Articles tagged with: 借地権

アクアビット航海記 vol.48〜航海記 その31


あらためまして、合同会社アクアビットの長井です。
弊社の起業までの航海記を書いていきます。ここから先はかつての連載が打ち切られた後に執筆しています。
家の処分をめぐる熾烈な攻防を描いています。本当にタフな毎日でした。

家を手放す決断


前回の第四十六回で書いた2003年のあわただしい日々。2003年は年末に地主の家に伺って地代を払うことで幕を閉じました。

その際、今後の家の処分について話し合いを持ちました。そこで決まった方針は、私たち一家が別の場所に引っ越す前提に準備を進めることでした。
その際、長井家と地主の間に残る肝心かつ山積みの懸案事項を一旦は棚上げしました。まずは家の処分について膠着している状況を前に進める。その思惑は双方で一致しました。

懸案事項とは以下の通りです。
・都市計画に含まれている道路拡張分の40坪部分について、長井家と地主の借地権割合
・都市計画に含まれていない建屋二棟を含んだ残りの140坪について、長井家と地主の借地権割合
・140坪の借地権の権利を持つのはどちらか。その借地権移転の補償額
・建物や庭木の処分はどちらが行うのか。その費用負担の決定

このように、私たちは新たな家を探す方向で決断しました。
今の家にずっと住み続ける事はできない。それは私にはわかっていました。
どう考えても地主が土地の借地権を売ってくれるはずはありません。また、私たちに140坪の所有権を買うだけの資産はありません。祖母から妻あてに遺産として残された一千万円は結婚してからの四年間で尽きかけようとしています。同じ場所に住み続ける手段は閉ざされていました。
奇跡は起こらない。当時の楽天的な私ですら、その事は理解していました。

私たちも無策だったわけではありません。さまざまな選択肢を模索していました。
本連載の第四十六回で第七案に挙げていた「土地と上物を第三者に売却する」ことも検討しました。
その時、私たちが売却相手として考えていた相手は、住んでいる家の前にある「あけぼの病院」です。あけぼの病院の理事長は妻とは面識があり、面会を申し込みました。そして、建物と土地を含めて買ってくれないかという話をしたのです。
病院としては敷地を拡張するチャンスです。あわよくば土地と建物を含めて買ってくれるのではないか。と言う期待を抱いていました。もし買ってもらえたら、私たちは土地や建物の売却について地主と交渉する重荷から逃れられます。
ところが、病院からはお断りの返事が返ってきました。
他にもさまざまな方にこの家の売却については相談にも乗ってもらいました。そうした相談の一部は本連載の第三十九回にも書いた通りです。

私たちはいくつかの不動産業者を訪れました。例えば住宅情報館など。他にもその当時、私が勤めていた会社の方からの紹介で相模原の総合建設業を営む谷津建設の方とも面談しました。

そうした方々から聞こえる地主の評判。それはやり手、かつ、剛腕の持ち主であることです。
この地主を知らない町田近辺の不動産屋はもぐりだとも言われました。そして皆さん、地主の存在を聞いた途端、一様に手を引いていくのです。
私が対決しなければならない地主とはそのような方でした。

家探しを始める

今まで本連載で書いてきた通り、私が幾たびの交渉を含めて感じた地主の老獪さと手ごわさは、私にとっての大きな壁でした。
穏便にこちらの願いを聞いてくれるタマではない。交渉にかけては老練の方ですので、生半可なことでは負けてしまう。私にとってこの交渉は毎回果し合いをしているようでした。

少なくとも私たち夫婦の認識は、膠着した状況を打破するため、新しい場所に移り、借地権を返すしかないとの方向で一致していました。
それもあって、年末には先方の提案を呑み、前に進めることにしたのです。

家探しに当たっては、地主からも候補となる物件を提示してくれるとのことでした。
実際、2004年の正月の松の内を過ぎると地主からFAXが届くようになったのです。

言うまでもなく、妻の思いは複雑だったと思います。住めるものなら引き続き同じ場所に住みたい。そう願うのは当然です。思い出の場所ですし。
工事の途中で放置されたままの診療室の惨状を見るにつけ、この家の命脈が尽きていたことは妻も分かっていたようです。

私たち夫婦は、FAXに記された地主さんが薦める家のいくつかを見に行きました。

私たちの家探しの条件は、町田市内であることでした。
妻が働く実家の歯医者は、町田市にあります。町田市から別の市へ転居すると保健所への登録の手続きが必要です。また、町田から引っ越すと神奈川県民になることも考えられました。
また、妻自身が町田に住みたいと思っていました。さらに私も職場が相模原市にあるため、町田に住めれば通勤が楽であることも考慮しました。
もっとも、この時点の私は、相模原の会社に骨を埋めることはないだろう、ゆくゆくは都内や横浜へ通勤することになるかもしれないとの想定もしていた記憶があります。

どういう順番で物件を巡ったか、そもそもどこを訪れたのか。あまり記憶は残っていません。いくつかの物件の場所は覚えていますが、私たちが地主から勧められた物件のうち実際に訪れたのは、せいぜい5カ所くらいだったように思います。

正直に言うと、地主の薦めてくる物件は心に響きませんでした。
それは仕方のないことです。私たちが住んでいるのは駅近に建つ180坪の敷地と二軒の家です。その条件と比べてしまうと、どの物件も見劣りします。
地主の薦める以外の物件も夫婦であたってみましたが、なかなか意中のものは見つかりません。

