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ウォンカとチョコレート工場のはじまり


年末の30日に家族で四人揃って本作を見た。

うちの家族は、昔から『チャーリーとチョコレート工場』が好きだ。
私も何度も観た。おそらく、4、5回は。

私の経験を踏まえて本作についてのレビューを本稿にまとめた。
絶賛上映中なので、本稿ではまだ観ていない方の興を削がないように配慮する。
配慮するつもりだが、本作の内容について語るので、本稿のつづきは劇場で観てから読んだ方が良いと思う。
本作は『チャーリーとチョコレート工場』の世界観を踏襲し、ウィリー・ウォンカがチョコレート工場を作るまでを描いている。

なお、本作を観た後、家族で1971年に公開された映画『夢のチョコレート工場』も観た。
『夢のチョコレート工場』は原作者のロアルド・ダールが存命中に公開されたため、原作の世界観を踏襲しているのは明らかだ。
『チャーリーとチョコレート工場』は『夢のチョコレート工場』とシナリオや登場人物がほぼ同じ。正統なリメイク版として『チャーリーとチョコレート工場』がある。ただし、リメイクにあたってはいくつかの設定が変更されている。
それを踏まえ、本稿ではジョニー・デップがウィリー・ウォンカを演じた『チャーリーとチョコレート工場』とジーン・ワイルダーがウィリー・ウォンカを演じた『夢のチョコレート工場』の違いにも言及する。

大きく設定が変更されているのはウンパルンパの扱いだ。
『夢のチョコレート工場』では、鮮やかなオレンジ色の顔に緑色の髪がウンパルンパの外見的な特徴として描かれていた。ウンパルンパのテーマを歌いながら踊る姿はとてもコミカル。
「ウンパルンパ ドゥンパティ ドゥ♪」とうたいながら踊るさまはまさに愛すべきキャラクターだ。

ところが、『チャーリーとチョコレート工場』でディープ・ロイが演じたウンパルンパのイメージは一新されている。最新技術を使って約160名の全員が同じ顔で踊るインパクトもさることながら、その踊りと歌に込められたブラックなシニカルさが洗練され、映画のインパクトに華を添えていた。
『夢のチョコレート工場』の素朴なウンパルンパが『チャーリーとチョコレート工場』の洗練されたウンパルンパに変わることで、ブラックな面白さがより強調されていたように思う。

本作のいくつかの設定、特にウンパルンパの外観は『チャーリーとチョコレート工場』より『夢のチョコレート工場』に近い。
つまり、原作者が想定していた世界観により忠実だと思う。

本作でヒュー・グラントが演じるウンパルンパも、登場シーンでウンパルンパのテーマを歌い踊る。鮮やかなオレンジ色の顔に緑色の髪を持つより原作のイメージに近い外見で。

本作に登場するウンパルンパは、ほぼヒュー・グラントによる一人のみだ。
160名のウンパルンパのインパクトには劣るが、ヒュー・グラントがもともと持っているシニカルでブラックなユーモアがうまく活かされていて、それが面白さになっていたと思う。
とても素晴らしいウンパルンパの再解釈だと思う。

ただし、本作にはブラックでシニカルな原作の良さがあまり感じられなかった。ヒュー・グラントが扮するウンパルンパだけがそれを体現していたように思う。
むしろ、ブラックでシニカルなユーモアを体現していたのが、『チャーリーとチョコレート工場』ではウィリー・ウォンカで、ウンパルンパは無表情で歌い踊ってウィリー・ウォンカのブラックな側面を強調していた。本作ではウィリー・ウォンカからブラックでシニカルな部分が姿を消し、その点を受けついだのがウンパルンパだったともいえる。

『夢のチョコレート工場』と『チャーリーとチョコレート工場』には、善と悪といったわかりやすい構図がない。むしろ、主人公のウィリー・ウォンカのつかみどころのなさこそが、作品全体の特色だ。
ウィリー・ウォンカは何を考え、登場人物はどこに連れて行かれるのか。そこにドラマの興味は絞られていた。

ところが、ティモシー・シャラメが演じる本作のウィリー・ウォンカは夢をもち、希望を語り、マジカルな能力とそこから作り出す魔法のチョコを使って人々を魅了する善人として描かれている。
カルテルを組んで街のチョコレート流通を支配し、ウィリー・ウォンカを抹殺しようとする三人組やチョコレートで三人組に籠絡される悪辣警察署長が悪で、それに対するウィリー・ウォンカという構図。そのため、ブラックでシニカルな面白さが善と悪の二元構造によって薄められてしまっており、原作の持つ面白さを体現していたのがウンパルンパのみだったのが残念な点だ。

