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憂鬱な10か月


本書はまた、奇抜な一冊だ。
私は今まで本書のような語り手に出会ったことがない。作家は数多く、今までに無数の小説が書かれてきたにもかかわらず、今までなどの小説も本書のような視点を持っていなかったのではないか。その事に思わず膝を打ちたくなった。
実に痛快だ。

本書の語り手は胎児。母の胎内にいる胎児が、意思と知能、そして該博な知識を操りながら、母の体内から聞こえる音やわずかな光をもとに、自らが生み出されようとしている世界に想いを馳せる。本書はそのような作品だ。

そんな「わたし」を守っている母、トゥルーディは、妊娠中でありながら深刻な問題を抱えている。夫であり「わたし」の種をまいてくれたジョンとは愛情も冷め、別居中だ。その代わり、母は夫の弟である粗野で教養のないクロードと付き合っている。
夜毎、性欲に任せて母の体内に侵入するクロード。その度に「わたし」はクロードの一物によって凌辱され、眠りを妨げられている。

そんな二人はあらぬ陰謀をたくらんでいる。それはジョンを亡き者にし、婚姻を解消すること。その狙いは兄の遺産を手中にすることにある。

だが、そんな二人の陰謀はジョンによって見抜かれる。ある日、家にやってきたジョンが同伴してきたのはエロディ。恋人なのか友人なのか、あいまいな関係の女性が現れたことにトゥルーディは逆上する。そして、衝動的にジョンを殺すことを決意する。

詩の出版社を経営し、自ら詩人としても活動しているジョン。詩人として二流に甘んじている上に、手の疥癬が悪化した事で自信を失っている。

「わたし」にとってはそのような頼りない父でも実の父だ。その父が殺されてしまう。そのような大ごとを知っているにもかかわらず、胎内にいる「わたし」には何の手も打てない。胎児という絶妙な語り手の立場こそが、本書のもっともユニークな点だ。

当然ながら、胎児が意思を持つことは普通、あり得ない。荒唐無稽な設定だと片付けることも可能だろう。
だが、本書の冒頭で曖昧に、そして巧みに「わたし」の意思の由来が語られている。
そもそも本書の内容にとって、そうした科学的な裏付けなど全く無意味である。
今までの小説は、あらゆるものを語り手としている。だから、胎児が語り手であっても全く問題ない。
むしろ、そうした語り手であるゆえの制約がこの小説を面白くしているのだから。

語り手の知能が冴えているにもかかわらず、大人の二人の愚かさが本書にユーモラスな味わいを加えている。
感情に揺さぶられ、いっときの欲情に身をまかせる。将来の展望など何も待たずに、彼らの世界は身の回りだけで閉じてしまっている。胎内で「わたし」がワインの銘柄や哲学の深遠な世界に思考を巡らせ、世界のあらゆる可能性に希望を見いだしているのに。二人の大人が狭い世界でジタバタしている愚かさ。
その対比が本書のユーモアを際立たせている。

胎児。これほどまでに、世界に希望を持った存在は稀有ではなかろうか。ましてや、「わたし」以外の胎児のほとんどは、丁重すぎる両親の保護を受け、壊れ物を扱うかのように大切に育てられているのだから。10カ月間。

ところが「わたし」の場合、夜ごとのクロードの侵入によってコツコツと子宮口を通じて頭を叩かれている。しかも、連夜の酒で酩酊する母の体の扇動や変化によって悪影響を受けつつある。そんな「わたし」でさえ、母を信頼し、ひと目会いたいと願い、世の中が良かれと希望を失わずにいる。

胎内で育まれた希望に比べ、現実の世の中のでたらめさと言ったら!

