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本格小説 下


上巻からの続きで、下巻は本編から始まる。長い長い前書きではない。

冨美子からハイ・ティーに誘われた祐介は今にも崩れそうな古い別荘に招かれる。重光と三枝、宇多川という表札のかかった古びた洋館。かつて軽井沢が別荘地として旧家を集めていた時期の名残だ。
その洋館で祐介は、冨美子からタローにまつわる長い話を聞かされる。

冨美子の語りに引き込まれていく祐介。
重光家と三枝家、宇多川家は、小田急の千歳船橋駅付近で戦前から裕福な暮らしを送っていた。成城学園に子女を通わせるなど、優雅な毎日。冨美子もそこに家政婦のような立場で雇われた。

では、タローこと東太郎はどのような立場だったのか。

宇多川家がかつて雇っていた車夫は、敷地の一角に居宅を与えられていた。その車夫から、甥の一家が大陸から引き上げてくるから一緒に住まわせてほしと懇願され、同居する事になったのが東家。

大陸からの引き上げ者の息子として、居候のような立場だった太郎。その経済の差は歴然としており、同じ敷地内でも生活や文化などあらゆる違いがあった。
三枝家の娘として何不自由なく育っていたよう子にとっては家格など関係ない。同じ年頃の友達として、太郎とよう子は一緒に遊ぶようになっていた。

幼い頃より、よう子と遊んで過ごす日々の中で、少しずつ太郎はよう子に思慕を抱くようになる。
だが、東家にとって三枝家ははるか上の家格。周りから見ても、当人たちにとっても不釣り合いなことは明らか。

昭和の高度成長の真っただ中とはいえ、摂津藩の家老だった重光家や大正期に商売で成り上がった三枝家は、まだ古い価値観に引きずられている。
有形無形の壁を前にした太郎はよう子との結婚を諦める。そして、単身アメリカへ飛ぶ。

やがて富を重ね、大金持ちになって日本に戻ってきた太郎。そこにはもはや自分の居場所はない。よう子は重光家の御曹司雅之と結婚し、三枝家と重光家は隣の家同士の関係から、親戚になる。

太郎は日本で過ごすことを諦める。が、つかず離れずこの両家の周辺に姿を見せる。冨美子がさまざまな人生の経験をへてもなお、この両家とつながっているように。

やがて、この両家も時代の荒波をかぶり、その栄華の日々に少しずつ影が生じる。
少しずつ衰退に向かっていく三枝家と重光家の周囲に太郎の気配がちらつく。つかず離れずよう子を見守るかのように。

家の格によって恋を引き離された二人の運命。それが描かれるのが本書だ。日本は経済で成長し、古い価値観は置き去られていく。この両家のように。
わが国の歴史が何度も繰り返してきた盛者必衰のことわり。それに振り回される男女の関係のはかなさ。

上巻ては特異な構成に面食らった読者は、下巻では冨美子の語る本編に引き込まれているはずだ。「嵐が丘」を昭和の日本に置き換えた本書の結末がどうなるかと固唾を飲みながら。

ここまで読むと、本書が著者の創作なのか、それとも序や長い長い前書きで著者が何度も強調するようにほんとうの話なのかはどうでも良くなる。
本書の本編は、祐介が冨美子か聞いた太郎とよう子の物語だ。だが、そこで語られた言葉が全ての一語一句を再現したはずはない。そこかしこに著者の筆は入っている。
だから本当のことをベースにした物語と言う考え方が正しいだろう。

本書の終わりはとても物悲しい。
私が『嵐が丘』を読んだのは20代の前半の頃なので、あまり筋書きも余韻も覚えていない。
が、本書の終わり方はおそらく『嵐が丘』のそれを思わせるものなのだろう。

本書の舞台となる時代は、戦後のわが国だ。
一方の『嵐が丘』は18世紀の終わりから19世紀初頭のイングランドが舞台だ。
その二つの時代と国だけでも大きな隔たりがあるが、戦後日本の移り変わりは、まだ旧家の価値観を留めており、物語としての本書の設定を成り立たせている。

たが今はどうだろう。世の中の動きはグローバルとなり、仕組みもさらに複雑になっている。つまり、本書や『嵐が丘』のテーマとなった価値や信条の大きな断絶が成り立たなくなりつつある。
いや、断絶がなくなったわけではない。むしろ、世の中が複雑になった分、断絶の数は増えているはずだ。
だが、読者の大多数が等しく感じるほどの巨大な断絶はだんだんとなくなっていくように思う。

もちろん、人間と人間の間にある断絶は細かく残り続けるだろう。だが、それを大きなテーマとしてあらゆる読者の心に訴求することにはもはや無理が生じている気がする。
本格小説に限らず、これからの小説に大きなテーマを設定することは難しくなるのではないか。
あるとすれば人間と人間ではなく、人間と別のものではないか。例えば人工知能とか異星人とか。

だが、そのテーマを設定した小説は、SF小説の範疇に含まれてしまう。
人と人の織りなすさまざまなドラマを本格小説と定義するなら、これからの世の中にあって、本格小説とは何を目指すべきなのだろう。

本書のテーマや展開に感銘を受ければ受けるほど、本格小説、ひいては小説の行く末を考えてしまう。

著者の立てたテーマは、本書を飛び越えてこれから人類が直面する課題を教えてくれる。

2020/11/5-2020/11/7


本格小説 上


本書のタイトルは簡潔なようでいて奥が深い。
小説とは何か。そうした定義に思いが至ってしまう。むしろ、何も考えない人はどういう心づもりで本書を読むのかを聞いてみたい位だ。
そんな偉そうなことをいう私も、そのようなことを普段は一切考えないが。

小説だけでも多様なジャンルがある。私小説や、童話、SF小説、ミステリー、純文学。
そのジャンルの垣根を飛び越えた普遍的なものが本格なのだろうか。

それともジャンルに関わらず、プロットや構成こそが本格を名乗るのにふさわしい条件なのだろうか。
または、『戦争と平和』や、『レ・ミゼラブル』のような長い歴史をつづった大河小説こそが本格の名に値するのだろうか。

書き手と読み手の二手にテーマを設定するとさらに解釈は広がる。
「本格」とはその語感から連想される枠の窮屈さではないように思う。むしろ逆だ。受け取り手の解釈によってあらゆる意味を許される。つまり「本格」とは曖昧な言葉ではないだろうか。

読者は本書を手に取る前に、まずタイトルに興味を持つはずだ。
そして、上に書いたような小説とは何か、という疑問をかすかに脳内で浮かべることだろう。それとともに、本書の内容に深い興味を持つはずだ。
いったい、本格小説と自らを名付ける本書はどのような小説なのか。この中にはどのような内容が書かれているのか、と。

