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若者を殺し続けるブラック企業の構造


著者の肩書きはNPO法人POSSEの事務局長。私も本書を読むまで知らなかったが、ブラック企業という言葉を世に出したのは、このPOSSEだという。実際に流行語大賞のトップ10に入賞した際の授賞式には、代表の今野氏が出席したそうだ。

流行語大賞に入賞したのが2013年のことというから、ブラック企業という言葉が世間に広まったのは、最近の事なのだ、と改めて思う。

だからといって、ブラック企業が最近になって登場したわけではない。労働者を使い捨てにし、利益確保に走る。昔からある、強欲雇用主にとっての常套手段だ。イギリスに興った産業革命は、子供を長時間労働に従事させた。また、古くからある奴隷制度はブラック企業の走りと言っても差し支えないだろう。つまり、ブラック企業の本質的な部分は古来変わっていないと云える。

では、今のブラック企業を特徴付ける要素とは何なのか。それを解説するのが本書といえる。

私自身、ブラック企業については色々含むところがある。が、それは文末にて語ることにしたい。それよりもまずはブラック企業の今を知る必要がある。

第一章では、ここ最近のブラック企業がらみのトピックが取り上げられる。ここで登場するのは、ワタミやウェザーニュース、西濃運輸、日東フルライン、王将フードサービスといった企業。これら企業の若い従業員が自殺し、うつ病になった事件は、ニュースでもさんざん取り上げられた。

著者は、グラフを提示する。そのグラフを見ると若者の死亡原因に占める「精神及び行動の障害」の割合が、1995年の4.45%から2012年の25.55%にまで上がっている事が一目で分かる。そして著者は、「精神及び行動の障害」の増加理由を新型うつや、ゆとり世代の耐性のなさ、と安易に片付けることに警鐘を鳴らすことを忘れない。

なぜブラック企業が社会にとって大きな問題なのか。本書の肝といえるのは、まさにこの点にある。利益の追求で社員を使い捨てにすることは、その企業に耐え忍びながら勤める社員自身にとってはもちろん大きな問題だ。しかし、当の社員だけの問題ではない。それは社会全体にとっても影響のあることなのだ。ブラック企業で使い捨てられる社員は20代の方が多い。20代というのは、これからの社会を担うために保護者や教育機関、自治体が20年前後の期間を設けて育て、その後30~40年に亘って社会に貢献することが期待される年代だ。それを、一企業の利益のために短期間で使い潰すこと。これが問題なのだ。さらに、そのことによる社会の経済的損失は、潰した当の一企業が償わなくともよい。これも社会にとっては著しい不平等となる。若い労働力が社会全体に還元する可能性とは単に利益だけに留まらない。子どもが授かれば社会全体の活性化にもつながるし、地域の活性化にもつながる。若者を一企業の利益の元に殺すのは、単に利益の問題だけに留まらないのだ。かつてと違い、現代は、若者に対する社会の投資が大きくなっている。かつてのように教育も整っていなかった時代とは違う。それが奴隷と現代のブラック企業従業員とを分ける最大の点なのだろう。

第二章では、働きすぎという我が国の労務慣習についてメスをいれる。

過労死による勤務実態が報じられる度、「俺のほうがもっと働いてる」というコメントがネットに溢れるのは承知の通り。かく言う私も書き込みこそしなかったがそう思ったものだ。そして、そのような書き込みがまかり通るのも、日本が働きすぎを当たり前とする社会になっているから、と著者は言う。

その理由としては日本型雇用に問題があると著者は説く。日本型雇用とは、長期雇用が慣行となっているため、首が切れず余剰人員調整の余地があまりないことが特徴だ。日本企業は、その替わり雇用契約の中身を企業側の人員調整に都合のよいものにした。いわゆる白紙契約である。労働者はいつ何をどこでどうするのか、といった仕事の中身が白紙の状態で企業と雇用契約を結ぶ。つまり、企業からみればどこに転勤させようと自由だし、社内のシュレッダー専任に任命しようと自由というわけだ。もちろん仕事量は個人裁量ではなく会社裁量によって決まることは言うまでもない。なお、欧米では白紙契約の慣習はないらしい。