私たちのほとんどは、外の世界に出された後、世俗の垢にまみれ、世間の悪い風に染まっていく。
かつては胎内であれほど希望に満ちた誕生の瞬間を待っていたはずなのに。
その現実に、私たちは苦笑いを浮かべるしかない。

私も娘たちが生まれる前、胎内からのメッセージを受け取ったことがある。おなかを蹴る足の躍動として。
それは、胎内と外界をつなぐ希望のコミュニケーションであり、若い親だった私にとっては、不安と希望に満ちた誕生の兆しでしかなかった。
だが、よく考え直すと、実はあの足蹴には深い娘の意思がこもっていたのではなかったか。

そして、私たちは誕生だけでなく、その前の受胎や胎内で育まれる生命の奇跡に対し、世俗のイベントの一つとして冷淡に対応していないか。
いや、その当時は確かにその奇跡におののいていた。だが、娘が子を産める年まで育った今、その奇跡の本質を忘れてはいないか。
本書の卓抜な視点と語り手の意思からはそのような気づきが得られる。

本書のクライマックスでは誕生の瞬間が描かれる。不慣れな男女が処置を行う。
その生々しいシーンの描写は、かつて著者が得意としていた作風をほうふつとさせる。だが、グロテスクさが優っていた当時の作品に比べ、本書の誕生シーンには無限の優しさと、世界の美しさが感じられる。

トゥルーディとクロードのたくらみの行方はどうなっていくのか。壮大な喜劇と悲劇の要素を孕みながら、本書はクライマックスへと進む。

親子三人の運命にもかかわらず、「わたし」が初めて母の顔を見たシーンは、本書の肝である。世界は赤子にとってかくも美しく、そしてかくも残酷なものなのだ。

著者の作品はほぼ読んでいるし、本書を読む数カ月前にもTwitter上で著者のファンの方と交流したばかり。
本書のようなユニークで面白く、気づきにもなる作品を前にすると、これからの著者の作品も楽しみでならない。
本書はお薦めだ。

‘2020/07/03-2020/07/10


あさあさ新喜劇 「しみけんのミッションインポジティブ」


26、7年ぶりの吉本新喜劇。そらもうめっちゃおもろかった!ゲラゲラ笑って、夏の暑さを吹き飛ばす。これが関西のお笑いやねん! クーラーの効きが悪うてスンマヘン、と座長の清水けんじさんが謝ってはったけど、暑さも感じひんほど、笑った一日やった。もう満足満足。

終わった後は、楽屋口のコロラドの入り口で、妻の友人、佑希梨奈さんと立ち話。圧巻のアドリブの嵐やった舞台の興奮をまくし立てる私。このライブ感が笑いの原点やがな!と一人でツボに入りまくり。もちろん妻も大笑い。いやあ、よかったよかった!

と、ここで観劇レビューを終えてもええんやけど、せっかくなんで、もうちょい書いてみよかいな。

前回、私が吉本新喜劇を観たのは、私が大学一年生の頃。当時、私がアルバイトをしていたダイエー塚口店のバイト先の社員さんやパートさんたちとなんばグランド花月まで観に行った。本場の吉本新喜劇を前にゲラゲラ笑ったのをめっちゃ思い出す。

今回の帰省で妻は、賀茂別雷神社にお参りをしたいと望んでいた。そのため、最終日は家族で京都を訪れるつもりだった。ところが、この日照りの中、興味もない神社には行きたくないと娘たちは言う。なので急遽、妻と二人きりの旅が決まった。そんな時、妻がFacebookで見かけたのが、妻の友人である佑希梨奈さんの書き込み。それによるとちょうど祇園花月の吉本新喜劇に出演しているとか。せっかくの機会なので、佑希さんの舞台を観たいと妻がいう。私も異論はない。26、7年ぶりの吉本新喜劇。しかも祇園花月にはまだ行った事がない。よし、行こうか、と夫婦の意見が合い、祇園花月での観劇が予定に加わった。

阪急の西宮北口から神戸線と京都線を乗り継ぎ、終点の河原町へ。鴨川を渡り、南座や八坂神社を横目に見ながら、祇園花月に到着。あたりは京都の風情と芸能の色で染まっている。祇園花月の外見は見るからにコテコテの吉本印。吉本のおなじみのキャラクターのパネルが入り口に立ち、いかにもな感じを醸しだしている。

うちら夫婦が訪れたこの日、吉本興業は、闇営業問題で大きく揺れている真っ最中。けど、問題なのはテレビに出ずっぱりの売れっ子だけの話。そうした問題は、昔からの演芸を地道にまじめにやっている吉本新喜劇にはあまり関係がないはず。私はそう信じている。

