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無頼のススメ


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私は独り。一人で生まれ、独りで死んでいく。

頭で考えれば、このことは理解できるし受け入れられる。だが、孤独でいることに耐えられる人はそう多くない。
独りでいることを受け入れるのは簡単ではない。

群れなければ。仲間といなければ。
新型コロナウイルスの蔓延は、そうした風潮に待ったをかけた。
独りで家にこもることが良しとされ、群れて酒を飲むことが悪とされた。
コロナウイルスのまん延は、独りで生きる価値観を世に問うた。

孤独とは誰にも頼らないこと。つまり無頼だ。

無頼。その言葉にはあまり良いイメージがない。それは、無頼派という言葉が原因だと思われる。
かつて、無頼派と呼ばれた作家が何人もいた。その代表的な存在として挙げられるのは、太宰治と坂口安吾の二人だろう。

女性関係に奔放で、日常から酒やドラッグにおぼれる。この二人の死因は自殺と脳出血だが、実際は酒とドラッグで命を落としたようなものだ。
既存の価値観に頼らず、自分の生きたいように生きる。これが無頼派の狭い意味だろう。

本書のタイトルは、無頼のススメだ。
著者は、広い意味で無頼派として見なされているそうだ。ただ、私にとって無頼派のイメージは上に挙げた二人が体現している。正直、著者を無頼派の作家としては考えていなかった。

だが、そもそも作家とは、この現代において無頼の職業である事と言える。
ほとんどの人が組織に頼る現在、組織に頼らない生き方と言う意味では作家を無頼派と呼ぶことはありだろう。

今の世の中、組織に頼らなければやっていけない。それが常識だ。だが、本当に組織に頼ってばかりで良いのだろうか。
組織だけではない。
そもそも、既存の価値観や世の中にまかり通る常識に寄りかかって生きているだけでよいのだろうか。
著者は、本書においてそうした常識に一石を投じている。

人生の先達として、あらゆる常識に頼らず、自分の生き方を確立させる。著者が言いたいのはこれだろう。

著者はそもそも出自からしてマイノリティーだ。
在日韓国人として生を受け、厳しい広告業界、しかも新たな価値を創造しながら、売り上げにつなげる広告代理店の中で生き抜いてきた人だ。さらには作家としても大成し、ミュージシャンのプロデュースにまで幅を広げている。著者が既存の価値観に頼っていれば、これだけの実績は作れなかったはず。
そんな著者の語る内容には重みがある。

「正義なんてきちんと通らない。
正しいことの半分も人目にはふれない。
それが世の中というものだろうと私は思います。」(19ページ)

正義を振りかざすには、それが真理であるとの絶対の確信が必要。
価値観がこれほどまでに多様化している中、そして人によってそれぞれの立場や信条、視点がある中、絶対的な正義など掲げられるわけがない。

また、著者は別の章では「情報より情緒を身につけよ」という。
この言葉は、情報がこれほどまでに氾濫し、情報の真贋を見抜きにくくなった今の指針となる。他方で情緒とは、その人が生涯をかけて身に付けていくべきものだ。そして、生きざまの表れでもある。だからこそ、著者は情緒を重視する。私も全く同感だ。

ノウハウもやり方もネットからいくらでも手に入る世の中。であれば、そうした情報に一喜一憂する必要はない。ましてや振り回されるのは馬鹿らしい。
情報の中から自分が必要なものを見極め、それに没頭すること。全く同感だ。

そのためには、自分自身の時間をきちんと持ち、その中で自分が孤独であることを真に知ることだ。

著者は本書の中で無頼の流儀についても語っている。
「「酒場で騒ぐな」と言うのは、酒場で大勢で騒ぐ人は、他人とつるんでヒマつぶしをしているだけだからです。」(64ページ)

「人をびっくりさせるようなことをしてはいけない。」(65ページ)
「人前での土下座、まして号泣するなんて話にもならない。」(65ページ)

「「先頭に立つな」というのも、好んで先頭に立っている時点ですでに誰かとつるんでいるから。他人が後からついてくるかどうかなんて、どうでもいいだろう。」(65ページ)

老後の安定への望みも著者はきっぱりと拒む。年金や投資、貯蓄。それよりも物乞いせず、先に進む事を主張している。

「「私には頼るものなし、自分の正体は駄目な怠け者」」(96ページ)
そう自覚すれば他人からの視線も気にならない。そして、独立独歩の生き方を全うできる。冒頭で著者が言っている事だ。

そもそも著者は、他人に期待しない。自分にも期待しない。
人間は何をするかわからない生き物だと言い切っている。
「実際、「いい人」と呼ばれる人たちのほうが、よっぽど大きな害をなすことがあるのが世の中です。」(107ページ)

著者は死生観についても語っている。
「自分が初めて「孤」であると知った場所へと帰っていくこと。」(130ページ)

「なぜ死なないか。

それは自分はまだ戦っているからです。生きているかぎり、戦いとは「最後まで立っている」ことだから、まだ倒れない。」(131ページ)

本書は一つ一つの章が心に染みる。
若い頃はどうしても人目が気になる。体面も気にかけてしまう。
年月が過ぎ、ようやく私も経営者となった。娘たちは自立していき、自分を守るのは自分であることを知る年齢となった。

これからの人生、「孤」を自分の中で築き上げていかねばならないと思っている。

努力、才能、そして運が左右するのがそれぞれの人生。それを胸に刻み、生きていきたい。

著者は運をつかむ大切さもいう。時代と巡り合うことも運。

私の場合は技術者としてクラウドの進化の時代に巡りあえた。それに職を賭けられた運に巡り合えたと思う。
だが、著者は技術そのものについても疑いを持つ。
「技術とは、人間が信じるほどのものではなくて、実は曖昧で無責任なものではないか。
技術革新と進歩には夢があるように聞こえるけれど、技術を盲信するのは人間として堕落しているということではないか。私は、人類みんなが横並びで進んでいくような技術の追求は、いつか大きな失敗をもたらすような気がしてなりません。」(174ページ)

私もまだまだ。人間としても技術者としても未熟な存在だ。多分、ジタバタしながら一生を生き、そして最後に死ぬ。
そのためにも、何物にも頼らず生きる。その心持だけ常に持ちたいものだ。とても良い一冊だと思う。

2020/9/1-2020/9/1


波形の声


『教場』で文名を高めた著者。

短編のわずかな紙数の中に伏線を張り巡らせ、人の心の機微を描きながら、意外な結末を盛り込む手腕には驚かされた。
本書もまた、それに近い雰囲気を感じる短編集だ。

本書に収められた七つの短編の全てで、著者は人の心の暗い部分の裏を読み、冷静に描く。人の心の暗い部分とは、人の裏をかこう、人よりも優位に立とうとする人のサガだ。
そうした競争心理が寄り集まり、混沌としてしまっているのが今の社会だ。
相手に負けまい、出し抜かれまい。その思いはあちこちで軋轢を生み出す。
そもそも、人は集まればストレスを感じる生き物だ。娯楽や宗教の集まりであれば、ストレスを打ち消すだけの代償があるが、ほとんどの集まりはそうではない。
思いが異なる人々が集まった場合、本能として競争心理が生まれてしまうのかもしれない。

上に挙げた『教場』は、警察学校での閉じられた環境だった。その特殊な環境が物語を面白くしていた。
そして本書だ。本書によって、著者は一般の社会のあらゆる場面でも同じように秀逸な物語が書けることを証明したと思う。

「波形の声」
学校の子供達の関係はまさに悪意の塊。いじめが横行し、弱い子どもには先生の見えない場所でありとあらゆる嫌がらせが襲いかかる。
小学校と『教場』で舞台となった警察学校。ともに同じ「学校」の文字が含まれる。だが、その二つは全く違う。
本編に登場する生徒は、警察官の卵よりも幼い小学生たちだ。そうした小学生たちは無垢であり、高度な悪意は発揮するだけの高度な知能は発展途上だ。だが、教師の意のままにならないことは同じ。子どもたちは自由に振る舞い、大人たちを出し抜こうとする。先生たちは子どもたちを統制するためにあらゆる思惑を働かせる。
そんな中、一つの事件が起こる。先生たちはその問題をどう処理し、先生としての役割をはたすのか。

「宿敵」
高校野球のライバル同士が甲子園出場をかけて争ってから数十年。
今ではすっかり老年になった二人が、近くに住む者同士になる。かつてのライバル関係を引きずってお互いの見栄を張り合う毎日。どちらが先に運転免許証を返上し、どちらが先に車の事故を起こすのか。
家族を巻き込んだ意地の張り合いは、どのような結末にいたるのか。

本編は、ミステリーや謎解きと言うより人が持つ心の弱さを描いている。誰にも共感できるユーモアすら感じられる。
こうした物語が書ける著者の引き出しの多さが感じられる。とても面白い一編だ。

「わけありの街」
都会へ送り出した大切な息子を強盗に殺されてしまった母親。
犯人を探してほしいと何度も警察署に訴えにくるが、警察も持て余すばかり。
子供のことを思うあまり、母親は息子が住んでいた部屋を借りようとする。

一人でビラを撒き、頻繁に警察に相談に行く彼女の努力にもかかわらず、犯人は依然として見つからない。
だが、彼女がある思惑に基づいて行動していたことが、本編の最後になって明かされる。