命ぜられたやり方に従順であればあるほど使う側にも都合がよい。つまり、評価される人材とは、その人が持つ具体的なスキルではなく、将来的に多様化する企業の状況に応じて柔軟に対応できる人材となる。これを潜在的能力主義と呼ぶそうだ。また、それを支える社会保障制度や企業内研修制度もそう。企業別労働組合もそう。企業を取り巻くあらゆる環境が長期雇用を前提として作り上げられてきた。そのことがブラック企業を許す温床となったことが本章では簡潔にして詳しく掘り下げられている。

そして、長期雇用慣行は、日本が経済成長を続けてきたからこそ維持できたともいえる。日本経済の失速は、人材を長期雇用するだけの財源を企業から奪いつつある。そして、長期経済成長の恩恵を受けなかった財源のない一部の企業をブラック企業へと駆り立てた。

ブラック企業の類型として、本章では三つが挙げられている。①選別型。②使い捨て型。③無秩序型。かつての私が入り込んでしまった某社は①にあたるだろう。雇用した人間を早々に過酷な環境に放り込み、役に立たないとなれば有無を言わさず馘首する。もっとも私にとってはそれが却ってよかったわけだが。

本章で紹介される労務慣習は、私企業だけのことではない。公務員ですら、ブラック企業のような過酷な労働の温床となり得る。本章では公務員ですら自殺から逃れられないことが紹介されている。実際、私の知り合いの公務員でも何人か体調を崩した方を知っている。また、私自身が20年前に勤めていた某市役所の方々は当たり前に残業していたし、休日も出てきていた。20年前でそうなのだから、今はより大変な状況だろう。最近では教員の勤務状況の過酷さもよく聞く。

第三章では、”働きすぎ”を追認する日本の法制度と題する。

法制度については、36協定が著名だ。本章でも詳しく説明されている。いわゆる労使協定を指す。企業と労働組合が協定を結ぶことで、協定に記された範囲内であれば、残業が労働基準法で定められた週40時間を越えて働かせても罰せられないというものだ。しかし、これは個人個人の事情を考慮せず、労働組合が一括で企業と結ぶ協定だ。しかも労働組合がない場合、任意の代表者との締結が他の労働者にも適用される。本章でも紹介されているが、ワタミでは実際に各店舗の任意の従業員を指名し、36協定を締結していたという。つまり、会社に忠誠を誓う都合のいい社員と残業時間制限を緩和させた協定を結びさえすれば、他の労働者にもその協定が適用されることを意味する。労働基準監督署の指導などどのようにでも逃れられる訳だ。そして労働者は際限なく企業側の都合によって使われることになる。

また、もうひとつ本章で取り上げられているのは、みなし労働時間制だ。実際の労働時間に関わらず、ある一定の労働時間働いたとみなす制度。外回り営業などに多い。これによって「実際の残業の多寡に関わらず」残業はなかったと見なされる。また、管理者には残業代の支払いが免除される制度を利用し、名ばかりの管理者に任命する名ばかり管理職の問題も取り上げられている。ただ、その手法も広く知られ、名ばかり店長の事例が数多く摘発されたことで、企業側は次なる手を編み出す。それが裁量労働制だ。安倍内閣がホワイトカラーエグゼンプションとして導入に執念を燃やすものに似ている。ただし、ホワイトカラーエグゼンプションは、裁量さえなくす。そうなるともはや企業は残業代の支払いから解放される。

いま、ブラック企業がよく使うのは、固定残業代の制度らしい。募集時に提示する固定給に、残業代も含めるのが手口だ。そのことは当然募集要項には書かない。後で残金代を請求しようとして初めて、月給に残業代込で含まれていたことに気づく仕組みだ。言うなれば騙し討ちに近い。

これだけ企業側に有利な抜け道が用意されていれば、残業代の上限などなきが如し。青天井だ。本書では月の勤務時間が552時間という事例が紹介されている。にわかには信じられない勤務時間だ。これは土屋トカチ監督の映画「フツーの仕事がしたい」に出てくる人物の勤務時間だという。この映画はドキュメンタリーだから、恐らくは実話なのだろう。

今のところ、社会的に過労死への境目として認知された時間は月80時間以上の残業だという。私も幾度となく突破しているが、そろそろ体がしんどくなり始める時間であり、個人的にも納得できる。そして80時間を認知させるにあたっては、ブラック企業に人生を潰された方の遺族の方々の貢献が大きいという。