ただ、本作の悪役陣はどこか憎めない存在として描かれていた。例えば本作では、悪役たちも歌い踊る。
『夢のチョコレート工場』と『チャーリーとチョコレート工場』の違いは、ウンパルンパ以外の登場人物も歌って踊る点だ。
本作は登場人物たちも歌って踊る。その点でも『夢のチョコレート工場』に回帰していたように思う。

悪役たちにもスポットライトを当てていて、特に登場する度に太っていく悪辣警察署長はコミカルの極み。
また、ウィリー・ウォンカを始めとする6人を契約の罠で閉じ込め、洗濯部屋でこき使うミセス・スクラビットとプリーチャーも憎めない悪役として描かれている。

登場人物の肌の色も含め、本作の善と悪も二元的に描かれてはいるものの、総じてなるべく多様性を配慮した作りになっている。

ただし、原作の世界観に忠実なのが本作であるものの、原作に合った肝であるブラックでシニカルな面白さが欠けている以上、その点で私は辛い点をつける。

ついでに言うと、ウィリー・ウォンカが持つマジカルなチョコレート作りの秘密こそが本作でも大きな興味を抱く点だったにもかかわらず、その能力をどこで手に入れたのかが描かれておらず、これも物足りなさを感じた点だ。
ひょっとしたら、ウィリー・ウォンカがそうした能力を身に付けていくいきさつだけでも一本物の映画が作れるのかもしれない。が、できれば本作でもそのあたりがもっと描かれていたらよかったのに、と思った。

ただ、それだと本作について辛く言うだけで終わってしまう。ここで、本作の良さを取り上げたい。
本作はチョコレートと言う誰もが憧れる夢の食材をマジカルに描き、それをミュージカルが持つ音楽の楽しさに乗せたことが魅力になっている。ブラックかつシニカルなユーモアは本作では強調されていないと割り切ったほうがよい。
つまり、原作がどうとか『夢のチョコレート工場』と『チャーリーとチョコレート工場』との違いや受け継ぎ方をあげつらうことは本作を鑑賞する上ではむしろ邪魔だ。
本作は独立した作品として観ることで、楽しい余韻だけを感じた方がよいと思う。
なお、チョコレートがきっと食べたくなるはず。

‘2023/12/30 109シネマズグランベリーパーク


掏摸


著者の「教団X」は衝撃的な作品だった。私は「教団X」によって著者に興味を持ち、本書を手に取った。

本書は欧米でも翻訳され、著者の文名を大いに高めた一冊だという。
「掏摸」とはスリのこと。いかに相手に気づかれずサイフの中の金品を掏り取るか。数ある罪の中でも手先の器用さが求められる犯罪。それがスリだ。
もし犯罪を芸術になぞらえる事が許されるなら、スリは犯罪の中でも詐欺と並んで芸術の要素が濃厚だと思う。

スリは空き巣に近いと考えることもできるが、空き巣は大抵の場合、場所の条件によって成否が大きく左右される。
さらに、持ち主が被害に気づきやすい。大事になる。

ところが手練れのスリになれば、移動の合間にサイフの中身を抜き取り、持ち主が気づかぬうちに元の場所に戻すこともできる。
相手に盗まれたことすら気づかれぬうちに財布を戻し、しかもサイフの中の全ての金品を奪わずに、少しだけ残しておく。
そうすることで、極端な場合、移動を繰り返す被害者が、移動中のどこかで落としたぐらいにしか思わないことさえある。
被害者に犯罪にあったことさえ気づかせない犯罪こそ、完全犯罪といえるだろう。

そこには、本来、悪が持っている、やむにやまれぬ衝動ではなく、より高尚な何かがある。
それこそが他の犯罪に比べスリを芸術となぞらえた理由だ。
スリ師の一連の手順には、手練れになるまでの本人なりの哲学さえ露になる。
スリを行う上で、何に気をつけ、どういう動機で行うか。それはスリではないとわからないことだ。
むしろ、生き方そのものがスリとなっているのだろう。

だからこそ、著者はスリを取り上げたのだろう。
スリの生態や動機を知らべ、その生きざまを主人公の行動を通して明らかにし、文学として昇華させようとしたのだろう。
本書に描かれたさまざまなスリの生態。それはスリの営みが犯罪である事を踏まえても、犯罪として片付けるだけでは済まない人としての営みの本質が内包されているようにすら思える。
ただし、スリはあくまでも犯罪だ。スリを礼賛することが著者の狙いではない。

スリとはすなわち手口でしかない、いうなれば小手先の芸術。
そこには、何か作家の琴線に触れる職人的な魅力が備わっているのだろう。

本書には主人公の生き方を否定するかのような、さらに本格的な悪が登場する。
その悪の前には主人公の罪など、しょせん生きるためのアリバイに過ぎないとさえ思える。
思うに著者は、悪の本質を描くため、より軽微なスリという犯罪から描きたかったのではないか