本来、小説とは読者にある種の覚悟を求める娯楽なのかもしれない。今のように無数の本が出版され、ありとあらゆる小説がすぐに手に入る現代にあって、その覚悟を求められることがまれであることは事実だが。
時間の流れのまま、好きなだけ視覚と思考に没入できるぜいたくな営み。それが読書だ。読者は時間を費やすだけの見返りを書物に期待し、胸を躍らせながらページをめくる。
例えばエミリー・ブロンテによる『嵐が丘』が世界中の読者の感情をかき乱したように。
本書のタイトルは、そうした名作小説の持つ喜びを読者に期待させる。まさに挑戦的なタイトルだと言えるだろう。

ところが、本書は読者の期待をはぐらかす。
著者による「序」があり、続いて「本格小説の始まる前の長い長い話」が続く。
前者は5ページほど、本書の成り立ちに関わる挿話が描かれている。そして後者は230ページ以上にわたって続く。そこで描かれるのは著者を一人称にした本編のプロローグだ。
読者はこの時点でなに?と思うことだろう。私もそう思った。

本書の主人公は東太郎だ。アメリカに単身で流れ着き、そこから努力によって成り上がった男。

著者は長い長い話の中で東太郎と自らの関係を述べていく。
親の仕事の関係で12歳の頃からアメリカで住む著者。そこにやってきたのがアメリカ人実業家の家に住み込んでお抱え運転手をすることになった東太郎。
そこから著者と東太郎の縁が始まる。
やがてアメリカで成功をつかみ、富を重ねていく東太郎。ところがその成功のさなかに、東太郎はアメリカから忽然とその姿を消してしまう。
成功から一転、その不可解な消え方についてのうわさが著者の耳にも届く。

ところがその後、著者の元に東太郎の消息が伝えられる。
伝えたのは祐介という一読者。東太郎に偶然会った祐介は会話を交わす。そこで祐介は東太郎から著者の名前を聞く。かつてアメリカで知り合いだったことを教わる。
そのご縁を著者に伝えるため、祐介は著者のもとにやってきたのだ。

著者は東太郎とのアメリカでの日々から祐介に出会うまでの一連の流れを「本格小説の始まる前の長い長い話」に記す。
そしてこの長い前書きの最後に、著者が考える「本格小説」とは何かについてを記す。

「「本格小説」といえば何はともあれ作り話を指すものなのに、私の書こうとしている小説は、まさに「ほんとうにあった話」だからである」(228ページ)

「日本語で「私小説」的なものから遠く距たったものを書こうとしていることによって、日本語で「本格小説」を書く困難に直面することになったのであった」(229ページ)

「なぜ、日本語では、そのような意味での「私小説」的なものがより確実に「真実の力」をもちうるのであろうか。逆にいえば、なぜ「私小説」的なものから距だれば距たるほど、小説がもちうる「真実の力」がかくも困難になるのであろうか」(231ページ)

「日本語の小説では、小説家の「私」を賭けた真実はあっても、「書く人間」としての「主体」を賭けた真実があるとはみなされにくかったのではないか。」(232ページ)

続いて始まる本編(235ページから始まる)は、祐介の目線から語られる。
軽井沢で迷ってしまい、道を尋ねた民家。そこで出会ったのがアズマという動物のように精悍な顔をした男。冨美子という老女とともに住むその男のただならぬ様子に興味を持った祐介。
後日、軽井沢の街中で冨美子と出会ったことをきっかけに、祐介は老いた三姉妹に別の別荘に招待される。そこで冨美子や老いた三姉妹と会話するうちに、彼女たちにタローとよばれるアズマの事が徐々に明かされていく。

本編に入ると、ところどころに崩れかけた家や小海線、軽井沢の景色が写真として掲げられる。
それらの写真は、本編が現実にあったことという印象を読者に与え、読者を下巻へといざなう。

2020/11/1-2020/11/5


ベルカ、吠えないのか?


これまたすごい本だ。
『アラビアの夜の種族』で著者は豪華絢爛なアラビアンナイトの世界を圧倒的に蘇らせた。
本書は『アラビアの夜の種族』の次に上梓された一冊だという。

著者が取り上げたのは犬。
犬が人間に飼われるようになって何万年もの時が過ぎた。人にとって最も古くからの友。それが犬だ。

その知能は人間を何度も助けてきた。また、牧羊犬や盲導犬のような形で具体的に役立ってくれている。そして、近代では軍用犬としても活動の場を広げている事は周知の通りだ。
軍用犬としての活躍。それは、例えば人間にはない聴覚や嗅覚の能力を生かして敵軍を探索する斥候の役を担ったり、闇に紛れて敵軍の喉笛を噛み裂いたりとさまざまだ。

二十世紀は戦争の世紀。よく聞く常套句だ。だが著者に言わせると二十世紀は軍用犬の世紀らしい。

本書はその言葉の通り、軍用犬の歴史を描いている。広がった無数の軍用犬に伝わる血統の枝葉を世界に広げながら物語を成り立たせているからすごい。

はじめに登場するのは四頭の軍用犬だ。舞台は第二次大戦末期、アリューシャン諸島のキスカ島。日本軍による鮮やかな撤退戦で知られる島だ。
その撤退の後、残された四頭の軍用犬。四頭を始祖とするそれぞれの子孫が数奇な運命をたどって広がってゆく。

誰もいないキスカ島に進駐した米軍は、そこで放置された四頭の犬を見つけた。日本軍が残していった軍用犬だと推測し、四頭を引き取る。それぞれ、違う任地に連れてゆかれた四頭は、そこでつがいを作って子をなす。
その子がさらに子をなし、さらに各地へと散る。
なにせ、二年で生殖能力を獲得する犬だ。その繁殖の速度は人間とは比べ物にならない。

軍用犬には訓練が欠かせない。そして素質も求められる。日本の北海道犬が備えていた素質にジャーマン・シェパードや狼の血も加わったことで、雑種としてのたくましさをそなえた軍用犬としての素質は研ぎ澄まされてゆく。

軍用犬にとって素質を実践する場に不足はない。何しろ二十世紀は戦争の世紀なのだから。
第二次大戦の痛手を癒やす間もなく国共内戦、そして朝鮮戦争が軍用犬の活躍の場を提供する。そして米ソによる軍拡競争が激しさを増す中、ソ連の打ち上げたスプートニク2号には軍用犬のライカが乗った。さらにはベルカとストレルカは宇宙から生還した初めての動物となった。
ベトナム戦争でも無数の軍用犬が同じ先祖を源として敵味方に分かれ、それぞれの主人の命令を忠実に遂行した。さらにはソビエトが苦戦し、最終的に撤退したアフガニスタンでも軍用犬が暗躍したという。

