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決定版 日本書記入門 2000年以上続いてきた国家の秘密に迫る


私が持っている蔵書の中で、著者本人から手渡しでいただいた本が何冊かある。
本書はその中の一冊だ。

友人よりお誘いいただき、六本木の某所でセミナーと交流会に参加した。
その時のセミナーで話してくださった講師が著者の久野氏だった。

セミナーの後、本書の販売会が開催された。私もその場で購入した。著者による署名もその場で行っていただいた。恵存から始まり、私の名前や著者名、紀元二六八〇年如月の日付などを表3に達筆の毛筆で。
私は今まで作家のサイン会などに出たことがなく、その場で署名をいただいたのは初めてだった。その意味でも本書は思い出に残る。

著者が語ってくださったセミナーのタイトルは「オリンピックの前にこそ知っておきたい『日本書紀』」。
くしくもこの年は日本書紀が編纂されてから1300年の記念すべき年。その年に東京オリンピックが開催されるのも何かの縁。あらためて日本書紀の素晴らしさを学ぼうというのがその会の趣旨だった。

私はこの年にオリンピックが開かれることも含め、日本書紀について深く学ぶよい機会だと思い参加させていただいた。

私は幾多もの戦乱の炎の中で日本書記が生き残ったことを、わが国のためによかったと考えている。
古事記や風土記とあわせ、日本書記が今に伝えていること。
それは、わが国の歴史の長さだ。
もちろん、どの国も人が住み始めてからの歴史を持っている。だが、そのあり様や出来事が記され、今に残されて初めて文明史となる。文献や史実が伝えられていなければただの生命誌となってしまう。これはとても重要なことだと思う。
そうした出来事の中にわが国の皇室、一つの王朝の歴史が記されていることも日本書紀の一つの特徴だ。日本書記にはその歴史が連綿と記されている。それも日本書記の重要な特徴だ。
たとえその内容が当時の権力者である藤原氏の意向が入っている節があろうとも。そして古代の歴史について編纂者の都合のよいように改ざんされている節があろうとも。
ただ、どのような編集がなされようとも、その時代の何らかの意図が伝えられていることは確かだ。

日本書記については、確かにおかしな点も多いと思う。30代天皇までの在位や崩御の年などは明らかに長すぎる。継体天皇の前の武烈天皇についての描写などは特に、皇室の先祖を描いたとは思えない。
本書では継体天皇についても触れている。武烈天皇から継体天皇の間に王朝の交代があったとする説は本書の中では否定されている。また、継体天皇は武力によって皇統を簒奪したこともないと言及されている。
在位年数が多く計上されていることについても、もともと一年で二つ年を数える方法があったと説明されている。
ただ、前者の武烈天皇に対する描写のあり得ない残酷さは本書の中では触れられていない。これは残念だ。そのかわり、安康天皇が身内に暗殺された事実を記載し、身内に対するみっともない事実を描いているからこそ真実だという。
その通りなのかもしれないが、もしそうであれば武烈天皇に対する記述こそが日本書記でも一番エキセントリックではないだろうか。
素直に解釈すると、武烈天皇と継体天皇の間には何らかの断裂があると考えたくもなる。本書では否定している王朝交代説のような何らかの断裂が。

本書は久野氏と竹田恒泰氏の対談形式だ。お二人は日本書記を日本史上の最重要書物といってもよいほどに持ち上げている。私も日本書記が重要である点には全く賛成だ。
ただ、本書を完全な史書と考えるのは無理があると思う。本書は一種の神話であり、歴史の真実を書いたというよりは、信仰の世界の真実を描いた本ではないだろうか。
ただ、私は信仰の中の本であってもそれは真実だと思う。私はそう捉えている。
書かれていることが確実に起こったかどうかより、ここに書かれた内容を真実として人々が信じ、それに沿って行動をしたこと。それが日本の国の歴史を作り上げてきたはずなのだから。

