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波形の声


『教場』で文名を高めた著者。

短編のわずかな紙数の中に伏線を張り巡らせ、人の心の機微を描きながら、意外な結末を盛り込む手腕には驚かされた。
本書もまた、それに近い雰囲気を感じる短編集だ。

本書に収められた七つの短編の全てで、著者は人の心の暗い部分の裏を読み、冷静に描く。人の心の暗い部分とは、人の裏をかこう、人よりも優位に立とうとする人のサガだ。
そうした競争心理が寄り集まり、混沌としてしまっているのが今の社会だ。
相手に負けまい、出し抜かれまい。その思いはあちこちで軋轢を生み出す。
そもそも、人は集まればストレスを感じる生き物だ。娯楽や宗教の集まりであれば、ストレスを打ち消すだけの代償があるが、ほとんどの集まりはそうではない。
思いが異なる人々が集まった場合、本能として競争心理が生まれてしまうのかもしれない。

上に挙げた『教場』は、警察学校での閉じられた環境だった。その特殊な環境が物語を面白くしていた。
そして本書だ。本書によって、著者は一般の社会のあらゆる場面でも同じように秀逸な物語が書けることを証明したと思う。

「波形の声」
学校の子供達の関係はまさに悪意の塊。いじめが横行し、弱い子どもには先生の見えない場所でありとあらゆる嫌がらせが襲いかかる。
小学校と『教場』で舞台となった警察学校。ともに同じ「学校」の文字が含まれる。だが、その二つは全く違う。
本編に登場する生徒は、警察官の卵よりも幼い小学生たちだ。そうした小学生たちは無垢であり、高度な悪意は発揮するだけの高度な知能は発展途上だ。だが、教師の意のままにならないことは同じ。子どもたちは自由に振る舞い、大人たちを出し抜こうとする。先生たちは子どもたちを統制するためにあらゆる思惑を働かせる。
そんな中、一つの事件が起こる。先生たちはその問題をどう処理し、先生としての役割をはたすのか。

「宿敵」
高校野球のライバル同士が甲子園出場をかけて争ってから数十年。
今ではすっかり老年になった二人が、近くに住む者同士になる。かつてのライバル関係を引きずってお互いの見栄を張り合う毎日。どちらが先に運転免許証を返上し、どちらが先に車の事故を起こすのか。
家族を巻き込んだ意地の張り合いは、どのような結末にいたるのか。

本編は、ミステリーや謎解きと言うより人が持つ心の弱さを描いている。誰にも共感できるユーモアすら感じられる。
こうした物語が書ける著者の引き出しの多さが感じられる。とても面白い一編だ。

「わけありの街」
都会へ送り出した大切な息子を強盗に殺されてしまった母親。
犯人を探してほしいと何度も警察署に訴えにくるが、警察も持て余すばかり。
子供のことを思うあまり、母親は息子が住んでいた部屋を借りようとする。

一人でビラを撒き、頻繁に警察に相談に行く彼女の努力にもかかわらず、犯人は依然として見つからない。
だが、彼女がある思惑に基づいて行動していたことが、本編の最後になって明かされる。

そういう意外な動機は、盲点となって世の中のあちこちに潜んでいる。それを見つけだし、したたかに利用した彼女への驚きとともに本編は幕を閉じる。
人の心や社会のひだは、私たちの想像以上に複雑で奥が深いことを教えてくれる一編だ。

「暗闇の蚊」
モスキートの音は年齢を経過するごとに聞こえなくなると言う。あえてモスキート音を立てることで、若い人をその場から追い払う手法があるし、実際にそうした対策を打っている繁華街もあるという。
その現象に着目し、それをうまく人々の暮らしの中に悪巧みとして組み込んだのが本編だ。

獣医師の母から折に触れてペットの治療や知識を伝授され、テストされている中学生の息子。
彼が好意を持つ対象が熟女と言うのも気をてらった設定だが、その設定をうまくモスキート音に結びつけたところに本編の面白みがあると思う。

「黒白の暦」
長年の会社でのライバル関係と目されている二人の女性。今やベテランの部長と次長のポジションに就いているが、一人が顧客への対応を間違えてしまう。
会社内の微妙な人間関係の中に起きたささいな出来事が、会社の中のバランスを揺るがす。
だが、そうした中で相手を気遣うちょっとした振る舞いが明らかになり、それと同時に本編の意味合いが一度に変わる。

後味の爽やかな本編もなかなか面白い。

「準備室」
普段から、パワー・ハラスメントにとられかねない言動をまき散らしている県庁職員。
県庁から来たその職員にビクビクしている村役場の職員たち。
その関係性は、大人の中の世界だからこそかろうじて維持される。

だが、職場見学で子どもたちがやってきた時、そのバランスは不安定になる。お互いの体面を悪し様に傷つけずに、どのように大人はバランスを保とうとするのか。
仕事の建前と家庭のはざまに立つ社会人の悲哀。それを感じるのが本編だ。

「ハガニアの霧」
成功した実業家。その息子はニートで閉じこもっている。そんな息子を認めまいと辛辣なことをいう親。
そんなある日、息子が誘拐される。
その身代金として偶然にも見つかった幻の絵。この絵を犯人は誰も取り上げることができないよう、海の底に沈めるように指示する。

果たしてその絵の行方や息子の命はどうなるのか。
本書の中ではもっともミステリーらしい短編が本編だ。

‘2020/08/13-2020/08/13


破れた繭 耳の物語 *


耳の物語と言うサブタイトルは何を意味しているのか。

それは耳から聞こえた世界。日々成長する自分の周りで染みて、流れて、つんざいて、ひびいて、きしむ音。
耳からの知覚を頼りに自らの成長を語ってみる。つまり本書は音で語る自伝だ。
本書は著者の生まれた時から大学を卒業するまでの出来事を耳で描いている。

冒頭にも著者が書いている。過去を描くには何から取り出せばよいのか。香水瓶か、お茶碗か、酒瓶か、タバコか、アヘンか、または性器か。
今までに耳から過去を取り出してみようとした自伝はなかったのではないか。
それが著者の言葉である。

とは言え音だけで自伝を構成するのは不可能だ。本書の最初の文章は、このように視覚に頼っている。
一つの光景がある。
と。

著者は大阪の下町のあちこちを描く。例えば寺町だ。今でも上本町と四天王寺の間にはたくさんの寺が軒を占めている一角がある。そのあたりを寺町と呼ぶ。
幼い頃に著者は、そのあたりで遊んでいたようだ。その記憶を五十一歳の著者は、記憶と戦いながら書き出している。視覚や嗅覚、触覚を駆使した描写の中、徐々に大凧の唸りや子供の叫び声といった聴覚が登場する。

本書で描かれる音で最初に印象に残るのは、ハスの花が弾ける音だ。寺町のどこかの寺の境内で端正に育てられていた蓮の花の音。著者はこれに恐怖を覚えたと語っている。
後年、大阪を訪れた著者は、この寺を探す。だが幼き頃に聞いた音とともに、このハスは消えてしまったようだ。
音はそれほどにも印象に残るが、一方で、その瞬間に消えてしまう。ここまで来ると、著者の意図はなんとなく感じられる。
著者は本書において、かつての光景を蘇らせることを意図していない。むしろ、過去が消えてしまったことを再度確認しようとしているのだ。
著者は、日光の中で感じた泥のつぶやき、草の補給、乙行、魚の探索、虫の羽音など、外で遊んで聞いた音を寝床にまで持ち運ぶ。もちろん、それらの音は二度と聞けない。

昭和初期ののどかな大阪郊外の光景が、描写されていく。それとともに著者の身の回りに起こった出来事も記される。著者の父が亡くなったのは著者が小学校から中学校に進んだ歳だそうだ。
しばらく後に著者は、父の声を誰もいない部屋で聞く。

時代はやがて戦争の音が近づき、あたりは萎縮する。そして配色は濃厚になり、空襲警報や焼夷弾の落下する音や機銃掃射の音や町内の空襲を恐れる声が著者の耳をいたぶる。

ところが本書は、聴覚だけでなく視覚の情報も豊富に描かれている。さらには、著者の心の内にあった思いも描かれている。本書はれっきとした自伝なのだ。

終戦の玉音放送が流れた日の様子は、本書の中でも詳しく描かれている。人々の一挙手一投足や敵機の来ない空の快晴など。著者もその日の記憶は明晰に残っていると書いている。それだけ当時の人々にとって特別な一日だったに違いない。

