著者はいう。「明治から昭和に至るまで、文士が生きてゆくためには、給与生活者を兼ねるのがむしろ主流でした。しかし、家計のやりくりにエネルギーを削がれず、文士が思うまま執筆に専念できるための処方としては、スポンサーを見つけるか、恒常的に印税収入が原稿料を上回るようになるかしかありませんでした。(233p)」。著者の考えはまっとう至極に思える。本書の全体に通じるのは、幻想を振りまくことを自重するトーンだ。「それだけの原稿料を払ってでも載せたい、という原稿を書いていくほかないのではないでしょうか。あるいは、採用される質を前提として量をこなすか、単行本にして印税を上乗せし実質的単価を上昇させてゆく(237p)」。著者の結論はここでもただ努力あるのみ。

本書は作家への道ノウハウ本でもなければ、印税生活マンセー本でもなく、ビジネスモデルとしての売文生活を考える本だ。となれば、著者がそう結論を出すのは当然だと思う。

お金か自由か。本書が前提とする問いかけだ。そして、著者はその前提に立って本音をいう。お金も自由も。両方が欲しいのは全ての人々に共通する本音のはず。無論私にとっても。

だからこそ、努力する他はないのだ。お金も自由も楽して得られはしない。それが本書の結論だ。当たり前のことだ。そしてその実現に当たって著者が余計な煽りも幻想も与えないことに誠実さを感じた。

あと一つ、著者は意識していないと思うが、とてもためになる箇所がある。それは著者が自分がなぜ何十年も著述業を続けられているのか、についてさらっと書いている箇所だ。私はそこから大切な示唆を得た。そこで著者は、自身が初めて原稿料をもらった文章を紹介している。そして、自ら添削し批評を加えている。「今の時点で読み返してみると、紋切り型の筆運びに赤面するほかありません」(14p)と手厳しい。その教訓を自ら実践するかのように、本書の筆致には硬と軟が入り交じっている。その箇所を読んで思った。私も紋切り型の文章になっていないだろうか、と。見直さないと。堅っくるしい言葉ばっか並べとるばかりやあらへん。

私もさらに努力を重ねんとな。そう思った。

‘2016/12/15-2016/12/16


犯罪小説家


本書はタイトルの通り、小説家が主人公だ。

小説家、待居涼司は「凍て鶴」によって作家として日の目を浴びたばかり。「凍て鶴」は評価され、映画化の話も持ちこまれる。受賞作家のもとには、さまざまな人物があいさつに訪れるが、映画化で監督・脚本・主演に名乗りを挙げた小野川充もその一人。

小野川の軽さに自分と相いれない性格を感じた待居。さらに小野川の脚本案は、独自の解釈が施されている。その解釈は、原作者待居の思惑を超えている。小野川に反りの合わなさを感じる待居はその脚本案を素直に受け入れられない。原作では憎悪をこめた殺害で終わるラストを心中と読み替えた小野川の案は、小野川の個人的な思いに影響されすぎていやしないか。しかも、小野川は「凍て鶴」の舞台を勝手に待居の住む多摩沢だと決めつける。多摩沢公園に脚本のインスピレーションを求めるため、あろうことか多摩沢に住居まで移してしまう。

小野川のペースに翻弄されいらだつ待居。そんな待居の気持ちをさらに逆なでするように、小野川は脚本に現実に起こった事件をモチーフとして持ち込もうとする。その事件とは、木ノ瀬蓮美が主催する落花の会によって引き起こされた。落花の会とは、自殺サークルのことだ。周到に準備を重ね、会員の自殺を成就させるのが目的の会は、多摩沢公園で主催の木ノ瀬蓮美が水死体で浮かぶことで終息を迎える。

小野川は、「凍て鶴」脚本のラストを心中で終わらせるのが最善と確信する。そしてそのためには落花の会について詳しく調べなければならないと待居や編集担当の三宅に力説する。小野川の想いは口だけにとどまらず、ライターの今泉知里に落花の会を調べさせるまでに至る。

そして本書は、今泉知里の調査によって自殺ほう助サイトの実態に入り込む。落花の会は木ノ瀬蓮美の死によって活動を停止した。だが、当時を知る幹部が何人か詳しい事情を知っているはず。ネット上に残されたログを追いながら、今泉知里は少しずつ落花の会の暗部に迫ってゆく。

本書は、犯人側の視点で語りを進める倒叙型でもなく、捜査側から語りを進める叙述型でもない。それが本書全体にどことなく曖昧さを与えている。そのあいまいさは一読すると本書の抱える欠点と思ってしまう。だが、そうではない。実際、本書の犯人像は早い時点で読者には見当がついてしまうだろう。しかし、ある程度読み進めても最後まで著者はそのあいまいさを崩さない。そしてそのあいまいさとは、犯人側ではなく捜査側にも当てはまるのだ。終わり近くになって明かされる捜査側の意図の意外さにきっと驚くことだろう。