例えば新約聖書。キリスト教の教義の中でも一番超自然的な出来事が死後の復活であることは言うまでもない。新約聖書にも復活に当たることが書かれている。
だが、ナザレのイエスと呼ばれた人物がいた事は確かだろう。そして、その劇的な死とその後の何かの出来事が復活を思わせ、それが人々の間に熱烈な宗教的な思いをもたらしたことも事実だと思う。要は復活が事実かどうかではなく、当時の人々がそう信じたことが重要なのだと思う。

それと同様に、日本の天皇家の先祖にはこういう人々がおり、神々が人と化して葦原の中つ国を治め始めたことが、信仰の中の事実として伝えられていればそれでよいのだと思う。今から欠史八代の実在を証明することや、神武東征の行程を正確に追うことなど不可能なのだから。

残念ながら、このセミナーの少し後に新型コロナウィルスが世界中で蔓延した。
東京オリンピックは一年延期され、日本書記が完成してから1300年を祝うどころではなくなった。
著者とも何度かメールの交換をさせていただいたが、私自身も仕事が忙しくなってそれきりになっている。

だが、日本書記が今に残っているのは確かだ。キリのよい年であろうとなかろうと、学びたいと思う。本書を読むと1300年前の伝統が確かに今に息づいていることと、その良い点をこれからに生かさねばならないと思う。

‘2020/02/13-2020/02/13


信濃が語る古代氏族と天皇ー善光寺と諏訪大社の謎


本書はとても面白かった。私のここ数年の関心にずばりはまっていたからだ。

その関心とは、日本古代史だ。

日本書記や古事記に書かれた神話。それらは古代の動乱の一端を表しているのか。また、その動乱はわが国の成り立ちにどう影響したのか。
大和朝廷の起源はどこにあり、高千穂や出雲や吉備などの勢力とはどのようにしのぎを削って大きくなってきたのか。
神功皇后の三韓征伐はいつ頃の出来事なのか。熊野から大和への行軍や、日本武尊の東征は大和朝廷の黎明期にどのような役割を果たしたのか。
卑弥呼や壱与は歴代天皇の誰を指しており、邪馬台国とは畿内と九州のどちらにあったのか。
結局、日本神話とは想像の産物に過ぎないのか。それとも歴史の断片が刻まれた史実として見るべきなのか。そこに尽きる。

わが国の古代史の謎を解くカギは、現代まで散在する神社や遺跡の痕跡をより精緻に調べることで分かるのだろうか。
上に挙げた土地は、そうした歴史の証人だ。
そして、本書で取り上げられる信濃も日本の古代史を語る上で外せない場所だ。

国譲り神話に記された内容によると、建御名方神は建御雷神との力比べに敗れ、諏訪まで逃げたとされる。そしてその地で生涯を終え、それが今の諏訪大社の起源だともいう。
出雲から逃れた建御名方神は、諏訪から出ないことを条件に助命された。そのため、他の国の神々が出雲に集まる10月は、諏訪では神無月と呼ばないという。出雲に行けないからだ。

実際に諏訪大社やその周辺の社に詣でると、独特のしきたりが見られる。例えば御柱だ。四方に屹立する柱は、日本の他の地域ではあまり見られない。

私は友人たちや妻とここ数年、何度も諏訪を訪れている。諏訪大社の上宮、下宮はもちろん、守屋山にも登ったし、神長官守矢資料館にも訪れた。
諏訪を訪れるたびに力がみなぎり、旅の喜びも感じる。
この辺りの城や神社や地形から感じる波動。私はそれらに惹かれる。おそらく、神話が発する浪漫を感じているのかもしれない。

さらに、この辺りには神話の時代より、さらに下がった時代の伝説も伝わっている。それは上にも書いた守屋山に関するものだ。
守屋とは物部守屋からきているという伝承がある。
物部守屋とは、日本に仏教が入ってきた際、仏教を排撃する立場にたった物部氏の長だ。蘇我氏との権力争いに敗れた物部氏が諏訪に逃亡したという伝説がある。現代でも物部守屋の末裔が多く住んでいるという。
上に書いた建御名方神が諏訪に逃げた神話とは、実は蘇我氏に敗れた物部氏を描いているという説もあるほどだ。

