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真田三代 下


下巻では第一次上田合戦から始まる。
上田の城下町の全てを戦場と化し、徳川軍を誘い込んで一網打尽にする。それが昌幸の立てた戦略だ。
それには領民の協力が欠かせない。なぜ領民が表裏比興の者と呼ばれた昌幸の命に諾々と従ったのか。

「昌幸にはひとつの信条があった。
「戦いにおいては詐略を用い、非情の決断もする。だが、おのが領民と交わした約束は、信義をもってこれを守り、情けをかけて味方につけねばならぬ」」(86-87ページ)

周到に準備しておいた昌幸の策が功を奏し、徳川軍を撃退した真田軍。諸国の武将に真田家の武名がとどろく。

だが、昌幸の智謀がすごみを増す一方で、次男の幸村には父とは違う人格が生まれ始めていた。それは義の道。
幸村は、人質として過ごす上杉家の家風である義の心に感化される。
軍神と称えられた先代の不識庵謙信はすでに世にない。だが、主の景勝とその股肱の臣である直江兼続が差配する上杉家は、先代の義に篤い気風を受け継いでいた。
そこで幸村は策に走る父への疑問を抱く。生き残ることを優先すべきなのか、はたまた義を貫くべきか。

「おのれの利を追うことのみに汲々とするのではなく、さらに大局に立ち、おおやけのため、民のため、弱き者のために行動するのが、
「わしの考える義だ」
と、兼続は言った。」(128ページ)

これは私も常々感じている。利を追ってゆくだけでよいのなら、どれだけ楽か。金を稼ぐ苦労はあっても、それだけにまい進すればよいのだから。
従業員の人件費を削り、精一杯働かせる。顧客には高めの金額を提示し、その差額を利潤として懐に貯めこむ。
それができない私だから、飛躍も出来ないでいる。自分に恥じないような経営をしようと思うと、従業員を使い捨てにするマネはできない。見合った金額を支払い、顧客には高い金額を提示できない。これだと飛躍ができない。
私の根本の経営能力に問題があることもそうだが、こうした理念は卓越した努力と才能を伸ばした結果が伴わなければ倒れてしまう。悩んだことも数知れずだ。

ビジネスマンの愛読書は歴史小説だという俗説がある。歴史小説から教訓を読み取り、それをビジネスに生かそうとする人が多いからだろう。
それが本当かどうかはわからない。だが、私にとっては歴史を取り扱った小説から得られる教訓は多い。
本書を読んでいると、未熟な自分の目指すべき道の遠さとやるべきことの多さにめまいがする。

義を貫きたい幸村の志。それに頓着せず、昌幸は上杉家に人質としている幸村に信幸を接触させる。そして信幸を通し、上杉家を出て豊臣家への人質として大坂へ赴くように命ずる。
義のなんたるかを教えてくれた人物を不本意ながら裏切る羽目に陥った幸村の苦悩。

昌幸の視点には、天下の趨勢が豊臣に傾いていることが見えたのだろう。幸村を豊臣家の人質として送り込むこともまた、真田家を生き延びさせるための一手だった。昌幸の読みは当たり、秀吉は着々と天下を統一していく。
その過程に真田の名胡桃城をめぐる攻防があったことは言うまでもない。

ところが豊太閤の天下も秀吉の死によって瓦解を始める。それから関ヶ原の戦いに至るまで、石田三成と徳川家康、さらには上杉や諸武将の思惑が入り乱れる。
真田の場合、兄信幸が徳川四天王の本田忠勝の娘小松姫を娶っていた。幸村は石田三成についた大谷吉継を義父としている。
二人の境遇が真田家を大きく二つに割った犬伏の別れの伏線となる。

「澄んだ秋の夜空に、星が散っている。そのなかで、ひときわあざやかに輝く六つの星のつらなりがあった。
真田家の六連銭の旗の由来ともなった、
━━すばる
である。
「わしは若いころより、つねに心に誓ってきた。あのすばるのごとく、あまたの星のなかでも群れのなかに埋没せぬ、凛然たる光を放つ存在でありたいとな」
星を見つめながら昌幸は言った。
「徳川内府につけば、わしは有象無象の星の群れのひとつに過ぎなくなる。だが、男としてこの世に生を受けた以上、一度は天上のすばるを目指さねばならぬ。いまこそがその時だ」」(344-345ページ)

まさに私もこの志を持って独立した。しびれる場面である。

昌幸は長男の信幸とたもとを分かち、上田城の戦いでは策略を駆使して徳川秀忠の軍を足止めさせる。その結果、関ヶ原の本戦で秀忠軍は遅参した。

だが、西軍は関ヶ原の本戦で敗れた。局所の戦いでは勝ちをおさめたが、昌幸と幸村の二人は高野山へ流罪の身となった。
以来十数年。昌幸はついに九度山で想いを遺しながら亡くなった。そして、徳川家康は、天下取りの最後の仕上げにとりかかる。残すのは豊臣家の滅亡。
豊臣方も対抗するため、大坂に浪人を集める。幸村も大坂からの誘いを受け、最後の死に花を咲かせるために九度山から脱出する。

「「人の世は、思うようにならぬことのほうが多い。まして、わが真田家は周囲を大勢力に囲まれ、つねにその狭間で翻弄されてきた。だが、宿命を嘆き、呪っているだけでは、何も生まれませぬ。苦しい状況のなかから、泥水を嘗めてでもあらんかぎりの知恵を使い、一筋の道を切り拓いてゆく。それがしのなかにも、そうやって生きてきた祖父幸隆や父昌幸と同じ血が流れているのでござろう」」(465-466ページ)

