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ベーシック・インカム入門 無条件給付の基本所得を考える


若い時には理想主義にふけっていた私。利潤の追求は間違っている、とかたくなに信じていた。人々が利潤を独占せず、広く人々に共有できれば、世の名はもっと良くなる。半ば本気でそんなことを考えていた。

経営者になった今、さすがに利潤を無視するわけにはいかない。それは利潤が利潤を呼び、いつまでも成長することが経済のあり方だから、と無邪気に信じているからではない。有限の資源しかない地球でそんなことは不可能だ。利潤を追い求める営みを認めるのは、私の中に飢えへの恐怖があるからでもない。

今、私は経営者として順調に売り上げを上げ続けている。だが、それは私が健康だからできること。何かの理由で仕事ができなくなったとたん、収入は途絶える。そうなったら飢えの恐怖が私の心身をむしばむに違いない。その恐れは常に心のどこかに居座っている。私の心身に異常が生じた時、どこからともなく助けが得られる。などと虫のいいことは考えていない。よしんば助けが得られたとしても、それは最低限の生活を送るための資金がせいぜいだろう。だから私は、利潤を追い求めるだけが人生ではない、という理想は捨てていないが、経済の論理は無視できないと思っている。

そこで、ベーシック・インカムだ。生きていくのに必要な金額が国から支給される。しかも無条件に。助成金や補助金のような複雑な申請はいらない。ただ、もらえる。魅力でしかない制度だ。

だが、経営者になった今、私はこの制度に無条件に賛成できないでいる。それは、私が経営者になった事で、勤しんだ努力だけ見返りがあるやりがいを知ってしまったからだ。勤め人だった頃のように失敗や逆境を周囲のせいにする必要はない。失敗は全て己のせい。逆に努力や頑張りが見返りとして帰ってくる。全ての因果が明確なのだ。見返りがあるということは人を前向きにする。それは人間に備わった本能からの欲求だ。楽になりたいとか、利潤が欲しいという理由ではなく、自分の生き方を自分で管理できる喜び。

だから、私はベーシック・インカムの思想にある「無条件に」という言葉には引っかかりを感じる。「無条件に」という言葉には、努力や責任が一切無視されている。もちろん、弱い立場の方に対してベーシック・インカムが適用されることは否定しない。私がもし、体を壊して仕事ができなくなった時、ベーシック・インカムから無条件に給付を受けられればどれだけ助かるか。それを考えた時、弱い方へのセーフティとしてのベーシック・インカムは必要だと思う。だが、それでは今の福祉制度と変わらなくなってしまう。

私が抱えるベーシック・インカムへの矛盾した思い。その疑問を解決するには勉強しなければ。本書はそうした動機で手に取った。

本書は全6章からなっている。ベーシック・インカムの理念や仕組みだけでなく、古くから検討されてきたベーシック・インカムの歴史が紹介されている。民主主義の勃興に時期を合わせるようにベーシック・インカムは提唱されてきた。その歴史は意外と古い。今までの人類の歴史で、幾人もの哲学者や経済学者、また、マーティン・ルーサー・キングの様な著名な運動家がベーシック・インカムの考えを提唱してきた。ベーシック・インカムはにわかに現れた概念ではないのだ。私は本書を読むまでベーシック・インカムの長い歴史を全く知らなかった。

第1章 働かざる者、食うべからずー福祉国家の理念と現実

この章ではベーシック・インカムの要諦が語られる。著者はその定義をアイルランド政府がベーシック・インカム白書の中で示した定義から引用する。
・個人に対して、どのような状況におかれているかに関わりなく無条件に給付される。
・ベーシック・インカム給付は課税されず、それ以外の所得は全て課税される。
・給付水準は、尊厳をもって生きること、生活上の真の選択を行使することを保障するものであることが望ましい。その水準は貧困線と同じかそれ以上として表すことができるかもしれないし、「適切な」生活保護基準と同等、あるいは平均賃金の何割、といった表現となるかもしれない。

より詳しい特徴として、本書はさらに同白書の内容から引用する。
(1)現物(サービスやクーポン)ではなく金銭で給付される。それゆえ、いつどのように使うかに制約はない。
(2)人生のある時点で一括で給付されるのではなく、毎月ないし毎週といった定期的な支払いの形をとる。
(3)公的に管理される資源のなかから、国家または他の政治的共同体(地方自治体など)によって支払われる。
(4)世帯や世帯主にではなく、個々人に支払われる。
(5)資力調査なしに支払われる。それゆえ一連の行政管理やそれに掛かる費用、現存する労働へのインセンティブを阻害する要因がなくなる。
(6)稼働能力調査なしに支払われる。それゆえ雇用の柔軟性や個人の選択を最大化し、また社会的に有益でありながら低賃金の仕事に人々がつくインセンティブを高める。

この章では他にもベーシック・インカムのメリットが紹介される。その中で、社会保険や公的扶助の現状もおおまかに紹介される。そうした制度が対象とする貧困層に対し、国家はどう認識し、どう対処してきたのか。それは国が行うべき機能の一つと挙げられている。だが、かつて貧困層とは国から完全に見捨てられた層だった。

貧困層とは、雇用されず、生計が成り立たない人々をさす。国としてみれば完全雇用が達成されれば社会保障は不要。だが、現実にはそうはいかない。しかも日本の場合、生活保護対象世帯のうち、実際に保護を受けているのは二割程度だという。これは捕捉率というそうだが、先進国の中でも日本の捕捉率は際立って低いそうだ。

そもそも生活保護とは、貧困者を選別する制度につながる。他にも公的な社会システムはある。そのうち、生活保護制度だけが対象を選別するそうだ。選別という行為は、為政者にとって避けたい。ならば、誰に対しても等しく適用されるベーシック・インカムの制度のほうが政策にも取り入れやすい。そうした観点を著者は説く。

日本ではそのため、完全雇用に近づけるようなワーク・フェアの施策がとられていると著者は指摘する。完全雇用が達成できれば、民間に福祉を完全に委ねられる。そのような発想だろう。だが、諸外国のワーク・フェアと比べ、日本のワーク・フェアには公の補助が欠けているという。

第2章 家事労働に賃金を!ー女たちのベーシック・インカム

本章では、アメリカやイタリア、イギリスで繰り広げられたここ数十年のベーシック・インカムの運動をおさらいする。女性がベーシック・インカムを主張する場合、通常の値上げ運動とは性格が異なる。というのも、通常の値上げ運動は失業時や低所得者の救済を主な目的とする。だが、そうした運動には女性の家事労働に視点が向いていない。そもそも女性が家事労働に従事する場合、それ自体に報酬が支払われることはない。一般的な家庭では、夫たる男性が外で稼ぎ、収入を持ち帰る。妻たる女性は、それを受け取り、家庭のために使う。つまり、夫から受け取る金額の中に、家事労働の報酬も暗黙のうちに含まれている。そのような解釈だ。

