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人体。私たちは常に、自らの体がこうあるという身体感覚を持っている。この感覚が狂った場合、私たちが感じるのは気持ち悪さだ。それは自分の体が狂った場合だけではなく、他人の体でも当てはまる。他人の体が人体としてあるべき状態になっていないとき、私たちは本能的に気色悪さを覚える。例えば障害を抱えた方の体を見た時、残念ながら気持ち悪さを感じてしまう事だってある。これは本能の振る舞いとして認めなければならない。

だからホラー映画でハラワタがのたうち、血が飛び散る描写をみると私たちはおののいてしまう。そうした描写が私たちの心の闇をかき乱すからだ。ホラーに限らず、人体がグロテスクに変貌する描写は、ほとんどの人にとって、動揺の対象となる。もちろん、人によって動揺には強い弱いがあるだろう。だが、その動揺が表に出なかったとしても、居心地の悪さを感じることに変わりはない。

著者の名前を一気に有名にした『独白するユニバーサル横メルカトル』は、あらたな人体改造の可能性を描いた奇書である。身体感覚が歪む読後の気持ち悪さ。それは読者に新たな感情をもたらした。本書もまた、著者の身体への独特の感性が自在に表現される。その感性はもはやある種のすごみさえ発している。何しろ本書に登場するほとんどの人物がいびつな人体の持ち主なのだから。

オオバカナコは、人生の敗残者になりかけている三十歳。当座をやり過ごすための金を求め、闇求人サイトで三十万の運び屋の仕事に応募する。だがその仕事はヤバい筋にちょっかいを掛ける仕事。捕まったオオバカナコはその筋の者たちに拷問され、生きながら人が解体されて行くところを見せつけられる。ヤクザ者の手に墜ち、オークションにかけられる。そして誰も買い手が付かなかったため、人の絶えた山奥で生き埋めにされる。穴に埋められ、スコップで土を掛けられるオオバカナコ。彼女は自分の利用価値を認めてもらうため、やけっぱちで「料理ができる!」と絶叫する。その叫びがかろうじて裏社会に張り巡らされた求人条件にマッチし、あるレストランのウェートレスとして送り込まれる。

そこは殺し屋だけが訪れる会員制のレストラン”キャンティーン”。ウェートレスといっても、実態は買われた奴隷そのもの。店を仕切っているボンベロに逆らえばすぐに殺される。カナコの前任も、客の気まぐれで肉片に変えられた。カナコは欠員の出たウェートレスに送り込まれたのだ。もちろん使い捨て。

全てが不条理な状況。その中に放り込まれたカナコはしぶとくボンベロの弱みを握り、生き延びようとする。全てが悪夢のような冗談に満ちた不条理な店。しかし殺し屋たちやボンベロにとっては当たり前の日々。彼らはそこでしか居場所を見いだせないのだから。身体中に縫い目が走り、破れっぱなしの頬から口の中が見えるスキン。見た目はこどもなのにそれは全身整形の結果。中身は非情な殺し屋キッド。異常に甘いものしか食わない大男のジェロ。超絶美女なのに凄腕の毒を盛り、相手をほふる炎眉。妊婦の振りをして膨れた腹に解毒薬を隠す毒婦のミコト。そんな奇天烈な客しか来ない”キャンティーン”は、客も店主もぶっ飛んでいる。そして、ボンベロが振る舞う料理もまた神業に近い。居心地の良さと料理の質が高いため、客足が途切れないのだ。

そんな”キャンティーン”は組同士の抗争の場にもなるし、いさかいの場にもなる。ボンベロ自身、かつて凄腕の殺し屋として名をはせ、その筋に属する人々だけが来るだけに、なおさら血なまぐさい場となる。

カナコもいろいろな修羅場をくぐらされる。だが、しぶとく食らいつくカナコにボンベロの見方も少しずつ変化する。ボンベロとカナコの間の関係性が少しずつ変わって行く描写が読みどころだ。そして客とボンベロ、カナコとボンベロの間柄が、ボンベロの出す料理で表現されており、そこがまた絶妙だ。