私たちの手元には少なくとも3千万円は入ってくるはず。さらにローンを組んだとして5千万円くらいの物件は買えるはず。それが私たちの皮算用でした。
ところが、この価格帯で探しても、私たちが望む物件はなかなか見つかりませんでした。
もちろん、私たちの当時の収入や実力から考えると、分不相応な望みであることは当時もわかっていました。が、ここで下手に妥協すると、180坪の家にある大量のモノを収める場所にも難儀するし、モノが収まらない。何よりも家庭が崩壊する可能性があります。

地主から市から通行人からの圧力


なかなか意中の家は決まらない一方で、借地権割合の交渉も並行して進めなければなりません。

上に書いた通り、私たちの住んでいた敷地の一部は町田市の計画した道路の拡張部分にかぶっていました。
町田市にとっては、何十年も滞りづけている道路拡張を進めなければなりません。長井家と地主の交渉の進展を今かと待ちかねています。既に道路拡張の他の部分は、工事を進めています。

長井家と地主の交渉の肝とは、上にも書いたように借地権の割合です。町田市からは、地主と私たちで取り決めた借地権の割合に按分して支払われます。この割合が7対3なのか、半々なのか、4対6なのかによって私たちの収入額は変わってきます。
2004年の3月には町田市よりあらためて40坪についての測定・資産評価の連絡がきました。約4000万円です。つまり、借地権割合が半々の場合は私たちには町田市から2000万が振り込まれますが、3対7になった場合、1200万円しかもらえません。

また、40坪についての借地権割合が決まっても、残りの140坪についてはどうするのか。普通に考えればこちらは50年以上住んでいるので占有権が主張できます。その部分の売却額をどのように交渉するのか。

この頃の交渉の推移はあまり覚えていません。後に弁護士の先生に提示するため、いきさつを時系列でまとめた資料があり、それを基に本稿を書いています。

2004年の4月になり、意中の家が見つかりました。成瀬の高台にある土地です。そこを妻が気に入り、そこに家を建築することで話を進めることにしました。
私たちはこの家のローンを含めた全額を地主に負担してほしいと提案しました。その代わり、180坪についての借地権割合は私たちがゼロでよいと。
それにあたって、地主からはまずその代金が高すぎる。値引き交渉をしてほしい、と。

もちろん地主としては、取り分を上げるために老獪な策を巡らしてきます。それはわかります。ところがそこで、地主は私にとって許しがたい手段に訴えてきました。

ある日、私が地主の家に交渉で訪れたところ、その場には見知らぬ人物の姿がありました。
歳の頃は私よりもずいぶん上、おそらく五十歳くらいでしょうか。ひと目でその筋の方であることを匂わせるわかりやすい外見ではありません。ですが、堅気ではない雰囲気を旺盛に発散しています。裏に剣呑な何かを仕込んでそうな、ただならぬ凄み。
私はこの予期せぬ人物の登場に体がカッと燃え上がりました。激高しかけたのを覚えています。その思いは必死にこらえましたが、抑えきれなかったはずです。上ずった声で啖呵を切ってその場から退出したのを覚えています。

この方の名前も忘れましたし、今、この方と街ですれ違っても気がつかないでしょう。
ですが、地主はこの私を甘く見ていました。
この結果、私は高ぶりました。絶対脅しに屈するものかとけて決意を固めると同時に、交渉に本気になりました。私がこの交渉に弱みを見せると、家族にとってはよくない結果が待っています。負けられない。私が腹を固めたのもこの時だったように思います。
もちろん、地主が私よりも交渉術にたけ、何よりも土地を持っている強みがあり、百戦錬磨の経験を備えた人物であることは承知の上です。

2004年の4月には道路拡張の歩道部分がわが家の敷地を除いて完成しました。それをきっかけに通行人からの嫌がらせが顕著に増えました。ごみを投げられたり罵声を浴びせられたり。
そして、私たちが地主と交渉している間に、上の成瀬の物件は売れてしまいました。前払い金を払うタイミングを逃したためです。町田市からもすぐには金額を支出できないとの話があり、みすみす意中の物件を逃してしまったのです。

身を削るような交渉が連日のように続く中、2004年はやがて下半期に移ろうとしていました。

次回も家探しの日々、そして地主や町田市との交渉を書きたいと思います。ゆるく永くお願いします。


アクアビット航海記 vol.46〜航海記 その30


あらためまして、合同会社アクアビットの長井です。
弊社の起業までの航海記を書いていきます。ここから先はかつての連載が打ち切られた後に執筆しています。
家の処分をめぐる熾烈な攻防に巻き込まれてゆく自分。鍛えられました。

誕生と死と転職の2003年


さて、久々に家の話題に戻りたいと思います。
本連載の第三十七回第三十八回第三十九回で書いた、私たち家族が住んでいた広すぎる家と重すぎる圧。その家をどうやって処分したか。
その経緯を今回と次回とその次までかけて書こうと思います。

2003年の7月に職を変えた事は本連載の前回前々回で書きました。
それによってわが家から相模原市の職場までは、自転車でも通えるほどの近さになりました。

職住近接が実現できたことは、私に家を処分するための時間を与えてくれました。そろそろ四年にわたって重荷となっていた家の処分に向け、動き出す時です。

ただし、2003年はまだ家の問題に取り組むには時期が熟していませんでした。私にとっての2003年は、転職の他にもさまざまな出来事がありました。
2002年の年末(12/29)より、山下さんに裏の家に防犯もかねて住み始めてもらったことは本連載の三十九回でも触れました。

