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戦国大名北条氏 -合戦・外交・領国支配の実像


本書は手に入れた経緯がはっきりと思い出せる一冊だ。買った場所も思い出せるし、2015/1/31の昼はどこに行き、どういう行動をとったかも思い出せる。

その日、友人に誘われて小田原で開かれた嚶鳴フォーラムに参加した。
小田原といえば二宮尊徳翁がよく知られている。だが、二宮尊徳翁と同じ江戸期に活躍し、今に名を残す賢人たちは各地にいる。例えば上杉鷹山や細井平洲など。
そうした地域が産んだ賢人を顕彰しあい、勉強しあうのが嚶鳴フォーラムだ。

嚶鳴フォーラムが始まる前、私と友人は小田原城を訪れた。
というのも、フォーラムでは城下町としての小田原が整備されるにあたり、北条氏が果たした役割を振り返る講演があったためだ。講師である作家の伊東潤氏は、北条氏の五代の当主がなした治世を振り返り、その治が善政であったことを強調しておられた。

フォーラムで刺激を受けた帰り、小田原の観光案内所に立ち寄った。
そこで出会ったのが武将の出で立ちに身を包んだ男性。その方は学生で、その合間を縫って観光ガイドを勤めてらした。そしてとても歴史に造詣が深い方だった。
小田原に住み、北条氏を熱く語るその方からは、小田原における北条氏がどのようにとらえられているかを学ぶことができた。彼の熱い思いはわたしにもたくさん伝わったし、私の思う以上に小田原には北条氏の存在が強く刻まれていることも感じられた。
その彼の熱意に打たれ、案内所で購入したのが本書だ。

兵庫の西宮で育った私にとって、地元が誇る大名への思いをストレートに語れる彼はある意味でうらやましい。というのも、西宮に武将の影は薄いからだ。
西宮戎神社を擁する門前町であったためか、江戸時代の大部分を通して西宮は幕府の天領だった。
戸田氏や青山氏が一時期、西宮を領有したこともあったらしいし、さらにその前には池田氏や瓦林氏が統治していた時期もあったようだ。
だが、西宮で育った私には故郷の武将で思い浮かぶ人物はいない。

今、私は町田に20年近く住んでいる。そして、故郷にはいなかった武将の面影を求め、ここ数年、北条氏や小山田氏にゆかりのある地を訪れている。小机城や玉縄城、滝山城、関宿城など。もちろん小田原城や山中城も。
そうした城は今もよく遺構を伝えている。それはおそらく、北条氏が滅亡した後、関東を治めた徳川家が領民を慰撫するために北条氏の遺徳を否定しなかったためだろう。

嚶鳴フォーラムをきっかけとした今回の小田原訪問により、私は北条家の統治についてより強い関心を抱いた。

ところが、本書はなかなか読む機会がなかった。
購入した二年半後には次女と二人で小田原城を登り、博物館で北条家の治世に再び触れたというのに。
本書を手に取ったのは、それからさらに一年四カ月もたってから。
結局、買ってから三年半も積んだままに放置してしまった。

さて、本書は北条氏五代の治世を概観している。
初代早雲から、氏綱、氏康、氏政、氏直と続き、秀吉の小田原攻めで滅亡するまでの百年が描かれている。百年の歴史は、過酷な戦国時代を大名が生き延び、勢力を伸ばそうとする努力そのものだ。

関東に住んでいると、関東平野の広大さが体感できる。
広大な土地に点在する城を一つ一つ切り崩してゆきながら、領内の民衆を統治するために内政にも力を注ぐ北条家。その一方で武田家、上杉家、真田家、結城家、佐竹家、里見家と小競り合いを続け、少しずつ領土を広げていった。
その百年の統治は困難で安易には捨てられない努力がなくては語れないはず。だからこそ、北条氏は容易に秀吉の足下に屈しようとしなかったのだろう。その気持ちも理解できる。

歴史が好きな向きには、北条家が関東で成した合戦がいくつか思い浮かぶだろう。
小田原城奪取、八王子城攻防戦、河越夜戦、二回にわたって繰り広げられた国分台合戦など。
「のぼうの城」で知られる忍城の水攻めも忘れてはならないし、滝山城から多摩川を見下ろしながら、攻め寄せる上杉謙信の残像に思いをはせるのも良い。信玄の旗が掛けられた松の跡から見る三増峠の戦場も趣がある。落城間近の小田原城に思いを漂わせながら、秀吉の一夜城を想像すると時間はすぐに過ぎてゆく。
だが、本書は物語ではない。なのでそうした合戦をドラマティックに書くことはない。むしろ学術的な立ち位置を失わぬようにコンパクトな著述を心がけている。

