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アクアビット航海記-私の技術とのかかわり方


「アクアビット航海記」では、個人事業主から法人を設立するまでの歩みを振り返っています。
その中では、代表である私がどうやって経営や技術についての知識を身につけてきたかについても語っています。

経営や技術。それらを私は全て独学で身につけました。自己流なので、今までに数えきれないほどの失敗と紆余曲折と挫折を経験して来ました。だからこそ、すべてが血肉となって自分に刻まれています。得難い財産です。

本稿では、その中で学んだ技術の学び方を語りたいと思います。
私自身が試行錯誤の中で培ってきたノウハウなので、これを読んでくだった方の参考になれば幸いです。

ただし先に断っておきますと、私の技術力などそれほど大したものではありません。しょせんは独学ですし。
今までに参画してきた常駐現場では多くの凄腕技術者を見てきました。私が最近棲息しているkintone界隈でも私より技術力の優れた人は無数にいます。
そのため、技術力だけで考えれば、私など手本にする価値はありません。

私が皆さんにお伝えできるのは、最小限の努力で必要な技術を身に付ける嗅覚です。それは備えてきたと思います。本稿ではそれを参考にしてもらえればと思います。

モチベーション

ずばりいうと、私の技術へのモチベーションは、面倒くさがりから来ています。さらに飽きっぽさと。

例えば仕事で何か面倒な作業が必要になったとします。
そう、Excelのブックからブックへの転記のような。

これ、一回や二回ならまだいいのです。でもそれが十回繰り返されてくると、とたんに繰り返しに飽きてしまうのです。そして作業が面倒に思えてしまうのです。これは毎日、同じ場所に通勤する営みについても同じ。

そうなると、この面倒くさい作業をやめるためにどうすればよいか、私の脳内がざわめきだすのです。

多分、新たな仕組みやアルゴリズムを考える労力の方が、繰り返す作業よりも大変なのでしょう。でもそんなことは関係がありません。それ以上同じ作業をしたくない。その思いの方が圧倒的に強いため、私を衝き動かします。アルゴリズムや仕組みを考えることは、繰り返しの作業とは無縁です。飽きないし面倒くささも感じません。本連載第二十五回で書いたように集計作業が面倒でExcelのマクロを作ったのはまさにこの実例です。

選ぶ

今までのキャリアで、私はさまざまな技術や言語に触れてきました。この言語や技術の選び方は、案外大切ではないかと思います。

私はどちらかというと新しいもの好きです。ところが、私のキャリアを振り返ってみると、言語や技術の選択に当たってそこまで冒険をしていません。

例えば、PCはWindowsとMs-Officeを主に使ってきました。サーバーを自分で構築する際も、ファイルサーバーはSamba、LAMP(Linux+Apache+MySQL+PHP)でウェブ環境を構築してきました。CMSはWordPressを主に扱いました。クラウドにしても、βテスターとして関わり始めたころのkintoneは無名でしたが、運営元のサイボウズ社はそのころからすでにグループウエアの雄として業界に地位を確立していました。今やkintoneはわが国でも著名なPaaSに成長しています。

今までに私が携わった技術や言語の中で衰退してしまったものを挙げてみます。ファイルサーバーのSambaやその際にMacをつないだAppleTalk。サービス連携の言語はJSONではなくXMLを学びました。常駐先で触る必要があったLotus NotesやLotus Scriptは衰退の最たるものです。あとはLinuxでサーバーを構築した際、採用したDistributionのRedHat LinuxやMiracle Linuxも今はあまり聞きません。

若い頃に得たVisual Basicの知識やLampの知識が今も生かせることは、私のキャリアにとってとても幸運だったと思います。衰退した言語や技術の習得に使った時間が無駄にならずに済んだので。このことは私のキャリアを考える上でとても重要だと思います。

その際、私がどういう基準で言語や技術を選んだのかは、あまり覚えていません。ただ、その当時からシェアが高いものを選んだように思います。また、安価な環境で使える言語であることも重要でした。例えばスクリプト言語はphpであれば安価なレンタルサーバーでも使えましたが、pythonやgoはサーバーにインストールする必要があったため、学びの対象から外しました。

シェアが高いということは、サポートサイトも多いということ。サポートサイトを必死に読み込めば、たいていのヒントはおのずから公開されていることに気づきます。おそらく私はそれらを踏まえながら、自分の学ぶべき言語を選んでいったように思います。

この時に単に新しいからといって新奇な言語や技術にあまり手を出さなかったことが、私のキャリアをあまり回り道に進ませずに済んだと思います。

調べる

自分が知りたいこと、実装したいことをどう調べると効率的か。

これはとても重要なところです。私が自分でプログラムに関心を持ち始めたのは1999年。まだインターネットが世間に広く使われ始めたばかりのころです。今のように少し検索するだけで技術資料が閲覧できる時代ではありません。つまり、書籍が頼りでした。

書籍は、その分野の全てを語ろうとします。まず、総論から始まり、その後で個別の説明を展開していきます。私はそうした総論の類を読みません。まっすぐ自分が求める機能を探します。書籍の場合は目次や索引が付されていますので、そこから探すと目指す機能を学べます。

その機能の説明を読むと、自分の知らない事が次々に出てきます。メソッドや関数の記述。名前空間や言語体系。細かい文法など。それらを総当たりで調べていきます。その際も、名前空間についての総論は読み飛ばします。直接、該当する名前空間の書き方を探します。そうやって個別の自分の知りたいことだけを拾いながら、その積み重ねで全体を把握していく。それが私のやり方です。
ちなみに私は読書が大好きです。が、本を読む際は全く逆のアプローチをとります。途中の部分を読むなどもってのほか。必ず最初から最後まで通して読みます。ところが不思議なことに技術書を読む際だけはそのやり方だとうまく覚えられないのです。

私が技術の世界に触れ始めたころと違い、今はネット上から情報を得ることができます。ですが、その情報には書籍のような目次・索引がありません。つまり検索エンジンを使うしかないのです。この検索の際にキーワードを入力しますが、そのキーワードにもコツがあります。

技術の言語は国際的に英語が使われています。そのため、日本語だけで検索しても求める検索結果にヒットしないことがほとんどです。まず具体的な文言を英語も含めて検索します。また、エラーメッセージにあたった際はそのメッセージを検索文言に含めます。すると、求める結果が得られると思います。その際、英文が出てきたら大意ぐらいはつかめるぐらいの英文読解力があると楽です。その上でGoogle 翻訳やDeepLのような翻訳サイトを使って日本語で意味をつかみます。

なお、当たり前ですが得た結果をきちんと読解する力は必要です。私は文系学部で学んだ技術者ですが、読解力が私のキャリアを助けてくれたと確信しています。パッと読んで分かったつもりになってしまうと、結局遠回りになります。じっくりと文章を読むように心がけましょう。

実装する

この後の連載で、私がどのように実装の経験を積んでいったかは書いていく予定です。独立するまでにはかなりの回り道と試行錯誤と無数の失敗を繰り返しました。

日中は現場に常駐していた私が、個人の業務で無理せずに実装するにはどうすればよいか。全ては五里霧中の中でした。少しずつ実績を積み上げられ、しかも安価な投資額で実装環境が整えられるような案件を痛い失敗の中で少しずつこなしていったのが私のキャリアです。kintoneに出会うまでは。

私のように個人事業主から法人を設立するまでの歩みは、自分でいうのもなんですが、相当難しいと思います。

私のようにホームページの制作から始め、まずHTMLやCSS、JavaScriptを操るスキルを身に付け、そこからサーバーの選定や調達に進み、さらにphpなどの言語がデフォルトであるWordPressのようなCMSに手を染めていくと、キャリアとしてよいのではないかという気がします。この路線は、今のところまだ衰退の兆しがそれほどなさそうですし。

その際も、自分でサーバーを立ち上げ、LAMPをインストールし、AWSやGCP、Azureといったより高度な環境を選ぶより、まずは小規模な環境から始められる規模の案件をこなすとよいでしょう。要するに安価なレンタルサーバーでも十分要件が満たせるようなものです。