開幕前の前説ではピン芸人の森本大百科さんが、軽妙に客を盛り上げつつ、今日の客層をさぐろうとしている。一階席の前半分はほぼ埋まっていたが、後半分の席は私たちを含め四、五人しか座っていない。私たちの後ろの席はすべてがら空きで、いささか寂しい客の入り。まさか闇営業問題が尾を引いているとは思いたくないけれど。

客の入りが少ないのも理由があり、あさあさ新喜劇と名付けられた演目は新喜劇のみ。午後は、新喜劇のほかに漫才やその他、舞台芸が演じられる。私がかつて観たのもそうだった。けれど、あさあさ新喜劇は新喜劇のみ。だから値段が安く設定されているのだろう。

「しみけんのミッションインポジティブ」と題された演目のあらすじは、旅館の娘たちを狙う結婚詐欺師を捕まえるため、旅館の前に張り込む両刑事と旅館の人々が織りなすドタバタの物語だ。そして、冒頭に書いた通りとても面白かった。何が面白いかと言うとライブ感がすごいのだ。もちろん、練り込まれた笑いだって面白い。けれども、その場のアドリブや即興で逸脱していく面白さも喜劇の醍醐味だ。私はそう思う。客席からのヤジを絶妙に受け返してこそなんぼ。舞台に出る演劇人はそうしたあうんの呼吸を学び、台本にない演技をこなす「芸」を舞台の上で鍛え上げてゆく。

今回、見た舞台で言うと、チャーリー浜さんのアドリブや、山田花子さんのアドリブが目立っていた。山田花子さんは今の吉本をめぐる問題をおいしくアドリブのセリフにかえ、笑いをとっていた。そのアドリブのきわどさは座長の清水けんじさんを焦らせるほど。

そして、チャーリー浜さんだ。前回、私が見たときはちょうどチャーリー浜さんの全盛期にあたっていた。その時もチャーリー浜さんは舞台を食っていたような記憶がある。往年の「ごめんくさ〜い」のギャグは今回も健在。出演者一同がずっこけるのも相変わらず。そうしたお約束のボケツッコミは、吉本のDNAのようなもの。見に来たかいがあってうれしい。ただ、それよりも今回すごいなと思ったのは、アドリブのすごさだ。

清水けんじさんとの掛け合いは、あまりに二人の掛け合いのテンポが良いので、あらかじめ決まった台本なのか、と思えるほど。ところが、掛け合いの中で、大御所であるチャーリー浜さんにツッコミを入れる清水けんじさんのセリフはだんだんヒートアップしていく。台本にないアドリブをかますチャーリー浜さんを座長として叱っているようにも思えてくる。あらかじめ決まった筋書きが突如命を吹き込まれたような瞬間。こうなるともう完全なアドリブの世界だ。絶妙なアドリブを挟みつつ、その全てが観客にとってクスグリとなり、笑いを誘発する。それがすごい。さらに、ゲラゲラ笑えるのに二人の笑いは誰も傷つけない。せいぜい傷つくのは清水けんじさんの座長のプライドぐらい。

私は、今回まで清水けんじさんのことを全く知らなかった。吉本新喜劇の座長と言えば、過去のたくさんの名物座長が浮かび上がる。ところが私は、今の座長が誰かなんて知らずにいた。そんな私の認識を、清水けんじさんの姿は一新してくれた。チャーリー浜さんに猛烈にツッコミを入れる座長はすごいなと思った。こういう即興の笑いを生み出せる喜劇人は、いつ見てもすごいと思う。頭の回転が速くない私にとっては憧れだ。

何もかもがデータ上で流れる今。映画、テレビの笑いは編集された笑いになりつつある。視聴者もまた編集されたことを前提で笑っている。しょせんはスクリーンやテレビ越しの笑い。時差と空間差のある笑いだ。しかも、スポンサーや世論に遠慮して、どぎつく際どい笑いはもはや味わえなくなりつつある。ところが、新喜劇のお笑いには即興性がある。しかも誰も傷つけない笑いを会得しているため、忖度や遠慮は無用。だから面白いのだろう。