全てが常軌を逸した店の中でカナコはどう生き延びていくのか。そのサバイバルだけでも読者にとって読み応えがある。異常で常識が通じない本書は、すこぶる上質のエンターテインメントに仕上がっている。人体改造や拷問の知識が惜しげもなく披露され、グロテスクで闇にまみれた感覚が刺激される。それを意識しながら、読者はページを読む手がとめられないはず。

人体。それはタブー。だが、それを超えた人間は強靭だ。戦争経験者が一目置かれるように。ダメ女として登場したカナコが心の強さを発揮していく本書は、著者の思いがにじみ出ている。それは、日常が心を強く持たなくても生きていけること、そして、修羅場こそが人を鍛えるということだ。つまり、本書は極上のハードボイルド小説なのだ。日本冒険小説協会大賞や大藪春彦賞を受賞したこともうなずける。面白い。

‘2017/07/26-2017/07/27


官能の夢―ドン・リゴベルトの手帖


本書は著者の「継母礼賛」の続編にあたる。不覚にも私がそのことを知ったのは本編を読み終えてから。訳者によるあと書き解説で知ることになった。本編でも読者承前を踏まえたような書き方がしてあり、私はそれを著者一流の自在に読者を迷わせる迷宮的な手法と早合点しながら読み終えていた。読み終えてから本書に前編があった事を知り、肩透かしを食らった思いだ。

著者の作品は見かける度に図書館で借りて読んでいる。とはいえ、図書館で巡り会えなければ古本屋での出逢いを待つしかない。大手書店のラテンアメリカ文学コーナーにはよく立ち寄るのだが、価格が高くなかなか手が出ない。そんな訳で、「継母礼賛」を未読のまま、先に本書を読み終えてしまった次第だ。

とはいえ、「継母礼賛」を読まずに本書を読んだからといって、本書を楽しめなかったわけではない。先に、読者承前を前提とした本編の記述を著者一流の手法と早合点したと書いた。私の場合は、本書の前段を知らぬままに本書を読んだことで、スリルと想像が増す効果があった。

本来、読み手にとって無限の解釈を許すのが優れた文学作品ともいえる。その伝で言えば、前段がなくても本編だけで読者に解釈を許す本書はまさに手本とも云える。仮に「継母礼賛」を読んだ後に本書を読んだとすれば、また別の感想を抱いたかも知れないが。

本書には、ドン・リゴベルトの手帖というサブタイトルがついている。リゴベルトとは、ルクレシアの夫である。前作「継母礼賛」で義理の息子である美少年フォンチートと過ちをおかしたのがルクレシアだ。本書では、前作の結末で引き離された(と思われる)ルクレシアとフォンチートとリゴベルトが、愛と官能を通じて再び交わる。

義理の母と犯した罪の意識をどこかに置いてきたようなフォンチートが、突然ルクレシアの元を訪れることから本書は始まる。天使と悪魔の両方の資質を備えたフォンチートの天真爛漫な振る舞いに、ルクレシアは翻弄される。しかしながらも、夫リゴベルトへの貞淑を貫く。この辺りは前作での駆け引きがどうだったか分からないのだが、想像するに駆け引きの結果過ちを犯したルクレシアが、一点して貞淑な自らを貫くといった対比が想像できる。是非前作を読んでみたいと思う。

本書の合間に挿入されるリゴベルトの妄想では、美しき妻ルクレシアは、様々な性の冒険を楽しむ。そのあたり、虚実がない交ぜとなった描写は著者の真骨頂といえる。前作において妻に裏切られた形となったリゴベルトは、倒錯的な感情に身を任せるまま、妻を背徳の極みに置き、それでいてなお美しい妻を崇拝し、手帖の中で性の冒険を続けさせる。

果たして、妻と夫、義理の息子は再び分かり会えるのだろうか。読者の興味は尽きない。そして読者は興味の赴くままに本書のめくるめく官能の世界の味わうことになる。加えて前作を読んでいない私にとっては、ルクレシアとフォンチートがどのような過ちを犯し、何故三人が離れ離れになったのかという興味が尽きず、著者のマジックに浸り続けたまま本書を読了出来た。

