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やぶれかぶれ青春記


本書も小松左京展をきっかけに読んだ一冊だ。

小松左京展では、著者の生い立ちから死去までが、いくつかの写真や資料とあわせて詳しい年表として紹介されていた。
著者の精力的な活動の数々は、小松左京展でも紹介されていた。あらためて圧倒された。だが、若い時期は苦しみと挫折に満ちた青春時代を送ったそうだ。小松左京展では、それらの若い頃の雌伏についても紹介していた。
だが、業績や著作があまりにも膨大な著者故、著者の若い頃については存分に紹介されていたとはいいがたい。少なくともその時期に焦点を当てた本書に比べれば。

本書は、著者のファンではなくても、自伝としてもと読まれるべきだと思う。それほど素晴らしい。そして勉強になる。何よりも励まされる。

やぶれかぶれ、というのはまさに文字通りだ。
本書の性格や意図については、本書のまえがきで著者自身が書いている。少しだけ長いが引用したい。

「編集部の注文は、大学受験期を中心とした、「明朗な青春小説」というものだった。ーそして、それは私自身の自伝風のものであること、という条件がついている。」(7P)

「まして、私の場合など、この時期と、戦争、戦後という日本の社会の、歴史的異常状況とが重なってしまったから、とても「明朗な青春」などというものではなかった。なにしろ妙な時代に生まれたものである。私の生まれた昭和六年には、満州事変がおっぱじまり、小学校へ上がった十二年には日中戦争がはじまった。五年生の時太平洋戦争がはじまり、中学校にはいった年に学徒動員計画がはじまった。徴兵年齢が一年ひきさげられて、学徒兵の入隊がはじまった。中学二年の時にサイパン玉砕、中学生の工場勤労動員がはじまり、B29の大空襲がはじまる。中学三年の時には大阪、神戸が焼野が原となって終戦、あとは占領下の闇市、食料欠乏の大インフレ、預金凍結、新円切りかえ、中学五年で旧制三高にはいったと思ったら、その年から学制が現在の六三制にかわり、旧制一年だけで新制大学第一期生に入学、その年日本は、大労働攻勢と、大レッドパージの開始で、下山、三鷹、松川事件と国鉄中心に会事件が続発し、翌年朝鮮戦争勃発…。政治、思想、人生などの諸問題、そして何よりも飢餓と貧困にクタクタになって、やっと昭和二十九年、一年おくれで卒業した時、世の中は「もはや戦後でない」という合い言葉とともに「神武景気」「技術革新」の時代に突入しつつあった。その年、家は完全に倒産した。」(12P)

小松左京展でも、著者の戦時体験については一区画が設けられていた。著者の諸作のあちこちに反戦の思いが散見され、著者が心から戦争を嫌っていたことが感じられる。
実際、右傾化した世の中で、著者は相当ひどい目に遭わされたそうだ。そのことが本書にも紹介されている。

鉄拳制裁や教師の無定見からくる差別。理不尽な扱いはしょっちゅう。
何のためにやっているのかわからない勤労奉仕。無意味な作業。
そして戦後になったとたん、戦時中に放っていた勇ましい言葉をすっかり忘れたかのような大人たちの変節。

中学生の時に著者が受けた扱いの数々は、当時の世相や暮らしの実態を知る上でとても興味深い。

戦後、人々がなぜあれほどに左翼思想へと走ったのか。それは戦時中の反動からという説はよく目にする。
実際、著者も大学の頃に共産主義の運動に足を突っ込んだことがあるという。
それもわかるほど、軍国主義に嫌気がさすだけの理由の数々が本書には書かれている。

戦後になって一念発起し、旧制高校にはいった時の著者の喜び。それは本書からもよく感じ取れる。
その無軌道な生活の楽しさと、それが学制改革によって一年で奪われてしまった著者の無念。それも本書からはよく理解できる。