だが、報酬を暗黙でなく、家事労働それ自体に報酬を与えよ、というのが彼女たちの主張だ。だが、家事労働の労力など測れるはずもない。なので、女性に対するベーシック・インカムを要求するのが、本章で取り上げる運動の趣旨だ。

アメリカでの運動にはマーティン・ルーサー・キング牧師が関わっていた。そこには公民権運動の一環としての性格もあったのだろう。当時、黒人の女性は弱い立場にあった。それを救済するための手段の一つとして検討されたのがベーシック・インカムだった。イタリアではその運動がもう少し趣を変え、家事労働自体が他の賃金労働と等しく労働だ、という主張がなされた。ただ、ここで誤解してはならないのが、主婦業への賃金を求める運動ではなかったということだ。

イギリスでは要求者組合という形をとり、弱者への福祉も含めた運動に広がってゆく。その中で、受給資格をめぐる議論もより深まっていったという。例えばベーシック・インカムを受ける資格がある女性は、一人暮らしなのか、男性と同居しているか、結婚しているか、など。要は生計を男性に援助してもらっているかどうかによって、ベーシック・インカムの受給資格は変動する。

第3章 生きていることは労働だー現代思想のなかのベーシック・インカム

本章では、アメリカやイギリスでは女性によるベーシック・インカムの運動が衰退したが、イタリアでは発展して長く続いた理由を考察する。そこには賃労働の拒否、そして家事労働の拒否、という二重の拒否があった。ベーシック・インカムはその主張の解決策でもあった。それは、労働の価値化をどう捉えるか、という次の考察につながってゆく。労働とは通常、何か基となるものから付加価値を生み出す営みを指す。生み出された付加価値のうち、労賃が労働者に支払われるというのが古典的な経済の考えだ。そして、今までは家事労働には付加価値が発生しないと考えられていた。発生したとしてもそれは家庭内で消費されてしまうと。もし家事労働に付加価値が発生するとすれば、それは夫である労働者が外で付加価値を生み出すための労働であり、子供という次代の労働力を社会に生み出すための労働であり、それ自体に価値を見いだす考えがなかった。

本章では、行きていること自体が労働という観念が紹介される。生きているだけで労働と認められるなら、その労働には賃金が支払わねばならない。それこそがベーシック・インカムという論法だ。その考えは斬新にも思えるし、突飛にも思える。もちろん、その考えが認められれば、ベーシック・インカムの論理はこれ以上なく確かなものだろう。なにしろ、仕事内容や性別、資産に応じた額の増減を考えずに済むからだ。

日本でも青い芝の会という障害者の権利向上を求める集まりがあるそうだ。青い芝の会では、障害者は生きている、すなわち労働だとの考えに基づいているという。著者はそれもベーシック・インカムに近いと考えているようだ。

後に触れるように原資をどうするか、という問題を脇に置くとすれば、私もこうした考えをベーシック・インカムの一つとみなすことに賛成したい。

間奏 「全ての人に本当の自由を」ー哲学者たちのベーシック・インカム

ここでは哲学者たちがベーシック・インカムをどう考えてきたかについて触れられる。ベーシック・インカムは社会主義や無政府主義に比べ、人類にとって適正な制度であるというバートランド・ラッセルの説や、真の自由を人類が得るためには、必要だとするフィリップ・ヴァン=パレイスの考えが紹介される。苦痛からの逃れる意味での自由ではなく、より真の意味での自由。ベーシック・インカムが給付された場合、生存のために働く必要はなくなる。だが、それでも働きたい人が働く自由も保証されるべき。そうした選択の幅が拡充されるのがベーシック・インカムの根本思想だという。

第4章 土地や過去の遺産は誰のものか?ー歴史のなかのベーシック・インカム

ベーシック・インカムの考え方は、社会制度が封建主義から次の民主主義に移ってしばらくしてから生まれた。それは同時に経済制度が資本主義に変わったとみなしても良い。要するに近代の社会制度が生まれ、ベーシック・インカムの考え方も芽生えた。本書はそれらの紹介を順に進めてゆく。現代の資本主義国家では、土地の私有が認められている。だが、資本主義が勃興した当初、土地は共有という考えがまだ支配的だった。つまり誰にでも土地の権利があり、その土地から収入を得られる権利があったということだ。その考えを敷延すると、まさにベーシック・インカムの考え方そのものとなる。無条件で収入を得る権利というベーシック・インカムの考え方が、土地の扱いという観点で資本主義の発生時からあったことを著者は指摘する。

その考えは、経済学の中でも代々受け継がれてきたという。弱者を救済するための社会制度という性格は同じだが、保険や保護を社会が担うのではなく、無条件に給付するベーシック・インカムのほうが、制度として有効だとの考えも一定数で唱えられていたそうだ。それは、社会主義が見事に失敗した今でも変わらない。

著者はここで、経済制度の分析にまで踏み込んでいない。だが、現行の資本主義の制度の中でも、土地が共有である考えは受け継がれていて、ベーシック・インカムの根拠となる考えは有効であるとの立場のようだ。それはもちろん、人は生きているだけで労働だからベーシック・インカムの権利がある、という考えにも照応する。

第5章 人は働かなくなるか?ー経済学のなかのベーシック・インカム

ここが今の私には関心の高い点だ。

今の社会福祉は、労働を前提としている。だが、社会からは明らかに人間が必要な労働量が減ってきている。それは、技術革新の恩恵にあずかるところが大きい。つまり、労働がないのに報酬を払わねばならない未来が近づいている。もしそうなったら、労働を基に付加価値をつける営利組織はたちまち立ちいかなくなる。だからこそ国や団体による報酬の支給が必要というわけだ。こうした課題を経済学者は今までさんざん議論してきた。

本書に紹介されるのは、どちらかというとベーシック・インカムに賛成の立場の論考だ。だから反対の意見はあまり登場しない。それを差し置いても、今の社会制度で福祉を継続するためには、保険や保護に頼るのは困難になりつつある。そのような意見が優勢になりつつあると著者は指摘する。

ただ、本書の全体を通し、説得力のあるベーシック・インカムの財源が登場しない。これは考えものだ。たぶん現実問題として、財源の不足こそがベーシック・インカムが普及しない最大の理由だと思うからだ。私としては、ベーシック・インカムの普及には技術の力が欠かせないと思っている。資本からではなく、技術の力で全く違う資源からベーシック・インカムとして支給する何かを生み出す。それが実現するまで、私はベーシック・インカムの実現は難しいと思う。

もう一つ、日本においてそれほどベーシック・インカムの議論が熱中しないのは、わが国には自治体による道路、水道、ガス、電気といったインフラが整備されているからだ。現時点で民営化されているとはいえ、こうしたインフラはもともと国家による国民へのサービスだった。だから現状で十分なサービスを享受できているわが国民にさらにベーシック・インカムの恩恵を施す必要はあるのか、という疑問が生じる。

