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かくれスポット大阪


本書は大阪人権博物館ことリバティおおさかで購入した。リバティおおさかを訪れたのは、私の記憶が確かならば二度目のはず。前回の訪問は私がまだ学生の頃だった。あれから二十三年がたち、それなりに社会経験を積んだ私。だが、リバティおおさかとその近辺の風景から受けたこの度の印象は当分消えないだろう。

今回、リバティおおさかを訪れる前に南海汐見橋線の沿線を歩いた。汐見橋駅、芦原橋駅、木津川駅。これらの駅にはだいぶ以前にも訪れたことがある。その時はただひなびた田舎駅、という印象しか受けなかった。だが、久々に訪れた私の目に映ったのはまったく違うイメージだ。特に木津川駅から発せられていた荒廃のメッセージは非日常の極み。その強烈さは私に大いなる印象を刻みこんだ。

今の私は東京で暮らしている。都心も頻繁に訪れる。世界一ともいえる乗降客数を誇る新宿駅を筆頭に活気に満ちた駅の数々。それらの駅は頻繁に改築され、ゴールがないかのように洗練され続けている。私はまた、駅鉄と称して各地の駅をめぐっている。各地の駅を見て来て思うのは、過疎に悩む駅もそれなりの素朴さを身にまとっていることだ。寂れていてもそれが周囲の自然と調和していれば好感はもてる。私にとって駅とはその地の玄関口であり、その地の雰囲気を体現する存在なのだから。

だが、不遜と言ってよいほど見捨てられた木津川駅の風景。それは私の眼には異形の存在と映った。駅前には浮浪者がねぐらを確保しており、がれきが駅の出入り口のすぐ前に積まれている。寂れた工場があたりを覆い、疎外されたような粗末な民家が並ぶ。金網で意味ありげに囲われたスペースが駅前にあり、その空間が無言の圧迫感を与えてくる。乗降客はおらず、駅前には商店が皆無。住民すら通りがからぬ凍った街並み。

その衝撃も覚めやらぬまま、続いて訪れたのが近くの浪速神社。境内に何人もの浮浪者がねぐらを確保していた。ここは果たして神域なのだろうか、という疑問が私の心を通り過ぎる。あるいは神社とは歴史的にそうしたねぐらがない方へ場所を供する役割を果たしていたのかもしれない。私はたかだか四十五年の年齢しか刻んでいないので、神社の歴史には明るくない。だが、一つだけ言えるのは、私は他の神社で同じような光景を目にしたことがないことだ。かつての日本各地のドヤ街が、昨今は訪日外国人の宿として活気を帯びているという。その風潮からも取り残され、その活気から完全に見放されているようにみえる神社。私は続けざまの衝撃から立ち直れないまま、リバティおおさかを訪れた。

リバティおおさかは、二十三年前とは展示を一新していた。もちろん、前もって訪問者がアップしたブログでその事は知っていた。橋下元大阪市長が展示内容の見直しを指示したことも。事前に得た知識のまま、入ってすぐの「いのちを大切に」というメッセージに満ちた展示を見る。その内容が賛否両論の的になるのもわかる気がする。おそらくリバティおおさかの担当者も迷ったことだろう。差別を語るにはまず人は平等という思想を示す意図は分かる。だが、なぜ入ってすぐにあるのかが理解できない。

だが、奥に進むと被差別部落の歴史が豊富な資料やパネルで展示されている。その内容は人権博物館の名に恥じない。事前の情報から懸念していたような、あからさまな反日の精神を感じる事もない。在日朝鮮人や沖縄の人々が受けた差別。ハンセン病患者やいじめの被害者が被った不条理な扱い。館内にあるのは、差別に苦しめられた人々の苦しみの歴史だ。そうした人々は、統治のために設けられた階級という制度の犠牲者でもある。権力の都合によって社会の闇を押しつけられた煩悶の歴史。そこには、人間の闇の側面が反論を許さぬほど立ちこめている。

リバティおおさかの展示には、差別の問題について考えさせられる切実な何かがあると思う。確かに同和利権や逆差別、結果の平等を求めるあまり、行き過ぎてしまった運動はある。それらの団体が声高に訴える主張をうのみにしてはならない。だが、これからの未来に、同じような不幸な歴史を繰り返してはならないこともまた事実。私たちが次代の若者に伝えるべき知識は、リバティおおさかの中に蓄えられている。

