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東北地方太平洋沖地震(発生日編)


 今日で地震が発生し、一週間が経ちました。

 犠牲者は阪神淡路大震災の死者を超え、まだまだ増えていくとのこと。全ての被災者に心から手を合わせ、冥福を祈りたいと思います。

 1週間という区切りがついたことと、個人的にも地震により深くかかわる契機となる出来事がこの1,2日にあり、一度自分の中で整理してみようと思い立ちました。

 まずは1週間の記録ということで、ざっと追ってみたいと思います。

------11日------
 前日客先に対し、明日は自宅で仕事をしたい旨を告げていたので、朝方まで仕事をしてから11時ごろに起床。家で仕事をした理由は、15日に締め切りの確定申告が迫っていること、データ入力案件で本日依頼される予定のデータ入力数が多いであろうこと、前回受け取った入力データの納期が本日の午後で、一部終了していなかったこと、25日納期の開発案件の進捗を進めたかったこと、の4つ。

 寝間着で作業していた私は、14時ごろ、風花(チワワ)と小春(ヨーキー)がワンワンと吠え盛るので人が来たのかと思っていましたが、外を見ることがありませんでした。その時に外を見ることが出来ていたら実は誰もおらず、いわゆる宏観現象を体験したのかもしれませんが、今となっては分かりません。

 本日〆の入力分を終え、お客様に完了メールをお送りしたのが14時36分。落ち着く間もなく、開発案件の作業を進めているときに地震はおきました(14時46分)。最初のP波は首都圏でよく遭遇するありきたりな地震であろうと高をくくっていました。2日前にも客先で大きな揺れを体験したことも影響したのかもしれません。
 ところがこの揺れは収まるどころかますます激しくなる一方。どーんという強烈な一撃ではなくじわじわと震度が増していく揺れです。風花と小春は吠え盛り、色々な家具が揺れ動きます。パソコンの電源が落ち、停電が発生したことに気付いた私はここに至ってただ事ではないことを悟り、書斎を出て、ホールの本棚をを抑えながら、扉を閉めます。カップボードの上の義母の絵が下におち、揺れは収まる様子もありません。一人の力では本棚を抑えているのが精いっぱいで、為す術もなく色々なものが動き騒ぐのを見ているだけでした。天井のファンが落ちてこないかだけを心配して上を見たりしたのを覚えています。
 やがて揺れは収まり、どこかでかなり大きな地震があったのではないかと思いを巡らせます。
続いて家族の安否。相方がフラのインストラクターとして朝から錦糸町に出かけており、揺れが収まりかけた時点でメールを2通送っています。「大丈夫かあ」(14時50分)「停電した」(14時51分)。これに対して「大丈夫」(14時51分) というメールがあり、まずは安心。この時点ではまだ携帯の送受信制限もなく、円滑に連絡がとれました。
 家の中をさっと点検し、何も割れておらず、義母の絵をもとに戻し、寝室の前の廊下の鏡が反対側の壁にもたれているのを直し、寝室の大きな鏡が支えのトランクを押しやりながら横になっているのを直します。これといった被害がなかったのが幸いです。
 
 直後にドコモからiコンシェルの地震速報が届き、東北地方が震源の地震であることを知りましたが、それ以外の情報は一切わかりません。携帯は連絡手段として使えなくなり始め、家の電源はブレーカーを何度操作してもまったく回復する様子をみせません。それでもかろうじて相方に停電していることと家の被害は軽微であることをメール送信することはできました(15時4分)
 余震が起こるたび、風花と小春が怯えてぶるぶると震えがとまりません。二匹を膝の上に乗せて、携帯の状態を見ながら、読書をすることにした直後に、関西の父から電話がありました(15時20分)。こちらの無事を聞く間も惜しく、興奮してしゃべる父。東北でかなり強い地震が発生し、すさまじい津波が町を襲っていることや、お台場で火事が起こっていることなどを教えられます。大方の状況は呑み込みつつも、お台場が火事ということに違和感を感じました。東北を震源とする地震にかかわらず、お台場がすごいことになっているということは、都心はかなり大変なことになっているのではないだろうか、と。ここで初めて相方が帰宅できないという可能性を頭に浮かべたのを覚えています。
 父とは10分程度話をし、相方に「帰れそうか?お台場とか凄いことになってるらしい。うちの親と電話で話してきいた。こっちはまだ停電。町田震度5らしい。市の屋外放送でゆうてた」というメールを送ります(15時34分)つまりこの時点ですでに町田市からは緊急災害放送が流れたことになります。
 