インフラも整っておらず、実際に生活を送るには収入が欠かせない国の場合、ベーシック・インカムの必要性はある。ただ、生活必需品をそれほど労せずに享受できるわが国では、ベーシック・インカムの普及についての議論が深まらない。もちろん、より多様性のあるサービスを受けられる選択の幅があっても良いと思う。だからこそサービスではなく財で等しく受給できるベーシック・インカムは、国民がサービスを自由に選ぶために必要なのかもしれない。原資の安定供給を技術の進化に頼らねばならない現状は変わらないにせよ。

今、年金制度の崩壊が叫ばれている。年金は、その支給の資金を原資をもとに投資した利子でまかない、支給額を安定確保するために努力していると聞く。つまり、既存の旧来の拡大成長を前提とした経済論理に年金制度は完全に組み込まれている。有限の地球に無限の拡大成長は考えにくいとすれば、それをベースに考えられた福祉にどれほどの期待が持てるのだろう。

もちろん、福祉サービスとベーシック・インカムは別ということは理解している。ただ、本章でも提示されているように、何らかの社会的な貢献活動の代償は制度として設けられているべきだと思う。つまり、働いてこそ代償は受け取れる、という考えだ。

第6章 〈南〉・〈緑〉・プレカリティーベーシック・インカム運動の現在

だからこそ、本章で取り上げられる現在のベーシック・インカムを分析する視野が必要だと思う。章のタイトルにある<南>とは既存の資本主義の熟練国ではなく、新興の国々を指す。要はいまだ発展途上にある国々の事だ。<緑>というのは緑の党のような、持続が可能な社会を目指す人々を言う。

ここで著者はエーリッヒ・フロムを登場させる。フロムもまたベーシック・インカムの提唱者だったそうだ。彼は著書『自由からの逃走』で著名だ。その中で彼が唱えたのは自由を持て余した人々がナチスを生んだという理論だ。だが、それとは別に、ベーシック・インカムこそが人々をより自由にするとの考えも持っていたらしい。そして、彼は財ではなく生活必需品の提供でならばベーシック・インカムが成り立つのではないか、と考えていたそうだ。上にも書いたとおり、私はすでに物資が充実している日本では、生活必需品の提供というベーシック・インカムは成り立たないと思う。著者も同じ考えをもっているようだ。

プレカリティという言葉の意味は本章には出てこない。調べたところ、不安定とか予測できないという意味のようだ。第二章で登場した各国のベーシック・インカム運動のその後が本章では紹介される。どうすれば人々がひとしく恩恵を受けられるのか。それはかつての私がまさに目指そうとした社会でもある。そのような社会の実現が経営者としての立場では難しいことも理解している。まさに今の経済制度では現実は不安定で将来は予測できない。だが、これからも理想の実現に向けた努力は注視していきたいと思っている。

本書は各章ごとにまとめが設けられたり、巻末でもあらためてベーシック・インカムのQ&Aの場が設けられたり、各章のあとにはコラムが設けられたり、なるべく読者への理解を進めるような工夫がちりばめられている。何が人類にとって最適な福祉なのか、本書は一つの参考資料となるはずだ。私も自分の理想がどこにあるのか、さらなる勉強を重ねたいと思う。

‘2018/10/17-2018/10/23


資本主義の極意 明治維新から世界恐慌へ


誰だって若い頃は理想主義者だ。理想に救いをもとめる。己の力不足を社会のせいにする時。自分を受け入れない苦い現実ではなく己の望む理想を望む誘惑に負けた時。なぜか。楽だから。

若いがゆえに知識も経験も人脈もない。だから社会に受け入れられない。そのことに気づかないまま、現実ではなく理想の社会に自分を投影する。そのまま停滞し、己の生き方が社会のそれとずれてゆく。気づいた時、社会の速さと向きが自分の生き方とずれていることに気づく。そして気が付くと社会に取り残されてしまう。かつての私の姿だ。

私の場合、理想の社会を望んではいたが、現実の社会に適応できるように自分を変えてきた。そして今に至っている。だから当初は、資本主義社会を否定した時期もあった。目先の利益に追われる生き方を蔑み、利他に生きる人生をよしとした時期が。利他に生きるとは、人々が平等である社会。つまり、綿密な計画をもとに需要と供給のバランスをとり、人々に平等に結果を配分する共産主義だ。

ところが、共産主義は私の中学三年の時に崩壊した。その後、長じた私は上京を果たした。そして社会の中でもがいた。その年月で私が学んだ事実。それは、共産主義の理想が人類にはとても実現が見込めないことだ。すべての人の欲求を否定することなどとてもできないし、あらゆる局面で無限のパターンを持つ経済活動を制御し切れるわけがない。しょせん不可能なのだ。

人の努力にかかわらず結果が平等になるのであれば、人はやる気をなくすし向上心も失われる。私にとって受け入れられなかったのは、向上心を否定されることだ。機会の平等を否定するつもりはないが、結果の平等が前提であれば話は別。きっと努力を辞めてしまうだろう。そう、努力が失われた人生に喜びはない。生きがいもない。それが喪われることが私には耐えがたかった。

また、私は自分の中の欲求にも勝てなかった。私を打ち負かしたのは温水洗浄便座の快適さだ。それが私の克己心を打ちのめした。人は欲求にはとても抗えない、という真理。この真理に抗えなかったことで、私は資本主義とひととおりの和解を果たしたのだ。軍門に下ったと言われても構わない。

東京で働くにつれ、自分のスキルが上がってきた。そして理想の世界に頼らず、現実の世界に生きるすべを身につけた。ところが、私が求めてやまない生き方とは、日常の中に見つからなかった。スキルや世過ぎの方法、要領は身についたが、それらは生き方とは言わない。私は生き方を日々の中にどうしても見つけたかった。それが私のメンタリティの問題なのだということは頭では理解していても、実際に社会の仕組みに組み込まれることへの抵抗感が拭い去れない。それは日々の通勤ラッシュという形で私に牙をむいて襲い掛かってきた。

果たしてこの抵抗感は私の未熟さからくる甘えなのか。それともマズローの五段階欲求でいう自己実現の欲求に達した自分の成長なのか。それを見極めるには資本主義をより深く知らねばならない、と思うようになってきた。資本主義とは果たして人類がたどり着いた究極なのだろうか、という問いが私の頭からどうしても去らない。社会と折り合いをつけつつ糧を得るために、個人事業主となり、法人化して経営者になった今、ようやく社会の中に自分の生き方を溶け込ませる方法が見えてきた。自分と社会が少しだけ融けあえたような感覚。少なくともここまで達成できれば、逃げや甘えと非難されることもないのでは、と思えるようになってきた。

それでもまだ欲しい。資本主義の極意が何で、どう付き合っていけばよいかという処方箋が。私にとって資本主義とは自らと家族の糧を稼ぐ手段に過ぎない。今までは対症療法的なその場しのぎの対応で生きてきたが、これからどう生きれば自らの人生と社会の制度とがもっともっと和解できるのか。その疑問の答えを本書に求めた。

