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長崎原爆記 被爆医師の証言


夏真っ盛りの時期に戦争や昭和について書かれた本を読む。それが私の恒例行事だ。今まで、さまざまな戦争や歴史に関する本を読んできた。被爆体験も含めて。戦争の悲惨さを反省するのに、被爆体験は欠かせない。何人もの体験が編まれ、そして出版されてきた。それらには被爆のさまざまな実相が告発されている。私は、まだそのうちのほとんどを読んでいない。

被爆体験とは、その瞬間の生々しい記憶を言葉に乗せる作業だ。酸鼻をきわめる街の地獄をどうやって言葉として絞り出すか。被爆者にとってつらい作業だと思う。だが、実際の映像が残っていない以上、後世の私たちは被爆体験から悲惨さを感じ取り、肝に刻むしかない。特に、戦争とは何たるかを知らない私たち戦後の世代にとっては、被爆された方々が身を削るようにして文章で残してくださった被爆の悲惨さを真摯に受け止める必要がある。ビジュアルの資料に慣れてしまった私たちは、文章から被爆の悲惨さを読み解かなければならない。熱風や放射線が人間の尊厳をどのように奪ったか。人が一瞬で変わり果てるにはどこまでの力が必要なのか。

著者は長崎で被爆し、医師として救護活動を行った。著者と同じように長崎の原爆で被爆し、救護活動に奔走した人物としては永井隆博士が有名だ。永井隆博士は有名であり、さらにクリスチャンであるが故に、発言も一般的な被爆者の感情からは超越し、それが逆に誤解を招いているきらいがある。さらに、クリスチャンとして正しくあらねばならないとのくびきが、永井博士の言葉から生々しい人間の感情を締め出したことも考慮せねばなるまい。

それに比べ、著者は被爆者であり医師でもあるが、クリスチャンではない。仏教徒であり、殉じる使命はない。本書での著者の書きっぷりからは、人間的で生々しい思いが見え隠れする。それが本書に被爆のリアルな現場の様子が感じられる理由だろう。そもそも、人類が体験しうる経験を超越した被爆の現実を前にして、聖人であり続けられる人など、そうそういない。おおかたの人々は、著者のように人間の限界に苦しみながら対応するに違いない。不条理な運命の中、精一杯のことをし、全てが日常から外れた現実に苛立ち、悪態もつく。それが実際のところだ。

本書を読んでいると、何も情報がない中で、限られた人員と乏しい物資を総動員し、医療活動に当たった著者の苦労が読み取れる。著者は、被爆者でありながら、一瞬で筆舌に尽くしがたい苦しみに置かれた人々を救う役目を背負わされた。その苦労は並大抵ではなく、むしろ愚痴の一つも言わない方がおかしい。著者が本書の中で本音を吐露すればするほど、本書の信ぴょう性は増す。いくら救いを求める患者が列をなしていようとも、三日三晩、不眠不休で診療し続けるには無理があるのだ。

長崎に玉音放送が流れようとも、著者の浦上第一病院に患者の列は絶えない。それどころか医療の経験からも不思議な症状が著者を悩ませる。放射能が原因の原爆症だ。著者は秋月式治療法と称し、食塩ミネラルの摂取を励行する。玄米とみそ汁。これは著者の独自の考えらしく、著者はその正しさに信念を持っていたようだ。永井博士も他の博士も、他の療法を考え、広めた。だが、著者は食塩ミネラル療法を愚直に信じ、実践する。特筆すべきは、糖が大敵という考えだ。ナガサキの地獄から70数年たった今、糖質オフという言葉が脚光をあびている。その考えに立つと、著者の考えにも一理あるどころか、むしろ先進的であったのかもしれない。

また、本書にはもう一点、興味深い描写がある。それは九月二日から三日にかけての雨と、その後の枕崎台風が放射能を洗い流したという下りだ。雨上がりの翌日の気分の爽やかさを、著者は万感の思いで書いている。著者が被爆し、それ以降医療活動を続けた浦上といえば爆心地。原爆がまき散らした放射能が最も立ち込めていたことだろう。著者の筆致でも放射能にさらされる疲労が限界に来ていた、という。私たちがヒロシマ・ナガサキの歴史を学ぶとき、直後に街を襲った枕崎台風が、被爆地をさらに痛めつけたという印象を受けやすい。だが、著者はこの台風を神風、とまでいう。それもまた、惨事を体験した方だからこそ書ける事実なのかもしれない。

本書には永井博士が登場する。そこで著者は、永井博士の直弟子であったこと、永井博士とは人生観に埋められない部分があることを告白する。
「私の仏教的人生観、浄土真宗の人生観、親鸞の人生観は、どこか私を虚無的・否定的な人格に形づくっているようだった。
永井先生の外向的なカトリック的人類愛と、私の内向的な仏教的人生観は、あまり合わなかったのである。
私は、ただ結核医として、放射線医学を勉強した。むしろ、永井先生の詩情と人類愛、隣人愛を白眼視する傾向さえあった。」(185-186ページ)