やがて戦後の混乱が始まり、飢えに翻弄される。聴覚よりも空腹が優先される日々。
そのような中で焼け跡から聞こえるシンバルやトランペットの音。印象的な描写だ。
にぎやかになってからの大阪しか知らない私としては、焼け跡の大阪を音で感じさせてくれるこのシーンは印象に残る。
かつての大阪に、焼けただれた廃虚の時代があったこと。それを、著者は教えてくれる。

この頃の著者の描写は、パン屋で働いていたことや怪しげな酒を出す屋台で働いていたことなど、時代を反映してか、味覚・嗅覚にまつわる記述が目立つ。面白いのは漢方薬の倉庫で働いたエピソードだ。この当時に漢方薬にどれほどの需要があるのかわからないが、著者の物に対する感性の鋭さが感じられる。

学ぶことの目的がつかめず、働くことが優先される時代。学んでいるのか生きているのかよくわからない日々。著者は多様な職に就いた職歴を書いている。本書に取り上げられているだけで20個に迫る職が紹介されている。
著者の世代は昭和の激動と時期を同一にしている。感覚で時代を伝える著者の試みが読み進めるほどに読者にしみてゆく。五感で語る自伝とは、上質な歴史書でもあるのだ。

では、私が著者と同じように自分の時代を描けるだろうか。きっと無理だと思う。
音に対して私たちは鈍感になっていないだろうか。特に印象に残る音だったり、しょっちゅう聞かされた音だったり、メロディーが付属していたりすれば覚えている。だが、本書が描くのはそれ以外の生活音だ。

では、私自身が自らの生活史を振り返り、生活音をどれだけ思い出せるだろう。試してみた。
幼い頃に住んでいた市営住宅に来る牛乳売りのミニトラックが鳴らす歌。豆腐売りの鳴らす鐘の響き。武庫川の鉄橋を渡る国鉄の電車のくぐもった音。
または、特別な出来事の音でよければいくつかの音が思い出せる。阪神・淡路大震災の揺れが落ち着いた後の奇妙な静寂と、それを破る赤ちゃんの鳴き声。または余震の揺れのきしみ。自分の足の骨を削る電気メスの甲高い音など。

普段の忙しさに紛れ、こうした幼い頃に感じたはずの五感を思い出す機会は乏しくなる一方だ。
著者が本書で意図したように、私たちは過去が消えてしまったことを確認することも出来ないのだろうか。それとも無理やり再構築するしかないのだろうか。
五感を総動員して描かれた著者の人生を振り返ってみると、私たちが忘れ去ろうとしているものの豊かさに気づく。

それを読者に気づかせてくれるのが作家だ。

‘2020/04/09-2020/04/12


太陽の子


本書は、関西に移住した沖縄出身者の暮らしを描いている。
本書の主な舞台となる琉球料理屋「てだのふあ・おきなわ亭」は、沖縄にルーツを持つ人々のコミュニティの場になっていた。そのお店の一人娘ふうちゃんは、そのお店の看板娘だ。
本書は、小学六年生のふうちゃんが多感な時期に自らの沖縄のルーツを感じ、人の痛みを感じ、人として成長していく物語だ

お店の場所は本書の記述によると、神戸の新開地から東によって浜の方にくだった川崎造船所の近くという。今でいう西出町、東出町辺りだろう。この辺りも沖縄出身者のコミュニティが成り立っていたようだ。

『兎の眼』を著した人としてあまりにも有名な著者は、かつて教師の職に就いていたという。そして、17年間勤めた教員生活に別れをつげ、沖縄で放浪したことがあるそうだ。

本書は、その著者の経験がモチーフとなっている。教員として何ができるのか。何をしなければならないかという著者の真剣な問い。それは、本書に登場する梶山先生の人格に投影されている。
担任の先生としてふうちゃんに何ができるか。梶山先生はふうちゃんと真剣に向き合おうとする。ふうちゃんのお父さんは、沖縄戦が原因と思われる深い心の傷を負っていて、日常の暮らしにも苦しんでいる。作中にあぶり出される沖縄の犠牲の一つだ。

「知らなくてはならないことを、知らないで過ごしてしまうような勇気のない人間になりたくない」(282ページ)
このセリフは、本書の肝となるセリフだろう。ふうちゃんからの手紙を、梶山先生はその返信の中で引用している。

ここでいう知らなければならないこととは、沖縄戦の事実だ。

私はここ数年、沖縄を二度旅している。本書を読む一昨年と三年前のニ回だ。一度目は一人旅で、二度目は家族で。

一度目の旅では、沖縄県平和祈念資料館を訪れた。そこで私は、沖縄戦だけでなく、その前後の時期にも沖縄が被った傷跡の深さをじっくりと見た。
波間に浮き沈みする死んだ乳児の動画。火炎放射器が壕を炙る動画。手榴弾で自決した壕の避難民の動画。崖から飛び降りる人々の動画。この資料館ではそうした衝撃的な映像が多く見られる。

それらの事実は、まさに知らなくてはならないことである。

沖縄は戦場となった。それは誰もが知っている。
だが、なぜ沖縄が戦場になったのか。その理由について問いを投げかける機会はそう多くない。

沖縄。そこは、ヤマトと中国大陸に挟まれた島。どちらからも下に見られてきた。尚氏王朝は、その地政の宿命を受け入れ、通商国家として必死に生き残ろうとした。だが、明治政府の政策によって琉球処置を受け、沖縄県に組み入れられた琉球王朝は終焉を迎えた。
沖縄の歴史は、戦後の米軍の占領によってさらに複雑となった。
自治政府という名称ながら、米軍の軍政に従う現実。その後日本に復帰した後もいまだに日本全体の米軍基地のほとんどを引き受けさせられている現実。普天間基地から辺野古基地への移転も、沖縄の意思より本土の都合が優先されている。
その歴史は、沖縄県民に今も圧力としてのしかかっている。そして、多くの沖縄人(ウチナーンチュ)人が本土へと移住するきっかけを生んだ。

だが、日本に移住した後も沖縄出身というだけで差別され続けた人々がいる。ヤマト本土に渡ったウチナーンチュにとっては苦難の歴史。
私は、そうした沖縄の人々が差別されてきた歴史を大阪人権博物館や沖縄県平和祈念資料館で学んだ。

大阪人権博物館は、さまざまな人々が人権を迫害されてきた歴史が展示されている。その中には沖縄出身者が受けた差別の実情の展示も含まれていた。関西には沖縄からの出稼ぎの人々や、移民が多く住んでいて、コミュニティが形成されていたからだ。
本書は、沖縄の歴史や沖縄出身者が苦しんできた差別の歴史を抜きにして語れない。

ふうちゃんは、お父さんが子供の頃に体験した惨禍を徐々に知る。沖縄をなぜ疎ましく思うのか。なぜ心を病んでしまったのか。お父さんが見聞きした凄惨な現実。
お店の常連であるロクさんが見せてくれた体の傷跡と、聞かせてくれた凄まじい戦時中の体験を聞くにつけ、ふうちゃんは知らなければならないことを学んでいく。

本書の冒頭では、風ちゃんは自らを神戸っ子であり、沖縄の子ではないと考え、沖縄には否定的だ。
だが、沖縄が被ってきた負の歴史を知るにつれ、自らの中にある沖縄のルーツを深く学ぼうとする。

本書には、山陽電鉄の東二見駅が登場する。江井ヶ島駅も登場する。
ふうちゃんのお父さんが心を病んだのは、ふらりと東二見や江井ヶ島を訪れ、この辺りの海岸線が沖縄の南部の海岸線によく似ていたため。訪れた家族やふうちゃんはその類似に気づく。
どれだけの苦しみをお父さんが味わってきたのか。

父が明石で育ち、祖父母が明石でずっと過ごしていた私にとって、東二見や江井ヶ島の辺りにはなじみがある。
また明石を訪れ、あの付近の光景が沖縄本島南部のそれに似ているのか、確かめてみたいと思った。

