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逸翁自叙伝 阪急創業者・小林一三の回想


本書こそまさに自伝と呼ぶべき一冊。本当の自伝を読みたいと願う読書人に薦められる一冊であると思う。

阪急電鉄を大手私鉄の雄に育て上げただけではなく、宝塚歌劇団や東宝グルーブ、阪急ブレーブスの創設など興業の世界でも日本で有数の企業を育て上げた立志伝中の人。
線と点からなる鉄道を面の事業として発展させ、鉄道を軸にした都市開発や地域開発に先鞭をつけたアイデアマン。
独創的な着眼点でわが国の近代企業史に燦然と輝く経済人。
小林一三。ロマンチストであり続けながら経営の世界でも実績と伝説を残した希有の人物である。

明治以降、わが国の財界は多くの人物を輩出してきた。それら錚々たる人物列伝の筆頭に挙げられる人物こそ、小林一三ではあるまいか。
本書はその小林一三が自らしたためた自伝だ。しかも財界人が自らを思い返したただの随想ではない。かつて作家を目指し、新聞に連載小説を受け持っていた人物が書く自伝である。それが本書を興味深い一冊にしている。

小林一三が残した遺産の多くは、幼い頃の私にとっておなじみのものだった。阪急電車。西宮スタジアム。西宮球技場。宝塚ファミリーランド。宝塚大温泉。
私の人間形成において、おそらく小林一三が残した影響はいまだに残っているに違いない。
だが、このブログでも何度も書いたとおり、私は今の宝塚歌劇団の経営姿勢に良い印象を持っていない。

その一方で、小林一三が宝塚少女歌劇団を創設したときの純粋な志まで否定するつもりはない。少女歌劇を立ち上げるにあたっての試行錯誤は、小林一三が作家として挫折した思いを考えると尊い。
不評で廃業したプールの上に蓋をした「ドンブラコ」から始まったタカラヅカは、いくつもの試練を乗り越え、100年続く劇団に育った。その功績は小林一三のものだ。
自ら戯曲を書き、作詞まで手がけた異彩の人を抜きにしてタカラヅカは語れない。

小林一三は「私が死んでもタカラヅカとブレーブスは売るな」と言い残したと伝えられている。が、今の阪急グループを見て小林一三は何を思うだろうか。ロマンチストのアイデアがふんだんに盛り込まれたはずの事業は、企業を存続させるための論理の前にはかなくついえた。しかも阪急自身の手によって。
阪急ブレーブスはとうの昔に身売りされた。タカラヅカも少しずつ公演の重心を有楽町に移しつつある。宝塚ファミリーランドはなくなり、跡地にはどこにでもある商業施設がのさばっている。
本稿をアップする三週間ほど前、宝塚ファミリーランド跡地の横を車で走り抜けた。が、何の感興も湧かなかった。無惨と言うしかない。

今の阪急グループは大企業となった。つまり、株主や投資家の期待に応え、従業員を養わねばならない。それはわかる。だが、今の阪急グループにワクワクする感じを期待する事は出来ない。
経営が現実の中に縛られてしまっているのだ。経営が現実の中に逃げ込むほど、ロマンチストの思いを経営に色濃く反映させた小林一三の凄さは際立つ。
私は小林一三には尊敬の念しかない。
文学で身を立てようとして挫折し、実業界で才能を発揮した転身の妙。それも私には強烈な魅力として映る。
同じ経営者として、小林一三のユニークな経歴から学ぶべきことは多い。憧れと言ってもよい。

その型破りな発想の秘訣はなんだろうか。その発想の源泉はどこにあるのか。
その答えは、著者が自分を語る本書に載っているはずだ。小林一三が若き日の無軌道な振る舞いの中に。

著者は自分の幼いころからの日々を振り返り、その中で犯した過ちも包み隠さず書いている。

大学を十二月に卒業し、三井銀行に就職が決まった後も、入社式や卒業式もほったらかしで熱海に逗留しつづけ、そこで知り合った女性のことが忘れられず、ズルズルと出社を延ばして、結局三カ月も出社しなかったという。今の世では絶対に許されない行いだろう。
考えてみればのどかな時代ではある。現代の方が物質的にも技術的にもきらびやかで洗練されている。技術も進歩し生活も豊かである。が、実は日本人の精神力は半比例するように硬く貧しくなり、衰えているのではなかろうか。小林一三の破天荒な青年時代はそんなことさえ思わせる。

本書で語られる前半生の著者を見ていると、自分の核がない代わりに、降ってくる話を拒まない。自らの天分と天職に巡り合うまで、自らの境遇を定めずにいる。まず飛び込んでから身の振り方を考えている。
その姿勢こそが著者の大器を晩成させたのだろう。
その姿勢は、上にも書いた通り、本気で作家を目指していた著者の資質から導かれたものだろう。

慶応大に在学中の著者が山梨日日新聞に連載していた小説「練絲痕」も本書には収められている。
いくら当時の文壇が発展途上だからといって、新聞に連載を持ったことは大したことだ。著者は半ば職業作家だった。そして、そのような経歴の持ち主で、かつ著者ほどの実績を打ち立てた経営者を私は知らない。
著者の前半生は、謹厳な経営者とは真逆だ。無頼派と呼ぶにふさわしい乱脈なその姿は、作家が文士と呼ばれた頃のそれを思わせる。

著書がすごいのは、そこから生まれ変わったかのように経営に目覚めたこと。そして、経営にしっかりと若き日の自由な発想を活かしたことにある。
それでいながら、鉄道の開通にあたって資金繰りの厳しい時に見せた辛抱強さなど、それまでの著者とは打って変わった人間性を見せた事も著者の人生を決定づけたはずだ。

こうした著者の動きを念頭におき、仮に著者が同じ人格を持っていたとしよう。ここでもし著者が世間に合わせて勤め人であろうとし、冒険を控えていたらどうだっただろう。あくまでも仮定でしかないが、阪急で成し遂げたような多角化の発想は生まれなかったのではないだろうか。
自由な発想の持ち主が心の赴くまま、自由な振る舞いにおぼれ、存分に自らの心魂を理解したからこそ、経営者になった著者の脳内には発想の豊かな泉が涸れずに残ったのではないかと思う。

今のわが国の停滞が叫ばれて久しい。
その理由を画一的な学校教育に求める人も多い。
だが、同じくらい企業文化の中にも画一化の罠が潜んでいるように思う。

本書を読み、経営者としての目標の一つに著者を設定した。

2020/11/7-2020/11/10


男役


妻に勧められて読んだ本書。意外なことにとても感動させられた。
それは、私にとって大きな驚きだった。これだから読書はやめられない。本書から意外な喜びが得られたことに満足している。

意外だと書いたのには理由がある。
それは、今の私がタカラヅカに対して嫌悪感に近い感情を抱いているからだ。
著者の作品を今まで読んだことがなかったことと、本書について何も知識が何もないままに読み始めたことを除いても、本書から受けた感動は予想外だった。
私のようにタカラヅカに対して嫌悪をもつような人がいれば、本書はお勧めしたいと思う。
本書は「歌劇」「宝塚おとめ」や「タカラヅカ・スカイ・ステージ」よりもよっぽどタカラヅカの魅力を伝えている。

なぜ私が嫌悪感を抱いているのか。それは妻がもう長いことタカラヅカのジェンヌさんのファンクラブ代表を務めているからだ。
本稿をアップした今も、妻は一カ月以上にわたる東京公演のため、朝から夜まで忙殺されている。歯医者の仕事は週に一度がせいぜい。家事も歯科医の仕事も差し置いて、無償の代表の仕事に人生の貴重な時間を捧げている。