本書には様々な性の冒険が描かれている。しかし、決して下世話なポルノ紛いの内容ではない。むしろ、女性の神秘を解き明かすためには性は不可欠と考える著者の思想すら感じられる。

本書の随所には、ドン・リゴベルトの妄想だけでなく、衒学的な芸術論が挿入されている。例えばある箇所ではスポーツ礼賛の風潮を攻撃し、争いの結果に一喜一憂することの愚かさに苦言を呈する。別の場所では、ポルノ的なあらゆるものを人間の官能の可能性を貶める害あるものとして熾烈に攻撃する。

著者は本書で、官能とは肉体の運動や姿勢でなく、精神のあり方であることを語っている。例えドン・リゴベルトが妄想の中で妻を乱交やレズや不貞やフェティシズムやスワッピングに耽らせようとも、実際のルクレシアは、一時の過ちを悔いる貞淑な妻であり続ける。

仮にルクレシアがその様な不倫行為に身を堕としたら、本書はドン・リゴベルトの唾棄するポルノに堕ちてしまう。官能の神秘とはあくまでも精神世界の中で高められなければならない。それが著者の主張だ。本書においてはドン・リゴベルトの手帖の中での独白として、他の衒学的な芸術と同一のものとして官能が置かれる。つまり、官能の神秘を欲望に塗れさせてはならない、という著者の思想が垣間見えるのが本書だ。そういった著者の思想に依った形でのルクレシアとリゴベルトの間を通る官能と貞淑の綱引きが本書を文学作品としての高みに押し上げている。

本書のカバーにはエゴン・シーレの絵画が配されている。フォンチートが性的に魅せられているのは、エゴン・シーレの生き方そのものである。本書に登場するフォンチートは、その二面性をもってルクレシアを誘惑する。性的な締め付けが今とは格段に厳しいハプスブルグ王朝支配下のウィーン。その地その時代にあってなお、放埓な性と放縱な人生をしか生きられなかったエゴン・シーレの人生にルクレシアは官能の精神性を見る。そしてエゴン・シーレの化身ともいえるフォンチートに対するに貞淑という鎧をまとい、俗な過ちに溺れず精神的な官能の高みに居続けるルクレシア。官能というものを俗に落とさず精神的な高みに持ちあげ続ける緊張関係こそが、著者にとって重要であることは、ここでも明らかになっている。一時は過ちをおかしたとはいえ、ルクレシアはフォンチートが天性に持つ女たらしの魅力に耐え、再び夫ドン・リゴベルトとの愛に戻る。

その再会のシーンで、ドン・リゴベルトがみっともなく頼りない一面を晒す。しかし、本書に込めた著者の主張から推し量るに、官能を現し導く主体は男性ではなく、女性であるはず。ポルノ的=男性視点の快楽が貶められる本書では、ドン・リゴベルトの抱く妄想は妄想で終わらねばならない。それ故にドン・リゴベルトはヒーローであってはならない。ドン・リゴベルトの演じる醜態を、著者はそのような暗喩を込めて描いたのだと思う。そこに女性に媚びるフェミニズムを見るのはおそらく正しくない。フェミニズムとは男性視点の裏返しに過ぎない。真の官能とは、表層の観念的なところにあるのではなく、もっと根元的な精神の奥深くに横たわっている。著者が本書の中で主張したい思想を、私はそう受け取った。

もっとも、この感想は「継母礼賛」を読むと変わるかも知れない。「継母礼賛」という題からは、私が上に書いたような著者の意図が伺える。とはいえ、そこにはもう一段深い仕掛けが隠されているかもしれない。「継母礼賛」を読んでみないことには、私の本書から読み取った考えもまた、著者の仕掛けた周到な罠に陥り、穿った妄想でしかない可能性もある。

かつての私は、図書館にない本はすぐに取り寄せ依頼をしていた。今はなき西宮中央図書館で。私の考えが思い違いでないことを確かめるためにも、あの頃のように取り寄せをお願いし、なるべく早く読んでみようと思う。「継母礼賛」を。

‘2015/5/22-2015/5/30