ここからはまさに幸村の一世一代の花道だ。戦国時代、いや、日本史上でも稀に見る華々しい死にざま。真田日本一の兵と徳川方から称賛された戦い。

「叔父上は、数ある信濃の小土豪のなかから、真田家がここまで生き残ってこれたのはなにゆえと思われます。それは、知恵を働かせて巧みに立ちまわったからだけではない。小なりとはいえ、独立した一族の誇りを失わず、ときに身の丈よりはるかに大きな敵にも、背筋を伸ばして堂々と渡り合う気概を持つ。それでこそ、わが一族は、亡き太閤殿下、大御所にも一目置かれる存在になったのではございますまいか」
「目先の餌に釣られ、世の理不尽にものを言う気概を捨て去っては、一族を興した祖父様や、表裏比興と言われながらも、おのが筋をつらぬいた父上に申しわけが立ちませぬ」(497-498ページ)

幸隆から昌幸、そして幸村と、戦国の過酷な現実を生き抜き、しかも自らを貫き通した。さらには、大名家の家名まで後世に伝えることに成功した。
男としてこれ以上の事があろうか。
真田家の三代の生きざまを読んでいると、何やら胸の内にたぎるものが湧いてくる。私もちょうど幸村が討死した年齢に差し掛かった。
あとどれぐらいの花が咲かせられるだろうか。

本書はビジネスマンに限らず、まだまだ枯れるにははやい中年に読んでほしい。

2020/10/2-2020/10/2


真田信繁 幸村と呼ばれた男の真実


先年の大河ドラマ「真田丸」は高視聴率を維持し、大河ドラマの存在感を見せつけてくれた。大河ドラマが放映される前々年あたりから、私は「真田丸」の主役である真田信繁(幸村)に興味を抱いていた。というのも、わが家は十数年前から何度も山梨を訪れており、甲州の地で武田信玄がどれほど尊崇を受けているかも知っていたからだ。武田二十四将に名を連ねる真田信綱、昌幸兄弟のことや、昌幸が大坂の陣で活躍した真田信繁の父であることも知っていた。

ところが私が真田の里に訪れられる機会はそうそうなかった。本書を読む数カ月前、ようやく砥石城跡に登ることができた。そこから見下ろす真田の里は、戦国の風などまったく感じさせないのどかな山里の姿を私に見せてくれた。だが、私が真田の里を目にしたのはその時だけ。この時は結局、真田の里に足を踏み入れられなかった。また、大学時代には真田山や大阪城にも訪れた。ところが私はまだ、真田丸が築かれていたとされる場所には訪れていない。一方で、私が戦国時代の合戦場でもっともよく訪れたのは関ヶ原だ。ここは三回訪れ、かなりの陣地跡を巡った。だが、周知のとおり、関ヶ原の戦いに信繁は参陣していない。このように、私はなにかと信繁と縁がないまま生きてきた。

なので「真田丸」はきちんと見るつもりだった。ところが、第一次上田合戦あたりまでみたところで断念。その後は見逃してしまった。

本書は私にとって数冊目となる真田信繁関連の書だ。その中で確実な資料を典拠に書かれた学術的な書に絞れば二冊目。まだまだ私が読むべき本は多数あるだろう。だが、本書こそは現時点において真田信繁関連の書として決定版となるに違いない。著者は「真田丸」の時代考証を担当したそうだが、その肩書はダテではない。現時点で発見された古文書を渉猟し、その中で真田信繁に関係のあるものはことごとく網羅していると思われる。古文書を読み解き、その中に書かれた一つ一つの言葉から、信繁にまつわる伝承と事実、幸村として広まった伝承と脚色を慎重に見極め、その生涯から事実を選り分けている。

私はある程度、信繁の事績は知ってはいた。とはいうものの、本書で著者が披露した厳密な考証と知識には到底及ばない。本書は無知なる私に新たな信繁像を授けてくれた。例えば信繁と幸村の使い分け。幸村はもっぱら江戸時代に講談の主人公として世に広まった。では当時信繁が幸村の名を実際に名乗っていたかどうか。この課題を著者は、十数種類の信繁が発給したとされる文書を考証し、幸村の名で発給された事実がなかったことや、そもそも幸村と名乗った事実もないことを立証する。つまり、幸村とは最後まで徳川家を苦しめた信繁を賞賛することを憚った当時の講談師たちによって変えられた名前なのだ。ちょうど、大石内蔵助が忠臣蔵では大星由良之助と名を変えられたように。

あと、犬伏の別れについても著者は私の認識を覆してくれる。犬伏の別れとは、関ヶ原の合戦を前にして、真田信幸と信繁が西軍の石田三成方に、信之が東軍の徳川家康方につき、どちらが負けても真田家を残そうとした密談を指す。私は今まで、真田昌幸の決断は三人で集まったその場で行われたとばかり思っていた。だが、実際にはその数カ月前からその準備をしていた節があることが本書には紹介されている。一族の運命を定めるには、一夜だけでは発想と決断がなされるほど戦国の世は生易しくはない、ということか。私は犬伏の別れの回は「真田丸」では見ていない。その描写には、考証担当の著者の意見が生かされていたのだろうか。気になるところだ。

