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イカの心を探る 知の世界に生きる海の霊長類


ここ四、五年ほど、イカに魅了されている。イカの泳ぐ姿や水中でホバリングする姿。なんと美しいのだろうか。体の両脇にあるヒレはどこまでも優雅。波打つように動かし、自由自在に海中を動く。その優美な姿や白く輝く体には惚れ惚れするばかりだ。水族館に行くと、イカの水槽の前だけで3、4時間はゆうに過ごすことができる自信がある。

イカの美しさは私にとって魚類どころか生物の最高峰でもある。もちろん、寿司ネタで食べるイカも魅力的だ。だが、それも全て泳ぐ姿の美しさがあってこそ。もちろん、イカの他にも泳ぐ姿が美しい水中生物はたくさんいる。エイやサメやその他の中堅どころの魚も悪くはない。だが、どこか泳ぎに優雅な感じがしない。無理しながら、ゆとりがないように感じるのは私だけだろうか。それは多分、私が水族館の水槽でしか魚を見ていないからだろう。

水族館の大水槽でよく見るのはイワシの大群。だが、そもそも集団行動を好まない私にとって、イワシの群れはあまり魅力的に映らない。その点、イカは優雅だ。優美であり孤高である。私が水族館の生き物でもっとも魅了されたのは、1匹でも生きていくと言う決意がみなぎるそのシルエットだ。イカの気高くもあり、美しさをも備えた姿は、私の心を惹きつけて止まない。

だからこそ、本書のようにイカを愛する研究者がイカを研究する姿にはうらやましさを感じる。そして、つい本を手に取ってしまうのだ。本書は水族館でイカに魅了された後に購入した一冊だ。

著者によると、イカとは実に頭の良い生き物だそうだ。イカと並んで並び称される水中生物にタコがいる。タコの頭の良さはよく取り上げられる。著者によるとイカはタコと同じ位、もしくはそれ以上に頭の良い生物なのだという。

著者は生物学者として琉球大学でイカを研究している方だ。そしてその研究テーマは、イカの知能を明らかにすること。はたしてイカに知能はあるのか。それはどれほど高いのか。その知能は人間の知能と比較できるのか。本書で明かされるイカの知能の世界は、私たちの想像の上をいっている。そもそも私たちはイカをあまりにも過小評価しすぎている。水中でただ泳ぐだけのフォルムのかわいらしい生き物。イカ釣り漁船のあかりにおびき出され、簡単に釣人の手にかかってしまう生き物。そんな風に思っていないだろうか。

私のイカについての貧しい認識を、著者はあらゆる実験で論破してみせる。そもそも、タコの知能を凌駕するイカは、タコに比べるとずっと社会的なのだという。水槽でしかイカを知らない私は、大海原に生きるイカが、群れをなしたり、助け合ったり、個体ごとに相互を認識して、ソーシャルな関係を維持していることを本書で教わるまで知らなかった。イカは種類によっては体色を自由に変えられることは知っていたが、それは敵に対する威嚇ではなく、ソーシャルな関係を結ぶ上でも役に立っていたのだ。それだけ高度なコミュニケーション手段が備わっているイカ。イカに足りないのはストレスへの耐性だけ。それだけはタコの方に分があるらしい。ストレスが募るとすぐに死ぬため、実験や観察がとみに難しいらしい。イカの研究とは大変な仕事なのだ。

イカに群があり、群れを維持するためのソーシャルなコミュニケーションをとっている事実は、イカに知能はどのぐらいあるのか、という次なる興味へと私たちをいざなう。そこで、いわゆる知能テストをイカに試みる著者の研究が始まる。その研究が示唆するのは、イカには確かに一定の知能があるという事実だ。学習し、奥行きを理解して、記憶できる能力。短期記憶だけでなく、長期記憶があること。そうした実験結果は、イカの知能の高さをまぎれもなく証明する。そして驚くべきことに、イカには世代間の教育がないという。つまり、親が子に何かを教えることもなければ、少し上の世代が下の世代に何かを伝える証拠も見つかっていないのだとか。それでいながら知能を発揮する事実に、感嘆の思いしか浮かばない。イカの可能性は無限。