本書の序章では、建御名方神の神話を振り返る。
海から糸魚川で上陸して内陸へと向かい、善光寺のある長野から松本を通り、諏訪へと至る道。その道に沿って建御名方神を祀る神社の多いことが紹介されている。かつて、何らかの勢力がこの道をたどって糸魚川から諏訪へと至ったと考えてよいだろう。
さらに、その痕跡には九州北部を拠点としていた海の民の共通点があるという。
松本と白馬の間に安曇野という地名がある。ここも阿波や安房やアマの地名と同じく海の民に由来しているという。

第一章では「善光寺秘仏と物部氏」と題されている。善光寺と諏訪大社には建御名方神という共通項がある。
そもそも善光寺とは由来からして独特なのだという。それは高僧や名僧や大名が建立したのではなく、本田善光という一庶民がきっかけであること。本筋の仏教宗派ではなく、民俗仏教というべき源流。そこが独特な点だ。
また、善光寺は現世利益を打ち出している。牛に引かれて善光寺参り、とは有名な言葉だ。
その思想の底には、過酷な自然に苦しめられ、自然に対して諦念をかみしめるわが国に独特の思想があるという。現世が過酷であるがゆえに、自然を征服せんとする西洋のような発想が生まれなかったわが国の思想史。
その思想を濃厚に残しているのが善光寺であるという。
さらに、誰も見たことのないという秘仏や、善光寺の七不思議といわれる他の仏閣にない独特な特徴。

本田善光が寺を建てたきっかけとは、上にも挙げたように物部守屋と蘇我稲目の仏教を導入するか否かで争った際、捨てられた仏像を拾ったことにあるという。
つまり善光寺と諏訪大社は物部守屋でもつながっていたという。次から次へと興味深い説が飛び出してくる。
さらに著者は、物部氏と蘇我氏が実は実権をめぐる争いをしておらず、実は共闘関係にあったという衝撃の説も述べている。
また、聖徳太子が建立したとされる四天王寺と物部守屋との関係や、信濃(しなの)や長野といった地名の起源も大阪の河内にあったのではという説まで提示する。もうワクワクしかない。

第二章では「諏訪信仰の深層」と題し、独特な進化を遂げた諏訪大社をめぐる信仰の独自性を探ってゆく。
上にも書いた通り、諏訪大社の周辺に見られる独特な民俗の姿は私を飽きさせない。御柱もそうだが、神長官守矢資料館では独特の神事の一端を垣間見ることができる。
鹿食免という鹿を食べてもかまわない免状など、古来の狩猟文化を今に伝えるかのような展示など、興味深い展示がめじろ押しだ。
ここは藤森照信氏による独特の外観や内部の設えも含めて必見だ。

この地方にはミシャグジ信仰も今に残されており、民俗学の愛好家にとってもこの辺りは垂涎の地である。
上社の御神体である守屋山に伝わる物部守屋伝説も含め、興味深いものが散在している。
本章では、そうした諏訪信仰の深みの秘密を探ってゆく。なんという興味深い土地であろうか。

第三章では「タケミナカタと海人族」と題し、古代日本を舞台に縦横に活躍した海の民が信濃にもたらしたものを探ってゆく。
歴史のロマンがスケールも豊かに描かれる本章は、本書でももっともワクワクさせられる。
安曇野が海由来の地名であることは上にも書いたが、宗像大社でしられる九州北部のムナカタがタケミナカタに通ずる説など、興奮させられた。
神社の配置に見られる規則や、各地の神社の祭神から導き出される古代日本の勢力の分布など、まさに古代史の粋が堪能できる。

第四章は「信濃にまつわる古代天皇の事績」
神功皇后をはじめ、神話の時代の天皇と神社にあらわれた古代日本の勢力の関係などについても興味深い。
あらゆる意味で、古代史の奥深さが感じられる。
まさに日本書記や古事記の記述には、古代史を探る上でヒントが隠されている。今に残る史跡や神社や民俗とあわせると、より意外な真相も明かされるのかもしれない。