著者の履歴はとてもユニーク。高校時代は共産主義国の東欧・ソ連に留学し、大学の神学部では神について研究し、外務省ではソ連のエキスパートとして活躍した。そのスケールの大きさや意識の高さは私など及びもつかない。しかし一つだけ私に共通していると思えることが、理想を目指した点だ。神や共産主義といったテーマからは、資本主義に飽き足らない著者の姿勢が見える。さらに外交の現場で揉まれた著者は徹底的なリアリストの視点を身に着けたはず。理想の甘美も知りつつ、現実を冷徹に見る。そんな著者が語る資本主義とはどのようなものなのか。ぜひ知りたいと思った。

本書は資本主義を語る。資本主義の中で著者が焦点を当てるのは、日本で独自に根付いた資本主義だ。「私のマルクス」というタイトルの本を世に問うた著者がなぜ資本主義なのか。それは著者の現実的な目には資本主義がこれからも続くであろうことが映っているからだ。私たちを縛る資本主義とは将来も付き合わねばならないらしい。資本主義と付き合わねばならない以上、資本主義を知らねばならない。それも日本に住む以上、日本に適応した資本主義を。もっとも私自身は、資本主義が今後も続くのかという予想については、少し疑問をもっている。そのことは下で触れたい。

著者はマルクスについても造詣が深い。著者は、マルクスが著した「資本論」から発展したマルクス経済学の他に、資本主義に内在する論理を的確に表した学問はないと断言する。私たちは上に書いた通り、共産主義国家が実践した経済を壮大な失敗だと認識している。それらの国が採用した経済体制とは「マルクス主義経済学」を指し、それは資本主義を打倒して共産主義革命を起こすことに焦点を与えていると指摘する。言い添えれば統治のための経済学とも言えるだろう。一方の「マルクス経済学」は資本主義に潜む論理を究明することだけが目的だという。つまりイデオロギーの紛れ込む余地が薄い。著者は中でも宇野弘蔵の起した宇野経済学の立場に立って論を進める。宇野弘蔵は日本に独自に資本主義が発達した事を必然だと捉える。西洋のような形と違っていてもいい。それは教条的ではなく、柔軟に学問を捉える姿勢の表れだ。著者はそこに惹かれたのだろう。

この二点を軸に、著者は日本にどうやって今の資本主義が根付いていったのかを明治までさかのぼって掘り起こす。

資本主義が興ったイギリスでは、地方の農地が毛織物産業のための牧場として囲い込まれてしまった。そのため、追い出された農民は都市に向かい労働者となった。いわゆるエンクロージャーだ。ただし、日本の場合は江戸幕府から明治への維新を通った後も、地方の農民はそのまま農業を続けていた。なぜかというと国家が主導して殖産興業化を進めたからだ。つまり民間主導でなかったこと。ここが日本の特色だと著者は指摘する。

たまに日本の規制の多さを指して、日本は成功した社会主義国だと皮肉交じりに言われる。そういわれるスタートは、明治にあったのだ。明治政府が地租を改正し、貨幣を発行した流れは、江戸時代からの年貢という米を基盤とした経済があった。古い経済体制の上に政府主導で貨幣経済が導入されたこと。それが農家を維持したまま、政府主導の経済を実現できた明治の日本につながった。それは日本の特異な形なのだと著者はいう。もちろん、政府主導で短期間に近代化を果たしたことが日本を世界の列強に押し上げた理由の一つであることは容易に想像がつく。

西洋とは違った形で根付いた資本主義であっても、資本主義である以上、景気の波に左右される。その最も悪い形こそが恐慌だ。第二章では日本を襲った恐慌のいきさつと、それに政府と民間がどう対処したかを紹介しつつ、日本に特有の資本主義の流れについて分析する。

宇野経済学では恐慌は資本主義にとって欠かせないプロセス。景気が良くなると生産増強のため、賃金が上がる。上がり過ぎればすなわち企業は儲からなくなる。設備はだぶつき、商品は売れず、企業は倒産する。それを防ぐには人件費をおさえるため、生産効率をあげる圧力が内側から出てくる。その繰り返しだという。

私が常々思うこと。それは、生産効率が上昇し続けるスパイラル、との資本主義の構造がはらんだ仕組みとは幻想に過ぎず、その幻想は人工知能が人類を凌駕するシンギュラリティによって終止符を打たれるのではないかということだ。言い換えれば人類という労働力が経済に要らなくなった時、人工知能によって導かれる経済を資本主義経済と呼べるのだろうか、との疑問だ。その問いが頭から去らない。生産力や賃金の考えが経済の運営にとって必須でなくなった時、景気の波は消える。そして資本すら廃れ、人工知能の判断が全てに優先される社会が到来した時、人類が排除されるかどうかは分からないが、既存の資本主義の概念はすっかり形を変えるはずだ。あるいは結果の平等、つまり共産主義社会の理想とはその時に実現されるのかもしれない。または著者や人類の俊英の誰もが思いついたことのない社会体制が人工知能によって実現されるかもしれないという怖れ。ただそれは本書の扱うべき内容ではない。著者もその可能性には触れていない。

国が主導して大銀行や大企業が設立された経緯と、日本が日清・日露を戦った事で、海外進出が遅れた事情を書く海外進出の遅れにより、日本の資本主義の成長に伴う海外への投資も活発にならなかった。その流れが変わったのが第一次大戦後だ。未曽有の好景気は、大正デモクラシーにつながった。だが、賃金の上昇にはつながらなかった。さらに関東大震災による被害が、日本の経済力では身に余ったこと。また、ロシア革命によって共産主義国家が生まれたこと。それらが集中し、日本の資本主義のあり方も見直さざるを得なくなった。我が国の場合、資本主義が成熟する前に、国際情勢がそれを許さなかった、と言える。

社会が左傾化する中、国は弾圧をくわえ、海外に目を向け始める。軍が発言力を強め、それが満州事変から始まる十五年の戦争につながってゆく。著者はこの時の戦時経済には触れない。戦時経済は日本の資本主義の本質を語る上では鬼っ子のようなものなのかもしれない。また、帝国主義を全面に立てた動きの中では、景気の循環も無くなる、と指摘する。そして恐慌から立ち直るには戦争しかないことも。

意外なことに、本書は敗戦後からの復興について全く筆を割かない。諸外国から奇跡と呼ばれた高度経済成長の時期は本書からスッポリと抜けている。ここまであからさまに高度経済成長期を省いた理由は本書では明らかにされない。宇野経済学が原理論と段階論からなっている以上、第二次大戦までの日本の動きを追うだけで我が国の資本主義の本質はつかめるはず、という意図だろうか。

本書の最終章は、バブルが弾けた後の日本を描く。現状分析というわけだ。日本の組織論や働き方は高度経済成長期に培われた。そう思う私にとって、著者がこの時期をバッサリと省いたことには驚く。今の日本人を縛り、苦しめているのは高度経済成長がもたらした成功神話だと思うからだ。だが、著者が到達した日本の資本主義の極意とは、組織論やミクロな経済活動の中ではなく、マクロな動きの中にしかすくい取れないのだろうか。

