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府中三億円事件を計画・実行したのは私です。


メルカリというサービスがある。いわゆるフリマアプリだ。
私が初めてメルカリを利用した時、購入したのが本書だ。

本書はもともと、小説投稿サイト「小説家になろう」で800万PVを記録したという。そこで圧倒的な支持を得たからこそ、本書として出版されたに違いない。
あらゆる意味で本書が発表されたタイミングは時宜にかなっていた。
発刊されたのが事件から50年という節目だったことも、本書にとっては追い風になったことだろう。本書を原作とした漫画まで発表され、ジャンプコミックスのラインアップにも名を連ねた。
私も本書には注目していた。なのでメルカリで数百円のチケットを得、本書の購入に使った。

本書は、犯人の告白という体裁をとっている。
事件から50年の月日がたち、真相を埋れさせるべきではないと考えた老境の犯人。彼は妻が亡くなった事をきっかけに、息子に自らの罪を告白した。
親の告白を真摯に受け止めた息子は、これは世に公開すべき、と助言した。
助言するだけでなく、息子は親の告白をより効果的に公開できるように知恵を絞った。身分が暴露されないように、なおかつ告白の内容が第三者に改変されないように。
その熟慮の結果、息子がえらんだ手段とは、小説投稿サイトに投稿し、世間に真実を問うことだった。実に巧妙だ。
その手段は、本書の発表の時期、媒体、内容を選んだ理由に説得力を与えている。さらに、その説得力は本書に書かれた事件の内容が三億円事件の真実かもしれない、と読者を揺るがす。
本書の文章や文体はいかにも小説の書き方に慣れていない人物が書いたようだ。この素人感がまた絶妙なのだ。なぜなら著者は小説家になりたいわけではなく、自らの罪を小説の体裁で世に出したかっただけなのだから。
文中でしきりと読者に語りかけるスタイル。それも、今の小説にはあまり見られない形式であり、この点も著者の年齢を高く見せることに成功している。

だが、そうした記述の数々が不自然という指摘もある。
そうした疑問の数々に答えてもらおうと、BLOGOS編集部が著者にメールでインタビューし、コメントをもらうことに成功したらしい。
こちらがその記事だ。
それによると、著者が手書きで書いた手記を、息子がデータに打ち直し、なおかつ表現も適切に改めているらしい。そうした改変が、70才の著者が書いたにしては不自然な点がある、という指摘を巧妙にかわしている。実に見事だ。

何しろ、三億円事件と言えば日本でもっとも有名な未解決事件と言っても過言ではない。
有名なモンタージュ写真とともに、日本の戦後を語る際には欠かせない事件だといえる。

それほどまでに有名な事件だけあって、三億円事件について書かれた小説やノンフィクションは数多く出版されている。
私にとっても関心が深く、今まで何冊もの関連本を読んできた。

なぜそれほどまでに、三億円事件が話題に上るのか。
それは、事件において人が陰惨に殺されなかったからだろう。
さらに、グリコ・森永事件のように一般市民が標的にならなかったこともあるかもしれない。
ましてや、保険金が降りた結果、日本国内では損をした人間がほぼいなかったというから大したものだ。
あえて非難できるとすれば、長年の捜査によって費やされた税金の無駄を叫ぶぐらいだろうか。

三億円事件は公訴時効も民事時効もとっくに過ぎている。今さら犯人が名乗り出たところで、犯人が逃亡期間を海外で過ごしていない限り、逮捕される恐れもない。
つまり、三億円事件とは、犯罪者の誰もがうらやむ完全犯罪なのだ。
その鮮やかさも、三億円事件に対する人々の関心が続いている理由の一つだろう。

そんな完全無欠の犯罪を成し遂げた犯人だと自称する著者。その筆致は、あくまでも謙虚である。
そこには、勝ち誇った者の傲慢もなければ、上り詰めた人間が見下す冷酷もない。逃げ切った犯罪者の虚栄すらもない。
本書の著者から感じられるのは、妻を失い、後は老いるだけの人生に寄る辺を失わんとする哀れな姿のみだ。

あれほどの犯罪を成し遂げた人でも、老いるとこのように衰える事実。
老いてはじめて、人は若き日の輝きを眩しく思い返すという。だが、本書から感じられるのは輝かしさではない。哀切だ。誰も成し遂げられなかった犯罪をやり遂げた快挙すら、著者には過ぎ去った哀切に過ぎないのだろう。

1968年といえば学生運動が盛んだった時期だ。当時の若者は人生の可能性の広大さに戸惑い、何かに発散せずにはいられなかった。現代から見ると不可解な事件が散発し、無軌道な衝動に導かれた若者たちが暴れていた。中核派が起こしたあさま山荘事件や、日本赤軍がテルアビブ空港で起こした乱射事件。東大安田講堂の攻防戦など、現代の私たちには到底理解できない衝動。その衝動は本書の著者いわく、犯行のきっかけにもなっているという。
若さを縦横にかけまわり、何かに対してむやみに吠え立てていた時期。そうした可能性の時期を経験したにもかかわらず、老いると人はしぼむ。
本書の内容が歴史的な事実がどうかはさておき、本書から得られる一番の収穫とは、無鉄砲な若さと老いの無残の対比だろう。
それが、手練れの文章ではなく、素人が描いた素朴な文章からつむぎだされるところに、本書の良さがあると思う。