そして、もう一度沖縄を訪れたいと思った。リゾート地としての沖縄ではない、過去の歴史を直視しなければならないと思った。沖縄県平和祈念資料館にも再訪して。

私は、国際政治の複雑さを理解した上で、それでもなお沖縄が基地を負担しなければならない現状を深く憂える。
そして、本書が描くように沖縄から来た人々が差別される現状にも。今はそうした差別が減ってきたはず、と願いながら。

‘2020/03/28-2020/03/31


消えた少年たち<下>


上巻のレビューで本書はSFではないと書いたた。では本書はどういう小説なのか。それは一言では言えない。それほどに本書にはさまざまな要素が複雑に積み重ねられている。しかもそれぞれが深い。あえて言うなら本書はノンジャンルの小説だ。

フレッチャー家の日々が事細かに書かれていることで、本書は1980年代のアメリカを描いた大河小説と読むこともできる。家族の絆が色濃く描かれているから、ハートウォーミングな人情小説と呼ぶこともできる。ゲーム業界やコンピューター業界で自らの信ずる道を進もうと努力するステップの姿に焦点を合わせればビジネス小説として楽しむことだってできる。そして、本書はサスペンス・ミステリー小説と読むこともできる。おそらくどれも正解だ。なぜなら本書はどの要素をも含んでいるから。

サスペンスの要素もそう。上巻の冒頭で犯罪者と思しき男の独白がプロローグとして登場する。その時点で、ほとんどの読者は本書をサスペンス、またはミステリー小説だと受け取ることだろう。その後に描かれるフレッチャー家の日常や家族の絆にどれほどほだされようとも、冒頭に登場する怪しげな男の独白は読者に強烈な印象を残すはず。

そして上巻ではあまり取り上げられなかった子供の連続失踪事件が下巻ではフレッチャー家の話題に上る。その不気味な兆しは、ステップがゲームデザイナーとしての再起の足掛かりをつかもうとする合間に、ディアンヌが隣人のジェニーと交流を結ぶのと並行して、スティーヴィーが学校での生活に苦痛を感じる隙間に、スティーヴィ―が他の人には見えない友人と遊ぶ頻度が高くなるのと時期を合わせ、徐々に見えない霧となって生活に侵食してゆく。

上巻でもそうだが、フレッチャー夫妻には好感が持てる。その奮闘ぶりには感動すら覚える。愛情も交わしつつ、いさかいもする。相手の気持ちを思いやることもあれば、互いが意固地になることもある。そして、家族のために努力をいとわずに仕事をしながら自らの目指す道を信じて進む。フレッチャー夫妻に感じられるのは物語の中の登場人物と思えないリアルさだ。夫妻の会話がとても練り上げられているからこそ、読者は本書に、そしてフレッチャー家に感情移入できる。本書が心温まるストーリーとして成功できている理由もここにあると思う。

私は本書ほど夫婦の会話を徹底的に書いた小説をあまり知らない。会話量が多いだけではない。夫婦のどちらの側の立場にも平等に立っている。フレッチャー夫妻はお互いが考えの基盤を持っている。ディアンヌは神を信じる立場から人はこう生きるべきという考え。ステップは神の教えも敬い、コミュニティにも意義を感じているが、何よりも自らが人生で達成すべき目標が自分自身の中にあることを信じている。そして夫妻に共通しているのは、その生き方を正しいと信じ、それを貫くためには家族が欠かせないとの考えに立っていることだ。

この二つの生き方と考え方はおおかたの日本人になじみの薄いものだ。組織よりも個人を前に据える生き方と、信仰に積極的に携わり神を常に意識しながらの生き方。それは集団の規律を重んじ、宗教を文化や哲学的に受け止めるくせの強い日本人にはピンとこないと思う。少なくとも私にはそうだった。今でこそ組織に属することを潔しとせず個人の生き方を追求しているが、20代の頃の私は組織の中で生きることが当たり前との意識が強かった。

本書の底に流れる人生観は、日本人には違和感を与えることだろう。だからこそ私は本書に対して傑作であることには同意しても、解釈することがなかなかできなかった。多分その思いは日本人の多くに共通すると思う。だからこそ本書は読む価値がある。これが学術的な比較文化論であれば、はなから違う国を取り上げた内容と一歩引いた目線で読み手は読んでいたはず。ところが本書は小説だ。しかも要のコミュニケーションの部分がしっかりと書かれている。ニュースに出るような有名人の演ずるアメリカではなく、一般的な人々が描かれている本書を読み、読者は違和感を感じながらも感情を移入できるのだ。本書から読者が得るものはとても多いはず。

下巻が中盤を過ぎても、本書が何のジャンルに属するのか、おそらく読者には判然としないはずだ。そして著者もおそらく本書のジャンルを特定されることは望んでいないはず。自らがSF作家として認知されているからといって本書をSFの中に区分けされる事は特に嫌がるのではないか。

本書がなぜSFのジャンルに収められているのか。それはSFが未知を読者に提供するジャンルだから。未知とは本書に描かれる文化や人生観が、実感の部分で未知だから。だから本書はSFのジャンルに登録された。私はそう思う。早川文庫はミステリとSFしかなく、著者がSF作家として名高いために、安直に本書をSF文庫に収めたとは思いたくない。

本書の結末は、読者を惑わせ、そして感動させる。著者の仕掛けは周到に周到を重ねている。お見事と言うほかはない。本書は間違いなく傑作だ。このカタルシスだけを取り上げるとするなら、本書をミステリーの分野においてもよいぐらいに。それぐらい、本書から得られるカタルシスは優れたミステリから得られるそれを感じさせた。

本書はSFというジャンルでくくられるには、あまりにもスケールが大きい。だから、もし本書をSFだからと言う理由で読まない方がいればそれは惜しい。ぜひ読んでもらいたいと思える一冊だ。

‘2017/05/19-2017/05/24


消えた少年たち〈上〉


本書は早川SF文庫に収められている。そして著者はSF作家として、特に「エンダーのゲーム」の著者として名が知られている。ここまで条件が整えば本書をSF小説と思いたくもなる。だが、そうではない。

そもそもSFとは何か。一言でいえば「未知」こそがSFの焦点だ。SFに登場するのは登場人物や読者にとって未知の世界、未知の技術、未知の生物。未知の世界に投げこまれた主人公たちがどう考え、どう行動するかがSFの面白さだといってもよい。ところが本書には未知の出来事は登場しない。未知の出来事どころか、フレッチャー家とその周りの人物しか出てこない。

だから著者はフレッチャー家のことをとても丁寧に描く。フレッチャー家は、五人家族だ。家長のステップ、妻のディアンヌ、長男のスティーヴィー、次男のロビー、長女で生まれたばかりのベッツィ。ステップはゲームデザイナーとして生計を立てていたが、手掛けたゲームの売り上げが落ち込む。そして家族を養うために枯葉コンピューターのマニュアル作成の仕事にありつく。そのため、家族総出でノースカロライナに引っ越す。その引っ越しは小学校二年生のスティーヴィーにストレスを与える。スティーヴィーは転校した学校になじめず、他の人には見えない友人を作って遊び始める。ステップも定時勤務になじめず、ゲームデザイナーとしての再起をかける。時代は1980年代初めのアメリカ。

著者はそんな不安定なフレッチャー家の日々を細やかに丁寧に描く。読者は1980年代のアメリカをフレッチャー家の日常からうかがい知ることになる。本書が描く1980年代のアメリカとは、単なる表向きの暮らしや文化で表現できるアメリカではない。本書はよりリアルに、より細やかに1980年代のアメリカを描く。それも平凡な一家を通して。著者はフレッチャー家を通して当時の幸せで強いアメリカを描き出そうと試み、見事それに成功している。私は今までにたくさんの小説を読んできた。本書はその中でも、ずば抜けて異国の生活や文化を活写している。

例えば近所づきあい。フレッチャー家が近隣の住民とどうやって関係を築いて行くのか。その様子を著者は隣人たちとの会話を詳しく、そして適切に切り取る。そして読者に提示する。そこには読者にはわからない設定の飛躍もない。そして、登場人物たちが読者に内緒で話を進めることもない。全ては読者にわかりやすく展開されて行く。なので読者にはその会話が生き生きと感じられる。フレッチャー家と隣人の日々が容易に想像できるのだ。

