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ベルカ、吠えないのか?


これまたすごい本だ。
『アラビアの夜の種族』で著者は豪華絢爛なアラビアンナイトの世界を圧倒的に蘇らせた。
本書は『アラビアの夜の種族』の次に上梓された一冊だという。

著者が取り上げたのは犬。
犬が人間に飼われるようになって何万年もの時が過ぎた。人にとって最も古くからの友。それが犬だ。

その知能は人間を何度も助けてきた。また、牧羊犬や盲導犬のような形で具体的に役立ってくれている。そして、近代では軍用犬としても活動の場を広げている事は周知の通りだ。
軍用犬としての活躍。それは、例えば人間にはない聴覚や嗅覚の能力を生かして敵軍を探索する斥候の役を担ったり、闇に紛れて敵軍の喉笛を噛み裂いたりとさまざまだ。

二十世紀は戦争の世紀。よく聞く常套句だ。だが著者に言わせると二十世紀は軍用犬の世紀らしい。

本書はその言葉の通り、軍用犬の歴史を描いている。広がった無数の軍用犬に伝わる血統の枝葉を世界に広げながら物語を成り立たせているからすごい。

はじめに登場するのは四頭の軍用犬だ。舞台は第二次大戦末期、アリューシャン諸島のキスカ島。日本軍による鮮やかな撤退戦で知られる島だ。
その撤退の後、残された四頭の軍用犬。四頭を始祖とするそれぞれの子孫が数奇な運命をたどって広がってゆく。

誰もいないキスカ島に進駐した米軍は、そこで放置された四頭の犬を見つけた。日本軍が残していった軍用犬だと推測し、四頭を引き取る。それぞれ、違う任地に連れてゆかれた四頭は、そこでつがいを作って子をなす。
その子がさらに子をなし、さらに各地へと散る。
なにせ、二年で生殖能力を獲得する犬だ。その繁殖の速度は人間とは比べ物にならない。

軍用犬には訓練が欠かせない。そして素質も求められる。日本の北海道犬が備えていた素質にジャーマン・シェパードや狼の血も加わったことで、雑種としてのたくましさをそなえた軍用犬としての素質は研ぎ澄まされてゆく。

軍用犬にとって素質を実践する場に不足はない。何しろ二十世紀は戦争の世紀なのだから。
第二次大戦の痛手を癒やす間もなく国共内戦、そして朝鮮戦争が軍用犬の活躍の場を提供する。そして米ソによる軍拡競争が激しさを増す中、ソ連の打ち上げたスプートニク2号には軍用犬のライカが乗った。さらにはベルカとストレルカは宇宙から生還した初めての動物となった。
ベトナム戦争でも無数の軍用犬が同じ先祖を源として敵味方に分かれ、それぞれの主人の命令を忠実に遂行した。さらにはソビエトが苦戦し、最終的に撤退したアフガニスタンでも軍用犬が暗躍したという。

それだけではない。ある犬はメキシコで麻薬探知の能力に目覚めた。ある犬は北極圏へと無謀な犬ぞりの旅に駆り出された。またある犬は小船に乗ってハワイから南方の島へと冒険の旅に出、人肉を食うほどの遭難に乗り合わせた。またある犬はドッグショウに出され、ハイウェイで跳ねられ道路で平たく踏まれ続ける運命を受ける。
著者の想像力の手にかかれば、犬の生にもこれだけ多様な生きかたをつむぐことができるのだ。

お互いが祖を同じくしているとも知らずに交わり、交錯し、牙を交える犬たち。
犬一頭の犬生をつぶさに追うよりも、犬の種を一つの個体とみなし、それぞれの犬に背負わされた運命の数奇さを追う方がはるかに物語としての層が厚くなる。
ある人間の一族を描いた大河小説は多々あるが、本書ほどバラエティに富んだ挿話は繰り込めないはずだ。
それを繁殖能力の高い犬の一族で置き換えたところに本書の素晴らしさがある。
その広がりと生物の種としてのあり方。これを壮大に描く本書は物語としての面白さに満ちている。

無数の犬はそれぞれの数だけ運命が与えられる。その無数のエピソードが著者の手によって文章にあらわされる。無数の縁の中で同じ祖先を持つ犬がすれ違う。それは壮大な種の物語だ。
その面白さを血脈に見いだし、大河小説として読む向きもいるだろう。
だが、犬にとってはお互いの祖先が等しい事など関係ない。血統などしょせん、当人にとっては関係ない。そんなものに気をかけるのは馬の血統に血道をあげる予想屋か、本書の語り手ぐらいのものだ。