私は、喜劇とは生身のライブ感で味わうのがもっともふさわしいと思っている。それを心から感じ取れた笑いの時間だった。出演者の皆さんが、即興で笑いを呼び込む空間を作り、観客はそれに乗っているだけでいい。これこそ笑いの殿堂だ。確かに、よく練られたコントは絶品だ。面白い。だが、笑いとは場を共有することによってさらに増幅する。テレビにはそれがない。

舞台が始まる前、ズッコケ体験を受け付けていた。私たちも申し込んだ。ズッコケ体験とは、観客が舞台の上でギャグにズッコケられる観客体験型のイベント。舞台が一度終わった後の舞台挨拶で、ズッコケ体験の方々が四名呼ばれた。私は申し込んだ時点でズッコケ体験ができるものと思い込んでいた。四名の次に呼ばれるのは自分だと思い、どうやってズッコケようか真剣に悩んでいた。財布も席に置いて行こうとすら思ったほどだ。抽選で四名の方だけ、ということを知り拍子抜けした。次回、もし舞台の上でずっこけられたら、少しは私も笑いの極意が身に着けられるだろうか。

あー、東京でビジネスやっていると、笑いのセンスが身体から抜けていく。そもそも、こういう時間が取れてへんなあ。また見に行かんならん。

‘2019/08/04 祇園花月 開演 10:30~

https://www.yoshimoto.co.jp/shinkigeki/gion_archive/ar2019_07.html


ブンとフン


著者の作品はずっと読んでみたいと思っていた。それなのに、著者の作品で先に読んだのは講演録「日本語教室」のほうだった(レビュー)。実家の父の蔵書の中に本書があり、もの心ついた頃から本書の存在は知っていた。

本書を読んだのは、山の仲間とはじめての尾瀬を訪れた帰りのバス。すがすがしい気持ちで一泊二日の旅を終え、帰路についた私にとって本書は実に愉快だった。そのまま新幹線の中で一気に読み通してしまった。本書のナンセンスな内容が心地よい疲れを抱えた私には合っていたのだろう。

売れないけれど、孤高の小説家フン先生。フン先生が新たに書き上げた小説は、次元を超えて縦横無尽に行来する大泥棒の話。その名もブン。次元を超えて出没する能力をブンに与えてしまったものだから、ブンは小説から現実世界に抜け出てしまう。小説から抜け出したブンは、現実世界であらゆるものを盗みまくる。そんなブンをどうにか捕まえようと、警察長官のクサキサンスケがあらゆる手を使い、ついには悪魔や盗作作家までも使ってブンと対決する。そんな粗筋だ。荒唐無稽なことおびただしい。著者もあとがきで述べているが、「馬鹿馬鹿しいということについては、この小説を抜くものがない」(201-202P)。

ところが本書は発表されてから50年近く生き残っている。本書は地元の図書館で借りた。図書館で開架蔵書として残り続けることは実は大したことではないかと思う。長く残っている事実は、本書がただの馬鹿馬鹿しい小説ではない表れだ。本書の馬鹿馬鹿しさの裏側にあるのはまぎれもない風刺の精神だ。

ブンは奇想天外なものを盗みとる。金などより、人々を驚かせることに喜びを感じるかのように。そしてある時からブンは形のないものを盗み始める。例えば歴史。例えば記憶。例えば見栄。例えば欲望。それらは明らかに著者の思想の一端を映し出している。あらゆる価値観への挑戦。その風刺の対象には、既存の観念への挑戦も含まれていることはいうまでもない。

フン先生は、自らの小説が売れることへも憤る。まるで売れることが悪のように。それは、文壇で売れっ子の作家たちへの挑戦でもある。そもそも「ブン」=文が悪で「フン」=糞を理想とする設定自体がユニークだ。本書を発表するまでは無名の作家だった著者の反骨精神が感じられるではないか。

あとがきによると本書の元となる戯曲が書かれたのは1969年の春から夏にかけてのことだという。1969年といえば、世界的にある潮流の潮目が変わった年だ。東大の安田講堂をめぐる攻防。新左翼や赤軍派があちこちで起こした騒動。ウッドストック・ロックフェスティバルの開催。アポロ11号が月面に着陸し、人類の第一歩が記された。そうした出来事の裏側で、わが国の学生運動が終わりを迎えつつあった。運動が圧殺され、一部の運動家は過激派となって地下に潜伏する。日本も世界も保守と先鋭に二分化されつつあった時期だ。