知識を身につけるには、膨大なパネルの展示だけでは理解しきれない。さらなる勉強が必要だ。私はそう思い、ミュージアムショップに多数並べられている本を吟味した。そして本書を選んだ。ミュージアムショップにはもっとコアでディープな本も並んでいた。だが、旅行中の身としては、軽めなガイド本の体裁の本書が精いっぱい。

なお、「エレクトラ」のレビューにも書いた通り、私は被差別部落の現状には関心がある。だが、人と部落の関連には興味がない。言い換えれば、個人の出自が被差別部落にあるかどうかは全く興味がない。多分、実力が全てのビジネスの世界に長くいるからだろう。ビジネスの現場に相手の出自など関係ないのだから。

さて、本書は大阪のあちこちをエリア編とトピックス編に分けて取り上げる。エリア編では、大阪のあちこちを地区別に取り上げる。「道頓堀」「千日前」「日本橋筋」「釜ヶ崎」「新世界・飛田」「百済・平野」「北浜・太融寺」「天神橋筋」「舟場・北野」「中津」「京橋・大阪城公園」だ。そしてそれらの地に埋もれつつあるかつての部落の痕跡を紹介するのが本書の主旨だ。

私の大学の卒論は大阪の交通の変遷だった。なので、大阪の歴史には親しんできたつもり。だが、正直に言って本書に挙げられた各地域のうち、被差別部落との連想で覚えていたのは「釜ヶ崎」「新世界・飛田」ぐらいしかない。本書に挙げられた他の場所は私にとってはまったく思いもよらなかった。

だが、よく考えると芸能・興行系のそもそもの起源は河原者が関わっていたという。そう考えれば、道頓堀と千日前といった現代でも芸能・興行のメッカは、部落の痕跡が残されていてもおかしくない。また、千日前といえば私が大学生の頃によく呑み、よく歩き回った地だ。国内でも最悪の犠牲者数を出した千日デパート火災でも知られている。法善寺横丁も近隣の名所としてよく知られているが、そもそも千日前とは法善寺と今はない竹林寺がともに千日回向を行っていたことから名づけられたという。回向が行われたということは、死をつかさどる人々が生活していたことを示している。

あと、本書を読んで最も驚いたこと。それは日本橋筋がかつては大阪随一のスラム街だったことだ。電器店やサブカルショップが立ち並ぶ今の日本橋からはとても想像がつかない。私は日本橋にも大学時代に何度も訪れている。だからこそ、余計に自分の無知を思い知らされた。だが、考えてみるとこのあたりの雑然とした感じは、まさにその名残と言えないだろうか。南海本線と日本橋筋の間には、妙に道幅の広い道路があるが、そこもスラム街の名残なのかもしれない。

それと百済・平野も本書では取り上げている。私はこのあたりについての土地勘は薄い。だが、百済という地名には渡来人の影響がうかがえる。つまり、その後裔となる方々に何らかの関連があるのかもしれない。本書によれば平野川沿いに被差別民が住まわされていたとのことだ。私も車でなんどか通ったことがあるが、歩いたことはまだない。今はずいぶん街並みが観光客を呼んでいるそうだし、一度訪れてみたいと思う。

本書で取り上げられた地の中で、日本橋筋についで意外に思ったのが北浜・太融寺だ。この界隈は船場や大阪城のおひざ元のはず。ところがここにも被差別の傷跡は残っていたのだ。本書によればその遺跡とは、被差別民の住居ではなく、解放運動の本拠がこのあたりに置かれていたということだ。太融寺や愛珠幼稚園なども、解放運動の中で重要な位置を占めているらしい。こういった意外な関連が見つかるのが本書のよいところだ。

天神橋筋が取り上げられているのもまた思いのほかだった。ところが、本書によると被差別部落とは都市の外縁に生まれるもの。南の外縁が釜ヶ崎や西浜部落だとすれば、北の縁が天神橋筋の北端であり、舟場・北野であり中津なのだという。このあたりには霊園や監獄跡、福祉施設などが点在しているのだという。私は本書を読むまでそうしたことをまったく知らなかった。特に、天六といえばわが母校、関西大学の天六校舎があった場所。私もなんどか訪れている。天六といえば日本で一番長い商店街で知られる。華やかな繁華街にも違う側面があったこと。それを本書は教えてくれる。