ブレイクスルー

とはいえ、ロジックの構築や予期せぬバグの出現など、実装にあたっては問題が生じます。

それをどのように克服していくかは切実な問題です。それで挫折し、折れた心を抱えながら情報処理業界からも去っていく人もいるでしょう。

そもそも、どれだけ本やウェブサイトを読んでも概念がちっともつかめない場合、どうすればよいのでしょう。正直、私にも概念がつかめずに苦戦したことが何度もありました。本連載第三十二回で書いた、行列のExcelからAccessの三次元を理解したのはまさにその一つ。

そこでも書きましたが、当時チームの部下だった年下のOさんに教えを請いました。そこで教えてもらったことで私は一つ目のブレークスルーを果たしました。この時、妙なプライドや自負があって独学にこだわっていたら、今の私はなかったと思います。

私はキャリアのほとんどを独学で積み上げてきたことに誇りも自負も持っています。ですが、今でもまだまだ分からないことが無数にあります。今の私がそうした事態にぶつかった時、二回り以上も年が離れた部下に教えを請い、頭を下げられると確信できます。しょせんは私のキャリアなど独学であり、正当に大学で情報科学を学んだ方には絶対に勝てないことが分かっていますので。

ブレークスルーを果たすには、自分の中で突き詰めて考えることは必要です。でも、概念を理解するためのちょっとした気づきを自分の中だけで得るのは難しいでしょう。その時、相手が誰であろうとヒントを与えてくれる方には頭を下げ、謙虚でいられるかどうか。それが出来る技術者こそが、年配になっても現役でやれる人だと思います。

加齢による好奇心の枯渇

かつてはプログラマー35才限界説、というものがまことしやかに言われていました。35才を超えるとプログラマーとしては使い物にならない、というやつです。

この説はある部分ではあたっています。ただし、それはアルゴリズムの構築が35才を迎えた途端にできなくなる、という意味ではありません。当たっているのは年齢による体力の問題です。それはどうしようもありません。徹夜でコーディングする作業は40歳を過ぎると難しくなるのではないでしょうか。

むしろ、ロジックの組み立てをきちんと自分の頭で考えた経験を35歳までに積んでいることのほうが大切かと。そうした経験があれば、60歳の半ばであっても第一線で問題なくやれると思います。身近にその生きた例を知っています。私自身、50歳の声が聞こえ始めていますが、まだやれると思っています。

また、今の言語はフレームワークなども充実しています。また、基本的なアルゴリズムについてはライブラリが豊富に用意されています。そのため、それを呼び出すだけでよいのです。加えてkintoneのようなPaaSを使えばデータベースの構築や通知・権限設定も手間をかけずに実装できます。

そうした意味ではプログラマー35才限界説とは、かつて情報処理業界の言語や環境が発展途上だったころの名残だと思っています。ちなみに私は文系学部の出身なので、文系プログラマー限界説にも反対の立場です。女性エンジニアの方も優秀な方が多いので、男性だけが優位というのも間違っています。

ただし、それ以外に限界説が当てはまる人はいます。それは体力の問題ではなく、心の柔軟さの問題です。肉体とともに心は徐々に柔軟さを失っていきます。実年齢が30歳であっても、自分が持っている技術や環境から学ぼうとしないと、35才よりも前に限界を迎えます。上に書いたように、自分より詳しい若手に頭を下げられるかも限界の年齢を決めるでしょうね。

例えば新卒で情報処理業界に入り、会社が用意してくれた既存の業界や言語や環境の中で安定した仕事をこなしていたとします。その状態に甘んじて新たな言語や環境を学ぼうとしなかったとすれば、老いはより早くあなたをむしばむはずです。そして気が付いたときには技術者としての活躍の場がない、という悲劇に遭遇します。

私自身、今からDeep LearningやMachine Learning、ブロックチェーンや3Dプリンターを学ぶには億劫な思いを感じます。概念は大体理解しているつもりですが、それを新たな実装として試してみようとする気概が出てきません。私にも間違いなく老いは忍び寄っています。

それを防ぐには好奇心を持ち続けるしかないと思います。これは私の価値観ですが、仕事だけが毎日ではないと思います。さまざまなプライベートの趣味や出会いや楽しみを持ち、仕事以外に多様な刺激を受けるような環境に身を置く。それが40代50代になって少しずつ効いてきて、あなたの身を助けてくれるはずです。

まとめ

私なりに技術との関り方をまとめてみました。もちろんこれは私の例にすぎません。人によってそれぞれのやり方があるはず。ここに書いた内容を基に、皆さんがそれぞれの立場で取り入れられる点があれば、取り入れていただければと思います。


一番やさしい簿記


今、クラウド会計システムはどれくらいの種類があるのだろうか。私もよく把握していないが、私の脳裏に即座に浮かぶのは会計freeeだ。

2019年の12月、freee社において開催されたfreee Open Guild #07で登壇を依頼された。そのタイトルは「kintone エバンジェリストがfreee APIを触ってみた」。
登壇の資料を作るにあたり、会計freeeのAPIリファレンスを念入りに読み込んだ。その作業を通して、私はfreee APIのリファレンスにかなりの好印象を持った。わかりやすく見やすいリファレンスを作り上げようという配慮が随所になされている。それはfreee社の掲げるオープンプラットホームを体現していた。
さらにその登壇をご縁として、私はfreee Open Guildの運営スタッフにもお誘いいただいた。
そうした関わりが続いたことで、私の中ではfreee社に対する親しみが増している。
おそらく今後も、私がfreeeとkintoneの連携イベントで登壇する機会はあるに違いない。実際、2020年には両社が共催したfreee & kintone BizTech Hackというイベントで二回ハンズオン講師を勤めた。さらに、freee社よりご依頼を受けて動画コンテンツも作成した。
今後もfreee社から案件を受注する機会は増えていくことだろう。

そんな訳で、私は久しぶりに簿記を勉強しようという気になった。
私は大学の商学部に在籍した頃に簿記三級を取得している。授業の単位取得の条件が簿記三級の合格だったからだ。
私にとって簿記の資格とは、単位のために受けるだけで、当時はなんの思い入れもなかった。それ以来、簿記からは完全に遠ざかっていた。

それは個人事業主として独立した後も変わらずだった。青色申告事業者として事業主登録を行ったにもかかわらず。青色申告者である以上、正式な簿記による経理処理が求められる。だが、私はお世辞にも褒められた簿記はやっていなかった。さらに法人として登記してからは、経理の実務は税理士の先生に完全にお願いしており、私自身が簿記の仕訳に携わる機会はますます減った。
ところが今回、freee社とのご縁ができたことで、最低限の知識を得ておく必要に迫られた。できるだけ簡単で、手軽に読める簿記の本を読まねば。そこで、手に取ったのが本書だ。

本書の見開き折り返しには、
本書は
超初心者の基礎学習
3級受験前の復習に役立つ内容です!
と書かれてある。
既に三級を持っていた私には本書の内容はとてもわかりやすかった。
そして仕訳とは何かを徐々に思い出すことができた。

左が借方、右が貸方。単純な内容だ。取引を必ず対となる借方と貸方に記載する。その時、借方と貸方の勘定科目に書いた金額の合計は一致しなければならない。
それが複式簿記のたった一つの要点だと思う。

もちろん税理士の先生になりたければそれでは足りない。複雑な簿記を流暢に使いこなすことが求められる。
だが、仕訳と決算さえこなせればよいぐらいのレベルであれば、本書ぐらいがちょうどいい。

冒頭のプロローグでは、著者がいかにして簿記一級に満点で合格できるまでになったかと言う経歴がわかりやすい文章で書かれている。

歯科診療所の受付をやりながら、出入りしていた税理士さんに憧れ、簿記を勉強して始めたこと。何度もあきらめそうになりながらこつこつと勉強を続け、簿記一級を満点で合格したこと。今では公認会計士として働いているそうだ。

