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SFを実現する 3Dプリンタの想像力


今、世を騒がせている情報技術に関する言葉たちをあげてみる。クラウド、ビッグデータ、暗号(仮想)通貨、ブロックチェーン、人工知能、シンギュラリティ、ナノロボット、IoT。このほとんどは、実は目には見えない仕組みで動いている。目に見えない仕組みとはロジックやデータのこと。IoTにせよ、pepperで分かりやすい人工知能にせよ、裏側はロジックとデータの支配する世界。データ集約と分散の繰り返しからなっている。

そんな中、本書で扱う3Dプリンタのみが少し異彩を放っている。どう異彩を放っているかというと、動作の時間軸が人間の感覚に近いことだ。3次元のモデリングや、それを形にするロジックは人間など比ではなく速い。だが、それを形にするスピードにおいて、人間の感覚に近いのだ。それは、上にあげたキーワードでいうと、人工知能の一部に近い。人工知能の中には絵を描いたり歩いたりする物があり、そのスピードはヒトの動作に近いのだ。つまり、言い方を変えれば、すでに情報処理の発展は人類の動作に近づきつつあるのだ。

長らく、情報処理の入出力は二次元の地平に閉じ込められてきた。二次元とはディスプレイやプリンタ上の出力を想像してもらえれば容易に思い起こせる。ディスプレイも10年ほどでポリゴンから3Dの質感を持つ動きや姿の再現が可能になってきた。が、それらもスクリーンやディスプレイで表現されているうちは、二次元のかべをやぶれなかった。あくまでも陰影や色相で立体感を表現していただけだ。一方、プリンタも伝票をひたすら破り続けるような音を立てるドットインパクトプリンタから、インクジェットに至るまで、紙の平面に出力することがせいぜいだった。

入力もそう。キーボードも二次元の産物。QRコードやEAN、CODE39なども全て二次元。音声入力ですら波長に還元すれば二次元となる。平面スキャンされた画像も二次元でOCRで読み取ってテキストデータに変えるのも二次元。つまり、情報処理の入出力とは二次元の縦横の中で発展してきた技術なのだ。

ところが本書で紹介される3Dプリンタは違う。もはや入出力ともに3次元の空間を自在になぞる。縦横奥行き。それは大多数のヒトが持つ視覚に近い。一流の工芸作家が生み出す工芸品は、私も去年、超絶技巧の世界展で目にしてきた。空間の座標から質感を含めて再現する技には感嘆の言葉すらむなしく聞こえるばかりだ。ところが、3Dプリンタのスキャニング能力と再現能力は、すでに一流工芸作家の技に近づき、追い越し、凌駕しつつある。

本書が扱う概念は、それだけではない。そもそもデータが目に見えないと書いた先の指摘すら今や古い。3Dプリンタとは、データを物質に変えられるのだから。つまり触れられるデータを具現化するのが3Dプリンタなのだ。ということは3Dプリンタは、机を工場にできる。そして、物質のデータさえ完全に手に入れれば、データを転送して離れた場所で再構成も可能。つまり、すでに実験室ではSFの世界が実現されつつあるのだ。

3Dプリンタはまだあまり市販されていない。市販はされているが、一家に一台どころか、好事家でもない限り普及もしていない。なので一般的には3Dプリンタがどこまで進化しているのか知らない方も多いはずだ。本書は、大学で研究生活を送る著者が、最先端の3Dプリンタ事情を紹介してくれる。

本書は何がいいかというと、技術と社会の関わり方を紹介していることだ。それは、研究室の中で産まれる概念でもある。その概念とは実生活と遊離し、役に立たないのでは。そんな懸念もあるはずだ。たしかに、本書で紹介されているほとんどは、実生活であまり見かけないからだ。ところが本書が紹介する事のほとんどは、FABスペースと呼ばれる街中の工房で体験も見学もできるのだ。

例えば、コワーキングスペースという言葉がある。私のような技術者が作業したり仕様を打ち合わせたり、黙々と作業する場だ。各地にそうしたスペースがあり、私も十数カ所は訪れた。FABスペースとはこのスペースに工具を置き、自由に工作し、実験を行える場所だ。私が訪れたコワーキングスペースでもそうした工具を設置しているところがあった。だがFABスペースはさらに工具や実験精神に溢れている。コーディングや打ち合わせよりも手を動かしたい人のための場所だ。私はFABスペースをまだ訪れた事はない。だが、本書の記述からはそのような創造精神にあふれる場所であることがわかる。