よく昭和一桁世代という。だがその中でも昭和六年生まれの著者が受けた運命の運転や、その不条理な経験は本書を読んでもうんざりさせられる。人を嫌いにさせるには充分だ。
著者の計り知れない執筆量。さらには文壇や論壇の枠からはみ出し、万博への関与や政財界にまで進んだエネルギーが、全てこの時期に培った反発をエネルギーと変えて噴出させたことも本書を読むとよく理解できる。

大学に進んだ著者は、完全に自由なその生活を謳歌する。そしてやぶれかぶれのやりたい放題をする。
その辺の出来事も面白おかしく描かれている。

自伝によくあるのは、ドラマチックなところだけ取れば面白いが、その他の経歴は淡々と読み進める類のものだ。だが、本書は、エピソードの一つ一つが破天荒だ。そしてどれもがとても面白い。そのため、どんな人にとってもスイスイと読めるはずだ。

本書で描かれる大学時代の日々はとても面白い。だが、ある日になって浮かれている著者を置き去りにして周りがフッと醒めていく。周囲の空気の変化を感じた著者が、モラトリアムの終わりを予感するくだり。本書は私にとっても身につまされる描写が多い。

本書に描かれていない出来事は他にもある。そうした情報は小松左京展でも展示されていた。
実家の工場の倒産と、工場長として後始末に駆けずり回る毎日。残された借金を返済するために大量に書きまくる日々。そうした苦しみの数々を小説へのエネルギーに変えたところなど、とても面白い。
おそらくこの時期の著者には面白い出来事をもっと持っていることだろう。そうした体験は著者が別の場所に発表しているはずなので探してみたい。

そして、私にとっては、もう二度と戻ることのない青春時代に、もっとはちゃめちゃな毎日を過ごしておけばよかった、と思うのだ。
私の場合はそれを取り戻そうと、中年になった今でも自由で気ままに生きようと日々を生きているつもりだ。だが、著者のやぶれかぶれで破天荒な青春にはとてもかなわない。

末尾には著者のこの時期を物語る四つの短編が納められている。
「わが青春の野蛮人たち」「わが青春」「わが読書歴」「気ちがい旅行」

これらもあわせて読んでいくと、巨大な著者の存在がより近づく。またはより遠くなってしまう。だが、より親しみを感じられるはずだ。

冒頭にも書いた通り、本書は自伝としてとても推薦できる一冊だ。

‘2019/12/30-2019/12/31


心のふるさと


今までも何度かブログで触れたが、私は著者に対して一方的な親しみを持っている。
それは西宮で育ち、町田で脂の乗った時期を過ごした共通点があるからだ。
また、エッセイで見せる著者の力の抜けた人柄は、とかく肩に力の入りがちだった私に貴重な教えをくれた。同士というか先生というか。

タイトル通り、本書で著者は昔を振り返っている。
すでに大家として悠々自適な地位にある著者が、自らの活動を振り返り、思い出をつづる。その内容も力が抜けていて、老いの快適さを読者に教えてくれる。

冒頭から著者は自らのルーツに迫る。
著者のルーツは岡山の竹井氏だそうだ。竹井氏にゆかりのある地を訪ね、自身のルーツに思いを馳せる内容は、まさに紀行文そのものだ。

続いて著者は、若き日の思い出を章に分けて振り返る。
著者がクリスチャンであることはよく知られている。そして、当社が幼い頃に西宮に住んでいたことも。
西宮には夙川と言う地がある。そこの夙川教会は著者が洗礼を浴びた場所であり、著者にとって思い出の深い教会であるようだ。
そこの神父のことを著者は懐かしそうに語る。そして著者が手のつけられない悪童として、教会を舞台にしでかした悪行の数々と、神父を手こずらせたゴンタな日々が懐かしそうに語られる。

また、著者が慶応で学ぶなか、文学に染まっていった頃の事も語られる。同時に、著者が作家見習いとして薫陶を受けてきた先生がたのことも語られていく。
その中には、著者が親交を結んだ作家とのエピソードや、他の分野で一流の人物となった人々との若き日の交流がつぶさに語られていく。