明けて2003年。次女が生まれたのはこの年の10月4日、天使の日でした。その一方、次女が生まれる二カ月ほど前には、父方の祖父が亡くなりました。兵庫の明石で営まれた通夜と告別式にも出席しました。また、次女が生まれた日は、母方の祖母の告別式に重なりました。もちろん、私が福井まで参列することは叶いませんでした。

転職と誕生と逝去。慌ただしい2003年でした
当時、私は30歳になったばかりでした。それまでの人生で人の死に直面した経験は持っていました。
大学二回生、20歳の頃に友人がアルバイトの帰りに過労で亡くなりました。その友人とは一緒に自動車教習所に入学しに行った仲です。お骨拾いにも参加させてもらい、つまんだ箸の先の軽さに友人の死を痛感しました。また、同じ年の秋には、友人の女の子が脳腫瘍でなくなりました。彼女が亡くなる前日、明石の兵庫県立がんセンターの緊急治療室でみた、管につながれたその子の姿は私に失神するほどの衝撃を与えました。

その時に味わった死の実感から10年。その節目に経験した娘の誕生と祖父母の死。それは、私に人生の両極端を教えてくれました。そして私にあらためて人生のはかなさと有限を突きつけました。

ただ、この時の私はそのような感慨をただ持て余すだけでした。
ゆとりはありません。もちろん、発想も勇気も実力も機会もありません。次女が生まれ、転職することだけで手一杯でした。そもそも家が片付いていない以上、身動きは取れません。

熾烈な交渉の始まり


そんな年に家の処分について動きがありました。
前年末に妻が次女を妊娠したこともあって、地主の家に地代の払い込みに訪れたのは五月の連休明けのある日でした。
支払が遅れたことをもって、地主はわが家から経済的なゆとりが失われつつあることを察したのでしょう。そして、頃やよしと思ったのでしょう。地主から今後の借地権の行方について考えたいとの提案が切り出されたのはこの時でした。

それまでは毎年末に私が一人で支払いに行っていました。そして、その度に世間話をのんびりして、帰っていました。
私も交渉を本格的に進めるタイミングを見計らっていました。そろそろ舵を切らねばと思っていました。そのため、地主から話を切り出してくれたのは好都合でした。それまでの四年間、話を切り出させるまで我慢したかいがありました。
2003年の年末。地代275万円を収めに行きました。その時は五月に地主から家の話を切り出されていたこともあり、私も地主も借地権を含めた家の処分について、遠慮なく意見交換を進めました。

強大な地主の壁

もちろん、お互いが相手の出方を見ながらの駆け引きです。
妻が祖母からもらった遺産が地代の支払いに費やされていることや、その遺産も含め、家からお金が尽きかけていることは、私もおくびにも出しません。
ひょっとすれば、こちらの事情など地主が興信所などを使って調べていたのかもしれません。私がシラを切ろうとも。

私がたった一人で対峙する地主。その方は、町田近辺の不動産業界で知らぬ人はモグリといわれるほどの方。やり手の凄腕地主として、町田駅近辺にいくつも土地を所有していました。
一見、穏やかな印象を与える顔貌。しかしその裏には老獪さが潜んでいます。私の父親と同じぐらいの年齢です。そしてその目からときおり放たれる眼光の鋭さ。まさに海千山千。百戦錬磨とはこういう人を指すのでしょう。
世間話をしていたかと思えば、いつの間にか家の話題に踏み込んできます。油断させておいて、いきなり直球を投げ込んでくる交渉術は変幻、そして自在。
人生の修羅場を切り抜けてきたであろう人物と一対一。その眼光に負けぬよう、目をそらさず話を聞き、応じ、話をし続ける。それは一瞬も気の抜けないギリギリの果たし合いのようなものでした

当時の私が交渉術など知るはずもありません。
話の主導権を握るスキル。話のつなぎ方。話の切り出し方。話の緩急。経験の全てが不足していました。それまでの人生で交渉など未経験なのだから当たり前です。
ブラック企業にいる頃、毎晩何十件もの見知らぬお宅に突撃訪問を繰り返していました。それは、今から思えば交渉とは呼べません。交渉とはそもそも双方が対等であるべきもの。訪問した私は、訪問されたお宅にとっては警戒の対象でしかありません。対等とは程遠い立場でした。
パソナソフトバンクにいる頃は、双方が対等の立場で参加する商談に何度か参加させてもらいました。それとて、数回を除けば私は商談の場の主役ではなく単なる添え物。ただついて行った人に過ぎません。

この地主こそが、私のそれまでの三十年の人生に立ちふさがった初めての、そして強大な壁でした。
ブラック企業にいた頃、私を丸刈りにし、皆の前でクビ宣告をした営業所長も私にとっては壁でした。
ですが、今になって思えばこの時に私の前に立ちふさがっていた壁は営業所長ではなく私自身でした。しかも、三カ月でクビになり、壁を乗り越える前に私が砕け散りました。
しかし、地主との交渉に当たっては砕け散る選択肢はありません。背を向けることも許されません
私が砕け散る時。それは家族が分解するときです。離婚は当然。関東にはいられなくなった私は、関西の実家に逃げ戻るしか道がなかったはずです。
そして、借地権が妻と義父に設定されている限り、私が逃げようとその借地権は引き続き妻と義父と娘を苦しめ続けるはずです。当時の私は何が何でもこの壁を乗り越える必要がありました。