また学校生活もそう。スティーヴィーがなじめない学校生活と、親に付いて回る学校関連の雑事。それらを丁寧に描くことで、読者にアメリカの学校生活をうまく伝えることに成功し。ている。読者は本書を読み、アメリカの小学校生活とその親が担う雑事が日本のそれと大差ないことを知る。そこから知ることができるのは、人が生きていく上で直面する悩みだ。そこには国や文化の差は関係ない。本書に登場する悩みとは全て自分の身の上に起こり得ることなのだ。読者はそれを実感しながらフレッチャー家の日々に感情を委ね、フレッチャー家の人々の行動に心を揺さぶられる。

さらには宗教をきっちり描いていることも本書の特徴だ。フレッチャー夫妻はモルモン教の敬虔な信者だ。引っ越す前に所属していた協会では役目を持ち、地域活動も行ってきた。ノースカロライナでも、モルモン教会での活動を通して地域に溶け込む。モルモン教の布教活動は日本でもよく見かける。私も自転車に乗った二人組に何度も話しかけられた。ところがモルモン教の信徒の生活となると全く想像がつかない。そもそもおおかたの日本人にとって、定例行事と宗教を結びつけることが難しい。もちろん日本でも宗教は日常に登場する。仏教や神道には慶弔のたびにお世話になる。だが、その程度だ。僧侶や神官でもない限り、毎週毎週、定例の宗教行事に携わる人は少数派だろう。私もそう。ところがフレッチャー夫妻の日常には毎週の教会での活動がきっちりと組み込まれている。そしてそれを本書はきっちりと描いている。先に本書には未知の出来事は出てこないと書いた。だが、この点は違う。日々の中に宗教がどう関わってくるか。それが日本人のわれわれにとっては未知の点だ。そして本書で一番とっつきにくい点でもある。

ところが、そこを理解しないとフレッチャー夫妻の濃密な会話の意味が理解できない。本書はフレッチャー家を通して1980年代のアメリカを描いている。そしてフレッチャー家を切り盛りするのはステップとディアンヌだ。夫妻の考え方と会話こそが本書を押し進める。そして肝として機能する。いうならば、彼らの会話の内容こそが1980年代のアメリカを体現していると言えるのだ。彼らが仲睦まじく、時にはいさかいながら家族を経営していく様子。そして、それが実にリアルに生き生きと描かれているからこそ、読者は本書にのめり込める。

また、本書から感じ取れる1980年代のアメリカとは、ステップのゲームデザイナーとしての望みや、コンピューターのマニュアル製作者としての業務の中からも感じられる。この当時のアメリカのゲームやコンピューター業界が活気にあふれていたことは良く知られている。今でもインターネットがあまねく行き渡り、情報処理に関する言語は英語が支配的だ。それは1980年代のアメリカに遡るとよく理解できる。任天堂やソニーがゲーム業界を席巻する前のアタリがアメリカのゲーム業界を支配していた時代。コモドール64やIBMの時代。IBMがDOS-V機でオープンなパソコンを世に広める時代。本書はその辺りの事情が描かれる。それらの描写が本書にかろうじてSFっぽい味付けをあたえている。

では、本書には娯楽的な要素はないのだろうか。読者の気を惹くような所はないのだろうか。大丈夫、それも用意されている。家族の日々の中に生じるわずかなほころびから。読者はそこに興を持ちつつ、下巻へと進んでいけることだろう。

‘2017/05/13-2017/05/18


原子雲の下に生きて


本書は、長崎原爆資料館で購入した。

長崎に訪れるのは三度目だが、原爆資料館は初めての訪問。前の二回は時間がなかったり、改装工事で長期休館中だったりとご縁がなく、三度目にしてようやく訪問することができた。だが、ようやく実現したこの度の訪問も私にとっては時間がとれなかった。資料館に来る前は如己堂や浦上天主堂に寄り、資料館の後には福岡に戻る用事があったからだ。当然、売店でもじっくりと本を選ぶ時間はなかった。5分程度だったろうか。そんなわずかな時間で購入した二冊のうちの一冊が本書だ。本書の編者である永井隆博士は長崎の原爆を語る上で欠かせない。なので売店には編者の作品が多数並んでいた。あまたの編者の著作の中で本書を選んだことに深い意味はない。ただ、最低でも一冊は著者の作品を買おうと決めていた。

なぜそう決めていたかというと、編者のことをもっとよく知りたかったからだ。原爆資料館に来る前日、長崎への往路で読んだのが高瀬毅著「ナガサキ 消えたもう一つの「原爆ドーム」」だ。そのレビューにも書いたのだが、その中で著者の高瀬氏は、原爆は神が浦上に与えた試練という編者の言葉を、キリスト教信者でない被爆者への配慮がないと非難している。その言葉を文字通りに解釈してよいならば、私もとても容認できない。ただ、そこに誤解や早合点がないかはおさえておく必要がある。編者がクリスチャンである事実とともに。そして編者はこのような批判にも関わらず、いまだに人々から尊敬され続けている。その理由は著者の発信した著作の中にもあるが、もう一つは如己堂にもあるのではないか。この旅で原爆資料館に訪れる前、如己堂も立ち寄った。如己堂は編者の居宅として知られているが、訪れたのは初めて。二畳しかない如己堂で病に侵されたまま起居し、なおかつ膨大な文章を遺した編者の意志は並大抵ではない。如己堂の狭さを眼前にすると、編者に私心があるなど、とても思えない。

著者が語ったとされる「原爆は神が浦上に与えた試練」を、信仰心によって視野が狭まった発言と読むことは簡単だ。それをまんまとアメリカのイメージ改善策に利用されただけ、と片付けることも可能だ。だがそこで、あの発言にはもっと深い別の意味があったとは読めないだろうか。それは、編者は批判を受けることを承知でもう一段高いレベルから原爆を捉えていたとの考えだ。その場合、われわれの方が逆に編者はクリスチャンである、という偏見で言葉を受け取っていた可能性もある。私は著者の考えがどちらかを知りたいと思った。永井隆記念館に行けなかったこともあってなおさら。

病床でも我が子を慈しんだという著者。そうであれば、子供たちの被爆体験を編んだ本書に慈愛の視点が含まれているはず。そのような判断を売店でとっさにくだし、本書を購入した。だが、結論から言えば永井博士の真意を知ることはできなかった。なぜなら本書は、純粋に被爆児童の体験記だからだ。

体験記が本書に収録されるにあたり、特定の意図で選ばれたのかどうかを私は知らない。ただ、編者の意図を詮索することは無用だ。無用かつ失礼ですらあると思う。

本書に収められた被爆体験は、下は四歳から上は十五歳の児童によってつづられている。まだ物心も付かない子の場合、そもそも何が起こったか理解せぬままに、そばにいたはずの父や母が突然凄惨な姿に変わり果る。あどけないがゆえに真に迫っており涙を誘う。

一方で年かさの子供たちの体験には、当事者にしか書けない切迫感がある。見たままに聞いたままに、人類史上、未曽有の現場に居合わせた体験。何が起こったのか分からぬにせよ、事実を認識し、記憶できる年齢で被爆し、体験したこと。本書に収められた体験記は被爆の残虐さを雄弁に語っている。

体験談を寄せた中には、よく知られた人物もいる。吉田勝ニさんは、右側頭部にひどいやけどを負った。その痛々しいやけどの様子は、長崎原爆資料館にも写真が展示されている。吉田氏の体験談は、被爆の瞬間から被爆後の治療のつらさや、ケロイドによる差別にまで及んでいる。それは延び盛りの青春を原爆に奪われた方のみが叫ぶことのできる魂の声だ。吉田氏が受けたやけどの画像が生々しいだけに、本書で読む体験記は一層われわれの胸に迫る。

あと、本書には再録されていないし、もはや叶わぬ願いとはわかっているが、体験談を聞きたかった方がいる。長崎の被爆少年としてはこの方も著名な方だ。死んだ赤ん坊をおんぶし、焼き場の前で唇をきつく噛んで直立不動でたつ少年。ジョー・オダネル氏による写真で知られたあの少年だ。あの少年の素性は今もなお不明のままという。その固く結ばれた口には、どんなおもいが溢れだしそうになっていたのだろう。残酷で不条理な現実を前に、何かを叫びたくとも日本男児の誇りからか、かたくなに口をつぐむ。

