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世界史を創ったビジネスモデル


本書は年始に書店で購入した。
選書で450ページ弱の厚みは珍しい。見た目からボリュームがある。
分厚い見た目に加え、本書のタイトルも世界史を掲げている。さぞかし、ビジネスの側面から世界史を網羅し、解き明かしてくれているはず。
そう思って読んだが、タイトルから想像した中身は少しだけ違った。

なぜなら、本書が扱う歴史の前半は、大半がローマ帝国史で占められているからだ。
後半では、フロンティアがビジネスと国の発展を加速させた例として、ヴェネツィア、ポルトガル、スペイン、そして大英帝国の例が載っている。
そして、最後の四分の一で現代のビジネスの趨勢が紹介されている。
つまり、本書が取り上げているのは、世界史の中でも一部に過ぎないのだ。

例えば本書には中国やインドは全く登場しない。イスラム世界も。
しかし、中国の各王朝が採った経済政策や鄭和による大航海が中国の歴史を変えた事は周知の事実だ。
さらに、いまの共産党政権が推進する一路一帯政策は、かつてのシルクロードの交易ルートをなぞっているし、モンゴル帝国がそのルートに沿った諸国を蹂躙し、世界史を塗り替えた事は誰もが知っている。
つまり、中華の歴史を語らずに世界史を名乗ることには無理がある。

同様に、イスラムやインドが数々のビジネス上の技術を発明したことも忘れてはならない。ビジネスモデルと世界史を語るにあたって、この両者も欠かすことが出来ない存在だ。

さて、ここまではタイトルと中身の違いをあげつらってきた。
だが、ローマ帝国の存在が世界史の中で圧倒的な地位を占めることもまた事実だ。
その存在感の大きさを示すように、本書は半分以上の紙数を使ってローマ帝国の勃興と繁栄、そして没落を分析している。
その流れにおいてビジネスモデルを確立したことが、ローマ帝国の拡大に大きく寄与した事が間違いない以上、本書の半分以上がローマ帝国の分析に占められていることもうなづける。。

国際政治学者の高坂正堯氏の著書でもローマ帝国については大きく取り上げられていた。
それだけ、ローマ帝国が世界史の上で確立したモデルの存在はあまりにも大きいのだろう。
それは政治、社会発展モデルの金字塔として、永久に人類史の中に残り続けるはず。もちろん、ビジネスモデルと言う側面でも。

ここで言うビジネスモデルとは、国家の成功モデルとほぼ等しい。

国家の運営をビジネスと言う側面で捉えた時、収支のバランスが適切でありながら、持続的な拡大を実現するのが望ましい。
これは私企業でも国家でも変わらない。

ただし、持続的な成長が実現できるのは、まだ未開拓の市場があり、未開拓の地との経済格差が大きい時だ。その条件のもとでは、物がひたすら売れ続け、未開の地からの珍しい産物が入ってくる。つまり経済が回る。
ローマ帝国で言えば、周辺の未開の版図を取り込んだことによって持続的な成長が可能になった。

問題は、ローマ帝国が衰退した理由だ。
著者は、学者の数だけ衰退した理由があると述べている。つまり、歴史的に定説が確立していないと言うことだろう。

著者は、経済学者でもあるからか、衰退の理由を経済に置いている。
良く知られるように、ローマ帝国が滅亡した直接的な原因は、周辺から異民族が侵入したためだ。
だが、異民族の襲来を待つ以前に、ローマは内側から崩壊したと著者は言う。

私もその通りだと思う。

著者はローマ帝国が内側から崩壊していった理由を詳細に分析していく。
その理由の一つとして、政治体制の硬直を挙げている。

結局、考えが守りに入った国家は等しく衰退する。これは歴史的な真理だと思う。もちろん私企業も含めて。

著者は最終的に、ディオクレティアヌス帝が統制経済を導入したことがローマ帝国にとってとどめだったと指摘している。つまり統制による国家の硬直だ。
勃興期のローマが、周辺の民族を次々と取り込み、柔軟に彼らを活かす体制を作り上げながら繁栄の道をひた走ったこととは対照的に。