ここで私が地主から逃げていたら、私の人生に計り知れないダメージを与えていたことでしょう。逃げや玉砕までは行かなかったとしても、壁を乗り越えられなかった自分を負け犬と感じ、今の私はなかったことでしょう。
ブラック起業の朝会で衆人の中でクビを宣告されました。皆の前で丸刈りにもされました。その屈辱や雪辱を果たせぬまま、今まで馬齢を重ねていたと思います。
多分、今の家にも住んでいないでしょう。多分、起業もできていないはず。家族も持たぬまま、孤独でい続けたかもしれません。なにより、私自身が自分を失っていたはずです。

当時の私にとって強大すぎる壁であったこの地主。
今となって思うのですが、この地主は私の成長に欠かせぬ人物でした。そのように感謝の念すら抱いています。
この後の本連載でも書きますが、地主とのタフな交渉をへて、私は相当に鍛えられました。

住んでいる家を処分するには、新たな家を確保する必要があります。
どこに住むのか。予算は。職場は。どれもが揺るがせにできない大きな問題でした。

2004年の松の内が明けて早々、地主から候補となる家が記されたFAXを受け取ります。
いよいよ、一年五カ月にわたる家探しの日々の始まりです。

次回は家探しの日々、そして地主や町田市との熾烈な交渉を書きたいと思います。ゆるく永くお願いします。


アクアビット航海記 vol.39〜航海記 その24


あらためまして、合同会社アクアビットの長井です。
弊社の起業までの航海記を書いていきます。以下の文は2018/3/29にアップした当時の文章が喪われたので、一部を修正しています。
今回も家の処分について語ってみます。この経験を通して私をとても強くしてくれた家のことを。

家の防犯に取り掛かる


家の処分に着手した私。まず取り掛かったのは、家の防犯でした

当時、私たち夫婦と幼い長女が住んでいたのは、鉄筋三階建ての家屋でした。
その裏には木造二階建ての家が建っていました。本連載の第十九回にも書きましたが、私が初めて妻と出会った旅で泊めてもらった家です。

この家は空き家だったので、種々のリスクの温床となっていました。
たとえば、本連載の三十四回で登場した泥棒を稼業とする方にとって、裏の家は格好の獲物でした。
さらに本連載の第三十八回に書いたとおり、道路拡張を邪魔していると誤認した誰かの嫌がらせの標的になる恐れがありました。
裏の家が空き家で有り続ける限り、わが家は必ずならず者のターゲットになったことでしょう

もう一つの理由として、裏の家を片付ける必要を感じていました。いずれ訪れるはずの引っ越しの際、四代にわたって二軒の家にためこまれたモノの処分に難儀することは確実。今のうちに取り掛かっておかなければ。

初めて自分で契約書を作成する


私の手元に、弁護士のIさん向けに家の流れを説明した年表があります。弁護士のIさんは後の連載に登場していただきます。
その中の2002/12/29の出来事としてこう書かれています。
「友人「山下さん」に現住所木造2階建て家屋を貸す」
これは文字通り、私たち夫婦が住んでいた二軒のうちの木造2階建て(つまり裏の家)を山下さんに貸したことを示しています。

山下さんは私の大学の先輩にあたります。私が山下さんと知り合ったのは大学時代ではなく、私が東京に住んでからでした。
それ以来20年ほどは親しくさせてもらっています。私たち夫婦の結婚式では二次会の受付も引き受けていただきました。
当時、山下さんが住んでいたのは、私たち夫婦の家から車で20分ほど離れた賃貸マンションに住んでおられました。近くだったこともあって山下さんに裏の家に住んでもらえないか、と頼んでみたのです。

空き家であるから問題が生じる。それならば、人に住んでもらえばよい。人の気配がすればその家には活気が生じます。そして悪い輩を引き寄せなくなります。その結果、家の敷地全体が私たち家族にとって安全な場所になる。
さらに、山下さんに住んでもらっている間に荷物の片付けを少しずつ進められれば一石二鳥です。
もちろん山下さんのお手間を考慮し、家賃は破格の値段に設定しました。月二万円で町田の駅近一軒家なら、山下さんにとっても悪くない話のはず。つまりこの賃貸契約はどちらにもメリットのあるWin-Winになるに違いない。そう考えて山下さんに話を持っていきました。

この契約は不動産業者を介さずに締結しました。それどころか、契約内容の文言も一から私が練り上げました。おそらくその条文は法的には穴だらけだったはず。そりゃそうです。私は法律の専門家じゃありませんから。
この契約は、契約書の体裁はとったとはいえ、友人の間で交わされる信義に基づいた紳士協定に近かったかもしれません。破ろうと思えば、ほごにさえできたはず。それにもかかわらず最後まで契約に従ってくださった山下さんには感謝です。おかげで泥棒に襲われたのは本連載の三十四回に書いた時の一度だけで済みました。また、引っ越しまでの間に致命的な嫌がらせを受けることもありませんでした。

この時、契約の文章を自分で作ったことは後々の財産になりました。なぜなら、いずれ来る地主との交渉で、契約をめぐって一悶着が起こることは確実だったからです。
そればかりか、“起業”してからもこの時の経験は糧になりました
弊社では基本契約や機密保持契約をひと月に一度は交わしています。その際、契約内容は必ず熟読します。法的文書を読むセンスは、自分で契約書を一から作ったことによって身に付きました