そういう意外な動機は、盲点となって世の中のあちこちに潜んでいる。それを見つけだし、したたかに利用した彼女への驚きとともに本編は幕を閉じる。
人の心や社会のひだは、私たちの想像以上に複雑で奥が深いことを教えてくれる一編だ。

「暗闇の蚊」
モスキートの音は年齢を経過するごとに聞こえなくなると言う。あえてモスキート音を立てることで、若い人をその場から追い払う手法があるし、実際にそうした対策を打っている繁華街もあるという。
その現象に着目し、それをうまく人々の暮らしの中に悪巧みとして組み込んだのが本編だ。

獣医師の母から折に触れてペットの治療や知識を伝授され、テストされている中学生の息子。
彼が好意を持つ対象が熟女と言うのも気をてらった設定だが、その設定をうまくモスキート音に結びつけたところに本編の面白みがあると思う。

「黒白の暦」
長年の会社でのライバル関係と目されている二人の女性。今やベテランの部長と次長のポジションに就いているが、一人が顧客への対応を間違えてしまう。
会社内の微妙な人間関係の中に起きたささいな出来事が、会社の中のバランスを揺るがす。
だが、そうした中で相手を気遣うちょっとした振る舞いが明らかになり、それと同時に本編の意味合いが一度に変わる。

後味の爽やかな本編もなかなか面白い。

「準備室」
普段から、パワー・ハラスメントにとられかねない言動をまき散らしている県庁職員。
県庁から来たその職員にビクビクしている村役場の職員たち。
その関係性は、大人の中の世界だからこそかろうじて維持される。

だが、職場見学で子どもたちがやってきた時、そのバランスは不安定になる。お互いの体面を悪し様に傷つけずに、どのように大人はバランスを保とうとするのか。
仕事の建前と家庭のはざまに立つ社会人の悲哀。それを感じるのが本編だ。

「ハガニアの霧」
成功した実業家。その息子はニートで閉じこもっている。そんな息子を認めまいと辛辣なことをいう親。
そんなある日、息子が誘拐される。
その身代金として偶然にも見つかった幻の絵。この絵を犯人は誰も取り上げることができないよう、海の底に沈めるように指示する。

果たしてその絵の行方や息子の命はどうなるのか。
本書の中ではもっともミステリーらしい短編が本編だ。

‘2020/08/13-2020/08/13


憂鬱な10か月


本書はまた、奇抜な一冊だ。
私は今まで本書のような語り手に出会ったことがない。作家は数多く、今までに無数の小説が書かれてきたにもかかわらず、今までなどの小説も本書のような視点を持っていなかったのではないか。その事に思わず膝を打ちたくなった。
実に痛快だ。

本書の語り手は胎児。母の胎内にいる胎児が、意思と知能、そして該博な知識を操りながら、母の体内から聞こえる音やわずかな光をもとに、自らが生み出されようとしている世界に想いを馳せる。本書はそのような作品だ。

そんな「わたし」を守っている母、トゥルーディは、妊娠中でありながら深刻な問題を抱えている。夫であり「わたし」の種をまいてくれたジョンとは愛情も冷め、別居中だ。その代わり、母は夫の弟である粗野で教養のないクロードと付き合っている。
夜毎、性欲に任せて母の体内に侵入するクロード。その度に「わたし」はクロードの一物によって凌辱され、眠りを妨げられている。

そんな二人はあらぬ陰謀をたくらんでいる。それはジョンを亡き者にし、婚姻を解消すること。その狙いは兄の遺産を手中にすることにある。

だが、そんな二人の陰謀はジョンによって見抜かれる。ある日、家にやってきたジョンが同伴してきたのはエロディ。恋人なのか友人なのか、あいまいな関係の女性が現れたことにトゥルーディは逆上する。そして、衝動的にジョンを殺すことを決意する。

詩の出版社を経営し、自ら詩人としても活動しているジョン。詩人として二流に甘んじている上に、手の疥癬が悪化した事で自信を失っている。

「わたし」にとってはそのような頼りない父でも実の父だ。その父が殺されてしまう。そのような大ごとを知っているにもかかわらず、胎内にいる「わたし」には何の手も打てない。胎児という絶妙な語り手の立場こそが、本書のもっともユニークな点だ。

当然ながら、胎児が意思を持つことは普通、あり得ない。荒唐無稽な設定だと片付けることも可能だろう。
だが、本書の冒頭で曖昧に、そして巧みに「わたし」の意思の由来が語られている。
そもそも本書の内容にとって、そうした科学的な裏付けなど全く無意味である。
今までの小説は、あらゆるものを語り手としている。だから、胎児が語り手であっても全く問題ない。
むしろ、そうした語り手であるゆえの制約がこの小説を面白くしているのだから。

語り手の知能が冴えているにもかかわらず、大人の二人の愚かさが本書にユーモラスな味わいを加えている。
感情に揺さぶられ、いっときの欲情に身をまかせる。将来の展望など何も待たずに、彼らの世界は身の回りだけで閉じてしまっている。胎内で「わたし」がワインの銘柄や哲学の深遠な世界に思考を巡らせ、世界のあらゆる可能性に希望を見いだしているのに。二人の大人が狭い世界でジタバタしている愚かさ。
その対比が本書のユーモアを際立たせている。

胎児。これほどまでに、世界に希望を持った存在は稀有ではなかろうか。ましてや、「わたし」以外の胎児のほとんどは、丁重すぎる両親の保護を受け、壊れ物を扱うかのように大切に育てられているのだから。10カ月間。

ところが「わたし」の場合、夜ごとのクロードの侵入によってコツコツと子宮口を通じて頭を叩かれている。しかも、連夜の酒で酩酊する母の体の扇動や変化によって悪影響を受けつつある。そんな「わたし」でさえ、母を信頼し、ひと目会いたいと願い、世の中が良かれと希望を失わずにいる。

胎内で育まれた希望に比べ、現実の世の中のでたらめさと言ったら!

私たちのほとんどは、外の世界に出された後、世俗の垢にまみれ、世間の悪い風に染まっていく。
かつては胎内であれほど希望に満ちた誕生の瞬間を待っていたはずなのに。
その現実に、私たちは苦笑いを浮かべるしかない。

私も娘たちが生まれる前、胎内からのメッセージを受け取ったことがある。おなかを蹴る足の躍動として。
それは、胎内と外界をつなぐ希望のコミュニケーションであり、若い親だった私にとっては、不安と希望に満ちた誕生の兆しでしかなかった。
だが、よく考え直すと、実はあの足蹴には深い娘の意思がこもっていたのではなかったか。

そして、私たちは誕生だけでなく、その前の受胎や胎内で育まれる生命の奇跡に対し、世俗のイベントの一つとして冷淡に対応していないか。
いや、その当時は確かにその奇跡におののいていた。だが、娘が子を産める年まで育った今、その奇跡の本質を忘れてはいないか。
本書の卓抜な視点と語り手の意思からはそのような気づきが得られる。

本書のクライマックスでは誕生の瞬間が描かれる。不慣れな男女が処置を行う。
その生々しいシーンの描写は、かつて著者が得意としていた作風をほうふつとさせる。だが、グロテスクさが優っていた当時の作品に比べ、本書の誕生シーンには無限の優しさと、世界の美しさが感じられる。

トゥルーディとクロードのたくらみの行方はどうなっていくのか。壮大な喜劇と悲劇の要素を孕みながら、本書はクライマックスへと進む。

親子三人の運命にもかかわらず、「わたし」が初めて母の顔を見たシーンは、本書の肝である。世界は赤子にとってかくも美しく、そしてかくも残酷なものなのだ。

著者の作品はほぼ読んでいるし、本書を読む数カ月前にもTwitter上で著者のファンの方と交流したばかり。
本書のようなユニークで面白く、気づきにもなる作品を前にすると、これからの著者の作品も楽しみでならない。
本書はお薦めだ。

‘2020/07/03-2020/07/10


未来の年表


本書は発売当時に話題になっていた。警世の書として。

本書の内容を一言で表すと少子化が続くわが国の未来を予言した書だ。このまま人口減少が続くと、わが国の社会や暮らしにどのような影響が表れるかを記述している。
その内容は人々に衝撃を与えた。

本書が出版されたのは2017年6月。おそらく2017年の頭から本書の執筆は開始されたのだろう。そのため、本書の年表は2016年から始まっている。
2016年はわが国の新生児の出生数が100万人を切った年だ。
著者はここで、真に憂慮すべきは出生数が100万人を下回ったことではなく、今後も出生数の減少傾向が止まらないことであると説く。
このまま机上で計算していくと、西暦3000年のわが国の人口は2000人になってしまう、というのだ。2000人といえば、私がかつて通っていた小学校の生徒数ぐらいの数だ。

本書は2016年から未来の各年をたどってゆく。顕著な影響が生じる21の年を取り上げ、その年に人口減少社会が何をもたらしていくのかを予測している。そこで書かれる予測はまさに戦慄すべきものだ。
その全てを紹介することはしない。だが、いくつか例を挙げてみたい。

例えば2019年。IT技術者の不足が取り上げられている。本稿を書いているのは2021年だが、今の時点ですでにIT技術者の不足は弊社のような零細企業にも影響を与えている。