創造とは、一人から産まれることもあるが、協働によってさらに膨らんでゆく。本書で紹介されるたくさんのアイデア。それはこういうFABスペースや著者の研究室での共同研究から産まれている。本書を読むまで、自走する3Dプリンタの存在は知らなかった。エルサレムの嘆きの壁の前で壁をスキャンし、その模様を再現した木の机をつくる試みも。また、自己を複製する3Dプリンタがあることすらも。本書にちりばめられた膨大な知見は、目に見えないデータの連動が多くを占めている今の技術の流れに確実に一石を投じている。そして、本書の至る所で太字で記されているキーワードの多彩さは、私たちが気づくべきパラダイムの変化について注意を喚起している。

地方創生どころか、インドの片田舎には工場がないのに、3Dプリンタだけで日常の道具を作る村があること。グローカルとはここ数年聞く言葉だが、もはやグローカルはそこまで進んでいるのだ。それは、データでモノを転送できる3Dプリンタがなし得る奇跡なのだ。

パラダイムの変化。グローバルからグローカルへ。いわゆる情報技術の発展とは違う何か。3Dプリンタが成し遂げる変化には何かがある。おそらくそれは、人工知能が人間をはるか後方に置いていってしまった後に、人類の救いとなる何かではないだろうか。本書を読んでいると著者もその部分に期待しているように思えてならない。著者はその究極の状態を「情報と物質が等価になる世界」226Pと表現している。違う言い方では「フィジカルなものが、デジタルの特徴を吸収してしまう、という反転」(226P)ともいう。

IoTの開発では感じられないその境地への接近。私は何やらこちらのフィジタルの世界に惹かれているようだ。早いうちに著者も参画しているというファブラボ鎌倉に行って見て試してみたいと思う。

‘2017/04/24-2017/04/29


道化師の蝶


本書で著者は芥川賞を受賞した。

私は、芥川・直木の両賞受賞作はなるべく読むようにしている。とくに芥川賞については、賞自体の権威もさることながら、その年の純文学の傾向が表れていて面白いから読む。さらにあまり文芸誌を読まない私にとっては、受賞作家はほとんど知らない方であり、その作家の作風や筆致、文体などを知る機会にもなる。だが本書は芥川賞受賞作だからではなく、著者の作品だから読んだ。そもそも著者の作品を読むのは本書で三冊目だ。中でも初めて読んだ「後藤さんについて」に強い印象を受けた。だから本書については芥川賞受賞作だからというよりも、著者のとんがって前衛の作品世界がどうやって芥川賞を獲らせたのか、それはどれだけ一般の読者を向いた作品なのかが気になった。

本書を一読して思ったのは、確かに芥川賞よりの作品と思った。だが、それは私が読んだ著者の三作品の中では芥川賞よりということ。作品世界が高踏であることに揺るぎはない。そして著者の癖のある文体「~する。」の多用は本書でも健在だ。この癖のある文体も含めて、芥川賞受賞作の中でも本書は異色だと思う。本稿を書くにあたり、本書を芥川賞選考委員の面々はどのように評価したのかふと気になった。そしてサイトに掲載されている選評を読んでみた。https://prizesworld.com/akutagawa/senpyo/senpyo146.htm 私の期待通り面白い選評になっている。ある年齢を境に本書の理解を諦めた選者のいかに多いことか。それなのによくぞ受賞できたものだ。正直に本書を理解できないと評する選者の潔さに好感を抱きつつ、それを乗り越えて受賞した事実にも感心した。

表題作は、富豪であるA.A.エイブラムスが追い求める謎の散文家「友幸友幸」を巡る話だ。「友幸友幸」は行く先々で大量の言葉を紙や本に書き残す。その言葉はその土地の言葉で書き記される。無活用ラテン語といった話者が皆無の言葉で記された紙束もある。大量の書簡を残しながら「友幸友幸」は誰にも行方を悟られない。

五つからなるそれぞれの章は「友幸友幸」の行く先を探るための章だ。本編を読むと、そもそも文章を書く行為が何のためかとの疑問に突き当たる。不特定読者に読んでもらう一方通行の文章。やり取りするための両方向の文書。または自分自身に読んでもらうだけの場所を動かないものもある。「友幸友幸」の書く文書はさしずめ最後の例にあたるだろう。