プロの師匠にご助言をいただけた幸運


同じころ、私はもう一人の方とコンタクトを取り始めました。その方の名はHさんといいます。
本連載の第十九回で社会と接点を持とうとした私がいくつかのオフライン会に出ていたことは書きました。Hさんとはその中で知り合いました。
Hさんは私の結婚式の二次会にも来てくださり、乾杯の発声も引き受けてくださいました。
私が勝手にわが酒飲みの、そして人生の師匠としているHさんは、補償コンサルタントとして早いうちから独立しておられました。補償コンサルタントとはHさん曰く「国が定めた基準に基づいて、建物などの立ち退きに必要な移転の費用を算定する仕事」です。
つまり、わが家のような土地の一部が都市計画の一部に引っかかるようなケースの専門家です。もちろん、わが家のような借地権が絡んだケースも豊富に手がけていらっしゃったことでしょう。これぞまさにご縁のありがたみです

私はこのHさんからたくさんの貴重なご助言をいただきました。
私が関西の実家に帰った折、うちの母を連れてHさんの構える大阪市内の事務所にお邪魔したこともあります。Hさんは私が住んでいた町田の家にまでわざわざ足を運び、家の状況を確認することまでしてくださいました。

前回の連載で私が採るべき七つの案について列挙しました。私は、地主との交渉にあたって、それらの案の中から徐々に方向性を定めていきました。その際にHさんからいただいたご助言がどれだけ役に立ったか。
なお、Hさんは私たち夫婦と町田市や地主との契約には絡んでいません。そもそも大阪にお住まいですし。
その立場でありながら、いろいろとご尽力くださったことに感謝の念は尽きません
人生や酒の師匠であり、私が苦しめられていた家の処分にあたっての恩人だと今も今後も思っています。
Hさんは私が関西に帰省する度、時間を見つけてお会いする方の一人です。コロナがまん延し始めてからはお会いできていませんが、また関西に返ったらお会いしたいと思っています。

私はこうした行動をおそらく2002年の夏過ぎに始めていた記憶があります。2002年の夏。その時、わが国ではとあるイベントが開かれていました。日本のみならず世界を沸かせたイベント。
なんだかわかりますか? そう、日韓共催サッカーワールドカップです。
当時、私はスカパーのカスタマーセンターに勤めていました。そしてスカパーのカスタマセンターはワールドカップ景気に沸いていました。全試合をスカパー加入者であれば無料放映したためです。加入申し込みの殺到で猛烈に忙しい状態が続いたのを覚えています。
そのワールドカップが終わり、一息つけたことでようやく家の処分に着手できたのでしょう。

スカパーカスタマーセンターの仕事に一つの区切りがつき、ようやく家の処分に向けて本腰を入れ始める。それは私にとって一つの転換点でした。
その話はまた次回で。ゆるく永くお願いします。


アクアビット航海記 vol.38〜航海記 その23


あらためまして、合同会社アクアビットの長井です。
弊社の起業までの航海記を書いていきます。以下の文は2018/3/22にアップした当時の文章が喪われたので、一部を修正しています。
今回から、家の処分について語ってみます。この経験を通して私をとても強くしてくれた家のことを。作:長井、監修:妻でお送りします。

高額な地代以外にも問題が


家をどうするのか。それが私と妻に突き付けられた現実でした。
その現実は、他人に肩代わりしてもらうものでもなければ、晴れ間を待ってしのぐものでもありません。それなのに、私も妻も何をどう進めればよいのかわかっていませんでした。

前回の連載でこのように書きました。「家を処分した大きな理由は、四年後に地代が支払えなくなるため」と。ところが、私たちが家を処分した理由は地代だけではありませんでした。
地代さえ支払っていれば、家に住み続けられるかもしれない。そんな甘い期待を打ち砕くには、私たち夫婦に突き付けられた現実はあまりにも苦しかった

前回の連載で、私たちが住んでいた家の問題点を列挙しました。しかし、その中で書かなかったことはまだあります。
一つは、わが家に対する風当たりの強さです。
わが家の敷地が市の都市計画で拡張される道路予定地に含まれていたことは書きました。その道路の沿道には拡張予定であることを示すための柵がずらりと並んでいました。そしてその柵は、わが家の庭の手前で止まっていました。
つまり、何も知らない人が見ると、まるでわが家が道路拡張を邪魔する元凶に見えるのです。そのためわが家は、世間からの風当たりに耐えねばなりませんでした。庭に嫌がらせのゴミを放り込まれ、罵声を浴びることさえありました。

もう一つは、平成七年に妻の祖父母が亡くなった後、妻の母が診療室部分を改築しようとしたことです。
診療室を一新するにあたり、妻の母は業者に依頼して既存の診療室の内装をいったん取り払ってもらっていました。ところが、妻の母は内装を取り払ってもらった時点で病に倒れ、そのまま亡くなってしまいました。そのため、診療室は見るも無残な状態で遺されたのです。打ちっぱなしのコンクリート、地がむき出しになった床。ほこりっぽい室内には、歯科器具が乱雑に置かれ、数台の歯科ユニットが無言でたたずんでいました。私が初めてこの家の中に入った時、かつて米田歯科として栄えていた診療室はただの廃虚になっていました。
本来ならば、妻の母がこの部屋を一新し、診療室として新たな命を与えるはずだったのです。ところが、妻の母が平成九年に亡くなったことで、この場所がかつての栄華を取り戻す可能性は断たれました。よどんでほこりが積もったこの場所は、かつての栄華を知らない私にとって死んだも同然でした。
二度と生き返ることのない部屋。その部屋を生き返らせることができるのは、かつての生き生きとした姿を知っている妻や妻の父でした。が、妻の父が徒歩数分の場所で歯科診療室を開き、そこで妻と妻の父が診療を行っている以上、死んだ診療室を新たに生まれ変わらせる理由はありません。