続いて著者が考えるのは、イカのアイデンティティだ。はたしてイカは自我を備えているのか。イカは自分自身を認識できるのか。それが目下、著者の研究の最大のテーマだそうだ。イカが社会性を備えていることは先行する世界中の研究が解き明かしてくれた。あとは社会性がソーシャルな仕組みを作る本能によるのか、それとも自己と他者を認識する自我の高度な働きによるのか。

ところで、イカの自我はどうやって証明するのだろう。何の証拠をもってイカに自我があることが証明できるのか。実は本書で興味深いのは、そうした研究手法のあれこれを惜しげもなく示してくれることだ。イカの自我を証明するための試行錯誤のあれこれが本書には記されている。イカが自分自身を認識することを、どうやって客観的に確認するのか。その証明に至るまでのプロセス自体が、イカに限らず知性の本質に迫る営みでもある。本書はこうした学術的な実験に触れていない私のようなものにとって、実験とは何を確認し、どう仮説を立てるのかについての豊富な実例の山なのだ。

そうした工夫の数々は、私のようなロジックだけが頼りの情報の徒にとってみると、はるかに難易度が高い営みに思える。イカの研究者は、手探りで先達の研究を学び、試行錯誤して改良を重ね、研究してきたのだ。本書はそうした生物学の現場の実際を教えてくれる意味でも素晴らしい内容だ。

もちろん、イカの姿を見て飽きることを知らない私のようなイカモノずきにとって、イカに対する愛着をさらに揺るぎないものにしてくれることも。

‘2018/08/17-2018/08/20


ヘンな論文


研究とは本来、何をしても自由な営みのはず。夏休みの自由研究のように。ところが、庶民からみるとそうは思えないフシがある。手続きと形式。前例と引用。それらが積み重なると、おいそれと門外漢が首を突っ込めなくなる世界が出来上がる。そして、本来は自由であるべき研究が権威のベールをまとってゆく。その結果、研究が象牙の塔にこもった者だけに許された高尚な営みになる。それが積み重なり「研究している人=偉い」の図式が完成する。

実際、私もそう思いこんでいた。イグ・ノーベル賞なんてものがあるにも関わらず、私の心は勝手に研究=偉いと権威付けをしていた。それは誰のせいでもなく、私自身の思い込み。だが、本書を読んだ今、私は猛省の必要を感じている。

本書を読むと、研究に対する堅苦しい観念が解けていくようだ。本来、研究とはもっと自由。好奇心の赴くままに、人類の知見の限界をひろげる心の高ぶりに、後ろ向きな要素が紛れ込むはずはない。形式やテーマのに縛りがあってはならないはずなのだ。もちろん、研究の成果を万人に証明するためには綿密な論理に沿うことが求められる。だから形式に縛られることは仕方がない。でも、ユニークで型破りな研究テーマであれ、きちんとした構成に沿った展開がなされていれば研究テーマとして成立することを本書は教えてくれる。それは私のような市井のものが、自分で勝手に研究というものを高みに祭り上げているに過ぎない。

本書に載っている研究を読むと、王道を行く研究や脚光を浴びる研究よりも、私たちの実際の生活に役に立っているのではないか。そう思えてくる。

本書の著者は、漫才コンビ「米粒写経」の一人であり、オフィス北野に所属するサンキュータツオさんだ。そして「珍論文コレクター」でもある。さらには日本語学者として、各大学で講師も担当されているようだ。私はテレビでサンキュータツオさんをみたことがなく、本書ではじめてお会いした次第だ。

本書はサンキュータツオさんのユニークな立場から編まれた一冊。学術の観点から真面目な研究のズレを、笑いのタネとして取り出す。実際、サンキュータツオさんの研究テーマの一つは、笑いの源泉がどこにあるのかを突き止めることにあるそうだ。