著者は現代の日本の状況とローマ帝国のそれを比較する。
今の硬直しつつある日本が、海外との関係において新たな関係を構築せざるを得ないこと。それは決して日本の衰退を意味するものではないこと。
硬直が衰退を意味すると言う著者の結論は、私の考えにも全く一致するところだ。
既存のやり方にしがみついていては、衰退するという信念にも完全に同意する。

本書がローマ帝国の後に取り上げるヴェネツィア、ポルトガル、スペイン、大英帝国の勃興も、既存のやり方ではなく、新たなやり方によって富を生んだ。
海洋をわたる技術の発展により、交易から異なる土地へ市場を作り、それが繁栄につながったと見て間違いないだろう。

では、現代のわが国は何をすれば良いのか。
著者は、そのことにも紙数を割いて詳細に分析する。

日本人が海外に出たからず、島の中に閉じこもりたがる理由。
著者はそれを、日本が海洋国家ではなく島国であると言う一文で簡潔に示している。
海洋国家であるための豊富な条件を擁していながら、鎖国が原因の一つと思われる国民性から、守りに入ってしまう。

だからこそ、今こそ日本は真の意味で開国しなければならないと著者は提言している。
そこでヒントとなるのは、次の一文だ。

「この新しい産業社会においては、ローマ帝国から大航海時代までのビジネスモデルは参考になる。しかし、産業革命以降20世紀前半までのビジネスモデルは、参考にならない。むしろ、反面教師として否定すべき点が多いのである。(316ページ)

つまり、第二次大戦以降の高度成長期。もっと言えば明治維新以降の富国強兵政策が取り入れた西洋文明。
これらは全て産業革命以降に確立されたビジネスモデルをもとにしている。著者がいう反面教師であるビジネスモデルだ。
つまり、わが国の発展とは、著者によって反面教師の烙印が押されたビジネスモデルの最後の徒花に過ぎないのだ。

バブル以降の失われた20年とは、明治維新から範としてきた産業革命以降のビジネスモデルを、世界に通じる普遍的な手本と錯覚したことによる誤りがもたらしたものではないだろうか。

著者が本書で記した膨大な分析は、上に引用した一文を導くためのものである。
私たちは誤ったビジネスモデルから脱却しなければならない。そして、この百数十年の発展を、未来にも通用する成功とみなしてはならない。

本書には、ビジネス史でも有名な電話特許を逃した会社や、技術の先進性を見逃して没落した会社がいくつも登場する。
そうした会社の多くは、世の中の変化を拒み、既存のビジネスモデルにしがみ付いたまま沈没していった。末期のローマ帝国のように。

そして今、私たちは明らかな変化の真っ只中にいる。
情報技術が時間と空間の意味を変えつつある時代の中に。
わが国の多くの企業がテレワークの動きをかたくなに拒み、既存の通勤を続けようとしている。
だが、私にとってはそうした姿勢こそが衰退への兆しであるようにみえる。

おそらく五十年後には、いまの会社のあり方はガラリと変わっている事だろう。わが国のあり方も。
その時、参考となるのはまだ見ぬ未来の技術のあり方より、過去に人類が経験してきた歴史のはずだ。

本書の帯にはこう書かれている。
「「歴史」から目を背ける者は、「進歩」から見放される。」
本書を締めくくるのも次の一文だ。
「歴史に対する誠実さを欠く社会は、進歩から見放される社会だ。」(448ページ)

過去の栄光にしがみつくのは良くないが、過去をないがしろにするのはもっと良くない。
過去からは学べることが多い。本書において著者は、溢れるぐらいの熱量と説得力をもってそのことを示している。
歴史には学ぶべき教訓が無限に含まれているのだ。

‘2019/4/27-2019/5/8


上杉鷹山の経営学―危機を乗り切るリーダーの条件


本書はユニークなアプローチを取っている。歴史上の人物を取り上げ、伝記や小説に仕立てるのではなく、そこにビジネス論を含めているのだ。つまり、本書はビジネス書と小説のハイブリッドといえる。