ナガサキを語るとき、永井博士の存在は欠かせない。そして、ナガサキを語る時、キリスト教が深く根付いた歴史の事情も忘れてはならない。それらが永井博士に対する評価を複雑なものにしていることはたしかだ。果たして原爆はクリスチャンにとって神の試練だったのか。他の宗徒にとっては断じて否、のはず。宗教を介した考え方の違いに限らず、被爆者の間でも立場が違うと誤解や諍いが生ずる。その内幕は、被爆体験の数々や、「はだしのゲン」でも描かれてきた。本書にもそうした被害者の間に生じた軋轢が描かれている。それが、本書に被爆体験だけでない複雑なアヤを与えている。

昭和25年当時の推計でも、死者と重軽症者を合わせて15万人弱もの人が被爆したナガサキ。それだけの被爆者がいれば、体験を通して得た思いや考えも人それぞれのはず。人々の考え方や信仰の差をあげつらうより、一瞬の間にそれだけ多くの人々に対して惨劇を強いた原爆の、人道に外れた本質を問い続けなければならない。本書を読むことで、私のその思いはさらに強まった。

‘2018/08/17-2018/08/17


広島 昭和二十年


2016年も師走に入った。師走とは一年を総括する時期だ。

今年一年、日本国内ではさまざまなニュースが報じられた。人によって印象に残ったニュースはそれぞれだろう。私がもっとも印象を受けたのは、オバマ大統領が広島の原爆記念碑に訪れ、献花したニュースだ。

十月になり、家族で長崎を旅行した。その際に原爆資料館にも訪れ、オバマ大統領が手づから折った千羽鶴も目にした。原爆を投下した当事国がようやく原爆の外道な本質に向き合おうとしたことに感慨も深い。

長崎旅行から帰った翌週、私は仕事で淡路島を訪れた。私の仕事とは淡路島の某大学で催されている学園祭で実証試験を行うこと。合間に少し学園祭を見学する時間もあり、学生や地元のコミュニティによる展示の数々を見た。その中に何百冊もの本を無料で配布するブースが目についた。本書は、そこに並んでいた一冊だ。

運命の巡り合わせのような出会い。2016年も暮れを迎えつつあるわけだが、本書を2016年のうちに読めて良かったと思う。

本書は昭和二十年の広島を描いた日記だ。本書が特筆すべきなのは、ここに書かれた日記が昭和二十年に書かれたということだ。原爆投下のあとに当時を思い出して書かれた日記ではない。しかも著者は当時、中国新聞社の記者の職にあった。記者の目からみた昭和二十年の日記であることが、本書の価値を高めている。ここには投下前の広島が克明に描かれている。著者の過ごした等身大の日々。市民として、家庭人として、記者としての思いや日常の由なし事。自分たちの未来に何が起こるか知らぬ人々の平穏な日常が。

何も知らぬまま、市民は米英を敵とした戦争の日常生活への影響を憂い、大本営の発表を疑う。戦局がどれほど危機的な状況かも知らない。ビアホールに集い、食料品を買い出しに田舎へいき、配給切符を持ちながらも闇の相場を元に食糧を手に入れる。そして、動ける人は田舎へと疎開する。また、海辺に走る列車の海側の窓が閉ざされていることに閉塞感を感じ、灯火管制の不便さにやりきれなさを覚える。戦局が不利であることはうすうす気づきながら、軍が開発しているという、一発で戦局が挽回できるはずの爆弾が敵戦艦を吹き飛ばすことを期待する。

著者は東京に出張に向かい、中国地方の各県知事を広島に集めた会合に出席し、行政単位の再編についての会合にも出席する。記者としての職務に忠実に励む著者の日々には何のてらいもはぐらかしもない。本書の記述は市民の生活が細かく観察されており貴重な資料だと思う。

興味深いのは、原爆製造計画について市民の中に流れているの風評と、なぜ広島だけが空襲に遭わないのかを市民があれこれ取りざたしていることの記述だ。アメリカに広島からの移民が多いからとか、地形の問題であるとか。それらは原爆が落ちる前の市民の偽らざる疑問であり、希望的観測なのだ。そういったエピソードが本書をリアルにしている。

仕事、家庭、地区、親子、夫婦、同僚、後輩、先輩、同窓、同業。さまざまな関係が、日常のなかで営みを行う。彼らは決して未来を知ることはない。著者もまた、原爆が日々の営みを一変させることを知らずに、広島市の中心部から海田の方へ疎開する。身重の妻とともに。