本書は、血統に連なって生きたそれぞれの犬の生を人間の愚かな戦争の歴史と組み合わせるだけの物語ではない。
それだけでは単なるクロニクルで本書が終わってしまう。

本書は犬たちのクロニクルの合間に、犬と少女との心の交流を描く。
ただし、交流といってもほのぼのとした関係ではない。付き合う相手が軍用犬である以上、それを扱う少女も並の少女ではない。
少女はヤクザの親分の娘であり、そのヤクザがロシアにシノギを求めて進出した際、逆に人質としてとらわれてしまう。11歳から12歳になろうかという年齢でありながら、自らの運命の中で生の可能性を探る。

少女が囚われた場所は、ソ連の時代から歴戦の傭兵が犬を訓練する場所だった。
その姿を眺めるうちに、ロシア語の命令だけは真似られるようになった少女。イヌと起居をともにする中で調教師としての素質に目覚めてゆく。

軍用犬の殺伐な世界の中でも、人と犬の間に信頼は成り立つ。
それをヤクザの素養を持つ少女に担わせたところが本書の面白さだ。
単なる主従関係だけでなく、一方向の関係だけでなく、相互に流れる心のふれあい。それを感じてはじめて犬は人間の命令に従う。
そのふれあいのきっかけとなった瞬間こそが、本書のタイトルにもなった言葉だ。

人の歴史を犬の立場から描いた本書は、斬新な大河小説だと言える。

‘2020/07/11-2020/07/12


ハル、ハル、ハル


本書は、三編の短編からなっている。
どれもがスピード感に満ちており、一気に読める。

「ハル、ハル、ハル」
「この物語はきみが読んできた全部の物語の続編だ」という一文で始まる本編。
“全ての物語の続編”というキーワード。これが本編を一言で言い表している。

全ての物語とは、出版された小説に限らない。あらゆるブログやツイッターやウォールやストーリーも含む。物語は何も発表されている必要はない。人々の脳内に流れる思考すら全ての物語に含められるべきだからだ。
この発想は面白い。

物語とは本来、自由であるはず。物語と物語は自由につながってよいし、ある物語が別の物語の続編であるべきと決めつける根拠もない。
場所や空間が別であってもいい。物語をつむぐ作者の性別、人種、民族、時代、宗教は問わない。どの物語にも人類に共通の思考が流れている限り、それが続編でないと考える理由は、どこにもない。

本編のように旅する三人組のお話であっても、読者である私の人生に関係のない登場人物が出てこようとも、それはどこかで私=読者のつづる物語とつながっているはず。
十三歳。男。十六歳。女。四十一歳。男。本編の三人の登場人物だ。

私に近いのは四十一歳の男だろう。彼と私に似ているところは性別と年齢ぐらい。
彼はリストラに遭い、妻子にも逃げられ、今はタクシー運転手をしている。そんな設定だ。

そんな彼が偶然拾ったのが、子供のような年齢の若い男女。二人はなぜか拾った拳銃を持っており、それで男を脅してきた。どこか遠くに行け、と。

三人の名前のどこかにハルがつくため、奇妙な連帯感でつながった三人は、あてもなく犬吠埼を目指す。ちょうど、人生について投げやりになっていた年長のハルは、若い二人の勢いにあてられ、誰かの続編の物語を生き始める。

そう考えてみると、そもそも私たちの人生も誰かの人生の続編と言えないだろうか。それは生殖によってつながった生物的なつながりという意味ではない。時代や場所や文化は違えど、一人の人生という物語を生きることは、誰かの人生の続きを生きることにほかならない。同じ惑星で生きている限り、人がつむぐ物語は誰かの物語に多かれ少なかれ関連しているのだから。

私たちは本編に出てくるハルたちの物語をどう読むべきだろうか。自分の人生に関係ないとして退けてよいだろうか。作り話だと知らぬふりをすれば良いだろうか。
どれも違う。
彼らの行動は自分たちのひ孫が起こす未来かもしれないし、並行している可能性の現実の中で自分がしでかす暴挙なのかもしれない。

「そして物語に終わりはない。全部の物語の続編にだって。この場面のあとにも場面はずっとずっと続いて。時間は後ろに流れ続けて」(71P)

私たちの人生にも、本来の終わりはない。意識のある生物があり続ける限り。
終わりが来るとすれば、56億7千万年あとに地球が消え去るか、あらゆる原子が一点に終息したビッグクランチの時点だろう。
だが、そんな無意味なことを考えても仕方がない。それより、誰もが誰もの人生の続編を生きていると考えたほうが、生きやすくはないか。著者が本編で提案した物語の意味とは、そういうことだと思う。