本書の主人公は上杉鷹山公。歴史上の人物でしかない上杉鷹山公の事績を、伝記とビジネスのハイブリッドで迫れるのも上杉鷹山公が単なる歴史上の人物ではないからだ。故ケネディ米大統領が尊敬できる日本人として挙げた人物。それが上杉鷹山公である。

上杉鷹山公は名字からも分かるように上杉家の方である。上杉家といえば軍神として知られる上杉謙信公が良く知られている。群雄割拠の戦国時代を駆け抜けた謙信公も病に倒れ、それから信長、秀吉、家康へと権力者は移り変わる。上杉家も謙信公から景勝公へと代替わりし、滅亡の憂き目を見ることなく、時代の波を乗り切った。しかし上杉家も無傷ではすまなかった。豊臣政権下では五大老の一人として名を馳せたが、越後から会津へ移封される。会津藩では120万石の大藩であったが、関ケ原合戦で東軍に敵対したため、30万石の米沢藩に転封されてしまう。しかし謙信公からの名藩意識は容易には抜きがたく、石高120万石の大藩意識を引きずったまま江戸時代を凌ごうとする。参覲交代に普請奉仕と幕藩体制にあって出費は嵩む一方。それなのに、1/4に石高が減らされたにも関わらず、人員は120万石の体制を抱えたまま。そんな訳で鷹山公が藩主に就いた頃は、藩籍奉還、つまりは藩を幕府に返上することを画策するまでに追い詰められていた。

しかし幾多の困難を経て果敢に改革を断行した鷹山公は米沢藩を再生させる。莫大な借金を完済したのは鷹山公の次々代であったが、その功績は間違いなく鷹山公にあるといってよい。

日本人は世界でも稀なメンタリティーを持っていると言われる。それは個人の意思よりも集団の意思を重んじる心性だ。それは長所であるが、こと改革を行う上では短所となり枷となる。外圧なく自己変革を成し遂げた事例が稀な我が国において、内側から変革を成し遂げた所に鷹山公の凄さがある。しかも鷹山公は日本人とかけ離れたメンタリティーを持っていたわけではない。むしろ人一倍日本人の心性の持ち主だったと思われる。つまり、鷹山公が成したことは、今の日本を変える上で大いなるヒントとなるのだ。

財政難とプライドに絡め取られて二進も三進もいかず、跡継ぎもない米沢藩。そんな落ち目の藩主として、宮崎の高鍋藩秋月家から養子として入ったのが鷹山公。若く、人脈もなく、経験も足りない鷹山公。しかし、鷹山公は自らの弱点を冷静に受け入れ、その上で素直に忠言を聞き入れる度量を備えていた。また、目的へのビジョンやそのために率先して自らが為すべきことも弁えていた。そして、何よりも覚悟を持っていた。

鷹山公の改革は江戸から始まる。手始めに対象となったのは、本国から疎んじられ江戸藩邸に遠ざけられていた士、改革を志す人々。彼らをまず鷹山公は味方につける。打算でなく改革への意志をもつ故に江戸に追いやられた志士達。彼らこそ藩の改革に欠かせない人物として登用する。その上で鷹山公は、まず彼らに対して改革へのビジョンを語る。語る言葉の内容に曖昧さが含まれていれば逆効果。改革の士達は新たな若き藩主を見限ってしまうことだろう。しかし、そこで鷹山公が語ったとされるビジョンには、以下の要素が含まれていたという。

何がしたいか・・・・理念・目的の設定
どこまで出来るか・・・・限界の認識
なぜ出来ないか・・・・障害の確認
どうすれば出来るか・・・・可能性の追求

上記の4項目は、文中においてもその形のまま箇条書きで記述されている。ここが本書の特徴だ。小説の体裁を取りながら、ビジネス書の風味が実に濃厚なのだ。通常の小説ではこのような書き方はしない。しかし、このような書き方によって読者の理解を助ける点に本書がビジネス書である所以がある。