地代を払う、払わないを議論する以前に、この家はすでに息の根を止められていたのです。
そして、たとえ地代を払い続けたとしても、家が拡張予定の道路の一部である事実は動きません。

対応案を基に弁護士の先生に相談


その現実が変わらない以上、私と妻はそれを踏まえた対応を考えなければなりませんでした。
この時、私と妻が取りうる選択肢は何だったのでしょう。今の私の立場から挙げてみました。

1案:毎年275万の地代を妻に遺された遺産から四年間地主に払い続け、尽きたらその時に考える。
2案:毎年275万の地代を賄えるだけの額を稼ぎ続け、ずっと地主に払い続ける。
3案:地代契約を見直すための交渉に持ち込み、現実的な地代に変えてもらった上で地代を支払い続ける。
4案:土地を地主から買い取り、土地も含めて所有する。その後で町田市との交渉に入る。
5案:地主と協力して町田市との交渉に臨み、先に拡張道路分を町田市に売却する。残りの140坪はそこから地主との再交渉に臨む。
6案:道路拡張分の売却と同時に、140坪分の借地権を地主に売却する。
7案:借地権を第三者に売却し、その売却益で新たに家を得る。

私がまずやろうとしたこと。それは、弁護士の先生に相談することでした。
妻と一緒に麹町に行き、弁護士の先生に相談しました。その先生を紹介してくださったのが誰だったのか、どういうつてだったのか、今となっては先生のお名前も含めて全く覚えていません。ですが、家を処分して十年ほど経過した後、私が常駐した現場のすぐ近くの景色と、このとき先生の事務所の光景がフラッシュバックしたことは覚えています。
その時に相談したのは、今の地主との借地権契約は法的に有効なのか、そして有効だとすればこの借地権契約を元にどう話を進ればよいか、だったと思います。
ところが、先生に相談したところで、私と妻の目論見通りに行くはずはありません。
借地権契約は毎年の支払い実績がある以上は有効。そして借地権契約の原本がなく、現状の契約に至ったいきさつが分からない。そうである以上、弁護士としても再交渉の手がかりをつかむのは難しいという回答でした。

この先生さんにお会いしたのは、結婚して一、二年目の頃だったように思います。
私たち夫婦はこの後も数年にわたり、多くの士業の方にお会いしました。ところが、その皆さんの見解は一様に同じでした。

私も妻も、それまでの人生で士業の方とのご縁はなく過ごしてきました。そのため、私も妻も士業の先生とどう付き合えばよいかについての知識がありません。どの弁護士に相談すればよいのかも分からない。上に挙げた七つの案が正しいのかも分からない。そもそも、上に挙げた七つの案を相談する先として弁護士がふさわしいのかすらも分かりません。まさに五里霧中。

“起業”した今はこう言えます。やるべき作業、向かうべきゴールが見えている作業はまだ楽だと。
何を行えばよいか、どこに進めばよいかが分からない仕事ほど苦しいものはないと。

対応案のどれもが暗雲含み


ここで上に挙げた七つの案について、今の私からツッコミを入れてみましょう。
1案:毎年275万の地代を妻に遺された遺産から四年間地主に払い続け、尽きたらその時に考える。
↑ありえない。と、切り捨てたいところです。が、私と結婚した時点で妻と妻の父はずるずるとなし崩しで地代を払っていました。
2案:毎年275万の地代を賄えるだけの額を稼ぎ続け、ずっと地主に払い続ける。
↑結婚当初の思惑どおり夫婦で働けていたらあるいは可能だったかもしれない案。でも妻が子育てに入ってしまい、当時の私にはそれだけの実力がありませんでした。
3案:地代契約を見直すための交渉に持ち込み、現実的な地代に変えてもらった上で地代を支払い続ける。
↑契約の根拠が見当たらず、それでいて支払い実績がある以上、難しいという弁護士の先生の見解からもムリ目な案です。
4案:土地を地主から買い取り、土地も含めて所有する。その後で町田市との交渉に入る。
↑180坪の土地代を支払うだけの資金がない以上、当時は机上の空論でした。ですが本来は一番理想の案でしょう。なお、今の私の目標は、この案を実現させることにあります。この土地を買い戻せるだけの資力を得ること
5案:地主と協力して町田市との交渉に臨み、先に拡張道路分を町田市に売却する。残りの140坪はそこから地主との再交渉に臨む。
↑一番堅実に見えますが、その分、難儀な案です。こちらに一切の思惑を読ませまいとする地主と私の間には、毎回の交渉の度に無言の火花が散っていました。
6案:道路拡張分の売却と同時に、140坪分の借地権を地主に売却する。
↑表面だけをいえば、最終的にこの案に落ち着きました。ですが、当時はこの案が一番難儀に思えました。この案で落とし込むのは難しいだろうというのが、当時の私の肚づもりだったように記憶しています。
7案:借地権を第三者に売却し、その売却益で新たに家を得る。
↑この案は魅力的でした。実際、私たち夫婦には第三者の心当たりがありました。ところが、この案はこの後の連載で書きますが、頓挫しました。