超初心者向けと言うだけあり、本書は簡単な仕訳の処理方法が何度も何度も繰り返し登場する。それは懐かしい宿題のドリルのようだ。
資産、負債、資本、そして費用と収入。この5つが簿記の中では基本の枠となる。取引の属する勘定科目によって、その5つのどこに入るかを当てはめていく。そして結果として左右が合計金額で等しくなるように振り分けてゆく。

ただ、借方と貸方の左右に振り分ける当て込みの方法は案外と難しい。右と左が収益と費用で変わることも理解を難しくする。

勘定科目の金額が正の値である場合、適した勘定科目が属する枠に転記する。逆に負の値である場合、反対側に転記すればいい。
そしてそれが対となる勘定科目では逆の位置になる。それさえ覚えれば、仕訳については何とか理解できる。
本書を読んでいるうち、大学時代に受けた簿記の知識がよみがえってきた。

本書はまさに一番やさしい簿記とうたうだけあって、かなりの説明を仕訳に割いている。
私の印象では全体の6割が仕訳の説明に当てられている。次々と仕訳の事例が登場し、それに取り組むうちに読者は自然と仕訳に慣れていく。そういう仕掛けだ。

本書は、伝票についても説明が割かれている。伝票は受発注のシステムを作る上で不可欠の知識だ。私の仕事でも頻繁に登場する。
ただし私は今まで伝票のことをデータ管理の観点からとらえていて、簿記や経理の観点からは考えてこなかった。だが、実は伝票とは簿記の必要から生れた仕組みなのだ。私は本書を読んでそれを理解した。仕訳帳に記帳するかわりに伝票に記帳するようになったいきさつなど、学びからはいつになっても新たな発見をもたらしてくれる。
三伝票制、五伝票制があることも本書によってもう一度教えられたことだ。三伝票制は入金伝票、出金伝票、振替伝票で管理する。五伝票制はそれに売上伝票と仕入伝票が加わる。
売上伝票の勘定科目は売掛金しかなく、仕入伝票の勘定科目は買掛金しかないこと。
こうした知識も本書を読んで再び学びなおせた。仕事で使っている知識の歪みが補正されるのは学ぶ者の喜びだ。

また、決算書の作り方についても本書は丁寧に説明してくれている。
私も決算書は最低限の見方だけは知っている。だが、その作り方となるとさっぱりだった。
本書の説明を聞いていると、その仕組みが理解できる。そして、会計システムのありがたみが実感できる。
その進化系であるクラウド会計のこれからも楽しみだ。

‘2020/02/05-2020/02/09


アクアビット航海記-打たれてもへこたれない


今までの連載を通じ、私の人生を振り返ってきました。
私の人生は決して平坦なものではありません。
何度も凹まされ、傷ついてきました。鼻をへし折られるぐらいならまだしも、やくざさんの家に飛び込み営業で殴られたり、営業成績の不調でその場で丸刈りにされたり。本連載のvol.20〜航海記 その8で書いた通りです。

この後の連載でも触れますが、この後の私はもっと強烈なトラブルにも巻きこまれます。

今、自分で思い出してみてもよくやって来れたと思います。正直、その時々の自分がぶち当たった過酷なストレスをどうやってやり過ごしてこられたのか。自分でもよくわかっていません。

おそらく、持って生まれた性格もあったはずです。のんきでマイペースで、のんびりしていた性格が私を救ってくれたのでしょう。
私は中学生の頃にはいじめにも遭いました。そのたびに、心の中で何回も人を殴りました。数えきれないほどです。実際、中学の時に一度だけ切れて目の前が真っ赤になり、気が付いたらグーで相手を殴っていたこともありました。

切れる自分も知っています。今でも自分を聖人君子だとは思っていません。悪業にも手を染めたこともあります。欲望にも負けやすい性格です。自分は今でも人様に誇れるほどの人間ではないと考えています。

本稿は8月10日に書いていますが、8月6日に小田急線で傷害事件がありました。車内で切れて何人もの人を刃物で刺した事件です。私も影響を受け、二駅を歩いて帰りました。
報道によると、犯人は思い通りにならないことが重なった揚げ句に切れて凶行に及んだようです。

もし私が今までの人生で今回の犯人のように切れていたら、私の今はありません。もしくは、人に切れる前に自分の中が切れて精神に失調をきたしていたかもしれません。

そこで今回は、メンタルについて書いてみたいと思います。

なぜメンタルか。それは、独立や起業を行う上で、メンタルのセルフケアは必須だからです。場合によっては会社勤めの方がよかった、と思うような目にも何度も遭うはずです。そのあたりについては、本連載の最初の頃にメリットとデメリットとして書かせていただきました。

ですが、そのたびにお客様やパートナーとケンカを繰り返していたのでは成長はありません。
もちろん、私もそうしたケンカをしてきました。多くの失敗の果てに今の私があります。そうした失敗の中には、この方には足を向けて寝られないといまだに後悔する失敗も含まれています(この後の連載で書くつもりです)。

どうやれば、メンタルを平常に保てるのか。

まず、過去を忘れないことです。むしろ、過去は何度も思い返すべきです。失敗を何度も何回でも。その時も反省する必要はありません。反省を義務にするぐらいならむしろ居直って開き直った方がよいぐらいです。自分は決して間違っていないという思いを強くしたってよいのです。
悔しい思いや屈辱を何度も自分の中で思い起こすことは耐性となって自らを鍛えます。どれほどの苦しい思いも、当事者だったその瞬間に比べると痛みは比較にならないほど楽に感じるからです。
私はそのことをvol.20〜航海記 その8に書いた当時に学びました。
当事者であるその瞬間が一番しんどい。その時に味わった屈辱は、その瞬間をやり過ごせば過去の記憶に変わります。やくざに監禁されそうになる恐怖や、衆人環視の中で頭を刈られる屈辱ですら。

私はこうした記憶や他にも無数にある記憶を何度も何度も脳内にフラッシュバックさせました。大成社にいた当時の辛さは上京して結婚し、子供が大きくなった6,7年の後も夢で私を苦しめました。ですが、ときぐすりとはよく言ったものです。今では完全に克服しました。
むしろ、そうした振り返りを幾度となく行うことで、自分が客観的に見えてきます。すると今の立場からの批評も行えるのです。批評は、あの時はああすればよかったという改善へとつながります。

私の場合、何度も何度も脳内で耐え抜いたためか、同様の出来事にあっても前の経験と比較できる余裕まで生まれるようになりました。
私はそのため、当時を忘れるよりも、むしろ薄れる記憶を呼び起こそうとします。数年前に大阪を訪れた際、わざわざ大成社のあった大国町のビルにも訪れました。この後の連載で触れる昭島市の某倉庫には近くを通るたびに訪れるようにしています。

ストレスをやり過ごすもう一つのコツは、過去の嫌な出来事を思い起こすのと同じぐらい、自分の人生でよかった瞬間を思い起こすことです。
例えば小学校の球技大会で決めたシュートや、先生や親に褒められた体験。旅行でやり遂げた達成感や何かのイベントを無事に過ごせた陶酔感など。

私の人生に劇的な瞬間はそう多くありません。ですが、思い出してみるとそうした成功体験のようなものが見つかりました。たとえささいな経験であっても、誰にもこうした幸せな経験の一つや二つはあるのではないでしょうか。

苦しかったことや楽しかったことを思い出す習慣。それは、両方をひっくるめての人生という考えに導いてくれます。
私が持っている人生観は、人生の谷と山を均すと平らになるというものです。禍福は糾える縄の如しにも似ているかもしれません。
結局、苦楽が繰り返されての人生です。今のストレスは未来のハピネスの前触れでしょうし、今回の幸いは、次回の辛いによってあがなわれます。そう考えておけば、何が来ても恐れることはありません。