著者から感じられる哀切。それは、著者がいうように、犯罪を遂行する過程で人を裏切ったことからきているのだろうか。
そもそも、本書に書かれていることは果たして真実なのだろうか。
そうした疑問も含め、本書はあらゆる角度から評価する価値があると思う。
文章に書かれた筋書きや事件の真相を眺め、それだけで本書を評価するのは拙速な気がする。
発表した媒体の選定から、読者の反応も含め、本書はメディアミックスの新たな事例として評価できるのではないだろうか。

さきに挙げたBLOGOSのインタビューによると、著者は本書の後日談も用意しているという。
たとえば犯罪後、関西で暮らしたという日々。そこでどうやって盗んだ紙幣を世に流通させずに過ごせたのか。そもそも強奪した紙幣のありかは。
そうした事実の数々が後日談では描かれるという。
他にも本書で解決されなかった謎はある。
たとえば、本書に登場する三神千晶という人物。この人物は果たして実在する人物なのか、というのも謎の一つだ。これほどまでにできる人間が、その後、社会で無名のまま終わったとは考えにくい。本書はその謎を解決させないまま終わらせている。
だが、当該のインタビュー記事から1年半がたとうとする今、いまだに続編とされる作品は出版されていない。
そもそもの発表の場となった小説家になろうにも続編は発表されていないようだ。

NEWSポストセブンの(記事)の中で、本書の内容に対して当時捜査本部が置かれた府中署の関係者にコメントを求めたそうだ。だが、「申し上げることはありません」と語ったそうだ。

願わくは、後日談が読みたい。
続編がこうまで待ち遠しい小説もなかなかあるまい。

‘2019/02/03-2019/02/04


犯罪


本書は、ヨーロッパの文学賞三つを受賞した。その三つとはクライスト賞、ベルリンの熊賞、今年の星賞だ。どれほどすごいのかと本書を読み終えたが少し拍子抜けした。つまらなくはない。逆だ。本書はとても面白かった。面白かったが、読後の余韻が弱いように思えた。余韻がそれほど私の中で尾を引かなかったのが意外に思えた。

おそらくそれは、本書が短編集であることに理由がありそうだ。一つ一つの短編はとても良くできている。それぞれに余韻もある。だが、一つ一つが優れていることは、読者をそれぞれの短編に没入させる。読者が短編の世界に入り込む時、前の短編が響かせた余韻は消えてしまう。それは短編の宿命だともいえる。

登場人物の背景をじっくり書き込み、彼らが犯罪を犯した理由をあらゆる著述テクニックを駆使して語る。本書に収められた各短編は実に素晴らしい。だが、短編であるため、それぞれの編ごとに読み手は気分を切り替えなければならない。そのため、一つ一つの印象が弱くなる。それぞれの短編の出来にばらつきがあればまだいい。だが、本書はそれぞれの短編が優れていたため、逆に互いの印象を弱めてしまった。

ただ、本書は全体の余韻が弱い点を除けば、著者の本業が弁護士であるとは思えないほどよくできている。本書の各編のモチーフは著者が見聞きした職業上の経験であることは間違いない。そうは思いながらも、本書の扉に掲げられている箴言が、読者の勘繰りをあらかじめ妨げる。

「私たちが物語ることのできる現実は、現実そのものではない。」
ヴェルナー・K・ハイゼンベルク

本書で書かれた物語は現実そのものではない。だが、現実は小説よりも奇なり、ということだろう。実際に各編に描かれたような出来事は起き、関係者に傷を残した。それはほぼ間違いないと思う。それが本書に迫真性を与えている。本書に対して登場人物に血が通っているとの評も見かけたが、それもうなづける。

たとえば、巻頭を飾る「フェーナー氏 Fähner」は、長年の妻からの圧迫に耐え続けた夫が、老いてから妻を惨殺する話だ。なぜもっと早くに夫はその状況から逃げようとしなかったのか。なぜすべてが終わろうとする今になって妻を殺したのか。そこにはあるのは、犯罪ではない。人生という不可思議なものの深淵だ。

本書が扱うのは、犯人が誰か、動機は何か、手口はどうやって?という推理小説の文脈ではない。本書が扱う謎はもっと深い。各編は単なる謎解きではない。そもそも、各編には冒頭から犯罪をおかす人物が登場する。つまり本書はwhodunit(Who Done It?)ではなく、howdunit(How Done It?)でもない。ましてやwhydunit(Why Done It?)でもない。では何か。

本書が書こうとするのは、犯罪とは何か(What Is Crime?)なのだと思う。または、罪とは何か(What Is Sin?)と言い換えてもいい。その問いこそが本書に一貫して流れている。犯罪とはなにか? 冒頭のフェーナー氏の事案はまさにそれを思わせる。