ただ、史実を時系列に描くだけでは読者が退屈してしまう。そこで本書は、全五章の中で北条氏と周辺の大名との関係を軸に進める。

第一章は「北条早雲・氏綱の相模国平定」として基礎作りの時期を描いている。
今川氏の家臣の立場から伊豆を攻めとり、そこから相模へと侵攻して行く流れ。大森氏から小田原城を奪取し、小田原を拠点に三浦氏との抗争の果て、相模を統一するまでの日々や、武蔵への勢力拡張に進むまでを。

第二章では「北条氏康と上杉謙信」として両上杉氏の抗争の中、関東管領に就いた上杉謙信が数たび関東へ来襲し、それに対抗した北条氏康の統治が描かれる。
北条氏の関東支配はいく度も危機にさらされている。が、滝山城の攻防や小田原城包囲など上杉謙信が関東を蹂躙したこの時期がもっとも危機に瀕していたといえる。

第三章では「北条氏政と武田信玄」として武田信玄が小田原城を攻めた時期を取り上げている。
上杉謙信もいくどか関東への出兵を企てていたこの時期。北条家がもっとも戦に明け暮れた時期だといえる。農民からも徴兵しなければならないほどに。その分、内政にも力を入れた時期だと思われる。そして今川家、上杉家、武田家とは何度も同盟を結んでは破棄する外交の繰り返し。

第四章では「北条氏直と徳川家康・豊臣秀吉」として天下の大勢が定まりつつあった中、関東の雄として存在感を見せていた北条家に圧迫が加えられていく様子が描かれる。
名胡桃城をめぐる真田昌幸との抗争や、佐竹・結城氏との闘い。天下をほぼ手中におさめた豊臣秀吉にとって、落ち着く様子がない関東平野は目立っていたに違いない。何らかの手段で統治せねばならないことや、そのためにはその地を治める北条家と一戦を交えなければならないことも。

終章は「小田原合戦への道」と籠城を選択した北条氏が圧倒的な豊臣連合軍の前に降伏していくさまが描かれる。
敗戦の結果、氏政は切腹、氏直は高野山へ追放されるなど、各地に散り散りとなった北条家。
北条家を滅亡に追いやった小田原合戦こそ、戦国の最後を締めくくる戦いと呼んでもいいのではないか。
もちろん、戦国時代は大坂の役をもって終焉したことに異論はない。ただ、全国統一という道にあっては、小田原の戦いが一つの大きな道程になったことは間違いないと考えている。

小田原の戦いで敗れたことで関東の盟主が徳川家に移った。それなのに小田原においては徳川の名を聞くことはない。
400年たった今も、小田原の人々は北条家の統治に懐かしさを覚えているかのようだ。よほど優れた内政が行われていたのだろう。
この度、小田原の人々から北条家についての思いを伺ったことで、私は北条家の各城を巡ってみようとの思いを強くした。
もちろん本書を携えて。

‘2018/11/10-2018/11/12


日本再生の礎を築いた 二宮尊徳の生涯


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本書を読む二月ほど前に、小田原市で開かれた第八回嚶鳴フォーラムを友人に誘われ聴講した。嚶鳴フォーラムとは、各自治体がそれぞれの自治体にゆかりのある偉人を紹介しあい、理解を深めることを主旨としている。

小田原といえば小田原城や今に至る街づくりを成し遂げた旧領主の後北条氏が著名だ。しかし、報徳思想の創始者である二宮尊徳公を忘れるわけにはいかない。今回の嚶鳴フォーラムが小田原開催ということで、二宮尊徳公の事績や市としての取り組みが改めて紹介された。尊徳公の教えである実学に基づき、小学生への農業体験などに取り組まれているとのこと。

この嚶鳴フォーラムで得た糧は大きく、私の知らなかった人物にも出会えた。当レビューの前々々回と前々回で取り上げた上杉鷹山公と細井平洲先生もそうである。そして、改めて二宮尊徳公について調べてみようと思ったのも、嚶鳴フォーラムがきっかけだ。