それだけではない。ある犬はメキシコで麻薬探知の能力に目覚めた。ある犬は北極圏へと無謀な犬ぞりの旅に駆り出された。またある犬は小船に乗ってハワイから南方の島へと冒険の旅に出、人肉を食うほどの遭難に乗り合わせた。またある犬はドッグショウに出され、ハイウェイで跳ねられ道路で平たく踏まれ続ける運命を受ける。
著者の想像力の手にかかれば、犬の生にもこれだけ多様な生きかたをつむぐことができるのだ。

お互いが祖を同じくしているとも知らずに交わり、交錯し、牙を交える犬たち。
犬一頭の犬生をつぶさに追うよりも、犬の種を一つの個体とみなし、それぞれの犬に背負わされた運命の数奇さを追う方がはるかに物語としての層が厚くなる。
ある人間の一族を描いた大河小説は多々あるが、本書ほどバラエティに富んだ挿話は繰り込めないはずだ。
それを繁殖能力の高い犬の一族で置き換えたところに本書の素晴らしさがある。
その広がりと生物の種としてのあり方。これを壮大に描く本書は物語としての面白さに満ちている。

無数の犬はそれぞれの数だけ運命が与えられる。その無数のエピソードが著者の手によって文章にあらわされる。無数の縁の中で同じ祖先を持つ犬がすれ違う。それは壮大な種の物語だ。
その面白さを血脈に見いだし、大河小説として読む向きもいるだろう。
だが、犬にとってはお互いの祖先が等しい事など関係ない。血統などしょせん、当人にとっては関係ない。そんなものに気をかけるのは馬の血統に血道をあげる予想屋か、本書の語り手ぐらいのものだ。

本書は、血統に連なって生きたそれぞれの犬の生を人間の愚かな戦争の歴史と組み合わせるだけの物語ではない。
それだけでは単なるクロニクルで本書が終わってしまう。

本書は犬たちのクロニクルの合間に、犬と少女との心の交流を描く。
ただし、交流といってもほのぼのとした関係ではない。付き合う相手が軍用犬である以上、それを扱う少女も並の少女ではない。
少女はヤクザの親分の娘であり、そのヤクザがロシアにシノギを求めて進出した際、逆に人質としてとらわれてしまう。11歳から12歳になろうかという年齢でありながら、自らの運命の中で生の可能性を探る。

少女が囚われた場所は、ソ連の時代から歴戦の傭兵が犬を訓練する場所だった。
その姿を眺めるうちに、ロシア語の命令だけは真似られるようになった少女。イヌと起居をともにする中で調教師としての素質に目覚めてゆく。

軍用犬の殺伐な世界の中でも、人と犬の間に信頼は成り立つ。
それをヤクザの素養を持つ少女に担わせたところが本書の面白さだ。
単なる主従関係だけでなく、一方向の関係だけでなく、相互に流れる心のふれあい。それを感じてはじめて犬は人間の命令に従う。
そのふれあいのきっかけとなった瞬間こそが、本書のタイトルにもなった言葉だ。

人の歴史を犬の立場から描いた本書は、斬新な大河小説だと言える。

‘2020/07/11-2020/07/12


サラバ! 下


1995年1月17日。阪神・淡路大震災の日だ。被災者である私は、この地震のことを何度かブログには書いた。当時、大阪と兵庫で地震の被害に大きな差があった。私が住む兵庫では激甚だった被害も、少し離れた大阪ではさほどの被害を与えなかった。

大阪に暮らす今橋家にとってもそう。地震はさほどの影響を与えなかった。今橋家に影響を与えたのは、地震よりもむしろ、そのすぐ後に起きた3月20日の地下鉄サリン事件と、それに続いて起きたオウム真理教への捜査だ。なぜならそれによって、サトラコヲモンサマを崇める宗教が周りの白い目と糾弾に晒されたからだ。それにより、実質的な教祖である大家の矢田のおばさんにかなり帰依していた姉の貴子の寄る辺がうしなわれる。この時、宗教の本尊であるサトラコヲモンサマの名の由来も明かされる。

宗教をとりあげたこのエピソードによって著者は、宗教や信心がいかに不確かなものを基にしているか、その価値観の根拠がどれだけ曖昧であるかを示す。本書は下巻に至り、終盤になればなるほど、著者が本書に込めた真のテーマが明らかになってくる。それは、信ずる対象とは結局、自分自身だということ。他人の価値観や、社会の価値観はしょせん相対的なもの。だからこそ、自分自身の中に揺らぐことのない価値観を育てなければならない。

宗教という心のよりどころを失い、再び、貴子は部屋にこもりきりになる。そして、自分の部屋の天井や壁にウズマキの貝殻の模様を彫り刻み始める。エジプトを去るに当たり、父と離婚した母は、恋人を作っては別れを繰り返す。デートのたびにおしゃれで凛とした格好で飾り立て、独り身になると自堕落な生活と服装に戻る。父は、会社をやめ、出家を宣言する。いまや、家族はバラバラ。「圷家の、あるいは今橋家の、完全なる崩壊」と名付けられたこの章はタイトルが内容そのままだ。

そんな家族の中の傍観者を貫いていた歩。高校時代の最後の年が地震とオウムで締めくくられ、社会のゆらぎをモロに受ける。高校時代、歩が親友としてつるんでいた須玖は、地震がもたらした被害によって、人間の脆さと自らの無力さに押しつぶされ、引きこもってしまう。そして歩との交遊も絶ってしまう。

須玖の姿は私自身を思い出させる。私と須玖では立場が少し違うが、須玖が無力感にやられてしまった気持ちは理解できる。私の場合は被災者だったので鬱ではなく、躁状態に走った。私が須玖と同じように鬱に陥ったのは地震の一年半後だ。私は今まで、阪神・淡路大地震を直接、そして間接に描いてきた作品をいくつも読んで来た。が、須玖のような生き方そのものにかかわる精神的なダメージを受けた人物には初めて出会った。彼は私にとって、同じようなダメージを受けた同志としてとても共感できる。当時のわたしが陥った穴を違う形で須玖として投影してくれたことによって、私は本書に強い共感を覚えるようになった。私自身の若き日を描いた同時代の作品として。そしてそれを描いた著者自身にも。私より四つ年下の著者が経験した1995年。著者が地震とオウムの年である1995年をどのように受け止めたのかは知らない。だが、それを本書のように著したと考えると興味は尽きない。