著者は本書で悪の本質を追求したかったのだろう。
それを著者は本書に登場する絶対的な悪、つまり木崎の存在として読者に提示される。

絶対的な悪を体現した人物、木崎は、相手に対する一切の忖度をかけない。
そればかりか、主人公を否定すらしない。ただのモノとして、道具として扱う。

木崎の絶対的な悪に対し、主人公には甘さがある。
万引を繰り返す母子に同情をかける主人公。
子供は親の万引の片棒を担がせられている。そして、母はつぎつぎと男を引っ張り込む売春婦だ。
主人公は、彼らの万引の現場に居合わせる。そして彼らの手口が店側にばれていること。次に同じ現場で犯行を行うと、捕まることを母子に忠告する。
そのような主人公の同情を察し、子は主人公のもとに転がり込む。自らの境遇に嫌気がさして。

誰にとっても、人生とはつらく苦しいものだ。
ところが親にとって道具とされる子にとっては、辛い以前に人生とは万引そのものでしかない。何も将来が見えず、何の希望も知らない日々。
主人公のように、スリという犯罪を芸術として楽しむ余裕や視野すらない。より、憐れむべき存在。
だから主人公は子に同情する。そして憐れむ。

ところが絶対的な悪木崎にとっては、主人公が子にかける同情は一片の値打ちすらない。それどころか相手を意のままに操る弱みとして映る。
主人公は母子を人質にされ、木崎の命に従うことを強いられる。

主人公は木崎からスリを要求される。その難易度の高い手口とスリリングな描写は本書のクライマックスでもある。
主人公はどうやって不可能にも思えるスリを成し遂げるのか。
その部分はエンターテインメントに似た読み応えがあって面白い。

だが、本書には別の読みどころもある。それは絶対的な悪、木崎その人が悪の本質を語る場面だ。

「お前がもし悪に染まりたいなら、善を絶対に忘れないことだ。悶え苦しむ女を見ながら、笑うのではつまらない。悶え苦しむ女を見ながら、気の毒に思い、可哀そうに思い、彼女の苦しみや彼女を育てた親などにまで想像力を働かせ、同情の涙を流しながら、もっと苦痛を与えるんだ。」(119ページ)
「俺は人間を無残に殺したすぐ後に、昇ってくる朝日を美しいと思い、その辺の子供の笑顔を見て、なんて可愛いんだと思える。それが孤児なら援助するだろうし、突然殺すこともあるだろう。可哀そうにと思いながら!」(119ページ)

木崎によれば、この世とは「上位にいる人間の些細なことが、下位の人間の致命傷になる。世界の構造だ。」(140ページ)

その考えをつきつめると、最大の悪に行き着く。悪とは人の人生を完全に操ることだと木崎は語る。
木崎は、ある男の一生を例に挙げる。人生のすべての運命や出会いを知らぬ間に操られ続けた男。懸命に生きてきたと本人は信じているのに、すべての幸運も不幸も、出会いや別れさえもすべて上位のある存在にお膳立てされていたことにすぎなかった。それを知った時の男の絶望。

悪とは何をさすのか。
それは他人の人生への介入であり、支配ではないだろうか。
木崎の哲学はそこに行き着く。
自らを上位に立つ人間として位置づけ、絶対的な悪への信念にもとづき、他人を自らを支配する。
木崎の行動の動機はそこにある。その支配がさらに自らを上位に押し上げ、より純粋な悪へと昇華させる。

われわれ小市民が考える悪とは、自分自身を少しでも楽にするための営みに過ぎない。
木崎の考える悪とは、さらに他人の支配も絡める。例えば相手の体を傷つけたり、相手の金品を盗んだり、相手の生命を奪うといった。それこそが悪の一面だが、ただし、それを自覚的に行うのと自分の中の止まない衝動に操られて行うのでは悪の意味が違ってくる。
木崎は自分の信念に基づき、自覚して悪を行使する。だからこそ彼は悪の絶対的な体現者なのだ。

それに比べると、主人公は母子に対し善意の介入を行う。それは善に属する。
そこが主人公が営む悪、すなわちスリと木崎の考える悪の間にある絶対的な差なのだろう。

スリという営みからここまで悪の輪郭を描き出す本書。
私たちの普段の生き方を考える上でも悪は避けては通れない。
味わい深い一冊だ。

‘2019/6/9-2019/6/12


経営センスの論理


Cybozu社のイベントで何度か著者をお見かけした。そのイベントとは、Cybozu Days。その中にkintoneを活用したユーザーが事例発表を行うkintone hiveというコーナーがあり、著者はその審査委員長だ。

そんなわけで著者の名前は以前から知っていた。だが、著作を読むのは本書がはじめて。本書のタイトルが私を引きつける。経営センス。経営者の端くれにいる私に全く足りていない。

私は、自分に経営センスがあるとは思っていない。あればとっくに大勢の人を雇っている。私に経営センスがないのは、経営についての勉強を全くしていないからだ。全てが独学。ようやく法人化して四年目を迎え、さまざまな話をさまざまな方から伺い、自分なりに経営に試行錯誤してきた。