代表の仕事について、私が抱いた嫌悪感については、
なぜ宝塚歌劇に客は押し寄せるのか
宝塚ファンの社会学
のレビューの中に書いたから本稿では詳しく繰り返さない。
ここまでの嫌悪を抱いたのは、表だっては私的なファンの集まりだから関与しないとの建前を謳いながら、裏では運営側の都合をファンクラブ側にまかり通そうとする劇団の姿勢に憤りを感じているからだ。

もちろん代表の仕事によって家庭に大きな負担がかかっていることは言うまでもない。代表である妻や娘たち、もちろん私にも。
一つだけ言えるとしたら、ファンクラブ代表になるなら、結婚や仕事での昇進は諦めた方がいい、ということだ。

一方で、嫌悪感を抜きに考えると、感心することもある。
それは無償で働く代表や多くのスタッフの存在だ。これは経営者として感心する。
代表やスタッフが担うのは、ジェンヌさんのマネジメント業務だ。表向きは私的ファンクラブの仮面をかぶりながら、実際に代表が行うのはジェンヌさんのマネジメント業務だ。
こうした仕事は本来ならば劇団が行うべき仕事。それを代表に担わせ、しかもその対価は劇団から支払われることはない。つまり無償だ。

経営者の立場からは、無償で働いてくれるスタッフがいることがどれほど羨ましいか。一人親方ならともかく、従業員がいなくては、会社は成り立たない。従業員が宝であることはもちろんだが、人件費は経営者にとっては現実のストレスとしてのしかかる。
タカラヅカのジェンヌさんの多くはファンクラブを立ち上げている。各ファンクラブは代表や複数人のスタッフを抱えている。彼女たちの多くは無償だ。あくまでも私的ファンクラブなのだから、少なくともタカラヅカには賃金を払う義務がない。賃金をもらっている代表やスタッフがいるとすれば、それらの賃金は、ジェンヌさん自身やジェンヌさんの実家から支払われている。言うまでもなくそれができるジェンヌさんは一握りだ。

タカラヅカの場合、人件費をかけずに業務の一端を担わせている。人件費をかけずに済むのだから、良いものができるのは当たり前だ。

こうした無償で働いてくれるスタッフや代表は、妻も含めてタカラヅカの観劇が好きでたまらない人であり、だからこそ無償でも働こうと思うのだろう。
彼女たちが惹かれているのは、小林逸翁が立ち上げたタカラヅカ百年の伝統が磨き上げてきた美意識であることは間違いない。

百年の伝統とは、プールの上に蓋をした黎明期の舞台から、レビューが軌道に乗った時期を通り越し、軍国色の強い演目を強いられた戦時中の苦しみなど、さまざまな歴史の上に醸成されたものだ。痛ましい死亡事故や、ベルばらブームなど、タカラヅカには試行錯誤と喜怒哀楽の歴史があった。
そこには歴代のジェンヌさんや演出家、大道具小道具とオーケストラ、衣装さんの努力があった。それらの努力のたまものが百年の伝統として昇華していることは公平に認めたい。
スタッフや代表が無償の労働で成り立っているのは、決して今の経営陣の努力ではない。百年前から脈々と受け継がれてきた伝統があってこそだ。

男装の女性が美しい衣装を身にまとい、華麗に舞い、魅惑的なメロディーを響かせる。
女性だけの舞台の上で、異性である男性を演じる姿は美しい。髭もなければ、ハゲもない。ましてやオヤジの加齢臭を漂わせることもありえない。永遠に美しい存在。観客の皆さんが男役に夢中になるのもわかる。

さらにタカラヅカのスターシステムは、下から次々と生徒が送り込まれる仕組みだ。だから、新陳代謝は激しい。観客はひいきのトップスターがやめても、青田買いのように生徒さんの中からお気に入りのジェンヌさんを見つけ出す。
だからこそ、男役を務めるプレッシャーも並大抵のものではないはずだ。
先輩のジェンヌさんに憧れ、その所作を学びながら、女が男を演ずる芸を極めていく。その姿は男だから女だからといったささいなことは関係ない。そこには舞台人として芸を極めることの難しさと尊さがあるのみ。

本書はそのような男役の姿を描く。男役の舞台での姿に魅入られ、タカラヅカの門をたたいた主人公。
日々の厳しい稽古と人間関係の難しさ。そんな合間に舞台でライトを浴びる高揚感。そのような芸事の厳しさと奥の深さに一生懸命な主人公に、伝説と化したかつての男役がファントムとなって語りかける。

つまり本書はミュージカルとして演目になったことであまりにも有名なガストン・ルルーのオペラ座の怪人、つまりファントムをモチーフに取り入れているのだ。
ミュージカルのファントムも、新進女優のクリスティーヌを見染めて一流の女優へと導こうとする。舞台芸術の世界に魅入られ、劇場の主と化したファントムの妄執がなせる技だ。
オペラ座の怪人の世界とタカラヅカを絶妙にミックスしているのが本書の特色と言える。より至高の舞台へと。刹那の芸術の美へと。

本書のファントムも同じ。舞台の魅力に取り憑かれ、劇場に住み着き、これはと思った新進男役に寄り添って支えようとする。崇高な舞台の輝きへ。男役の演技のより深い奥義へと。
なぜそこまで男役に執着するのか。それは、世界でもこのように女性が男性を演じる演技形態が稀だからだ。世界でもタカラヅカは稀な女性だけの劇団であり、今、ここでしか演じられないことが、男役の価値をより高めている。それは百年の伝統の中で代々、受け継がれてきた芸能であり、その希少性ゆえに観客を魅了し、演ずるジェンヌさん自身をもからめとる。

声をつぶしてまでも低音を響かせる技。一挙手一投足まで男を演じ切らなければならず、一瞬でも素の女を見せることは許されない。舞台を降りた後ですら、ファンの視線を意識しながら、日々の生活まで男を演じる。生き方から変えていかなければ務まらないのが男役の宿命。
だからこそ、ファントムのような主が至高の芸として伝えていかねばならない。
本書のこの設定はお見事だ。

そして、男役には相手となる娘役がいるのがタカラヅカのスターシステムのお約束だ。
同じ女性であっても、娘役からはトップの男役は憧れと恋愛の対象でありうる。さまざまな演目で愛する演技を続けていくうちに情が移る。本気で恋愛感情を持つ場合もあるだろう。むしろ、それぐらいトップの男役と娘役が強く絆を結んでこそ、ファンからは絶大な支持を受ける。
単なるレズビアンではない。そんな下世話な感情さえも超越した、現実と幻と役柄が混在した恋愛。
本書にもファントムにまつわる悲恋と、主人公とのご縁が終盤のクライマックスへ向けてつながっていく。

冒頭で私はタカラヅカに対して嫌悪感を持っていると書いた。だが、私はジェンヌさんに対してはそれを向けようとは思わない。特に妻がついているジェンヌさんに対しては。
彼女たちも与えられた環境の中で一生懸命やっているだけなのだから。だから、私の嫌悪は全て劇団に向けられる。
多分妻もそれを考えて私に本書を勧めてくれたのだろうし。
くしくも本稿をアップした本日は東京公演の千秋楽であり、一カ月半にわたる妻の苦労も報われる日だ。

もう私は二度とタカラヅカを見たいとは思わない。だが、それでももし本書がタカラヅカで舞台にかけられたら、心がゆらぐかもしれない。それほど本書には心を動かされた。

‘2020/06/13-2020/06/14


エビータ


昨年、浅利慶太氏がお亡くなりになった。7/13のことだ。私は友人に誘われ、浅利慶太氏のお別れ会にも参列した。そこで配られた冊子には、浅利慶太氏の経歴と、劇団の旗揚げに際して浅利氏が筆をとった演劇論が載っていた。既存の演劇界に挑戦するかのような勢いのある演劇論とお別れ会で動画として流されていた浅利慶太氏のインタビュー内容は、私に十分な感銘を与えた。

