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なぜ僕は「炎上」を恐れないのか~年500万円稼ぐプロブロガーの仕事術~


何人ものブロガーが発信するブログを集めたBLOGOSというサイトがある。BLOGOS上で何度か著者の記事は読んだことがある。また、他のメディアからも著者が物議を醸すスタイルのブロガーであることは知っていた。「まだ東京で消耗しているの?」というパワーワードは常駐で疲弊していた当時の私の心に刺さったし。
ところが、著者の本を読んだことがなかった。本書がはじめてだ。
実は著者のブログすら、BLOGOに載ったもの以外は読んだことがなかった。本稿を書くにあたり、ようやく目を通した。

そのため、私が著者について知っていることはそう多くない。
その前提で書くと、著者はただ炎上させるだけのブロガーとは思わない。実際、高知に移住し、言行も一致させている。
私はかねがねそうした著者のことを地方創生の観点からも意識していた。

本書を読んだ理由は、まさに本書のタイトルである炎上についてだ。
ブログが物議を醸す、つまり炎上するには、人の目に触れなければならない。それが前提だ。誰の目にも触れていないブログが炎上するわけがないのだから。
では、露出を増やしたいと思った場合、どうすればよいのだろうか。

私が記事を発信する際、媒体は弊社内のブログにまとめている。本ブログも含めて。
それらの記事を書くたびにTwitterやFacebookには投稿しているが、SNSにそれほどのフォロワーがいない私の記事など、万人に触れているとは主張しがたい。
その理由は、人脈や宣伝や告知の不足もあるだろう。だが、そもそもコンテンツが魅力的ではない、という事実は認めなければなるまい。

弊社ブログのアクセス上位は、物申すと題した時事ネタのものが占めている。旅日記や読書ブログや映画・演劇ブログはそれほどPV数を稼いでいない。
読書・映画・演劇レビューは、既存の創作物に乗っかった二次創作物に過ぎない。また、旅日記は個人的な体験に過ぎない。

では、私がもっとも価値を生み出せる記事は何か。それは技術ネタだろう。ただ、技術ネタの場合、読み手の範囲は限定される。
そもそも技術ネタといっても、私の書く記事は、既存の言語やサービスやプラットホームを解説しているだけ。つまり、新奇な主張をものするわけでもない。

ということは、このままでは私の記事は人の目に触れずに埋もれてしまう。
その一方、社会の矛盾や働き方の慣習は変えたい思いがある。その際、既存のやりかたを良しとする人の感情を逆なですることもあるだろう。炎上するかもしれない。

本書を読み始めた時点で、私は炎上を覚悟して尖った主張も増やそうと考えていた。穏健で配慮が行き届いた主張だけではなく、より尖った主張も盛り込んでみよう、と。
もし私が炎上を恐れているのなら、本書から勇気をもらわねば。ヒントをもらいつつ、炎上を恐れずに書かねばなるまい、と。

そこで本書だ。
本書は私にとっては、わが意を得たと思える主張が多い。
例えば、人はしょせんバカであり、バカであることを認めると、気持ちが楽になり、何をいわれても平気になる、など。

そもそも自分を飾ることについて、私はあまり興味がない。自分の肩書や立場にもあまり執着がない。
だから立場を喪うことや、肩書を批判されることについては耐性を備えているつもりだ。それが私個人の中にある逆鱗に触れる理不尽さがない限りは。
私は今までの人生で多くの失敗をしてきた。怒られてもきた。大トラブルに巻き込まれたこともあるし、何十人もの方に囲まれてバグの原因を説明したこともある。
そうした数多くの失敗が、私に耐性を備えさせた。

ただ、私には炎上させるために欠けている点がある。それは考えてしまうことだ。
例えばある論点がある。それに対してAとBの相対する論陣が張られていたとする。
私はそうした場合、双方の言い分を考えてしまうのだ。
立場、過去のいきさつ、利害関係。それらを考えると、0と1の単純な善悪など決められない。

だが、論陣を張るには、振り切った主張をしなければ目立たない。キャラを立てるというか、旗幟を鮮明にするというか。
私は論を構築するにあたり、中庸を求めてしまう弱点がある。
そのあたりの弱点を補強するヒントも本書には載っている。

