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アンジェラの灰


文書はピューリッツァー賞受賞作だそうだ。
伝記部門で受賞した。

1930年に生まれた著者が68歳の時に発表した自伝だそうだ。
著者は長い間教師を勤めた方で、物語を書くのは初めてだそうだ。だが、教師人生の中で英文の授業を担当してきた。あらゆる国から来た生徒たちに英語を教える手法の一つに、親の伝記を書いてみる指導を行っていたらしい。
その中で著者も、自分自身の自伝を何回も書いていたそうだ。それが本書の底になっているということを解説で知った。

冒頭にこのような一文がある。
「惨めな子供時代だった。だが、幸せな子供時代なんて語る価値もない。アイルランド人の惨めな子供時代は、普通の人の惨めな子供時代より悪い。アイルランド人カトリック教徒の惨めな子供時代は、それよりももっと悪い。」(7ページ)

アイルランドと言えば19世紀半ばのジャガイモ飢饉による人口減で知られる。人がたくさん亡くなり、アメリカなど諸外国への移民が大量に発生したためでもある。
本書のマコート一家も一度はニューヨークへ移住する。だが、すぐにアイルランドに戻ってきてしまう。

なぜか。父のマラキが無類の酒飲みだったから。

飲んだくれの父親に振り回される家族の悲劇。昔からのよくある悲劇の一形態だ。本書は父の酒飲みの悪癖が、主人公や主人公の母アンジェラを苦しめる。その悲惨な毎日の中でどのように子供たちはたくましく生き延びようとするのか。

給与を必ず持って帰ると言いながらもらったその場ですぐに飲み代に使ってしまうだらしない父。それでいて、避妊など知らないので次々と母の体内に子供を増やしていく。主人公のフランク、弟のマラキ、双子のマイクルとアルフォンサス。さらにマーガレットと名付けられた妹やオリバー、ユージーンという弟もいたが、三人は幼い頃になくなってしまう。もちろん、劣悪な環境のためだ。

幼い子供たちを育てながら、三人の子供を亡くしながら、頼りにならない夫をあてにせず生き抜こうとする母。

およそ自覚が欠けており、夫として親として頼りがいのない父。でも、子供たちにとっては父は最大の遊び相手。遊んでほしいと父を求める姿がとてもいじらしい。

子供たちも母を助けるために、クリスマスの日に金を稼ぐ。石炭が運搬される道に沿ってこぼれた石炭を拾い集める仕事。真っ黒になってびしょ濡れになって帰ってくる。息子たちが金を稼いできても、父は動かない。たとえお金がなくなっても恵みを受けるような仕事はプライドが許さないからだ。
プライドが高く、それでいて生活力がない。まさに絵に描いたようなダメ親父だ。

本書は、カトリックの文化の中で育つ主人公の物語だ。そのため、カトリックの文化に則った出来事が多く描かれる。例えば初聖体受領、さらに信心会への出席。堅信礼。

ところが、カトリック文化は酒を許容する。まるで人を救ってくれるのは神だけでは足りないとでも言うように。酒も必要だと言うように。
父はそうした背景に甘え、赤ん坊ができても気にせずに酒に溺れて帰ってくる。
主人公が10歳を過ぎる頃にはもう父は、尊敬すべき対象ではなくなっている。

私も酒が好きだ。そのため、本書の描写はとても身につまされた。
アイルランドは、今でもアイルランド・ウイスキーの産地として知られる。もちろんギネス・ビールの産地としても。

酒は百薬の長と言うが、退廃を呼び覚ます悪い水でもある。
酒の悪い側面を本書で見せられると、暗澹とした気分になる。
私は幸いにして酒にそこまで溺れずに済んだ。
本書は、酒文化の悪い面を示すには格好の教材なのかもしれない。

ちょうど本書の描かれている時代は、アメリカの禁酒法の時代だ。なぜ禁酒法が生まれたのかを知るためには、悲惨な目にあうマコート一家の様子を見れば良い。
もちろんその原因の大部分は父の意思の弱さがあるのだろう。だが、そもそも酒があるからいけないのだ、とする考えが禁酒法の根底にはある。

その一方で主人公は徐々に成長する。チフスによる入院も乗り越え、角膜炎による失明の危機を乗り越え。性に対して興味を持ち、徐々に母のために家計を手伝うようになる。

電報配達の仕事を通じ、自分の家以外のさまざまな家庭の内実を知る。そこで童貞を捨て、別の仕事(借金の督促状の執筆)を受ける。主人公にはすでにアメリカに渡る明確な目標があるので、それに向け、何で身を立てていくのかが見えてくる。それは文章を作成する能力だ。