2020年。女性の半分が50代に突入するとある。これが何を意味するのかといえば、子を産める女性の絶対数が不足しているので、いくら出生率が改善しても出生数が容易に増えないことだ。
わが国はかつて「産めよ増やせよ」というスローガンとともに多産社会に突き進んだ。だが、その背景には太平洋戦争という未曽有の事件があった。今さら、その頃のような多産社会には戻れないと著者も述べている。

2021年。団塊ジュニア世代が五十代に突入し、介護離職が増え始めるとある。私も団塊ジュニアの世代であり、2023年には五十代に突入する予定だ。介護問題も人ごとではない。

2042年。著者は団塊世代が75歳以上になる2025年より、2042年をわが国最大の危機と予想する。団塊ジュニア世代が70歳になり、高齢者人口がピークを迎えるのがこの年だからだ。私も生きていれば2042年は69歳になっている。本書が警告する未来は人ごとではない。

帯に表示されているほかの年を挙げてみると以下の通りだ。
2024年 全国民の3人に1人が65歳以上
2027年 輸血用血液が不足
2033年 3戸に1戸が空き家に
2039年 火葬場が不足
2040年 自治体の半数が消滅

私はもともと、今のわが国で主流とされる働き方のままでは少子化は免れないと思っていた。

朝早くから家を出て、帰宅は夜中。誰もが日々を一生懸命に生きている。
だが、なんのために働いているのかを考えた時、皆さんが抱える根拠は脆弱ではないだろうか。
働く直接の理由は、組織が求めるからだ。役所や企業が仕事を求めるからその仕事をこなす。その次の理由は、社会を回すためだろうか。やりがい、生きがいがその次に来る。
そうやって組織が求める論理に従って働いているうちに、次の世代を育てることを怠っていた。それが今のわが国だ。
仮に働く目的が組織や社会の観点から見ると正しいとしよう。だが、その正しさは、組織や社会があってこそ。なくなってしまっては元も子もない。そもそも働く場所も意味も失われてしまう。

私たちは一生懸命働くあまり、子育てに割く余力をなくしてしまった。子を作ったのはよいが、子供の成長を見る暇もなく仕事に忙殺される毎日。その結果が今の少子化につながっている。

子育ては全て妻に。高度成長期であればそれも成り立っていただろう。
高度成長期とは、人口増加と技術力の向上が相乗効果を生み、世界史上でも例のない速度でわが国が成長を遂げた時期だ。だが、その成功体験にからめとられているうちに、今やわが国は世界史上でも例を見ない速度で人口が減っていく国になろうとしている。
いくら右寄りの人が国防を叫ぼうにも、そもそも人がいない国を防ぐ意味などない。それを防ぐには、国外から移民を募るしかない。やがてそうした移民が主流になり、いつの間にか他の国に乗っ取られていることもありうる。現にそれは進行している。
本書が出版された後に世界はコロナウィルスの災厄によって姿を変えた。だが、その後でもわが国の少子化の事実はむしろ深刻化している。世界各国に比べ、わが国の死者は驚くほど少なかったからだ。

著者は本書の第二部で、20世紀型の成功体験と決別し、人口減少を前提とした国家の再構築が必要だと訴える。
再構築にあたって挙げられる施策として、以下の四つがある。移民の受け入れ、AIの導入、女性や高齢者の活用。だが、著者はそれら四つだけだと効果が薄いと述べている。
その代わりに著者が提言するのは「戦略的に縮む」ことだ。
少子化を防ぐことが不可能である以上、今のわが国の形を維持したままでこれからも国際社会で国として認められるためには、国をコンパクトにしていくことが必要だと著者は訴える。その上で10の提言を本書に載せている。

ここで挙げられている10の提言は、今の私たちの今後を左右することだろう。
1.「高齢者」をなくす
2.24時間社会からの脱却
3.非居住エリアを明確化
4.都道府県を飛び地合併
5.国際分業の徹底
6.「匠の技」を活用
7.国費学生制度で人材育成
8.中高年の地方移住促進
9.セカンド市民制度を創設
10.第3子以降に1000万円給付

これらは独創的な意見だと思う。わが国がこれらの提言を採用するかどうかも不透明だ。
だが、これぐらいやらなければもう国が立ちいかなくなる瀬戸際に来ている。
そのことを認め、早急に動いていかねばなるまい。
今の政治がどこまで未来に対して危機感を抱いているかは甚だ疑問だが。

‘2020/05/24-2020/05/25


煙草おもしろ意外史


なぜ本書を読もうと思ったのか。正直あまり覚えていない。
ふと積ん読の山の中からタイトルに目を留めたのだろう。普段から私がタバコを含む嗜好品の歴史について関心を持ち続けていたからかもしれない。

本書はタイトルだけで判断すると、お気軽に読めるタバコの紹介本に思える。だが、それは間違いだ。
本書が取り上げているのはタバコの歴史だけはない。もちろん、タバコの世界的な伝播や、流行の様子には触れている。だが、本書はその様子から人や社会を描く。さらに本書の追究は、嗜好品とは何かという範囲にまで及んでいる。人が生まれてから成長し、社会に受け入れられる中で嗜好品が果たす役割など、民俗学、社会学の観点からも本書は読み応えがある。
正直、本書はタイトルの付け方がよくない。そのために多くの読者を逃している気がする。それほど本書の内容は充実している。

今、日常生活でタバコに触れる機会はめっきり減ってしまった。
公共の場は禁煙。それが当たり前になり、歩きタバコなどはめったに見かけない。肩身が狭そうに街の喫煙所に集まる喫煙者たち。副流煙がモクモクとあたりを煙らせる中、喫煙所のそばを足早に通り過ぎる非喫煙者たち。その中に私もいる。

私はタバコを吸わない。ただし18歳の頃、早速吸い始めた高校時代の同級生に吸わされそうになったことがある。その時、反発してキレそうになり、それ以来、紙巻きタバコは一度も吸ったことがない。
ただ、水タバコと葉巻はそれぞれ一回ずつ吸ったことがある。30代から40代にかけてのことだ。美味しかったことを覚えている。

なぜ私がタバコに手を出さなかったか。それは、喫煙者が迫害、もしくは隔離される未来が目に見えていたからだ。
当時から束縛されるのが嫌いだった私は、タバコを吸うと行動範囲が制限されると感じ、決して吸うまいと決めた。

だが、上で水タバコや葉巻を試したことがあると書いた通り、私は嗜好品としてのタバコにそれほど嫌悪感を持っていない。もちろん街を歩いていて煙が流れてくると避けるし、喫煙部屋に誘われると苦痛でしかない。
他の三つの嗜好品と違い、タバコだけは副流煙が周りの非喫煙者に不快な思いを与える。だから、専用の場所で吸えば良いのだ。酒も同じ嗜好品だが、酔っ払って暴れない限りは他の人に迷惑をかけない。せいぜい酒臭いと思われる程度だ。
だから、喫煙が可能なバーはもっと増えるべきだし、喫煙者が集える場所がもっと増えても良いと思っている。その中で好きなだけ吸えば済む話だと思う。要するに公共の場で吸わなければいいのだ。

私は酒やコーヒー、お茶をよく飲む。これらは嗜好品だ。タバコを加えて四大嗜好品というらしい。嗜好品が好きな立場から物申すと、タバコだけが迫害される現状は少々喫煙者に気の毒とさえ思っている。
タバコだけを迫害する前に、他に手を入れるべき悪癖は世の中に多いと思っている。
タバコ文化がどんどん迫害され、衰退している。
それは私にとって決して歓迎すべき事態ではない。タバコを吸わないからと悠長に構えていると、他の趣味嗜好にまで迫害の手が及ぶかもしれない。
だからこそ私は、本書を手に取ろうと思ったのかもしれない。

シャーマンが呪術で使う聖なる草。薬にもなるし、心を不思議な作用に誘う。トランス状態に人をいざなうためにタバコは用いられ、病んだ精神を癒やす効果もあるという。
アンデス高地が原産のタバコが、アステカ・インカ帝国を征服したスペイン人によってヨーロッパにもたらされ、それが瞬く間に世界で広まっていった。

イギリスの国王や、日本の徳川秀忠のようにタバコを嫌い、迫害した君主もいる。だが、人々がタバコの魅力を忘れなかった。
嗅ぎタバコや葉巻、パイプ、噛みタバコ。さまざまな派生商品とともにマナーやエチケットが生まれ、世界を席巻した。

産業革命によって大きく産業構造を変えた世界。その中で人々は都会に集い、ひしめきあって暮らした。技術を使いこなすことを求められ、最新の情報を覚え、合理的な動きを強いられる。情緒面よりも理性面が重視される毎日。
そのような脳が重んじられる時代にあって、脳を癒やすための手段として、嗜好品、つまり酒や茶やコーヒーやタバコはうってつけだった。

私が開発現場にいた頃、タバコ休憩と称して頻繁に席をはずす人をよく見かけた。
私はタバコを吸わない。だが、よく散歩と称して歩き回り、それによってプログラミングの行き詰まりを打破するアイデアを得ていた。
同じように、タバコ休憩も安易に無駄な時間と糾弾するのではなく、そうした間を取ることによって新たなアイデアを得ることだってある。タバコを吸うことで脳が活性化されるのであれば、それこそまさにタバコの効能だろう。