だが、本書には、そうした内容よりも重要な学びがある。それは、出過ぎた杭は打たれない、ということだ。つまり、結局は努力。

本書にも紹介されている通り、著者が早稲田大学に合格するために採用した戦略や、その後の社会人生活や独立にあたっての人生行路は、どれも努力を抜きにして考えられない。
集中して学び、知識や能力を備える。すると、自分に自信がつく。自分に自信が持てていれば、炎上にも揺らがない。炎上しても生計の道は絶たれない知識があれば生きていける。身体に危害を加えられない限り、炎上にあたってメンタルに耐性をつけておけば、さほどの害はない。
本書で著者は、そうしたことを語る。著者の論点を理解するにつれ、炎上の持つ意味が変わってくる。
そう、炎上とは、能力や学びや鍛錬の結果に対する嫉妬ややっかみなのだ。出すぎた杭を打とうとする世間からの同調圧力。
ようは、誰にも打たれないぐらい飛び出ればよいのだ。

ただし、本書からそこまで読み取った今も、私は著者の手法の全てをマネしないと思う。著者は本書の中でまずマネることを提唱しており、そこは本書の教えに反する。
ではなぜか。
ブログアフィリエイト、暗号通貨、FinTech、ブロックチェーン、出版。私が推測する著者の経済活動はこんな感じだろうか。情報商材と名のつくものはひととおり試し、勉強しているように見受けられる。
私はそれらにほんの少しだけ関わったことはある。だが結局、本気で足を踏み入れていない。

上記の情報商材は当たれば不労所得のための種となりうる。だが、私は不労所得とは、不労では済まないものだと思っている。事前に情報収集などの労働がついてまわるからだ。
また、わが国ではそうしたものへの風当たりもきつい。
私は労働が必要ならば、想像力や創造の喜びが得られるシステム・エンジニアとして身を立てる方を選んだ。その方がギャンブルの要素がないと考えた。私は今もその戦略をとって生きている。

もちろん、新奇なものをまずは試してから判断する著者の努力はすごいと思う。その戦略は、これからの時代を生き抜くために必要に違いない。
新たなサービスや仕組みへの継続的な勉強。それが著者の成功の秘密であることは間違いない。
努力の底上げがあってこそ、炎上しても耐えられる。そうなったら覚悟を決めた著者を批判しても無意味だ。
それよりも、その人なりのたゆまぬ努力を続け、新たなルール、新たな市場、新たな世界を見つけるのが良いと思う。決して既存のノウハウや手法を墨守するのではなく、自らを常に新たな世界に置くための視点を磨くべきだと思う。

それが本書を読んで感じたことだ。

ちなみに本書を読んですぐ、コロナが世の中を覆いつくし、私は仕事の忙しさと人員の雇用に踏み切ったので、炎上ブログどころではなくなっている。

‘2020/01/09-2020/01/10


王とサーカス


当ブログで著者の作品を扱うのは、本作が四作品目となる。二番目に読んだ『さよなら妖精』は、ユーゴスラビアからきた少女マーヤの物語だった。語学留学で日本にやって来たマーヤが日本の文化に触れ、クラスの皆と交流を深める様子を描いた一編だった。とても幻想的で余韻の残る一編だ。皆に鮮烈な印象を与え、帰国していったマーヤ。その後も彼女を手助けしようと試みる主人公。それに対し、全ての事情を知ったうえで手助けをやめたほうがよいと助言する少女。その少女こそが、本作の主人公太刀洗万智だ。あとがきによると、太刀洗万智は著者の他の作品には登場していないそうだ。つまり、本書が二度目の登場ということ。

なお、本書の中に『さよなら妖精』を思い起こさせる描写はほぼ登場しない。57ページと133ページにそれがほのめかされてはいるが、『さよなら妖精』を読んでいない読者には全く意味をなさないはずだ。本書は安易な続編とは一線を画している。あとがきでも著者は『さよなら妖精』を読んでいなくてもよい、と述べている。

高校三年生だった万智を、10年以上の年月をへて著者の作品に再登板させた理由は何か。それはおそらく、二つの作品に共通するテーマがあるからだろう。そのテーマとは、日本から見た外国、外国から見た日本。そして著者にとってそのテーマを託せるのが、自らが創造した太刀洗万智だったという事だろう。『さよなら妖精』で彼女が得た経験の重みの大きさを物語っている。一人の女性が見聞きする外国と、彼女が知る外国から見た日本。それが本書にも、大きなテーマとして流れている。