そしてそこに、芸術という表現形式がはらむ狂気が顔を見せるのだ。小説と映画。二つの表現形式のはざまにあるものの違いといってもよいかもしれない。多分、それは本書は一度読んだだけでは気付かないと思う。二度読まないと。

‘2016/08/25-2016/08/29


こころの王国―菊池寛と文藝春秋の誕生


著者はよく作家を題材とした評伝を書く。例えば太宰治や三島由紀夫、川端康成といった大正から昭和にかけての文豪について。上にあげた三名は、自ら人生に結末をつけたことでも知られている。著者が題材として選ぶにあたり、どういった基準を設けているのかは知らない。が、三名とも波乱万丈で個性的な一生であったのは確かだ。死すらも自らの意思でコントロールしようとする自我の強さは、著者にとって取り上げやすい対象だったのだろう。

本書では、菊池寛を取り上げている。菊池寛もまた、大正から昭和にかけての文豪である。が、上にあげた三氏とは違い、最後は病で命を落としている。さらに菊池寛は、文藝春秋の創設者という作家以外の顔をもっている。つまり三氏に比べて少しだけ俗世に近い位置で活躍していたのが菊池寛といえる。それが災いしたのか、十数年前に「真珠夫人」がテレビドラマ化された以外はほとんどの作品が顧みられることなく埋もれてしまっている。

そんな菊池寛を書くにあたり、著者の採ったアプローチは女性秘書の視点、しかも女言葉の文体で菊池寛を描ききることだ。かなり思いきった挑戦だと思う。そして、著者は本書を見事な成果物として形にしている。

私自身、この様な体裁の評伝は初めて読む。そして、菊池寛の著作自体、今まで一冊くらいしか読んだことがない。そんな私からみても、女性秘書の視点から描いた菊池寛は、実像の一端を伝えていると思わせるものがある。

私はかつて、高松市にある菊池寛資料館を訪問したことがある。二十年近く前なので、苦労して小説家として名を成した経歴は印象に残っているが、展示内容は大方忘れてしまった。菊池寛資料館は、少し硬めの展示スタイルだったように覚えている。本署のような女言葉による思い切ったスタイルで展示を書き直したら今の読者に興味を持ってもらえるかもしれないし、もう少し展示内容にも印象を持って覚えてもらえるかもしれないと思った。

本書は語り手である秘書の「わたし」が、近くで先生の一挙手一投足を見る視点で描かれている。先生こと菊池寛の日常を描写することで、菊池寛の人となりをあぶり出そうとする。「わたし」は、先生の執筆活動の調べものをすることになり、夜毎先生の夕食のお供に方々連れ回される。そのうち、「僕は五十で死ぬ。五十になるまで僕のそばにいてください」の言葉にほだされ、愛人として過ごすことになる。その一方では、雑誌モダン日本の編集長として実在したマーさんこと馬海松の恋人としての日々を送ることになる。そのような日々を送る中、先生の調べものをするうちに、先生の発表した「半自叙伝」に巡り合うことになる。それをきっかけとして、マーさんの助けを借りながら先生の挫折の前半生を調べることになる。かくして、読者は「わたし」の視点で菊池寛の人柄に触れ、「半自叙伝」を通して菊池寛の作家となるまでの挫折のエピソードを知ることになる。

香川から上京するも、濡れ衣から落第を余儀なくされ、京大の学生となる青年期。京大で詩人の上田敏に師事するも、文筆家としては無視され続けた京都時代。上田敏からの示唆を受けて図書館でアイルランド戯曲を読み耽り、物語の紡ぎかたを体得し再び東京へ戻った転換期。夏目漱石の漱石山房に入り浸って知遇を得るも、先に知遇を得ていた芥川龍之介のみが激賞され、自らの作品は酷評される挫折期。

本書はここで「葬式に行かぬ訳」という菊池寛の書いた文章を例に挙げて夏目漱石への辛辣な感情を披露する。本書のタイトルは「こころの王国」と付けられている。これは菊池寛の出した短編集「心の王国」を踏まえて付けたのだろう。そして「心の王国」自体、夏目漱石の「こころ」を念頭に置いて付けられたのではないかと著者は推測する。当時の文壇の大御所であった夏目漱石に対する菊池寛の複雑な想いは、本書の中盤133ページから215ページまでの全体の三分の一を使って念入りに描かれている。

菊池寛は「生活第一、芸術第二」というモットーでも知られる。それを打ち出したのは余裕主義として括られる夏目漱石への対抗心があったのではないか。著者は本書の中で、菊池寛の哲学を随所で紹介する。時代をまるごとつかんでやる、との強い意志の持ち主である一方、身なりや権威にはさほど注意を払わなかった人物。菊池寛のふところの深さを描いた本書からは、急速に近代化を果たす明治のエネルギー、芸術も生活も併せ呑んだ器の広さが、菊池寛という人物に体現されたかのようにも思える。夏目漱石とは反対の立場から、芸術と人生の問題を体現していったのが菊池寛という人物だったと思う。夏目漱石が現在でも文豪の中の文豪として確固たる地位を占めているにも関わらず、菊池寛がその方向性の違いをもって評価されていないのは残念といえる。