小説の場合筋を追う事に没頭するあまり、ビジネスに活かすためのヒントを読み流してしまう。が、上に箇条書きで書いた4項目は、鷹山公の改革へのとば口である。ここを読み飛ばすことは、鷹山公の改革の根本を見逃すことに等しい。本書がビジネス書の体裁を濃厚に備えているのは、鷹山公の事績を通じて、現代の経営に役立つ重要なメッセージを余さず取り込むためである。この4点はビジネスにあってもプロジェクトにあっても無意識に考えるはずの事項だからだ。

続いて鷹山公は、本国へ出立する。藩士に対して自己の改革の意思を明確にするために。本国では、全藩士を城の大広間に集めるという前例のない行動によって自らの意思を直接全藩士に伝える。著者はそこで読み上げたメッセージもビジネスに活かせるよう箇条書きにまとめる。

実態の報告
方針の明示
自己の限界明示
協力要請

上記4項目を達成するために、

情報の共有
討論のすすめ
コミュニケーション回路を太く短く設定する
トップダウンとボトムアップを滑らかにする

といった具体的な策を著者は書き記す。江戸時代の文章をそのまま提示したのでは、今の多忙なビジネスマンの心には届かない。そう意図したのだろう、著者は現代文に書き下した上で箇条書きにして記載する。念には念を入れて。

以下、本書は鷹山公の改革をつぶさに紹介する。その内容は実に先進的であり、封建社会の江戸時代に為された施策であるとは俄かには信じられない程だ。私自身、鷹山公の事績についてまとまった本を読むのは本書が初めてだ。そのため、鷹山公の行った施策を詳しく知れば知るほどその内容には驚くばかり。江戸時代ばかりか日本史上における名君として外国の大統領からも尊敬を受ける理由も分かる気がする。

もともと本書を読んだのは小田原市で開催された第8回嚶鳴フォーラムがきっかけである。誘ってくれた友人と一緒に出掛けた嚶鳴フォーラムは、全国の自治体、それも郷土ゆかりの偉人を擁する自治体の首長が一堂に会し、互いの偉人を紹介し合い、その叡智に学ぶのが主旨だ。第8回の会場が小田原だったので全般的には二宮尊徳公が取り上げられていた。だが、嚶鳴フォーラムには参加自治体が地元ゆかりの偉人を紹介する時間もきっちりと設けられている。当時の安部米沢市長もその一人として登壇され、上杉鷹山公の事績を紹介して下さった。それで改めて鷹山公に興味を持ったのが、本書を手に取った理由だ。

士農工商穢多非人という身分差別がまかり通っていた江戸時代にあって、身体障害者を始めとした弱者の命は現代とは比べ物にならないくらい軽視されていたことだろう。しかし鷹山公は藩内の身体障害者に対する虐待禁止を打ち出したという。また、出生直後の乳児を殺してしまう間引き。これも当時はよく行われていた風習らしいが、鷹山公によって禁止されている。また、自助、互助、扶助を三位一体として弱者への福祉に力を入れたという事績も伝わっている。姥捨山や間引きなど、弱者にとって生きにくい世。それが江戸時代であった。そんな中、このような政策を打ち出した鷹山公の先進性には驚きを禁じ得ない。また、鷹山公に輿入れした幸姫が、小児脳性麻痺の障害者だったことも付け加えておかねばならない。幸姫を受け入れた度量があってこそ、福祉政策に理解があったのかもしれない。

本書で挙げられた改革の全ては資金あってのものだ。そして米沢藩とは債務超過藩として名を馳せた藩である。では乏しい資金の中、どうやって鷹山公は改革を成し得たのか。それは、殖産政策による収入の増加に励んだからである。収支のバランスが崩れた場合、普通は支出から先に削る。しかし鷹山公が改革に着手した当時の米沢藩の財政状態は、生半可な経費節減策では焼け石に水であった。それほどまでに追い込まれていたのが米沢藩だ。そのため、鷹山公は支出の削減と同時に収入の増加という二方向で改革を進めた訳だ。