もう一つのストレスから逃れるコツは、さまざまな人生を知っておくことです。さまざまな人の話を聞くのもよいでしょう。小説を読んで登場人物の運命に心を痛めるのもよいでしょう。自伝や伝記から偉人の蹉跌やそこからの這い上がりを参考にするのもよいでしょう。映画や漫画やアニメから心を揺さぶられるのもよいでしょう。
自分に人生があるのなら、今まで生きてきたあらゆる人にもそれぞれの人生があったはずです。あらゆる人生の姿やあり方をストックとして持っておけば、自分だけが特別と感じる罠から逃れられます。
小説や映画の効用は、あらゆる人々の感情の動きに自分を委ねられることです。しかもそれを自分自身の痛みとして感じるのではなく、あくまでも作中の人の被った痛みとして苦しまずに追体験できます。小説や映画に若いうちから多く触れておくことは人生のさまざまな形を教えてくれるのでお勧めです。
結局、人は等しく最後には死ぬのです。それまでの道のりがどうであろうとも、最後には前へ前へと押し出され、死が安らかな眠りをもたらしてくれます。そう思えば、人生の出来事に一喜一憂せず、日々を少しでも楽しく生きようと思えませんか。

繰り返しますが、私は大した人ではありません。今でも何かのイベントに登壇する際は緊張します。
ですが、それは必ず乗り切れると思えるようになりました。
私はイベントに臨む前、こう考えるようにしています。
「当事者である瞬間はやがて必ず終わる。」
「時間は止まらず、必ず前に進む」
自分が失敗して恥をかこうと、人に迷惑をかけてしまおうと、自分も含めて前へ前へと押し流してゆく。それが時間です。全ての人や物事に止まることを許さない。それが時間のありがたみです。

明日プレゼンが控えていようが、大きな商談が控えていようが、その瞬間はやってきて、そして去っていきます。人生とはその繰り返しにすぎません。失敗してもそれを取り返す努力さえすれば、次のチャンスはいつの日か巡ってきます。
そのためにも、辛かった経験や楽しい経験を何度でも思い返してみましょう。その繰り返しが自分の中に改善案やひらめきを必ず与えてくれます。すると苦しかったことも楽しかったことに変わるのです。

いかがでしょう。打たれてもへこたれない私のコツを感じていただけたでしょうか。もちろん、本稿が全ての人に当てはまるとは思いません。ですが、皆さんにとって少しでも参考になれば幸いです。


終わりの感覚


正直に言う。本書は、読んだ一年半後、本稿を書こうとしたとき、内容を覚えていなかった。ブッカー賞受賞作なのに。
本稿を書くにあたり、20分ほど再読してみてようやく内容を思い出した。

なぜ思い出せなかったのか。
それにはいろいろな原因が考えられる。
まず本書は、読み終えた後に残る余韻がとてもあいまいだ。
それは、主人公のトニーが突きつけられた問いへの解決が、トニーの中で消化されてしまうためだと思う。トニーはその問いへの答えを示唆され、自ら解決する。その際、トニーが出した答えはじかに書かれず、婉曲に書かれる。
そのため、読後の余韻もあいまいな印象として残ってしまう。

また、本書は提示された謎に伴う伏線が多く張られている。そのため、一つ一つの文章は明晰なのに、その文章が示す対象はどこかあいまいとしている。
この二つの理由が、私の記憶に残らなかった理由ではないかと思う。

人はそれぞれの人生を生きる。生きることはすなわち、その人の歴史を作っていくことに等しい。
その人の歴史とは、教科書に載るような大げさなことではない。
歴史とは、その人が生きた言動の総体であり、その人が人生の中で他の人々や社会に与えた影響の全てでもある。

だが、人の記憶は移ろいやすい。不確かで、あいまいなもの。
長く生きていると幼い頃や若い頃の記憶はぼやけ、薄れて消えてゆく。

つまり、その人の歴史は、本人が持っているはずの記憶とは等しくない。
本人が忘れていることは記憶には残らず、だが、客観的な神の視点からみた本人の歴史としてしっかりと残される。

過ちや、喜び、成し遂げたこと。人が生きることは、さまざまな記録と記憶をあらゆる場所に無意識に刻みつける営みだ。

自分のした全ての行動を覚えていることは不可能。自分の過去の記憶をもとに自らの歴史をつづってみても、たいていはゆがめられた記憶によって誤りが紛れ込む。
自分の自伝ですら、人は正確には書けないものだ。

本書の最初の方で、高校時代の歴史教師との授業でのやりとりが登場する。
「簡単そうな質問から始めてみよう。歴史とは何だろう。ウェブスター君、何か意見は?」
「歴史とは勝者の嘘の塊です」と私は答えた。少し急きすぎた。
「ふむ、そんなことを言うのではないかと恐れていたよ。敗者の自己欺瞞の塊でもあることを忘れんようにな。シンプソン君は?」
と始まるやりとり(21-22p)がある。
そこで同じく問いに対し、トニーの親友であるフィンことエイドリアンは、以下のように返す。
「フィン君は?」
「歴史とは、不完全な記憶が文書の不備と出会うところに生まれる確信である」(22p)

さらに、その流れでフィンことエイドリアンは、同級生が謎の自殺を遂げた理由を教師に問いただす。
そこで教師が返した答えはこうだ。
「だが、当事者の証言が得られる場合でも、歴史家はそれを鵜呑みにはできん。出来事の説明を懐疑的に受け止める。将来への思惑を秘めた証言は、しばしばきわめて疑わしい」(24p)
著者はそのように教師に語らせる。
これらのやりとりから読み取れるのは、歴史や人の記憶の頼りなさについての深い示唆だ。

長く生きれば生きるほど、自分の中の記憶はあいまいとなる。そして歴史としての正確性を損ねていく。

トニーが学生時代に付き合っていた彼女ベロニカは、トニーと別れた後、エイドリアンと付き合い始めた。ベロニカの両親の家にまで行ったにもかかわらず。
そのことによって傷ついたトニー。エイドリアンとベロニカを自らの人生から閉めだす。
その後、エイドリアンが若くして死を選んだ知らせを受け取ったことによって、トニーにとって、エイドリアンとベロニカは若い頃の旧友として記憶されるのみの存在となる。

トニーはその後、平凡な人生を歩む。結婚して娘を設け、そして離婚。
40年ほどたって、トニーのもとにベロニカの母から遺産の譲渡の連絡が届く。そこから本書の内容は急に展開する。
なぜ今になってベロニカの母から遺産が届くのか。その手紙の中では、エイドリアンが死とともに手記を残していたことも書かれていた。

再会したベロニカから、トニーは不可解な態度を取られる。ベロニカが本当に伝えたいこととは何か。
トニーは40年前に何があったのか分からず困惑する。
エイドリアンの残した手記。ベロニカの謎めいた態度。
突きつけられたそれらの謎をトニーが理解するとき、自らの記憶の不確かさと若き日の過ちについて真に理解する。
かつて、高校時代に歴史の教師とやりとりした内容が自分のこととして苦みを伴って思い出される。

本書は、人の記憶の不確かさがテーマだ。長く生きることは、覚えてもいない過ちの種を生きている時間と空間のあちこちに撒き散らすこと。
エイドリアンのように若くして死んでしまえば過ちを犯すことはない。せいぜい、残した文書が関係者によって解釈されるくらいだ。
だが、長く生きている人が自分の全ての言動を覚えていられるものだろうか。

私も今までに多くの過ちを犯してきた。たくさんの後悔もある。私が忘れているだけで、私の言動によって傷つけられた人もいるはずだ。
50歳の声が聞こえてきた今、私の記憶力にも陰りが見え始めている。一年半前に読んだ本書の内容を忘れていたように。

誰もが誠実に、過ちなく生きていたいと思う。だが、過ちも失敗もなく生きていけるほど人の記憶力は優れていない。私も。これまでも、この先も。
過去と現在、未来に至るまで、私とは同じ自我を連続して持ち続けている。それが世の通念だ。だが、本当に私の自我は同じなのだろうか。その前提は、本当に正しいのだろうか。
本稿を書くにあたって改めて読み直したことで、そのような思いにとらわれた。

‘2020/01/01-2020/01/03


アクアビット航海記 vol.22〜航海記 その10


あらためまして、合同会社アクアビットの長井です。
弊社の起業までの航海記を書いていきます。以下の文は2017/12/28にアップした当時の文章が喪われたので、一部を修正しています。