本書が意図するのは、私たちがこれからも資本主義の社会を生きる極意のはず。つまり組織論や生き方よりも、資本主義の本質を知ることが大切と言いたいのだろう。だから今までの日本の資本主義の発達、つまり本質を語る。そして高度成長期は大胆に省くのではないか。

グローバルな様相を強める経済の行く末を占うにあたり、アベノミクスやTPPといった問題がどう影響するのか。著者はそうした要素の全てが賃下げに向かっていると喝破する。上で私が触れた人工知能も賃下げへの主要なファクターとなるのだろう。著者はシェア・エコノミーの隆盛を取り上げ、人と人との関係を大切に生きることが資本主義にからめとられない生き方をするコツだと指南する。そしてカネは決して否定せず、資本主義の内なる論理を理解したうえで、急ぎつつ待ち望むというキリスト教の教義にも近いことを説く。

著者の結論は、今の私の生き方にほぼ沿っていると思える。それがわかっただけでも本書は満足だし、私がこれから重きを置くべき活動も見えてきた気がする。

‘2017/11/24-2017/12/01


美女と竹林


滝が好きな長井氏は竹林は好きじゃない。けれども、竹林の幽玄な感じには惹かれる。竹それ自体にはそれほど惹かれないのに。でも、滝を好む長井氏は「たけ」と「たき」という一文字の違いに親近感を感じる。気がつけばいつの間にやら滝から竹の愛好家に宗旨替えし、何食わぬ顔で竹林の魅力を語り始めるかもしれない。

きっと長井氏は本書の中で登美彦氏が幾度も訪れる洛西、桂の竹林には行ったことがないはずだ。でも、嵯峨野々宮神社の竹の小径などには惹かれるらしい。同じ京都だから、野々宮神社の竹も本書に登場する鍵屋家の竹も似たようなものだろう。で、行ったら行ったでコロっとその魅力にとり付かれるのだ。そして竹林に分け入っては本書の登美彦氏や明石氏のようにあり余る余暇をのこぎりを振り回すことで費やすに違いない。なんといっても長井氏の良いところは常にアンテナ全開、他人からの感化も辞さないことにあるのだから。

長井氏はいわゆる雇われ人ではない。零細ながらも会社を持っているし、法人化する前は個人で事業を9年の長きにわたり営んでいる。仕事をよそ様から恵んでいただく立場だ。そしていったん仕事を請けるとそちらを優先するしかない。そんなところも登美彦氏のなりわいに相通ずるものがある。なので、長井氏には登美彦氏が竹に惹かれる気持ちがとてもよくわかる。そして登美彦氏が竹伐採をしたくてもできない多忙の理由も理解できるのだ。要するに長井氏は、本書に書かれた登美彦氏の竹をめぐる日々を読み、とても共感してしまったのだ。

登美彦氏は作家としての己に限界を予感し、作家も多角化経営すべし、と竹林経営に舵を切る。多角化経営。それは、若者を惑わす危険なまたたび。

登美彦氏がその誘惑にふらふらと揺られたように、長井氏も若かりしころ、その陥穽に落ちた。だが違うのは職種だ。登美彦氏は竹林経営を文章に起こせばそれが日々の糧として報われる。長井氏の場合、いくら滝で己を清冽に磨きたてようが何もない。成果をブログを書いたところで登美彦氏のように報われない。登美彦氏がモリミ・バンブー・カンパニーを立ち上げたように、竹をネタに商いを営めないのが情報屋の宿命だ。長井氏の営みの中で滝や竹のビッグデータを集めてみても、誰も見向きもしないだろう。せいぜいがオ「タク」的な感性と「タカ」望みの欲望と満たすため、指にキーボード「タコ」を作るくらいが関の山。無理やり結びつけてみても「タキ」にも「タケ」にも無縁なのがつらい。

長井氏は悟る。そしてうらやむ。登美彦氏の作家としての宇宙の広がりを。竹への探究心を竹林経営に結びつけられるだけのことはある、農学部で竹を研究したその素養を。何よりも無理やり文章を紡ぎだせる文才を。日々の営みを客観的に登美彦氏の営みとして書きかえられる視野の広さを。それらは長井氏にとってとうてい及ばぬ高みだ。

長井氏も本稿のようなレビューをあれこれ書いている。が、まだまだだ。でも長井氏は思うのだ。己が登美彦氏にたどり着けるとすれば、己の好奇心と無鉄砲さではないか。それを突破口とすれば、なんとかなるのではないか、と。竹林で薮蚊と戦い、竹をぶった切り、たけのこを掘る行いに楽しみを見いだせる心のありよう。それは長井氏だって似たり寄ったりなのでは。そんなかすかな望みを頼りに、長井氏は今日も仕事と文章を書くことに精を出す。いつの日か桂の竹林を訪れんと決意しつつ。

‘2017/04/03-2017/04/03


若者を殺し続けるブラック企業の構造


著者の肩書きはNPO法人POSSEの事務局長。私も本書を読むまで知らなかったが、ブラック企業という言葉を世に出したのは、このPOSSEだという。実際に流行語大賞のトップ10に入賞した際の授賞式には、代表の今野氏が出席したそうだ。

流行語大賞に入賞したのが2013年のことというから、ブラック企業という言葉が世間に広まったのは、最近の事なのだ、と改めて思う。

だからといって、ブラック企業が最近になって登場したわけではない。労働者を使い捨てにし、利益確保に走る。昔からある、強欲雇用主にとっての常套手段だ。イギリスに興った産業革命は、子供を長時間労働に従事させた。また、古くからある奴隷制度はブラック企業の走りと言っても差し支えないだろう。つまり、ブラック企業の本質的な部分は古来変わっていないと云える。

では、今のブラック企業を特徴付ける要素とは何なのか。それを解説するのが本書といえる。

私自身、ブラック企業については色々含むところがある。が、それは文末にて語ることにしたい。それよりもまずはブラック企業の今を知る必要がある。

第一章では、ここ最近のブラック企業がらみのトピックが取り上げられる。ここで登場するのは、ワタミやウェザーニュース、西濃運輸、日東フルライン、王将フードサービスといった企業。これら企業の若い従業員が自殺し、うつ病になった事件は、ニュースでもさんざん取り上げられた。

著者は、グラフを提示する。そのグラフを見ると若者の死亡原因に占める「精神及び行動の障害」の割合が、1995年の4.45%から2012年の25.55%にまで上がっている事が一目で分かる。そして著者は、「精神及び行動の障害」の増加理由を新型うつや、ゆとり世代の耐性のなさ、と安易に片付けることに警鐘を鳴らすことを忘れない。