もう一つ、本書に共感できたこと。それは一気に自由をあたえられ、羽目を外して行く歩の姿だ。東京の大学に入ったことで、目の前に開けた自由の広がり。そのあまりの自由さに統制が取れなくなり、日々が膨張し、その分、現実感が希薄になって行く歩の様子。それは、私自身にも思い当たる節がある。歩の東京での日々を私の関大前の日々に変えるだけで、歩の日々は私の大学時代のそれに置き換わる。そういえば歩がバイトしていたレンタルレコード屋は、チェーン展開している設定だ。まちがいなく関大前にあったK2レコードがモデルとなっているはずだ。著者も利用したのだろう。K2レコードは今も健在なのだろうか。

大学で歩はサブカルチャー系のサークルに入り、自由な日々と刺激的な情報に囲まれる。女の子は取っ替え引っ替え、ホテルに連れ込み放題。全てが無頼。全てが無双。容姿に自信のあった歩は、東京での一人暮らしをこれ以上望めないほど満喫する。鴻上というサークルの後輩の女の子は、サセ子と言われるほど性に奔放。歩はそんな彼女との間に男女を超えたプラトニックな関係を築く。大学生活の開放感と全能感がこれでもかと書かれるのがこの章だ。

続いての章は「残酷な未来」という題だ。この題が指しているのは歩自身。レンタルレコード店の店内のポップやフリーペーパーの原稿を書き始めた歩。そこから短文を書く楽しさに目覚める。そして大学を出てからもそのままライターとして活動を続ける。次第に周りに認められ、商業雑誌にも寄稿し、執筆の依頼を受けるまで、ライターとしての地位を築いてゆく。海外にも取材に出かけ、著名なミュージシャンとも知り合いになる。

貴子は貴子で、東京で謎のアーチストとして、路上に置いた渦巻きのオブジェにこもる、というパフォーマンスで有名になっていた。ところが歩の彼女がひょんな事でウズマキが歩の姉である事を知る。さらに歩に姉とインタビューをさせてほしいと迫る。渋る歩を出しぬき、強引にインタビューを敢行する彼女。それがもとで歩は彼女を失い、姉はマスメディアでたたかれる。

さらに歩には落とし穴が待ち受ける。それは髪。急激に頭髪が抜け始め、モテまくっていた今までの自分のイメージが急激に崩れた事で、歩は人と会うのを避けるように。すると自然に原稿依頼も減る。ついにはかつての姉のように引きこもってしまう。今まで中学、高校、大学、若手、と人生を謳歌していた自分はどこへ行ったのか。ここで描かれる歩の挫折もまた、大学卒業後にちゅうぶらりんとなった私自身の苦しい日々を思い出させる。

そんな歩はある日、須玖に再会する。高校時代の親友は長い引き込もりの期間をへて、売れないピン芸人になっていた。傷を舐め合うようにかつての交流を取り戻した二人。そこに鴻上も加わり、二人との交流だけが世の中への唯一の縁となり下がった歩。そんな歩に須玖と鴻上が付き合い始める一撃が。さらに歩は付き合っていた相手からも別れを告げられる。とうとう全てを失った歩。

本書はそれ以降もまだまだ続く。本書は、私のように同時代を生き、同じような挫折を経験したものにとっては興味深い。だが、読む人によっては単なる栄光と転落の物語に映るかもしれない。だが、そこから本書は次なる展開にうつる。

今までに本書が描いて来た個人と社会の価値観の相克。それに正面から挑み続け、跳ね返され続けてきたのが貴子であり、うまくよけようと立ち回ってきた結果、孤独に陥ってしまったのが歩。本書とは言ってしまえば、二人の世の中との価値観の折り合いの付け方の物語だ。

「「あなたが信じるものを、誰かに決めさせてはいけないわ。」」という、貴子からの言葉が歩に行動を起こさせる。ようやく自分を理解してくれる伴侶を得た貴子がようやく手に入れた境地。自分の中にある幹を自覚し、それに誠実であること。そのことを歩に伝える貴子の変わりようは、歩に次なる行動を起こさせる。

歩は現状を打破するため、エジプトへと向かう。かつて自分が育ち、圷家がまだ平和だったころを知るエジプト。エジプトで両親に何がおこったのか、自分はエジプトで何を学んだのか。それらを知るため旅に出る。圷家と今橋家の過去の出来事の謎が明かされ、物語はまとまってゆく。読者はその時、著者が本書を通して何を訴えようとしてきたのかを理解できるだろう。

親友のヤコブはコプト教徒だった。イスラム教のイメージが強いエジプトで、コプト教を信じ続けることの困難さ。コプト教とはキリスト教の一派で、コプトとはエジプトを意味する語。マイノリティであり続ける覚悟と、それを引き受けて信仰し続ける人間の強さ。

本書には著者に影響を与えた複数の作品が登場する。ニーナ・シモンのFeeling Goodや、ジョン・アーヴィングの「ホテル・ニューハンプシャー」だ。
前者は、
It’s a new dawn
It’s a new day
It’s a new life
For me
And I’m feeling good の歌詞とともに。全ては受け入れ、全てをよしとすることから始まる。物事はあるがままに無数の可能性とともにある。それをどう感じ、どう生かすかは自分。全ては自分の価値観によって多様な姿を見せる。

育んだ価値観に自信が持てれば、あとはそれを受け入れてくれる誰かを探すのみ。歩は誰かを探す旅に踏みだす。その時、SNSには頼らない。SNSは人との関係を便利にするツールではあるが、自分の中の価値観を強くするためのツールではない。自分の価値観で歩み、SNSに頼らず生身の関係を重んじる。主人公の名のように。

歩も著者も1977年生まれ。私の四つ年下だ。ほぼ同じ年といってよいはず。私も今、自分の人生の幹を確かなものにし、「「自分が信じるものを、誰かに決めさせないため」」に歩み続けている。自らの価値観に忠実であることを肝に銘じつつ。

上巻のレビューで本書が傑作であると書いたのは、本書が読者を励まし、勇気付けてくれるからだ。今どき、教養小説という存在は死に絶えた。だが本書は、奇妙なエピソードを楽しめるエンタメ小説の顔を見せながら、青少年が読んで糧となりうる描写も多い。まさに現代の教養小説といってもよい読むべき一冊だ。

‘2018/08/14-2018/08/16


サラバ! 上


私は本書のことを、電車の扉に貼られたステッカーで知った。そのステッカーに書かれていた、本書が傑作であるとうたうコピー。それが本書を手に取った理由だ。その他の本書についての予備知識は乏しく、それほど過度な期待を持たずに読み始めた。迂闊なことに、帯に書かれていた本書が直木賞受賞作であることも気づかずに。

だが、それが良かったのかもしれない。本書は私にとって予期しない読書の喜びを与えてくれた。上質の物語を読み終えた時の満足感と余韻に浸る。本読みにとっての幸せの一瞬だ。本書はすばらしい余韻を私にもたらしてくれた。