ちょうどその頃、私には悩みがあった。その悩みとは宝塚歌劇団に関係しており、私の人生に影響を及ぼそうとしていた。宝塚歌劇団といえば、劇団四季と並び称される本邦の誇る劇団だ。だが、ここ数年の私は宝塚歌劇団の運営のあり方に疑問を感じていた。公演を支える運営やファンクラブ運営の体質など。特に妻がファンクラブの代表を務めるようになって以来、劇団運営の裏側を知ってしまった今、私にとってそれは悩みを通り越し、痛みにすらなっていた。その疑問を解く鍵が浅利慶太氏の劇団四季の運営にある、と思った私は、浅利慶太氏のお別れ会を機会に、浅利慶太氏と劇団四季について書かれた本を読んだ。キャスティングの方法論からファンクラブの運営に至るまで、宝塚歌劇団と劇団四季には違いがある。その違いは、演じるのが女性か男性と女性か、という違いにとどまらない。その違いを理解するには演劇論や経営論にまで踏み込まねばならないだろう。

宝塚の舞台はもういい、と思うようになっていた私。だが、お別れ会の後も、劇団四季の舞台は見たいと思い続けていた。今回、妻のココデンタルクリニックの七周年記念として企画した観劇会は、なんと総勢三十人の方にご参加いただいた。妻が25人の方をお招きし、妻が呼びきれなかった5名は私がお声がけし、一人も欠けることなく、本作を鑑賞することができた。

浅利慶太氏がお亡くなりになってほぼ一年。この日の公演も浅利慶太氏追悼公演と銘打たれている。観客席の最後方にはブースが設けられ、浅利慶太氏のポートレートやお花が飾られている。おそらく生前の浅利氏はそこから舞台の様子や観客の反応をじっくりと鋭く観察していたのだろう。ロビーにも浅利慶太氏のポートレートや稽古風景の写真が飾られ、氏が手塩にかけた演出を劇団が今も忠実に守っている事をさりげなくアピールしている。とはいえ、カリスマ演出家にして創始者である浅利氏を喪った穴を埋めるのは容易ではないはず。果たして浅利慶太氏の亡きあと、劇団四季はどう変わったのか。

結論から言うと、その心配は杞憂だった。それどころか見事な踊りと歌に心の底から感動した。カーテンコールは8、9回を数え、スタンディングオベーションが起きたほどの出来栄え。私は今まで数十回は舞台を見ているが、カーテンコールが8、9回もおきた公演は初めて体験した気がする。

私はエビータを見るのは初めて。マドンナがエバ・ペロンを演じた映画版も見ていない。私がエバ・ペロンについて持つ知識もWikipediaの同項目には及ばない。だから、本作で描かれた内容が史実に即しているかどうかは分からない。本作のパンフレットで宇佐見耕一氏がアルゼンチンの社会政策の専門家の立場から解説を加えてくださっており、それほど荒唐無稽な内容にはなっていないはずだ。

本作で進行役と狂言回しの役割を担うのはチェ。格好からして明らかにチェ・ゲバラを指している。周知の通り、チェはアルゼンチンの出身でありながらキューバ革命の立役者。その肖像は今もなお革命のアイコンであり続けている。同郷のチェがエバ・ペロンことエビータを語る設定の妙。そこに本作の肝はある。そしてチェの視点から見たエビータは辛辣であり、容赦がない。そんなチェを演じる芝清道さんの演技は圧倒的で、その豊かな声量と歯切れの良いセリフは私の耳に物語の内容と情熱を明快に吹き込んでくれた。

搾取を嫌い、労働者の視点に立った理想を追い求めたチェと、本作でも描かれる労働者への富の還元を実行したエビータ。いつ理想を追い求める点で似通った点があるはず。だが、チェはあくまでもエビータに厳しい。次々に男を取り替えては己の野心を満たそうとする姿。ついにファーストレディに登りつめ、人々に施しを行う姿。どのエビータにもチェは冷笑を投げかける。これはなぜだろうか。

チェが医者としての栄達を投げうちアルゼンチンを出奔したのは、史実では1953年のことだという。エビータがなくなった翌年のこと。ペロンは大統領の任期の途中にあった。チェの若き理想にとって、ペロンやエビータの行った弱者への政策はまだ手ぬるかったのだろうか。または、全ては権力や富を得た者による偽善に過ぎないと疑っていたのだろうか。それとも、権力の側からの施しでは社会は変えられないと思っていたのだろうか。おそらく、チェが残した著作の中にはエビータやペロンの政策に触れたものもあっただろう。だが、私はまだそれを読んだことがない。

本作は、エビータが国民の母として死を嘆かれる場面から始まる。人々の悲嘆の影からチェは現れ、華やかなエビータの名声の裏にある影をあばき立てる。そしてその皮肉に満ちた視点は本作の間、揺るぐことはなかった。本作は、エビータが亡くなったあとも国民からの資金では遺体を収める台座しか造られず、その後、政情が不安定になったことによって、エビータの遺骸が十七年の長きに渡って行方不明だったというチェのセリフで幕を閉じる。徹底した冷たさ。だが、チェの辛辣さの中には、どこかに温かみのようなものを感じたのは私だけだろうか。

本作の幕の引き方には、安易に観客の涙腺を崩壊させ、カタルシスに導かない節度がある。その方が観客は物語のさまざまな意図を考え、それがいつまでも本作の余韻となって残る。

敢えて余韻を残すチェのセリフで幕を下ろした脚本家の意図を探るなら、それはチェがエビータに対する愛惜をどこかで感じていたことの表れではないだろうか。現実の世界でのし上がる野心と、貧しい人々への施しの心。愛とは現実の世界でのし上がるための手段に過ぎないと歌い上げるエビータ。繰り返し愛を捨てたと主張するエビータの心の裏側には、愛を求める心があったのではないか。私生児として蔑まれ、売春婦と嗤われた反骨を現実の栄達に捧げたエビータ。その悲しみを、チェは革命の戦いの中で理解し、軽蔑ではなく同情としてエビータに報いたのではないだろうか。

そのように、本来ならば進行役であるはずのチェに、物語への深い関わりをうがって考えさせるほど、芝さんが演じたチェには圧倒的な存在感があった。本作のチェと同じような進行役と狂言回しを兼ねた役柄として、『エリザベート』のルキーニが思い出される。チェのセリフが不明瞭で物語の意図が観客に届かない場合、観客は物語に入り込めない。まさに本作の肝であり、要でもある。本作の成功はまさに芝さん抜きには語れない。

もちろん、主役であるエビータを演じた谷原志音さんも外すわけにはいかない。その美貌と美声。二つを兼ね備えた姿は主演にふさわしい。昇り調子に光り輝くエビータと、病に伏し、頰のこけたエビータを見事に演じわける演技は見事。歌声には全くの揺れがなく、終始安定していた。大統領選で不安にくれる夫のペロンを鼓舞するシーンでは、高音パートを絶唱する。その場面は、主題歌である「Don’t Cry For Me , Argentina」の美しいメロディよりも私の心に響いた。

そしてペロンを演ずる佐野正幸さんもエビータを支える役として欠かせないアクセントを本作に与えていた。史実のペロンは三度大統領選に勝ち、エバ亡き後も大統領であり続けた人物だ。だが、本作でのペロンは強さと弱さをあわせ持ち、それがかえってエビータの姿を引き立たせている。また、顔の動きが最も起伏に富んでいたことも、ペロンという複雑なキャラクター造形に寄与していたことは間違いない。見事なバイプレイヤーとしての演技だったと思う。