本書に遺されたのはそれぞれが切実な被曝の体験だ。そして、同じだけ悲痛な何万倍もの気持ちが野に満ちていた。そこは何をどう言い繕うとも正当化されることはない。原爆投下には投下側の言い分もあるだろう。それは認めよう。だが、無警告に一般市民の、とくに幼子の頭上に投下した道義上の罪は消えることはない。それは本書に記された体験記が声を大にして主張している。

そして、本書を編纂した永井博士にしても、単に神の試練として全てを委ねるだけでなく、恐らくはいろいろな思いを感じ、汲み取り、考え、悩み、その上で、あのような言葉として絞り出すほかなかったのではないか。たとえ非クリスチャンへの配慮が欠けていたとはいえ。

‘2016/11/14-2016/11/14


教場


以前から評判になっているとは聞いていた本書。読んでなるほどと納得した。面白い。

本書は警察の内部を描いている。しかも警察学校を。わたしはミステリが好きだが、警察小説はそれほど読み込んでいない。警察学校を舞台にした小説も本書が初めてのはず。

今までに出版された多くの小説でも、警察学校がここまで描かれたものはなかったのではないか。なぜなら警察学校を描くということは、警察の業務内容を一部でも公開することになるから。警察のノウハウを描くには骨の折れる作業があることは容易にわかる。今までに出版された数多くの推理小説で、刑事による捜査はいろんな切り口で描かれて来たはず。だから、捜査メソッドを描いても目新しさはない。でも、本書で紹介された職質や交番巡査による巡回のやり方などは、あまり紹介されたことがないと思う。しかも教官の口から伝えられるセリフは、より一層の真実味を読者に与える。

本書が新鮮な点がもう一つあって、それは教官と生徒の関係の描かれ方だ。警察志望の生徒が警察に抱くような希望や憧れ。まず教官はそこをつぶしにかかる。かつての兵学校とはこんな感じなのだろうか。規律そして規律。規則と条文が支配する世界。そこには当然、さまざまな生徒が入学してくる。厳しい授業に耐えきれず、常軌を逸した行いに及ぶもの。教官の寵を得ようともくろむもの。後ろ暗い秘密を抱えたもの。規則あるところに逸脱や反抗が生じるのは自然の流れだ。

対する教官は、専門分野こそさまざまだが、警察のイロハを知り尽くした海千山千の猛者。生徒たちを見る目は厳しく、しかも容疑者に対したときのように鋭い。生徒と教官の表裏それぞれの駆け引きが面白い。本書は風間という担当の教官が主要な人物として配され、生徒たちのたくらみの先を行く。

教育は社会にとって不可欠。特に青年期までの教育の重要性はいうまでもない。今、人権を重視する風潮が高まり、教育から厳しさが排除されつつある。だが、厳しさが不可欠な教育もある。戦争や軍事に関わる教育がそうだ。そういう教育は、人を育てるよりも相手を殺すことが目的であり、本来の教育の理念にはそぐわない。では、本書で描かれる警察学校はどうか。緊張感と命に関わる厳しさがあり、それでいて人を救い、治安を維持する大義名分がある。教育の本分にのっとっており、なおかつ前向きだ。

本書のそれぞれの編では、生徒間の微妙な思惑のズレと駆け引きが描かれる。そして生徒の悪巧みを風間教官が未然に防ぐ。時には非情な手段を使って。そこには生徒と教官の麗しき師弟愛などない。冷徹な組織の論理が優先され、そこにそぐわない生徒は容赦なく切り捨てられる。人命救助や治安維持といった大義名分と非情さのギャップこそが本書の魅力だろう。

だが、警察の現場とは過酷な毎日のはず。それを教えるのに非情さが欠かされないのは想像できる。だからこそ、本書で描かれる厳しさは腹に落ち、納得できる。そして犯罪者に対峙するためには甘さや憧れはいらず、規律と任務が全てという世界観も。もちろん、タコツボ思考に陥る危険性と警察学校の教育が表裏一体であることは当然だが。

本書は六編からなっている連作短編集の体裁だ。各編は独立しているが、六編を通して同じ学校の98期生の一年を描いている。各編ごとに細かな伏線が張られ、全体としても伏線が張られている。共通する登場人物は風間教官だけかと思いきや、前の編に出てきた人物がひょこっと出て来て、各編ごとのつながりの存在を示す。各編ごとのつながり方に独特のリズムが刻まれているのだ。それが本書全体の構成にも締まりを与えている。

本書の各編が刻むリズム感は、著者の作風なのだろうか。著者の作品を初めて読む私は、著者の作風を知らない。もし、本書のリズム感が、警察学校という隔絶された環境と、その規律を意図して作り出されたとすれば見事というほかない。本書には続編があるという。著者の他の作品とあわせて読んで見たいと思う。

‘2016/09/26-2016/09/27


ソロモンの偽証 第Ⅲ部 法廷


第三部は、初公判から閉廷に至るまでの裁判の過程が描かれる。ど素人の中学三年生による裁判が果たしてうまくいくのか。著者はその部分をどのように書き切るのか。本書の筋や真相だけでなく、著者の手腕に興味は尽きない。

中学生が中学生だけで裁判をやりきる。著者は判事役の井上康夫や検事役の藤野涼子、そして弁護人の神原和彦をどのような役回りで演じさせるのか。裁判をつつがなく進めさせるため、著者は彼ら三人にいくらなんでも弁が立ち過ぎじゃないの、と思わせるほどに弁論させる。語らせる。第一部のレビューで彼らに感情移入できないと書いたのは、その弁論のあまりの達者さについてだ。

だが、それだけ喋らせただけのことはあり、本書の展開は法曹ミステリ―のそれを地で行っている。実に見事なものだ。第一部で謎は提示され、起こるべくしてさまざまな出来事も起きた。第二部では中学生たちが大人への反旗を翻しながら、日々をフル活用して調査を進める。そして本書第三部では謎解きが中心となる。

法廷ミステリ―に付き物の展開としてよくあるのは、意外な証人が出てきて爆弾発言をすることだ。証人が口にする想定外の発言によって新たな展開が産まれ、謎が増幅され波紋を呼ぶ。本書もまた法廷ミステリーの骨法に則り、予想外の証人が次々と登場する。そこで第一部、第二部と細やかに丁寧に書き綴ってきた著者の努力が実を結ぶ。今までの出来事を疎かに書いていたら、本書で登場する証人たちが唐突で、とって付けた感じが出てしまう。

裁判に召喚される証人たちの多くは大人たちだ。中学生の扮する検事や弁護人が大人を証人喚問し、その証言に揚げ足を取り、被告または原告に都合の良い方向に法廷の空気を誘導する。本書で描かれる丁々発止のやりとりは、正直なところ中学生には荷が重すぎると思える。だが、それは置いておこう。彼らはあまりにも優秀すぎる中学生なのだから。

本書第三部で肝となる人物は三宅樹里だ。柏木卓也の事件が学校の枠をはみ出て社会的な事件になってしまったのは、彼女の作った告発状がマスコミに漏れたからだ。三宅樹里と一緒に告発の手紙を投函した友人の浅井松子は、良心の呵責から真相を暴露しようとしたところ、三宅樹里の目の前でトラックに轢かれてしまう。浅井松子の死の真相はいったいどこにあるのか。ひどいニキビでいじめられ、性格がねじくれてしまった彼女こそが、著者にとって本書の中で一番書きづらい人物だったことは想像できる。

思春期の女の子が容姿を気にするのはとても自然だ。ねたみやそねみなどを胸のうちに隠しながら、他人とどうやって折り合いを付けていくのか。女の子の悩みは深い。私も娘を持つ身としてなんとなく分かる。でも、彼女たちがどのような想いを抱いているかについては、全く想像が及ばないのも事実だ。一見すると穏当な父娘関係を築き上げているかに(私自身は)思っている私と娘ですら、私が思っているよりもはるかに闇に塗れているのかもしれない。

第一部から三宅樹里が放つどす黒い闇の念。それは、彼女が浅井松子の死によって口が利けなくなってからも衰えるどころかますます暗さを増す。いかにして彼女を証人として呼び出すか。検事側と弁護側の駆け引きが盛んにおこなわれる。