また、中津が取り上げられているが、あのあたりを歩くと少し場末な雰囲気が街を覆っているのも事実。そういえば本書を読むきっかけとなったリバティおおさかを訪れた翌々日、三宮で飲んだ。その酒の席で、現在の中津がシャッター通りになっていると聞いた。かつての場所の痕跡が払拭しきれていないのだろうか。なお、本書で取り上げられているからといって、今その地で住んでいる方が被差別の民の後裔でないことはもちろんだ。念のため。

京橋・大阪城公園が挙がっているのも想定の外だった。戦中は造兵工廠があった場であり、そもそも大坂の中心であり、部落とはつながりにくい。ところが、本書にも紹介されていたアパッチ族が戦後に暗躍したのはこのあたりのはず。だが、鶴橋や桃谷のいわゆるコリアンタウンが本書に取り上げられず、京橋や大阪城公園が取り上げられたのは意外に感じた。鶴橋や桃谷はいわゆる部落としての性格をもっていないのだろうか。これは少し興味がある。

さて、エリア編で各地の痕跡を取り上げた後、本書はトピックス編にうつる。エリア編にはリバティおおさかがあり、私がうらぶれた様子に衝撃を受けた旧渡辺村、つまり西浜部落は登場しない。だが、トピックス編で取り上げられる5つのトピックスのどれもが西浜部落を舞台としている。5つのトピックスとは「食肉文化と屠場」「有隣小学校と徳風小学校」「四カ所と七墓」「皮革業と銀行」「なにわの塔物語」だ。

食肉文化が部落のなりわいに関連していることはさまざまなルポで知っていた。リバティおおさかのミュージアムショップにも興味深い写真集が売られていた。私も屠場は一度は見ておかなければ、と思っている。生から死の切り替わりが生々しく営まれる場所。普段、肉食を嗜む身としては直面しなければならない現実。私たちは屠場で生から強制的な死を余儀なくされた生き物の肉を美味そうに食う。かつて、木津川や今宮に屠場があったらしい。だが、今はそうした施設は郊外に移ってしまっているらしい。著者は屠場の収入の実態を研究している。屠場の収入は市の財政にも好影響を与えたそうだ。著者の研究は徹底している。その視点で、BSEや食中毒などの食肉をめぐる問題が発生する度、屠場に責任の一端がかぶせられる状況にも苦言を呈する。

「有隣小学校と徳風小学校」では、学校に行けない児童を助けるための福祉施設の歴史が取り上げられている。本書にも何カ所かコラムが載せられている。そのコラムの主旨はかつて大阪で活動した篤志家を顕彰することにある。そうした篤志家の方々の努力が少しずつ大阪を良くしてきたのだ。この項で取り上げられている二つの小学校も彼らの努力の一つ。「四カ所と七墓」のように、大阪市の発展の歴史の中で開発されて消えてゆく存在もある。大阪がよい方向に発展してほしいと思うばかりだ。

「皮革業と銀行」は、かつての大阪が今とは違う発展を遂げていたことを取り上げており、興味深い。かつて西浜地区では皮革業が盛んに営まれていた。そして、その繁栄は、JR芦原橋駅周辺にはかなりの銀行の支店を集めるまでになっていたという。現在のみずほ銀行やりそな銀行の前身の銀行の支店もあったとか。本書には七店舗ほどが紹介されている。ところが、今の芦原橋駅周辺にはゆうちょ銀行が一つある程度で、ほとんどの銀行は撤退してしまったという。その理由は本書には書かれていなかった。だが、なぜいなくなったのかは、今後の大阪の都市計画を考える上で重要な切り口ではないだろうか。

「なにわの塔物語」もそうだ。かつて大阪にはナンバを中心にさまざまな塔が高さを競っていた。通天閣が当時の威容を今に伝え、気を吐いている。被差別の地であったからこそ、思い切った開発もできた。最先端の技術をしがらみなく試すには格好の場所だったのだろう。