前半生のまとめ


前回に書いた通り、上京した私。
悩める前半生から心機一転、新たな人生へ足を踏み入れます。

ここで後半生に入る前に、今までの連載を振り返ってみたいと思います。
ただ、振り返るにあたり言っておかねばならないことがあります。
それは、何が良くて何が悪かったかの判断を拙速に決めてはならないことです。その判断基準は人によって、時期によってまちまちだからです。
ましてや私の場合、成功者ではありません。まだ発展途上の不安定な状態です。
不安定な今を基準にそれまでの人生を判断することだけは戒めないと。

なので、ここでは振り返る基準を”起業”したという事実において判断してみようと思います。
起業にあたって、前半生の私の何が良かったのか、何がまずかったのか。
”起業”したという事実をもとに、前半生のまとめを記したいと思います。

七つの賜物


まず一つ目に挙げられるのは、私が大学卒業後、新卒として社会に出なかったことです。
新卒で採用されなかったことによって、私は社会人としての基礎訓練を受けずに社会に出ました。これは私の足かせになりましたが、型にはまらずに済んだメリットもありました。そのどちらが良かったかは、今となっては結果論にすぎません。
ただ、人と違うレールを歩んでいるという引け目を無理やり味わったことは、私の起業へのハードルを確実に下げました
また、若い時分から、一つの現場に縛られることがなく、さまざまな職場を経験できたことも、私にとってはプラスだったと思います。

二つ目に挙げられるのは、私がなにがしかの技術を手にした状態で大学を卒業したことです。
大学の学問を修めただけでなく、ブラインドタッチという技をもって社会に出ました。
これは、当時の私にとって武器となりました。
もちろん、ブラインドタッチだけで起業できるはずはありません。しかし、入力オペレータとして派遣登録できるぐらいには、私の役に立ってくれました。なぜなぜなら、社会に出てすぐ、自分の技術でお金をもらう経験を積めたからです。
私が上京して仕事したとき、大学のブランドには頼れませんでした。当時、東京では私の出た大学は無名だったからです。つまり、出身大学がどこだろうと関係がないのです。
その時、人に貢献できるスキルが己にあるかないかだけが問われます。
技術の大切さを若いうちに痛感できたのはよかったと思います。

三つ目は、自分の内面を底の底まで見つめた経験です。
人生に悩み、自分の限界を痛感し、底で這いずり回る苦しさを実感したこと。これは自分の弱さや未熟さを教えてくれました
よく「若い時の苦労は買ってでもしろ」と言います。その通りだと思います。
私の場合はまず鬱の症状が自分自身の壁として立ちはだかりました。この壁は厚く険しかった分、壁を打ち破った先にある世界の広がりを自分に示してくれました。
また、大学時代に経験したホテルの配膳のアルバイトと、ブラック企業でしごかれた経験は、私の天狗の鼻を容赦もなくへし折りました。
それらの経験は、自分にとって向いている仕事はなにかを考える上で頼りになるガイドになりました。
後半生、起業で苦しくなった時も何度もありました。ですが、それ以上に苦しい経験を積んでいると、心は折れないものです。

四つ目は、人の上に立つ経験を積んでいたことです。
私にとっては大学時代の部活がそうです。
規模の大小や、種類は問いません。形はなんだってよいのです。どういう形であれ、人の上に立つ経験。それは、起業に踏み切る上で私を後押ししてくれました。
私の場合は末端の派遣職員の立場も味わったため、両側の立場から物事を見る視点も養えました
あと、若い時期に孤独を噛みしめ、孤独に慣れる術を持っていたことも起業には助けとなりました。経営者は孤独なのです。

五つ目は、読書の習慣を得たことです。
苦しい時期に本を救いを求めたことは、一過性の快楽ではなく、書物の中から心を養ってくれました。
本の中には著者や登場人物による多様な視点と、そこから導き出された考えが詰まっています。そして、人生を多様な価値、あらゆる角度から教えてくれます。
未熟で若いうちは、実生活で熟練のための経験を得ることなど、そうそうありません。しかし読書はそれを可能にしてくれます。
”起業”して一旗をあげることも、組織の中で仕事を全うすることも、書物の中では等しく経験できるのです。
その効果を若いうちから感得できたことは私の人生の糧となりました。

六つ目は、新たな人々との触れ合いです。
違うフィールドにいる人と接点を持ち、お付き合いする。それは人生の可能性を広げてくれるのです。
この人とのご縁の大切さが自らの助けになることを知り、その出会いに感謝できたことも重要だったと思います。
読書で得た多彩な人生への見方を、人々との付き合いで実際に確かめる。その経験は、人にはそれぞれの人生の可能性があることも教えてくれました。もちろん自分の可能性も。
さらに、それぞれの人が自分の考えや価値を抱いて生きていることも身をもって知りました。それが多様性につながります。比較する基準の多さは、人と自分を比較する呪縛から私自身を解き放ってくれました。
それらの経験は、私の仕事の幅を広げてくれたばかりか、生涯の伴侶を得る時にも役立ちました。
変に人嫌いにならず、人とのご縁が自分を成長させてくれる実感を若い頃に得られたのはありがたかったです。

七つ目は、瞬発力の大切さを知ったことです。
私が上京する直前、2週間ほどの間に一気呵成に物事を決断し、実行に移しました。
その行いは、私の人生を新たなステージへと進めてくれました。
瞬発力の大切さは、後半生で起業に踏み切る際にも実感しました。
”起業”した後は、悩んでいる時間などなかなか取れません。時には後先を考えずに飛び込むこともあります。当然、失敗もあります。私がブラック企業に飛び込んだように。
でも、過ぎてしまえばそれは結果です。過去の失敗として懐かしく思える日が来るのです。
そのためにも直感に従って決断することはなおざりにしてはなりません。石橋をたたいて渡らない、などもってのほか。
瞬発力の大切さを肝に銘じたことも、私の人生の財産です。

感謝します

本稿を書いた2017年の年末は、私が常駐先から抜け、真の意味で独立を果たす時期でした。
正直にいうと、当時、安定収入が入らなくなることにためらいました。家計も苦しかったですし。
本稿を書いてから今、3年近くがたちました。コロナで経済が失速していますが、なんとかやってこられています。安定収入がない怖さも最近はそれほど感じません。
今の状況など、私にとっては這い上がるべき場所さえも見えなかった時期に比べれば大したことはありません。その時期を乗り越えた経験は、今の自分を勇気づけてくれます。
たぶん、これからも苦しい時期はあるでしょう。が、この頃に味わった苦しみを思い出せば、乗り越えられると信じています。

後半生も、さまざまな試練が私を待っています。何度も打ちのめされました。死を思う事もありました。
でも、なんとか今、本稿を書けていることに感謝したいです。

最後に、当時、私にこういう連載の場を提供してくださったCarry Meさんにあらためて感謝を申し上げます。当時の「本音採用」編集長の野田さんにも。
また、つたない私の文章と私の取るに足りない一生に付き合ってくださっている読者の方にも感謝の言葉を。そして、両親や肉親、私とご縁のあったすべての人にも感謝の言葉を。

本連載第一回で書いたように、私は個人と家庭と仕事の両立を目指しています。
そして、人には人の考えがあり、それを押し付けるつもりもありません
あくまで私は淡々と自らの起業までの歩みを記すのみ。
引き続き、後半生をつづっていきます。ゆるく永くお願いいたします。
皆様のアフターコロナが良くなることを願って。


喜嶋先生の静かな世界


著者の本は一時期よく読んでいた。よく、と言っても犀川シリーズだけだったけど。犀川シリーズとは、那古野大学の犀川助教授とゼミ生である西之園萌絵が主役のシリーズ。本稿を書くにあたり、著者のWikipediaを拝見したところ、犀川シリーズをS&Mシリーズと呼ぶことを知った。S&Mシリーズはとにかく読みやすい。読みやすさのあまり、内容をほとんど忘れてしまう事が逆に欠点となるほどに。私がS&Mシリーズを読むのを途中でやめてしまったのは、その読みやすさが災いしてのことに違いない。そのため、S&Mシリーズの結末は知らない。結局のところ、西之園萌絵は犀川先生を射止めたのかどうかも。