ここ数回の連載で書いた通り、私と妻の結婚生活には最初からさまざまなトラブルがついて回りました。
妻が子を産めないかもと告げられ、妊娠してからも強盗に襲われて切迫流産の危機に見舞われました。妻は大学病院を静養のため休み、私は正社員に登用されました。そして、長女が生まれてからは子育てに忙しい日々が始まりました。
結局、娘が生まれてから二年ほどは、家の現状を把握することで精一杯でした。
私は毎年末に地主のところに訪れて、地代を手渡し、領収書を受け取り、雑談に過ごしていました。決して内心の苦境を表さず、ポーカーフェースを保ちながら。

ところが、私もただ無策で過ごしていたのではありません。
この頃から次の一手を探り始めます。この時、うちら夫婦を助けてくれたお二人の方がいます。
次回の連載でご紹介したいと思います。ゆるく永くお願いします。


アクアビット航海記 vol.37〜航海記 その22


あらためまして、合同会社アクアビットの長井です。
弊社の起業までの航海記を書いていきます。以下の文は2018/3/15にアップした当時の文章が喪われたので、一部を修正しています。
今回から、家の処分について語ってみます。この経験を通して私をとても強くしてくれた家のことを。作:長井、監修:妻でお送りします。

巨大な家の重み


本連載の中で何度か、思わせぶりに触れてきた家のこと。ようやく家のことを語り始めたいと思います。

この家については連載第27回でも触れました。
町田の中心部に位置する180坪の敷地と、そこに建つ二棟の家屋です。結婚前、私がこの家に住むことをとても嫌がったことは書いた通りです。
新婚生活を送るにあたり、二人でまっさらな状態から生活を築きたいと願った私の思いをくじいた家。結果、そこで私と妻は新婚生活をはじめました。妻の妊娠が発覚したばかりのころ、強盗に襲われたのもこの家です。

この家は今、影も形もありません。本稿を書いている今、180坪の土地はコンビニエンスストアと公道の一部に姿を変えています。

なぜ住み続けられなかったのか。
180坪の土地ゆえ、固定資産税がかかりすぎた?いえいえ。
相続税が払えなかった?いえいえ。
家が老朽化して住めなくなった?いえいえ。

答えは地代。地代が払えなかったのです。つまりこの家は借地でした。
妻の曽祖父母から祖父母、両親に至るまで四代が住み、歯医者を営んでいた家。それなのに所有していたのはウワモノだけ。家屋は所有していたものの、土地は地主のもの。そして毎年、地主に地代を払っていました。
その額、年額で275万円。普通のサラリーマンの給料では到底払えない額です。

契約を見直すことはできなかったのか?
その地代の根拠はどこにあるのか?
私が住むまで誰も何も手を打たなかったのか?
本稿を読まれた方の脳裏に疑問が湧く様子が思い浮かびます。

危機的な家の状況


まず、契約。
借地権契約は昭和42年に締結されたわら半紙にガリ版刷りの条文のみ。私の手元に今もありますが、信じられないことに他の文書は何も残されていませんでした。
その契約書とすら呼ぶのも躊躇われる文書には、「土地賃貸借基本取極め事項」とタイトルが記されているのみ。覚え書きにすらなりません。なぜならそこには印鑑すらも押されていないのですから。
書面の冒頭にはその場にいた当事者の名前は書かれています。ですが、契約の当事者としてはどこにも定義がありません。たとえば甲乙のような。そのため、法的な書類としてはあまりにも不備が多く、この文書を基に権利を主張するのが相当に困難であることは、法律に疎い私でも分かりました。
登記を調べたところ、昭和23年に借地権が登記された旨は記されていました。ですが、その時に取り交わされたはずの借地権契約の書類はどこにも残っていません。

次に、275万の納付。これは銀行振込ではなく、手で持参する決まりでした。しかも、その場で切られる領収書の額面は250万。残りの25万はどこに消えたのでしょう。わざわざ銀行振込ではなく現金をじかに持参させる意図はどこにあるのでしょう。
不審に思った私が過去の情報を追うと、昭和50年の時点で支払っていた地代は年額28万。28万がいつの間にか275万に変わっており、そしてその根拠は妻も妻の親も誰も知らない。

そんな契約をまかり通させている地主のI氏。これがまた、手ごわい。
後年、家探しの途中でたくさんの不動産業者の方とお会いました。彼らは皆、I氏のことを知っていました。やり手の手ごわい地主として。町田だけでなく、横浜方面にもその名は鳴り響いていたようです。この方を知らない町田近辺の不動産屋はもぐり、とすらいわれたことがあります。

連載第27回で義父がこの180坪の家から歩いて数分の場所に家と歯科診療所を建てたと書きました。なぜ同居せず、わざわざ徒歩数分のところに家を建てたのか。それは明らかに家の処分から逃れるためだったはずです。
ここで義父を非難するつもりは毛頭ありません。むしろ私はこの問題では義父に同情すらしていました。
妻から聞いたところでは、義父もこの家と土地の不透明すぎる契約を何とか見直そうと義父母に働きかけていたのだとか。ところが結局、ムコにしか過ぎない義父にはどうしようもなく、ついにはサジを投げたのでしょう。そしてその近くに家を建て、診療所も設けた。こういうことだったのだと思います。
そもそも私の義父、つまり妻の父からして、この土地の契約にはあまり携わっていなかったようです。