「スローモーション」
一人の少女の日記だったはずなのに、それがどんどんと意味を変えていく本編。
さまざまな少女の文体がめまぐるしく変わり生まれてゆく文章は、少女の移ろいやすい意識のあり方そのものだ。

自分と他者。世間と仲間。外見と内面。
少女の意識にとってそれらを区別することは無意味だ。
全てが少女の中で混在し、同じレベルで入れ代わり立ち代わり意識の表層に現れる。

そんな鮮やかな文章の移り変わりを堪能できる。

そして本編はある出来事をきっかけに、少女が過去をつづっていたはずの文章が、現在進行する時間の流れに沿い始める。

それもまた、現実を自我の中に消化しながら生きる少女の意識にとっては、矛盾がなく存在する自分なのだ。

さらに少女の日記はレポートとしての文章から報道としての性格を帯び始める。
その移り変わりは、今の世に氾濫するSNSのあり方を表しているように思える。
人の意識が無数に公開され、自分で自分の感想を報道して飽きない今の世相を。

著者がそれを見越して描いていたとすれば本編のすごさは実感できる。
小説としての可能性も感じさせながら、今の世を切り取って批評する一編だ。

「8ドッグス」
本編のタイトルを日本語に訳すと八犬。
ここから想像できるのは「南総里見八犬伝」だ。
言うまでもなく江戸時代に書かれた日本文学史上に残る作品だ。
仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌の文字が書かれた玉を持つ八人が、さまざまな冒険をへて里見家の下に参ずる物語だ。

その有名な物語を背景に奏でつつ、著者が語るのはある男の内面だ。
彼女であるねねを思いつつ、律義に生きる彼の思考の流れはどこか危うさをはらんでいる。
ねねのためといいながら彼が行う行動。それは、八犬伝をもじった刺青を自らに彫るなど、どこか狂気の色を帯びている。

徐々に暴走してゆく狂気は、ねねを見張るところまで突き進んでいく。
そしてそこで知った事実が彼の狂気にさらなる拍車をかけてゆく。

ここで出てくるのは皮膚だ。彼は皮膚に仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌の文字を丸で囲って彫り込む。それらの文字は社会で生きる規範となるべき意味を持っている。
だが、それらの文字が皮膚に彫り込まれることで、現実と自我を隔てる境目は破れ、彼の狂気が現実の社会に害を及ぼしていく。

狂気の流れがこれらの文字を通して皮膚へ。それを文学としてメッセージに込めたことがすごい。

‘2020/01/29-2020/01/29


アラビアの夜の種族


これはすごい本だ。物語とはかくあるべき。そんな一冊になっている。冒険とロマン、謎と神秘、欲望と愛、興奮と知性が全て本書に詰まっている。

アラビアン・ナイトは、千夜一夜物語の邦題でよく知られている。だが、私はまだ読んだことがない。アラジンと魔法のランプやシンドバッドの大冒険やシェヘラザードの物語など、断片で知っている程度。だが、アラビアン・ナイトが物語の宝庫であることは私にもうかがい知ることが可能だ。

本書はアラビアの物語の伝統を著者なりに解釈し、新たな物語として紡ぎだした本だ。それだけでもすごいことなのだが、本書の中身もきらびやかで、物語のあらゆる魅力を詰め込んでいる。内容が果たしてアラビアン・ナイトに収められた物語を再構成したものかどうかは、私にはわからない。ただ、著者は一貫して本書を訳書だと言い募っている。著者のオリジナルではなく、著者が不詳のアラビアン・ナイトブリード(アラビアの夜の種族)を訳したのが著者という体だ。前書きでもあとがきでもその事が述べられている。そればかりか、ご丁寧に訳者註までもが本書内のあちこちに挿入されている。

本書が著者の創作なのか、もともとあった物語なのかをそこまで曖昧にする理由はなんだろうか。それは多分、物語の重層性を読者に意識させるためではないかと思う。通常は、作者と読者をつなぐのは一つの物語だけだ。ところが、物語の中に挿入された別の物語があると、物語は途端に深みを持ちはじめる。入れ子状に次々と層が増えていくことで、厚みが増えるように、深さがますのだ。作者と読者をつなぐ物語に何層もの物語が挟まるようになると、もはや作者を意識するゆとりは読者にはない。各物語を並列に理解しなければならず、作者の存在は読者の脳裏から消え失せる。そして本書の様に何層もの物語で囲み、ご丁寧に著者は紹介者・翻訳者として入れ子の中心に身を隠すことで、読者からの眼は届かなくなる。読者は何層にも層を成した物語の皮をめくることに夢中になり、芯に潜む著者の存在にはもはや関心を払わなくなるのだ。