本稿を書くにあたり、私が最後に読んだS&Mシリーズ及び著者の作品を調べてみた。その作品とは「今はもうない」だ。S&Mシリーズの最後から数えて三つ目の作品だ。しかも私は「今はもうない」を二回読んでいる。1998年の11月と2001年の4月に。おそらくはこのときも一回目に読んだ内容を忘れてしまっていたのだろう。私は、これを最後に著者の作品から遠ざかることになる。

そういうわけで本書は、十数年ぶりに読む著者作品となる。

長音を避ける理系色の豊かな文体は相変わらず。ドクターはドクタ。スーパーはスーパ。エネルギーはエネルギィだ。久々に読んでもやはり個性的だ。懐かしさを感じた。

水のようにすっと心に染み入る読みやすさも健在。小説家として稀有な文章力の持ち主なのだろう。文章がうますぎるのだ。そういえば、本書に載っていた著者の略歴を見ると、元名古屋大学助教授となっている。私が著者の作品を読んでいた頃は、まだ現役の名古屋大助教授だった気がする。いつの間に研究職をやめて作家専業になったのだろうか。そう言えばその頃に比べて作品リストも大分層が厚くなったようだ。国立大助教授の職をなげうっても作家として専念できるだけの手ごたえを著者は感じたのだろうか。

だが、国立大助教授まで登り詰めるのもおいそれとできることではない。それができたのは、著者が学究生活に魅力を感じていたからに他ならないと思う。雑務に追われず、自らのピュアな探求心に身を委ねられる日々。充実と成果が相和して得られた研究生活。研究職を辞す決心をした著者には、小説家としての今後の希望と同じくらい、研究者としての日々に後ろ髪を引かれたのではないか。

本書を読むと、学究生活への愛着を感じる。主人公や主人公の師である喜嶋先生の描き方は、著者がかつて持っていたはずの志を体現した人物そのものだ。

本書にはここに書くほどの特別なあら筋はない。あるとすれば、主人公の幼時から大学入学、そして修士課程、博士課程への道筋がそうだ。取り立ててドラマチックな出来事は起こらないし、登場人物の間の関係も単純だ。著者の文体のように、スッと読める筋書きになっている。

本書は筋のない分、主人公の心の軌跡が明るみになっている。読み書きの苦手な少年が宇宙を志す。文系科目は避け、理系科目にのみ興味を寄せる。大学もやすやすと理系学部に入学する。大学の享楽的な雰囲気に失望するも、大学院の求道的な姿勢を目にし、そこに自らの居場所を定める。己の信ずるままに学問に邁進する主人公の人生は、雑味がなく読んでいてとても小気味良い。

院での生活と、そこでの喜嶋先生との出会いが本書の肝となる部分だ。筋といった筋もない本書だが、著者は先生や先輩の院生の異動をうまくからめながら、話が停滞しないように読者を引っ張ってゆく。うまいなあ、と思う。著者の筆達者な筋運びには一分の乱れもない。

一分の乱れもないのは、主人公が師と仰ぐ喜嶋先生も同じ。雑務を排し、学究のみに向かいたいがために講師以上の職を望まない喜嶋先生。その学究者として筋の通った姿に主人公は感銘を受ける。

本書には俗世の安易な快楽は登場しない。学生ノリの飲み会すらほぼ登場しない。本書はむさ苦しい男だけの小説と思いきや、女性も数人出てくる。しかし、本書では恋愛さえ、浮世離れした高尚な営みとして描かれる。院生となった主人公に、大学入学当初から主人公に想いを寄せていた清水スピカが告白する。そんな主人公の人生にとってエポックな出来事さえ、著者は繊細に取り扱う。キスしか描写されないまま、研究者となった主人公はスピカと結婚するのだ。果たして婚前交渉かあったのかどうか、本書からは全く伺うことはできない。プラトニックとでも言いたくなるような、清らかな男女関係だ。

喜嶋先生と計算センタのマドンナ沢村さんの関係も高尚かつ純そのもの。しかし本書には主人公や喜嶋先生を笑う無粋な輩は登場しない。学究の高みを目指して研究にうちこむ本書のテーマにとって、二人の間のロマンスをどうこういう余地はない。本書の純粋さは、登場人物だけでなく読者からの下世話な突っ込みすらも跳ね返す。本書からは世のあらゆるもの、人の営みそのものすら、徹底して水や空気のように透明で通り過ぎていくものとして扱おうとする著者の意思が感じられる。本書は、水のようにしみこむ文体と、水のように薄い俗世の味わいと、水のように純粋な学問への思いから成っている。森の奥に静かにたたえられた湖のように。

主人公が助手から他大学の助教授へと招聘されるにつれ、つまり研究以外のものが生活に混じるに従い、喜嶋先生の口調に丁寧さが混じってゆき、自然と疎遠になってゆく。人は成長するにつれ、世の中と折り合ってゆくために、世俗のものと妥協し、それらを身につけてゆく。それゆえ、世俗に染まった者にとっては、喜嶋先生の孤高を貫こうとする姿が淡々としているように見えるほど、逆に痛々しさを感じる。そしてある種の悔しさすらも感じる。さらには哀しみの感情も抱く。俗なものに流されるとは、長いものに巻かれることは、これほどにも楽なことなのか。そして、自己を貫いて生きるとは、これほどまでに苦しいものなのか。そんなことまで思わせる哀切さにみちた結末だ。

本書の帯には、こう書かれている。
学問の深遠さ、研究の純粋さ、大学の意義を語る自伝的小説

私はこう付け加えたい。
学問の深遠さ、研究の純粋さ、孤高の困難さ、大学の意義を語る自伝的小説、と。

‘2016/07/15-2016/07/16


竹鶴政孝とウイスキー


ジャパニーズウイスキーが国際的に評価されている。

最近はジャパニーズウイスキーの銘柄が国際的なウイスキーの賞を受賞することも珍しくなくなってきた。素晴らしい事である。ウイスキー造りには勤勉さと丁寧さ、加えて繊細さが求められる。風土、環境以外にも人の要因も重要なのだ。日本にはそれら資質が備わっている。近年になってジャパニーズウイスキーが賞賛されている理由の一つに違いない。

今のジャパニーズウイスキーの栄光は、全てが本書の主人公である竹鶴政孝氏の渡英から始まった。まだ日本に洋酒文化が根付かず、ウイスキーの何たるかを日本人の誰も知らぬ時代。そんな時代に竹鶴氏は単身スコットランドで学ぶ機会を得た。そして、そこで得た知見を存分に発揮し、日本にウイスキー文化の種を蒔いた。山崎、余市、宮城峡。どれもがジャパニーズウイスキーを語る上で欠かせない蒸留所だ。竹鶴氏はこれら蒸留所の設計に欠かせない人物であった。

それらの蒸留所を設計するにあたり、竹鶴氏が参考としたのは自らがスコットランドで実習した成果をノートにまとめたものだ。通称竹鶴ノート。

この竹鶴ノート、実は私は見かけたことがある。見かけただけでなく、手にとってページを繰ったことさえある。本書でも触れられているが、以前六本木ヒルズで竹鶴ミュージアムというイベントがあった。そこでは竹鶴ノートの現物が展示ケースに収められていた。私ももちろんじっくりと拝見した。さらに後日、麹町のbar little linkさんでは、関係者に限り複製頒布されたノートを見、それだけだけでなくページまで繰らせて頂いた。

竹鶴ノートの細かな描写からは、求道者の熱意が百年の時を超えて感じられる。日本に本場のスコッチウイスキーを。考えてみれば凄いことだ。あれだけの原材料をつかい、あれだけの時間をかけて熟成される製品を、ノートと記憶だけを頼りに地球の裏側にある日本で再現するわけだから。ITの恩恵に頼り切った現代人にはとてもできない芸当だ。

