Articles tagged with: 公判

嫌われ松子の一生(下)


上巻の最後で故郷から今生の別れを告げようと実家に戻り、そして出奔した松子。馴染み客が一緒に雄琴に移ろうと誘ってきたのだ。雄琴とは滋賀の琵琶湖畔にある日本でも有数の風俗街のこと。しかし、マネジャーになってやるからと誘ってきたこの小野寺という男、たちの悪いヒモでしかなかった。ヤクの売人はやるわ、他の女に手は出すわ。痴話げんかの果てに、松子は小野寺を包丁で刺し殺してしまう。

無我夢中で東京へと向かった松子。そこで出会ったのが島津。妻子をなくし、つつましく理容店を経営する男の元で居候として暮らしはじめる。となれば自然と男女の関係になろうというもの。しかし、そんな松子がつかんだかに見える平穏は、逮捕によって終わりを告げる。全国指名手配されていたとも知らず、のうのうと暮らしていた松子を警察が見逃すはずもなく。ついに松子は刑務所に収監されることになる。

笙も別ルートから松子が刑務所にいたことを突き止め、公判記録からその凄絶な生涯を知ることになる。

本書に通して読者が追体験する松子の人生は、すさまじいの一言だ。一人の女性が味わう経験として無類のもの。それでいて、少しも無理やりな展開になっていない。本書はフィクションを描いているはずだが、実は松子のような人生を歩んだモデルがいたのではないかとも思わせる。長年、風俗業で生き抜いて来た女性の中には、松子と同じような辛酸を舐めてきた方もいるのではないか。そう思わせるリアルさが本書には息づいている。

松子の人生は、まるで奔流のように読者を運んでいく。立ち止まって考える暇すら与えてくれない。本書は一気に読めてしまう。だが、あらためて本書を読んでじっくり考えてみたい。すると、松子の生き方にも人の縁が絡み合っていることが見えてくる。松子の人生は一匹オオカミの孤独に満ちているわけではない。人生のそれぞれの局面で、ごく少数の人と太い絆を結ぶ。その絆が松子の前に次々と新しい人生の扉を用意するのだ。それが結果として悪い方向だったとしても、人の縁が人生を作ってゆく。

属する組織の中で、少数の方と縁をつないでゆく生き方。それは、私自身にもなじみがある。というよりも私の生き方そのものかもしれない。私はたまたま破滅せずに、今なお表通りを大手を振って歩けている。だが、それは結果論でしかなく、実は私の人生とは、選択する度に間一髪奈落のそばを避けてきたのかもしれない。自らの経験から振り返ってみると、生きることの難しさが見えてくる。生きるとは、これほどまでに人との縁や、その時々の判断によって左右されるものか。一方通行のやり直しのきかない人生では、選択もその時々の一回勝負。

とはいえ、本書を読んで人生を後ろ向きに考えるのはどうかと思う。殻にとじこもり、リスクを避ける人生を選び続けてはならない。松子にはたまたま不運がつづいてしまっただけとも言える。最後は酔った若者たちの憂さばらしのの対象となり、殺されてしまった。だが、逆もまたあり得るはず。幸運の続く人生も。

そもそも運で自分の人生を決めつけることを私は良しとしない。運などすべて結果論でしかない。松子の場合、旅館での盗難騒ぎを、自分の力でうまく収めてしまおうと独断に走った判断のまずさがあった。彼女の人生を追っていくと、明らかな判断ミスはそう多くはない。多くは他の人物による行いを被っていることが多い。松子の場合、安定した教職をまずい判断で台無しにしてしまったスタートが決定的だったと思う。つまり、選択さえうまくできていれば、彼女の人生は逆に向いていた可能性が高い。

そんなわけで、松子の裏目続きの人生を見せつけられてもなお、私には人生を後ろ向きにとらえようと思わないのだ。

根拠なき運命論も、人生なんてこんなもんという悲観論も、私にはなんの影響も与えない。むしろ、本書とは巨大な一冊の反面教師ともいえる。こうすれば人生を踏み外すという。でも、そこだけが本書から得られる教訓であるとは思えない。本書から得られる彼女のしぶとさことを賞賛したい。一度の選択は人生の軌道を全く違う向きに変えてしまう。しかし、悪いなりに松子は人生を懸命に生きる。そこがいい。失敗を失敗のまま引きずらず、生きようとした彼女が。

笙は公判で松子を死に至らしめた男たちの態度に激昂して吏員に連れ出される。笙には分かっていたのだろう。叔母の一生とは決して救いようのない愚かなものではなかったことを。刑務所から出所した後の松子の人生も、紆余曲折の山と谷が交互に訪れる激しい日々だった。最後は荒川のアパートで身なりを構わぬ格好で独り暮らし、嫌われ松子と呼ばれていた。それはいかにも身をやつした者の末路のよう。でも、かつて松子がつちかってきた縁は、松子を真っ当な道に戻そうとしていた。それを永遠に閉ざしたのが浅はかな若者たちの気まぐれだった。松子と比べると人生の密度に明白な差がある若者たち。そんな若者たちに断ち切られてしまった松子の報われたはずの未来。それを思うと笙には彼らの反省のなさに我慢がならなかったのだろう。

私はつねづね、人の一生とは死ぬ直前に自分自身がどう省みたか、によって左右されると思っている。本書はその瞬間の松子の感情は描いていない。果たして松子はどう感じたのだろうか。多分、晩年の松子には今までの自分の人生を思い返すこともあっただろう。でも普通、人は生きている間、無我夢中で生きるものだ。他人からの視線も気にするひまなどない。憂さ晴らしの連中に襲われた際、松子には後悔する暇も与えられなかったことだろう。だが、本人に人生を思い返す暇がなかったとしても、他人からその生きざまに敬意が払われ、記憶されたとすれば、その人の人生はまだ恵まれていたといえないだろうか。