また、そのほかのアンサンブルの方々にも賛辞を贈りたい。一部のスキもない踊りと演技。本作は音楽と演技のタイミングを取らねばならない箇所がいくつもある。そうしたタイミングに寸分の狂いがなく、それが本作にキレと迫力を与えていた。さすがに毎回のオーディションで選ばれた皆様だと感動した。

そうした魅力的な人物たちの活動する舞台の演出も見逃せない。本作のパンフレットにも書かれていたが、生前の浅利慶太氏は、最も完成されたミュージカルとして本作を挙げていたようだ。もとが完成されていたにもかかわらず、浅利氏はさらなる解釈を本作に加え、見事な芸術作品として本作を不朽にした。

自由劇場は名だたる大劇場と比べれば作りは狭い。だが、さまざまな設備を兼ね備えた専用劇場だ。その強みを存分に発揮し、本作の演出は深みを与えている。ゴテゴテと飾りをつけることんあい舞台。円形に区切られた舞台の背後には、自在に動く二つの壁が設けられている。らせん状になった壁には、ブエノスアイレスの街並みを思わせる凹凸のレリーフが刻まれている。

場面に合わせて壁が動くことで、観客は物語の進みをたやすく把握できる。そればかりか、円で周囲を区切ることで舞台の中央に目には見えない三百六十度の視野を与えることに成功している。舞台の中央に三百六十度の視座があることは、舞台上の表現に多様な可能性をもたらしている。例えば、エビータの男性遍歴の激しさを回転する扉から次々に現れる男性によって効果的に表現する場面。例えば、軍部の権力闘争の激しさを椅子取りゲームの要領で表現する場面。それらの場面では物語の進みと背景を俳優の動きだけで表すことができる。三百六十度の視野を観客に想像させることで、舞台の狭さを感じさせない工夫がなされている。

そうした一連の流れは、演出家の腕の見せ所だ。本作の幕あいに一緒に本作を観た長女とも語り合ったが、舞台を演出する仕事とは、観客に音と視覚を届けるだけでなく、時間の流れさえも計算し、観客の想像力を練り上げる作業だ。総合芸術とはよく言ったもので、持てる想像力の全てを駆使し、舞台という小空間に無限の可能性を表出させることができる。今の私にそのような能力はないが、七度生まれ変わったら演出家の仕事はやってみたいと思う。

冒頭にも書いたが、8、9回に至るカーテンコールは私にとって初めて。それは何より俳優陣やスタッフの皆様、そして一年前に逝去された浅利慶太氏にとって何よりの喜びだったことだろう。

理想論だけで演劇を語ることはできない。赤字のままでは興行は続けられない。浅利氏にしても、泥水をすするような思いもしたはずだ。政治家に近づき、政商との悪名を被ってまで劇団の存続に腐心した。宝塚歌劇団にしてもそう。理想だけで劇団運営ができないことは私もわかる。だからこそ、ファンの無償の奉仕によって成り立つ今の運営には危惧を覚えるのだ。生徒さんが外のファンサービスに追われ、舞台に100%の力が注げないとすれば、それこそ本末転倒ではないか。私は今の宝塚歌劇団の運営に不満があるとはいえ、私は宝塚も四季もともに日本の演劇界を率いていってほしいと思う。そのためにも、本作のような演出や俳優陣が完璧な、実力主義の、舞台の上だけが勝負の演劇集団であり続けて欲しい。演劇とは舞台の上だけで観客に十分な感動を与えてくれることを、このエビータは教えてくれた。

私も友人にお借りした浅利慶太氏の演劇論を収めた書をまだ読めていない。これを機会に読み通したいと思う。

最後になりましたが、妻のココデンタルクリニックの七周年記念に参加してくださった皆様、ありがとうございます。

‘2019/07/06 JR東日本アートセンター 自由劇場 開演 13:00~

https://www.shiki.jp/applause/evita/


ドクトル・ジバゴ


「国が生まれ変わるというなら、新たな生き方を見つけるまでだ!」

本作は、私にとって初めて観るロシアを舞台とした作品だ。ロシア文学といえば、人類の文学史で高峰の一つとして挙げられる。ロシア文学から生み出された諸作品の高みは、今もなお名声を保ち続けている。トルストイやドストエフスキー、チェーホフやゴーゴリなど巨匠の名前も幾人も数えられる。私も若い頃、それらの作家の有名どころの作品はほぼ読んだ。ところが、ロシア文学の名作として挙げられる作品のほとんどはロシア革命の前に生み出されている。ロシア革命やその後のソ連の統治を扱った作品となると邦訳される作品はぐっと減ってしまう。少なくとも文庫に収められている作品となると。私が読んだことのあるロシア革命後のロシアを扱った作品もぐっと減る。せいぜい、ソルジェニーツィンの『イワン・デニソーヴィチの一日』と本作の原作である『ドクトル・ジバゴ』ぐらいだ。

本作の原作を読んだとはいえ、それは十数年前のこと。正直なところ、あまり内容を覚えていない。だが、本作を観たことで、私の中では原作の価値をようやく見直すことができた。その価値は、社会主義という制度の中だからこそ浮き彫りになるということ。そして私があらためて感じたこととは、社会主義とは人類を救いうる制度ではない、ということだ。

『ドクトル・ジバゴ』がノーベル文学賞を受賞した際、ソ連共産党は作者ソルジェニーツィンに授賞式に出ないよう圧力をかけたという。なぜなら、 『ドクトル・ジバゴ』 は社会主義を否定する作品だから。

知られているとおり、社会主義とは建前では階級の上下を否定する。そして平等を旨とする。そんな思想だ。社会主義の目標は平等を達成することにおかれるはず。だが、その目的は組織の統制を維持することに汲々となりやすい。つまり、理想が目的であるはずが、手段が目的になるのだ。それが社会主義の致命的な弱点だ。また、その過程では、組織の意思は個人の意思に優先される。個人の生きざま、希望、愛、はないがしろにされ、組織への忠誠が個人を圧殺する。

そこにドラマが産まれる。なぜ 『ドクトル・ジバゴ』 が名作とされているのか。それは、組織に押しつぶされようとする個人の意思と尊厳を描いたからだろう。その題材にロシア革命が選ばれたのも、人類初の社会主義革命だったからにほかならない。組織が個人をどこまでも統制する。ロシア革命とは壮大かつ未曽有の社会実験だったのだ。実験でありながら、建前に労働者や農奴の解放が置かれていたため、人々はその理想に狂奔したのだ。彼らの掲げた理想にとって敵とはロシア帝国の支配者階級。本作の主人公ユーリ・ジバゴも属していた貴族階級は、ロシア革命が打倒すべき対象である。

ところが、ジバゴは貴族の生まれでありながら、個人の意思を持った人間だ。幼い頃に両親と死に別れ、叔父の養子となった。その生まれの苦労ゆえか貴族の立場に安住しない。そして自分の信念に基づいた生き方を追求する。そんなジバゴに襲い来る革命の嵐。その嵐は彼の運命を大きく揺さぶる。そして、革命の前に出会ったラーラとジバゴは不思議な縁で何度も巡り合う。ジバゴの発表のパーティーの場で。そして、第一次大戦の戦場の野戦病院で。

ラーラもまた、運命に翻弄された女性。そして革命によっても翻弄される。労働者階級だった彼女は、特権階級の弁護士コマロフスキーから辱めをうける。そして、それがもとで恋人のパーシャを失ってしまう。パーシャは、革命を目指すナロードニキ。高潔な理想家の彼にとって、ラーラの裏切りはたとえ彼女自身に責任がなくても耐えがたいものだった。彼は軍に身を投じ、ラーラの元を去ってしまう。