だが、近代になりタバコが若年層にも行き渡るようになり、健康と喫煙の問題が取り沙汰されるようになった。

ここからが本書の核となる部分だ。
ここで断っておくと、本書の著者は日本嗜好品アカデミー編となっている。その立場は、嗜好品をよしとし、大人のたしなみを重んじて活動する団体のようだ。
つまり、タバコに対して好意的に捉えている。むしろ、タバコを排除する動きには反対していることが本書から読み取れる。
例えば、健康の基準が時代とともに変化していることを指摘し、その基準を社会が一律に決めることに反対している。
また、物質が幅を聞かせる世の中にあって、人々の心が空洞化していることを取り上げ、タバコを悪と糾弾することが社会の正義にかなっているという風潮に反対する。乗っかりやすいキャッチフレーズが空洞化した心に受け入れられたのが、タバコへの迫害ではないかと喝破する。

そもそも昔はタバコも大人への通過儀礼として認められていた。それが、大人と子供の境目が曖昧になってしまった。それがタバコから文化的な意味を奪い、単なる健康に悪い嗜好品と認識されていまった現状も指摘している。
この部分では、河合隼雄氏、小此木啓吾氏、岸田秀氏といったわが国の著名な精神分析家の分析が頻繁に引用される。民俗学、社会学、精神分析理論、心理学、民法などを援用し、現代の文明社会の歪みと、その中で生きていかねばならない人の困難を提起する。
本来なら、生きる困難を和らげるのがタバコの役割だった。ところが、和らげる手段すら排除されようとしている。
人は死ぬ。生まれた瞬間に死ぬ運命が決まっている。その恐れは人類の誰もが持っている。それを和らげる存在が必要だからこそ、人は嗜好品に手を出す。それは責められる類のものではないだろう。人が進化し、自我を持つようになってしまった以上は。

「本能の壊れた」人間は、自然に即して生きることが出来なくなったため、さまざまな装置や仕組みを考案し、それらを使って生きる道を確実なものにしようと努力するようになった。(190ページ)

つまり、古来シャーマンがタバコを用いて人に癒やしを与えていた機能。それを今、文明社会から奪ってしまってよいのだろうか。編者はそう訴えたいのだろう。

本書でも述べられているが、嗜好品を闇雲に排除するのではなく、節度を持った喫し方を啓蒙すれば良いはず。喫煙者が節度を持って決まった場所で吸い、それが守られていればタバコが絶滅させられるいわれはないはずだ。
それこそ、私が前々から考えていたことだ。

ただし、本書を読んだ後に世界はコロナウィルスによって蹂躙された。コロナウィルスは肺を攻撃する。もし、喫煙によって肺が弱っていれば、肺炎になって致死率は上がる。これは、タバコにとっては致命的なことだ。
タバコが生き残るとすれば、まず禁断症状を薄めつつ、精神を安定させるように改良する必要がある。さらに、肺への影響も最小限にしなければ。そうした改良がないと、タバコはますます絶滅へと追いやられていく。
むやみやたらにタバコを排除すればそれで済むはずはない。もし今のように能率ばかりを求めるのであれば、その代替となる嗜好品には気を配る必要がないだろうか。そうでなければストレスが増すばかりの世に暮らす人々の精神的な健康が損なわれる気がする。
ストレスフルな世の中にあって、タバコなどの嗜好品が絶滅した世の中に魅力的な人間はいるのだろうか。いない気がする。

かつて、作家の筒井康隆氏が短編『最後の喫煙者』を世に問うた。そこで書かれたような世の中にはなってほしくない。

本書は隠れた名書だと思う。

‘2020/04/12-2020/04/18


未成年


好きな海外の作家を五人挙げろと言われれば、私はそのうちの一人に著者の名を挙げる。本邦で翻訳された著者の作品はほとんど読んでいるはず。だが、私が読読ブログで著者を取り上げるのは実は初めて。というのも本作より前に出版された著者の作品は、本ブログを始める前に読んでしまっていたからだ。ちなみに、あとの四人はStephen King、John Irving、Gabriel García Márquez、Mario Vargas Llosaだ。

久々に読んだ著者の作品は、これぞ小説の見本といえる読み応えがあった。簡潔な文体でありながら内容は深く、そして展開も飽きさせない。

まず文体。簡潔でありながら、描写は怠りない。主人公のフィオーナ・メイの視点だけでなく、彼女の心のうちもきっちりと描く。ただ、心理を描くことは大切だが、凝りすぎるのもよくないと思う。特に今の文学は、心理に深入りした描写が主流ではないと思う。しかし、時には心理を描くことも必要だ。特に本書の場合はそう思う。なぜならフィオーナの職業は高等法院の裁判官だから。

本書は詳しくフィオーナの心の動きを描く。心理に深入りしているようであるが、さほど気にならなかった。むしろ必要な描写だと思う。言うまでもなく、裁判官とは人を裁く公正さが求められる。天秤のイメージでもおなじみの職業だ。原告と被告。弁護人と検事。真実と嘘。裁判官には法の深い理解と経験、そして絶妙な公平さが不可欠だ。法的には慎重な判断で定評を得た彼女。だが、私生活では判断を慎重にしすぎるあまり、ジャックとの結婚生活で子どもを作る機会を逃してしまう。

子供を持つことを犠牲にしてフィオーナが得た経験。つまり司法の徒としての経験もまた得難いものだ。例えばフィオーナが判決を下した事件はとても複雑で難しい。たとえばシャム双生児のように融合した双子のどちらを救うかの判断。宗教と倫理の間で慎重な判断が求められる中、彼女の判断は法的に適法であり、かつ倫理的にも人を納得させるものだ。著者はそれらのいきさつを冗長でなく簡潔に、それでいて納得させて描く。お見事だ。

そして本書のメインプロットだ。この内容がとても深い。シャム双生児の一件はフィオーナの賢明さを紹介するためのエピソードに過ぎない。だが、エホバの証人の信仰を法的にどうやって解釈するか。その問題はさらに深い。フィオーナが判断を下す対象は、未成年のアダム・ヘンリ。敬虔なエホバの証人の信者である両親のもと生まれた彼は、自らの信仰のもと輸血を拒否し、死を選ぶ。ただ、問題なのはその判断は未成年ゆえに法的には無効だ。彼が成人を迎えるまでには2,3カ月の時間が必要だ。そのため、信仰のもとに死を選ぶ彼の判断よりも両親の判断が優先される。さらに、医師の立場では両親の判断を差し置いても優先すべきはアダムの命だ。エホバの証人といえばその宗教的信念の強さは日本の私たちもよく知っている。そして信教の自由は保証されることが必須だ。少年の生命と信教の自由をどう判断するか。その判断はフィオーナだけでなく、読者の私たちにも信仰と法解釈の問題として迫ってくる。

現代とは、複雑な利害が絡み合う時代だ。それをジャッジする裁判官の苦労はとうてい素人には計り知れない。中でも法は社会の基盤であり最後の砦だといえる。その一方で、個人の基盤として最後の砦は信仰だ。その感覚は日本よりも欧米の方が切実なのだろう。そのような公と私の対立を、著者は簡潔な文体で、しかも説得力ある描写を交えて読者に提示する。著者は問題をよく理解し、深くかみ砕いて文章に抽出している。なので、私のような日本人にもその問題の奥深さとエッセンスがしっくりと染み込んでくる。ただ、理解できるが結論はつけられないだけで。だからこそ、フィオーナの下す判決が何なのかに興味を持って読み進められるのだ。内容に深みを持ちながら、読者を置き去りにせずしっかりと読ませる。しかも面白く読ませる。それはただ事ではない。それが本書が傑作である理由だ。

本書はまず、フィオーナとジャックの何十年目かの結婚生活に亀裂が入るところから始まる。そんなスリリングな出来事に動揺しながら、フィオーナはシャム双生児の件やその他の裁判の一切を遅滞なく進めていく。そしてジャックは愛人のもとへと行ってしまう。裁判官としての務めを全うしながら、一人きりの生活を過ごすフィオーナ。そんなところにアダム・ヘンリの審理を抱え込んでしまう。アダム・ヘンリの審理に時間の余裕はなく、審理を中断してフィオーナ自身が入院中のアダム・ヘンリのもとへと赴く。

親子以上に、場合によっては孫と祖母ほどに年の離れた二人。アダムはフィオーナの訪問によって心を動かされる。法的な立場を守りながら、法の型にはまらないフィオーナの判断にいたる心の動きが丹念につづられてゆく。実に読み応えのあるシーンだ。生命は信仰にまつわる尊厳より優先されるという彼女の判決と、その判決に至る文章。それは本書の最初のクライマックスを作り上げる。そのシーンは法に携わる人々がどのような思いで日々の職務を全うし、法を解釈しているのかを私たちのような一般人が知る上でとても参考になるはずだ。全ての裁判が公正・無私に行われているのかどうかはわからない。でも、多くの判決はフィオーナのような厳密かつ公正に検討された判断のもと、くだされているのではないだろうか。