なぜブラック企業が社会にとって大きな問題なのか。本書の肝といえるのは、まさにこの点にある。利益の追求で社員を使い捨てにすることは、その企業に耐え忍びながら勤める社員自身にとってはもちろん大きな問題だ。しかし、当の社員だけの問題ではない。それは社会全体にとっても影響のあることなのだ。ブラック企業で使い捨てられる社員は20代の方が多い。20代というのは、これからの社会を担うために保護者や教育機関、自治体が20年前後の期間を設けて育て、その後30~40年に亘って社会に貢献することが期待される年代だ。それを、一企業の利益のために短期間で使い潰すこと。これが問題なのだ。さらに、そのことによる社会の経済的損失は、潰した当の一企業が償わなくともよい。これも社会にとっては著しい不平等となる。若い労働力が社会全体に還元する可能性とは単に利益だけに留まらない。子どもが授かれば社会全体の活性化にもつながるし、地域の活性化にもつながる。若者を一企業の利益の元に殺すのは、単に利益の問題だけに留まらないのだ。かつてと違い、現代は、若者に対する社会の投資が大きくなっている。かつてのように教育も整っていなかった時代とは違う。それが奴隷と現代のブラック企業従業員とを分ける最大の点なのだろう。

第二章では、働きすぎという我が国の労務慣習についてメスをいれる。

過労死による勤務実態が報じられる度、「俺のほうがもっと働いてる」というコメントがネットに溢れるのは承知の通り。かく言う私も書き込みこそしなかったがそう思ったものだ。そして、そのような書き込みがまかり通るのも、日本が働きすぎを当たり前とする社会になっているから、と著者は言う。

その理由としては日本型雇用に問題があると著者は説く。日本型雇用とは、長期雇用が慣行となっているため、首が切れず余剰人員調整の余地があまりないことが特徴だ。日本企業は、その替わり雇用契約の中身を企業側の人員調整に都合のよいものにした。いわゆる白紙契約である。労働者はいつ何をどこでどうするのか、といった仕事の中身が白紙の状態で企業と雇用契約を結ぶ。つまり、企業からみればどこに転勤させようと自由だし、社内のシュレッダー専任に任命しようと自由というわけだ。もちろん仕事量は個人裁量ではなく会社裁量によって決まることは言うまでもない。なお、欧米では白紙契約の慣習はないらしい。

命ぜられたやり方に従順であればあるほど使う側にも都合がよい。つまり、評価される人材とは、その人が持つ具体的なスキルではなく、将来的に多様化する企業の状況に応じて柔軟に対応できる人材となる。これを潜在的能力主義と呼ぶそうだ。また、それを支える社会保障制度や企業内研修制度もそう。企業別労働組合もそう。企業を取り巻くあらゆる環境が長期雇用を前提として作り上げられてきた。そのことがブラック企業を許す温床となったことが本章では簡潔にして詳しく掘り下げられている。

そして、長期雇用慣行は、日本が経済成長を続けてきたからこそ維持できたともいえる。日本経済の失速は、人材を長期雇用するだけの財源を企業から奪いつつある。そして、長期経済成長の恩恵を受けなかった財源のない一部の企業をブラック企業へと駆り立てた。

ブラック企業の類型として、本章では三つが挙げられている。①選別型。②使い捨て型。③無秩序型。かつての私が入り込んでしまった某社は①にあたるだろう。雇用した人間を早々に過酷な環境に放り込み、役に立たないとなれば有無を言わさず馘首する。もっとも私にとってはそれが却ってよかったわけだが。

本章で紹介される労務慣習は、私企業だけのことではない。公務員ですら、ブラック企業のような過酷な労働の温床となり得る。本章では公務員ですら自殺から逃れられないことが紹介されている。実際、私の知り合いの公務員でも何人か体調を崩した方を知っている。また、私自身が20年前に勤めていた某市役所の方々は当たり前に残業していたし、休日も出てきていた。20年前でそうなのだから、今はより大変な状況だろう。最近では教員の勤務状況の過酷さもよく聞く。

第三章では、”働きすぎ”を追認する日本の法制度と題する。

法制度については、36協定が著名だ。本章でも詳しく説明されている。いわゆる労使協定を指す。企業と労働組合が協定を結ぶことで、協定に記された範囲内であれば、残業が労働基準法で定められた週40時間を越えて働かせても罰せられないというものだ。しかし、これは個人個人の事情を考慮せず、労働組合が一括で企業と結ぶ協定だ。しかも労働組合がない場合、任意の代表者との締結が他の労働者にも適用される。本章でも紹介されているが、ワタミでは実際に各店舗の任意の従業員を指名し、36協定を締結していたという。つまり、会社に忠誠を誓う都合のいい社員と残業時間制限を緩和させた協定を結びさえすれば、他の労働者にもその協定が適用されることを意味する。労働基準監督署の指導などどのようにでも逃れられる訳だ。そして労働者は際限なく企業側の都合によって使われることになる。

また、もうひとつ本章で取り上げられているのは、みなし労働時間制だ。実際の労働時間に関わらず、ある一定の労働時間働いたとみなす制度。外回り営業などに多い。これによって「実際の残業の多寡に関わらず」残業はなかったと見なされる。また、管理者には残業代の支払いが免除される制度を利用し、名ばかりの管理者に任命する名ばかり管理職の問題も取り上げられている。ただ、その手法も広く知られ、名ばかり店長の事例が数多く摘発されたことで、企業側は次なる手を編み出す。それが裁量労働制だ。安倍内閣がホワイトカラーエグゼンプションとして導入に執念を燃やすものに似ている。ただし、ホワイトカラーエグゼンプションは、裁量さえなくす。そうなるともはや企業は残業代の支払いから解放される。

いま、ブラック企業がよく使うのは、固定残業代の制度らしい。募集時に提示する固定給に、残業代も含めるのが手口だ。そのことは当然募集要項には書かない。後で残金代を請求しようとして初めて、月給に残業代込で含まれていたことに気づく仕組みだ。言うなれば騙し討ちに近い。

これだけ企業側に有利な抜け道が用意されていれば、残業代の上限などなきが如し。青天井だ。本書では月の勤務時間が552時間という事例が紹介されている。にわかには信じられない勤務時間だ。これは土屋トカチ監督の映画「フツーの仕事がしたい」に出てくる人物の勤務時間だという。この映画はドキュメンタリーだから、恐らくは実話なのだろう。

今のところ、社会的に過労死への境目として認知された時間は月80時間以上の残業だという。私も幾度となく突破しているが、そろそろ体がしんどくなり始める時間であり、個人的にも納得できる。そして80時間を認知させるにあたっては、ブラック企業に人生を潰された方の遺族の方々の貢献が大きいという。

つまり、どの程度まで働けば心身に不調が生じ、自ら死を選ぶまでに至るか。身をもってこの限界を示した方々の上に、過労死ラインが設定されているといってよい。実際の過労死ラインは、月80時間の決めだけではなく過去に数ヶ月遡っての時間も基準となっているという。ただし、過労死ラインが適用されるのは、本書によればあくまでも心臓や脳疾患による症例が出た場合に限られる。うつについては症状が客観的に分かりにくく、個人差もあるので過労死ラインが設定しにくいという。

だが、過労死ラインを設定しただけではブラック企業は無くならない。ブラック企業は社会的にも規制されるべきだし、個人としても入社しないようにしたい。実際に入ってしまった私は、そのことを強く言いたい。