本書の内容は、いわゆる大河小説と言ってもよいだろう。ある家族の歴史と運命を時系列で描いた物語。一般的に大河小説とは、長いがゆえに、読者をひきつけるエピソードが求められる。内容が単調だと冗長に感じ、読者は退屈を催す。だから最近の小説で大河小説を見かける事はあまりない。ところが、本書は大河小説の形式で、読者に楽しみを提供している。本書には読者を退屈させる展開とは無縁だ。奇をてらわずに、読者の印象エピソードを残しつつ、ぐいぐいと読ませる。

本書に登場するのは、ある個性的な家族、圷家。主人公で語り手である歩は、そんな家族の長男として左足からこの世に生まれる。つまり逆子だ。歩が産まれたのはイランのテヘラン。革命前の1977年のことだ。普通の日本人とは違う。生まれが人と違う。ところが本人はいたって普通の人間であろうとする。そればかりか自ら目立たぬように心がけさえする。エキセントリックな姉の陰に隠れるように。

体中で疳の虫が這いずり回っているような姉の貴子。自分が認められたい、注目されたい。そんな姉は産まれてきた唯一の理由が母を困らせること、であるかのように盛大に泣く。欲求が満たされるまで泣く。決して満たされずに泣く。自己主張の権化。ホメイニによるイラン革命の余波を受け、一家が日本に帰国してからも、姉の振る舞いに歯止めはかからない。ますますおさまりがつかなくなる。

よく、次男や次女は要領よく振る舞うという。本書の歩も同じ。長男ではあるが、男勝りの姉の下では次男のようなもの。姉と母の戦いを普段から眺める歩は、自らの身の処し方を幼いうちから会得してしまう。そして要領よく、一歩引いた立場で傍観する術を身につける。

幼稚園にはいった歩は社会を知り、歩なりに社会と折り合いをつけてゆく。ところが、社会よりもやっかいなのが姉の奇矯な言動だ。貴子の扱いに悩む母。「猟奇的な姉と、僕の幼少時代」と名付けられたはじめの章は、まさにタイトル通りの内容だ。猟奇的な姉の陰に隠れ、歩は自らのそんざを慎むことを習い性とする。それに比べて貴子は自らを囲むすべてに敵意と疑いの目を向け続ける。すでにこの時点で本書の大きなテーマが提示されている。人は社会にどう関わってゆくのか、という表向きの大きなテーマとして。

本書は歩の視点で圷家の歴史を語ってゆく。歩の幼稚園時代の記憶も克明に描きつつ。園児の間にクレヨンを交換する習慣。一読するとこのエピソードはさほど重要ではないように思える。だが、このエピソードは本書を通して見逃せない。なぜなら、歩がどういう立場で社会に関わっていくかが記されるからだ。そして、このエピソードは、本書に流れる別のテーマを示唆している。人気がある色を好意を持つ相手にあげるのではなく、自分が好きな色を相手にあげる行い。人気があるから選ぶのではなく、自分の価値観に沿っているから選ぶ。そこには自分しか持ち得ない価値観の芽生えがある。歩がひそかに好意を持つ「みやかわさき」も、皆に人気の色には目もくれず、自分の望む色を集めることに執心する。

続いての章は「エジプト、カイロ、ザマレク」。一家は再びエジプトに旅立つ。歩は7歳。つまり歩は小学校の多感な時期の学びを全てエジプトで得る。日本の教育と違ったエジプトの教育。現地の日本人学校には妙な階級意識やいじめとは無縁だ。なぜならエジプトの中で日本人同士、助け合わなければならないから。そんな学校で歩は親友を作り、その親友と疎遠になる。そして、エジプト人でコプト教徒のヤコブと親友になる。

この章で描かれたエジプトは妙にリアル。これは著者のプロフィールによると実際に住んだことがあるからのようだ。アラブの文化が日本のそれとかなり離れており、幼い時期に異文化をたっぷり浴びた経験が、歩と貴子のそれからに多大な影響を与えたことは想像に難くない。

ダイバーシティや多様性の大切さは最近よく言われるようになって来た。だが、それを言い募る人は、本当の意味の多様性を理解しているのだろうか。少なくともわたしは自信がない。せいぜい数カ所の、それも一、二週間程度、海外に渡航した程度では、何もわからないはず。せいぜいが日本の各地の県民性を多様性というぐらいが精一杯だろう。少なくとも本書で描かれるエジプトの生活は、日本人が知る生活や文化とは大きく違っていて、それが本書に大きな影響を与えているのは明らかだ。

さて、本書の主人公である歩は男性、そして著者は女性だ。ずっとわたしは本書を読む間、著者自身が投影されていたのはどちらだろう、と考えていた。歩なのか、貴子なのか。多分、私が思うに、著者が自身を投影していたのは、貴子であり、歩が幼稚園で気にかけていたミヤガワアイなのだろう。そして、彼女たちの姿が歩の視点から描かれている、ということはつまり、本書は著者が自分自身を歩の視点から客観的に描いたとも取れる。本書がもし、著者の自伝的な要素を濃く含んでいて、それがわたしの推測通り、主人公の周囲の人物に投影されていたとすれば、本書がすごいのは自分自身を徹底して客観化させたことではないか。もちろん、本書で描かれた貴子やミヤガワアイと同じ行いを著者がしたはずはない。だが、彼女たちの奇矯な行動は、著者が自分の中に眠る可能性を最大限に飛躍させた先にある、と考えると、著者のすごさが分かる気がする。

私は下巻まで一気に読み終えた後、著者にとても興味を持った。そして面白い事実を知った。それは著者が1977年生まれで大阪育ち、という事だ。私と4つしか違わない。しかも、出身は私と同じ関西大学。法学部だという。ひょっとしたら私は著者と学内ですれ違っていたかもしれない。それどころか政治学研究部にいた私は、法学部に何人もの後輩がいたので、著者を間接的に知ってい他のかもしれない。そんな妄想まで湧いてしまう。

歩の両親に深刻な亀裂ができ、その結果、両親は離婚する。父を残して圷家は日本に引き上げる。歩はヤコブに「サラバ!」と言い残し、エジプトを離れる。なぜ両親は離婚したのか。その事実は歩に知らされない。そして、垰歩から今橋歩に名が変わり、中学、高校と育ちゆく歩。サッカー部に属し、クールでイケてる男子のイメージを築き上げることに成功する。彼女ができ、初めてのキスと初体験。