やがて第一次大戦はロシア革命の勃発もあって終戦へと至る。ここまでが第一幕だ。ここまでですでに見応えは十分。

本作の見応え。それは演出の妙にあること、役者の演技にあることはいうまでもない。ただ、本作の舞台装置はシンプルにまとめられていた。これが宝塚大劇場だと奈落から競りあがる仕掛けや、銀橋のような変形された舞台装置が使える。ところが本作は赤坂ACTシアターで演じられる。舞台の制限なのかどうかはわからないが、本作ではいたってシンプルでオーソドックスな舞台装置を使っていた。演出といっても音響や照明を除けばそれほど凝った作りになっていない。舞台の吊り書き割りを入れ替えたり、薄幕で舞台を左右に分割し、それぞれの時間と空間に隔たりがあることを観客に伝えるような演出が施される程度。その分、本作は俳優陣の演技に多くを頼っているということだ。

ラーラはコマロフスキーに強引に接吻され、その後犯される。また、ある場面ではジバゴとベッドで朝を迎える。本作におけるラーラとは悲劇のヒロインではあるが、情欲の強い女性としても描かれている。そしてそれはジバゴも同じ。つまり本作は男女の情欲が濃く描かれている。艶やかなシーンの割合が本作には多いように思えた。そんな男女の艶やかさを女性ばかりの宝塚歌劇が果たして演じきれるのか。そんな私の先入観を本作の俳優陣は見事に覆してくれた。とくに、主演の轟悠さんはさすがというべきか。

ジバゴは原作の設定では20-30代の男性だと思われる。一方、ジバゴにふんする轟さんの年齢は、失礼かもしれないがジバゴよりもさらに年齢を重ねている。ところが風邪を引いたのか、本作の轟さんの声は少々ハスキーに聞こえた。しかしその声がかえって主人公の若さを際立たせていたように思う。女性である轟さんが長年にわたる訓練から発する男性の声。そこにハスキーな風味が加わっていたため、本作で聞えたジバゴの声は年齢を感じさせない若々しさをみなぎらせていた。鍛え抜かれた男役の声。そこには女性らしさがほとんど感じられない。それでいてもともとの声の高さがあるため、若さを失っていないのだ。それはまさに芸の到達点。理事の矜持をまじまじと見せつけられた思いだ。お見事。他の宝塚の舞台を見ていると、男役から発せられる声に女性の響きが混じっていることに気づいてしまうだけに、轟さんの声の鍛え方に感銘を受けた。

また、コマロフスキーを演ずる天寿光希さんも素晴らしい。彼女が発する声。これまた地の底をはうように抑えられていた。その抑えつけたような声が、コマロフスキーの狡猾さや一筋縄では行かないしたたかさを見事に表現していた。コマロフスキーは革命前は鬼畜のような男として登場するが、革命後、本作の第二幕ではラーラとジバゴを救い出そうともする。単なる悪役にとどまらぬ二面性を持つ男。そんなコマロフスキーを豊かに演じていた天寿さんの所作もまた見事だった。さすがに時折押し殺した声音から女性の声らしさが垣間見えてしまっていたけれど。それでも、この二人の男役からは女性が演じている印象がほとんど感じられなかった。それゆえに彼らの、男としてラーラに寄せる情欲の生々しさがにじみ出ていた。それでこそ、人間の本能と組織の規律の対立がテーマとなる本作にふさわしい。

ジバゴには貴族でありながら理想に燃える若々しさが求められる。同時に、革命の中で個人の尊厳を捨てまいとする強靭さも欠かせない。それらを見事に演じていた轟さんの演技こそが本作の肝だといえる。本稿冒頭に掲げたセリフは、第一幕から二幕のつなぎとなるセリフだ。このセリフには国がどうあろうとも、個人として人生を全うせん、という意思が表れている。

それはもちろん、宝塚という劇団の中で、個人として演技を極めようとする轟さんの意思の表れでもある。実に見ごたえのある舞台だったと思う。二幕物が好きな私にとってはなおさら。

第二幕は、すでに革命政府が樹立されたロシアが舞台だ。そこでは個人の意思はさらに圧殺される。その象徴こそが、モスクワから都落ちしウラルへ向かうジバゴ一家の乗る列車だ。第二幕は列車を輪切りにしたセットから始まる。過ぎ行く街々がプロジェクションマッピングで背景に映し出される。車内に閉じ込められているのに、回りの景色は次々と移り変わってゆく。それはまさに車両という組織に閉じ込められた個人の生の象徴だろう。

第二幕ではパーシャあらため赤軍の冷酷な将軍ストレリニコフがジバゴの対称として配される。彼はラーラに裏切られた思いが高じて人間の愛や意思すらも信じられなくなった人物だ。もはやナロードニキではなく、革命の思想に狂信する人物にまで堕ちてしまう。歯向かうものは家族や肉親のことを省みず殺戮する。まさに革命の負の側面を一身に体現したような人物だ。ストレリニコフは革命がなった後、用済みとして革命政府から更迭され、挙句の果てには銃殺される。その哀れな死にざまは、革命の冷酷な側面をそのままに表している。そして、個人の信念に殉じたいとするジバゴにも、同様の事態は迫る。妻子はパリに亡命するのに、たまたま往診先でラーラを見かけたジバゴは、そこにとどまってしまうのだ。さらにはパルチザンの医療要員として徴兵され、シベリアにまで連れていかれる。

彼は、命からがらラーラの下へ戻るが、ストレリニコフの妻であるラーラもまた、革命政府から目を付けられ、逮捕される日が近い。コマロフスキーはそんな二人を助けようとするのだが、ジバゴはラーラを落ち延びさせるために自らは犠牲となる道を選ぶ。そうして、彼もまた野垂れ死んでゆくのだ。組織の論理に殉じたストレリニコフも、個人の信念に殉じたジバゴも、ともに死んでゆく。そこに進みゆく時代に巻き込まれた人のはかなさが表現されている。

組織も個人もしょせんは時代のそれぞれで一瞬だけ咲き乱れ、散ってゆく存在にすぎない。その間に時代は前へと進み、人々が生きた歴史は忘れ去られてゆく。それはおそらく舞台の演者たちも観客も同じ。それでも人は舞台という刹那の芸術をつかの間堪能するのだろう。それでいい。それこそが人生というものの本質なのだから。

‘2018/02/22 赤坂ACTシアター 開演 15:00~

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ひかりふる路~革命家、マクシミリアン・ロベスピエール/SUPER VOYAGER!


事前に本作を観ていた妻子から言われていたこと。それは「ロベピッピはパパも気に入ると思うよ」だった。なぜ本作をロベピッピと呼ぶのかはさておき、パパ向きの作品と太鼓判を押されていた本作。確かにおっしゃる通り見応えある作品だった。

本作の何がよかったか。それは、フランス革命にそれほど明るくない私に革命の流れを思い出させてくれたことだ。実のところ、本作を観るまで私がフランス革命について知っていた知識とは高校の世界史でならう程度。歴史は得意だったので、大まかな流れは覚えていたとはいえ、寄る年波がだんだん私の記憶を薄れさせていた。だが、年のせいにしていつまでも若いころの知識を更新しないのはさすがにまずい。なんといっても宝塚歌劇団とフランス革命は切っても切れない関係なのだから。ヅカファンの妻子とこれから仲良くやっていく以上、私もフランス革命の知識くらい持っておかないと。それぐらいは夫として父としての責務ではないか?