以下に、それぞれのタイトルと簡単な紹介を付けてみた。もちろん、本書ではサンキュータツオさんが面白い文章で解説をつけてくれている。私の文章より、サンキュータツオさんのそれの方が面白いことは言うまでもない。

一本目  「世間話」の研究
ヨコハマメリー。河原町のジュリー。かつて横浜の一角で名をはせていたヨコハマメリーの伝説が、どうやって口コミを通して人々に伝わってきたのか。それを追うことで、口伝の伝わり方を社会学の観点から考察する。

二本目  公園の斜面に座る「カップルの観察」
横浜港大さん橋国際客船ターミナル。ここには人工芝の敷き詰められた斜面がある。私も行ったことがあるここは、カップルにとっては格好のデートスポットだ。研究者はこのカップルの姿を観察し、男と女の関係性を考察する。これまた面白い。

三本目  「浮気男」の頭の中
浮気男への真面目な動機と結果の聞き取り。これも奇想天外な研究テーマであり、素人の目にはそもそもどうやってデータを定量化するのか、という疑問が生じるのだが、研究者は情熱を傾けて、浮気男の生態や脳内や考え方を追求する。これも立派な研究テーマと成り得るのだ。

四本目  「あくび」はなぜうつる?
あくび指南、という落語の演目がある。この研究からはそれを思い出した。ところが、読んでみると実に奥が深い。霊長類にみられる共感性が研究結果からはあぶりだされる。あくびとする話を聞くとあくびしたくなるが、その現象がみられるのは6歳からだそうだ。あくびをした映像からあくびが誘発されるのは5歳から。4歳以下はうつらない。霊長類以外の他のほにゅるいにはあくびが移る現象はない。奥が深い。

五本目  「コーヒーカップ」の音の科学
コーヒーカップのインスタントコーヒーの粉末を入れ、スプーンをかき混ぜるとコップとスプーンが当たる音に変化が生じる。何気ない日常の出来事も、観察力のある方がみると立派な研究テーマとなりうるのだ。本編からは物理の奥深さ、かつて寺田寅彦が追い求めた科学の深淵なテーマの継承者の姿が感じられる。

六本目  女子高生と「男子の目」
女子高と共学校で、女子のフルマイの違い。思春期の男子にとってはとても気になるテーマであり、研究者の動機によってはかなりヤバい眼を向けられかねない。研究者は果敢にこのテーマに挑む。でも行動心理学の点からも、人間の性愛の点からすると、絶対に外せないテーマだといえる。

七本目  「猫の癒し」効果
猫Caféに来た方のアンケートから、実際、人が猫にどう癒やされているのかを探る。これもまた、感覚的な現象だと見過ごされがちなテーマだ。が、研究者にとっては興味深いといえる。アニマルセラピーという言葉もある通り。猫が好きな私にとっても興味あるテーマだった。

八本目  「なぞかけ」の法則
なぞかけの種類。その面白さ。面白さへの反応速度。これは著者自身が笑いを追求する観点から、熱の入った内容だ。ところが同じ語彙が持つ二重の意味を追うなぞかけは、言語学の視点からも興味深い営みなのだ。これもまた、立派な研究テーマになりうることに興味は尽きない。

九本目  「元近鉄ファン」の生態を探れ
オリックスと楽天に分かれたプロ野球の再編。近鉄という球団がなくなってかなりの年月がたった今、近鉄ファンは何に心の憂さをぶつけているのか。そもそもどの球団を応援するのか。大阪人の私としてもとても面白く読めた。かつて南海ホークスがあったころ―野球ファンとパ・リーグの文化史
という南海ホークスのファン心理を描いた本に感銘を受けた身としては。

十本目  現役「床山」アンケート
床山とは相撲の関取の髪結いの仕事で生計を立てる方々だ。現役の床山にアンケートをとり、その結果を掲載する。これだけでも研究成果として評価されるその事実が新鮮だ。結局研究とは、ほかの人々が知りえない事実を外部の目から観察することにある、ということなのだろう。