その直後に行われた第二次上田合戦にも著者の検証はさえ渡る。徳川秀忠が上田城で真田昌幸・信繁親子に足止めされたため、秀忠軍は関ヶ原の戦場に間に合わなかった。私は今までこの戦いを単純にそうとらえて来た。ところが本書は少し違う解釈をとる。著者によると当初から秀忠軍の目標は上田城と真田信幸・信繁親子にあったという。ところが上方における西軍の攻勢が家康の予想を超えていたため、急ぎ秀忠軍に関ヶ原への参陣を命じた。ところが上田城で足止めされたため、秀忠軍は関ヶ原間に合わなかった。そういう解釈だ。著者はおびただしい書簡を丹念に調べることにより、これを説得力のある説として読者に提示する。この説も「真田丸」では取り入れられていたのだろうか。気になる。

さて、関ヶ原の結果、父昌幸と九度山に蟄居を余儀なくされた信繁。大坂の陣での活躍を除けば、信繁の生涯に費やすページはなさそうだ。と思うのは間違い。ここまでで本書は140ページ弱を費やしているが、本書はここからそれ以上続く。つまり、九度山での日々と大坂の陣の描写が本書の半分以上を占めているのだ。それは後半生の劇的な活躍がどれだけ真田信繁の名を本邦の歴史に刻んだかの証でもあるし、前半生の信繁の事績が後の世に伝わっていないかを示している。

九度山の日々で気になるのは、信繁がどうやって後年の大坂の陣で活躍したような兵法を身につけたのか、ということだ。”真田日本一の兵”と敵軍から賞賛されたほどの活躍は、戦況の移り変わりが生んだまぐれなのか。いや、そんなはずはない。そもそも真田丸を普請するにあたっては、並ならぬ知識がなくては不可能だ。信繁がそれなりに覚悟と知識をわきまえて大坂に赴いたことは間違いない。では、信繁はどこで兵法を学んだのか。それについては著者もかなり疑問を抱いたようだ。しかし、九度山から信繁が発した書状にはその辺りのことは書かれていない。本書には、蟄居した父から受け継いであろうとの推測のほかは、信繁が地元の寺によく通っていたことが紹介されている。おそらくその寺でも兵法については学んだのだろうか。

あとは、兄信幸改め信之の存在も忘れてはならない。蟄居する父と弟を助けるため、かなりの頻度で援助した記録が残されている。そうした書状が確認できていることからも、信繁と昌幸が九度山で過ごした日々はかなり窮まっていたようだ。その鬱屈があったからこそ、信繁は大坂の陣であれだけの活躍を成し遂げたのだろう。

続いて本書は大坂に入って以降の信繁の行動に移る。まず真田丸。ここで著者が解明した真田丸の実像こそ、今までの先行研究に一石を投じたどころか、今までの先行する研究を総括する画期的な業績と言える。そもそも一般の歴史ファンは真田幸村を祭り上げるあまり、真田丸を全て幸村の独創であるかのように考えてしまう。だが、生前の関白秀吉も大阪城の死角がここにあることを任じていた、という逸話が伝わっている。真田丸は決して信繁の独創ではなく、大坂方は元からこの位置に出城を設ける意向があったという。もちろん、その意向を受けた信繁が細かい整備を加えた事は事実だろう。著者はさまざまの資料を駆使して、真田丸の大きさや形、そして現在のどこに位置するかについて綿密な検証を加えてゆく。三日月状の馬出の形は、父昌幸が学んだ薫陶を受けた武田信玄から伝わる甲州流に影響を受けていることも確実だろうという。

あと、真田日本一の兵と徳川軍の将から絶賛された猛攻が、どのように行われたかについても著者の分析は及んでいる。これについては、大阪に土地勘を持つ私は前々から疑問に思っていた。大坂夏の陣では真田軍は茶臼山に本陣を構え、家康本陣に総攻撃を掛けたという。そこから家康本陣があったとされる平野まではかなりの距離がある。騎馬が駆ければ遠くない距離とはいえ、茶臼山から家康本陣までの間には名だたる大名の軍が控えていたはず。果たして家康の馬印が倒され、家康が何里も逃げ惑ったほどの壊滅的な打撃を真田軍は与えられたのだろうか、と。

著者はここで、幕府方の軍勢に意思の統一が取れていなかったこと、「味方崩れ」という士気の低下による自滅で隊形が崩れたことが多々あったことを示し、一気に徳川本隊まで味方崩れが波及したのではないか、という。

本書は小説ではないので、伝説の類には口を挟まない。なので、徳川家康がここで討ち死にしたという俗説には全く触れていない。ただ、秀頼を守って信繁が薩摩に落ち延びたという伝説については、著者は一行だけ触れている。もちろん俗説として。

伝説は伝説として、真田信繁がここで家康の心胆を寒からしめた事実は著者も裏付けている。本書は豊臣方の動きも詳細に描いている。その中で、再三の信繁から秀頼の出馬要求があったことや、その要求が結局実現できなかったこと。肝心な戦局で大野治房が秀頼を呼び戻そうとして大坂城に戻ったのを退却と勘違いされ、豊臣方の陣が崩れたことなど、豊臣秀頼の動き次第では、戦局が一変した可能性を含ませている。そうした事情なども含めて、著者は大坂夏の陣の実態を古文書から読み解き、かなりの確度で再現している。

本書は真田信繁を取り上げている。だが、それ以上に大坂の陣を詳細に紹介している一冊と言えそうだ。それだけでも本書は読むに値することは間違いない。本書は真田信繁の研究と、大坂の陣を真田信繁の側から分析したことで後の世に残ると確信する。