だからこそ、経営には「センス」と「スキル」があり、経営には両方とも必要なのだ、という著者の説には勇気づけられる。私の場合、圧倒的に足りないのは経営スキルであり、経営センスは多少なりとも身についているのでは、という勘違い。私に足りないのはむしろ経営センスではないだろうか。

財務諸表の読み方など、しょせんスキルの話だ。それらをいくら身につけてもそれだけでは優れた経営者とはいえない。せいぜいがスーパー担当者に過ぎない。そんな著者の言葉には頷けるところもあり、耳も痛い。私の場合は多分経営者ではなく、スーパー担当者に過ぎないのだろう。経営者でありながら、自分でプログラミングや設計やテストをこなしているうちは経営者とは言えない。

とはいえ、経営センスを身につけねばならないことは差し迫った課題だ。そもそも経営センスとは何なのか。で、どうやって身につけるのか。分かるはずがない。著者は「善し悪し」よりも「好き嫌い」で経営することが経営センスではないかという。そう聞くと、「好き嫌い」による経営は感情を論理より重んずる経営と同じ意味になり、あまりよろしくない気がする。ところが、センスある経営者をみていると好き嫌いで経営判断を下しているとしか思えないと著者はいう。確かに有名な経営者の言動、例えばスティーブ・ジョブズや松下幸之助の事績を見ると、論理よりも感情が見え隠れする。

経営者といえども人間だ。時間も有限にしか持たない。つまり、どこまでを自らの手で行い、どこまでを任せるのかについての線引きをきっちり行わねばならない。それがすなわち、本書でいうハンズオンとハンズオフの境界なのだろう。とくに、オフの線引きが重要なことは本書から読み取れる。私の場合もそう。コーディングはまだしも、テストまで手を染めることはやりたくないし、やってはならないと思っている。ところが、先日、某案件で私自身がテスターとなってしまった。忸怩たる思いに苛まれている。

著者は経営で重要なこととして「自由意志の原則」を挙げている。本来経営とは自由意志に基づくはず。ところが「⚪⚪せざるを得ない」という理由で経営の舵取りをする経営者がいかに多いか、と嘆く。これも耳が痛い。弊社の場合、さしずめ「人を増やさざるを得ない」「案件を請けざるを得ない」から経営しているといえよう。

第1章が、「経営者」の論理であるなら、第2章は、「戦略」の論理を取りあげている。ここで重要なのは、「連続性」と「非連続性」の観点だ。ここでいう連続性とはルーチン業務を指す。この連続性のラインに載っているかぎり、イノベーションは生まれない。同業他社から一歩抜け出すためには非連続性の中に踏み込まねばならない。著者がここで持ち出すのは、米国のサウスウエスト航空の事例だ。航空業界の中にありながら、あえてLLCという機軸を生み出す。そして業績を好転させる。一方で著者は、IT業界を技術革新の連続からなる非連続性の業界と解釈する。アマゾンは非連続性の中でユーザーの購買行動という連続性に着目し、業界のみならず、全産業の中でも巨人となった。新規の事業ではなく、従来からある事業の連続の中に商機を見いだしたからこそ、アマゾンはその地位を得た。

ちなみに著者は非連続性の業界の例としてIT業界をあげたが、連続性の部分もある。いわゆるSESだ。多重請負のもと、大手開発案件に技術者を派遣する業務だ。私も以前はこの業態の末端にいた。この業態には残念なことにイノベーションはない。私自身も未来を感じられずにいた。それなのに十年近くも在籍してしまった。それは私の後悔であると同時に、本書の記載に唯一疑問を抱いた点だ。

あと、この章では攻撃は最大の防御という戦略も描かれる。著者はご自身の頭髪を例に挙げ、ユーモアをたっぷり振りかけつつ戦略を語る。本書は全体的にこのような脱線が随所に挟まれ、心を和ませてくれる。「善し悪し」よりも「好き嫌い」で経営は語られるべき、を実践するかのように。

第3章は、「グローバル化」の論理だ。

この章にも重要な指摘がちりばめられている。そもそも著者は、グローバル化に当たっては、三つの壁があるという。それは英語の壁、多様性の壁、経営人材の希少の壁だ。それらはある意味では分かりやすい構造だ。しかし、著者の視点によると、この壁はかなりの誤解を生んでいるという。まず、英語の壁は英語の能力ではない。コミュニケーション能力の壁であること。多様性についても同じく誤解が生じている。それは、経営とはどこかで統合しなければならないことだ。各部門が好き勝手やっていたら会社は成り立たない。当然の指摘だと思う。「経営の優劣は多様性の多寡によってではなく、一義的には統合の質によって左右される」(119p)