三宅樹里と大出俊次。同じ嫌われ者同士。二人の間にあるいじめと報復の関係が、柏木卓也の墜落死をさらなる混乱に導いたともいえる。かれらの苦しみが法廷の場でどこまで暴かれ、どのように浄化されるのか。いじめやねたみはなぜ起きてしまうのか。けがれなき思春期という幻想は嘘であり、実はすでに大人の世界に半分足を踏み入れてしまっている城東第三中の彼らは、その燃え盛る激情を鎮めるすべも知らずに暴走してしまう。

中学生の抱える爆発寸前の悩みは、大人になりたくもあり、なりたくもない微妙な年頃に特有だ。自分の思いが世の中に受け入れられない悩み。また、受け入れてもらうための方法が分からない苦しみ。ただ、肥大した自我だけが膨張する年齢。第一部のレビューに書いた厨二病とは、中学生の自我が必ず通過する成長の痛みであり、人生にとって欠かせない宿痾なのかもしれない。

本書の発端となった柏木卓也墜死事件もそう。自分には止めようもない自我の暴走によって引き起こされた不幸な出来事。その自我に目を配り、暴走を止める責任までを全て教育現場に求めるのは酷といえないだろうか。

最終論告が終わった後、評決を前にして茂木記者と津崎校長が対峙する場面がある。その中で茂木はこのようにいう。
「学校という制度は、この社会の必要悪です。僕はその悪と戦っている」
それに対して津崎校長は「よくわかります。だが、悪といえども“必要”ならば、私はそのなかで最善を尽くしたいと願い、努めてきました」。
このようなやり取りは、作り事でない教育現場を巡る本音の会話なのだろう。本書が傑作である理由とは、教育現場を悪と見なして終わり、と紋切型に描かないことだ。暴発寸前の自我を抱えた何百人の中学生を、その何十分の一の人数の教師たちで運営する。それはどれだけ至難の業か。そのことに中学を卒業して何十年もたって、ようやく気づいた。しかも本書と違って今の中学生にはLINEもメールもinstgramもある。娘たちの学校の出来事もある程度聞いているけど、リアルだけでなくネットの中の世界にも気配りが必要な先生って大変だなぁ、と。

そんな思いを感じたからこそ、本書で明かされる真実はやるせない。そしてとても切ない。

本書は三部作の中でも法曹ミステリーの要素が強いと冒頭に書いた。でも、本書は単なる推理ゲームには堕さない。それどころか、裁判という場を借りて中学生の抱える闇と戸惑いと不安を描き尽した人生小説である。

本書のエピローグは2010年に飛ぶ。城東第三中学に教師として赴任したある人物のモノローグで進められる。もちろんその人物とは学校内裁判に登場した主要人物である。

第一部のレビューで、本書の時代と世代が私とほぼ同じことにシンパシーを感じると書いた。私もあの時代をとも過ごしたのだから。エピローグに登場する彼の言葉こそ、同じ裁判を体験した仲間にしかいえない実感がこもっている。殻をかぶっていた私も、自分の中学生活を振り返って、思うことが沢山あった。なんだかんだといろんなことがあった中学時代だったなぁと。よくぞあの時期を乗り越えてきたなぁと。本書のエピローグが2010年だったことで、私にも自分自身の中学時代を振り返るきっかけとなった。

エピローグに登場するのは、その人物だけだ。他に裁判を共にした人々のその後の消息は出てこない。でも、彼の言葉が泣かせるのだ。「あの裁判が終わってから、僕ら」・・・・「友達になりました」。彼が教師であるだけになおさら、20年経ってから振り返る中学生の時期に実感が沸くのだろう。生きていればどれほど壮絶なことがあっても幸せに振り返ることができるのだ。

そんな心に沁みるメッセージで本書は幕を閉じる。間違いなく本書は傑作といえる。

‘2016/01/23-2016/01/25


ソロモンの偽証 第II部 決意


第一部の最後は、藤野涼子による決意の言葉で締められた。第二部は、その決意の提案から始まる。城東第三中学校では、恒例行事として三年生が卒業制作を行うことになっている。その卒業制作を学校内裁判を開くことに充てたい、というのが藤野涼子の提案だ。

優等生である藤野涼子が決意を表明した時、学年主任の高木先生は優等生の予期せぬ反抗に目をむき、逆上のあまり平手で頬を打ってしまう。そして藤野涼子はしたたかにも平手打ちの件を訴えないかわりに学校内裁判を開く権利を勝ち取る。大人の言うがままに操られ、真相から遠ざけられたままで中学生活を終わりたくない。そんな藤野涼子の叫びはクラスに波乱を巻き起こす。裁判の期間は夏休みの2週間。高校受験を控えた中三生にそんな暇があるのか、と拒絶やためらいが乱れ飛ぶ。しかし、有志の生徒たちが少しずつ手を挙げ、検事・弁護人・陪審員・判事が決まってゆく。

だが、肝心の被告である大出俊次の意思はまったく顧みられていない。被告が白黒つけたいと意思を示さない限り、原告のいないこの裁判はそもそも成り立たない。そこで生徒たちを応援する北尾教諭は勝木恵子を仲間に入れる。彼女は大出俊次の元カノ(90年当時にこの言葉は一般的じゃなかったと思う)であり、捨てられた格好となった今も大出俊次のため尽くしたいとの意思を持っている。彼女が仲立ちとなり、大出俊次に被告人の立場で裁判に出廷してもらうためお願いに行く裁判関係者たち。

その中には弁護人の任についた神原和彦が加わっている。彼は他校生だが柏木卓也とは親しい。それもあって彼の死の謎を解くため協力を申し出たのだ。学校内裁判の弁護人に新たな一員が加わった今、大出俊次をどう口説き、どうやって裁判の場に引っ張り出すのか。

大出俊次は自他共に認める札付きの不良だ。とはいえ、周りの皆から殺人犯と見なされて平然としていられるほど図太くはない。図体も態度もふてぶてしいようでいて、そこはまだ中学生なのだ。そんな不安定で危うい彼の心理を著者は細やかに描き出す。大出俊次だけではない。勝木恵子、藤野涼子、野田健一、そして神原和彦。彼ら中学生の壊れそうに揺れ動く心のひだを著者はとても丁寧に、細やかに描く。第一巻のレビューで、私は本書に登場する中学生たちに感情移入できなかったと書いたが、それは彼らの行動そのものへの感想であって、中学生の心を描き出す著者の切り込み方には共感できる。きっと私も中学生の頃はこういう心の振れ方をしていたんだろうなぁ、と。

裁判を開こうとする藤野涼子の意図は、上辺だけで考えると無理な流れに思える。しかしこの裁判に法的拘束力はない。真似事であってもいいと先生方が黙認する中、裁判の実現に向けて彼女は懸命に努力する。この流れに少しでも作者のご都合主義が混じると読者は白けてしまう。なので、著者の筆は丁寧に丁寧に裁判開催までの経緯を紡ぎ続ける。中学生が無理なく裁判を実現するための能力と心の有り様に気を配りながら。中学生とはこうであったか、とかつて中学生だった私にも納得できるくらい丁寧に。本書の紙数がこれだけ増えてしまったのも無理もない。

中学生が裁判を開く。それは、中学生が大人の世界に足を踏み出すには格好のイベントだ。イベントとはいえ遊び半分ではない。きちんと裁判の前提や手続きに則っている。それが法的に無効なだけであって、彼らは真剣に裁判を行い事実を明らかにしたいと願っているのだ。

藤野涼子は叫ぶ。「あたしたちは、いろんなことを聞かれて、書かれて、憶測されて、想像されるんだ。何にも確かなことを教えてもらえないまんまで。あなたたちは知らなくていいことですって」

私は、第一部のレビューに書いた通り、のほほんとした無個性のノンポリ中学生だった。なので、藤野涼子が抱いたような深い不信を大人たちに抱いてなかった。でも、私の中学時代は無風平穏な日々ではなかった。校長室にも呼び出されたし、警察にも呼び出されたし、個人面談では担任より攻撃された。友人に大金を盗まれたことだってある。二度にわたって足の手術を受け、合計で1ヶ月はベッドの上にいた。多分、私は自分が思っている以上に親を嘆かせた中学生だったと思う。しかも、どれも私が自ら動いたのではなく、周りに引きずられて。今、こうやって中学時代の自分を思い返しても、反抗期でもなかったのに反省することばかりだ。私個人の反抗期は中学時代ではなくずっとのちにやってきた。大学を出た後、真っ当に新卒就職の道を歩まないことが反抗と信じて。