人の日記を読むことはそうそうない。そもそも大抵の日記は個人的な内容なので、興味すら持たないものだ。だが、本書は先行きが気になる。なぜなら日記の果てに何が起こるのか、少なくとも、読者は8/6の出来事を知識として知っている。それでいて、この日記に登場する人々の身に何が起こるのかは知らない。

人類史上でも未曽有の残虐な兵器、原爆。原爆の悪は、人々の生を奪ったことだけにあるのではない。一番残虐なこととは、その瞬間に生死を選別したことだ。屋外にいたもの、屋内にいたもの、屋外でもたまたま爆心に背を向けていたもの、勤労奉仕で建物の影にいたもの、上半身裸で作業していたもの、見張り塔で空襲に備えていたもの。そして、著者のように、投下三十分前まで広島市中心部で夜番を勤めていたが、郊外に疎開した家へ帰ったもの。

原爆が炸裂した瞬間の位置と行動が、その瞬間広島にいた人々の生死を分けた。その瞬間の行動は、どういう前世の綾で定められたのか。熱線が体を焦がすか否かは誰が決めたのか。その一瞬の差が、冷酷に生と死を分けた。いっそのこと、その一瞬の行動を前世の宿縁や、今世での因果のせいにできればまだいい。だが、そんな仮定自体が被爆者の方にとっては不遜にあたる。一瞬の差で生き残った被爆者にとってみれば、なぜ自分は生き残れたのか、一生かけて考える宿命を背負うことになる。思うに生き残れた被爆者の方とは、放射能障害に加え、生き残った事に罪悪感を感じるサバイバー症候群にまで罹患してしまった方々なのだと思う。あまりにも不条理な生死の境目から、自分はなぜ生き残ったのか。刹那の運命の分岐点。原爆が通常の空襲と違う人の道に外れた兵器である理由は、こういうところにもあると思う。

炸裂の瞬間を郊外の自宅で迎えた著者は、無事だった妻や義姉に家を任せ、凄惨な市内へと駆けつける。記者の鍛えられた目に凄惨な光景を焼き付け、脳裏に叩き込み、日記に書き付けた。それが臨場感の迫り来る本書の記述として結実しているのだ。

私もずいぶんと被爆者による体験記は読んできたが、それらの多くは、戦後に体験を思い出して書かれたものだろう。しかし、記者が己の五感で感じ、その記憶の鮮やかなうちに文にしたためた本書は、あの当日の様子を克明に鮮やかに描いている。それは当日に撮影された写真に劣らず貴重な記録になっている。おそらく本書は、被曝当日の目撃記録として永久に残るだろう。

本書は昭和二十年についての日記だから、終戦後の広島も描かれる。その記述のほとんどは、街の復興の様子や戦後日本を支配したGHQによる民主化政策の動きに費やされる。なかでも印象的なのは、新聞人としての自分たちの戦中の振る舞いを激しく悔やむ記述が散見されることだ。それは戦争遂行に協力した当時の言論人のほとんどに共通した意識だったのだろう。そしておそらく、この意識が左に振り切れてしまったのが朝日新聞なのだろう。著者が戦中の新聞人を自省する本書の記述を読むとそのことがよくわかる。実際、著者の周りにも共産主義へ走るものがいたことが紹介されている。

著者はおそらく、バランスの取れた人物だったのだろう。左右どちらにも記述の振れ幅が少ない。むしろ、中国新聞の復刊に力を注ぎ、身重の妻を考えて家のことに重心を置く記述が目立つ。このバランス感覚も、本書の良さとして評価したい。

一方で著者の日記から次第に登場しなくなる人がいる。それは、被爆者たち、それも重症を負った人々のその後だ。もちろん、著者に悪気はない。だが本書が誠実な日記だけに、本書の記述から、重症者の人々がケロイドをはばかって病院や家に籠りがちになったことが推し量れる。戦後、後遺症で長く苦しめられる被爆者の未来すら、本書の日記から読み取ることができる。

なお、本書で著者は、あまり人を批判しない。批判された人物を挙げるとすれば、阿南陸軍大将だ。著者は本書の中で阿南陸相の自刃を責任逃れの卑怯なふるまいと二度にわたって指弾している。後世のわれわれは阿南陸軍大将の自刃の背景には責任逃れどころか、まれに見る高潔な誇りや責任感が伴っていたであろうことを知っている。でも、著者の感想は、戦争によって不自由を余儀なくされた銃後の、しかも原爆を落とされた人が戦争直後に抱く感想としてはきわめて正直な感想だといえる。

その怒りは、同時にアメリカにも向いている。それは正当なものだし、全ての被爆者が世を去ったあとも受け継がれていくべき怒りだ。だからこそ、オバマ大統領の広島訪問と慰霊碑への献花の意義は大きい。わたしが2016年度を代表するニュースとして重要視するゆえんでもある。

‘2016/11/28-2016/12/02