誰にも読まれない文書はいったん紙に書かれ印字されると著者の手を離れる。著者がどう思おうと、読者がどういうレスポンスを返そうと文書はそこにある。たとえだれにも読まれなくとも紙が朽ちるまで永遠にとどまり続ける。

「友幸友幸」が移動を繰り返し正体不明である事。それは著者不在を意味しているのではないか。著者不在でも文書の束はそこで生きている。そうなってくると文書に書かれた内容に意味など不要だ。面白い、面白くない。簡単、難しい。そんな評価も無意味だし、売上も無意味。著者の排泄物として生まれ、著者も書いたそばから忘れ去ってしまう文章。

著者は本編で世に氾濫する印刷物に対して喧嘩を売っている。作家という職業が排泄物を生み出す存在でしかないと挑発している。それが冒頭に挙げたような芥川賞選評の割れた評価にもつながったのではないか。自らが作家であることを疑わず肯定している人には本書の挑発は不快なはず。一方で自らの作家性とその存在意義に疑問を持つ選者の琴線には触れる。

著者の作品には連関構造やループのような構造が多い。それが読者を惑わせる。本編を読んでいるとエッシャーの「滝」を見ているような感覚に襲われる。ループする滝を描いたあれだ。そのようにに複雑な構造である本編で目を引くのは、冒頭に収められた着想という名の蝶を追うエイブラムス氏の話だ。「友幸友幸」が自分を追いかけてくるエイブラムス氏に向けて遺したとされるこの文書の中で、「友幸友幸」は作家を道化師になぞらえている。そして作家とは着想を追う者でしかないと揶揄する。たぶん本編を書きながら著者は自らの作家としてのあり方に疑問を持っていたのだと思わされる。作家が創作を行っているさ中の脳内では、このようなドラマが展開されているのかもしれない。

「松の枝の記」はコミュニケーションを追求した一編だ。「道化師の蝶」が作家の内面の思考を表わしたのだとすれば、「松の枝の記」は作家の思考が外に出たことによる波及を表している。

二人の作家が互いの作品を交互に翻訳する。翻訳とは本来一対一の関係であるべきだ。一方の言語が示す意味を、もう一方の言語で対応する言葉に忠実に置き換える。だが、そんなことは元から不可能なのだ。だから訳者はなるべく近い言葉を選び、原作者の意図を読者に届けようとする。そこに訳者の意思が入り込む。これを突き詰めると、原著とかけ離れた作品が翻訳作品として存在しうる。

本編で交わされる二人の作家による会話。それは壮大な小説作品を通してのみ成立する。「道化師の蝶」がコミュニケーションを拒否した作家の話であるならば、「松の枝の記」はコミュニケーションによる認識のズレが拡大する話だ。そもそもコミュニケーションとは本来、やり取りのキャッチボールによって刻々と内容の意味が変わっていくはず。であるならば原著と翻訳でもおなじ。原著と翻訳を一つの会話文とした壮大なやりとり。

AさんがBさんと会話した内容がBさんとCさんの会話にも影響を与えることだってもちろんある。そう考えると、小説というものは作家がそれまでになした全てのコミュニケーションの結果とも言えるのではないか。さらに言えば、小説とは作家の頭だけで創作されるのではなく、作家と関わった全ての人が創作したと言えなくもない。

それは種の記憶として代々受け継がれた思惟の成果でもある。いや、種にとらわれなくてもよい。たとえば人類の前、さらに前、前、前とさかのぼる。行き着いた先が本編に登場するエレモテリウムのような太古の哺乳類の記憶であってもよい。生物の記憶は受け継がれ、現代の作家をたまたま依り代として作品として表現される。

本編には自動書記の考えが登場する。ザゼツキー症例の考えだ。ザゼツキー症例とはかつて大怪我をして脳機能を損傷した男が過去の記憶をなかば自動的に記述する症例のことだ。これもまた、記憶と創作の結びつきを表す一つの例だ。過去のコミュニケーションと思惟の成果が表現される例でもある。

ここまで考えると著者が本編で解き明かそうとした事がおぼろげながら見えてくる。小説をはじめとしたあらゆる表現の始原は、集合的無意識にあるという考えに。それを明らかにするように本書にも集合的無意識の言葉が162ページに登場する。登場人物は即座に集合的無意識を否定するのだが、私には逆に本編でその存在が示唆されているように思えてならなかった。

本編もまた、著者が自らの存在を掘り下げた成果なのだ。評価したい。

‘2017/03/30-2017/03/31