しかし、本書はまだ終わらない。裁判は次々と続き、フィオーナの人生にはいろいろな起伏がやってくる。ジャックとの結婚生活。裁判官としての日々。そしてアダムとのかかわり。本稿を読んでくださった方の興を削ぐことになるのでこれ以上の展開は書かない。だが、本書の余韻は、とても深く永く響いたことは書いておかねば。とくに私の場合は親だ。しかもまだ未成年の娘の。親としてこれから大人になる子供をどう導くのか。どこまでが過保護でどこからが放任なのか。その判断はとても難しい。そして法の最後の判定者であるフィオーナであっても、完全な過ちなく下せる判断ではないのだ。

思えば、生きるということは絶え間ない判断、そして判決の繰り返しなのだろう。仕事として判決を下すフィオーナだけでない。私たち、一般人にしても、毎日が判決と判断を迫られつつ生きている。そして、そのことに責任を担わされているのが大人だと思う。つまり、本書のタイトルである『未成年』とは、その判断の重さが段違いに変わる境目でもあるのだ。最近でこそ成人式とはやんちゃな新成人の自己主張の場になりつつある。そんな中、成年の年齢も18歳に引き下げられるとか。しかし他の民族では通過儀礼をへなければ成人として認められなかったという。我が国にも古くから元服という儀式があった。それだけに成人になることは、ある儀式を通過したものだけが許された境目でもあるのだ。成人になって初めてその判断は尊重され、大人として認められる。

本書を読むと、私たちは成人の意味についてなにか取り返しのつかない見当違いをしつつあるのでは。本書を読んでそんな印象を受けた。

傑作である。

‘2018/01/28-2018/02/05


アリス殺し


「このミステリーがすごい」で本書が上位に入っていたこともあって久々に著者の本をよんだ。

夢の世界に起きた殺人が現実の世界にも影響を与える設定。これはSFでは有りそうな設定だが、ミステリーでは冒険だ。なぜ設定のような現象が起きるのか。そんな整合性は度外視される。ただつながっているからつながっている。そんな突き抜けた感じが本書の全体に漂っている。

そういうことが許されるのも、アリスの不思議な世界をモチーフとした夢の世界という本書の設定がユニークだからだろう。その設定だけで、不条理なことも何となく丸く収まってしまうから面白い。夢の世界とこちらの世界。世界は全く違うのに、人物が一対一になっているのが本書のミソだ。自分のもう一人の分身が夢の世界にいる。そのことに気付く人と気づかない人。それは鋭敏な感覚、または夢の世界を克明に覚えている人物だけが気づく。夢の中では己の分身は人間ではなく別の物に化けていることもある。三月ウサギとか、ハートの女王とか。夢の中に自分の分身がいることに気づく登場人物とそうでない人物によって現実の世界の人物の行動が変わることにも注目だ。

違うものに化けている。つまり、夢と現実が人の意識でリンクしている。だがそれが誰が誰ことに気づいている者たちの間ですら、現実の誰が夢の誰か、夢の誰が現実で誰か、お互いにわからない。そしてそれは読者も同じ。それが本書のキモだ。読者は誰が誰に対応しているのか、さんざん著者のミスディレクションに振り回されることになる。私もやられた口だ。

夢の世界、つまりアリスの世界には奇妙キテレツな言動の主がわんさか登場する。彼らが発する不条理で混沌とした言葉がさらに読者を惑わす。現実の世界で起こった事件が、夢の世界では違う趣の事件に対応する。犯人と探偵役が、どういう関係になっているか、果たしてこのアンフェアにすれすれのミスディレクションに惑わされない読者はいるのだろうか。本書の帯にもこうかかれている。「正解不可能」と。

本書は、犯人が判明したあとの展開も面白い。その不思議の国の不条理な世界だからこそありのグロテスクさ。著者の作品は以前にも読んだことがある。その時にもグロテスクな世界観を好む作家だなあと思った記憶がある。不条理な夢の世界では、人間の世界の規範に当てはめるとドギツイこともたくさん登場する。犯人に対するお仕置きのシーンのグロテスクさなどは著者の本領が発揮されているのではないか。そうした描写がいとも簡単に書き込めるのも、著者が仕掛けた設定の妙にあることは言うまでもない。しかも、最後にはさらなる仕掛けが読者を別の世界に突き落とす。これもまた、たまらない。

本書のようなタイプの小説は、現実を現実の外の視点で、つまりメタ現実として眺めることを読者に求める。それは認識の原点にまで関わることだ。そもそも私たちが生きるこの世界の法則が正しいなど、誰が決めたのだろうか。誰にも強いられたわけではない。ただ子どものころからの教育としつけのたまものに過ぎない。周りがその認識を正しいと信じているから、それに従ったほうが角を立てずに生きていけますよ、という約束事として私たちが教え込まれてきただけの話だ。優れた芸術とは、積もりに積もった既成の観念を揺さぶることに存在価値がある。

存在価値を揺さぶることにかけて、本書のアプローチはとても面白い。童話の世界の中から読者に挑んでくる。不思議の国のアリス、という有名な作品をモチーフに取り上げることで、本書の世界観は奇天烈でありながらも、どこか読者に懐かしさを感じさせる。つまり、不条理でありながら、読者に拒否感を与えないのだ。これはとても賢いアプローチだと思う。

童話とはそもそも不条理な世界ではなく、幼い頃の私たちには驚きと冒険に満ちた物語だったはず。幼い無垢な心には、童話とは不条理どころか心のよりどころとだったのではないか。大人になるまでに私たちは、童話とは作りごとに満ち、現実とは程遠いおめでたい世界との常識を植えつけられる。汚れ、くすんだ大人の心には童話の世界がはらむ「わくわく感」は決して届かない。

だがそれは、大人になる過程で私たちが世の常識をさんざん吸い込まされ、世のあり方に従うことが生きる最適な道と学ばされてきただけのこと。童話とは、私たちの常識を打ち破るはずの世界とは、もっと私たちの心の垣根を乗りこえる何かを秘めているのではないか。常識という鎧をまとうことで、私たちの心は守られているようで、その実は大変な鎖が巻き付けられてしまったのではないか。本書を読んでそんなことを思う。本書のアプローチは、私たちに童話に込められた違う世界を見せてくれる。それは夢と魔法の国が演出するテーマパークではなく、心で読み込んで感じるものだ。目や耳や舌ではなく、もっと違う側面。たとえば心の認識のあり方において。フロイトがかつて提唱したイド、ユングがかつて説いた集合的無意識。なんでもいい。それは私たちの中で凝り固まった自我の彼方で目覚めを待っているはずなのだ。

本書は無意識や認識の壁を破るための方法を、推理小説という形式で私たちの前に提示する。謎解きというプロセスを過ぎることによって、大人でありながら論理に沿った楽しみも味わえる。なおかつ本書は、結末で童話の世界の不条理性を示す。私たちは不条理性が提示されることで、かえって子供の頃にはなんの疑いも抱かずに不条理を受け入れていたことを思い出す。謎解きが間に挟まることで、論理と常識の壁を乗り越え、不条理が不条理とは限らないことを私たちに教えてくれる。

なかなか味わえないテイストを持つ本書だが、ミステリーファンは一度読んでおくことをお勧めしたい。もっとも、私も著者の作品はぜんぜん読めていない。いくつも出版されている著者の作品で読むべきものは多いはず。これを機会にもっともっと読まねばと思った。

‘2017/10/27-2017/10/30


しろばんば


本書は著者の幼少期が取り上げられている。いわゆる自伝だ。著者は伊豆半島の中央部、天城湯ヶ島で幼少期を過ごしたという。21世紀になった今も、天城湯ケ島は山に囲まれ、緑がまぶしい。百年前はなおのこと、自然の豊かな地だったはずだ。その環境は著者の分身である洪作少年に健やかな影響を与えたはず。本書の読後感をさわやかにする洪作少年のみずみずしく素朴な感性。それが天城湯ヶ島によって培われたことがよく分かる。

小学校二年生から六年生までの四年間。それは人の一生を形作る重要な時期だ。伊豆の山奥で洪作少年の感性は養われ、人として成長して行く。洪作の周囲にいる大人たちは、素朴ではあるが単純ではない。悪口も陰口も言うし、いさかいもある。子どもの目から見て、どうだろう、と思う大人げない姿を見せることもある。大人たちは、少年には決して見せない事情を抱えながら、山奥でせっせと人生を費やしている。

一方で、子供には子供の世界がある。山あいの温泉宿、天城湯ヶ島は大人の目から見れば狭いかもしれない。だが、子供の目には広い。子供の視点から見た視野。十分に広いと思っていた世界が、成長して行くとともにさらに広がってゆく。本書を読んでうならされるのは、洪作の成長と視野の広がりが、見事に結びつけられ、描かれていることだ。

洪作の視野は土蔵に射し込む光で始まる。おぬいばあさんと二人、離れの土蔵に住まう洪作。洪作は本家の跡取りとしてゆくゆくは家を背負うことを期待されている。だが、洪作は母屋では寝起きしない。なぜなら洪作は祖父の妾だったおぬいばあさんに懐いているからだ。洪作の父が豊橋の連隊に勤務しているため、母と妹も豊橋で暮らしている。おぬいばあさんも洪作をかわいがり、手元に置こうとする。そんなわけで、洪作は母屋に住む祖父母や叔母のさき子とではなく、おぬいばあさんと暮らす。洪作の日々は閉ざされた土蔵とともにある。