もちろん、著者の述べる魅力的な説をうのみにして、これが史実だ、などと擁護するつもりはない。
だが、私にとって歴史とはロマンと一体だ。
本書はまさにそれを体現した一冊だ。また機会があれば著者の本は読んでみたいと思う。

‘2019/9/19-2019/9/24


蒜山・長浜神社・出雲大社・日御碕の旅 2019/5/2


前日、鳥取から帰る車中での会話。
「さて明日は出雲に詣でるか〜」と妻。
「は?」と私。

鳥取から西宮の実家に帰り、寝た後に翌朝出雲に舞い戻るという、学生時代ですらやったことのない旅が始まった瞬間です。

鳥取から出雲へ行くには、隣の県にひょいと動くだけ。なのに、一度わざわざ西宮に舞い戻るこの背徳感。
いや、まあ、神社には興味のない娘たちにとっては、家でおじいちゃんおばあちゃんとお留守番して何か買ってもらえた方がええし、それならいったん西宮に帰るのが合理的なのはわかるんやけど。

そんなわけで、翌朝は夫婦水入らずのドライブの始まり。昨日も通ったばかりの中国道を西へと。
今回の旅では通り過ぎるだけの岡山県にも敬意を払わなねば、と勝央サービスエリアと蒜山高原サービスエリアにも寄りました。
蒜山高原サービスエリアでは、とてもおいしいクリームパンに出会いました。これは絶対に帰りに買って帰ろうと決めたほどの衝撃。

クリームパンを生んだ蒜山高原の自然の豊かさを存分にひけらかすように、晴れわたる空に大山がそびえています。
前の日は曇っていたので、鳥取側からの大山の景色は楽しめませんでした。ですが、晴れに恵まれたこの日は、雄大な山体が目の前に広がっています。しかも前日とは逆の方角から見るという経験がまたいい。
このまま出雲に行かず、大山を登りたくなりました。

米子からは山陰道に合流し、宍道湖を右手に見ながら出雲へと。そして、本当に出雲に着いてしまいました。
四十も半ばを過ぎてからのこのような旅をやってしまう自分がうれしい。自分の持ち味を発揮できるのも旅の喜びです。

出雲に着き、まず訪れたのは長浜神社。ここは妻が旅で訪れ、雰囲気にとても打たれた神社だそうです。

それももっとも。神社の境内は、暑い中にも凛とした風気に包まれていました。
暑さの中での参拝は、どこか気だるさを伴うもの。ですが、長浜神社はそうしたゆるみとは無縁で、神域にふさわしい姿で鎮座していました。

私は、神社の拝殿や本殿のたたずまいが好きです。
その姿を見ているだけで、時の流れを忘れられます。
夏の日差しが輝く中、木々に包まれた本殿。古代からの延々と続く時をあり続けてきた風格を備えています。その風格は、これからも長きにわたってますます磨かれてゆくことでしょう。

若萌えの 宮に願ひて 御代の明け
長浜神社にて

この地方一帯は、言うまでもなく国引き神話の地。長浜神社では、その神話にあやかって綱引き神事も行われるようです。
妻がお勧めしたとおり、長浜神社は私に強い啓示を与えてくれました。

続いて向かったのは、出雲大社。
この連休、山陰は大雨の予想でした。そのためか、思っていたよりも参拝客は多く参集していない様子。
おかげさまで、出雲大社駅の少し南にある駐車場に止められました。これもお導きでしょう。

前回の参拝は、家族と私の両親も一緒の参拝でした。2015年の8月25日。
その前々日と前日、そして当日の島根県は観測史上有数の大雨に見舞われていました。
松江地方気象台のレポート
そして、私たちが出雲大社を訪れたのは、その大雨が奇跡的に止んだ直後でした。
参道は木が倒れて通行止めになっていました。そして、私が車を停めた駐車場も本殿の脇にありました。なので、その時は参道をきちんと歩かずに参拝しました。