「真田丸」は歴代の大河ドラマの中では視聴率ランキングの上位には食い込めなかったようだ。だが、一定に評価は得られたのではないだろうか。私も機会があれば見てみたいと思っている。本書という頼りになる援軍を得たことだし。

‘2018/10/05-2018/10/16


真田幸村のすべて


本書を読んだ時、NHK大河ドラマ真田丸によって真田幸村の関心は世間に満ちていた。もちろんわたしの関心も。そんな折、本書を目にし手に取った。

編者は長野県史編纂委員などを務めた歴史学の専門家。真田氏関連の著書も出しており、真田家の研究家としては著名な方のようだ。本書は編者自身も含め、9名の著者によって書かれた真田幸村研究の稿を編者がまとめたものだ。

9人の著者が多彩な角度から真田幸村を取り上げた本書は、あらゆる角度で真田幸村を網羅しており、入門編といってもよいのではないか。以下に本書の目次を抜粋してみる。

真田幸村とその時代・・・編者
真田幸村の出自・・・・・寺島隆史氏
真田幸村の戦略・・・・・編者
真田幸村と真田昌幸・・・田中誠三郎氏
真田幸村の最期・・・・・籔景三氏
真田家の治政・・・・・・横山十四男氏
「真田十勇士」考・・・・近藤精一郎氏
九度山の濡れ草鞋・・・・神坂次郎氏
真田幸村さまざま・・・・編者
真田幸村関係人名事典・・田中誠三郎氏
真田幸村関係史跡事典・・石田多加幸氏
真田幸村関係年譜・・・・編者
真田家系図・・・・・・・編者
真田幸村関係参考文献・・編者/寺島隆史氏

ここに掲げた目次をみても考えられる限りの真田幸村に関する情報が網羅されているのではないだろうか。もちろん、他にも書くべきところはあるだろう。例えば真田丸のことや、第一次第二次上田合戦のことをもっと精緻に調べてもよかったかもしれない。また、豊臣家や上杉家で過ごした幸村の人質時代にいたっては本書ではほとんど触れておらず、そういう観点が足りないかもしれない。

あと、本書は小説的な脚色がとても少ない。わずかに九度山での蟄居暮らしを書いた「九度山の濡れ草鞋」が小説家の神坂氏によって脚色されているくらいだ。そのため本書には大河ドラマ真田丸や真田十勇士などの小説にみられる演出色が薄い。劇的な高揚感が欠けていると言ってもよい。だが、そのため本書には史実としての真田幸村が私情を交えずに紹介されている。史実を大切にするとはいえ、伝承の一切を排除するわけではない。人々に伝えられてきた伝承は、伝わってきた歴史それ自体が史実だ。伝承そのものが人々の伝わってきた文化という意味で。また、十勇士を含めた真田幸村の逸話が講談や立川文庫を通して世に広まっていった経緯が史実であることを忘れるわけにはいかない。だからこそ本書は、史実の名である真田信繁ではなく講談で広まった真田幸村という名前をタイトルにしているのだと思う。

それが顕著に出ているのが、講談に登場する十勇士が史実ではどうだったかを分析した箇所だ。実は本書で一番興味深いのはこの分析かもしれない。どこまでが史実でどこまでが虚構の部分なのか。幸村と信繁を分かつ分水嶺はどこにあるのか。それが分析されている。真田幸村ほど虚実取り混ぜて描かれてきた人物もいないだろう。だから、本書のような虚実の境目を明らかにしてくれる書物はとてもありがたい。さらに僅か数ページではあるが、先日読んだ「秀頼脱出」の伝説を検証するかのように、大坂落城後の真田幸村生存説にまつわる挿話がいくつか紹介される。

本書はどちらかというと網羅的に真田幸村を紹介する本だ。一方で編者はなるべく史実に忠実に沿うことを旨としている。虚像の真田幸村を史実として扱うことはできないが、虚像の真田幸村が講談その他で広まったことは紛れも無い史実だ。その釣り合いをどう取るか。それが編者に求められる部分だ。そして本書はその点を満たしているのではないだろうか。

かつて大阪の真田山公園を訪れたことがある。本書にも多数の幸村関係の史跡が紹介されているが、私が未訪の場所も多数ある。上田、九度山、犬伏、大阪近辺の史跡も。そろそろ真田丸ブームもひと段落してきたと思う。時機を見てこれらの場所を訪れ、より深く幸村の生涯を追想してみるつもりだ。

‘2016/03/31-2016/04/01


秀頼脱出


唐突ながら、出版社には格があると思う。格が何かを表現するに、新聞を例にあげると良いだろう。例えばガセネタといえば東スポ、大スポであり、信頼できる新聞といえば日本経済新聞というように。もっともこの例も最近は怪しくなりつつあるけれど。要するに情報の発信元への信頼度を格といい替えてみた。

出版社によってはトンデモない珍説を堂々と出版してしまうこともある。記載された情報を著者の主観だけでろくに裏取りせず、堂々と帯に新説として打ち出してしまうなど。そのようなトンデモ本の類いは「ト学会」に面白おかしく取り上げられ出版社としての格を落とす。そうしたトンデモ本を出す出版社の本は、どれほど真面目な内容であってもエンターテインメントの一種として見られ、読者は読んでいる間、眉に唾を付けっぱなしとなる。出版社や著者にとっては甚だ不本意な話であると思う。

では、本書の発行元である国書刊行会はどうか。国書刊行会は、私にとっては格の高い出版社である。世界のマイナーだが面白い本、日欧米以外の国で出版された名作や前衛作、そして問題作を我が国に積極的に紹介するその志には常々敬服している。格の高さだけでなく志を持っている出版社だと思っている。その二つを兼ね備えた出版社となるとなかなか見当たらない。