だからこそ、冒頭に書いたような木津川駅周辺の状況はなんとかならないものか、と思うのだ。その意味で今後の大阪の都市計画を占う上で重要な「なにわ筋線構想」が南海汐見橋線から新大阪駅に伸びるのではなく、南海の難波駅から伸びる方針に変わってしまったことは痛い。もし汐見橋線が再開発されれば、この辺りの痛々しい風景は一新されるはずなのに。

私は大阪にはあらゆる意味で元気になって欲しいと願っている。だからこそ、このあたりの風景は一新して欲しい。もちろん、過去の歴史をなかったものにすることはできない。過去の悲しい歴史は語り継がなければなるまい。そのためにもリバティおおさかのような施設はある。でも、歴史を語り継ぐのと、今の寂れた状況を放置するのは同じではないはず。今回のリバティおおさかとその周辺の訪問とそこで購入した本書は、私に大阪の都市開発についてのあるべき姿を教えてくれた気がする。

著者は本書の続編も出しているようだ。そこでは本書のトピックス編の続きとしてさまざまな施設への考察を行っているらしい。今度、機会を見つけて読んでみようと思っている。

‘2018/07/09-2018/07/09


左腕の誇り 江夏豊自伝


本書を読み終えて半年が経とうとしている。その間、本書のレビューは後回しにし、他の本のレビューを優先した。それが幸いしたのか、本書をレビューとして蘇らせるのに時宜を得た事件が起きた。その事件とは、清原さんの覚醒剤による逮捕。

逮捕以来二週間がすぎたが、まだマスコミの報道は続いている。プロ野球界を揺るがす事件に対し糾弾の炎よ燃え盛れ、とばかりに報道はまだ鎮火する様子をみせない。

私は逮捕当日、そして10日後にブログを書いた。共に清原さんの将来の更生と復活を願う主旨だ。そしてその両方で江夏氏を引き合いに出した。覚醒剤で逮捕され、服役を経て、見事に更生した江夏氏のことを。江夏氏が更生できたのだから、清原さんにできないはずはない、と。

何故そう書けたのか。それは、本書の内容が鮮やかに頭に入っていたから。

本書では球史に残る名投手、江夏豊が余すことなく自らを語っている。自伝故に、手前味噌なところもあるかと思いきや、その内容は率直だ。少年時代の野球との出会い。甲子園には手の届かなかった高校時代。阪神入団のいきさつ。林コーチとの出会いと投球への開眼。藤本監督の薫陶。村山投手との交流。そして年間奪三振数世界一の栄光。

本書を読むと、投手江夏にとっての体力的なピークが入団二年目だったことがわかる。

長嶋選手のライバルであった村山投手から、王選手をライバルとするように指示された逸話はよく知られている。ライバルは王選手。それを実践するように、日本記録タイとなる三振を王選手から奪い、その後の打者一巡を三振を奪うことなくしのぎ、再び王選手から三振を奪って日本記録を達成する。プロ野球史に残る名勝負といえるだろう。

若い時にのみ許される、怖いもの知らずの天狗。「一度は大いにテングになるべきだと僕は思っています」「しかしテングの鼻は必ずどこかで折れる。自分に自信が持てなくなるときが何度もやってくる。そのとき、どう立ち直るかが、その人の価値だと思うんですね」(140P)。後年の江夏氏は、この言葉を実践した。また、このような言葉もある。「野球という一つの世界で、天性だけで飯が食えるといったら一年二年です。あとは本人の努力と工夫」(147P)

三年目以降の江夏投手は、身体の故障や不調との戦いだった。私自身、本書を読むまでは勘違いしていた。オールスターでの九連続奪三振。延長十一回に自らのホームランでノーヒットノーラン達成。江夏の21球で知られる1979年日本シリーズの投球。どれも投手江夏の才能が成せた技、と。ところが本書を読むと、それらの偉業の裏に江夏氏の苦悩と努力と克服があったことが分かる。

特にオールスターでの9連続奪三振は、剛球投手の真骨頂と思われがちだ。しかし、すでにこの時、投手江夏は心臓に病を抱えた状態だった。ニトログリセリンが手放せなくなっていた経緯も本書には綴られている。昭和46年といえば、巨人がV7を成し遂げた年。巨人に結果としてV9を許したとはいえ、当時の阪神が弱かったかというとそうではない。むしろ、巨人によく喰らいついていたといえる。江夏氏は心臓病を抱えながらエースとして奮闘し、なおかつオールスターで空前絶後の偉業を達成したのだから大した者だ。しかもこの試合では、自らホームランも放っている。9連続奪三振をなしとげながら、打席ではホームランを放つなど、もはや漫画の世界の話だ。漫画の世界という言葉で思い出すのはこのところの大谷選手の活躍だ。しかし、四十年以上前に、江夏氏のような投手がいたことを忘れてはならない。