著者が本書で目指したのはもはや実現が難しくなりつつある理想の世界に対する抵抗なのだろうか。本書には古さもあるし、時代の背景が濃厚な描写も目立つ。だが、本書の随所に設けられた試みは今も斬新だ。いまだに輝きを失っていない。読者への作者からのお願いが随所に挟まれたり、のりしろでPTAに対する抵抗をそそのかしたり。そういった手法は今みても新鮮だし、当時の人々にはさらに驚きを持って受け入れられたはずだ。そうした手法は今、とある作品に影響を与えているように思える。娘達の読んでいた「かいけつゾロリ」シリーズに。

だが、本書が備えているような風刺と、構造の破壊を行った作品に最近なかなかお目にかかれない。今、本書のような作品は生まれないのだろうか。本書が発表された1969年は、テレビの分野でも「8時だヨ全員集合!」や「コント55号の裏番組をブッ飛ばせ!」などが新風を巻き起こした。本書もその一つだろう。だが、メディア自体は斬新な表現が生まれつつあるなか、表現そのものとして斬新な作品は生まれていない気がする。

だが、あらゆる常識が覆され、既存の通念がゆらいでいる昨今。本書のような認識を転覆させるような作品はまだまだ生み出せるのではないだろうか。メタ文学、メタ認識。それまでにも私たちの感性を揺さぶる作品はたくさん生み出されていた。本書だけがすごいわけではない。だが、本書のすごいところは、そうした認識の枠を無意味なものにしながら、なおかつお笑いとユーモアで勝負していることだ。多分、その取り合わせが本書をいまだに作品として残させているのかもしれない。

だが、当時は斬新だった本書も、古典としての価値を帯びつつあるように思える。本書はもっと以前に、それこそ私が親の蔵書の中で意識しているうちに読んでおけばよかったと思う。本書の結末など、社会に向けて学んでいた当時にあっては衝撃だったことだろう。まだ著者の作品で読んでおきたいものは何冊かある。早めに読む機会を持ちたいと思う。

‘2018/06/02-2018/06/03


噂 ルーマーズ


ニール・サイモンと云えば喜劇作家として知られた存在だ。でも、今まで私は舞台やスクリーンを含めてその作品を観劇する機会がなかった。かねてからアメリカの喜劇に興味を持っている私としては、舞台で一度きちんと観てみたいと思っていた。そんな折、ニール・サイモン作品を初めて観劇する機会を得た。

今回妻と観にいったのは「噂-Rumours」。演ずるのは演劇レウニォン トップガールズと仲間たちである。女性6人、男性4人によるストリート・プレイ。麻布区民センターの区民ホールは座席数175名と小規模だったが、おかげで舞台全体がよく見渡せたし、10人の動きがよく把握できた。これぞ小劇場の醍醐味。小劇場での観劇は久しぶりだが、この距離感こそが演劇の楽しみ方として正当だと思う。

本作はニューヨーク郊外の豪邸の居間を舞台としている。暗転して登場するのはクリス・ゴーマン。取り乱した様子で右往左往している。そんな彼女に指示を出しながら二階から降りてきたのは夫のケン・ゴーマン。二階のチャーリー・ブロックの部屋から降りてきた彼もまた、平静ではない様子。この家の主であるチャーリーはニューヨーク市長代理。ゴーマン夫妻は到着するやいなや、銃声を耳にする。チャーリーが自分で耳たぶを撃ったのだ。そのことで動転しつつ、事態を穏便に済ませるため隠蔽をたくらむ夫妻。しかし、チャーリーが大変なことになっているのに妻であるマイラの姿は見えない。お手伝いさんもいない。チャーリーとマイラの結婚10周年記念パーティーに呼ばれたはずが、ゲストである自分達が事態の収拾を行わねばならなくなる。そうしているうちにパーティーに呼ばれた客たちが時間を空けて次々とやってくる。レニーとクレアのガンツ夫妻。アーニーとクッキーのキューザック夫妻。そしてグレンとキャシーのクーパー夫妻。クリスとケンの隠蔽のたくらみが、ガンツ夫妻を巻き込み、さらにその隠し事はアーニーとクッキーを混乱に落とし込み、グレンとキャシーまでも勘違いと行き違いの中で夫婦仲の悪化をさらけ出すことになる。