最終章では、ブラック企業に食いものにされないための具体的なアドバイスが書かれる。それによると、就職情報サイトに書かれた内容を鵜呑みにしない。会社四季報などから会社の真の姿を類推する努力を惜しまない、など。また、専門家に相談するなどの対策も重要だ。本書にはPOSSEやストップ!過労死実行委員会のサイトも紹介されている。是非とも利用すべきだろう。

個人によるブラック企業対策の要は、入ってしまう前に踏みとどまること。これに尽きる。なぜなら、一旦入ってしまうと、あらゆる判断力は失われてしまうから。考える間もなく追いたてられ、急かされる。私が身をもって体験した企業は、まさにブラック企業だった。私が入った当時は、ネットの黎明期で、今のようにブラック企業対策のサイトもなかった。

その会社は出版社の看板を掲げていた。しかしその実態は教材販売。しかも個人宅への飛び込みである。出社するなり壁に貼り付けられている電通鬼十則をコピッた十則を大声でがなり立てる。挨拶もそこそこにして。

朝礼は体育会系も真っ青の内容で、絶え間ない大声と気合の応酬が続く。しかし、そこに単調さはない。きちんと抑揚が付けられている。おそらくは営業所のリーダーの裁量にもよるのだろう。前日に成果を上げた者には惜しみない賞賛の声が掛けられるが、一本も成果を上げられなかった(ボウズと呼ぶ)者には、罵声が浴びせられる。私は数日ボウズが続いた際、外のベランダに連れ出され、髪型のせいにされてその場で丸刈りにされた。これホント。私がクビを告げられたのも朝礼の場。

朝礼が終わった後は、ロールプレイングと称する果てしないやりとりの復習。詳細な住宅地図から描き出す訪問ルートの策定を中心とした行動計画。担当毎にエリアが割り振られ、その地域を一定の期間訪問し尽すまで、そのエリアへの訪問は続く。

朝こそ12時出社だが、成績が悪いと10時出社の扱いになる。無論朝からロールプレイングの時間が待っている。派遣地域から営業所に帰ってくるのが22時前後。それから明日の営業資料の整理やら反省会やらがあり、終電は当たり前。そんな中、朝10時出社は厳しい。

クビを宣告された際はショックだったのを覚えている。でも、やっと解放されたという思いも強かった。それでもその後数年は、この時の経験が尾を引いて夢にまで見た。

しかし、ここでの経験は私にとって無駄だったかというとそうでもない。本書の結論とは真逆になってしまうのだが、ブラック企業での経験は、私にとって成長の糧となったこともまた事実なのだ。ここに、ブラック企業という存在が日本から無くならない大きな理由があると思う。敗戦後の荒廃から日本が立ち直ったのも、猛烈サラリーマンが日本経済を牽引したからという論にもある程度の真実は認めざるをえない。本書でも度々取り上げられるワタミの渡邉美樹氏は毀誉褒貶の激しい人物ではあるし、実際その主張は極端だ。しかし、氏が主張するように死ぬ気で働かねば分からない世界があることも今の私は理解している。要は、その世界に行くのが自分の意思によるのか、他人から強いられた意思なのか、によると思う。

この時の私は完全に他人の意思によって働かされていた。幸いなことに、この会社がブラック企業としては①選別型にあたっていたため、私は3か月でクビという形で解放された。だが、それが②使い捨て型だったらどうなっていたことか。おそらく私は幸運だったのだろう。さほど損害を被らずに経験だけを得られたのだから。ヤクザの家に飛び込み訪問し、食い下がったために激昂され、あわや監禁されかかったことも今では良い経験と振り返ることが出来る。ヤクザのパンチは傷をつけないため(証拠を残さぬため)に掌底で行う、ということを知ったのもこの時だし。

繰り返すが、私はここでの経験と、クビという衝撃を境に一皮むけることが出来た。発作的に、鞄一つだけで東京に出て独り暮らしを始めたのは、この3か月後のこと。そして今や起業するまでになったのもこの時の経験をバネにしている。一人で企業訪問をしたり、交流会に行ったりということが容易に出来るのも、この時の経験が多少なりとも生きているはずだ。私にとっては後悔のない3か月だったと今でも言える。当レビューのひとつ前に書いたレビュー(僕たちはいつまでこんな働き方を続けるのか?)の中で、私はブラック企業耐性が強いと書いた。それは、この会社にいた時の経験から来ている。この時経験した3か月に比べたら、大抵の仕事に対して耐性が付く。

しかし、繰り返すようだが、それは私の運が良かっただけにすぎない。それ以上居たら果たして生きていられたかどうか。ましてやこのような文章を書くこともなかったかもしれない。人には耐性というものがある。その耐性とは人によってそれぞれだ。ブラック企業とは、人によってそれぞれであるはずの耐性を度外視し、命を懸けて乗り越えることを強いる。それはもはや利益確保といった大義名分だけでは庇いきれない。失敗したら命を失うという状況は、個人が選んだのであれば許されるかもしれないが、他人から強いられることは許されない。

私がレビュー(僕たちはいつまでこんな働き方を続けるのか?)で書いた通り、社員を大切にしたい会社でありたいというのも、この時の経験が大きく影響している。

人がそれぞれの生き方にあった生き方を選べる時代。人に命を懸けてまで何かを強いられることのない時代。そろそろそういう時代でありたいものだ。現代とは、奴隷制度が一掃され、子どもが炭塵に塗れて働かされる時代ではないはずなのだから。その点からも、私はPOSSEを応援したいし、ブラック企業については声をあげ続けて行こうと思う。

‘2015/04/11-2015/04/15


労働問題について


安部内閣が、ホワイトカラーエグゼンプション導入を再び打ちだしてからというもの、労働問題があちこちで再燃しているように思えます。日々、労働問題に関する記事をどこかで見かけます。

今日もBLOGOSにて以下のような記事がアップされていました。
https://blogos.com/outline/106995/

内容は退職強要とも取れる内容です。日本IBM社から退職を強要された方が上司の方とのやりとりを録音し、その一部を文章化したものです。やりとりとしては強要と受け取られても仕方ないと思います。が、おそらくはこのご時世、もっとひどい形の解雇通告も行われていることでしょう。ここに出されているのは、別室に呼ばれて個別に言われるだけまだましと思います。

ホワイトカラーエグゼンプションなど、経営側の理論であることはいうまでもありません。おそらくはこの導入を契機として、次々に労働者への束縛、あるいは低賃金化が進んでいくのではないかと思います。

私も雇われる側としての立場、雇う側としての立場も経験があります。どちらの意見も立場があるのは分かります。社保の負担、福利厚生負担も相当な額が必要で、簡単に賃上げに踏み切れない気持ちも分かります。最初から社員の労力を絞り上げることを前提として収支計画を立てる場合は別ですが。

とはいえ、労働者の立場としては、折角の人生、気持ち良い労働をして過ごしたいですよね。家族のために誇りを持って働く。これはすごく大事なことだと思います。

そんなふうに思っていても、冒頭に紹介したような事例の通り、いつ何時、馘首の憂き目にあうか分かりません。私も20代前半の頃、朝礼の場で馘首宣告を受けたことがあります。あれはやはりショックなものです。人よりものんきな私でもそうだったのですから、大抵の方にとっては世界が音を立てて崩れる、そんな思いもすることでしょう。