そんな今橋家の周りを侵食する宗教団体。いつの間にか発生したが宗教団体は、サトラコヲモンサマなる御神体を崇める。教義もなく、自然に発生し、自然に信者が増えたその宗教団体。人望のあった大家の矢田のおばさんの下、集った人々が中心となったこの奇妙な集まりは、無欲だった事が功を奏したのか、歩の周囲を巻き込み、巨大になってゆく。姉貴子も矢田のおばさんの元に熱心に通い詰め、自然と教祖の側近のような立場で見られるようになる。幼い頃から自分を託せる存在を求め続けた貴子がようやく見つけた存在。それが信心だった事は、本作にも大きな意味を与える。「サトラコヲモンサマ誕生」と名のついたこの章は、本書の大きな転換点となる。

そんな周りの騒がしさをモノともせず、青春を謳歌し続ける歩。一見すると順風満帆に見える日々だが、周りに合わせ、目立たぬような生き方という意味では本質はぶれていない。流れに合わせることで、角を立てずに生きる。そんな歩の生き方は、私自身が中学、高校をやり過ごした方法と通じるところがある。ある意味、思春期をやり過ごす一つのテクニックである事は確かだ。だが、その生き方は大人になってから失敗の原因にもなりかねない。今の私にはそのことがよくわかる。

結局、ここまで書かれてきた歩と貴子の危うさとは、同じ道を通ってきた大人の読者にしかわからないと思う。若い時分の危機を乗り越えてきた大人と、若い読者。ともにやきもきさせながら、歩と貴子の二人の人生は、強い引力と放ち、読者をひきつける。そして結末まで決して読者を離さない。なぜならば、読者の誰もが通って来た道だから。そして、たどろうとする道だから。個性のかたまりに見える歩と貴子だが、誰もが心のどこかに二人のような危うさを抱えていたはず。

‘2018/08/13-2018/08/13


血脈(中)


中巻では、久が心中した後の佐藤家の日々が描かれる。

本書の全体を通じて言えることだが、佐藤家の血脈を書き記すにあたり、著者は様々な人物の視点を借りる。本書第一章でもそれは同じ。「兄と弟」と銘打たれている本章だが、視点は八郎と節だけに留まらない。それ以外の人物、洽六、シナ、愛子、弥、カズ子、ユリヤからの視点が項ごとに入れ替わり現れる。特に本書の第一章ではそれが顕著だ。

ハチローは詩人として絶頂期にあり、洽六は小説家としての老いを感じるようになる。節の浮気相手の心中記事でも、佐藤紅緑の息子ではなく、ハチローの弟と書かれる始末。そんな洽六をシナは冷静に観察し、愛子は洽六の愛情が自分に注がれることを疎ましがる。節の乱脈は収まらないものの、ハチローが一人立ちし、シナが佐藤家の柱石としてがっしり固めるので、佐藤家の乱脈を描く本書においては、比較的小粒のエピソードが多い章である。とはいえ、世間一般的には充分に波乱万丈な訳だが。本書を読み進めるにあたっても、「佐藤家の人びと ー「血脈」と」は座右の書として手放せず、始終紐解きながらの読書となった。

心中した久を愛子が思い出すシーンでは、ブイブイを樹から落として捕まえるエピソードが登場する。ブイブイとはカナブンのこと。私も子供の時は普通にブイブイと呼んでいた。このような甲子園を思い出させる話が出て来るたび、私は本書に登場する人々の破天荒な人生から、自分の少年時代にも通ずる、かつての牧歌的な甲子園へと想いを馳せてしまうのだ。

第二章の「衰退」では、そんな甲子園の家を手放す日が描かれる。愛子の姉早苗が嫁ぎ、洽六の老いがますます進行し、小説家としては開店休業状態となる。世間では太平洋戦争が始まり、愛子にも縁談が舞い込む。素行が大分落ち着いてきた節とカズ子夫妻が一時甲子園の家に寓居するが、彼らも老化が進む洽六に窮屈を感じて出て行ってしまう。そんな訳で、日本の敗戦が濃厚となってきた昭和19年春、洽六とシナ夫妻は静岡の興津へと転居することになる。

一方で弥は徴兵され、理不尽な軍隊での日々を過ごす。そして兵役で留守中に妻に不貞を働かれる。戦局はますます破滅的な局面を示す。興津の家もどうなるか分からない。早苗には二人の、愛子には一人の子が産まれるが、それがシナの気苦労をかえって増やす。そんな中、興津の家も空襲の危険があるため、洽六とシナ夫妻は信州蓼科へと疎開する。

昭和20年。日本の敗北は誰の目にも明らか。そんな中、洽六の息子二人は揃って戦火に斃れる。洽六の枕元に現れた弥の幻像は、弥が戦死したことを知らせる。また、カズ子からの便りが、節が広島で原爆に焼かれたことを伝える。

衰退とは、日本の国運もそうだが、佐藤洽六の精神力にもいえること。本章ではそうした衰退の日々が克明に記される。甲子園の家は、以降の本書の中では一顧だにされない。まるで佐藤紅緑という人物の盛名とともに消え去ったかのように。私が本書を読むきっかけとなった佐藤紅緑の建てた豪邸は、僅か十数年の間しか存在しなかった。いつ家屋が壊されたのかは知らないが、実に儚いものだ。未だに石垣は残っているとはいえ。

第三章の「敗戦」もそう。節と弥が舞台から退場し、戦争も終わったはずの佐藤家であるが、まだまだ闘いは終わらない。愛子は結婚して子供まで授かったにも関わらず、亭主が戦時中に覚えたモルヒネ中毒により離縁の憂き目を見る。さらに八郎の師匠であり、紅緑の弟子として知られる福士幸次郎まで死ぬ。上巻から何度も登場しては洽六の世話を焼く福士幸次郎は、佐藤家の変人たちにも負けず劣らずの奇矯な人であり、奇人度では本書の中でも一、二を争うかもしれない。それでいて憎めない人物なのだ。その天衣無縫な言動は本書の中でも好感度が高い。

だが、福士幸次郎こそは佐藤紅緑が一番頼りにしていた人物。その人物が亡くなったことで、いよいよ紅緑の衰えに拍車がかかる。だが、紅録が戦前に発表し、一躍少年向け小説の対価となさしめた「あゝ玉杯に花うけて」がリバイバルヒットし、それを土産に洽六とシナは八郎卓へ寄寓することになる。

しかし八郎の生活も乱脈さでは父親に負けない。妻妾同居で暮らし、夏は裸で過ごす奇特な八郎。長男の忠は戦時中は予科練に志願するも、終戦で何もするでもなく無気力になり、妻妾同居の日々が正妻のるり子を遂に死に至らしめる。そんなるり子を悼んで発表した八郎の死は、忠から見て嘘八百。そんな日常に耐えられない洽六とシナ夫妻は、八郎宅を出て世田谷区上馬を終の家として求める。