本書の『しろばんば』という題は、白く浮遊する羽虫のことだ。しろばんばを追いかけ、遊ぶ洪作たち。家の周囲の世界だけで完結する日々。外で遊び、学校に通い、土蔵で暮らす。そんな洪作の世界にも少しずついろいろな出来事が混じってくる。母の妹のさき子とは温泉に通い、汗を流す。父の兄であり、学校の校長である石守森之進宅に呼ばれた時は、見知らぬ場に気後れし、長い距離を家まで逃げ帰ってしまう。おぬいばあさんとは馬車や軽便鉄道に乗って両親のいる豊橋に行く。その途中では、沼津に住む親族たちに会う。

話が進むにつれ、洪作の見聞する場所は広がってゆく。人間としても経験を積んでゆく。

低学年の頃、一緒に風呂に入っていた叔母のさき子が、代用教員として洪作の学校で教壇に立つ。洪作にとって身近な日常が、取り澄ました学校につながってゆく。校長というだけで父の兄のもとから逃げていた洪作も、もはや逃げられなくなる。さきこともお風呂に入れなくなる。一気に大人の雰囲気を帯びたさき子は、別の教師との仲をうわさされる。そしてそれは事実になり、妊娠して学校を辞める。そして、結婚して相手の赴任地へ移ってしまう。それだけでなく、その地で結核にかかり命を落とす。さき子は母や妹と離れて暮らす洪作にとって身近な異性だった。そんなさき子があっという間に遠ざかり、遠くへ去ってしまう。

さき子がいなくなった後、洪作に異性を意識させるのは、帝室林野局出張所長の娘として転校して来たあき子だ。あき子は洪作を動揺させる。その動揺は、少年らしい性の自覚の先駆けであり、洪作の成長にとって大きな一歩となる。

おぬい婆さんとの二人暮らしはなおも続く。が、洪作が成長するにつれ、おぬい婆さんに老いが忍び寄る。おぬい婆さんは下田の出身。そこで、老いを感じたおぬい婆さんは故郷の景色を見たいといい、洪作はついて行く。そこで洪作が見たのは、故郷に身寄りも知り合いもなくし、なすすべもないおぬい婆さんの姿だ。自分には知り合いや知識が広がってゆくのに、老いてゆくおぬい婆さんからは知り合いも知識も奪われてゆく。その残酷な対照は、洪作にも読者にも人生のはかなさ、人の一生の移ろいやすさを教えてくれる。

洪作に人生の何たるかを教えてくれるのはおぬい婆さんだけではない。洪作の家庭教師に雇われた犬飼もそう。教師の仕事が引けた後に洪作に勉強を教えてくれる犬飼は、洪作に親身になって勉強を教えてくれる。だが、犬飼のストイックな気性は、自らの精神を追い詰めて行き、変調をきたしてしまう。気性が強い洪作の母の七重の言動も洪作に人生の複雑さを示すのに十分だ。田舎だからといって朴訥で善良な人だけではない。人によって起伏を持ち、個性をもつ大人たちの生き方は、洪作に人生のなんたるかを指し示す。それは洪作の精神を形作ってゆく。

本書は著者の自伝としてだけでなく、少年の成長を描いた作品としてd語り継がれていくに違いない。そして百年前の伊豆の山間部の様子がどうだったか、という記録として読んでも面白い。

私は伊豆半島に若干の縁を持っている。数年前まで妻の祖父母が所有していた別荘が函南にあり、よく訪れては泊まっていた。ここを拠点に天城や戸田や修善寺や富士や沼津などを訪れたのも懐かしい。その家を処分して数年たち、伊豆のポータルサイトの仕事も手がけることになった。再び伊豆には縁が深まっている。また、機会があれば湯ヶ島温泉をゆっくりと歩き、著者の足跡をたどりたいと思っている。

’2017/10/04-2017/10/08


民王


政治をエンターテインメントとして扱う手法はありだ。私はそう思う。

政治とは厳粛なまつりごと。今や政治にそんな幻想を抱く大人はいないはず。虚飾はひっぺがされつつある。政治とは普通のビジネスと同じような手続きに過ぎないこと。国民の多くはそのことに気づいてしまったのが、今の政治不信につながっている。かつてのように問題発生、立案、審議、議決、施行に至るまでの一連の手続きが国民に先んじている間はよかった。しかし今は技術革新が急速に進んでいる。政治の営みは瞬時に国民へ知らされ、国民の批判にさらされる。政治の時間が国民の時間に追いつかれたことが今の政治不信を招いている。リアルタイムに情報を伝えるスピードが意思決定のための速度を大幅にしのいでしまったのだ。今までは密室の中で決められば事足りた政策の決定にも透明さが求められる。かろうじて体裁が保てていた国会や各委員会での論議もしょせんは演技。そんな認識が国民にいき渡り、白けて見られているのが現状だ。

そんな状況を本書は笑い飛ばす。エンターテインメントとして政治を扱うことによって。例えば本書のように現職首相とその息子の人格が入れ替わってしまうという荒唐無稽な設定。これなどエンターテインメント以外の何物でもない。

本書に登場する政治家からは威厳すら剥奪されている。総理の武藤泰山だけでなく狩屋官房長官からも、野党党首の蔵本からも。彼らからは気の毒なほどカリスマ性が失われている。本書で描かれる政治家とはコミカルな上にコミカルだ。普通の社会人よりも下に下に描かれる。政治家だって普通の人。普通のビジネスマンにおかしみがあるように、政治家にもおかしみがある。

総理の息子である翔が、総理の姿で見る政治の世界。それは今までの学生の日々とも変わらない。自己主張を都合とコネで押し通すことがまかり通る世界。就職試験を控えているのにテキトーに遊んでいた翔の眼には、政治の世界が理想をうしなった大人の醜い縄張り争いに映る。そんな理想に燃える若者、翔が言い放つ論は政治の世界の約束事をぶち破る。若気の至りが政治の世界に新風を吹き入れる。それが現職総理の口からほとばしるのだからなおさら。原稿の漢字が読めないと軽んじられようと、翔の正論は政治のご都合主義を撃つ。

一方で、息子の姿で就職面接に望む泰山にも姿が入れ替わったことはいい機会となる。それは普段と違う視点で世間を見る機会が得られたこと。今まで総理の立場では見えていなかった、一般企業の利益を追うだけの姿勢。それは泰山に為政者としての自覚を強烈に促す。政治家の日々が、いかに党利党略に絡みとられ、政治家としての理想を喪いつつあったのか。それは自らのあり方への猛省を泰山の心に産む。

そして、大人の目から見た就職活動の違和感も本書はちくりと風刺する。面接官とて同じ大人なのに、なぜこうもずれてしまうのか。それは学生を完全に下にみているからだ。面接とは試験の場。試験する側とされる側にはおのずと格差が生まれる。それが就職学生に卑屈な態度をとらせ、圧迫面接のような尊大さを採る側に与える。本書で泰山は翔になりきって面接に臨み、就職活動のそうした矛盾に直面する。そして理想主義などすでに持っていないはずの泰山に違和感を与える。就職活動とは、大人の目からみてもどこか歪な営みなのだ。

本書に登場する政治家のセリフはしゃっちょこばっていない。その正反対だ。いささか年を食っているだけで、言葉はおやじの臭いにまみれているが、セリフのノリは軽い。だが、もはや虚飾をはがされた政治家にしかつめらしいセリフ回しは不要。むしろ本書のように等身大の政治家像を見せてくれることは政治の間口を広げるのではないか。政治家を志望する人が減る中、本書はその数を広げる試みとして悪くないと思う。

象牙の塔、ということばがある。研究に没頭する学者を揶揄する言葉だ。だが、議員も彼らにしかわからないギルドを形成していないだろうか。その閉鎖性は、外からの新鮮な視線でみて初めて気づく。本書のようにSFの設定を持ち込まないと。そこがやっかいな点でもある。

それらについて、著者が言いたかったことは本書にも登場する。それを以下に引用する。前者は泰山が自分を省みて発するセリフ。後者は泰山が訪れたホスピスの方から説かれたセリフ。

例えば306ページ。「政界の論理にからめとられ、政治のための政治に終始する職業政治家に成り下がっちまった。いまの俺は、総理大臣かも知れないが、本当の意味で、民の長といえるだろうか。いま俺に必要なのは、サミットで世界の首脳とまみえることではなく、ひとりの政治家としての立ち位置を見つめ直すことではないか。それに気づいたとたん、いままで自分が信じてきたものが単なる金メッキに過ぎないと悟ったんだ。いまの俺にとって、政治家としての地位も名誉も、はっきりいって無価値だ。」

322ページ。「自分の死を見つめる人が信じられるのは、真実だけなんです。余命幾ばくもない人にとって、嘘をついて自分をよく見せたり、取り繕ったりすることはなんの意味もありません。人生を虚しくするだけです」

政治とは扱いようによって人を愚人にも賢人にもする。政治学研究部の部長をやっていた私も、そう思う。

‘2017/04/10-2017/04/11


川の名前


川はいい。

川は上流、中流、下流のそれぞれで違った魅力を持つ。上流の滝の荒々しさは見ていて飽きない。急流から一転、せせらぎの可憐さは手に掬わずにはいられないほどだ。中流に架かる橋を行き交う電車やクルマは生活のたくましさな象徴だ。河川敷を走る人々、遊ぶ子供たちは、川に親しむ人々の姿そのものだ。下流に至った川は一転、広々と開ける。そこでは水はただ滔々と流れるのみ。その静けさは永きにわたる行路を終えたものだけが醸し出せるゆとりを感じさせる。