十一本目 「しりとり」はどこまで続く?
しりとりがどこまで続くのかを考察したこちらは、無数にある語彙の先頭の文字と最後の文字を統計的に網羅する研究だ。ただ語彙の文字を網羅するだけなら味気ない研究が、「しりとり」を加えるだけで一気に親しみやすくなる。その着眼点が面白い。

十二本目 「おっぱいの揺れ」とブラのずれ
こちらも色物に思えるかもしれないが、りっぱな研究だ。とくに下着メーカーにとっては欠かせない。というより、下着メーカーは間違いなく内部で研究していたはずのテーマだ。それをこのように外部に公開し、社会の共有財産として発表するところに意義がある。実は企業によっては知られざる研究があるはず。たとえば便器のメーカーとか。

十三本目 「湯たんぽ」異聞
古今東西、あらゆる湯たんぽを収集した伊藤紀之先生がこちらのテーマだ。東芝に就職し、共立女子大学で教職の道につきながら、湯たんぽを集め続けたこの先生のコレクションから、湯たんぽの奥深さを聞き取るのが本編だ。コレクションというものも、それが個人の自己満足ではなく外部に発表されたとたん、りっぱな研究になりうることを示している。

さて、本書はこの十三本の研究が収められているが、合間にも著者によるコラムが挟まれている。

「Column1 論文とはどんなもの?」
紀要。論文誌。そうしたものの違いだ。どれもが研究者ではない一般の人にはなじみのない話だ。だが、無味乾燥の山から、本書に集められたような面白い研究を見いだすことも、りっぱな著者の研究といえるだろう。

「Column2 研究には4種類ある」
この4種類とは、以下の通り。
「人間とはなにか」の「いまどうなのか」
「人間とはなにか」の「いままでどうだったのか」
「この世界とはなにか」の「いまどうなのか」
「この世界とはなにか」の「いままでどうだったのか」
お気づきのとおり、ここには未来が抜け落ちている。本来ならば未来を予想することは実利の面から考えると重要なはず。ただ、未来を予測するには過去と現在を見なければならない、ということなのだろう。そもそも未来には実体がないので、研究の対象にはなりえないのだろう。

「Column3 画像がヘンな論文たち」
ここでは、「力石の画像」という研究例があがっている。ただひたすら、全国の各地にある力石の画像が並べられている。これも先にあった湯たんぽと同じく、個人のコレクションで終わるのではなく、こうして発表されることで研究の成果として成立するのだろう。

「Column4 タイトルの味わい 研究者の矜持」
研究者はタイトル一つにも工夫を重ねる。タイトルが内容を表し、なおかつキャッチーであるべき。読む側も人間なので、無機質なタイトルでは反応も見込めないということだろうか。

こうして一連の研究を読んでいくと、あらためて研究とは本来、自由であるべき営みなのだ。そこに形式というルールを当てはめるのは、不正や読む側への便宜を図っているだけに過ぎない。私が無数の研究論文を読むひまはないだろうが、機会があれば読みたいと思う。研究とは現状維持を嫌い、前向きに何かを探し求める営み。それは私の人生でもあるのだから。


異端の数ゼロ 数学・物理学が恐れるもっとも危険な概念


EXCELを使っていて、誰もが一度は遭遇したことがある #DIV/0エラー。セルの関数式で、ある数または関数の結果が0で割られた際に出現するエラーだ。0で割ると正常な結果を得られない。これはEXCELでもどうしようもない仕様だ。もちろんバグではない。数を0で割ることは高等数学でもできないのだから。本書の第0章では、米国軍艦ヨークタウンがプログラム内に潜んでいた0で割るバグによって止まってしまったエピソードも紹介される。