そもそも私は宝塚歌劇団の歴史を語る上で欠かせない『ベルサイユのバラ』を観劇していない。原作も読んだことがない。『ベルサイユのバラ』はフランス革命を真っ正面から扱っていたはず。なのにそれを見ていない。これはまずいかも。『ベルサイユのバラ』だけではない。私には舞台、小説、映画のどれかでフランス革命を真っ正面から扱った作品に触れた経験がないのだ。たとえば、私がおととし観た『スカーレット・ピンパーネル』やかつて読んだディケンズの『二都物語』。これらも側面からしかフランス革命を描いていない。また、かつてテレビで放映されていた『ラ・セーヌの星』も内容をろくに覚えていない始末。つまり私はフランス革命の最も熱い時期を扱った作品を知らない。目まぐるしく変わる情勢に人々が翻弄された時期こそフランス革命の肝だというのに。そう、本作こそは、私にとって「はじめてのフランス革命」となったのだ。

もう一つ、本作が私を引きつけた要素がある。それは、革命家の挫折をテーマとしていることだ。本作の主人公は、タイトルにもあるとおり、マクシミリアン・ロベスピエール。私の高校生と同じレベルの知識でもフランス革命の立役者として記憶に刻まれている人物だ。本作のパンフレットで作・演出の生田大和氏が語っている。「彼の人生を想う時、ごくシンプルな疑問として「理想に燃える青年」がなぜ「恐怖政治の独裁者」に堕していったのか」。このテーマは、理想主義にはまりかけた青年期を経験した私にとって身に覚えのあるものだ。

私のような凡人を例に出すまでもなく、歴史とは革命家の挫折の積み重ねだ。旧体制を打倒することに全精力を使い果たし、そのあとの国の仕組み構築に失敗する人物のいかに多かったことか。古くは項羽。彼は秦を倒したのち、ライバルの劉邦を戦いでこそ圧倒したが、人望に秀で内政に長けた劉邦に敗れた。ロシア革命は確かにロマノフ王朝を打倒した。が、レーニン亡き後、スターリンによる大粛清の時代が待ち受けている。中国共産党もそう。国共内戦の結果、国民党を台湾に追いやったはよいが、大躍進政策の失敗で幾千万人もの餓死者をだし、文化大革命では国内の文化を破壊せずにはいられなかった。キューバ革命も、革命のアイコンであるチェ・ゲバラが革命後どういう生涯を送ったか。彼は革命当初はカストロの右腕として内政を担当した。それはまさに孤軍奮闘が相応しい活躍だった。革命の理想に現実を近づける事業に疲弊した彼は、キューバを出奔してしまう。内政を諦めたゲバラはコンゴやボリビアでの革命闘争に自らの天命を捧げることになる。我が国でも同様の例はある。日本赤軍があさま山荘事件で破滅するまでの間、凄惨なリンチと自己批判の末に内部崩壊したことは記憶に新しい。革命後に国を運営することに成功したまれな例である我が国の明治維新ですら、維新後十年もたたずに内乱と暗殺によって維新の三傑のうち二人を失っているのだ。

乱世の梟雄でありながら、治世の能臣たり得ること。それが困難なことは上に挙げたように今までの歴史でも明らかだ。ロベスピエールもその困難を克服できなかった。彼は体制のクラッシャーとしては名をはせた。しかし、体制のクリエイターとしては失格の烙印を押されている。

そもそも、革命を軌道に乗せるためには、革命を支持した者への利害の調整が求められる。ただ旧体制の打倒とスローガンを掲げておけばよかった革命期とちがうのはそこだ。革命そのものよりも、革命後の治世こそ格段に難しい。そして、革命に掲げた自らの理想が高ければ高いほど、革命後の利害の調整にがんじがらめになってしまう。その結果、ロベスピエールが採ったような極端な恐怖政治の路線に舵を切ってしまうのだ。追い込まれれば追い込まれるほど、自分の理想こそが唯一無二であると殻をまとってしまう。そして視野は絶望的に狭くなる。本作はそのような状態に陥ってゆく人物の典型が描かれる。徐々に追い詰められ、自らの理想で首が絞まってゆくロベスピエールを通じて。

彼の抱く理想は、決して荒唐無稽なものではなかった。例えば、
 ロベスピエール「人にはそれぞれの心がある。そして心で憎み合い、争い、奪いあう。その連鎖を止める手立てを探している。その理を見つける事ができるなら、私は私の命を差し出しても惜しくない」
 マリー=アンヌ「それがあなたの理想なの?」
  ロベスピエール「いや、願いだ。願いは未来だ。理想は思い出と共にある」
第7場のこのやりとりで、ロベスピエールは自らの理想が過去にあることを図らずも吐露している。過去にあったことは、実現できた経験に等しい。「未来へ~」と合唱するマリー=アンヌとロベスピエールの願いは美しく響く。それはロベスピエールの理想が過去に実現されたもの、すなわち未来にかなうはずの願いだからこそ美しいのだ。

しかし、彼の理想は現実の前に色あせてゆく。第10場で盟友だったはずのダントンから投げられる言葉がそれを象徴している。
 ダントン「これだけは覚えておけ、俺たちは理想のために革命を始めた。だが、政治ってやつは俺たちが思っている以上に現実なんだ。現実の前では理想なんて無力なもんだ」
 ロベスピエール「無力だと」
このセリフなどは、先にも紹介した歴史上の革命家がたどった挫折そのままだ。

第13場Bの場面では、ダントンが最後にロベスピエールを説得しようとして、ロベスピエールの理想主義者としての致命的な弱点を暴く。
 ダントン「わかってないのはお前の方だ。理想だ、徳だと口では言うが、おまえが与えているのは血と生首と恐怖だ」
 ロベスピエール「今はそう見えるかもしれない。だが、革命が達成されればいずれ」
 ダントン「いいや、そんな日は来ない」
 ロベスピエール「なぜ、そう言いきれる」
 ダントン「おまえが喜びを知らないからだよ。どういうわけか、お前は喜びを遠ざける」
結局、人は理想よりも、目の前の美食や美酒、美女に目移りする生き物なのだ。清廉であろうとすればするほど、潔白であろうとすればするほど、それを人に強要した時に思い通りに動いてくれない他人と自分の思惑にずれが生じてゆく。上のダントンとの会話などまさにその事実を証明している。

なお、今回はこれらのセリフを本レビューで再現すべきだと思ったので、妻にお願いしてLe CINQという劇の詳しいパンフレットを買ってもらった。その中には全セリフが収められており、上記もそこから引用させてもらっている。

本作の何がよいかといえば、場面転換のメリハリだ。本作はセットとライトアップがうまく組み合わされており、場面が転換する瞬間と、前後の場面の主役が誰なのかを観客に明確に伝えることに成功している。今まで見た観劇よりも本作で場面転換の鮮やかさが印象に残った理由は何か。私が思うにそれは、本作のいたるところに描かれていたギロチンをかたどった斜めの線だと思う。開幕前に上がった緞帳の裏には、幕に銀色の筋が右上へと伸びていた。20度ほどの角度で右上に伸びる線がギロチンをかたどっていることはすぐにわかった。そしてこの線は建物のひさし、橋に映る影など、本作を通して舞台のあちこちで存在感を主張する。中でも印象に残るのは、上に紹介したロベスピエールとマリー=アンヌが語らうシーンだ。このシーンで二人が語らう橋に映る影として。それはロベスピエールの目指す革命がギロチンによって断ち切られることを予期しているのと同時に、二人の目指す未来が右肩上がりの線上にあることも示しているのだと思う。つまり、彼の目指す革命とは、この時点では実現が見込めており、二人の未来と表裏一体だったのだ。本作では場面ごとの主人公の心理が斜めによぎる線の色や輝きで表現されている。そのため、場面ごとに何に感情を移入すればよいのか、観客には絶妙なガイドになっているのだ。私はそう受け取った。私が本作の場面転換のメリハリが効いていたと思うのは、そういうところにある。