そしてこの心臓病発症と、9連続奪三振の偉業を境に、江夏氏の球運に陰りが生ずる。

江夏氏といえば傲岸不遜な一匹狼とのイメージがついて回っている。実際、本書を通して読むと、要領よく立ち回るのが苦手な氏の生き方が伝わってくる。決して自分から壁を築いている訳でもない。人を自ら遠ざけることもしない。ただ愛想よく振る舞うのが苦手なだけ。でも、圧倒的な球威を持つゆえに、江夏氏の周りには人が集まる。それを疑わずに受け入れる江夏氏は、エースとして持ち上げられる。そして、利用される。

人が集まれば派閥が出来上がる。当時の阪神タイガースは、村山投手という大エースに、今牛若丸と称された吉田選手がいた。その中で江夏氏は派閥争いに巻き込まれ、意に染まぬ形で村山投手とも気まずくなってしまう。後を継いだ金田監督との関係も当初は蜜月だったが、監督自身の人望のなさに、江夏氏から愛想をつかす。

恐らくはこういった派閥にほとほと嫌気がさしたのだろう。江夏氏が徐々に孤高の一匹狼の殻をまとっていく様子がよくわかる。江夏氏の言葉に辛辣な風味が混じり始めるのもこの辺りから。このあたり、氏と同じく派閥嫌いな私にとっては身につまされる思いで読んだ。

そして江夏氏の孤高のイメージは、本書内で吉田氏のことを「吉田義男」とほぼ呼び捨てする事件で固まる。江夏氏にそうさせたのは何か。それは、阪神タイガースからのトレード放出。江夏氏に無断で、騙し討ちのような形で南海へトレードに出されたのだ。未だにこの件では、江夏氏の怒りが融けることはないようだ。私にとっても、このエピソードは以前から知っていたし、印象に残っている。人の付き合いは堂々と正面から行うべき、と私の肝に刻み込まれたエピソードである。

南海に移った江夏氏は、野村監督の野球術に心酔する。そして短いイニングで試合を締めるための投球に開眼し、野球人として新境地を開く。投球術にはますます磨きがかかり、蓄積したデータと緩急取り混ぜた打者との駆け引きにプロとしての真価を発揮する。この辺りの身の処し方など、世のビジネスマンにとって参考になるはずだ。少なくとも私は、このくだりを読んで私自身の技術者人生の行く末に思いを致さずにはいられなかった。

野村監督の南海解任に従い、南海から広島へ。そして広島東洋カープで演じたのが有名な江夏の21球だ。故山際淳司氏がノンフィクション小説として作品化し、SportsGraphicNumberの創刊号を飾ったことでも知られている。この日本のスポーツノンフィクションの金字塔となった余りにも有名な一編では、職人芸ともいえる投球術が堪能できる。

が、意地悪く読めば、独りで満塁にしたピンチを独りで収拾しただけともいえる。つまり、一人相撲。野球は一人でもできる、と言い放った言葉が一人歩きし、それが江夏氏の孤高のイメージ形成に一役買った経緯は本書にも記されている。だが、その言葉は図らずも江夏氏の不幸の原因を言い当てているのではないか。江夏氏の不幸とは、才能を発揮したスポーツが団体競技だったことだろう。しかも、江夏氏の自身は人一倍職人気質だったにも関わらず、団体競技で輝いてしまう。そのギャップに苦しみつつ投げ抜いたことが、より一層人々に強い孤高の印象を与えたのだと思う。

上にも書いたエピソードの数々は、あまりにも劇的すぎる。それはファンが江夏氏をヒーローに祭り上げるには十分すぎるレベルだ。そのレベルが高ければ高いほど、人から寄せられる期待が熱ければ熱いほど、当の本人は、イメージに縛られてしまうのではないだろうか。まるで溶けた蝋が体にまとわりつくように。