そんなわけだから、私は本書に登場する中学生達に感情移入出来なかったのだと思う。でも、今の私には同じ年頃の娘がいる。いつの間にか大人になってしまった私は、子どもたちに対して高木先生と同じような態度を取っていないだろうか。まだ子どもなんだから。まだ中学生なんだから。でも、実はそれって中学生からすればもの凄く嫌な気分にさせられる態度なんだろうな。私自身が中学生であった頃、同じような訳知り顔の態度を大人たちから示されて嫌な気分にならなかっただろうか。のほほん中学生だった私も、思い出せないだけできっと同じような気分を味わわされていたはずだ。

大人たちの都合でいいようにされてたまるか。中学生たちが自己を目覚めさせ、成長していく過程。大人の入り口に立った子供が、大人の真似事にどこまで迫れるのか。本書に書かれる中学生たちの悩みは、当人にとっては真剣な思春期の悩みだ。そんな中学生の悩みに迫る本書は推理小説でも犯罪小説でもない。ましてや、ヤングアダルト小説やライトノベルでもない。本書は子供から大人への成長を丹念に描いた人生小説だ。だから本書を読み進めるうち、読者にとって大出俊次が柏木卓也を突き落としたのか、柏木卓也はなぜ死んだのかといった謎は二の次三の次になる。謎解きのスリルよりももっと深い部分で考えさせられる。そして、必ずや読者は自分自身の中学時代について想いを馳せるはずだ。私のように。

本書に登場する親たちの描写も丁寧だ。柏木卓也の親。藤野涼子の親。野田健一の親。それぞれがそれぞれの思惑で子に接している。子どもとともに生きようと愛情を注ぐ親もいれば、心が子から離れてしまっている親もいる。私も娘たちにはなるべく誠実に接しようと心がけているつもりだが、親として残念な自分に思い当たる節も多々ある。

第一部のレビューで書いた通り、私にとって本書は同世代を生きた経験からも思い入れを感じる一冊だ。本書を読んだことで私自身の中学生活を省みるきっかけにもなった。しかし、私にとっての本書は、中学生の娘を持つ親の立場でも思い入れを感じる一冊でもある。いや、思い入れを感じるという表現は正確ではない。親となってしまった今、自分がいつの間にか中学生の頃の気持ちを忘れ、大人の目で子どもに接していたことへのうろたえを含んだ「きづき」と言えばよいか。大人の約束事や大人の事情。どれも世を渡って生きていく上で欠かせないスキル。しかし、そんなスキルに溺れすぎて、子供の頃の自分を忘れていないか。そんな自分への苦い問いが本書を読むと湧き上がってくる。しかもその問いに理想論や青臭さは含まれておらず、それが余計に心に沁みる。

三部作の中間にあたる本書は、ミステリの要素が一番薄い。だからその分、最も考えさせられるのかもしれない。

‘2016/01/22-2016/01/23


ソロモンの偽証 第Ⅰ部 事件


厨二病という言葉がある。生真面目に直訳すれば、中学二年生病となろうか。その年代に特有の情動が不安定な様子を指す言葉だ。いわゆるネットスラング。野暮を承知で由来を書くと、中学生を馬鹿にして中坊と呼び、それを一括で漢字変換すると厨房。「厨」房の「二」年生と言った意味だ。

大人向けの知識を聞きかじり始めた、大人と子供の間に挟まった時期。今はネットの発展により大人向け情報がたやすく入手できるので、厨二病患者にとっては過ごしやすい時代かもしれない。

私が中学二~三年だったのは、1987年から1988年にかけてだった。バブルが弾ける前の浮かれた日本の中で多感な時期を過ごした世代。それが私の世代である。私自身が中二の頃は何をして何を考えていただろう。その頃はまだネットが無かった。時代がちがうため現代っ子とは比較できない、と言いたいところだが、多分今の中学二年生と似たり寄ったりだったのだろうな。

本書に登場するのはまさに同じ世代、同じ年代の中学生たちだ。本書の発端となる事件が起こったのは1990年のクリスマスの早朝。私が14歳のクリスマスを過ごした三年後のことだ。

三年とは世代の差として大きく、同じ年代の枠に含めるのは無理があるのかもしれない。それでもなお、本書内の彼らと私は同時代を生きたといえる。何故なら、バブルが弾ける前の時代に多感な時期を過ごし、インターネットを知らずに中学生活を送った世代だから。「バブルが弾ける前」と「インターネットを知らない」。この二つのキーワードは、同じ時代を生きた証として今も有効だと思う。私が本書に思い入れを持ったのは、同じ時代に同じ年代として生きた親近感にあるといってよいだろう。

とはいえ、本書を読む間、登場人物に感情移入できたかというとそうでもない。なぜかというと、当時の私は本書に登場する中学生達の様には個性が確立していなかったから。正直いって私の中学時代は無個性だったといえる。私の中学時代を知る妻の友人は、私と付き合っていると聞くと、あんなショボいやつといったそうだ。そして私と結婚したら全く連絡を断ってしまった。中学時代の私とは、それくらいパッとしないやつだったのだろう。本書には名前が付いている主要なキャラ以外にも、名前も出てこないその他大勢がいる。多分、当時の私が本書の登場人物であったとしても、名も無きクラスメートの一員に甘んじていたことだろう。

そこが、私が本書の登場人物達に感情移入できない理由の一つだ。柏木卓也の墜死体の犯人を探すために学校内で模擬裁判を行い、検事や弁護士、判事や陪審員に扮し、弁論をこなす。そんな派手な活躍など当時の私にはとてもとても。

本書の主要キャラの中で当時の私に近い存在といえるのは、野田健一だろうか。病弱な母と仕事に不満をもらす父のもとで育った彼は、目立つことを極力避け、自己を隠すことに腐心している。しかし、野田健一のその目論みは、柏木卓也の墜死体の第一発見者となったことで破綻を来す。

中学二、三年といえば、いじめや校内暴力がつきものの年代だ。墜死体が発見されてすぐに犯罪を疑われた大出俊次は学校の番長。番長というより札付きの不良と言った方がよいか。本書を通して大出俊次は柏木卓也を殺したという疑いの目で見られ続け、そのことに人知れず傷つく。その疑いをさらに煽ったのは、三宅樹理。ひどいニキビのため皆に嫌われている彼女は、大出俊次にも手酷くいじめられていた。彼女はこの機会を利用し復讐のために友人浅井松子とともに、大出俊次と腰巾着二人による殺人の現場をみたとのチクリ手紙を学校と担任、さらには学級委員の藤野涼子宅に発送する。

藤野涼子の父藤野剛は警視庁捜査一課の刑事であり、娘宛に届いた封書の宛名書きの書体が尋常でなかったことから、娘に黙って手紙を開封する。その内容を見て学校を訪問した藤野剛は、津崎校長に捜査は捜査として、学校対応は対応として対応を委ねる。

第Ⅰ部である本書は、教育現場の危機管理についてかなり突っ込んだ問題提起がされる。結果的に津崎校長による危機回避策は全て裏目に出てしまう。しかし津崎校長が打った策は決して愚策ではない。情報公開せず、いたずらに混乱を招かないための配慮はある意味理にかなっている。本書のような子供の視点から描く物語の場合、子供の立場に迎合するあまり、学校を悪者と書いてしまいがちだ。そして情報公開こそが正しいと短絡的に学校対応を非難する。しかし、そんな単純な構図で危機管理が語れないことは言うまでもない。その点を浅く書かず、徹底的に現実的な危機管理対応として書き切った事で、本書の以降の展開が絵空事ではなくなった。そこに本書が傑作となった所以があると思う。