それによって、著者が目指したものとは何か。著者の意図はどこにあるのか。それは当然、物語そのものに読者を引き込むことにある。アラビアン・ナイトを現代によみがえらせようとした著者の意図。それは物語の復権だろう。しかも著者が本書でよみがえらせようとした物語とは、歴史によって角を丸められた物語ではない。より生々しく、より赤裸々に。より毒を持ち、より公序良俗によくない物語。つまり、物語の原型だ。グリム童話ももともとはもっとどぎついものだったという。今の私たちが知っている童話とは、年月によって少しずつ解毒され、角がとれ、大人に都合のよい物語に変容させられていった成れの果ての。だが、本来の童話とはもっとアバンギャルドでエキセントリックなものだったはず。著者はそれを蘇らせようとしている。私のような真の物語を求める読者のために。

では、いったい何層の物語が隠れているのだろうか。本書には?

まず最初の物語は、アラビアン・ナイトブリードという著者とそれを翻訳し、紹介した著者の物語だ。それは、薄皮のように最初に読者の前に現れる。それをめくった読者が出会うのは、続いては、アラビアン・ナイトブリードの物語世界だ。その世界では今にもナポレオン軍が来襲しようとするエジプトが舞台となっている。強大なナポレオン軍を撃退するには、長年の平和に慣れすぎたエジプトはあまりにも脆い。そこで策士アイユーブは読めば堕落すると伝わる「災厄の書」を探し出し、それをナポレオンをへの贈り物にすることで、ナポレオンを自滅に追い込もうと画策する。首尾よく見つけ出した「災厄の書」は、その力があまりに強大なあまり、読むと翻訳者にも害を与えるという。だから分冊にして、ストーリーとして意味のない形にしたうえでフランス語に翻訳し、翻訳を進めながら物語を読み合わせようとしたのだ。ところがそれはアイユーブが主人であるイスマーイール・ベイをたばかるための仮のストーリー。その実は、魅力的な物語を知る語り部に物語を語らせ、それを分冊にしてフランス語に翻訳するという策だ。ここにも違う物語の層が干渉しあっているのだ。

そして次の物語の幕が上がる。直列に連なる三つの物語は、これぞ物語とでもいえそうな幻想と冒険に満ちている。その中では魔法や呪文がつかわれ、魔物がダンジョンを徘徊し、一千年間封じられた魔人が復活の時を待ち望む。裏切りと愛。愛欲と激情。妖魅と交わる英雄。剣と謀略だけが生き残る術。そんな世界。極上のファンタジーが味わえる。読むものを堕落させるとのうたい文句は伊達ではない。

一つ目は王子でありながら醜い面相を持つアーダム。彼が身を立てるために妖術師になっていく物語だ。醜い面相を持ちながら、醜い性格を隠し持つ。裏切りと謀略に満ちているが、とても面白い。

二つ目は、黒人でありながらアルビノとして生まれため、ファラーと名付けられた男。生き延びるために魔術を身に着け、世界を放浪して回る。その苦難の日々は、成長譚として楽しめる。

三つめは、盗賊でありながら、実は貴い出自を持つサフィアーン。盗賊でありながら義の心を持つ彼の、逆転につぐ逆転の物語。予想外の物語はそれだけでも楽しめること間違いない。

三つの物語はどんな結末を迎えるのか。三つの物語がアイユーブ達によって読み上げられ、一つの本に編まれた暁には何が起こるのか。それは本書を読んでもらわねばなるまい。一つ思い出せるのは「物語とは本来、永遠に続かねばならない」という故栗本薫さんの言葉だ。

もちろん本書は終わりを迎える。何層にも束ねられた物語も、本である以上、終わらねばならない。仕方のない事だ。それぞれの物語はそれぞれの流儀によって幕を閉じる。ただ、読み終えた読者は置き去りにされたと思わず、満足して本を閉じるに違いない。極上の物語を同時にいくつも読み終えられた満足とともに。

本書はとても野心に満ちている。複雑さと難解さだけに満ちた本は世の中にいくらでもある。本書はそこに桁違いのエンタメ要素を盛り込んだ。日本SF大賞と日本推理作家協会賞を同時受賞できる本はなかなかない。本書は何度でも楽しめるし、何パターンの読み方だってできる。その時、作家が誰であるかなど、どうでもよくなっているはず。それよりも読者が気をつけるべきは、本書によって堕落させられないことだけだ。

‘2017/08/27-2017/09/17