そして、そのイメージが輝かしければ輝かしいほど、自らのイメージに縛られることになる。それを埋めるために、麻薬、覚醒剤にたよってしまう。それは、決して擁護すべきことではないのだろう。他の道を極めた達人たちは麻薬に溺れなかったではないかと言われればそれまでだ。だが、我々凡人には高みに達してしまった江夏氏のような人の苦しみは理解できない。そもそも人の内面の苦しみを完全に理解することなど不可能。安易な断罪など以ての外、ということは弁えておきたいものだ。

江夏氏の覚醒剤の一件は、江夏氏から聞き書きして本書を構成した波多野氏によってエピローグで触れられている。が、本書の刊行からさらに時を経て本書に触れた我々は、江夏氏が覚醒剤から見事に更正したことを知っている。

江夏氏の更生には、江夏氏を知るプロ野球人達の尽力が大きかったと聞く。本書にはその辺りのエピソードは出てこない。それらの方々は、江夏氏の公判において証人となって江夏氏を親身に擁護したと聞く。ともにプロ野球道の高みを極め、自らのセルフイメージと現状がギャップの乖離がどれほどの苦しみかを共感できる仲間。そのような仲間達に恵まれたことは、晩年の江夏氏にとって幸運だったのではないか。

清原氏が逮捕の少し前に名球会の試合に出場した動画がyoutubeで観られる。そこには、67才の江夏氏と75才の王氏の対決も登場する。もちろん、両者の間にかつてあったはずの緊張感は片鱗も見られない。でも、そこには自らのセルフイメージの幻影から解き放たれた江夏氏の幸せな姿があった。私にはその姿がとても良いものに映った。

清原さんはどうだろう。江夏氏が見事に覚醒剤から縁を断ったように、清原さんには何としてでも復活した姿を見せて頂きたい。そして、その過程において清原さんの苦しみをもっとも理解できる人とは江夏氏その人ではないだろうか。そして、本書は清原さんにこそもっとも読んでほしい。

清原さんに今一番欠けているのは、自らへの自信であり、理解者だと思う。本書に詰まっている江夏氏の輝かしい業績とその後の変転は、清原さん自身のプロ野球人生を思い出させることだろう。そして、江夏氏の過ごした浮沈の激しい人生は、江夏氏には失礼な言い方になるかもしれないが、優れた一編の小説にも似た極上の読後感を与えてくれる。

私の家のすぐ近くに、江夏氏が引退試合を行なった多摩市一本杉公園野球場がある。その駐車場の脇にあまり目立たぬ佇まいで、江夏氏がお手植えした木が育っている。なんの装飾もてらいもなく、素っ気無いプレートにそれと書かれていなければ絶対にそれとは気づかない木だ。でも、この簡潔にして素朴な様子こそが、江夏氏の浮沈に満ちた人生の到達点であるように思えてならない。

素晴らしい一冊。

‘2015/10/28-2015/11/08


南海ホークスがあったころ―野球ファンとパ・リーグの文化史


甲子園球場に浜風が吹けば、場内アナウンスが聞こえる。そんな至近距離に私の実家はある。20代半ばで東京に出るまで、大半の年月を実家で過ごした私にとって、プロ野球とは阪神と同義であった。

阪神ファンにとって、憎き相手は巨人。阪神ファンにとって、これは常識。子供の頃からさんざん刷り込まれる。

ところが、子供の頃の私にとって、巨人よりも嫌いな球団があった。それは南海ホークス。

我が甲子園球場至近の小学校にも、迫害をものともせず、巨人ファンを貫く連中がいた。ある時、巨人ファンの友人と応援するチームのことでやり合った。確か1984年、甲子園が日本一に酔う前の年の事である。詳細な内容は忘れてしまったが、彼に対し、「巨人は嫌いやけど、南海の方がもっと嫌いや」と言い返したことがある。

当時の私の心を思い返すと、巨人ファンの彼に対するおもねりもあったとは思う。ただ、そのころの私にとって、また、甲子園付近の住民にとって、南海ホークスとはこのような扱いであった。小学生の頃から野球史が好きで、大人向けの野球史の本を読んでいた私。南海ホークスのかつての栄光を知らなかった訳ではない。それでも、80年代の南海ホークスは、私にとってくすんだ存在でしかなかった。