三つ目に挙げられた経営人材の希少。経営人材とは、一章で挙げられた経営センスを持った人材を指す。スーパー担当者だけでは会社は回らない。センスを持った人材を育てなければならない。「非連続性を乗り越えていける経営人材の見極めは多くの日本企業にとって最重要課題である」(131p)

もちろん弊社にとっては、私自身が経営人材として舵取りをしていかねばならないわけで、肝に銘じねばならない。

第4章は「日本」の論理。ここも、日本にしがみつかざるを得ない(という自由意志を放棄したような)、弊社にとっては心強い内容に満ちている。いわゆる日本の終わりを予言する論調。それらの論調に反し、著者は日本の優位を説く。例えば日本が抱える問題で筆頭に挙がるのは少子高齢化だろう。だが、著者に言わせれば、それは逆を返せば問題が分かっていることと同じ。そして問題が事前に分かっていれば対策も採りやすい。一方、諸外国にも問題はある。日本と違い、諸外国の抱える問題は不確定の要因からなっている。たとえば宗教の対立、民族の対立などの問題はいつ何時どのように起こるか分からない。日本の場合はその問題が相対的に低いため優位な地位にあるというのが著者の分析だ。また、日本の企業は専業志向であるため、その分野では底力を発揮するというのも著者の見立てだ。諸外国の企業はポートフォリオ経営に特化し、採算が悪ければあっさりとその事業を売却する。日本でも大手の家電メーカーは、事業の切り売りをはじめているが、中堅どころの体力のあるメーカーは専業志向で頑張っていると著者はいう。

第5章は「よい会社」の論理。

この章で著者は、若者のブランド志向を指摘する。かつての私を思い返すと耳が痛い。顔から汗が噴き出る思いだ。就職活動の時、ろくに会社分析をせず、イメージだけで選んでいた私自身への痛烈な指摘が続く。私はこの時の経験から大企業への信仰がすっかりうせてしまった。今、零細企業の経営者として恥じるところはまったくない。ところが今の若者たちの多くはまだ企業をブランドイメージで捉えていると思う。消費者として眺めたときのイメージと、働く側で見据えたイメージの落差。先日もとある方としゃべっていたが、その方からはいわゆる大手企業にある官僚的な体質、社風について懇々と教えていただいた。

良い会社とは、いわゆる企業ランキングではわからない。そこで著者はGPTWインスティテュートによる働きがいのある会社ランキングを推奨する。このランキングは従来の指標とは一線を画し、働き甲斐に着目したランキングなのだそうだ。

第6章は「思考」の論理。

ここではもう少し経営センスのコアな部分に着目する。「抽象」と「具体」の往復。それこそが、地頭の良さを決めると著者はいう。その振れ幅の大きさこそが、行動や選択の幅や人間の器を大きくする。頭でっかちなだけでは駄目で、猪突猛進なだけでもだめ。両方が出来る人こそが器の大きい人物なのだろう。また、情報と注意をトレードオフするコツとして、巷に溢れる情報の渦の中で、どこまでを取捨選択すべきに帰ったについて、著者は語る。私の場合はSNSからの情報を絞ることにした。結局のところ、SNSから得られる情報量と時間の生産性を考えると、どうしても生産性は落ちる結論に達する。私はそう割りきってSNS投稿を行うように変えた。私の考えでは、自分のビジネスの広告効果より、生涯の収穫量に重点をおいている。

このように、本書はさまざまな視点から考えさせてくれる。

’2018-06/22-2018/06/30


親鸞-悪の思想


2014年の後半に読んだ「人はなぜ宗教を必要とするのか」。この本によって、浄土真宗の創始者である法然、親鸞に興味を持った。

念仏を唱えさえすれば善人だけでなく悪人も極楽浄土に往生できる、いわゆる悪人正機の教え。一切の自力による努力を虚しいものとする他力本願の教え。鎌倉時代に現れたこの二つの教えは、今の秩序ある競争社会の目には異質に映る。人の世の清濁や人間の営みを退けず、むしろ受け入れた上で宏大な包容力で包むような教義は、我々に自らの小ささを思い知らせる。さしずめ、勤め人の状況からなんとか逃れよう、日々が同じ日々にならぬよう、バタバタしている私もまた、小さき人の一人に過ぎないのだろう。

本書は新書ではある。しかし内容は実に濃い。新書の紙数を最大限に使い、親鸞の教えについて緻密な検証を繰り広げる。その緻密さは、難解さでもある。本書において著者は親鸞の教えとがっぷり四つに組んで格闘している。半可な私には、その高度な闘いのほんの一部分しか理解できなかった。親鸞の思想の深みを知れば知るほど、私などの手には届かぬ距離を感じた。よしんば触れえたとしてもそれを掴み上げることは今の私にはまだ無理である。しかし、努力は放棄したくない。今回本稿の形で改めてレビューに起こすにあたり、本書で繰り広げられる著者と親鸞の格闘を見届け、中継と解説を試みたいと思う。