今回、四年振りに参拝するにあたり、きちんと参道を歩きたい。妻の意向と私の意思は同じでした。そもそも前々回、私が出雲大社を訪れたのは二十四年も前の事なので、もはや覚えていません。私もきちんと参道を歩きたい。
と言いながら、参道に軒を並べるお店にふらふらと吸い込まれるのはいつものこと。「出雲かみしお」では清め塩の多彩な世界に目移りし、「めのや」では勾玉の絢爛な世界に遊び。

さて、勢溜の大鳥居からいよいよ参拝です。参拝客が少なめといっても、そこは国内でも指折りの社格を擁する出雲大社。普通の神社よりもはるかに人が集まっています。
そんな人々の賑わいに負けず、境内の緑は若々しく、境内には清新の気が満ちているようです。

松の参道を歩き、手水舎で清めたあとは、銅鳥居をくぐります。巨大なしめ縄が有名な拝殿でまずは参拝。
今回は、妻が学んできた知識を生かし、きちんとお作法にのっとって参拝しました。御本殿の周りにある摂社を時計回りに詣で、最後に御本殿で参拝しました。
摂社のうち、特に素鵞社は必ず参らなければならないそう。妻の言葉通り、大勢の方が参拝の列を作っていました。
二十四年前の私が絶対に知らなかったであろう正式な参拝。年を取るとはこういうことなのでしょう。きっと。
二十四年がたった今、妻とこうやって詣でられることに感謝しつつ。

本殿の屋根の独特な曲線は大社造りと呼ぶそうですが、伊勢神宮やその他の神社の本殿とはまた違う魅力があります。
世界の屋根たらん、という包容力を備えているような。世のすべての吉凶をまとめ上げるような勢いのある形といいましょうか。
他の神社と違って周囲をくまなく、ぐるりとめぐることのできる出雲大社。本殿の美しいすがたをあらゆる角度から眺められることも、魅力の一つだと思います。

御代晴れや 皐月に映えし 宮の空
出雲大社本殿にて

さて、無事に参拝を済ませた後は、横にある北島国造館へ。古来から出雲大社の神事は、千家、北島の両家が司ってきたそうです。が、明治維新で神道に大きな変革が訪れた際、北島家は出雲大社の神事から外れ、別の出雲教という教団を打ち立てたのだとか。
そのあたりの事情はよく分かりませんが、北島国造館も出雲の歴史のまぎれもない生き証人のはず。
北島国造館の奥には、亀の尾の滝が清らかなしぶきを立てていて、初夏の暑気を和らげてくれます。

私にとって北島国造館は初めて訪れた場所のはずです。出雲には訪れるべき地がまだまだ多いことは分かっていたつもりでしたが、おそらく一生かかっても体得は出来ないほど、出雲は奥が深い。
帰りの松の参道でも、境内に散在する石碑の文字を読みながら、出雲の知識を少しでも得ようとする私。うさぎの故事も含め、出雲にはあと何度でも来たいと思わせる魅力があります。

さて、勢溜の鳥居をくぐって俗界に戻った私たちは、早速ご縁横丁へ。
ここでは店店を冷やかし、アイスクリームで一息。
駐車場に戻った後は、出雲阿国の像や道の駅に立ち寄り、続いての場所へと向かいます。
稲佐の浜を通り過ぎ、山道を十五分ほど走った先に目的地はあります。日御碕です。

まず、日御碕神社へ参拝。早くも日が傾きつつある中、門が閉じる寸前に参拝できたのはよかった。
妻は日御碕神社への参拝は初めてだったらしく、聖域としての風格を備えた神社の境内に、妻はとても強い印象を受けた様子。

無事に参拝を終えた後は、脇の道から日御碕灯台へと歩みます。
海に面した小径は「うみねこの坂道」と名付けられており、その名の通り、海には無数のうみねこが飛び交っていました。すぐ沖には経島(ふみしま)が海面から高くそそり立ち、島のあちこちにうみねこが営巣し、あたりを独占しています。日御碕神社の鳥居も設えられていますが、ここには神官さんも年に一度しか訪れないらしく、完全にウミネコのものとなっています。