では、なぜ津崎校長による隠蔽に軸足を置いた危機回避策は破綻したのか。それは、三宅樹理が投函した三通のうち、担任の森内恵美子宅に届いた一通が、森内恵美子を敵視する隣人に盗まれたからだ。そしてあろうことかその隣人の垣内美奈絵はその手紙をテレビ局へと届ける。垣内美奈絵が何故そこまでの行動に及んだのか、彼女が抱える事情とそこから生まれる憎悪や敵がい心も著者は丁寧に描写する。このあたりの描写を揺るがせにしないところが、著者を当代有数の作家にしたのだろう。この点を怠ると、作者のご都合主義として読者を白けさせてしまうから。

一つの墜落死が、次々に連鎖を産む。浅井松子は謎の死を遂げ、三宅樹理は口が利けなくなり、大出俊次宅は放火で全焼し、それら事件の数々は世間の好奇の目にさらされる。そこに暗躍するのは教育のあり方や現場の事大主義を問題視し、大衆に訴えるニュースアドベンチャーの記者茂木悦男だ。垣内美奈絵の手紙が茂木のもとに渡った時点で津崎校長の危機管理策は破綻する運命にあった。その結果、学校は大いに揺れる。それぞれの家庭、少年課の刑事、学校による事態収拾の動き。著者の筆運びはとても丁寧に大人たちの右往左往を暴く。

ここに来て、墜落死という事件とその後の出来事は大人たちの都合でいい様に扱われ処理されていく。生徒たちの心の動きにはお構い無しで。もちろん大人たちも精一杯やっている。だが、そこで子供からの視点を考えるゆとりは無い。そんな風にないがしろにされて生徒達が何も思わぬはずはない。著者は生徒たちの間にじっくりと薪をくべる。そして焚きつける。メールもLINEもinstgramもない時代であっても、いや、だからこそ口伝えで生徒たちの間に不満と圧力が高まってゆく。

本書第Ⅰ部の最後で、茂木記者に呼び出され様々なことを探られ藤野涼子は殻を破る。容姿と文武の能力に恵まれ、自他共に認める優等生としての藤野涼子の殻を。それは少女から大人への殻でもあり、中学時代の私がついに脱ぐことのなかった殻である。

藤野涼子の決意によって、本書の展開は大きく前に踏み出す。

現代でも厨二病と揶揄され、当時でも軽んじられバカにされる中学生。子供と大人の境目にある中学生が、大人への成長を遂げる過程が本書では描かれる。本書第Ⅰ部は、それに相応しい藤野涼子のセリフで締められる。

「あたし、わかった。やるべきことが何なのか、やっとわかった」

私も中学時代にこの様なセリフを吐いて見たかった。

‘2016/01/20-2016/01/22


受験生に向けて-偏差値に負けるな


そこら中で梅の花が咲き誇っています。紅白が美しい季節です。

この季節はまた、受験の季節でもあります。受験が終わった方、まだこれからの方。喜びや悲しみが、それぞれの方に届けられていることでしょう。

我が家も長女が初受験に臨みました。幸いにして第一志望の学校に受かることが出来ましたが、不合格も経験しています。初めての試験がどうだったか。本人にはまだきちんと聞けていません。成長にあたっての通過点として記憶に残してくれればよいのですが。少なくとも偏差値の高低よりも、自分の行きたい道を選んでくれたことは評価したいと思います。

私自身、かつては高校受験生でした。受験した高校は、通っていた小学校の隣に立っていました。私にとって通い慣れた場所です。何もなければ全く印象に残らぬまま、人生の単なる通過点として過ぎてしまったことでしょう。でも、この通過点は結構覚えています。なぜなら生まれてこの方、緊張のあまり胃が痛くなったのは高校受験の時だけだからです。受験前の2、3週間はとにかく胃が痛くて痛くて。

その後の私の人生を考えれば、高校受験で胃を痛めた経験は微笑ましくすら思えます。高校受験よりも胃の痛い試練や苦難など、それこそたくさん潜り抜けてきたので。でも、今の私が胃を痛くするとしたら、食べすぎか呑みすぎが関の山です。多分今後も、私がディナーバイキング以外で胃を痛めることはないでしょう。それはなぜかというと、私が個人事業主の時期を長く過ごし、今は法人の代表という立場に就いているからだと思います。

個人事業や法人経営。それは常に成果が求められる世界です。成果を出せなかったら二度と発注を頂けないだけの話。落選通知すら来ません。これが就職活動であれば「厳正なる選考の結果、誠に残念ではございますが」のような文が届くのでしょう。しかしビジネスの世界ではそれすら来ないことがほとんどです。その度にいちいち胃を痛めていたら、太田胃酸やパンシロンがいくつあっても足りません。

「偏差値」というのは受験生にとってはとかく悪評の高い言葉です。でも、私のような立場からいうと恵まれた言葉です。相対であれ絶対であれ、目標値が明確に設定されているのですから。そして、もっと恵まれていると思うのは、一度「偏差値」の門を潜り抜けてさえしまえば、その評価は生涯変わることがないことです。

同じことは偏差値が設定されている高校や大学受験に限らず言えます。例えば国家資格。医者や教員、税理士や公認会計士、法曹資格のような資格がそうです。それらの国家資格は、更新試験が設けられていません、そのため一度取得すればほぼ不変です。自ら返上するか、不祥事による資格はく奪が無い限りは生涯持ち続けていられます。また、公私企業の正社員もそうです。終身雇用を錦の御旗として掲げてきた我が国としては、一度正社員になるとそうそうクビになることはありません。

立場が守られているという状況は、緊張感を喪わせやすい。これは皆さんも認めるところでしょう。それはまた、既得権益の死守という動機をも産みかねません。

もちろん、私が知っている方は皆さん努力されています。セミナーに出席したり勉強会を開いたり。私の妻は歯医者ですが、最近は歯や口の健康から体全体の健康寿命を取り入れるため勉強しているようです。そういった方々は、一度得た立場に安住することなく、努力を重ねられている方として尊敬したいと思います

でも、色んな事件やニュースを見ていると、どうも我が国の活力を失わせているのは、そういった努力家ではない、立場に安住してしまった方のような気がしてなりません。

最近の日本に活力がなくなっていることは色んな方が指摘しています。それぞれに説得力がある意見だと思います。私はここにもう一つ追加しておきたいと思います。それは、努力が不要な社会になってしまっているということです。一度入ってしまえば、一度得てしまえばさらなる成長努力をせずに既得利益が得られる社会。組織内での立場だけを気にしておけばよい社会。これでは活力も出て来ませんし、他のハングリーな国々に負ける一方です。仮に今後我が国が移民を増やしていくとして、今のような状況が続けばどんどん優秀な移民者に職を取って代わられかねません。

今後は、こういった意識は改められるべきではないかと思います。常にある程度の緊張を保つような社会。努力しなければ安易に地位を追われてしまうような社会。それは流動性のある社会といってもよいでしょう。また、あらゆる方にチャンスが広がる社会でもあります。働きたいのに働けない不定期労働者や結婚したいのに収入がない独身の方や子供が欲しいのに収入も保育園もないご夫婦にとってチャンスが巡る社会。

そして、絶えざる努力が求められる社会にあっては、受験の意味すら変わってくるでしょう。入学のハードルは低いが、卒業時に学問の成果が問われる学校。大学時代遊びまわっていた私がいうのもなんですが、卒業時に学位を容易に与えすぎだったのでしょうね。今までは。

今の受験生の方々には、一旦受かったからといってゆめゆめ努力を怠ることのないようにして頂きたいです。また、自分の思う志望校に行けなかった方も、決して今後の人生を諦めることのないようにして頂きたいです。偏差値が低い学校だっていいじゃないですか。偏差値が高い学校に入学して気を抜いた連中を追い抜く時間はまだ沢山あります。社会に出たら大学や高校がどこだったかなんて大手企業の学閥しか気にしませんよ。それよりも大切なのは、いかに仕事が出来るかです。社会に出てからも自らの評価を取り戻すチャンスは沢山転がっています。これは間違いありません。

私自身、関西では名の通った大学を卒業しましたが、上京して以来、その威光に頼ることは殆どありません。そもそも誰も知らなかったので頼りようもありませんでしたし。己のほんのちょっとの才覚と、それを補うかなりの努力でこれまで何とかやって来ました。また、これからも勉強を惜しまず世を渡っていこうと思っています。

そういった姿勢を今回合格した娘には教えて行きたいと思っています。そのためには、私自身も常に勉強の意欲を持ち続けねば。そう強く思います。