本書は相当に分厚い本だ。だが、読み始めるとあっという間に読み終えてしまう。まさにそれこそが、主人公が培った文章作成能力の結果だろう。

絶望の中でも仕事は与えられるし、そこからチャンスは転がっている。本書は、主人公がアメリカに向かうところで終わる。
19歳の主人公が酒に興味を持つ兆しはない。おそらく父を反面教師としているからだろう。

本書には続編があるらしいが、そうではアメリカで主人公が経験したさまざまな苦難が描かれると言う。また読んでみたいと思う。

‘2020/03/01-2020/03/05


被災地の本当の話をしよう 陸前高田市長が綴るあの日とこれから


最初に断っておくと、私には東日本大震災について語れる何物もない。知識も資格も。あれから4年の歳月が経とうとしているが、発生後、東北には一度も行けていない。いや、一度だけ行ったことがある。それは一昨年の夏、地震発生から二年半後のこと。家族でいわき市のスパリゾートハワイアンズに行ったのだが、気楽な観光客としての訪問であり被災地の皆様に貢献した訳ではない。

阪神・淡路大震災の被災者として何も出来なかった。そんな自分に未だに収まりの悪い想いを抱いている。仕事の忙しさや恩人である先輩の逝去による精神状態の悪化などはもちろん言い訳にならない。

私が貢献したことがあったとしても微々たるものである。幾ばくかのチャリティー品を買うのが精々。本書も実は、チャリティー品として売られていたものである。

著者は、東日本大震災発生当時の陸前高田市長である。そして、今もその任務を遂行されておられる。加えて、私の娘が通う中学の大先輩にも当たる。そのご縁から、毎年行われる学校見学会に陸前高田市の応援ブースが設けられている。ブースには被害状況や、復興状況のパネルが展示されており、私も見学させて頂いた。また、ブースでは陸前高田市の物産も販売されている。前年に訪問した際は食品しかなく、昆布やサイダーを購入したのだが、今回の学校見学会で訪れてみると、物産の横に本書が並んでいた。迷うことなく購入した。

私の本購入の流儀は積ん読である。購入してしばらく経ってから読み始めることが多い。しかし、本書は別である。積ん読扱いを私の中の何かが許さなかった。

本書は、地震に遭遇した著者の綴った記録である。被災自治体の長として、夫として、父として、家長としての行動が率直に綴られている。己に与えられたこれらの役割のどれも疎かにせず全霊で災害に当り、奮闘にも関わらず想像を絶する津波の猛威になすすべもなく呑み込まれて行く様が記されている。奥様が津波に呑まれ行方不明になる中、自治体の長としての職務を放棄せず、母を亡くした我が子に対する父としての接し方に自己矛盾と葛藤を抱える。本書の記述は、現場の惨状を見、それに率先して立ち向かわなければならない著者にしか書けない血の通った内容である。

涙が出た。著者の直面した重い日々に。それを堪え平静に綴られる文章に。そして何も出来なかった自分に。

本書を前にすると、数多のブログ、数ある新聞や雑誌、何度も行われた永田町での記者会見が霞んで消える。ジャーナリズムすら無力に思える。

家族とは、仕事とは、責任とは。頭で理解した振りをすれば、そう振る舞えるのが大人。東京電力や当時の首相の対応に苦言を発信するのも簡単なIT社会。しかし、そのどれもが本書の前ではカゲロウのように薄い。ほとんどの意見は紙のように軽い。本書のレビューを書いている私も同様で、著者の痛みや苦しみを理解したとはとても言えない。

しかし、この本が私に与えた影響は小さくはない。それは、地域のコミュニティについての気付きを与えてくれたから。法人化という目標を立てた私にとって、本書が与えてくれた何かは確かに伝わった。そしてそれは、私の中で着実に育ち始めている。

本書を読み終えて、数ヶ月経った今、私が被災地に行ける目処は立っていない。しかし、社会起業としての生き方に向け、舵を切りつつある自分がいる。いつか、何かのご縁で、被災地の力になれれば本望である。

著者は業務多忙の中、娘の中学に大先輩として、話しに来て頂いたと聞く。先ほど娘に聞いたところ、「よく、『被災地に何が必要ですか』と支援者から聞かれる。でもそれは実際に被災地に来て、その目で被災地の状況を見た上で、御自身で考えて頂きたい」という部分が印象に残ったようである。どういう話をされたのか、我が娘に何が託されたのか、それは知らない。しかし、著者の言葉は私の娘へ確かに伝わったようである。私が本書から受け取った想いのように。

2014/9/6-2014-9/6