殖産政策として特筆されるのは、武士を農商業の作業に向かわせたことだ。士農工商の身分社会にあって、武士が農商業に手を染めることに対する反発は相当だったらしい。武士だけでなく奥方始め家族にもその対象は及んだというのだから徹底している。

では、武士を農商業に向かわせたことによって何が変わったのか。それは仕事のための仕事、報告のための報告が一掃されたことだという。そのような生産性ゼロの仕事に従事するくらいなら、作物を植え畑を開墾する農作業に使ったほうが余程生産的。結果として鷹山公の指導の下、武士たち自身も荒れ地を開墾し、新田開発を担ったというから奮っている。いわば武士に対する意識改革の達成であり、謙信公からの大藩意識の革命でもある。

鷹山公の改革を見てみると、形式主義の一切を否定していることがわかる。〜だからだめ。〜だからできない。それでは改革は進まない。そのような思い込みが組織を硬直化させ、改革の芽を摘む。それは現代においても思い当たることばかりだ。

しかし現代においても抵抗勢力はいる。過去においてもそれは同じ。自らの生まれ育った文化を捨て去ることへの抵抗は思いのほか大きい。成果が見え始めれば尚の事、抵抗勢力にとっては自らの存在意義が失われることを意味する。そんな抵抗勢力による反撃が鷹山公を襲う。それは反対派の重臣たちによる藩主軟禁。寸でのところで改革派の重臣達の機転で辛くも逃れることに成功した。

ここで鷹山公が示した抵抗勢力に対する処罰。この処置もまた鮮やかなものであった。むしろ、この処罰によって鷹山公の名声が後世に残ったのかもしれない。一定の改悛期間を与え、それでも悔い改めぬ者に対して死罪を含めて厳畯な対応を行う。単に優しいだけでは民も家臣も付いて来ない。藩主として改革を示すだけではだめなのだ。それだと家臣は面従腹背の態度を身に付けてしまう恐れがある。いざとなれば改革のためには部下すら切り捨てるだけの覚悟。その覚悟を懐中に潜ませ、いざという時には伝家の宝刀として抜く。そういった凄みを漂わせた者にしか改革は成し得ない。私自身、この点がまだまだ足りないと自覚している。今後の課題として、鷹山公が成した処分の詳細は肝に銘じておきたい。

また、さらに難しいのは功遂げた家臣が堕落した時の毅然とした対応だ。功臣だからといって甘い顔を見せると、改革の成果は一気に瓦解する。鷹山公の場合、藩主就任の初期から改革を共にした竹俣当綱に対する処分がこれに相当する。不要な企業功労者は処断せよ、と著者は言う。功臣といえども権力を握ると錯覚を起こし堕落に走る。起業家ならずとも肝に銘じておくべきことだろう。

最後に著者はリーダーに必要なのは、次代の後継者へ改革を伝えること、という。鷹山公はその点も怠らなかった。伝国の辞を作り、後継者に託したのだ。そこには藩主たるもの、国家と人民のために存在しており、国家や人民が藩主のために存在しているのではない、と書かれていたらしい。封建時代の藩主の言葉とはとても思えない先見性は、ここでも見られる。

エピローグにおいて、著者は鷹山公が自身の改革の本質を機関に見立てていたのではないかと指摘している。つまり属人的な政治ではなく、普遍的で恒久的な機関である、と。鷹山公が仮に亡くなったとしても、藩が機関であれば改革は継続して成し遂げることができる。では、機関がその根底に持つべき思想とは何か。それを著者は愛という言葉で表す。他人への労り、思いやりを持ち続けてこその愛。しかしこのことを実践するのは難しい。しかし、やらねばならないのもまた事実。会社のトップとして、家長として。努力せねばならないことは私自身まだまだある。

本書は何度も折に触れて読み返そうと思う。鷹山公が成し遂げた改革を自らの血肉としていかねばならない。得難い本である。

‘2015/04/13-2015/04/13