序章 悪への視角
序章からして、深い。著者の筆致は端正であり、冷静だ。読者への媚びもない。序章から早くも、親鸞の思想への切り込み方が示される。

冒頭から歎異抄の有名な一説が提示される。

善人なほもって往生を遂ぐ。いはんや、悪人をや。

ここでいう悪人とはなにか。親鸞はどういう視角から、悪人を定義したのか。序章には「悪への視角」という題が付されている。その名にふさわしく、著者は悪への視角を追求する。

親鸞が起こした浄土真宗は、加賀の蓮如によって大いに栄えた。だが、蓮如は歎異抄を聖教の書としつつ、みだりに信者に読ませることを禁じたという。当時にあっても、この内容は誤解を招きかねないと思われていたのだろう。また、著者は親鸞の思想の深みに踏み入れる前に断りを入れる。それは、歎異抄が親鸞の教えを伝えている書かどうかについてである。歎異抄は、親鸞の弟子唯円によって書かれたが、親鸞が悪人正機の考えを持っていたことは確かであり、歎異抄の内容も親鸞の教えに相違ないという。実際、明治以降になって歎異抄については従来考えられていた論とは違う角度からの様々な論が提示されたという。そのような様々な論に対し、著者は次々と論破を試みる。その中には梅原猛氏や山折哲雄氏といった現代の碵学も含まれる。両氏もまた、歎異抄については疑問を述べ、独自の論を展開する。果たして唯円が表した歎異抄は、親鸞の思想を的確に伝えているか。著者は伝えていると考え、梅原、山折両氏は伝えていないとする。著者は両氏の論に真っ向から対論を挑み、序章からしてすでに濃密な論理が展開される。

また、返す刀で著者は思想研究のあり方についても論を進める。過去の思想を検証するにあたっては、現在の立ち位置から検証されなければならないと言う。客観的な親鸞像よりも、わたしたちにとっての親鸞像が重要という訳だ。

この視点はかなり私にとって重要だ。というのも、私は歴史問題を考える際は、時代背景が違う後世の人間が過去を断罪するなどおこがましいと考えているからだ。ただ、本書がいうように過去の研究が今に活かせないとすれば、それはただの骨董趣味という意見もその通り。上記の箇所を読み、私も今後、近代史や戦史について考える際は改めてその事を意識しなければと思った。

第一章 思想史のなかの親鸞
序章からして著者のペンの切っ先は鋭い。鋭く端正で、丁寧だ。翻って第一章では、その鋭さを一旦鞘に納め、著者は万葉集を例にとり、日本の無常をめぐる考えの移り変わりを説く。平安末期からの戦乱とそこにはびこった末法思想。その混乱の中で師法然がたどり着いた易行による救済。それらの時代背景を踏まえた上で親鸞の生涯が描かれ始める。天台宗の中で性欲に悩み、如意輪観音から啓示を得、法然の弟子となる経緯。浄土宗が弾圧され、流刑が解けた後も関東で布教を積んだ日々。20年後に京に戻るも、実子の善鸞が教えを曲げたとして義絶せざるを得なかった苦悩。孤独と苦悩のうちに90歳で亡くなった晩年。その中で親鸞自身が自分の中の欲望に悩み、「罪悪有力 善根無力」の法然の教えにすがる経緯や、それでいて、悪しき凡夫である自身から逃れられなかった苦しみに呻吟していたことなど、親鸞の生涯が簡潔になぞられていく。また、親鸞死後の浄土真宗の歩みを蓮如の時期まで概説し、蓮如の歎異抄にたいする考えを批判する。衆目に歎異抄を晒すことを禁じた蓮如は、悪人正機の一説を道徳・倫理の視点からでしか読み解かなかった。しかし、この一説は人間存在の根本に肉薄する重要な言説であること。

第二章 悪人正機の説
一章の最後で指摘した内容を受け、悪人正機説に切り込むのが本章だ。ここでは先に挙げた一節「善人なほもって往生を遂ぐ。いはんや、悪人をや。」と、それ以下に続く文章が引用される。その引用箇所では、他力本願の教えが明確に書かれている。つまり、一切を弥陀の本願に委ねきって他力の立場に立つ悪人こそが、まさしく救いにあずかるべき身である。したがって、善人でさえも往生できるのだから、まして悪人は当然だ、と。これこそが他力本願の教えである。この引用文からは、悪人正機と他力本願の教えは歎異抄の中ですぐ隣に書かれていることがわかる。