次々と登場する8人の人物が居間、チャーリーの部屋、台所と舞台から自在に出入りする。さらに頻繁にかかってくる舞台左脇の電話が彼らの混乱に拍車をかける。ケンはチャーリーの部屋で誤って拳銃を暴発させてしまい耳が一時的に聞こえなくなる。耳の聞こえないケンの行動が彼らの勘違いを一層混迷に突き落とす。このあたり、喜劇の舞台を作ってゆく手腕はさすがの一言。

とうとう隠し果せなくなり、ケンとクリスが意図した隠蔽は破綻する。なぜパーティーなのにホストがいないのか、この家でいったい何が起こっているのか。あとから来た6人にとって違和感が解ける瞬間だ。ところが、そこに警官が二人訪問する。慌てふためく8人。彼らはいずれもニューヨークの名士。スキャンダルは避けたい。警官を相手に演ずる必死の隠蔽工作がさらなる笑いを産み出す。喜劇作品の本領発揮だ。

幕間なしの1時間35分はライブ感覚にあふれていて、とても良かった。多少のとちりかな?という台詞も見え隠れしたけど、すぐに台詞で挽回していたため、進行には全く問題なかった。とくに最後、レニーによる長広舌の部分は見せ場。咄嗟に警官に説明するための嘘をこしらえ、即興で説明する様子の演技はお見事。あれこそが本作の山場だと思う。その臨場感は演劇のライブならでは。小劇場の舞台と客席の近さ故、舞台上の時間と空間を堪能することができた。

演劇は映画と違って、ナマモノだ。編集という作業でどうにかできる映画とは違う。そのあたりの緊迫感は演劇ならでは。また、公演期間内に修整が出来てしまうのも演劇の良さだろう。正直、本作はまだまだ良くなると思う。トップガールズと仲間たちにとって、今日は初日だった。なのでこの後も間合いの修正や台詞回しについて修正を行っていくのではないだろうか。私が観ていても、まだまだ本作の秘める笑いのツボはこんなもんじゃない、と思った。宣伝文によると過去の舞台では700回の爆笑が産まれたという。が、座長の白樹栞さんが最後の挨拶で77回の笑いがありました、といっていた通りあと10倍の笑いが取れる台本だと思う。今回は後からじわじわ来たという妻の言葉通り、観客にストレートに笑いの神が降りてきたわけではなく、一旦脳内で変換されてからその面白さが感じられた。たとえば許されるとすれば台本に忠実に設定情報を持ってくるのではなく、日本の都市に舞台設定を変えるとか。すれ違いの面白さは東京でもニューヨークでも一緒のはず。

次回、同じメンバーで演じた舞台を観る機会があればどう変わっているか。その変化を楽しむのも舞台のよいところだ。落語もそう。一つの噺を口伝で練り上げていくのが落語芸術。喜劇もまた同じに違いない。このように観劇後の劇評に花を咲かせられるのも舞台の良いところ。常に同じい内容が固定の映画とは違い、見るたびに発見があるのも舞台のよいところだ。私も今回の観劇を機会に、映画や演劇の喜劇を観る機会を増やそうと思う。ニール・サイモン作の舞台は他の劇団による公演も含めて観てみたい。もちろん、今回演じた10人の皆様による舞台も。

いずれの役者さんも私にとっては初めてお目にかかる方なのだが、ご一緒に公演後のホールでお写真を撮らせて頂いた佑希梨奈さんは、本作が久々の舞台なのだとか。でも冒頭の右往左往するシーンなど、堂々としていた。他の方も非常にコミカルかつ舞台での存在感を発揮していたように思った。また機会があればどこかの劇場でお目にかかれると思う。私もこういった小劇場の演劇を観られるようにしたいと思っている。

‘2016/9/9 麻布区民センターホール 開演 19:00~

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