‘2016/08/08-2016/08/09


冷血(下)


上巻の終わりで犯人は逮捕され、物件証拠も状況証拠もともに揃いつつある。ほとんどの推理小説は犯人逮捕で終わるか、もしくは法廷劇へと場面を移す。しかし、現実の警察の仕事は犯人逮捕で終わる訳ではない。警察の仕事は続くのである。また、法廷は検事が起訴して始まるのではない。警察の証拠固めがあってこそ法廷は成り立つのである。刑事事件を起こした被疑者は、裁判所で被告として立たされる。しかしその前に被告になるには、検察庁による公訴が必要となる。

公訴を行うには、被疑者の動機、犯行当時の詳細な行動などが詳細に明かされていなければならない。そうしないと裁判で無罪または刑の軽減が行われてしまうからである。本書上巻で執拗に書かれていた二人の犯罪者の奇妙奇天烈な行動の数々。彼らは果たして罪を問われるのか。そもそも彼らの支離滅裂な行動の中に心神耗弱や精神病といった精神面の問題はないのか。精神面の問題があれば、責任能力無しとして起訴が出来なくなる。そのようなことはないか。彼らの行動の中の躁鬱や統合失調症といった精神面の問題。下巻で著者が追求するのはこの点に尽きる。しかし、彼らに責任能力なしと認定されてしまえば、誰が四人の被害者を死に至らしめたのか。誰が仏前の彼らに報告するのか。二人の男が精神病院行きとなれば本書はまた別の物語になってしまう。つまり警察や検察は、二人の犯罪者の責任能力を証明した上で、なおかつ彼らの行動を丹念に辿り、犯行の動機や行動の詳細を追っていかなくてはならない。

下巻では、まさにその攻防が書かれていく。攻防と云っても犯罪者二人がとぼけたり、責任転嫁する訳ではない。それでいて、犯罪者は自分の行動に理由を示すことができないのである。行き当たりばったりで、殺意の自覚すら怪しい者に、自分の行動を説明させる徒労。脳内のパチスロ音や根深い歯痛も、彼らにとっては理由ですらない。その骨折りを承知で、検察も合田係長も捜査を続けて行かねばならない。

やがて裁判は始まる。法廷の被告席でも支離滅裂な態度を取る井上。一方の戸田は虫歯が致命的に悪化し、もはや半死半生で入院する事態となる。合田係長は、捜査陣というよりも個人的な興味をもって、二人の犯罪者に面会や文通でのつながりを持とうとする。

犯行から3年のちの死刑執行までを描く本書では、論告文もきちんと全て書き込まれる。また、被害者の親族や友人たちの言動を丁寧に描くことで、三年の間に枯れてしまった感情の移ろいやすさなどを描き、硬質なルポルタージュのようにして本書は幕を閉じる。加害者という生者、被害者という死者の対比が炙り出されるのが下巻だ。

何故二人は犯罪を犯したのか。何が二人を駆りたてたのか。というテーマが繰り返し繰り返し、下巻では追及される。実際のところ、下巻は合田刑事が二人の犯罪者の心中へ分け入ろうとする苦闘の物語である。云うまでもなくその苦闘は著者によるなぜ人は罪を犯すのかという人間存在の探求へと繋がる。よくも下巻を全て書き尽くしたと思う。心理学、中でも犯罪心理学や行動心理学などについてよほど深い識見を持っていないと本書は書けない。そう思う。そこには、著者が持つ人間存在への興味と敬意あったに違いない。

本書で究められた犯罪心理への追及は、読んでいる読者自身にも関わってくる。それを忘れてはならない。読者という安全圏、つまり高みの見物を決め込んでいる読者の中の誰が、自分が犯罪者になり得る可能性を真摯に考えているのか、ということだ。人の心の動きの微妙さは、ほんの一瞬のすきをねらって、善良な読者を犯罪者に変えようとする。成育環境や歯痛といった要因以外にも、何が起こるかわからないのが人の生なのだから。

私自身、犯罪者について心中ではどうあれ、表立っては非難しないようにしている。それはなぜかというと、自分もまた犯罪者予備軍の一人であることを理解しているからだ。つまり、私にはその人を断罪し、裁く権利はないということだ。裁くに値するだけの堅牢な精神の持ち主ではないということだ。もちろん私も自分の家族が被害に遇ったら犯人を憎む。復讐も企てるかもしれない。でもそれはもはや裁くという行為とは違う。自分がいつ裁かれる側に回るのか、その可能性に思いを致せないものは、容易に犯罪者を断罪できないはずだ。仮に復讐に走ったとして、自分に返ってくるのは復讐という行為の結果が犯罪であるという事実。だが、警察はそれでも人を裁く場に犯罪者を送り込まねばならない。その矛盾に気づきながらもなお、人を裁くための証拠固めをしなければならないのが警察であり合田係長だ。

著者の考えは、おそらくその矛盾の解決の先を行っていることだろう。その表れが本書の末尾に出ている。彼らの末路は断頭台でも電気椅子でも薬剤注射でもない。彼らの手紙の絶叫から読み取れるのは、人間というものの滑稽さに他ならない。断罪も理解もなく、裁く裁かれるもなく、人間はただ一人一人が人間であるということ。そこに著者の物語はたどり着く。

‘2015/8/16-2015/8/25