正直言って私が本書を手に取ったのは、題名と出版社の落差に興味を持ったからだ。もし本書が私にとって格の落ちる出版社から発行されていれば本書は手に取らなかっただろう。なにせ題名が「秀頼脱出」である。豊臣秀頼は大坂城で死んだのではない、という陰謀説の臭いが題名からもうもうと立ち込めている。そして本書は小説ではなく歴史書の類だ。しかも著者の名は本書で初めてお見かけした。となればなおさら本書は敬遠の対象となる。しかし、そのような偏見を抱きかねない本書は国書刊行会から出版されているのだ。私ががぜん興味を持ち、本書を手に取ったのはそういう経緯からだ。

なお、私は歴史にまつわる伝説の類いは好きだ。高木彬光氏の名著「成吉思汗の秘密」はそれこそ10回は読んでいる。こういう悠久の歴史の中で遊ぶロマンは好きだ。史実を金科玉条のように崇め奉るだけではロマンは生まれない。しかし、ロマンはロマン。それを史実として吹聴することについてはちょっと待て、と思う。

秀頼が死なずに薩摩辺りに逃れたという説があるのは以前からおぼろ気には知っていた。だが、今までの私は太閤の栄華を惜しむ民衆の心情が作り上げたよくある陰謀説の一つとしてあまり本気にしていなかった。

わたしがここに来て秀頼の脱出に興味を持った理由は二つ。一つは先日読み終えた「とっぴんぱらりの風太郎」だ。(レビュー)。秀頼はこの本において主要な脇役として登場する。その哀愁と愛嬌の両方を備えたキャラ設定には親しみを覚えた。そして「とっぴんぱらりの風太郎」は大坂城の大爆破でクライマックスを迎えるのだが、秀頼の最期は曖昧に描かれていた。果たして「とっぴんぱらりの風太郎」の中で秀頼はどうなったのかという疑問が喉に引っ掛かっていた。

もう一つは大河ドラマ真田丸の存在だ。本書を読んだ時点ではまだまだ先だが、いずれは秀頼の最期もドラマ内で映し出される日も来るのだろう。その時に秀頼の最後がどう描かれるのか、という興味だ。結局、私は真田丸の視聴を途中で断念してしまったのだが。

本書では秀頼脱出に真田大助が先導役を果たしたという説まで紹介されている。著者の探求は幸村一行の消息までは及んでいない。著者が追及し検証するのはあくまでも秀頼が大坂城を脱出し、薩摩へ逃れたという仮説の構築だ。そこに著者は重きを置いている。

その検証を進めるにあたり、著者の姿勢は慎重この上ない。そもそも著者が秀頼脱出説に興味を持ったのは、木下家の現当主、木下俊凞氏から木下家に一子相伝で伝わる伝承を教えてもらったからだという。その伝承とは、秀頼の遺児国松は京で斬首に処せられたのではないというものだ。豊臣秀吉の若き日の姓名が木下藤吉郎であることはよく知られている。諸説はあるが木下とは父の名乗っていた姓だという。そして秀吉の死後は秀吉の妻北政所の一族が木下家を継いだという。いずれにせよ木下家は秀吉に縁ある家柄だ。江戸幕府からは一定の配慮を受け江戸時代を生き延び、今に至っている。そんな一族に伝わる伝承だからこそ、著者は俗説として退けず、真剣に向き合ったのではないか。

さらに著者は、ある縁で多田金山に眠る伝説に真田幸村の家臣として知られる穴山小助が絡んでいたことを知る。太閤埋蔵金伝説で知られる多田金山には、今も眠ったままの財宝があるという。金山の資金の一部は、大阪冬夏の陣や秀頼の薩摩行きにあたり豊臣家のためとして使われたという。こういった周辺の伝承も、著者の心を調査へと駆り立てる。

著者は秀頼脱出説の真偽を調べるため九州へ飛ぶ。木下家に伝わる伝承によると、木下家が藩主となった立石藩5000石から初代藩主木下延俊の意思によって日出藩が分家された。日出藩の藩主となった人物こそ、大阪城から逃れた国松ではないかと著者は推測する。そこには立石藩主木下延俊が設けた子の名前が六人とも同じ縫殿助という名となっていて、いかにもな証拠となっている。

一方、国松の父秀頼は薩摩の谷山でかくまわれ、そこで子を成したのち45歳で自死した伝承が残っているらしい。それを裏付けるかのように地元には秀頼が薩摩に来た伝承が野史に残っていたり、秀頼の墓と伝わる石塔が今も立っている。著者はそれらの伝承は確認したものの、それ以外に碑や墓、書状という明確な形では確証が得られなかったようだ。本書にはそのことが正直に記してある。

著者の探求はかつて日出藩があった今の日出町へと向かう。日出藩菩提寺だった松屋寺には豊臣と銘された石柱や石灯籠が多数並んでいる。それらは写真として本書に紹介されている。また、日出藩領にある長流寺は、他の寺にはあまり見られぬ場所に石柱が立っている。その石柱にはただ一言『興亡三百年』と彫られている。これも写真で掲載されている。

著者が住職に伺った話でも、国松が立石藩初代藩主延由であることは公然の事実として伝えられているらしい。位牌にも豊臣の名が刻まれており、その位牌の写真も本書に紹介されている。