夕陽があたりを金色に染める中、飛び交うウミネコの姿は、とても旅情をかき立ててくれました。

ウミネコや 鳴きかう島に 夕陽落つ
日御碕にて

なおも歩くと、日御碕と日御碕灯台が見えてきました。
私がここを訪れたかったのには理由があります。

二十四年前、私は三人の親友とともにここを訪れました。
そして画を描いていたおじさんと会話を交わしました。どういういきさつで会話が進んだのかは覚えていませんが、そのおじさんは占いもできるらしく、お金を払って占ってもらうことになりました。

当時の私は、芦屋市役所でアルバイトをしていました。そして、強烈な鬱に落ち込み、ようやく少しずつ回復する途上にありました。
山陰の旅は、友人たちが私を元気づけようとして旅行に誘ってくれたように記憶しています。
皆生温泉で一泊し、翌日は出雲市駅近くの駐車場で車中泊をしました。
鳥取砂丘や当時開催されていた山陰・夢みなと博覧会を訪れ、八重垣神社や出雲大社を訪れました。
そんな楽しい旅の締めに訪れた日御碕。

私はこのおじさんに、将来は公務員にはならないこと、そして四人の中で一番最初に結婚する、と予言されました。
鬱に苦しみ、将来のあてなど何もなかったその時の私に、です。正直、それを聞いた私は、占いをほぼ信じませんでした。たぶん、八割以上は疑っていたはずです。

ところが、それから2年後、私は関西を離れ、上京します。その時、すでに妻にはプロポーズまで済ませていました。もちろん芦屋市役所のアルバイトはとっくに辞めていました。
おじさんの占いはすべて成就したのです。
今にいたるまで、私は風水や占いの類は鵜呑みにしません。でも、この時のおじさんの予想は確かに当たったのです。
今や、おじさんの名前も顔も忘れてしまいました。そもそも、当時も名前を聞かずじまいだったように思います。

その時から二十四年後、私は妻を連れて日御碕を訪れることができました。
灯台の周りを見渡してみましたが、絵を描いている男性はいませんでした。
あれはまさに一期一会。旅の中で得た一瞬のご縁だったのでしょう。

日御碕灯台のたもとで、沈みゆく夕陽を眺めつつ、ずっと物思いにふけっていた私。
珍しく妻からも一緒に自撮りしようといわれ、何枚か写真を撮ったりしながら、二人で海を見ながら日が沈んでしまうまで座っていました。美しすぎる夕陽です。

占いのおじさんとの再会はなりませんでしたが、この旅はまだ終わったわけではありません。旅のご縁はこの後に待っていました。
そのご縁は、小腹が空いたので、サザエのつぼ焼きでも食っていこうと訪れた日御碕神社の駐車場のそばのお店で生まれました。
ここで最後までお店を締めずに頑張っていたお店のおじさんと、いろいろと会話した私たち。

出雲や日御碕にも、都会から地方創生の大志を抱いてやってくる若者はいるらしく、このおじさんもそうした若者とのご縁がある様子。
そうした会話で盛り上がっていると、時間はあっという間にたってしまいます。
令和を記念して地元のお店に配ったポスターまでいただき、さらにシンガーソングライターの方のCDまでお譲りいただきました。
そのお店の名前は園山商店といいます。その後、一年以上、園山商店さんとのご縁は途絶えています。ですが、きっといつか、よいご縁が復活するような気がします。
出雲とは日本中のご縁が集まり、そして生まれていく場所なのですから。

ただし、この旅でもう一つ、巡り合えなかったご縁がありました。それは、行きの道中で蒜山高原サービスエリアで食べたとてもおいしいクリームパンとのご縁です。
なんと、あのクリームパンは下り線のサービスエリアにしか売っていないとか。あんなにおいしかったのに残念。
お店の人も同じような質問をよくされると苦笑していました。

もうこれは、クリームパンを食いにまた来るしかない。
そして、その足でまた出雲や島根へ再訪しなければ。
なにしろ二日続けて山陰へ旅した私たちですから。