しかし、まだ我が国の求人状況が改善する兆しは見えません。景気は好転の兆しも見え始めているようですが、企業が雇用に積極的でないことに変わりはありません。海外のほうが人件費が安く、IT化の進展で人件費の切り詰めはまだまだ可能です。おそらくは今後、首切りも普通に行われていくことになるでしょう。我が国でも。

そのためには、いつ馘首宣告を受けても、動じない心と経済の準備をしておいたほうがよいのかもしれません。また、普段から身を立てる技術は身に付けておいたほうがよいでしょうね。料理や運転など、事務仕事や営業仕事の合間にも、目の前には世界が広がっています。

スマホでゲームをやる時間があれば、やれることは沢山あると思います。再就職が厳しく心が折れそうなときでも、色んな方と普段から接する癖をつけておくだけで、思わぬご縁から次の人生が開けないともかぎりません。

要はいつ首になっても自分と家族の生活は守る。その覚悟だけは身にまとっておくことです。これからは労働者にとっても安泰な時代ではありません。

私にとっても同じです。これから経営者となるにあたって、この労働状況は逆にチャンスです。長時間勤務ではなく、短時間集中型で、やりがいも得られるような会社作りを目指していきたいと思います。


テレワーク―「未来型労働」の現実


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毎朝毎夕の通勤。世の通勤者にとっての悩みの種の一つである。電車の中は立錐の余地もなく、その煩わしさは通勤の意欲を削ぐに十分である。前向きに考えたくとも、そのスペースはあまりにも狭く、集中力を発揮して生産的な時間とするにはあまりにも雑音が多い。

日々の務めの一つとして、諦めて耐え忍ぶのか。人間を練るための修行として無に入るか。他人を内心でこき下ろして鬱憤を晴らすか。あるいは日々の通勤をしなくてもよい仕事に就くか。車内に充満する人々の想いは多様であるに違いない。

かつて、テレワークという概念が脚光を浴びつつあった。勤め先は変えずに、自宅で作業の一部、又は全体を行うという仕事のスタイルのことである。IT化の進展により、技術的にそれが可能となる態勢が整い、通勤ラッシュは過去の言葉に。私も当初はそれに飛びついた。総務省のパブリックコメントにラッシュ緩和策をテレワークに絡めて寄稿したこともある。

だが、テレワークという概念が提唱され、大分年月が経ったが、状況に変化はないように思える。テレワークの切り札として、一時シン・クライアント端末も持て囃されたが、クラウド全盛の世にあって、最近は影が薄い。

おそらくは第一次ベビーブーム世代の大量退職と、徐々に整備された交通網によって、混雑の重症化に歯止めが掛かったためもある。それと、今のビジネス慣用が、テレワークを受け付けにくいやり方になっていることも大きいのではないか。

本書では、その後者のビジネス慣用の面から、テレワーク幻想に疑問を投げかける。まず、総務省がいうほどテレワークが浸透していない現実を、統計数値から分析する。分析といっても難しい数式が並ぶわけではなく、分析の条件の立て方に誤解を与えるようなことを指摘する。次に、テレワークの形態を在宅勤務型、モバイルワーク型、在宅ワーク型、SOHO型の4つに分ける。その中から本書の分析の対象として、SOHO型を除外する。

在宅勤務型については、実際の勤務形態を幾多の例と統計数値から個別に論証し、実際は労務管理の及ばない、より残業を強いている現状を指摘する。

モバイルワーク型については、製薬メーカーのMR職の例を挙げ、自己裁量労働の長所に比べ、過酷な長期間労働の現実を示す。

在宅ワーク型については、電脳内職という言葉をあげ、労働に見合わない賃金と、作業スキル以外にも統括、営業スキルなどを持たねば高収入は見込めない欠点を提示する。

いずれの例も、成功例と失敗例を挙げてはいるものの、全体的なトーンとしては、テレワーク幻想に冷水を浴びせるものである。

私としては、誠に残念なことに、筆者の論旨に賛成である。なぜか。私は、平日は常駐勤務、夜中と土日祝日にはSOHO型+在宅勤務型として生計をたてている。また、2年前までは在宅ワーク型の仕事も請け、私から協力頂く作業者の方々に作業を割り振る統括作業も行っていた。つまり当事者である。当事者の立場としては、本書の例証に頷けるところが多かった。むしろ、在宅ワーク型では他の作業例を読み、大変参考になったほどである。

また、IT企業での常駐勤務を経験している立場からも、テレワークの普及阻害要因はいくつも挙げることができる。それはセキュリティの問題(コンプライアンス)ももちろんある。が、それだけではない。そもそも、業務要件を作業者間で共有するためには、ディスプレイ越し、ネットワーク越しの作業では、共通の理解を醸成することは困難である。少なくとも現在の音声やテキストのやり取りだけでは難しい。リモート操作による画面共有も、ネットワーク帯域が不十分なため、面と向かっての打ち合わせには及ばない。思考イメージの共有が現在の技術では実現できていない以上、例えIT企業であっても、Face to Faceの、実際の場を共有しての会議は衰える様子はない。これが残念ながら現実である

本書でも、テレワークのために既存制度を変えることのナンセンスを指摘している。社会の仕組みの変革があって、はじめてテレワークという手段が活きるという認識である。今の少子化が進行する日本においては、労働者が減っていく今後を考えると、社会の仕組みの変革が、労働時間の作業時間を減らす方向に進むとは考えにくい。

もちろん、ペイ・エクイティやワークシェアリングの考えも紹介されてはいる。しかし、テレワークによる労働の実体の客観的な把握が、企業にとっても労働者にとっても困難である実情から、まずその点の改善を提唱する。さらに、女性の社会参加に対する認識がまだまだ旧態依然としたものであることにも本書の目は届いている。また、私見では、集うこと、群れることを無意識に求めている人々については、IT化の進展や労務体制の変化がどうあれ、テレワークを逆に拒否することも考えられる。

私個人としては、今の通勤生活は大嫌いである。今の朝夕の通勤から得られる利点は、どう数えても片手で足りるほどしか挙げられない。私自身の三方良しとは、仕事と家庭と個人の3つであるが、三方良しの目標と、今の現状は私自身にとって明らかに矛盾している。だからといって、私が通勤生活から抜け、雇用者の立場となったとしても、この問題は避けては通れないだろう。

ただ、私の知る会社では、社長自らが率先して既存の労務・人事制度に風穴を開けるべく奮闘している。まだまだテレワークを活かすことのできる工夫の余地、考えるべき点は沢山残っていると思われる。どうすればテレワークが浸透するのかについて考えるためにも、本書が打ち破ろうとする、テレワーク幻想の現実をしっかりと見据え、今後に活かさねばと考えている。

’14/2/5-’14/2/7