こういった著者の探求は、読者をして国松生存説に傾かせるには魅力的だ。冒頭に書いた通り、国書刊行会という名のある出版社が本書を出すからには相当の裏付けがないと難しい。著者が調べて本書に掲載した裏付けは、国松生存説を補強し、出版に踏み切らせるだけの強力な調査結果だったと思われる。

あとは秀頼である。秀頼は著者の調べるによると宗連と名を変えて薩摩に住んでいたという。だが、薩摩には確とした痕跡が残されていない。薩摩藩としては幕府の目を憚って証拠を残さぬように処置したのだろうと著者はいう。そして、著者の主張する通り国松生存が濃厚であれば、秀頼もまた生存していたと考えるのが自然である。薩摩には秀頼生存の確とした証拠がない代わりに、あちらこちらに伝説は残されている。著者はそれらの説も紹介するのだが、秀頼生存説の決定打となる証拠がない。

膠着状態の著者を救うかのように、埼玉の木場氏という方からの連絡がある。木場氏は、自家に伝わる一子相伝を語る。それによれば豊臣家に仕えた馬場文次郎という武士がいて、この人物が秀頼の大坂城脱出にあたって多大な貢献を果たしたとか。そのため、島津藩では木下の”木”と恩人である馬場の”場を組み合わせて木場という家を創設し、秀頼の子孫に名乗らせたというのだ。木場家では一子相伝の口伝として代々伝承されているというのだ。

木場家の伝承は歴史ロマンとしては魅力的だが、正直いって口伝なのが弱い。口伝だけでなく手紙や書状が残っているのであれば、本書でその手紙を紹介して欲しかったのだが。

また、木場家の伝承の中では真田大助が落ち延びる秀頼と鶴松に同道して薩摩へと向かったとあるようだ。木下家に伝わる一子相伝にも木場家に伝わる一子相伝にも、真田幸村ではなく大助が薩摩落ちに関係したという。双方の一子相伝を信ずるならば、真田幸村は薩摩に落ち延びず大助だけが落ち延びたことになる。つまり真田信繁の名を日ノ本一の兵として高めた大坂の陣での活躍は、死なずに落ち延びたという行いに汚されなかったことになる。これには正直ほっとした。兵をおいて将が薩摩に落ち延びたとすれば幻滅だからだ。

本書では巻末で私も初耳の説が紹介されている。それによると秀頼が設けた息子の一人に羽柴天四郎秀綱がいたという。そして島原の乱の首領であったと記された文書があるという。いうまでもなく天草四郎である。また、そこには秀頼自身も参戦していたともいう。その書状も本書には紹介されていないし他の証拠もない。これが本当なら歴史ロマンの花開く話なのだが。

著者が本書を世に問うた後、どのような調査を行ったのか。そして日本の史学会が秀頼脱出説をどう扱ったのか。そのことをとても知りたく思う。史実として秀頼脱出を認めるわけではないが、火のないところに煙は立たないともいう。何がしかの新事実があるのならなおさらだ。脱出説には関係なく、秀頼を再評価する動きも歴史家の間にあるとも聞く。戦国の世を締めくくる合戦の大将の末路が、城と共に飛散したのか、それとも今の世まで脈々と伝わっているのか。それはとても興味があるのだが。

‘2016/03/22-2016/03/24


とっぴんぱらりの風太郎


関西人である私にとって、万城目ワールドはとてもなじみがある。デビュー作から本書までの7作は全て読んでいる。特に長編だ。京都、奈良、大阪、長浜。それら関西の町を舞台として繰り広げられる物語はとても面白い。古い伝承が現代に甦り、波乱を巻き起こす。関西の言葉や文化で育った私にはたまらない。物語の構成は、古き伝承をモチーフとし、現代を舞台に進行する。伝承を題材にしつつ、現代を舞台に奇想天外な物語を産み出す著者の作品は、読者をわくわくさせてくれる。

そして本書だ。

本書は著者の新境地ともいえる一冊に仕上がっている。本書の舞台は過去。現代は全く出てこない。つまり、著者にとっては初の時代小説となる。

本書の主役は抜け忍の風太郎。伊賀の衆だ。伊賀は言うまでもなく忍びの里だ。山間の小国は忍びの技を研ぎ澄まし、動乱の戦国の世を生き延びてきた。天正伊賀の乱など周辺国からの弾圧を跳ね除け、忍びの国として生き残る。それを可能としたのは苛烈な忍びの掟。弱者は容赦なく切り捨てられ、一人前の忍びとして生き残るのは一握り。幼い頃から風太郎を縛り付けてきたのは、ただ冷徹な忍びの掟だった。そんな過酷な環境で生き残びた風太郎の周りには一癖ある連中ばかりが残っている。子供時代からともに切磋琢磨し、生き延びた仲間達をも瞬時に裏切り、相闘うことも辞さない。そこにあるのは非情な関係。

そんな日々の中、伊賀上野城を舞台とした密命を帯びた風太郎は、侵入にあたって石垣を傷つけてしまう。伊賀の殿様は、築城の名手として知られる藤堂高虎。本書では異常なほど城に偏愛をもつ人物として語られる。

城を傷つけた下手人には死あるのみ。風太郎は死をもって失敗を償わされそうになる。それを救い、死んだことにしてくれたのは、忍びを統べる采女様。

忍び失格として伊賀を放逐された風太郎は、当てもなく京にでる。太閤秀吉亡き後、風太郎が棲みつく京は徳川家の威風に服している。天下分け目の関ヶ原の戦いに勝利し、徳川家にとって残る仮想敵は大坂城だけ。大坂城の秀頼・淀殿と徳川家の間に張り詰めた緊張は、京の街にも及んでいる。そんな大坂冬の陣を間近にして、風太郎は京でその日暮らしを送る。