ここで著者は悪人を道徳的・倫理的悪ではないとする。文字通りに読むと親鸞は悪人こそが往生できると述べた破戒僧になってしまう。だが、門人に対して悪行を諌める文書が残っているという。つまり、破戒を推奨した人物だったわけではないという。後世の暁烏敏による解釈では悪人と善人のそれぞれの意味は逆説的ではないかとあったが、それも違うと著者はいう。つまりは、悪を道徳的・倫理的悪と見るのではなく、存在論的悪とみることで、これらの疑問は解消されるという。

存在論的悪とは、何か。それは存在することとは、他人を殺すことによって生かされているということを意味する。仏教の考えでは生きとし生けるものは皆仏性を持つとある。つまり仏性を持つ他の生き物を殺さねば自分が生きられない。これこそが存在論的悪である著者は云う。

また、著者は存在論的悪の例をもう一つ上げる。それは私のような商売人にとって致命的ともいえる悪だ。つまり商売の悪である。商売とはつまるところ他人により自分を売り込むことであり、他人の損を自分の得につなげる営みである。商売とは、自らの利益を追う営みであることは否定しようがない。また、入学試験のように自らが入学できたことは、反対に落とされる人がいることも意味する。また、仮に皆で人助けをしたとしても、それすらも別の人に被害を及ぼす可能性は否めない。それらを著者は排除という言葉で表す。そこに存在することで例え悪意がなくとも他人に被害を及ぼしうる。まさに存在論的悪である。人が生きる限り避けられない悪。親鸞のいう悪人とは、存在論的悪をなす我々全てと見てよい、と著者はいう。

親鸞の自己への視線はあくまで客観的で、突き放している。我々煩悩に生きる人々にも、ふと物思いにふける瞬間がある。そんな時、自らの存在について、生きものを食べねばいきられない業について、利益を追う日々について自省することもある。しかし、私も含めたほとんどの方は、日々の多忙にかまけ、その様な考察を深めることをしない。またはしても忘れる。そもそも親鸞のように、四六時中、自らの存在や存在していることで生ずる悪業に考えを廻らすことなどできるはずもない。我々の精神は親鸞のようにそこまで頑丈ではないのだ。私は常に思うのだが、仕事という仕組みには、一面ではそういった思考に落ち込まないため、我々自身を多忙に追い込むために考えた仕組みではないかともいえる。

道徳的・倫理的意思に関わらず人は例外なく悪人である。親鸞の悪人正機説は、そこに基点を置く。だから、善人なおもって往生す、の善人とは「もし善人というものがありうるならば」との注釈が入るはずだ、というのが著者の解釈となる。

また、我々が悪を避けられないならば、全てを念仏に託し、念仏を通して阿弥陀の救いにすがる、という理屈も分かる。我々の存在がどうあっても悪でしかない以上、人間が善悪を云々するのもまた愚か、というわけだ。つまり、善人になろうと努力する人は在りもしない善を求め、悪を自覚できず存在の根本から誤っていることになる。親鸞のいう善人悪人について、著者はこう解釈している。つまり、悪人が自らの存在故に無力な悪人であるため、阿弥陀によって救済される、ここに親鸞の悪人正機説があると著者はいう。ただし、第四章で触れられるが、信心を持たず、悪業の限りを尽くす、道徳的・倫理的悪人が弥陀の本願として救われない存在であることはいうまでもない。

著者はその結論を携えて次章に移る前に、信仰の定義を確認しておくことを忘れない。その中で著者が訴えたいのは、科学的立場から、宗教を退けることの不毛さである。自然科学も根本まで突き詰めれば、この定理が正しいはずという「信仰」にすぎないと著者はいう。

この辺りの議論は、本書を読むきっかけとなった「人はなぜ宗教を必要とするのか」で展開された論理と同じである。

第三章 「信」の構造
ここでは、信仰の在り方について、親鸞の考えが述べられる。法然の忠実な弟子であった親鸞は、弟子を持っていなかったという。門人は多数いたが、仏門にあっては共に弥陀の弟子であり、弥陀の前では等しいと。信仰とは、弥陀から衆生に等しく一方向に与えられるもの。弥陀の前にはただ単独者として相対するだけ。単独者のはずなのに、別の単独者を弟子とすることは矛盾しているのではないか。親鸞はこう見ているのだという。しかし一方で、仏への理解には差があるため、親鸞は師弟関係は認めていたという。

ここからは、徹底的に仏の前にあっては皆無力であり、小賢しく徒党を組むことを拒むのが親鸞の思いであることが見てとれる。宗派の勢力争いなどもってのほか。また、親鸞は師法然の念仏という行の重要性も認めつつ、信、つまり思いこそを重視する。念が優先されるとするならば、言語が不自由な方は往生できなくなる。親鸞がこの事を認識していたこともまた、当時にあっては尊敬すべき点だと思う。