日本から見た外国は、外国から見た日本とどう違うのか。一対一の関係でありながら、その伝わり方は全く違う。相手が遠く離れているうえに、間に挟むジャーナリストの紹介の仕方にも左右されるからだ。旅人が外国で受け取る印象はリアルだ。それでいて、現地の人でなければわからないこともある。しょせん旅人であるうちは表面的な理解しかできない。ましてや現地の人が行ったことのない日本に対して持つ知識など、さらに実態からかけ離れているに違いない。

本来、それを仲立ちするのはマスメディアによる報道だ。つまりジャーナリズム。見たことも行ったこともない異国を理解するには、ジャーナリストの力を借りなければならない。ジャーナリストは自国の情報を携えたまま、異国で情報を収集する。それは個人が内面で受け取るやり方に依存する。そして、そのジャーナリストが書いた記事は、マスメディアに乗る。不特定多数の読者に対して一方向でまとめて発信される。そこには一対一の関係はない。不特定多数の読者が記事をどう読むかはまちまちなので、さらに一対一の関係とは程遠い情報の伝達がされる。だからジャーナリストは、大勢の受けてに等しく伝わるような発信の仕方を心がけるのだ。

本書が追求するのはジャーナリストのあり方だ。ジャーナリストとは何を伝えるべきなのか、もしくは何を伝えてはならないのか。記事の中で取り上げられる取材対象の意図をどこまで汲み取るべきなのか。そのような心構えは駆け出しのジャーナリストなら誰もが叩き込まれているはず。ただし今ではそうした心得も怪しくなってきた。1980年代に写真週刊誌が行き過ぎた取材をしたことによって、ジャーナリストが持つべき心構えがそもそも受け継がれていない、という疑問が世間に生じ始めたからだ。さらにインターネットによって情報の流通のあり方が変わった。今は素人のジャーナリストがSNS界隈に無数に湧いている。そしてはびこっている。もはやジャーナリズムとは有名無実に成り果てているのだ。ジャーナリストの心構えを遵守するのがプロのジャーナリストだけであったとしても、世にあふれるツイートやウォールや記事の前ではジャーナリズムなどないに等しい。

女子高生が自分の自殺をツイキャスで放映したり、自殺原場で居合わせた人がその様子をカメラに収める。そしてそれをネット上に流す。今は素人でも即席のジャーナリストになれる時代。その流れは誰にも止められない。

だからといって、ジャーナリズムのあり方をこのまま貶めておいて良いのだろうか。誰もがジャーナリストになれる時代の宿命として諦めたほうがよいのか。いや、報道のあり方と、ジャーナリストとしての心構えが有効であることに変わりはないはず。報道する側と報道される側。その構図は、文明が違っても、技術が進んでも変わらないはずだから。

著者が本書を著したのも、あとがきで少し触れているとおり、知る欲求についてひっかかりを覚えたからだという。つまり、ジャーナリズムについて思うところがあったからだろう。著者はその舞台としてネパールを選んだ。ネパールとは中印国境に位置する国だ。歴史的にも中国とインドの緩衝国としての役割を担っており、今もその影響で軋轢が絶えない。近くのブータンが国民総幸福量という政府による独自の指標を発表しているのとは大違いだ。ネパールの物騒な情勢を象徴する事件。それこそが、本書で取り上げられるネパール王族殺害事件だ。国王夫妻や皇太子を始め、十名もの王族が殺害された事件。公式には、結婚に反対された皇太子が 泥酔して銃を乱射し、挙句の果てに自殺したことになっている。しかし、陰謀説がまことしやかにささやかれているのも事実だ。それはネパールが引き受けて来た緩衝国としての葛藤と無関係ではない。

太刀洗万智はフリーのジャーナリストとして、アジア旅行の特集を取材するためにネパールへとやってきた。そして、ネパールの激動に遭遇する。王族がほぼ殺される。その事件がネパールに与えた影響の大きさは、日本で同じようなことが起こったと仮定するだけで想像できるだろう。宮殿前広場に群がり、怒号をあげる群衆たち。ネパール全体が動揺し、不穏な空気に包まれる中、太刀洗万智は一連の出来事をフリーのジャーナリストとして報道しなければならないとの使命感に囚われる。