そんな求道者の風格を備えた東洋人に、リタ夫人が惹かれたのも分かる気がする。当時、どこにあるかも良く知らない東洋の国日本。スコットランドの女性が国際結婚で向かうには人生を賭けねばならない。そんな決断を下し、日本に来た竹鶴夫妻の日々は、想像以上にドラマチックだったことと思う。それが今「マッサン」としてNHKで朝の連続ドラマとなる。素晴らしいことだ。店頭から竹鶴や余市、宮城峡といった年数表示のモルトウイスキーが姿を消すぐらいに。「マッサン」は日本人にもわが国にこれほどのドラマと、これほどの魂のこめられた製品があったことを知らしめたと思う。

本書が「マッサン」を機に企画された事は否めない。だからといって、本書は単なるブーム便乗本と判断するのは早計だ。そうでない事は本書を読めば一目瞭然。なぜならば、「マッサン」のウイスキー考証は、我が国ウイスキー評論の第一人者である著者が担当したからだ。そして本書は考証の成果の一環として書かれた事は明らかだ。本書はいわば「マッサン」の副産物として世に出たといえるだろう。だが副産物とはいいながら本書は「マッサン」の絞りかすどころか、さらに深い内容を含んでいる。

本書の構成は三部からなっている。第一部は、マッサンとリタの歩みを概括している。それも単なる「マッサン」の粗筋ではない。日本の洋酒業界事情もそうだが、竹鶴氏の生い立ちから筆を起こしている。竹鶴氏が広島の竹原で今も日本酒醸造を営んでいる竹鶴家の一族である事はよく知られている。本書はその辺りの事情からなぜ摂津酒造に入社したのかと言う事情にも触れている。さらには摂津酒造の社長阿部氏が政孝青年をスコットランドにウイスキー留学させようとした経緯までも。もちろんスコットランドでの竹鶴夫妻の馴れ初めや修行の様子、日本に帰ってからの壽屋入社と大日本果汁の設立といった足取りもきちんと押さえている。

続いての第二部は本書の肝だ。竹鶴ノートが著者の注釈付きで全文掲載されているから。日本にウイスキーをもたらした原典。それはすなわち当時の本場ウイスキー製造の様子を伝える一級資料でもある。そして竹鶴ノートはウイスキー製造の時代的な変遷を追う上で優れているだけではない。今はなき蒸留所の製造事情を伝えていることも貴重なのだ。竹鶴氏が実習したヘーゼルバーン蒸溜所は今はもうない。ヘーゼルバーンがあったキャンベルタウン地区も、当時はスコッチ先進地域だったにもかかわらず衰退してしまった。今でこそスコットランド各地で蒸溜所が次々と復活・新設され、シングルモルトブームに湧いているが、それでもなお、キャンベルタウンには復活した一つを加えても三つしか蒸溜所がない。竹鶴氏が留学した当時はキャンベルタウンにある蒸留所の数は二十をくだらなかったというのに。その意味でも竹鶴ノートは貴重な資料なのだ。

竹鶴ノートの内容もまた凄い。書かれているのは精麦から発酵、蒸留、そして貯蔵・製樽といったウイスキー製造工程だけにとどまらない。従業員の福利や勤務体制など、当時の日本からみて先進的な西洋の制度まで書かれている。一技術者に過ぎなかった竹鶴氏がウイスキー作りの全てを吸収しようとした意欲と情熱のほどが伺える。著者が今の視点から注釈を入れているが、竹鶴ノートの記述に明らかな誤りがあまりないことも重要だ。それは竹鶴氏が本場のウイスキー作りを真剣に学んだために相違ない。後年、イギリスのヒューム副首相が来日した際に語った「スコットランドで四十年前、一人の頭の良い青年が、一本の万年筆とノートでわが国の宝であるウイスキー造りの秘密を盗んでいった」という言葉は、竹鶴ノートの重要性を的確に表している。それももっともとだと思えるほど、竹鶴ノートは正確かつ実務的に書かれている。学ぶとは、竹鶴氏がスコットランドで過ごした日々を指すのでは、とまで思う。決して頭の中の理論だけで組み立てた成果ではないことを、後世のわれわれは教訓としなければならない。(もっとも山崎蒸溜所建設の際、蒸留釜と火の距離を調べ直すために竹鶴氏はスコットランドを再訪したらしい)

第三部では著者が竹鶴威氏にインタビューした内容で構成されている。竹鶴威氏は政孝氏の甥であり、実子に恵まれなかった竹鶴氏とリタ夫人の養子として迎えられた人物だ。竹鶴氏とリタ夫人をよく知る人物として、本書に欠かせない方である。それだけではなくニッカウヰスキーの後継者として夫妻の期待以上の功績を残した方でもある。マスターブレンダーとしてもニッカウヰスキーに世界的な賞をもたらしている。竹鶴威氏へのインタビューは、竹鶴家の歴史や広島原爆や東京大空襲の遭遇、政孝氏やリタ夫人との思い出、ニッカ製品の変遷など幅広い話題に飛びながらも面白い。

著者はおそらく「マッサン」の考証にあたっては竹鶴ノートは熟読したことだろう。竹鶴氏の洋行やニッカウヰスキーの歩みをとらえ直したことだろう。そして竹鶴威氏とのインタビューによって竹鶴氏の生涯にほれ込んだのではないか。そしてそれは私も同じ。

私が幼稚園まで住んでいた家は、ニッカウヰスキー西宮工場のすぐ近くだった。なので私の脳裏には”ニッカウイスキー”ではなく”ニッカウヰスキー”の文字が染み付いている。後年、22、3歳の頃からウイスキー文化に魅了された私が、神戸の高速長田駅の古本屋で非売品の竹鶴氏の自伝を見つけた時も不思議なご縁を感じた。余市蒸留所には二度ほど訪れている。また、本書が発売されて一年後、私は著者と言葉を交わし、ツーショット写真も一緒に写って頂いた。そんな訳で、本書はとても思い入れのある一冊なのだ。

‘2016/05/01-2016/05/03


天平の甍


今になってなぜ鑑真和上について書かれた本書を手に取ったのか。特に意図はない。なんとなく目の前にあったからだ。あえていうなら、平成27年の年頭の決意で仏教関連の本を読もうと決めていた。そして意気込んで親鸞についての本(レビュー)を読んだのだが、私には歯が立たなかった。それ以来、仏教についての勉強はお留守になっていた。しかし平成27年も師走を迎え、年越しまでにもう一冊くらいは仏教関連の本を読みたいと思ったのが、本書を手に取った理由だろうか。

仏教を学問として取り扱った本よりも本書のような小説の方がリハビリにはちょうどよい。本書は、著者の作品の中でもよく知られている。そして、本書で語られる鑑真和上の事績は日本史の教科書にも取り上げられているほどだ。我が国の仏教伝来を知るための一冊として本書は相応しいといえるだろう。

そんな期待を持ちつつ本書を読み始めたのだが、本書の粗筋は私が学ぼうとした意図とは少し違った。日本への仏教伝来を知ろうにも日本が主な舞台ではない。鑑真和上が倭国に仏陀の教えを伝えんとして幾度もの挫折から失明し、それでも仏教の伝戒師がいない日本のために命を賭けて海を渡ってきた事はよく知られている。その過酷な旅については、奈良の唐招提寺に安座されている鑑真和上座禅像の閉じたまなざしが明らかに語っている。

本書は、鑑真和上来日に関する全てが著者の想像力によって描かれている。ただし、その舞台はほとんどが唐土だ。鑑真和上が奈良時代の大和朝廷に招提されてから入寂するまでの期間、伝戒師として過ごした期間についてはほとんど触れられていない。考えてみれば当たり前のことだ。鑑真和上の受難に付いて回る挿話とは、唐土と海上での出来事がほとんどだからだ。したがって、我が国への仏教伝来事情を学ぼうにも本書の視座は違っているのだ。

だが、それで私の意欲がくじかれたと考えるのは早計かもしれない。当時の我が国は大唐帝国を模範とし模倣に励んでいた。仏教だけではない。平城京の区割りや律令制度にいたるまで大唐帝国を模範した成果なのだ。遣唐使の歴史がこれだけわれわれの脳裏に刷り込まれているのも、当時の我が国にとって遣唐使がもたらす唐文化がいかに重要だったかの証といえよう。