二宮尊徳公の報徳思想は、実は私にとって馴染みが深い。それは何故かというと、私の実家近くに報徳学園があるから。第63回夏の甲子園。そこで金村選手を擁して夏の甲子園で全国制覇を果たしたのが報徳学園だ。それは、物心ついたばかりの私に強く印象を与えた。その後、高校受験でも報徳学園を訪れた。私にとって思い出のある学校だ。

だが、報徳学園の名前を知っていることと、報徳思想を理解することは全く別の話。農村を立ち直らせた業績や、幼少期に作業の合間も読書に励んでいた姿が銅像になっていることは漠然と知っていた。が、それだけの理解だった。

本書を読む前、私は独りで小田原市を再訪した。二宮尊徳記念館を訪れるためだ。それは云うまでもなく、二宮尊徳公の事績をより深く知るため。そして記念館では学芸員の方にマンツーマンで附いて頂き、詳しい解説を聞かせて頂いた。そこで思ったのが、報徳思想にはややこしい点がないということ。脳内で理念をこねくり回す思想ではないのだ。全て手足を使って実践する。つまり実学だ。

その実践の向かう先は田畑である。二宮尊徳公の活躍した当時、我が国は江戸幕府が農本主義をもって国を治めていた。士農工商の身分制度の四文字を見ると、「農」は1/4の役割しか担わされていないように思える。しかし、当時の社会制度が「農」を基盤としていたことは明らか。農の衰えは国の衰え。そして二宮尊徳公の教えとは、農に直接効くものであった。そのため、幕府にも重用され、全国に報徳思想が行き渡ることになった。

しかし、報徳思想は実学を旨とする。農村復興に効果を上げた学問は、国から田畑が失われていくにつれ、活躍の場をなくしてゆく。かくて、土の感触を知らぬ大人や子供が過半数を占める今、二宮尊徳公や報徳思想はもはや忘れられつつある。

数年前に何かのテレビ番組で、嵐のメンバーが廃校に打ち捨てられたままの二宮金次郎像を回収する内容のものがあった。

それはまさに今の報徳思想の状況にほかならない。ITによる仮想現実が幅を効かせる今、報徳思想は旧弊の代名詞なのだろう。

だが、報徳思想が今の技術信仰の世に不要な思想と決めつけるのは早い気がする。

その答えとは何か。嚶鳴フォーラムで拝聴した小田原市長からの尊徳公の紹介や市の取組からはかすかに答えのある方角に光が見えた気がした。二宮尊徳記念館では、学芸員さんに付きっきりで説明を受け、今の世に依然として有用な思想であるとの手応えを得た。

そこに来て本書である。著者は元神奈川県知事であり、本書発行当時は参議院議員であった。著者の著書リストを見るに、二宮尊徳公について過去に2冊上梓されているようだ。神奈川出身として、知事としても二宮尊徳公には関心が深かったのだろう。

ただ、本書の内容は簡潔だ。深くは記していないが、報徳思想や二宮尊徳公の事績についてはあまねく紹介している。なので、本書はじっくりと読みきるよりも、何度も読み返すのに向いている。ハンドブックと云えばよいだろうか。本書の体裁や厚みもそのように作られている。本書は五章からなっている。フォントサイズも大きめで、行間にもゆとりがある。通常の文庫本だと百ページを切る内容かもしれない。でも、分かりやすい。本書は二宮尊徳記念館で学んだ内容をおさらいするのにも丁度いいサイズだ。

私が二宮尊徳記念館で学び、有用な思想であると確信した時点から、本書を読むことで理解が更に進んだかといえばそうではない。でも、それでいいのだと思う。

なぜなら報徳思想は繰り返し学ばねば、その価値が分かりにくいものなのだから。

そもそも報徳思想は、ITに頼った生き方をしていると価値を見出しにくい。スマホやタブレット、PCに囲まれた暮らしを送っていると実学の精神を忘れてしまうのだ。そして、それこそが報徳思想衰退の理由でもある。

報徳思想とは、以徳報徳の語に象徴されている。だが、精神論が報徳思想の真髄ではない。与えられた環境に流されず、工夫を怠らぬことこそが、そのエッセンスではないかと思える。IT全盛の時代にあると、工夫を忘れてしまいがちだ。生きて呼吸して生活を営む限り、工夫する余地が沢山あるにも関わらず。