本書は、南海ホークス球団の歩みを軸に、野球ファンと球団の関わり合いに焦点を当てている。南海ホークスと言えば、鶴岡監督という個性の下、100万ドルの内野陣を形成し、プロ野球の歴史に確かな足跡を残している。私が思うに、間違いなく歴代最強チームの一つだろう。だが、本書ではプレーヤーの偉業やそれぞれの紹介にはそれほどページを割いていない。野村監督ですら現役時代のエピソードはささやき戦術や月見草の語りが登場するのみである。むしろ、ユニフォーム変更などといったファンサービスの実践者として、また、引退後の解説者、執筆者としての露出についての方が多く取り上げられている。ドカベン香川選手もわずかな登場のみである。

このように、本書ではあくまで南海ホークスという球団とファンとの関わり合いを中心に据え、プロ野球ファンの生態史の分析を主眼としている。もちろん、御堂筋パレードには紙数も割かれているし、ダイエーへの身売りにも筆を費やしているが、それは球団とファンの関わりを語る上で欠かせないから。それに反して、プロ野球史では避けて通れない2リーグ分裂のごたごたにはそれほど触れていない。それよりも、当初のパ・リーグの旗振り役であった毎日の離脱による、マスコミ露出の激減と、それによるパ・リーグの長期人気低落の原因分析に重きが置かれている。

また、本書では野球ファンの応援史としての記述も充実している。早慶戦の応援スタイルから始まり、トランペットや鉦や太鼓の応援スタイル。果ては広島ファンが発祥とされているジェット風船から、甲子園の応援スタイルへと話題は膨らむ。大変興味深い一節である。

本書の分析はさらに続く。私の嫌っていた80年代の南海ホークスが、懸命のファン獲得への努力を行っていたこと。ホークスを応援し続けるファンの願いをよそに、身売りされるまでの経緯。そして、南海亡き後のファンが、どのように心の整理をつけたかにも分析の幅は広がる。甲子園の超人気チームの陰で、これほどの悲哀のドラマが繰り広げられていたことに、私は胸を衝かれた。

そして終章では、福岡に移ったダイエーホークスが、どのようにして集客力を高めていったかについて、様々な角度から考察を重ねる。ダイエーという巨大小売業の物量作戦と、西鉄移転後にプロ野球が渇望されていたという利点はあったとはいえ、見事にファンの心をつかんだダイエーホークスの姿に、今後のプロ野球とファンの関係を託し、本書は幕を閉じる。

その後、私が大阪球場に行くことは遂になかった。千里山にある大学に通っていた頃、よく難波で飲んでいた。行こうと思えば行けたが、遂に行かなかった。一度だけ足を踏み入れたのは、友人と難波WINSに行った時のこと。既に住宅展示場と化していたその場所は、もはや球場ではなく、私の好奇心の慰みものとなっただけであった。1998年、取り壊し開始。

私がようやく難波パークスにある南海ホークスメモリアル施設を訪れたのは、2012年の夏のことである。訪問前から聞いていたが、野村捕手・監督の紹介が露骨なまでに抹消されている施設。野村選手側の要望によるものとはいえ、「哀しい」の一言である。

本書は熱烈なホークスファンであった著者二人によるものである。合間に著者二人による一編ずつのエッセイが挿入されている。本書内の冷静な筆致とは違い、ホークスファンとしての心の叫びが赤裸々に記されており、本書に素晴らしいアクセントを加えている。その一編は、南海ホークスメモリアル施設が出来る前に書かれたと思われる。その中に、ホークス記念館の実現を熱く訴えている下りがある。南海ホークスメモリアル施設は実はそのエッセイによって実現したのではないかとまで思える一編である。いつの日か、野村選手が南海ホークスメモリアル施設に紹介されることを願わずにはいられない。

奇しくも、私が本書を読み終え、本稿に手を付けるまでの間に、水島新司さんの「あぶさん」の連載最終話が発売された。縁を感じる出来事である。しかし、これで南海ホークスの物語が終わる訳ではないと思いたい。不当に南海ホークスを貶めていた少年時代の私。彼への懺悔の意図もこめ、南海ホークスという球団の物語が、大阪に今も息づいていることを、何らかの形で再び確認しに行きたいと思う。

’14/01/25-14/01/30