彼女はネパールをさまよう中、少しずつ人脈を増やす。その中で得た一つのつてがラジェスワル准尉にたどり着く。ラジェスワルは惨劇の当日、王宮で警備についていた。つまり事件を目撃した可能性が高い。だが、会ったラジェスワルからは、にべもなく拒絶される。そればかりか、ジャーナリストとしての存在意義をラジェスワルから問われる。彼はこう語る。「自分に降りかかることのない惨劇は、この上もなく刺激的な娯楽だ。意表を衝くようなものであれば、なお申し分ない。恐ろしい映像を見たり、記事を読んだりした者は言うだろう。考えさせられた、と。そういう娯楽なのだ。それがわかっていたのに、私は既に過ちを犯した。繰り返しはしない」(p175-176)。彼女はそれを突きつけられ、何も言い返せない。ラジェスワルの「タチアライ。お前はサーカスの座長だ。お前の書くものはサーカスの演し物だ。我々の王の死は、とっておきのメインイベントというわけだ」(P176)「だが私は、この国をサーカスにするつもりはないのだ。もう二度と」(P177)という言葉が彼から発せられた止めとなる。

このラジェスワルのセリフが本書のタイトルに対応していることは言うまでもない。このやり取りこそ、本書の肝となっている。

しかし、太刀洗万智がラジェスワルに答えを述べる機会は失われる。ラジェスワルが死体で発見されたからだ。彼女はその死体も目撃する。死体に「INFORMER」と刻まれた死体。つまり密告者。隠密裏に会っていたはずなのにラジェスワルは密告者として殺されたのだ。彼女もラジェスワル殺害の関係者として、取調を受ける。

ネパールに居合わせたジャーナリストとしてルポルタージュの依頼を受けた太刀洗万智は、ラジェスワルの死の謎を解きながら、ジャーナリストとしての在り方を見いだそうと苦悩する。苦悩しつつ、取材を続ける。

彼女は結局、ジャーナリストとしての自らをもう一度見つけ出す。本書の謎解きにはあまり関係ないので書いてしまうと「「ここがどういう場所なのか、わたしがいるのはどういう場所なのか、明らかにしたい」BBCが伝え、CNNが伝え、NHKが伝えてなお、わたしが書く意味はそこにある。」(403P)という結論を得る。

そして、彼女はラジェスワルの死体に刻まれたINFORMERという文字は記事にも起こさず、撮った写真も載せない。それは彼女がラジェスワルから学んだジャーナリストとしてのあり方に背くからだ。伝えることと伝えるべきことに一線を引く。それは伝える側にあるものとして最低限守るべき矜持。

あとがきで著者は、私たちが毎日むさぼっている「知るという快楽」への小さな引っかかりについて書いている。まさにそうだ。本書が教えてくれるのは、知ることへの問いかけ。情報が氾濫している今、知る快楽は無尽蔵に満たせる。そしてそこから得た気づきや考えを披露したいという欲求。それを満たす場も機会もありあまるほど与えられている。私もそう。知識をむさぼることに中毒になっている。日夜を問わず常に情報を得ていないと、落ち着かない。本は二、三冊携帯していることは当たり前。それに加えてパソコン、スマホ、タブレットも持ち歩いている。知識をため込みつつ、日々のネタをSNSに発信している。にわかのジャーナリストこそ、私だ。

私は多分、これからも情報に囲まれ、情報を咀嚼し、情報を発信しながら生きていくことだろう。それはもう私の性分であり病だ。死ぬまで止められそうにない。だからこそ、発信すべき情報については、気をつけねばならないと思う。SNSを始めた当初から、発信する情報は他人に迷惑をかけないよう絞ってきたつもりだ。だが、これからもそうでありたい。そして素人ではあるけれど、プロのジャーナリストと同じく自分が書いたものには責任を持つ。そのために実名発信を貫くことも曲げない。にわかのジャーナリストであっても、すたれつつあるジャーナリズムをほんの一部でも伝えていきたいし、そうできれば本望だ。

著者がミステリーの分野で有名だから、本書もきっとエンターテインメントのカテゴリで読まれることだろう。だが、本書がそのために遠ざけられるとしたら惜しい。本書が問いかけるテーマとはより広く、もっと深い奥行きを持っているのだから。何らかの発信を行っている人にとって、本書から得られるものは多いはず。

‘2017/10/09-2017/10/16