本書の副題にもあるように、日本再生には工夫の精神、実学の精神が求められているに違いない。

実学の精神を忘れないためには、本書のような入門書を折に触れて読み返すのがよいと思う。そのためにはさっと繙いて、気軽に読める本書はまさに打ってつけと云える。

‘2015/04/18-2015/04/18


小説 細井平洲―人を育て、善政を扶けた実学の人


上杉鷹山公の事績に触れた後は、細井平洲先生の事績を読むのが定石といえよう。という偉そうな書き出しで始めてはいるものの、実は細井平洲先生の名を聞いたのは、第8回嚶鳴フォーラムが初めて。

細井平洲先生は、上杉鷹山公の師として知られる人物である。上杉鷹山公の事績を学ぶ上で必ず出てくるのが細井平洲先生の教え。のはずだが、今までいかに私の読書がなっていなかったかということだろう。本稿の前のレビューである「上杉鷹山の経営学」にもちゃんと平洲先生は登場する。そもそも嚶鳴フォーラムは平洲先生の出身地である愛知県東海市の呼びかけで始まっている。その関係で嚶鳴フォーラムの実施団体である嚶鳴協議会は、今も愛知県東海市に事務局を置いているという。嚶鳴という語句すら、平洲先生が江戸で開いた私塾の名前-嚶鳴館から採っているという。

では、平洲先生とはどんな人物だったのか。嚶鳴フォーラムでも東海市の首長により平洲先生の紹介はなされていた。しかし限られた時間故、本書を読んでより深く理解したいと思った次第だ。

本書は小説の体をとっている。が、その内容はかなり簡潔だ。随筆のようにすいすいと読むことができる。平洲先生を書くにあたり著者が採ったアプローチとは、思想ではなく生涯。本書では、平洲先生の生涯を淡々と描いている。なので、平洲先生の思想を深く学びたい方には本書は少々物足りないかもしれない。

しかし、本書は平洲先生の生涯を知る入門書としては最適である。平洲先生の生涯が幼少期から晩年まで順に易しく記されている。上にも書いた通り、平洲先生といえば、江戸時代ならず日本史上の名君として挙げられる上杉鷹山公の師として知られている。つまり、その生涯を知ることは、上杉鷹山公による改革の背景を知ることになるのだ。平洲先生の思想を語るのに小難しい思想を並べてはならない。著者はそのことを弁えた上で本書を書いたのだろう。なぜなら、平洲先生の学問とは実学にあるから。理屈をこねくりまわすのではなく、実践にこそ本分があるのが実学。つまり、本書が思想を語らず、人物や事績で平洲先生を語るのも、その実学の精神に則ったためといえる。

本書から読み取れる平洲先生の生涯とは、人に恵まれたことに尽きる。両親の理解に恵まれ、師の人柄に恵まれ、親友の友情に恵まれ、弟子の地位や熱意に恵まれた。なぜそれほどまでに人の縁に恵まれたのか。それを知ることに本書を読む意味がある。

人を集める人徳とは、生まれつきの素養だけではない。人格を練る努力を通して身に付く人徳もある。

平洲先生の場合、素質ももちろんだが後天的な努力も人徳を養ったのだろう。平洲先生は江戸時代の人物であり、その人物を伝える資料があまり残っていない。そのため、著者の筆致も遠慮がちだ。それが本書全体に淡泊な味わいが漂う原因だろう。しかし、その事績からは、勉学に対してひたむきな平洲先生の意志が読み取れる。勉学とは己自身への努力であり、己自身に対する闘いである。その刃は他人には向ってはならない。

そこに平洲先生の持って産まれた性質が組み合わさり、他人には魅力と映ったのではないか。その魅力は、平洲先生を勉強させたい支援させたいと思わせる域に達したに違いない。

尾張に在って、学問向上に燃える豪農の倅、細井甚三郎。寺子屋の義寛和尚に才を見出だされ、農民の身ながらにして名古屋へ。身分社会の当時は、農民の立身出世の手段といえば学者か僧へ成ることであった。おそらくはその期待もあっての名古屋行きなのだろう。