 以後、なかなかつながらない携帯で相方と何度かやり取りをして、娘たちのことやこれからのお互いの身の振り方を決めます。迷ったのが娘たち二人をどうするか。特に上の娘は放課後に友達の家に遊びに行く約束をしていたので、下手に動くと娘を路頭に迷わせることにもなり、また、給電が復活しない以上はセコムも回復せず、今の状態で外出するよりも電気の復活を待ってから娘たちのところに向かおうと夫婦で合意しました。

 ところがなかなか電気は復旧せず、情報からも隔絶された状態で、本当に娘たちを迎えに行かなくてもよいのだろうか・・・という疑問が膨らみます。こういう緊急時に学校がどういう対応をとってくれるのかがよくわからず、思い余って二匹を連れて散歩がてら周辺を回ってみます。ところが待ちに待った散歩と勘違いして喜ぶ風花、おずおずついてくる小春を連れているとなかなか前に進めず、しかも外はセーターだけだと寒いことに気づき、一旦二匹を連れて帰りました。
 防寒着を着て自転車を漕いで小学校の学童保育に着いたのが16時49分。ここで学童の保護者会会長をやっている相方が、学童の保護者向けSNSに状況を案ずる書き込みをしていることを知り、私が代理で状況を保護者向けに発信します。
 指導員の先生から、4年生は学校内で待機していることを聞き、防災頭巾をかぶる着ぐるみ次女を連れて学校内に入り、上の娘も確保したのが17時0分。
 親の想いと相違して、娘たちは私が早く迎えに来てくれないものだからむくれていた様子。とくに友達と遊ぶ予定が地震で狂わされた上の娘は不満が高じていて、さんざん文句を言われました。

 娘たちと家に帰ると、すでに外は日が沈み始め、灯りのない夜を過ごさねばならないことに気づかされます。娘たちには部屋を掃除させ、懐中電灯やろうそく・マッチなどを探します。夕食は昼飯の残りがあったので、それを3人で食べましたが、食料も用意しなければなりません。15年前の経験からすでに店頭から食品が消えていることを想像しましたが、一応行ってみました。すると店内にすら入れません。停電しているのだから当然です。それでも店頭で電池とろうそくを販売してくれていました。真っ暗の中営業していた店員さんに感謝の言葉をかけ、ろうそくだけ購入して帰りました。地震後初めての夜をろうそくの灯りのみで過ごします。街灯も家々の電気もなく、たまに通り過ぎる車のライトだけの世界。否応なしに異常事態であることがわかります。下の娘は電気のない生活が初めてで、かなり怯えた様子です。

 実家の両親や相方と連絡を取りつつ、mixiや学童のsnsを使ってごくわずかな外の世界との絆をつなぎます。いかに電気のある生活に慣らされきっていて、情報が入るありがたみに気づかないでいたかがわかりました。
 娘たちも9時過ぎには上のベッドに入り、私は引き続き連絡を取り合いながら、相方がフラの生徒さんのご自宅に泊めてもらうことや、学童保育の今後のことなどを連絡し合います。

 そうやって連絡の合間にろうそくの明かりで読書している間に、いきなり電気が復活しました。23時8分でした。復活するなり通電したセコムのコントローラーが誤作動をおこし、侵入者発生と大声で触れ回ります。5分近くどうしても音が消せませんでしたが、ようやく鳴り止ませることができました。家の電気関係をチェックし、異状のないことを確認し終わったので、地震発生後、全く仕事にならなかった一日を挽回するため、パソコンを再起動させます。が、ネットでさまざまな被害状況から目が離せません。私が情報から隔絶されている間にも、ネットの世界では膨大な情報が刻一刻と集められ、配信されていることに驚きます。また、被害の実態がかくも大きなものであり、ここに至って初めて事態が深刻なものであることを理解しました。

 1時過ぎに就寝しました。