つまり、どの程度まで働けば心身に不調が生じ、自ら死を選ぶまでに至るか。身をもってこの限界を示した方々の上に、過労死ラインが設定されているといってよい。実際の過労死ラインは、月80時間の決めだけではなく過去に数ヶ月遡っての時間も基準となっているという。ただし、過労死ラインが適用されるのは、本書によればあくまでも心臓や脳疾患による症例が出た場合に限られる。うつについては症状が客観的に分かりにくく、個人差もあるので過労死ラインが設定しにくいという。

だが、過労死ラインを設定しただけではブラック企業は無くならない。ブラック企業は社会的にも規制されるべきだし、個人としても入社しないようにしたい。実際に入ってしまった私は、そのことを強く言いたい。

最終章では、ブラック企業に食いものにされないための具体的なアドバイスが書かれる。それによると、就職情報サイトに書かれた内容を鵜呑みにしない。会社四季報などから会社の真の姿を類推する努力を惜しまない、など。また、専門家に相談するなどの対策も重要だ。本書にはPOSSEやストップ!過労死実行委員会のサイトも紹介されている。是非とも利用すべきだろう。

個人によるブラック企業対策の要は、入ってしまう前に踏みとどまること。これに尽きる。なぜなら、一旦入ってしまうと、あらゆる判断力は失われてしまうから。考える間もなく追いたてられ、急かされる。私が身をもって体験した企業は、まさにブラック企業だった。私が入った当時は、ネットの黎明期で、今のようにブラック企業対策のサイトもなかった。

その会社は出版社の看板を掲げていた。しかしその実態は教材販売。しかも個人宅への飛び込みである。出社するなり壁に貼り付けられている電通鬼十則をコピッた十則を大声でがなり立てる。挨拶もそこそこにして。

朝礼は体育会系も真っ青の内容で、絶え間ない大声と気合の応酬が続く。しかし、そこに単調さはない。きちんと抑揚が付けられている。おそらくは営業所のリーダーの裁量にもよるのだろう。前日に成果を上げた者には惜しみない賞賛の声が掛けられるが、一本も成果を上げられなかった(ボウズと呼ぶ)者には、罵声が浴びせられる。私は数日ボウズが続いた際、外のベランダに連れ出され、髪型のせいにされてその場で丸刈りにされた。これホント。私がクビを告げられたのも朝礼の場。

朝礼が終わった後は、ロールプレイングと称する果てしないやりとりの復習。詳細な住宅地図から描き出す訪問ルートの策定を中心とした行動計画。担当毎にエリアが割り振られ、その地域を一定の期間訪問し尽すまで、そのエリアへの訪問は続く。

朝こそ12時出社だが、成績が悪いと10時出社の扱いになる。無論朝からロールプレイングの時間が待っている。派遣地域から営業所に帰ってくるのが22時前後。それから明日の営業資料の整理やら反省会やらがあり、終電は当たり前。そんな中、朝10時出社は厳しい。

クビを宣告された際はショックだったのを覚えている。でも、やっと解放されたという思いも強かった。それでもその後数年は、この時の経験が尾を引いて夢にまで見た。

しかし、ここでの経験は私にとって無駄だったかというとそうでもない。本書の結論とは真逆になってしまうのだが、ブラック企業での経験は、私にとって成長の糧となったこともまた事実なのだ。ここに、ブラック企業という存在が日本から無くならない大きな理由があると思う。敗戦後の荒廃から日本が立ち直ったのも、猛烈サラリーマンが日本経済を牽引したからという論にもある程度の真実は認めざるをえない。本書でも度々取り上げられるワタミの渡邉美樹氏は毀誉褒貶の激しい人物ではあるし、実際その主張は極端だ。しかし、氏が主張するように死ぬ気で働かねば分からない世界があることも今の私は理解している。要は、その世界に行くのが自分の意思によるのか、他人から強いられた意思なのか、によると思う。

この時の私は完全に他人の意思によって働かされていた。幸いなことに、この会社がブラック企業としては①選別型にあたっていたため、私は3か月でクビという形で解放された。だが、それが②使い捨て型だったらどうなっていたことか。おそらく私は幸運だったのだろう。さほど損害を被らずに経験だけを得られたのだから。ヤクザの家に飛び込み訪問し、食い下がったために激昂され、あわや監禁されかかったことも今では良い経験と振り返ることが出来る。ヤクザのパンチは傷をつけないため(証拠を残さぬため)に掌底で行う、ということを知ったのもこの時だし。