私が川を好きな理由。それは二十年以上、川のすぐ近くに暮らしていたからに違いない。その川とは武庫川。兵庫の西宮市と尼崎市を分かつ川だ。丹波篠山から多彩な姿を見せながら大阪湾へと流れ込む。

川は人々の暮らしに密着している。川の近くに住む人々は川に名前をつける。そしてその名を呼びならわし、先祖から子孫へと名は伝わってゆく。いつしか、川の名前がしっかり幼い子供の心に刻まれる。私が武庫川を今も好きなように。

「川の名前」という本書のタイトルは、私を引き寄せた。それはあまりにも魅力的に。実は本書をハヤカワ文庫で目にした時、私は著者の名前を知らなかった。だが、タイトルは裏切らない。手に取ることにためらいはなかった。

本書に登場する川とは桜川。少年たちの毎日に寄り添い流れている。少年たちは五年生。五年生といえばそれなりに分別も身につき、地元の川に対する愛着が一番増す時期だ。宿題にも仕事にも追いまくられず、ただ無心になって川で遊べる。部活に没頭しなくてよく、受験も考えなくていい。五年生の夏休みとは、楽し身を楽しさとして味わえる最後の日々かもしれない。その夏休みをどう過ごすか。それによって、その人の一生は決まる。そういっても言い過ぎではない気がする。

主人公菊野脩の父は著名な写真家。海外に長期撮影旅行に出かけるのが常だ。これまで脩の夏休みは、父に連れられ海外で冒険をするのが恒例だった。だが五年生となり、自立の心が芽生えた脩は、地元で友人たちと過ごす夏休みを選ぶ。

少年たちの夏休みは、脩が桜川の自然保護区に指定されている池でペンギンを見つけたことから始まる。池に住み着き野生化したペンギン。ペンギンを見つけたことで脩の夏休みの充実は約束される。動物園で見るそれとは違い、たくましく、そして愛おしい。少年たちに魅力的に映らぬはずはない。脩は仲間である亀丸拓哉、河邑浩童を誘い、夏休みの自由研究の題材をペンギン観察にする。

私も子供の頃、武庫川でやんちゃな遊びをしたものだ。ナマズを捕まえてその場で火を起こして食べたこともある。半分は生だったけれど。捕まえた鯉を家に持ち帰り、親に焼き魚にしてもらったのも懐かしい。土手を走る車にぶつかって二週間ほど入院したのは小1の夏休み。他にも私は武庫川でここでは書けないような経験をしている。ただ、私は武庫川ではペンギンは見たことがない。せいぜい鳩を捕まえて食ってる浮浪者や、泳ぐヌートリアを見た程度だ。それよりも川に現れた珍客と言えば、最近ではタマちゃんの記憶が新しい。タマちゃんとは、多摩川や鶴見川や帷子川を騒がせたあのアザラシだ。私は当時、帷子川の出没地点のすぐ近くで働いていたのでよく覚えている。タマちゃんによって、東京の都市部の川にアザラシが現れることが決して荒唐無稽なファンタジーでないことが明らかにされた。つまり、多摩川の支流、野川のさらに支流と設定される桜川にペンギンが住み着くのも荒唐無稽なファンタジーではないのだ。

そしてタマちゃん騒動でもう一つ思い出すことがある。それはマスコミが大挙し、捕獲して海に返そうという騒動が起きたことだ。連日のテレビ報道も記憶に鮮やかだ。本書も同じだ。本書のテーマの一つは、大人たちの思惑に対する子供たちの戦いだ。身勝手で打算と欲にまみれた大人に、小学校五年生の少年たちがどう対応し、その中でどう成長していくのか。それが本書のテーマであり見せ場だ。おそらく本書が生まれるきっかけはタマちゃん騒動だったのではないか。

本書に登場する人物は個性に溢れている。そして魅力的だ。中でも喇叭爺の存在。彼がひときわ目立つ。最初は奇妙な人物として登場する喇叭爺。人々に眉をひそめられる人物として登場する喇叭爺は、物語が進むにつれ少年たちにとっての老賢者であることが明らかになる。老賢者にとどまらず、本書の中で色とりどりの顔を見せる本書のキーマンでもある。

特に、人はそれぞれが属する川の名前を持っている、という教え。それは喇叭爺から少年たちに伝えられる奥義だ。就職先や出身校、役職といった肩書。それらはおいて後から身につけるものに過ぎない。成長してから身を飾る名札ではなく、人は生まれながらにして持つものがある。それこそが生まれ育った地の川の名前なのだ。人はみな、川を通じて海につながり、世界につながる。人は世界で何に属するのか。それは決して肩書ではない。川に属するのだ。それはとても面白い思想だ。そして川の近くに育った私になじみやすい教えでもある。

川に育ち、川に帰る。それは里帰りする鮭の一生にも似ている。幼き日を川で育まれ、青年期に海へ出る。壮年期までを大海原で過ごし、老境に生まれた川へと帰る。それは単なる土着の思想にとどまらず、惑星の生命のめぐりにもつながる大きさがある。喇叭爺の語る人生観はまさに壮大。まさに老賢者と呼ぶにふさわしい。だからこそ、少年たちは川に沿って流れていくのだ。

本書を読んで気づかされた事は多い。川が私たちの人生に密接につながっていること。さらに、子供を導く大人が必要な事。その二つは本書が伝える大切なメッセージだ。あと、五年生にとっての夏休みがどれだけ大切なのか、という重要性についても。本書のような物語を読むと、五年生の時の自分が夏休みに何をしていたか。さっぱり思い出せないことに気づく。少年の頃の時間は長く、大人になってからの時間は短い。そして、長かったはずの過去ほど、圧縮されて短くなり、これからの人生が長く感じられる。これは生きていくために覚えておかなければならない教訓だ。本書のように含蓄のつまった物語は、子どもにも読ませたいと思える一冊だ。

‘2017/01/20-2017/01/22


製鉄天使


著者の作品の中で「赤朽葉家の伝説」という小説がある。著者の代表作の一つとして知られている。私は著者に直木賞をもたらした「私の男」よりも「赤朽葉家の伝説」のほうが好きだ。鳥取の製鉄家一家の歴史を大河風に描き切った「赤朽葉家の伝説」は、魔術的リアリズムの手法を採っている。

魔術的リアリズムとは20世紀中ごろにラテンアメリカの諸作家によって世界に広められた文学の一潮流で、現実の中に超現実的な描写を織り交ぜて作品世界に奥行きを出す手法といえばよいか。本稿を書く10日ほど前に読んだ寺尾隆吉氏の「魔術的リアリズム」によれば、「非日常的視点を基盤に一つの共同体を作り上げ、そこから現実世界を新たな目で捉え直す」(220P)のが魔術的リアリズムと定義されている。魔術的リアリズムの代表作とも云われるのがコロンビアの巨匠ガルシア=マルケスが著した「百年の孤独」だが、「赤朽葉家の伝説」はまさにそれを彷彿とさせる。私も「赤朽葉家の伝説」を読んだ時は、まさか日本版魔術的リアリズム小説を日本の山陰を舞台で読むことが出来るとは、と感心した記憶がある。

本書はその「赤朽葉家の伝説」と濃厚に関連付いている。舞台は同じく鳥取。「赤朽葉家の伝説」では製鉄業で財を成した一家を三代の女性を軸にして描いている。その二代目である赤朽葉毛毬は、レディースとして暴れまくっていた人物として書かれている。本書はそのエピソードを拡大してスピンオフさせた物語だ。名前は変えられているものの、本書の主人公赤緑豆小豆は「赤朽葉家の伝説」の赤朽葉毛毬と同一人物といえる。製鉄一家の赤緑豆家に生まれた小豆は、鉄を自在に扱うことのできる能力を持っている設定だ。記憶は定かではないが、確か赤朽葉毛毬も同様の能力を持つ人物として描かれていたはず。

赤朽葉毛毬改め赤緑豆小豆が主人公である本書は、鳥取を拠点にレディース、つまり女だけで構成された暴走族の頭として中国地方の制圧に青春を掛ける物語だ。製鉄天使とはそのレディースのチーム名である。

さて、なぜ冒頭で魔術的リアリズムのことを長々と触れたかというと、本書を単なる荒唐無稽なレディース小説と読むと本書の本質を見誤るからだ。語り口や内容は一読すると実に軽い。使われる台詞も乱雑だし、クサい台詞も満載だ。いわゆる大人向け小説ではあまり見られない擬音語も随所に使われている。
「あたしが突っこんだ交差点には、血と涙の雨が降るぜ。何人たりともあたしの走りを止めることはできねぇんだ」(198頁)
「4649号線は、そのときも、きっと、燃えて、いるんだぜい!」(282頁)
夜露死苦と書いてヨロシクとは、ヤンキー文化を現す言葉として良く知られている。本書には夜露死苦という言葉こそ出てこないが、4649号線は何度も出てくる。全編がレディース文化に埋め尽くされ、強調され、これ見よがしにレディースが現実を侵食している。