なので、鑑真和上を日本に招提するため、日本の僧が唐土へ渡り各地を巡って仏教を学ぶ姿そのものが、我が国の仏教伝来事情と言い換えてよいのかもしれない。

本書に登場する留学僧たちの姿から感じられるのは「学ぶ」姿勢である。「学ぶ」は「真似ぶ」から来た言葉だという。「学び」はわれわれの誰もが経験する。が、そのやり方は千差万別。つまり、考えるほどに「学ぶ」ことの本質をつかみとるのは困難になる。しかし、その「学び」を古人が愚直に実践したことが、今の日本を形作っている。そういっても言いすぎではないはずだ。

本書の主人公は鑑真和上ではない。日本僧普照である。本書は、普照とともに遣唐使船に乗って唐に渡った僧たちの日々が描かれている。さらに、彼らと前後して唐に渡り、唐に暮らす日本人も登場する。

普照と共に唐に渡ったのは、栄叡、戒融、玄朗。それぞれ若く未来を嘱望された僧である。また、30年前に留学僧として唐に渡り、かの地に留まっていた景雲、業行も本書の中で重要な人物だ。この六人は、それぞれが人生を賭け、学びを唐に求めた僧たちだ。

普照は、本書では秀才として描かれる。他人にあまり関心を持たない冷悧な人間。いわば個人主義の権化が普照である。本来であれば、学びの本質とは個人的な営みである。しかし当の普照は、自らを単に机の前にいるのが長いだけの男と自嘲している。そして、普照は努力の目的を見失ってしまい個人の学びに見切りをつける。替わりに、鑑真を招く事で我が国に仏教を学ばせようとする。個人ではなく国家の視点への転換である。普照の意識が個人から国家や組織へと置き換わってゆく様は、本書の隠れたテーマといえる。普照の意識の変化は、学ぶ事についての意識の深まりである。それは、我が国が歴史の中で重んじた、中華の歴代帝国を手本とする学びにも通ずる。国家単位での学びを個人で体現したのが普照といえる。

では、そもそも普照を鑑真招提の目的へ誘った栄叡は何を学ばんとしたのか。彼は唐へ向かう船上で、すでに国家の立場で学ぶ意識を持っていた。普照が気づくより前に、個人のわずかな学びを積み重ねることが国の学びとなることを理解していたのが栄叡である。なので栄叡こそが鑑真和上の招提を思い付いた本人だ。そして栄叡は招提のために奔走し、普照の人生をも変える。しかし栄叡は二回目の渡航失敗により、病を得、志半ばで異国の土となる。しかし、その志は鑑真や普照を通じて日本仏教に影響を与えた。大義のために私をなげうつ態度は、当時の日本の志士といっても過言ではない。栄叡のような人物たちが、今の日本の形成に大きく寄与しているはずだ。

戒融の学びは、実践の学びである。「机にかじりついていることばかりが勉強と思うのか」と仲間たちに言い放ち、早くから放浪の意思を表す。そして実際に皆と袂を分かち、僧坊や経典に背を向け流浪の旅に出る。学校や教団のような組織に身を置く事をよしとしない戒融は、私自身に一番近い人物といえるかもしれない。自身の苦しみは自身で処理し、他にあまり出さない姿勢。そういう所も、ほとんど独学だけでやって来た私がシンパシーを感じる箇所だ。独りの学びもまた学びである。しかし、それは人に理解されにくい道だ。本書の戒融は、人から理解されない孤高の人物として描かれる。本書は普照の視点で書かれているため、戒融は物語半ばで姿を消す。そして物語の終わり近くになって再登場する。実在の文献によると戒融という僧がひっそりと遣唐使船で帰国した事が記されているそうだ。ただ、戒融が放浪僧だったとの史実はなく、あくまで著者の創作だろう。しかし、創作された戒融の姿からは独学の限界と寂しさがにじみ出ている。私も独学の誘惑にいまだに駆られている。が、私の能力では無理だ。共同作業によらねばならない現実を悟りつつある。何ともはかないことに、独り身の学びを全うするには人の一生はあまりにも短いのだ。それでもなお、独り学びには不老と同じく抗い難い魅力を感じる。

玄朗の学びは、同化の学びといえる。玄朗もある時点までは普照たちと同様に学問を目標としていた。しかし、玄朗は唐に向かう船上ですでに日本への里心を吐露する。そこには、同化と依存の心が見える。当初から向学心の薄かった玄朗の仏教を学ぶ意思は唐に渡って早々に薄らぎ始める。玄朗の意欲はますます減っていき、普照が鑑真和上の招提に奔走する間に唐への同化の度を強め、ついには唐で家族を持ち僧衣を脱ぐに至る。普照や鑑真が乗る日本への船に招かれながら、土壇場で心を翻して唐人として生きる道を選ぶ。玄朗の心の弱さをあげつらうのは簡単だ。だが、それはまた唐の文化に自らを馴染ませる学びの成果といえないか。玄朗は玄朗なりに自らの性格や依存心を早くから自覚し、仏門に向いていない自らの適性を学んだともいえる。それはそれで同化の学びとして何ら恥じるところはない。古来、数限りない適応や同化が繰り返され、人類は栄えてきたのだから。

景雲の学びは、諦めの学びだ。30年間唐にあって何物をも得られず、ただ無為の自分を自覚する。30年とは当時の人にとって一生に等しい時間だ。だが、私を含めた現代の人間の中に景雲を笑える人はそういないだろう。全員が景雲のような無為な人生を送る可能性もあるはずだ。だからこそ、景雲の生き方を反面教師として学ばねばならない。大人になるために学ばねばらないこと。それは自らの適性を探る行為だと思う。決して大学に行くためでも大企業にはいるためでもなく。自分が何に向いているかを試行錯誤する過程が学ぶことともいえる。義務教育とは、適性を学ぶための最低限の知識や社会適応を学ぶ場だと私は思っている。景雲にしてもあるいは他の文化、他の時代に生きていたら自らを表現できる場があったに違いない。諦めの学びは、良い意味でわれわれにとって有効な学びとなるだろう。

最後に業行。この人物の存在が本書に深い陰影を与えていることは間違いない。本書が単に鑑真の偉業をなぞるだけの本に終わっていないのも、業行の存在が大きいと思う。業行が唐に渡ったのは普照たちに遡ること30年前。その間、ひたすらに写経に打ち込んできたのが業行だ。付き合いも避け、栄位も求めず、ただ己の信ずる仕事に打ち込んできた人物。膨大な経典を写し取り、それを日本に持ち帰ることだけを生きがいとする日々。その学びは、寡黙の学びといえる。その成果は、業行と共に海の藻屑と消える。30年間の成果が自らの命と共に沈もうとするとき、業行は何を思っただろう。しかし、業行の寡黙の学びとは、何も業行だけのことではない。業行以外にも同じ志をもって命がけで唐に学んだ無名の人々の中には業行と同じ無念を味わった人もいたのではないか。無名とはすなわち寡黙。寡黙ではあるが、彼らが唐から持ち帰ってきたものが日本を作り上げていったことは間違いない。史書はともすれば饒舌に活躍した人々を取り上げる。当たり前のことだ。史書に残らない人々は、容赦なく時代の塵に埋もれてゆく。しかし寡黙な人々が着実に学びとらなければ、我が国の近代化はさらに遅れていたかもしれないのだ。寡黙な学びを実践した業行はじめ、無名の人々には感謝しなければなるまい。

後世の日本人はこういった人々の困難と徒労の積み重ねの成果を享受しているだけに過ぎないことを、われわれは知っている。本書に出てくる以外の人々によって命を懸けた学びが繰り返されてきたことだろう。それは、簡単に情報を得られ、ディスプレイ越しに旅行すらできてしまう現代人には想像すらできない速度の積み重ねだったのではないか。では、われわれは何を学べばよいのか。本書が問いかけるものとは、本書が刊行された昭和当時よりも今のIT化著しい時代に生きる者にとって重い。

‘2015/11/27-2015/12/02