ここで著者はアウグスティヌスを引き合いに出す。神から一方的に与えられる信仰。そしてキリスト教に知られる原罪の考え。著者は敢えて書かないが、キリスト教への真摯な宗教心と、親鸞の意図した信には共通点があると言いたいのではないか。そして著者は、徹底した受動性が信であるとするならば、不信心者が自らの不信心を述べることについても、その基盤が不徹底であればそもそも不信心とすら云えないと喝破する。この点も「人はなぜ宗教を必要とするのか」に書かれていた。

第四章 悲憐
前章では、受動性が説かれた。では我々にできることはないのか。親鸞は何も行わず、誰にも与えようとしなかったのか。本章ではこの点に詳しく触れる。

まず、往相廻向と還相廻向の考えが示される。前者は、人間が自分の力に基づいて自己を弥陀に駆り立てることではなく、弥陀が人間を弥陀自身にむかって駆り立てる(往生させる)ことだという。後者は、浄土に往生した者が現生に帰ってくることと同義だという。その上で親鸞は、まず往相廻向によって人は弥陀によって導かれ、そして往生後、還相廻向によってこの世に現れ、人々を弥陀道へと導くという。そして還相廻向の営みおいては、悲憐の情を伴うべきという。つまり往相廻向が受動性であるならば、人々に弥陀の悲憐を差し向ける営みこそが能動性、還相廻向であると著者はいう。それはまた、共に悲しむ共悲にも通ずるものだろう。

思うに、往相廻向と還相廻向の違いとは、仏教の成り立ちからついて回る小乗仏教と大乗仏教との違いに当てはまるのではないか。自己の研鑽とそれによる成仏が小乗仏教とすれば、民に等しく仏の慈悲を広めるのが大乗仏教であると。こう考えると、仏教とは、大きな二つの考えの間を揺れなから育ってきた宗教だと思える。(これを書くにあたって調べた所、現在は小乗仏教という言葉は差別的な意味を含むため使われなくなっているらしい。)

ここで、著者は歎異抄のそもそもの成り立ちに読者の注意を向ける。歎異抄は唯円が親鸞の教えと異なる教えが横行することの歎きを書いたものという。そして、歎異抄について唯円は、親鸞の教えから逸脱した教えを信ずる人々を非難せず、共悲の心をもって歎異抄を編んでいるはずだと著者はいう。そして、その姿勢にこそ、歎異抄が親鸞の教えを正統に受け継いでいる所以ではないかと。

結章 悪の比較論
ここでは、まとめに入る。まとめではアウグスティヌスが再び登場し、親鸞のいう悪とアウグスティヌスのいう原罪について、精緻な比較がなされる。そこでは存在論的悪こそが神に救われ、高ぶるものや傲慢といった道徳的・倫理的悪は神に見出されることすらない。このあたりの論理はアウグスティヌスと親鸞に共通していると思う。

アウグスティヌスは、マニ教とキリスト教のどちらを選ぶか悩んでいたことが示される。マニ教。高校の世界史で出てきたことは覚えているが、私にとってほぼノーマークの存在。マニ教は、キリスト教にとある問いを突きつけたという。

  悪はどこから来るのか

つまり、全知全能な神が作り上げた善なる世界において、現実に悪は存在する。その悪とはどこから来るのか、という問いだ。そこでアウグスティヌスは、自らの放蕩の過去も踏まえ、悪の一切を拒絶したマニ教でなく、罪びとをも包容する力を持ったキリスト教を選んだ。だが、悪はどこから来るのかという問いは解消されぬままであり、アウグスティヌスは答えを出す必要があった。

その結果、善の欠如が悪であり、悪は神にかかわるものでなく人間の自由意思に生ずるとアウグスティヌスは考えた。

そして、理性を持つかどうかによって、下位の動物に対する生殺与奪の権利を持つと規定し、原罪の考えを解決しようと試みた。それは現代にも通ずる科学中心、人間中心の考えに繋がる、西洋式の考えに繋がるはずだ。著者もその点には気づいており、そこにアウグスティヌスの限界があったとしている。

一方で親鸞はそうした逃げを打たなかったとする。人間が存在する限り逃れられない悪。アウグスティヌスや他の思索者が道徳的・倫理的悪で思索を止めてしまったのに対し、親鸞はその先を行った。が、著者は親鸞ですら矛盾を完全に超克したわけではないと補足する。つまり、すべての存在が仏性を持つはずなのに、なぜ存在論的悪が存在するのか、との理屈だ。

著者は結びとしてこう提言する。存在論的悪を受け入れ、そのことを有り難く、申し訳ないと思うことが、他人への配慮に繋がる。そして、その謙虚さは、自らの存在を無反省に認識すべきではなく、自らの存在論的悪を見続けてこそ、新たな変貌を遂げられるはずだ。そこに、親鸞の思想が現代にも通ずる余地がある。このような結論で本書を締める。

私の理解は親鸞の思想の深淵には程遠いが、著者の闘いの跡だけはかろうじて追えたのではないかとおもっている。

‘2015/02/17-2015/02/26