風太郎は、劣等感に塗れている。忍びを逐われ、根なし草となった自らの境遇に。だが、江戸と大坂の間に張り巡らされた陰謀の糸は、風太郎の人生を変えて行く。

今までの著者の作風とは違い、本書は時代小説の骨格をがっちり備えている。では、時代小説に手を染めるにあたって著者は作風を変えたのか。今までの著者の作品の底に流れていた大真面目に奇想天外を語る魅力。その魅力はうれしいことに本書でも健在だ。

本書では、瓢箪に宿る因心居士が物語のトリックスターのような役割を果たす。ところどころでひょいと風太郎の前に現れては、風太郎の生きざまを導いていく。

また、風太郎の周囲には個性的な人物達が登場し、風雲があわただしさを増す京の町に暗躍する。風太郎とともに伊賀で忍びの掟を生き抜いた忍び、黒弓、蝉、百市。さらには故太閤秀吉の奥方である北政所。京都所司代の隠密として風太郎を付け狙う残菊。産寧坂で瓢箪を商う飄六で働く芥下。さらには、大坂城にいるはずのあのお方。風太郎を取り巻く登場人物は一癖も二癖もある連中だ。

本書は全編が極上の伝奇時代小説の趣に満ちている。本書は娯楽として読んでも無論面白い。特にラストなど、大団円に相応しい派手な幕切れである。しかし、本書には娯楽小説としてで片付けるにはもったいない深みがある。

大坂の陣といえば、応仁の乱に端を発した戦国時代を締めくくる出来事として知られる。戦国の世の終わり。それは忍び達が要らなくなる時代の到来でもある。徳川の世になって、もはや忍びの技能は滅び行くしかなく、種族としても時代の流れに取り残されてゆく宿命を背負う。そんな時代の変わり目にあって、忍び一族の哀しみが書かれているのが本書だ。そもそも風太郎からして、伊賀に戻りたくても戻れない忍びの成れの果て。戦国の殺伐とした世にあっては忍びの世界では抜忍成敗。使えない忍びは死ぬ他ない。風太郎のような立場で生きていけることがすでに時代の移り変わりを表している。黒弓、蝉、百市といった忍びもまた同じ。忍び以外の職に身をやつしながら密命を帯びて行動している。

つまり、時代の変わり目にあって人はいかに生きるのか。そこに本書のテーマが見え隠れする。

そして、大坂の陣を目前にして、感慨にふけるのは忍びだけではない。

豊臣家の人々の上にも滅びの予感が濃い影を落としている。豊臣家もまた、戦乱から平和への時代の変わり目に取り残されようとする一族だ。そして本書に登場する主な豊臣方の人物は、そのことを自覚し覚悟を決めている。それは北政所のねねと秀頼公だ。それとは逆に、滅び行く豊臣家に与して戦国の仇花を散らそうとする武将たちはほぼ登場しない。大坂の陣に登場する著名な大坂方の人々は本書にはほぼ出てこない。例えば、真田幸村や毛利勝永、後藤又兵衛といった人々。大野治房は一瞬だけ登場するが、淀殿はほぼ
登場しない。

豊臣家の滅亡を予感した人々、忍びが要らざる世を感じ取った人々。本書は時代の変わり目にあって、去り行く人々の潔さ、または美学を書いた小説なのかもしれない。

その象徴こそが、本書の幕切れを飾る大坂城が倒壊する様子だ。むしろ小気味良いといっても良いほどに、戦国の世の終焉を知らしめる爆発や火災は、本書のテーマに相応しい。

‘2016/02/10-2016/02/15


華、散りゆけど 真田幸村 連戦記


来年のNHK大河ドラマは、真田幸村公を主人公とした真田丸なのだとか。大河ドラマをほとんど見ず、そもそもテレビをはじめ、マスメディアに触れることが少ない私。それでもやはり、真田日本一の兵が大河ドラマの題材になれば気になる。そんなところに、妻がしなの鉄道の「ろくもん」乗車を申込み、家族四人で贅沢な旅を楽しむ機会を与えられれば猶更である。本書を読んだのはまさにろくもん乗車の直前であり、読後の余韻も新しい間に「ろくもん」に乗車した。そのことで、本書の読後感が一層鮮やかとなった。

外装に真田の赤備えのえんじ色をまとい、真田家の家紋である真田六文銭を随所に配した「ろくもん」の車両は真田の格調を意識させるに充分。「ろくもん」に乗って長野から軽井沢へと遊んだ旅は、否応なしに私を真田家の駆けた戦国時代へと誘い込んだ。

本書の装丁は、えんじ色に六文銭を大きくあしらった「ろくもん」と同じ意匠である。いや、画一的な臙脂色に塗られた車両に比べ、本書の装丁の方が複雑な地模様が描かれている分、趣があると言える。

趣があるのは、装丁だけではない。その中身もまた、重厚で荒々しく、真田日本一の兵と称えられた公の生きざまがよく描かれていたといえよう。

本書は、真田幸村公が父昌幸公と共に蟄居させられていた高野山を出奔してから、大阪夏の陣で自刃するまでに焦点を当てている。本書で書かれているのは、云うならば公の生涯でもっとも輝いていた時期に等しい。内容もさぞや爽快な戦国活劇ものであるかのように思われる。しかしそうとばかりは云えない。無論、本書では真田丸での謀略や敵本陣への突撃をはじめ、血が滾るような痛快な戦闘シーンが豊富に活き活きと描かれている。しかし、陽の当たるシーンのみを描くだけでは、物語に陰影はだせない。それだと単なる戦国アクション巨編と堕してしまい、却って幸村公の魅力もぼやけてしまう。