繰り返すが、私はここでの経験と、クビという衝撃を境に一皮むけることが出来た。発作的に、鞄一つだけで東京に出て独り暮らしを始めたのは、この3か月後のこと。そして今や起業するまでになったのもこの時の経験をバネにしている。一人で企業訪問をしたり、交流会に行ったりということが容易に出来るのも、この時の経験が多少なりとも生きているはずだ。私にとっては後悔のない3か月だったと今でも言える。当レビューのひとつ前に書いたレビュー(僕たちはいつまでこんな働き方を続けるのか?)の中で、私はブラック企業耐性が強いと書いた。それは、この会社にいた時の経験から来ている。この時経験した3か月に比べたら、大抵の仕事に対して耐性が付く。

しかし、繰り返すようだが、それは私の運が良かっただけにすぎない。それ以上居たら果たして生きていられたかどうか。ましてやこのような文章を書くこともなかったかもしれない。人には耐性というものがある。その耐性とは人によってそれぞれだ。ブラック企業とは、人によってそれぞれであるはずの耐性を度外視し、命を懸けて乗り越えることを強いる。それはもはや利益確保といった大義名分だけでは庇いきれない。失敗したら命を失うという状況は、個人が選んだのであれば許されるかもしれないが、他人から強いられることは許されない。

私がレビュー(僕たちはいつまでこんな働き方を続けるのか?)で書いた通り、社員を大切にしたい会社でありたいというのも、この時の経験が大きく影響している。

人がそれぞれの生き方にあった生き方を選べる時代。人に命を懸けてまで何かを強いられることのない時代。そろそろそういう時代でありたいものだ。現代とは、奴隷制度が一掃され、子どもが炭塵に塗れて働かされる時代ではないはずなのだから。その点からも、私はPOSSEを応援したいし、ブラック企業については声をあげ続けて行こうと思う。

‘2015/04/11-2015/04/15


国民ID制度が日本を救う


構想がマスコミで取り上げられる前から、私は国民ID制度には賛成であった。国民ID制度が世の話題に上り始めた頃、制度に対し国民総背番号制云々といった揶揄が横行していた。私はそのような、本質とは違った世論を醒めた眼で眺めていた。

データ管理を行う上で、ユニークな番号、つまりIDを抜きにすることはあり得ない。データの集まりであるテーブルとテーブルを結びつける上で、ユニークなキーがあって初めて、テーブル間のデータに一貫性が保たれる。好むと好まざるにかかわらず、IDはデータ管理の上で欠かせないものである。言うまでもなく、国民ID制度が始まる前から、官公庁では国民のデータ管理が行われていた。データ管理を行う以上、IDはデータそれぞれに振られ、テーブル・システム間を結び付ける。実質的には国民ID制度が施行以前から行われていたといってよい。統一したIDがなく、当局の担当者毎の恣意によって割り振られたIDが国民公開されていなかっただけのことである。

私も国民ID制度をくまなく見た上で賛成した訳ではない。むしろ、感情的に反対したい気持ちも理解できる。しかし、IT技術者の端くれから見て、賛成以外の選択肢はありえない。データ管理を行う以上、各データテーブルを結びつけるキー項目となる、IDは避けては通れない。なお、私はIT技術で飯を食っているとはいえ、仕事上では国民ID制度に関する作業に携わったことはない。一利用者として、年に一回、e-taxでお世話になる程度の関わりである。

今は上に挙げたような感情的な反対意見は影を潜め、運用やセキュリティといった観点からの反対論が主流になっているようである。それら懸念については、私も理解する。国がその点について十分な説明を国民に尽くしたかと聞かれれば、疑問である。よりわかりやすく、より簡潔な国民ID制度についての書物は必須である。

本書の著者は、国民ID制度を推進する団体の方である。本書の内容も国民啓蒙書として、国民ID制度を推進する意図で書かれている。本来は国がなすべき国民への説明を、本書が替わりに担っているとも取れる。