本書はこの0に焦点をあて、人類が0を使いこなそうと努力して来た歴史がつづられる。

第1章は古代バビロニアからエジプト、ギリシャ、ローマ、マヤの諸文明の0の扱いをみていく。そしてもちろんそれらの文明は0を知らぬ文明だった。数を数えたり、暦を作ったり、面積を調べる上で、数があることが前提だから当然だ。数がないという概念を数体系に含める必要はなかったのだから無理もない。実務に不要な0はこれら文明では顧みられなかった。逆にマヤ文明に0の概念があったことのほうがすごい。

第2章では、ギリシャに焦点が当てられる。そこでは0に迫ろうとする者たちが現れるからだ。その者の名はゼノン。彼によるアキレスと亀のパラドックスだ。亀の歩みにアキレスは永遠に追いつけないというアレだ。あのパラドックスが0の概念を如実に表していること、それを私は本書で知った。つまりこのころすでに無限に小さな数として0は発明されていたかもしれないのだ。だが、そのチャンスはアリストテレスがゼロを退けたことで一千年以上遠ざかる。なぜ彼の学説がそれほど長く用いられたか。それは彼の学説が神の存在証明に有用だったからに他ならない。

アリストテレスは0を忌避すると同時に無限の証明も拒否した。無限とは外側の数だ。地球は不動である事は当時の常識だった。では何が天体を動かすのか。それはさらに外の天体が動かすからに違いない。ではその外の天体は、さらに別の天体によって動かされている。ではその天体を動かすのは、、、と考えて行くと最終的に仕組み全体を動かす存在が求められる。アリストテレスはそれを神となぞらえた。神とは人知を超えるところにあるから神なのだ。0も無限も。

その考えはのちにキリスト教会によって布教に取り入れられる。神の存在が信仰の前提であるキリスト教会にとっては、アリストレテスの考えは金科玉条とすべきものだったのだろう。そのため、神の存在を証明するアリストテレスの学説が長きにわたり西洋世界を覆い続ける。

西洋にとっては不運とでも言おうか。0がなくてもギリシャは繁栄し、ローマは版図を広げてしまったのだから。さらに0にとっては不運なことにローマ崩壊後、神の存在が広く求められる。アリストレテスの神学を受け継いだキリスト教の繁栄だ。0を忌避したアリストレテスの神学は、西洋から0の存在する余地を奪い去ってしまう。その結果が西洋にとっての暗黒期だ。

本書を読んでいて気づくのは、数学の発展と文明の発展が対になっていることだ。あたかも寄り添い合う双子のように。そしてローマ崩壊後の西洋は暗黒期に突入し、東洋は逆に発展してゆく。その事実が対の関係を如実に表す。

足踏みを続ける西洋を尻目に0は東洋で産声を上げる。インドで。

0123456789。これらをいわゆるアラビア数字と呼ぶ。でも、実はこれらの数字はインドで産まれたのだ。インド生まれの数字が、なぜアラビア数字と呼ばれるようになったのか。この由来にも文明の伝播と数学の伝播が重なっていて興味深い。当時の西洋は、イスラム教とともにやって来たアラブ商人が席巻していた。アラブ商人が商売を行う上で0はすこぶる便利な数だったのだ。そして当時のイスラム社会は数学でも世界最先端を行っていた。アルゴリズムという言葉の語源は、当時のイスラム世界の大数学者アル=フワリズミの名前に由来することなど興味深い記述がたくさん出てくる。

そして、この時期に1を0で割ると無限大になる無限の観念が西洋に伝わる。いまや旧弊となった神の理論に徐々にほころびが見え始める。その結果、起こったのがルネサンスだ。ルネサンスと言えば後世のわれわれにはきらびやかな美術品の数々でその栄華の残照を知るのみ。だが、数学は美術の世界にも多大な影響を与えた。

例えばフィボナッチが発見したフィボナッチ数列は、黄金比率の確立に貢献した。また、ブルネレスキが見いだした消失点は、絵に奥行きを与えた。無限の彼方の一点に絵の焦点を凝縮させるこの考えは、無限の考えに基づいている。この辺りの事実も興奮して読める。

