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麒麟の翼


「新参者」に続き、加賀恭一郎が主役を張るのが本書である。加賀恭一郎といえば、人情味あふれた頭の切れる刑事として確固たるキャラクターを確立している。前作で日本橋署に着任した加賀刑事。人情味あふれた街、日本橋人形町を舞台に彼の頭脳と人情が遺憾なく発揮された秀作であった。一見してつながりのない、ささいな事件の数々。微に入って描写された事件を通して人形町の魅力が余すところなく紹介される。そしてそれらの事件が一本の筋となって、細やかな人情模様が浮かび上がる。著者の、そして本シリーズの真骨頂と言えよう。

本作では、前作の逆を行くかのように、センセーショナルな事件から舞台の幕が上がる。日本橋のシンボルとして欄干から人々を見守る麒麟の像。そのたもとで力尽きた刺殺死体。彼はどこで、なぜ刺されたのか。犯人と目される男はなぜ逃げようとし、なぜ死ななければならなかったのか。一本の太い事件を軸に、関係者の思惑や謎は四方に広がり、収束する様を見せない。

前作では人形町の甘酒横丁が活写されていた。本作では、人形町近辺に点在する日本橋七福神と、安産祈願で知られる水天宮が鍵となる。かつて通勤していた私にとってなじみのある場所の数々が舞台となっている。あいにく通勤の期間中に七福神巡りは出来ずじまいであった。街巡りの中で幾度も見かけた七福神の神社。こぢんまりとした社が民家の横に鎮座し、幟が林立する。その様は、とても印象に残っている。本書を読むとそれらの街並みが脳内に蘇ってくる。街歩きの奥深さと楽しみを教えてくれる格好の教材である。

解決の鍵となるのは下町情緒とは対照の出来事であり、とある「場」である。一見すると、あえて人形町界隈から引き離し、人形町の情緒を汚すまいとしたようにも思える。しかしそうではあるまい。人情の街と対になるのが汚れた存在、というような安易な手法は取らないはずである。逆にそういった場所にも、あまねく人の感情は通い合う。そんなメッセージも込めていたのではないだろうか。人形町という街の魅力、次はどのような視点から描写するのか、期待を持って待ちたい。

’14/04/01-’14/04/03


新参者


私が人形町界隈に通勤していたのは今から数年前、1年半ほどの期間であった。縁があって人形町を本拠とした会社設立に参画することになったのだが、その会社と縁が切れた今に到っても、設立に立ち会ったことは、私の仕事スタイルにとって重要な影響を与え続けている。

そしてその期間、勤め人としての立場で関わった人形町も、私の中で非常に良い印象を、今に到るまで残し続けている。昼飯を求めて路地から路地をうろつき、仕事の休憩時間にベランダから見降ろした、活気ある街の風景など、人形町の魅力を堪能した1年半だった。

なので、本書には実際に街で過ごした者として、単なる読書体験以上の共感を覚えるとともに、新参者としてここまで人形町の市井を作る人々と関係を作り上げた、著者と主人公である加賀刑事に羨望と嫉妬すら覚える。

人形町を知る者には心当たりのある街並みと店舗。実名こそださないものの見当がつけられる店の店員や主人たちが、加賀刑事の丹念な聞き込みによって、それぞれの抱える人情の温かみと機微に気づかされていく。

加賀刑事といえば、すぐれた洞察力と冷静な論理の裏側に隠れた人情の篤さによって魅力的な人物造形がされているが、本書では人形町に住む人々の人情と、加賀刑事自身の人情が言葉のやりとりから深みをましながら交わされる。「新参者」とは排他的のようでいて、実はそうではない反語的な題名の付け方と感心した。

旅情ミステリとは一線を画す、深い街への造詣と、磨きあげられた人物観察が成し遂げた、秀逸な小説として、本書は外せないし、人形町を紹介するにあたり、本書を候補を挙げることに、何らためらいはない。

私が都心で開業するとしたら、人形町は第一候補地であり、開業なったら、本書を片手に街の散歩をしてみたいと願うばかりである。

’12/04/16-12/04/17