第四章の「洽六の死」では、著者は愛子の目を借りて父が老い死んでいく姿を描く。冷酷なまでに。老残もいいところの洽六の最晩年は、かつての洽六に精力と威厳があっただけになおさら寂しいものがある。八郎が天皇から恩寵の品や勲章をもらったことで感極まった洽六は、若き日から欠かさずつけていた日記を断筆する。その日記こそは上中巻と著者が本書を書く上でかなりの貢献をしたと思われる。そしてその日記を執筆を辞めたことで、洽六にとっての最後の拠所が切れたかとでもいうように、洽六は一気に死へと駆け下りてゆく。

今回、本稿を書くにあたってところどころ拾い読みをした。改めて思ったのだが、洽六の老いから最期に至るまでの著者の筆は怖いまでに老いの惨めさと残酷さ描きだす。私はその老いのあまりのリアルさに、思わず老いから逃げるように50キロ以上、自転車で遠征の旅を敢行したほどだ。

‘2015/09/08-2015/09/12


血脈(上)


西宮ブログというブログがある。故郷の様子を知るための情報源としてたまに拝見している。

西宮ブログでは複数の常連ブロガーさんによる書き込みがブログ内ブログのような形で設けられている。常連ブロガーさんは、それぞれの興味分野について徒然に自由に記している。私にとってほとんど読まないブロガーさんもいれば、よく読ませて頂く方もいる。よく読むブロガーさんの一人に、seitaroさんがいる。seitaroさんが主宰するのは西宮が登場する文学や西宮にゆかりのある文人を詳しく紹介するブログである。それが阪急沿線文学散歩https://nishinomiya.areablog.jp/bungakusanpoだ。

本書の著者である佐藤愛子氏が甲子園に住まわれていたことを知ったのは、こちらのブログによる。著者は、父である著名な作家の佐藤紅緑氏とともに昭和初期の10数年にわたって甲子園で少女時代を過ごしたという。しかも2軒の家にまたがって。1軒目は甲子園球場のすぐ傍に建っていたようだ。今、阪神甲子園駅のバスターミナルに沿って三井住友銀行が支店を構えている。そのすぐ裏の区画、今は西畑公園になっている場所がどうやらそうらしい。2軒目の場所は、1軒目から今の甲子園線に沿って1.3kmほど北上したあたり。1軒目も2軒目も、私にとってよく知る場所だ。そらで道案内が出来るほど。それもそのはず、2軒目が建っていたのは私の実家から徒歩数分しか離れておらず、至近といってよい場所である。

私が幼稚園の頃から25歳まで大半を過ごした実家。その近くにこれほど有名な方が住まわれていたとはついぞ知らなかった。しかも著者はいまだ存命の方であるというのに。そもそも佐藤愛子氏の著書を読むのは本書が初めて。父である佐藤紅緑氏の本はまだ一度も読んだことがない。小学生の頃は、2軒目の家のすぐ近くに友だちの家があり、その傍の交差点でよく遊んでいたものだ。私の記憶では、通りがかりの老婦人に阪神タイガースの有名な選手の家があれ、と教えて頂いたことがある。確か名前に藤が付いていたように思う。藤がつく阪神の有名選手は多数いるが、おそらくはミスタータイガースこと藤村富美男選手の家だったのではないか。が、佐藤紅緑氏や愛子氏が近くに住んでいたことは誰にも教えてもらえなかった。そしてそのまま実家を離れ、40歳過ぎまで知らずにきてしまった。少し残念である。

本書を読み始めたのは丁度私の里心が増していた時期だった。seitaro氏のブログによれば、著者は西宮・甲子園を舞台に様々な作品を残しているという。俄然、著者に興味を持った私は色々と作品を調べてみた。そしてたどり着いたのが本書。著者の作品を始めて読む私にとって本書は相応しいはず。そう思って読み始めたのだが、読み終わった今はその判断が正しかったことを確信している。

佐藤紅緑から、息子のサトウハチロー、そして著者。日本文学史に燦然と名を残す三名が揃って登場する本書は、佐藤家の一族の血脈を余すところなく描いた大河小説である。そして本書には上に挙げた3名以外にも多数の人物が登場する。みなさん個性あふれる人物だ。そこで登場する佐藤家の人物のほとんどが社会不適合者であり、枠に収まること出来ぬ宿業を持て余す。ある者は野たれ死に、ある者は原爆で一瞬に焦がされ、ある者は行方不明となる。放恣な日々しか送ることのできない一族の血。それは血脈によって繋がり、登場人物たちを様々な運命へと追いやっていく。

身内を語る著者の筆には容赦がない。容赦がないというよりも、身内ゆえに手加減を知らないというべきか。その筆致は客観的でありながら、身内故の遠慮なさで著者自らを育てた一族を描き出す。血脈によってつながる一族の数奇な運命の流れを。

その流れが上中下巻に分かれた本書に収められている。上中下巻のそれぞれが文庫本としても厚めのページ数となっている。そのため本書は、全体としてかなりの分量となる。登場人物は別冊に収められている佐藤家の系図に載っているだけで62名。それに外部の関係者を加えると総勢100名は下らないだろう。膨大な登場人物を相手にするには少々心細いと思われる方には、本書の番外編として「佐藤家の人びと-「血脈」と私」がお勧めだ。私もその虎の巻ともいうべき本を座右に置きながら上中下巻を読み通した。その虎の巻には系図や年表、そして主な登場人物たちの写真が豊富に載っている。もし本書を読む方がいれば、是非とも「佐藤家の人びと-「血脈」と私」を併せて読まれることをお勧めする。

血脈の上中下三冊は2015年の私の読書歴でも印象深い読書だった。それは、本書がとても面白かったからだ。昔の甲子園のことが書かれているから、という気持ちで手に取った本書だが、それ以上に内容に引き込まれた。大正から昭和にかけてのわが国の文士といえば、無頼派という印象が強い。個性的で波乱万丈の。とはいえ、特別な興味がない限り無頼派の生活ぶりをわざわざ知ろうとは思わないはず。本書に描かれる生き様は無頼派のそれだが、著者はそのあたりを巧く小説として組み立て、本書を読みやすく面白い大河小説として仕立てている。

豪放でありながら繊細な佐藤紅緑こと洽六。その後妻である横田シナ。洽六の前妻のハル。ハルと洽六の間には五人の子供がいる。喜美子、八郎、節、弥、久。シナとの間には早世した六郎と早苗、そして著者。女好きでありながら国士のような激情家である洽六は、シナへの想いを抑え切れず、家庭を顧みず崩壊させる。その様が上巻である本書では書かれている。