敵陣深く攻めこみ、あわや徳川三百年の歴史をIFの世界に押し込めかねないところまで追い詰めたその武勇。真田丸を築き、夏の陣で徳川方を大いに撹乱した知略。幸村公がなぜ大阪冬夏の陣で真田日本一の兵(つわもの)と呼ばれたかは、蟄居中に父の昌幸公から学んだ教えを抜きに語れない。何のために兵法を学ぶのか、という虚しさの中、折れそうになる心でひたすら昌幸公から兵法の教えを聴く日々。本書はその辺りの描写をないがしろにせず、むしろじっくりと語る。雌伏の時の描写が深ければ深いほど、大阪方の誘いに迷う幸村公の苦悩に真実味が出る。誘いを受け入れ、あばら家に埋もれ掛けていた己を奮い立たせ、戦国男児の気概を滾らせる場面は、本書のクライマックスとも言える。腐らずに切磋琢磨を怠らぬ者に、天はかならず働き場所を用意する。その様な感動が読者の胸に流れ込む名場面である。

そのような雌伏の時を描くにあたり、真田六連銭(六文銭)の由来や、武田家にあって赤備えを許された真田家の誇りもきっちりと説明される。本書の中では昌幸公から幸村公へ説明する由来は、同時に読者の心にもしっかりと届く仕掛けとなっている。

さて、高野山を出てから大阪入城を果たす一行。幸村公の視点から物語は進むため、他の浪人衆、特に大野治房公の描写に偏りを持たせている。治房公は、本書では大阪にあって優柔不断な将として書かれている。真田丸の築城を願い出る幸村公と、それを拒もうとする治房公の攻防が描かれ、ますます愚将としての治房公が印象付けられていく。一方では後藤基次、毛利勝永、明石全登、木村重成、長宗我部盛親といった武で鳴らした諸侯との心の繋がりも書かれている。

そして冬の陣勃発である。真田丸に陣取って神出鬼没な活躍で徳川方を悩ませる幸村公。父から蟄居中に教わった知略を駆使するシーンは本書でも一番の盛り上がりを見せる。実は、本書においては夏の陣で徳川方に突撃して家康公に肉薄するシーンよりも、真田丸での活躍のシーンのほうが印象に残る。来年の大河ドラマ真田丸ではどのような演出を採るのであろうか。気になるところである。

そして大阪城を攻めあぐねた家康により、大砲で天守を狙うという策が当たり、戦に恐れをなした淀殿の鶴の一声で一時休戦となる。このあたり、幸村公の独白が様々に描かれるが、己の知略を乗り越えて大砲で戦を終わらせた家康公の知略に歯噛みする様子。ここらの悔しがり方が少々淡泊に描かれているのが気になった。真田丸に手ごたえを感じていただけに、逆に幸村公の失望をよく表す演出なのかもしれない。しかも、講和条件として外堀のみの埋め立てのはずが、内堀まで一気に埋め立てられる。この謀略の主は、本多正純公。家康公の懐刀として父に続いて取り立てられたこの男は、本書内では陰険な官僚としての書かれ方をしている。そして交渉の最中に幸村公にこっぴどくやり込められる役割を演じている。実際にそのような史実があったかどうかは分からないが、その書かれ方からして、本書内の一番の悪役は、大野治房公ではなく本多正純公といえよう。しかし正純はそれにめげず、とうとう内堀埋め立てを成し遂げてしまう。これが、大坂方の致命傷となる。続く夏の陣では防戦一方となった大阪方。真田丸も講和で破却された幸村公は、乾坤一擲の策として家康公の陣へと突撃する。真田日本一の兵(つわもの)と後世に語り継がれるこの時の武勇だが、もはや本書前半に描かれた高揚感はどこへやら。滅びゆく者の最期の輝きが絶妙に描写されており、読者には哀しみしか感じさせない。

講和から夏の陣に至るまで、本書の流れは実に速い。それは、前半部の蟄居を描写するにじっくりと語っていたのとは明らかに違う流れである。明らかに戦になってからの本書は、怒涛のように筋書きにそって進み過ぎたきらいがある。せめて冬の陣から夏の陣の間、もう少し知略で活動する幸村公の姿を見たかった。しかし、それも詮方ないのかもしれない。関ヶ原の戦いと同じころ戦われた上田城の戦いでは、父昌幸公の指揮下にあるだけであり、実際の本格的な指揮初陣といえば、大坂冬の陣が初めてだったのだから。

そう読むと、一気に家康の術中に嵌った大阪の冬から夏にかけて、戦術では局所で勝利しても、戦略で負けてしまった幸村公の、十分に活躍できなかった生涯の無念が本書の構成から却ってにじみ出ているようにも思える。しかし、幸村公は夏の陣での突撃によって、真田日本一の兵(つわもの)として武名を永らく残すことができた。まさに「華、散りゆけど」である。

侘び寂びの蟄居から状態から華々しい戦場へ、最後には諦念の域に達する公の後半生を描いた著者の意図がそこにあったとしたら、まさに的を射た内容になっていると思われる。大河ドラマの開始前に一読をお勧めしたい。

2014/11/5-2014/11/7