ルネサンスは教会の権威が揺らぐに連れ進展する。教会の権威に挑戦した皮切りはコペルニクスの地動説の証明だ。その後、数学者たちが次々に神の領域に挑んで行く。以後の本書は、数学者たちによる証明の喜びが中心となる。いまや神は発展を謳歌し始める数学と文明に置いていかれるのみ。

まずはデカルトとパスカル。デカルトによる座標の発明は、軸の交点である0の存在なしにはありえない。パスカルは真空の発見とともに確率論の祖として知られる。パスカルの賭けとは、神の存在確率を証明したものだ。だが、その論理を支えているのはパスカル本人による信仰しかない。すでに神が科学の前に劣勢であることは揺らがない。

ニュートンによる微積分の発見は、無限小と無限大が数式で表せるようになったことが革命的だ。そしてこれによって科学者たちの関心は神の存在証明から離れて行く。替わりに彼らが追い求めるのはゼロと無限だ。この二つは常に相対する双子の観念だ。しかし、その正体はなかなか姿を見せない。ニュートンの微分はそもそも無限小の二乗を無限に小さい数であるため0に等しいとみなしたことに突破口を見い出した。無限小を二乗したら0と扱い、なかったこととすることで、証明のわずかなほころびを繕ったのだという。それによって微分の考え方を確立したニュートンは、微分によってリンゴの落下から惑星の軌道まであらゆるものが数式で説明できることを示したのだ。その考え方は同時期に微積分を考案したライプニッツも表記法は違えど根本の解決は一緒だったらしい。ニュートンとライプニッツがともに抱えた根本の矛盾―0で割る矛盾や無限小を二乗すると0として扱うことも、無限小で割ってなかったことにすれば解消しうるのだと述べられている。

そしてこの辺りから私の理解は怪しくなってくる。二次関数グラフや曲線に対する接線など、かつて苦労させられた数学の魔物が私を襲う。ついには虚数や複素数がまでもが登場して私の苦手意識をうずかせる。複素平面、そして空間座標や球が登場するともうお手上げだ。

有理数と無理数の定義上、あらゆる数を覆えるほど小さい単位。それがゼロ。そのような定理は私の理解力に負えない。私には論理の飛躍とすら思えてしまう。

だが、それを発見してからの量子力学や物理学の世界はまさに0の概念から飛躍手に発展した。相対性理論やブラックホールなど、話は宇宙論に広がって行く。ひも理論や超弦理論、そしてビッグバンや宇宙定数、赤方偏移。それらは最新の宇宙論を学ぶ人には常識と言える概念だそうだ。それらはすべて無限とゼロの完全な理解の元に展開される理論なのだ。一つだけ私の腑に落ちたのは、あらゆる物質の基本要素をゼロ次元のゼロとしてしまうと、成り立たない理論がでるため、紐のような次元のあるもので物質を成り立たせる、それがひも理論という下りだ。といっても数式のレベルではまったく理解していないのだが。

本書は宇宙の終わりまで話を広げる。宇宙に終わりが来るのか。来るとすればそれはどんな終わりか。無限に広がり続け、やがて熱が冷めてゆくのか。宇宙はある一点で収縮へと転じ、収縮の果てにビッグバンの瞬間の膨大な熱に終わるのか。

本書の答えは前者だ。ゼロから生まれた宇宙は無限に広がり、冷たくなるゼロを迎えると結論を出している。本書は以下に挙げる一文で幕を閉じる。

宇宙はゼロからはじまり、ゼロに終わるのだ。

本書には付録として三つの証明がついている。
ウィンストン・チャーチルが人参であることの数学的証明。
黄金比の算出方法。
現代の導関数の定義。
カントール、有理数を数える
自家製ワームホールタイムマシンをつくろう

こうやって見ると数学とはかくも魅力的で学びがいのある学問に思える。そう思って数式を見た瞬間、私の意欲は萎えるのだ。普段プログラムロジックをいじくり回しているはずの私なのに。

‘2017/03/11-2017/03/15