ここで少しだけ、この家の歴史をお話しします。
まず、妻の曽祖父母のY夫妻が借地権をI氏と結びます(昭和23年。借地権契約書は行方不明)。
その娘、つまり妻の祖母はひとり娘。そこに婿養子に入った妻の祖父との間に生まれたのが妻の母。
妻の曽祖父母のY夫妻と、妻の祖父母のY夫妻。妻の母と義父S氏が結婚するにあたっては、婿養子に入ってY夫妻にはなりませんでした。ですが義父は目白の実家を出て、町田に来ました。ということは、ほとんど入り婿に近い状態でしょう。
名字は義父のS氏を名乗っていたのですが、そうするとY家が絶えてしまいます。そのため、子供の一人を養子に出し、Y家を継がせる約束があったようです。その子供こそが私の妻。
実際、妻は昭和62年に養子縁組でSからYへと改姓しました。

この家はそのような複雑な歴史を抱えていました。
あるいは、私と妻がもっと以前に出会っていれば、私も長井を名のることは許されなかったかもしれません。そしてYの名字を名乗っていたかもしれません。入り婿として妻の名を名乗る。つまりマス夫さんのようなものです(苗字はフグ田なので違うのですが)。

しかし、私と妻が知り合う数年前に、妻の祖父母(平成7年)と母(平成9年)が相次いで世を去りました。
そして慌ただしい日々の中で、家と土地の契約のいきさつも伝承されずにどこかに消えたのでしょう。そして義父も、誰もいない空き家となった二軒の家の処分どころではなくなったと思われます。
誰も住んでいないのに、年間275万も払い続けなければならない家。妻の家にとっては巨大な債務でしかない180坪の土地と家。その地代は義父が支払っていたのではなく、私の妻に祖母が残してくれた遺産を取り崩して支払っていました。
私が妻と結婚した時点で、妻が祖母から受け継いでいた遺産は一千万円超が残っていました。その残額から逆算して、地代を支払えるのは残り四年。わりと危うい状態。
そんなところに、妻の結婚相手として名乗りを挙げたのが何も知らない私でした。
ものすごく意地悪に考えれば、私は家の処分担当として見込まれたわけです。私が結婚を許されたのも、家の処分をコミとしてだったのかもしれません。
義父がサジを投げ、どうしようもなくなった二軒の家と土地をなんとかしてくれるムコとして。良い方に考えれば、義父の目には私が家の処分を成し遂げられる男と映ったのかもしれませんが

実際、その後の3年半、家を売却して立ち退くまでの一連の交渉にあたっては、私がほぼ一人で担当しました。義父からも義弟からも何の助けも得られませんでした。
妻も、私が初めて訪れた地代の納付の時だけ、私を紹介するために同行してくれました。ですが、妻は最後の契約締結の場に同席してくれた以外は、地主I氏との交渉は私に任せきりでした。
毎年、私が地代を納付し、交渉にも携わっていました。借地権にも所有権にも私の名は登記されておらず、契約の当事者でもないのに。
その交渉の席では、さまざまなことがありました。そのいきさつはこの後の連載でおいおい触れていこうと思います。

交渉に乗り出す私


私が相手にしなければならなかったのは、地主だけではありません。町田市当局との交渉も必要でした。
先に、180坪の土地は今、公道の一部になっていると書きました。どういうことかというと、土地の一部が町田市の都市計画に組み込まれ、拡張される道路の一部に引っかかっていたのです。
そして、その都市計画は、戦後からかれこれ、数十年にわたって施行されずに滞っていました。
町田市役所の立場からは、何十年も進まない都市計画は怠慢でしかありません。速やかに執行せねば、税金泥棒と市民から非難を受けます。だから担当者も必死です。

私たち夫婦にとっては、都市計画の実施にあたっては公道に土地を供出するわけです。だから、市の公金から補償額が支出されます。つまり市からお金をもらえるのです。
公道として供出する土地の広さは40坪。地価評価額にして約四千万円。その四千万円は土地の所有権者と借地権者で任意の割合で案分します。この任意の割合とは、市が定めるのではなく借地権者と所有権者の話し合いによって決まります。
つまり、私たち夫婦と地主I氏の間で、四千万円の金を巡って駆け引きが発生するのです。
さらにその上に、契約の状態があいまいな残り140坪の土地の借地権とウワモノの家屋所有権がからむからややこしい。
市役所も必死です。そして、地主I氏も必死です。それ以上に何も知らないのに巻き込まれた私は無我夢中です。

私は当事者でもなければ、契約の上でなんの義務もありません。にもかかわらず、妻と結婚してその家に住んだがために、その駆け引きの中心に巻き込まれました。
仮に結婚の当初から夫婦で心機一転し、違う家に住んでいたとしたら、私には家の処分の義務は発生しなかったのではないかと思います。たとえ、妻の持ち物を処分するため、私もそれなりの苦労はしただろうとはいえ。

結局、私は若干20代の半ばにして重い責任を背負う羽目に陥りました。

連載第34回で妻が妊娠するまでのいきさつと、妊娠中のトラブル、そして娘の誕生を書きました。その日々の中、私は正社員として身を固められました。
ところが娘が生まれた私の両肩には家をどう処分するのか、という問題が重く重くのしかかっていたのです。

次回も引き続き、家のことを書いてみます。ゆるく永くお願いします。