本書の時代背景は大正四年から昭和九年まで。
第一章 予兆
第二章 崩壊のはじまり
第三章 彷徨う息子たち
第四章 明暗

第一章は八郎の視点で書かれている。女優としての成功を求め洽六邸へ寄宿する横田シナ。そんな横田シナへ想いを掛け、果ては狂恋に翻弄される洽六。その狂態が縦横に荒れ狂うのが本章である。それは正妻ハルの存在を瞬時にかき消す。そればかりか洽六の激情はハルや子供たちの存在を忘れ、去っていったシナを追って大阪まで旅立たせるほどのものである。しかもハルとの最初の子である長女の喜美子が結核で瀕死の状況でありながら。洽六が東京に戻って程なく喜美子は死ぬ。シナに翻弄され恋慕する父の狂態を見ながら成長する八郎と弟の節。八郎の少年としての性への興味が猥雑な歌や会話となって、ただでさえ強烈な本章に嵐の予感を振り撒く。あまりの不良っぷりに洽六の書生の福士幸次郎の付き添いで八丈島へと流されてしまう八郎を描いて本章は幕を閉じる。

第二章は、勘当された八郎の替わりに、弟の節の視点で物語が進む。すでに三男の弥は五才になっていたが、もはや家族の体を為していない洽六邸から、西宮鳴尾の密蔵伯父宅へ里子にやられる。密蔵伯父とは洽六の兄である。当時、大阪毎日新聞の経済部長の職に就いていた。後年、この縁で洽六は鳴尾に住むことになる。そしてそれは、まだ甲子園球場が出来る前の話。甲子園が甲子園ではなかった時期から佐藤家は西宮に縁があった訳である。一方、洽六とシナの旗上げた劇団は上手くいかず、シナは洽六の束縛を逃れようと煩悶する。長男六郎を喪い、長女早苗が産まれたことで洽六に縛られてしまうことを厭うシナは、女優としての最後のチャンスをつかむために洽六の影響力のないところで己の力を試そうとする。もはや佐藤家は解体寸前であり、洽六はシナを我が物とするため、正妻であるハルを離縁しようとする。八郎は荒れ狂う血を発散させるため無軌道な日々を送り、節に世の道理を教えるものは誰もいない。洽六の抑えようもない狂恋だけが佐藤家を駆けまわる。シナへの抑えられない狂熱を鎮めるため、洽六はヨーロッパへと旅立つ。

第三章は「彷徨う息子たち」との題名通り、物語の視点も彷徨う。視点はシナだったり八郎だったり節だったり弥だったりとまちまちだ。外遊から帰国した洽六は映画撮影所長としての職を得、兄の住む甲子園に居を定める。ここで洽六はようやく大衆作家一本でやっていく覚悟を固める。シナは長女早苗を産んだ後、著者自身である愛子を産み、女優としての将来を断念して洽六に屈服することになる。しかし、東京に残した八郎と節の素行は改まるどころか放埓の限りを尽くす。八郎は詩に自らの道を見出そうとするが、節は人をだまし、人の好意に乗り、洽六の財布を当てにする自堕落な人間として成長する。実母のハルは亡くなり、三男の弥は、鳴尾で当てのない少年時代を送る。

私にとって本章で描かれる弥の少年時代は特に印象に残っている。鳴尾で少年時代を過ごした彼の日常には、私にとってお馴染みの地名が多数出てくるからだ。「鳴尾村で一番喧嘩が強いのは上鳴尾のガキらだった。上鳴尾ではおとなも喧嘩に強い。子供の喧嘩におとなが出てくる。知識階級の集落である西畑の子供は上鳴尾とは喧嘩をしない」(417P)
上鳴尾とは、今は八幡神社があるあたりだ。八幡神社には私も小学生の頃は夜店が楽しみでよく行った。私の悪ガキとしての思い出にも八幡神社は欠かせない場所だ。上鳴尾には小学校時代に遊んだ友人が沢山住んでいた。本書を読んで、そうか、上鳴尾は喧嘩が強かったんかぁ、と思った次第。西畑という集落は上に書いた著者の1軒目の家のあったところだ。ここで弥の親友として登場する菅沼久弥という少年は苗字を森繁と変え、枝川の向こう側の今津に引っ越していく。著者は敢えて久弥少年のその後には触れない。が、私にはピンと来た。後年の大名優が鳴尾甲子園にこのような縁で繋がっていたとは本書を読むまで知らなかった。

第三章に書かれているような甲子園の描写こそが、私を本書へと導いたことは間違いない。が、本書が描く濃密な血脈の模様は魅力となって私を取り込む。いまや、在りし日の甲子園が書かれている事だけが本書の魅力ではなくなってきた。佐藤家の奔放な血脈の魅力は甲子園が登場しようとしまいと私をがっちりと捕まえる。

八郎は詩人として名が売れ始める。身を固めるために結婚するが、箍の外れた生活態度はますます悪化するばかり。金があるだけになお始末が悪い。節も結婚するが、人の好意に付けこむ癖は改まることを知らない。弥は無気力な日々を送り、洽六に叱られては自殺を図って新聞に載る。シナは女優としての道を洽六に閉ざされ意気消沈するばかり。洽六はそんなシナを元気づけるために、1軒目の近くにシナの思うような家を建てさせようと決意する。その家こそが、私の実家から徒歩数分の2軒目の家である。

第四章は、大衆小説家として全盛期を迎えた洽六が描かれる。新たに建てた家は宏壮そのもの。私も本書を読んだ数か月後に訪れてみた。今は大阪ガスの寮として使われているらしく、家屋こそ失われている。が、石垣は今もなお健在。佐藤紅緑の全盛期を偲ばせるに充分な威容だった。

しかし、新しい家で新規一転といかないのが、佐藤家の血脈のなせる業である。四男の久も無気力な生活を立て直すため、仙台で嫁を娶って働くことになる。が、生活力がとにかく欠けているのが佐藤家の男の多くに見られる特徴である。自活できぬまま、洽六からの仕送りなしでは生きていくことの出来ない久。その仕送りさえも中間に入った節によって全て抜かれてしまう。貧窮の末、心中を図って死ぬ久。上巻の最後は、佐藤家の中で最大のロクデナシである節に対し、洽六が想いの丈をぶつける手紙が引用されて幕を閉じる。作家として成功したにも関わらず、家長としては失敗しかしていない洽六の反省の弁ともとれるのがこの場面。上中下を通じて、著者は残された実際の書簡類を多数引用する。よくもまあきちんと保管しておいたと思うばかりに。

ここまで上巻の大筋を書いてきた。本書は筋を書かねばレビューとして成り立たせるのが難しい。それほどに複雑に筋は分かれる。上に描いた以外にもエピソードがまだまだ沢山載っているのが本書だ。全ては血脈のなせる振る舞い。洽六とその父弥六から始まる津軽の血は、中巻に受け継がれてもまだ留まるところを知らない。

‘2015/08/31-2015/09/08