あと、本作で良かったのは声の通りだ。私が座ったのは1階22列。結構後ろのほうだ。それなのに出演者が発するセリフも、そして何十人もの合唱の言葉も比較的聞き取れた。実は私はあまり耳の聞こえが良くない。今までも観劇をしていて聞き取りにくいことなどしょっちゅうだった。が、本作のセリフはよく聞き取れた。これはとても珍しくそしてうれしい。上でLe Cinqからセリフを引用したのも、本作のセリフがよく聞き取れるがゆえにかえって覚えきれなかったことが理由だ。トップの二人の歌声も素晴らしく、それに加えてセリフもよく聞こえる本作は、私にとって気持ちのよい一作となった。

なお、トップ娘役の真彩希帆さんの演ずるマリー=アンヌは、作・演出の生田大和氏がパンフレットで語った言葉によると本作において唯一の架空の人物のようだ。何の不自由もない貴族の暮らしが革命の勃発によって婚約者ともども奪われ、その復讐のために革命の立役者として著名なロベスピエールを狙って近づくうちに恋に落ちるという設定だ。まさに絶妙な設定であり配役だと思う。上に挙げたシーンでは、ロベスピエールの望む理想の暮らしが、マリー=アンヌの失った日々にシンクロするという演出が施され、彼らの掲げる理想が実現する可能性が説得力をもって観客に迫ってきた。

本作は二幕物が好きな私にとって、一幕でも尺の短さが気にならないほど、起承転結がしっかりとまとまった作品として記憶に残ると思う。

さて、レビューである。私がこのところ宝塚を観劇する上で心がけていること。それはレビューの魅力に開眼することである。凄惨な処刑のシーンや悩み苦しむ主人公を見るだけでは観客のカタルシスが得られない。それは私もわかっているつもりだ。だからこそ一幕物の後にはレビューが配され、華麗なラインダンスや目まぐるしく切り替わるきらびやかなシーンで観客の目を奪わねばならない。それも理解しているつもりだ。

正直なところ、まだ舞台に物語性を求める私にとって「SUPER VOYAGER!」と名付けられた本作の魅力がつかみ取れたとは言えない。だが、私は本作を観る前から肝に銘じていたことがある。すなわちレビューに物語性を追うのが徒労だということだ。そういう物語性を排した視点から見ると、本作は二カ所が記憶に残った。一つ目はシーン17,18で披露された白燕尾の群舞のシーンだ。大階段を上り下りしながら、斜めに交差する動き。実に見事だったと思う。あと一つ印象に残ったこと。それはオーケストラボックスの演奏だ。本作で惹かれたのはここだ。リズム隊やギターなど、オーケストラボックスから流れる演奏にビートと切れがみなぎっていた。

私は演奏する姿を見るのが好きだ。ロックコンサートでもついついドラマーの一挙手一投足に目が行ってしまうくらいに。そんな私なので、キレっキレの本作の演奏が流れてくるオーケストラボックスの中をついのぞいてみたくなった。そしてオーケストラボックスの中の人々を表に出せないのだろうか、と妄想をたくましくしてしまった。もちろんオーケストラが表に出れば、舞台のジェンヌさんは隠れてしまう。それはほとんどの観客にとって不本意なことに違いない。多分、圧倒的多数の方に反対されるだろう。でも、オーケストラボックスを底上げするなどして、オーケストラの皆さんを表に出す演出もあってもいいではないか。一度くらい、舞台の華麗な群舞と歌、そして楽器を奏でる皆さんが一堂に集まる様を眺めてみたいと思うのだが。どうだろうか?

‘2018/02/01 東京宝塚劇場 開演 13:30~

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THE SCARLET PIMPERNEL


タカラヅカのスターシステムはショービジネス界でも特徴的だと思う。トップの男役と娘役を頂点に序列が明確に定められている。聞くところによると、羽の数や衣装の格やスポットライトの色合いや光度まで差別されているとか。

トップの権限がどこまで劇団内に影響を及ぼし得るのか。それは私のような素人にはわからない。だが想像するに、かなり強いのではないか。それは演出家の意向を超えるほどに。本作を観て、そのように思った。

今回観たスカーレット・ピンパーネルは、星組の紅ゆずるさんと綺咲愛里さんがトップに就任して最初の本格的な公演だ。ほぼお披露目公演といってもよい。鮮やかな色を芸名に持つ紅さんだけに、スカーレットの緋色がお披露目公演に選ばれたのは喜ばしい。

紅さんを祝福するように舞台演出も色鮮やかだ。革命期のフランスを描いた本作では、随所で革命のトリコロール、今のフランス国旗でも知られる自由平等博愛のシンボルカラーが舞台を彩る。青白赤が舞台を染め、スカーレット・ピンパーネル、つまり紅はこべの緋色がアクセントとして目を惹く。イギリス貴族達のパーティーでは、フランスからの使節ショーヴランの目を眩ませるため、あえて下品とも言えるド派手な色合いの衣装に身を包む貴族達。ここで下品さを際立たせる事で、他の場面の色合いに洗練された印象を与える。つまり、舞台の演出効果として色使いだけで下品さと上品さを表現しているのだ。

この演出は、本作の主役のあり方を象徴している。イギリスの上流階級に属する貴族パーシーと、フランス革命に暗躍しては重要人物をフランスから亡命させるスカーレット・ピンパーネル、そして大胆にもフランス革命政府内部でベルギーからの顧問として助言するグラパン。これらは同一人物の設定だ。実際、これら三役を演ずるのは紅さん一人。この三役の演じ分けが本作の見所でもある。

ただし、演出と潤色を担当した小池氏の指示が及ぶのはここまでだろう。ここから先の演出はトップの紅さん自らが解釈し、自らの持ち味で演じたように思う。本作は、演出家の意図を超え、トップ自らが持ち味を演出し、表現したことに特徴がある。

トップのお披露目とは、トップのカラーを打ち出すことにある。殻にハマった優等生の演技は不要だ。とはいえ、本作での紅さんの演技はいささかサービス過剰といっても良いほどにコメディ色が奔放に出ていたように思う。紅さんは、タカラヅカ随一のコメディエンヌ(いや、この場合コメディアンと言うべきか?)として知られる。紅さんのシリアスな演技とは一線を画したコメディエンヌの演技は、本作に独特の味を付けている。そして、この点は本作を観る上で好き嫌いの分かれる部分ではないか。

紅さんがおちゃらけた演技を見せる際、どうしても声色が高くなってしまう。地声も少し高めの紅さんの声がさらに高くなると言うことは、女性の声に近くなる。知っての通り、ヅカファンの皆様は男役の皆さんが発する鍛え抜いた低音に魅力を感じている。それは、トップであればあるほど一層求められる素養のはず。男役トップのお披露目公演で、男役トップから女性らしさが感じられるのはいかがなものか。第一幕で感じたその違和感は、男役にのぼせることのない私でさえ、相当な痛々しさを感じたほどだ。幕あいに一緒に観た妻に「批判的な内容書いていい?」確認したぐらいに。私でさえそう感じたのだから、タカラヅカにある種の様式美を求める方にとっては、その感情はより強いものだったと思う。

だが、第二幕を観終えた私は、当初の否定的な想いとは別の感想を持った。

私がそう思ったのは、紅さんのバックボーンに多少触れたことがあるからかもしれない。まだ娘達がタカラヅカの世界に触れ始めた数年前、父娘3人で通天閣を訪れたことがある。紅さんの出身地に行きたいとの娘たちの希望で。当時、二番手男役として頭角を現していた紅さんは、紅ファイブなるユニットを組むほどにコメディに秀でた異色のタカラジェンヌさんだった。