「マドンナ愛子と灘中生・楠本」
本書に登場する人物は、著者も含めてほとんどが物故者である。
だが、唯一存命な方がいる。それは作家の佐藤愛子氏だ。
90歳を過ぎてなお、ベストセラー作家として名高い佐藤愛子氏だが、学生時代の美貌は多くの写真に残されている。
この章では、学生の頃の佐藤愛子氏が電車の中で目を引く存在だったことや、同じ時期に灘中の学生だった著者らから憧れの目で見られていたこと。また佐藤愛子氏が霊感の強い人で、北海道の別荘のポルターガイスト現象に悩んでいたことなど、佐藤愛子氏のエッセイにも登場するエピソードが、著者の視点から語られる。

「消えた文学の原点」と名付けられた章では、著者は西宮の各地を語っている。書かれたのは、阪神・淡路大震災の直後と思われる。
著者のなじみの地である仁川や夙川は、阪神・淡路大震災では甚大な被害を被った。
著者にとって子供の時代を過ごした懐かしい時が、地震によってその様相をがらりと変えてしまったことへの悲しみ。これは、同じ地を故郷とする私にとって強い共感が持てる思いだ。
本編もまた、私に著者を親しみをもって感じさせてくれる。

本書を読んでいて思うのが、著者の交流範囲の広さだ。その華やかな交流には驚かされる。
さらに言えば、著者の師匠から受けた影響の大きさにも見るべき点が多々ある。
私自身、自らの人生を振り返って思い返すに、そうした師匠にあたる人物を持たずにここまで生きてきた。目標とする人はいたし、短期間、技術を盗ませてもらった恩人もいる。だが、手取り足取り教えてもらった師匠を持たずに生きてきた。それは、私にとって悔いとして残っている。

別の章「アルバイトのことなど」では、著者が戦後すぐにアルバイトをしていた経験や、フランスのリヨンで留学し、アルバイトをしていたことなど、懐かしい思い出が生き生きと描かれている。かつて美しかった女性が、送られてきた写真では、おばあさんになってしまったことなど、老境に入った思い出の無残が、さりげなく描かれているのも本書にユーモアと同時に悲しみをもたらしている。

また別の章「幽霊の思い出」では、怪談が好きな著者が体験した怪談話が記されている。好奇心が旺盛なことは著者の代名詞でもある。だから、そんな好奇心のしっぺ返しを食うこともあったようだ。
私に霊感は全くない。ただ、好奇心だけはいまだに持ち続けている。こうした体験を数多くしてきた著者は羨ましいし、うらやましがるだけでなく、私自身も好奇心だけは老境に入っても絶対に失いたくないと強く思う。

他の章には、エッセイが七つほどちりばめられている。

「風立ちぬ」で知られる堀辰雄のエッセイの文体から、「テレーズ・デスケルウ」との共通点を語り、後者が著者にとって生涯の愛読書となったことや、堀辰雄やモウリヤックの作品から、宗教と無意識、無意識による罪のテーマを見いだし、それが著者の生涯の執筆テーマとなったことなど、著者の愛読者にとっては読み流せない記述が続く。

また、本書は著者の創作日記や小説技術についての短いエッセイも載っている。
著者のユーモリストとしての側面を見ているだけでも楽しいが、著者の本分は文学にある。
その著者がどのようにして創作してきたのかについての内容には興味を惹かれる。
特に創作日記をつける営みは、作家の中でどのようにアイデアが生まれ育っていくかを知る上で作家への志望者には参考になるはずだ。

著者は、他の作家の日記を読む事も好んでいたようだ。作家の日々の暮らしや、観察眼がどのように創作物として昇華されたのかなどに興味を惹かれるそうだ。
それは私たち読者が本書に対して感じることと同じ。
本書に収められた著者のエッセイを読んでいると、一人の人間の日常と創作のバランスが伺える。本書を読み、ますます著書に親しみを持った。

‘2019/7/21-2019/7/21