続いての「タナタ氏の茶盌 Tanatas Teeschale」もスリリングだ。ちんけな犯罪者二人組が盗んだのが、日本の財閥グループの総帥がドイツに持つ別邸の茶盌だ。これが盗まれてからというもの、関係者が謎の失踪をとげ、死体となって見つかる。しかしタナタ氏の関与は全くうかがうことができない。もはやそれは科学の範疇に収まらぬ呪いに等しい。犯罪とはどこからをもって犯罪というのか。まさにWhat Is Crime?だ。タナタ氏の意思がどう呪いの実行者に伝わったのか。実行者はそれをどう遂行したのか。そもそも何らかの犯罪の指令は発せられたのか。すべては謎だ。

続いての「チェロ Das Cello」も印象に残る一篇だ。富豪の家に生まれた姉弟の悲惨な生涯。姉弟が生まれてから育って行くまでの境遇。そのいきさつが簡潔に、そして冷徹に描かれる。犯罪とは何か。動機とは何か。裁かれるべきなのは誰なのか。全ては環境のせいなのか。この環境を姉弟に与えたものは犯人だと指弾できないのか。本編の姉弟を襲う運命の過酷さはあまりにもむごい。だが、実際にありえたと思わせる迫真性があるのは、本編がとっぴな出来事に頼っていないからだろう。

続いての「ハリネズミ Der Igel」は、本書の中でも少し異色の一編だ。犯罪者一家に生まれながら、自らを愚鈍に装い切った男。その男の成し遂げる完全犯罪の一部始終が描かれる。犯罪とは複数の要素がそろって初めて犯罪となる。その要素とは被害者であり被疑者だ。そして訴状の対象となる犯罪行為。本編がもし実際に起こった出来事をもとに描かれたのであれば、まさに事実は小説よりも奇なりだ。

続いての「幸運 Glück」も、犯罪が何から構成されるのかを問う一編だ。自然に亡くなった死を犯罪によるものと勘違いした主人公は、死体をばらばらにして隠ぺいする。その行いは確かに死体損壊罪に相当するはず。そこに犯罪が成立しているのはたしかだ。だが、その犯罪がなされた動機を考えた時、犯罪者をなんの罪に問うのか。それを追い求め、考えることは、犯罪の本質に迫る道に通じるのかもしれない。

続いての「サマータイム Summertime」は、本書の中でもっともミステリー仕立ての一編ともいえる。そもそも本編の肝となるのは何か。それは捜査の粗さだ。果たしてこれだけの事件程度では日本では検察が犯罪として立件しない気もする。ドイツは日本とは多少司法制度が違っているという。その違いが本編のような出来事が生んだのだろうか。興を削ぐため、詳しくは書かないが興味深い。

続いての「正当防衛 Notwehr」も、犯罪のあり方が何かを問う一編だ。正当防衛とは受けた攻撃に対して、相手への反撃をやむを得ないと判断された場合に成立する。だが、その正当防衛が凄腕の殺し屋によって行れた場合、どう判断すればよいのか。そのあたりがとても興味深い。今の正当防衛を認める法的な解釈には、どこかにとてつもない矛盾が潜んでいるのでは。その矛盾は方そのものへと波及しはしまいか。そんな気にさせられる一編だ。

続いての「緑 Grün」は、統合失調症を扱う。犯人が精神疾患を患っている場合、おうおうにしてその犯罪に対しては罰が課せられない。それは日本に限らず各国も同じようだ。本書もそう。犯罪の疑いがあっても犯罪の結果がない場合、果たしてその統合失調患者を罪に問えるのか、という問題を描いている。本編もまた、実際に起こってもおかしくない物語だ。それがゆえにとても興味深い。

続いての「棘 Der Dorn」もまた、犯罪とは何かを問う。ここで突きつけられる問いとは、組織の存在そのものが罪と言い換えてもよいほどだ。組織の動きがシステマチックであればあるほど、その行いを罪と糾弾しにくくなる。だが、わずかな組織の狂いは、その間に生きる人を犯罪へと導いてゆく。それも長い時間を掛けて。そのような組織の持つ恐ろしさが描かれるのが本編には描かれている。これも今の我が国でも起こり得る出来事だ。

続いての「愛情 Liebe」は、犯罪の予防という視点が持ち出される。その行いが愛情から出たと認められる場合、その者は罰せられない。ところが、そこには将来の犯罪の種が含まれていることも多い。司法に携わる方にとっては、この視点はとても大切ではないかと思う。

最後の「エチオピアの男 Der Äthiopier」は、最後に収められるのにふさわしい一編だ。一人の数奇な男の一生が描かれる。そこにはとても暖かい余韻がある。が、その分、他の10編の余韻が消えてしまうのだ。本編には、人の一生の中で犯罪が一時期の出来事でしかないこと示されている。

‘2018/04/21-2018/04/22