名古屋では甚三郎は加藤于周という医者の猶子となる。猶子とは財産の相続などを目的としない養子関係のこと。加藤宇周先生を師として勉学に励むも、宇周先生は仁三郎の才を見抜き、京都へ行ってより広い知識を学ぶことを薦める。

ところが、名古屋から京へ登ったところ、学者がいない。めぼしい学者は各藩のお抱え学者となって京を去ってしまった。そこで甚三郎は独学の道を選ぶ。食費もほとんど書物に費やし、憑かれたように読書に没頭する日々。

甚三郎に転機が訪れたのは名古屋にもどってから。中西淡淵という学者にひかれ、師弟の交わりをむすぶ。

学問のための学問は教えるつもりはない。菊作りが菊を栽培するように学問を教えてはならぬ。淡淵先生の言葉として本書に紹介されている。

ところが淡淵先生は、甚三郎の才が漢学にあることを見抜き、長崎行きを薦める。

甚三郎の実家は豪農であるが、甚三郎に対する投資が並みではない。向学心に燃える甚三郎に旅費や書籍代などを惜しまず与える。また、それに応えるかのように甚三郎は書物にかじりついて勉強に励む。

長崎では仲栗と子静という学問を共に極めんとする親友を得る。

しかし、母の死の知らせがあって故郷に戻る甚三郎。母の死の衝撃に耐えられず、心労に倒れる。その間に仲栗が淡淵先生に師事したいと名古屋にやってくる。さらには淡淵先生も江戸に出ることになる。そんな訳で病の癒えた甚三郎は淡淵先生と共に江戸へ向かう。そこで私塾を開くとともに平洲へと名を改める。平洲先生の誕生である。

詩経古伝を著した平洲先生は、名のある学者となる。それにも関わらず、道端で辻説法を始めてしまうのが平洲先生の飾らぬところ。やがて、その辻説法が米沢藩の藁科松伯の目に止まる。藁科松伯といえば、米沢藩上杉家中の人物であり、上杉鷹山公の改革を早いうちから支援した人物。その松伯が、平洲先生こそ若き我が藩主の師にふさわしい人物と見込む。

ここから、日本史上屈指の名君と呼ばれた上杉鷹山公の米沢藩建て直しに弾みが付く。平洲先生の教え通り、ただひたすらに実学、実践の教えを藩政に映し出そうとする鷹山公。その実直な政策は、やがて成果を産む。勿論、不平派によるサボタージュや七人の不平派家臣によるあわやの藩主軟禁もあった。このあたりの苦労は、本稿の前にアップしたレビューにも書いたが、上杉鷹山公の事績としてよく紹介されているようだ。

やがて、藩の改革を見届けた平洲先生は、江戸へ。藩に仕えず、独立の気宇を持って、弟子を教える道を選ぶ。しかしその盛名は故郷尾張には届かぬまま。しかし、尾張藩にも人物はいた。その人は天下に聞こえる平洲先生が名古屋城から程近い地で産まれたと聞き、尾張藩として招聘に動く。

尾張藩では名古屋で教える以外にも、直に農民たちに教えを伝えようと、廻村講話を始める。米沢藩でも農民たちに語りかけたように。農民たちは飾らぬ平洲先生の語りに涙を流し、念仏を唱えて聞き入ったとされる。

好きな学問を好きなだけさせてもらい、最後には自分の積み上げてきた学問の成果を、無垢な心で聞き入ってくれる人々に語る。まさに幸せな一生であるといえよう。しかしそれは、好きな事をひたすらに突き詰めた成果である。学問に見栄や名誉を求めず、ただひたすら庶民の感覚を忘れずに学ぶことを続けたからであろう。

また、本書では弟子と師という関係が印象深く迫る。現代にあってネットを漁ればすぐに情報が入る今、人々はともすれば独学に走る。かくいう私が独学の最たる人間である。本を師として生きてきたといっても過言ではない。しかし人を、尊敬できる人物を師とすることの得難さ。そのことが、本書を通して平洲先生の生き様から感じられる。

私もそういった師に巡り合える日が来ればよいなぁと思いながら、本に向かう日々である。平洲先生の読書への思いには及ばないかもしれないが、これからも本は肌身離さず持ち続けたいと思っている。

また、機会があれば東海市にも訪問し、平洲先生の事績を巡ってみたいとも思っている。

‘2015/04/13-2015/04/15