本書は後半、軍靴の音響く中文学者としての心と大出版社の経営者の立場の狭間に苦しむ菊池寛の、それにも関わらず戦後公職追放される菊池寛の苦しみを描く。冒頭に挙げた文豪三氏と異なり、著者は病死ではあったが、時代に殺されたと言えるかもしれない。

本書の主人公「わたし」は秘書を辞め、マーさんとも別れて結婚し家族を築く。「わたし」のモデルは佐藤碧子さんであることがあとがきで明かされる。実際にそういう人生を歩まれたのだろうか。著者は病床の佐藤碧子さんを訪ね、佐藤さんの著書である「人間・菊池寛」を参考として本書を書き上げたらしい。が、本書が雑誌に連載されている間、若干佐藤さん御自身や遺族からは内容について抗議の声も上がったと聞く。私がどうこう言う話ではないが、本書は佐藤さんの生涯や著作、菊池寛の生涯や思想から著者が作り上げた創作と見ればよいと思う。本書は評伝ではなく小説の体裁を採っているのだし。

また、本書は巻末に二つの対談も収められている。井上ひさし氏と著者。久世光彦氏と著者。どちらの対談も本書の内容や菊池寛その人とともに、その時代を鋭く分析した素晴らしい対談である。文庫版のみの付録だそうなのだが、この対談だけでも菊池寛という人物のスケールが垣間見える。お勧めしたい。

それにしても、相変わらず菊池寛の著作は図書館の全集棚に埋もれたままである。私もまた、菊池寛の著書に目を通し、時間が許せば高松市の菊池寛記念館に再訪してみたいと思う。前回の訪問時には作家としての菊池寛しか見なかったが、今の私は同じ経営者として文藝春秋社を起こした菊池寛にも興味がある。

‘2015/7/13-2015/7/17


リーシーの物語 下


上巻のレビューに書いたけれど、じっくり読むという目標が、もろくもくずれ、下巻は3日で読み終えてしまっている。

これは退屈になって斜め読みになったのではなく、物語の面白さに追われてしまったため。

上巻のレビューに書いたように、大枠の展開は今までの作品と似たような感じなんだけど、それは読んだ後だから言えることであって、著者のストーリーテリングの手妻に翻弄されてしまった下巻の読書体験であったといえる。

加えて下巻になってからは展開も時制と語り手と場所が縦横無尽に入れ替わりたち替わり現れるため、じっくりと考えながら読み進めると却って混乱することになると思う。そう思えるほど大量に敷き詰められた布石がつぎつぎとひっくり返っては眼前に現れていくような下巻の展開だから。

本書は再読をし、何度も味わったほうがよい類の小説ではないかと思うし、再読を促すことこそがまさに著者の狙いなのではないかと勘ぐってしまう程だ。

物語の喜びを味わわせることのできることが作家の喜びであるとすれば本書は成功していると思う。何せ、本書は死んだ作家が生前に残した意思が、死後に大活躍する話だからだ。著者が死して後も、物語を読む喜びを読者に与え続けられるとすれば、それこそ作家冥利に尽きること間違いないだろう。

著者の作家としての意思が込められた小説として、後世に残る作品ではないかと思う。

’11/12/14-’11/12/17


リーシーの物語 上


著者の本も大分読んできているけれど、最近はちょっと展開がマンネリ化の方向にあるなぁ・・・と思うことが多い。

正直言ってこの本も展開としては今までの名作たちと同じような部分もあるにはあるのだけれど、著者の凄いところはその描写のディテールにあり、大枠の展開は同じであったとしても、場面場面に今まで見たことのない新しい驚きと謎を提示していくことで、読者をぐいぐいと物語の渦にひっぱっていくところにあると思う。

本書もまた、伏線を多数敷きまくるところで上巻を費やしているのだけれど、その伏線の敷き方が巧みで、人物造形や出来事の描き方がすぐれているため、後から思い返すと大筋の展開が似たものであったとしても、読んでいる間はそのことを全く感じさせない内容となっている。

効果的な小道具の使い方やキーワードの見せ方など、本当に読んでいて万華鏡のようにつぎつぎとワンダーストーリーが繰り広げられることに感嘆を禁じ得ない。

本書を読むにあたっては、筋を追っかけてしまうと著者の本の豊かさに触れられないということが分かっていたので、今回はこのあたりの細かい描写をじっくり味わうため、あえてゆっくりと時間をかけて読んでみた。

’11/12/07-’11/12/13