啓蒙を目的としただけあり、本書の内容には参考になる点が多い。IT技術に疎い読者層に配慮し、記述は出来るだけ易しく、技術的な内容には深く触れない。暗号化やネットワークのルーティングの仕組みなど、IT門外漢を惑わせるような技術の説明も避けている。唯一技術面な説明がされているのは、IDのリレーションについての記述くらいだろうか。冒頭に、IDはデータ管理上必須と書いた。私が思うに、ID制度について反対した人々の真意は、ID管理そのものではなかろう。一意のIDで管理することで、そのIDが漏れるとすべての個人データにアクセス可能となる、そのことについての不安ではないかと思う。ただ、IDをキーとしたデータ間の連結は、制度の肝となる部分であり、逆にいうと不安を与えかねない部分である。果たして個人IDが漏れるだけで、全ての個人情報が漏れることはあるのだろうか。本書では日本以外の諸外国の事例も挙げており、それによると様々な考え方や運用方法があることが分かる。日本では内部で各データ間を関連させるためのIDが別に設けられており、そういった事例は考えにくいとのことである。このような説明こそ国によってもっと広く分かりやすく行われるべきなのである。

本書の主な構成は、ID制度が深く浸透したエストニアなどのID制度先進国の事例を参考に、ID制度で遅れをとった我が国の行政上の問題点の種々から、翻ってその利点を述べるものである。目次の各章を以下に挙げる。

第1章 あたりまえのことができていない国
第2章 国民ID制度は世界の常識
第3章 IT戦略の「失われた10年」
第4章 国民IDの不在が生み出す深刻な問題
第5章 行政システムを一気に変える起爆剤
第6章 情報漏洩はこうして防ぐ
第7章 便利で公平で安心な社会を目指して

東日本大震災での被災者対応の混乱、役所での手続きの煩雑さ。ID制度が整備されていれば、と思わされる点である。また、エストニアで実現した電子投票による投票率の向上と開票作業の迅速化などが長所として挙げられている。

だが、本書で取り上げた問題点や長所の事例によって恩恵を受けるのは誰か。それは行政である。行政内部での効率化に、ID制度は絶大な効果を発揮することであろう。本書でもその試算額を年間3兆円以上と謳っている。しかし、その恩恵を納税者たる我々国民はどれだけ享受できるのか。それこそが国民ID制度の問題点であり、わが国で頑強な導入反対論が勢力を保つ理由である。国民ID制度は、国民を直接的に幸せにできるのか。それこそが国民ID制度の構想当初から付いて回る問題である。この問題を解決せずして、ただでさえ実名開示が理解されづらく、プライバシーに敏感な日本では、国民ID制度は普及しないといっても過言ではない。残念ながら、本書の中で、その点については明快な解決案は提示されていない。間接的な、どこか奥歯に物が挟まったような長所しか述べられていない。たまにしか行かない役所での待ち時間短縮や、稀にしか起きない大災害での復旧速度アップだけだと長所としては弱い。

技術が生まれ、それが世に行き渡るための要因として、食欲・睡眠欲・性欲の俗にいう3大欲求が言われる。また、時間・空間・人間関係といった三つの「間」を埋めることのできる技術は、浸透も速い。

国民ID制度の場合、導入効果として行政内部の時間を埋めることに効果のほとんどが集中している。他のどのような「間」を国民ID制度は埋めることができるのだろうか。ただでさえ効率化が諸国に比べて突出している我が国で、国民ID制度の利点をどこまで提唱できるのだろうか。難しい問題である。年間3兆円以上の効果が国防に回るのか、福祉に回るのか、それとも建設業者を潤すだけに終わるのか。国民にはお金ではなく、上に挙げた「間」を埋めるだけの利便性を示したほうがよいように思える。

私個人の案としては、さらにネットワーク基盤が整備され、端末を通じた遠隔での諸作業が実現した際に、ID制度が威力を発揮するのではないかと考えている。例えば遠隔医療。例えば窓口対応。日常で遭遇する行列に着目すれば、自ずと利用分野も見つかることだろう。

しかし、それまではIDを利用したサービスの適用範囲を拡大していき、時間・空間を埋める基盤記述としてのID制度の利便性を訴えていくしかない。まず制度を見切り発車させ、その後で浸透させようとした総務省の判断も分からなくもない。が、その後の展開にこれといったブレークスルーが生まれなかったのが痛い。

本書では、そのための一つとして興味深い提案がされている。ID発行を免許更新センターに任せようというものである。日本での身分証明書として、自動車運転免許証はもはや欠かせないものになっている。免許情報の漏洩といった話も聞いたことがない。面白い提案だと思う。

いささか楽観的ではあるが、ID制度は、反対論がどう吹こうとも、ゆくゆくは当たり前のインフラとなっていくことと思う。私もIT技術に関わる者として、何か手伝えるように努力を続けたいと思う。

’14/05/23-‘14/05/27