通天閣のたもととは、大衆演劇の聖地。街を歩けば商店街の各店舗がウィットに富んだポスターを出し、そこらにダジャレがあふれている。ツッコミとボケが日常会話に飛び交い、それを芸人でもない普通の住民がやすやすとこなす街。紅さんはこのような街で生まれ育ち、長じてタカラジェンヌとなった。隠そうにも出てしまうコメディエンヌとしての素質。これは紅さんの武器だと思う。

一方で、タカラヅカとは創立者小林逸翁の言葉を引くまでもなく、清く正しい優等生のイメージが付いて回る。随所にアドリブは挟みつつもまだまだ演出に縛られがち。そもそもいくらトップとはいえ、対外的には生徒の位置付けなのだから、演出家の意向は大きいのではないか。自然とトップとしての持ち味も出しにくい。実際、妻の意見でも、最近のジェンヌさんは綺麗な美少年キャラが多くなりすぎ、だそうだ。

そんなタカラヅカに、新風を吹かせるには、紅さんのキャラはうってつけ。お笑いを学んだSMAPがお茶の間の人気者になったことで明らかなように、生き馬の目を抜くショービズ界で生き残るには笑いがこなせなければ厳しい。であれば、本作の紅さんの過剰なコメディ演技に目くじらを立てるのはよそうじゃないか。幕間に私はそんな風に思い直した。

すると、第二幕では、第一幕で感じた痛々しさが一掃されたではないか。視点を変えるだけで舞台から受ける印象は一変するのだ。ただ、その替わりに感じたのは、紅さんの魅力をより際立たせる演出の不足だ。それはメリハリと言い換えても良い。私の意見だが、演出家は、メリハリを男役トップの紅さんのコミカルさと、二番手のショーヴランを演じた礼真琴さんの正統な男役としての迫力の対比に置こうとしたのではないか。確かにこの対比は効果を上げていたし、礼真琴さんの男役としての魅力をより強めていた。私ごときが次期トップをうんぬんするのは差し出がましいことを承知でうがった見方を書くと、次期トップの印象付けととれなくもない。

だが、上に書いた通り、紅さんのトップお披露目は、タカラヅカ歌劇団が笑いもこなせる万能歌劇団として飛躍するまたとないチャンスのはず。であれば、紅さんのコメディエンヌとしての魅力をより引き出すためのメリハリが欲しかった。そのメリハリは、役の演じ分けで演出できていたはず。本作で紅さんは、パーシー 、ピンパーネル、グラパンで等しくおちゃらけを入れていた。だが、それによってキャラクターごとのメリハリが弱まったたように思う。例えばパーシーやピンパーネルでは一切おちゃらけず、替わりにグラパンを演ずる際は徹底的にぶっ壊れるといった具合にすると、メリハリもつき、コメディエンヌとしての紅さんの魅力がアップしたのではないか。特にずんぐりむっくりのグラパンからスラッと爽やかなピンパーネルへの一瞬の早がわりは、本作の有数の見せ場なのだから。この場面を最大限に活かすためにも、コミカルな部分にメリハリをつけていれば、新生星組のトップとして、笑いもオッケーの歌劇団として、またとないお披露目の舞台となったのに。

‘2017/06/06 東京宝塚劇場 開演 13:30~

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THE KINGDOM


昨年、家族+2名の友人を連れて観劇したのが、宝塚歌劇 月組の『ルパン -ARSENE LUPIN-』。本作はそのスピンオフ作品であり、ルパンで舞台となった時代をさらに遡り、ルパンの中で重要な脇役である2人の男を主役に据えた物語である。

主役は2人。凪七 瑠美扮するドナルド・ドースンと、美弥 るりか扮するパーシバル・ヘアフォール伯爵である。ルパンではヒロインであるカーラ・ド・レルヌを巡る4銃士のうちの2人として、同じ配役で20年後の時代を演じていた二人。今回はその若かりし日々の二人の出会いと、二人が協力して国際的な陰謀を防ぐための奮闘が描かれる。

もう少し粗筋を書くと、英国王ジョージⅤ世の戴冠のタイミングで、ロシアのボルシェビキが勢力を伸ばし、ロマノフ王朝のニコライⅡ世の亡命が現実の問題として迫る時代が舞台である。兄の急死によってヘアフォール伯爵家を継ぐことになったパーシバルは、ロマノフ家とイギリス王家との橋渡し役としての使命を死の床の兄から託される。また、長じてイギリス情報部員となったドナルド・ドースンは、ロシアからの亡命政治犯が活動を活発化させる中、イギリス王制への陰謀の種を見つける。二人は協力し、英国を陰謀の渦から救うため奔走する。だが、ロシアからの活動家の運動は扇動されたものであり、実は背後には戴冠式に使うダイヤ「カリナン一世」を盗み出すためのルパンの策略があった・・・・。

今回の公演は上にも挙げたとおり二人をトップに立てた公演である。今後の月組を担う二人を競わせ、成長させるために用意されたように思えた。ダブルスター制の公演であり、トップに対してのようなオンリーワンの演出こそないが、二人を表に立たせ、良さを際立たせるような演出が随所に感じられた。或いは本作の反応によっては今後の月組のトップ人事にも影響を及ぼすのかもしれない。

私はそれほどトップ人事に関心はない。が、妻子が宝塚好きであるため、オフィシャルな情報や雑談レベルの憶測をあれこれと吹き込まれている。そんな立場なので、二人のこれからをどうこういう知識も資格もないのは承知で、敢えて本作の感想を込めて書いてみることとする。

宝塚は周知の通り、出演者全員が女で、その約半分が男を演ずるという世界的にも稀有な劇団である。そんな中、男役としてのトップに立つにはダンス・歌・演技はもちろんの事、立ち居振る舞いも男らしさが求められる。トップともなれば、広い劇場の客席に「男」としての魅力を遍く行き渡らせる必要がある。遠い客席の隅からその男っぷりを感じるとすれば、それはどこに対してだろうか。私が思うに、それは声ではないかと思う。遠い客席から舞台上の人物を感じるに、視力やオペラグラスでは心もとない。しかし声ならば隅々まで届く。

凪七 瑠美はパンフレットでもクレジットでもトップに配されている。が、男役としては苦しそうな低声の発声が耳に残った。無理やり男性ボイスを絞り出しているような、「男」を苦しそうに演じているような声からは、男役としての迫力が感じられない。また、舞台上のシルエットにも押し出しの強さが感じられず、トップとしてのオーラに欠けているように思えたのは私だけだろうか。

一方、美弥 るりかは声の低音部にも張りがあり、押し出しも堂々たるものがあるように思えた。もっともこの感想は、私のような素人がたかだか2公演観ただけで判断したものである。上にも書いた通り、私がどうこういう話では無論ない。私は、引き続き妻子からのピーチク情報を頼りとし、今後を見守りたいと思う。

主演の二人以外のメンバーについては、副組長以外は、比較的若手のメンバーで構成されていたように思える。劇中でも4,5回ほど台詞のトチリがあった。千秋楽の前日でこれはどういったことだろう、と苦言を少々申したい。

が、そういった些細な生徒さんのミスは差し引いても、本作のストーリーは良いものがあったと思う。ルパンは今一つ登場人物の関係にメリハリがなく、少々わかりにくいものであったが、今作ではそれが改善されていたように思える。ストーリーが整理されていたため、筋の進み方にも起承転結があったと評価したい。

一方で、スピンオフ作品と銘打ってしまっていたためか、演出上の端々に物語のエピローグであるルパンが意識されていたことも否めない。そのため、ルパンを観ていない観客にとっては少々わかりにくい部分もあったと思われる。ただ、ルパンのストーリーで分かりにくかった部分が本作で説明されたことで、本作を観て改めてルパンを観たいと思ったのは私だけではないだろう。

2014/7/27 開演 15:00~
https://kageki.hankyu.co.jp/revue/388/