特異なエピソードや人物達が登場する「赤朽葉家の伝説」において、文体は抑えめでまだ常識側に立っている。しかし本書において著者は、文体すらも常識を捨てることを試しているかのようだ。そして、文体を非常識化するにあたり、著者は格好の題材としてレディース文化に着目した。行き過ぎといえるほどに擬音語やクサい台詞を使っても、それはレディース文化のリアリズムとして物語世界では許される。著者がその点に着眼したことを評価したい。

レディースという時代の仇花文化に焦点を当てた本書を、寺尾隆吉氏の定義に当てはめると以下のようになるだろうか。「レディースという視点を基盤に製鉄天使という一つの共同体を作り上げ、そこから大人の常識世界を新たな目で捉え直す」。つまり、リアリズムに軸足を置きつつ、共同体=レディースの視点を魔術的に拡大したのが本書。私は本書をそう受け取った。

上に「大人の常識世界を新たな目で捉え直す」と書いた。おそらく本書の表テーマは、少女の大人常識への嫌悪だ。本書の中で小豆は、自分が大人になってしまうことへの嫌悪や恐れを抱き続けている。そしてその恐れを振り払うかのように製鉄天使で荒ぶる魂を燃焼させ続ける。が、年を重ねて行く中、小豆にも自分のレディースとしての賞味期限、少女としての寿命を悟るときがくる。小豆がそのことを悟るのは、自分の発する体臭からだ。本書では大人への移り変わりを体臭という言葉で表している。それは生理という体の変化だけではない。体や顔つきが成長するにつれ、周りは子どもとして見てくれなくなる。すると大人社会へ参加しろとの圧力が有形無形で掛かってくる。レディースという活動からも足を洗わねばならない時期が来る。否が応でも社会に呑みこまれてしまう時期が来てしまう。もはやモラトリアムは許されず、社会への何らかの貢献を求められる。

「赤朽葉家の伝説」では、赤朽葉毛毬はレディース卒業後、少女漫画家として名を挙げた。しかし、本書では小豆は漫画家にはならない。本書は次なる夢「財宝探し」へ突き進む小豆の姿で幕を閉じる。「赤朽葉家の伝説」では抑えた文体に合わせて、毛毬の行く末も漫画家という常識的な設定とした。翻って本書では荒唐無稽な文体に合わせて、探検家としての小豆の将来を予感させる設定にしている。大人社会への参加を強制される理不尽に対し、あくまでも非常識の夢を追い続ける小豆の選択もまた、本書の性格を現しているようで面白い。

表テーマとして大人常識社会への嫌悪を扱いつつ、本書はその嫌悪の視点を逆手に取って特異な共同体からの視点として本書を描く。裏テーマとして魔術的リアリズムの手法をさらに進め、荒唐無稽な物語を描きながらもレディース抗争の面白さを前面に出している。本書の持っている構成はそのような裏表のテーマと通俗小説、そして魔術的リアリズムを掛け合わせたユニークなものだ。とても興味深い。

著者は、上に書いたような野心的な試みをしつつも、本書を描くにあたって楽しんで描いていたことは間違いないだろう。1980年代の日本の中国地方を舞台としたレディースという枠組みこそ現実に則っているが、エピソードは好き放題に書ける。物語作者としては腕がなったに違いない。こちらのWebサイトhttps://www.tsogen.co.jp/seitetsu/での著者の出で立ちからも、著者が楽しんで本書を書いたであろうことが想像できる。とても微笑ましい。

‘2015/6/19-2015/6/19


真夏の方程式


当代きっての人気作家である著者。その魅力を語りつくすには私の文章では力不足だろう。あえて二つ挙げるとすれば、多作なのにシリーズものに頼らないこと、シリーズもの以外にも秀いでた作品が多いことだろうか。我々素人からみても、シリーズもののほうが毎回設定を構築する手間が省ける分、作家にとって楽なことは分かる。しかし著者はシリーズものに頼らない。それでいて、あれだけの良作を産み出し続ける著者の筆力は半端なものではないと云える。

とはいえ、昨今の著者を超がつく売れっ子にしたのは、代表的な2シリーズの力に与ることも否めない。代表的な2シリーズとは、「新参者」「麒麟の翼」に代表される加賀恭一郎シリーズと、「探偵ガリレオ」「容疑者Xの献身」で知られるガリレオシリーズのことである。シリーズ物にありがちな惰性とは無縁な2シリーズは、駄作とも縁がない。

この2シリーズに共通する魅力とはなんだろうか。私はそれを人情に篤い主人公のキャラクター設定に見た。加賀恭一郎も、ガリレオこと湯川学も、怜悧な論理を自在に操る能力の持ち主だ。しかし、二人とも論理一辺倒の人物ではなく、その論理が情の豊かさに裏打ちされているのがいい。論理を越えたところで見せる暖かく血の通った振る舞いが、読後に爽やかな感動を残す。謎が解かれるカタルシスももちろんだが、彼らの見せる優しさに心を動かされ、それが後々まで小説の余韻として残る。

彼らの情の篤さは、事件の幕引きにおいて顕著だ。加賀恭一郎シリーズには「赤い指」という名作がある。この事件で、加賀恭一郎がとった事件の幕の引きかたは感動的とさえいえる。それは、厳しくそれでいて相手を真に思いやらねば決して出てこない言動である。ガリレオにしても理詰めに謎を解き、犯人を追い詰めるだけの冷徹なキャラであれば、ここまでの支持が得られたかどうか。理論の塊にみえる彼が時折見せる人間的な心の揺れは、理論武装の平素からするとその人間臭さが余計に強調される。物理学の公理に照らすと合理的でない行動も、ガリレオの心は彼の心にとって合理的な行動を選ぶ。理論と自らの人間性のはざまに揺れる彼の悩みや迷いは、大方の読者にとって大いに共感できる部分であり、だからこそ本シリーズが支持されるのだろう。

ガリレオは本書でも、印象的な言動を多々見せる。冷静で論理の筋が通った頭脳のさえは相変わらず。が、本書にはガリレオのペースを乱す人物が登場する。それは恭平少年である。海岸沿いのひなびたリゾート地へ向かう列車の中で知り合った恭平少年とガリレオ。お互いの行先が一緒であることから、ガリレオは宿泊先を少年が泊まる宿に定め、夏休みの間の二人の交流が始まる。事件に巻き込まれるという類まれな経験とともに。

本書でガリレオが見せる恭平少年への接し方は、本書の最大の見どころである。子どもが苦手という設定のガリレオだが、それゆえに手慣れた大人としての接し方ではなく、彼なりの振る舞いで恭平少年と相対する。一見すると冷徹な理屈で冷たく突き放すように見えるが、そこには恭平少年を大人扱いし、真に少年の立場にたって考えた彼の思いやりが背景にある。恭平少年も、大人の型にはまらず血の通ったガリレオとの交流に感じる思いがあったのか、ガリレオを博士と呼んで慕う。

子どもを子ども扱いせず、一人の人間として接することで、子どもはその相手に敬意を抱く。私も子を持つ親として頭では分かっているつもりだが、それを実践するのは口にいうほど簡単ではない。しかし、本書で描かれるガリレオと恭平少年の交流はどうだろう。ある時は親身にある時は突き放し、恭平少年のひと夏の自立を促すガリレオの様子は、とても独身物理学者のそれとは思えない。

本書の前半部では、自然保護と資源開発の対立が描かれる。それは釣り餌のようにして読者の前にぶら下げられる。それらに対するガリレオの考えも述べられ、大変興味深い。おそらくは著者が平生考えている内容をまとめた内容と思われるが、頷ける論理である。しかし、本書は自然保護論を云々する本ではない。序盤でこういった少し手垢のついた題材での対立が描かれることに、失望を覚える読者もいるかもしれない。ああ、ガリレオシリーズもついにマンネリ化への道を進むのか、と。しかし、本書はそんな単純な筋書きでは進まない。むしろ恭平少年とガリレオを囲む外部が俗っぽくなればなるほど、彼らの交流の豊かさが際立つ。私はそのような意図があって、本書の構成にしたのではないかと思う。

本書のテーマはあくまでガリレオと少年のこころの交流に置かれている。ガリレオが恭平少年に対してみせる気遣いや応対は、読者が大人であればあるほど、普段の子どもへの向き合い方を考えさせられるものである。子どもをいかにして世間から守り、自立した大人へ旅立たせてやれるか。それは決して頭で考えるものではない。

事件は現場で起きているという。それは云うまでもない真理に違いない。しかし、事件は子どもの中にも何かを起こすことも忘れてはならない。今までの推理小説は、子どもの心中を描写することにおいて、あまりにも無関心だったように思う。事件に巻き込まれるという経験は、大人にすら平穏なものではない。ましてや、子どもに対しての影響はもっと重大なはず。有事のとき、大人がどのように子どもを守り、どのように事件の影響からケアするのか。本書が提起する内容は存外に重く、考えさせられる。

云うまでもなく、子どもにはこれからの人生と可能性がある。それを活かすも潰すも大人の責任となる。理屈だけでは追い切れない人生の複雑な襞の一つ一つを、ガリレオは恭平少年に提示し、それと直面するようにさばき、守りぬく。本書を読む興を削ぐことになるのでこれ以上は書かない。が、本書がガリレオシリーズの名作としてまた一つ加えられるのは間違いないとだけは書いておく。

‘2014/10/3-2014/10/4