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晩鐘


私が2015年に読んだ95冊の本。その中で著者の『血脈』を外す訳にはいかない。佐藤一族の放蕩の血を鎮めるために書かれたような『血脈』。佐藤一族の生き残りである著者にとって畢生の大作と呼んでいいのではないだろうか。佐藤一族を描いた大河小説として圧巻の読み応えだった。私が『血脈』を読もうと思ったのは、私の実家の甲子園が主要な舞台の一つになっているからだ。懐かしのわがふるさとを知りたいと思って読んだ『血脈』。ところが、読み始めると甲子園のことよりも佐藤一族に流れる闇の濃さに完全に魅入られてしまった。膨大なページ数の『血脈』を一気に読んでしまうくらいに。

『血脈』には膨大な人物が登場する。とくに主役と言えるのは、佐藤紅録、シナの夫妻。それにサトウハチロー、そして著者。それ以外にも、佐藤一族の人々や佐藤一族と血は繋がっていない登場人物が多数登場する。それにしても面白いのは、佐藤一族の血が流れていないにもかかわらず、佐藤一族と縁ができるとその放蕩の血に感化されてしまったかのように軌道から外れていく人物の多いこと。類は友を呼ぶとでもいえばよいか。そんな個性的な人物が多数登場するのが『血脈』の魅力の一つだ。

だが、かつて著者の夫であった二人は、他の人物たちに比べると『血脈』の中では控えめに描かれている。とくに一人目の夫については最低限にしか触れていない。そもそも実名の多い『血脈』の中では珍しく仮名になっている。私の推測だが、書いてくれるなという遺族の拒否があったのかもしれない。

不思議なのが、二人目の夫もあっさりと書かれていることだ。なぜ不思議かというと、二人目の夫についてはすでに著者が何度も小説やエッセイに登場させているからだ。なにせ、著者の直木賞受賞作『戦いすんで日が暮れて』からして、二番目の夫の会社倒産と、その負債を背負わされた著者の奮闘がテーマになっているというのだから。二人目の夫の事を何度も書いておいて、今さら『血脈』で遠慮することはないはずなのに。ちなみに私は『戦いすんで日が暮れて』は未読だ。

本書は、あらためて二番目の夫「田畑麦彦」と著者「佐藤愛子」をモデルとし、『血脈』で書き切れなかった鬱憤を晴らすかのように二人の関係が書かれている。

本書の二人はモデルがはっきりしているのに仮名だ。著者の名は本書では「藤田杉」、田畑氏の名は「畑中辰彦」となっている。『血脈』ではあれほどまで実名で身内の恥をさらしまくったのに、どうして本書では仮名なのだろう。私の推測では、本書で実名にしなかったのは、田畑氏でなくその周辺に理由がありそうだ。周辺とは、二人が出会った文芸サークル「文藝首都」(本書内では文芸キャピタル)の関係者に迷惑をかけないためではないか。

というのも「文藝首都」には名だたる作家が参加していたからだ。どくとるマンボウでお馴染みの北杜夫氏や、精神科医の傍ら幾多の著作を発表したなだいなだ氏、あと、官能小説家として稼ぎまくった川上宗薫氏など。

本書には同人仲間が多数登場する。文学への思い叶わず市民の生活に戻るもの。あくまでも筆で身をたてようとあがくもの。本書に出てくる人物の中で川上宗薫氏をモデルとした人物は見当がついたが、あとはさっぱりわからなかった。さらに、本書の各章はどれも「梅津玄へ藤田杉の手紙」となっているが、この梅津玄という人物も誰をモデルとした人物なのかよくわからない。文藝首都の主宰だった保高徳蔵氏のことなのだろうか。こちらのリンクによると、全ての章を手紙形式にしたのは、小説を必要以上に重くしないためらしいのだが。

文芸キャピタルの名だたる同人の中で資産家の息子として何不自由ない生活を送っていたのが畑中辰彦だ。彼は超然とした態度と生活に困らぬゆとりでサークル内の地位を築いていた。

文学仲間とつるむことに熱中する杉に苦言を呈した母にちゃぶ台を返しで啖呵を切り出て行くエピソード。そして、伊那の某所にある旅館にこもるエピソード。そこにふらりと訪れたのが畑中辰彦で、それをきっかけに結婚という流れ。それらは『血脈』にも書かれていた通りだ。『血脈』ではこの辺りのなれそめはあまり深く書かれていなかった。が、本書ではその内幕をより深く語っていく。

そして、畑中辰彦が徐々に壊れた本性を表わしてゆく過程は、『血脈』には書かれていない本書の真骨頂だ。生活力の無い田畑氏、いや畑中のもとから金が湯水のように流れ出てゆく様が本書には生々しい。本書の杉もモデルとなった著者と同じく文豪を父としている。だから、金にはどちらかといえば鷹揚だ。しかし鷹揚な杉も追いつけないほどの、畑中の人の良さが畑中本人だけでなく杉の人生をも蝕んでゆく様子。そこには当事者にしか書きえない迫真さがある。先に書いたとおり、私は著者の『戦い済んで日が暮れて』を読んでいない。そちらにはこういった田畑氏の行いがどこまで書かれていたのだろう。是非とも読んでみたいと思う。

そもそも、なぜ著者は何度も田畑氏を題材にするのか。474ページのあとがきで著者は語っている。
「今までに私は何度も何度もかつての夫であった男(この小説では畑中辰彦)を小説に書いてきました。「また同じことを・・・」と苦々しく思われるであろうことを承知の上でです。しかしそれは私にとっての必然で、くり返し同じようなことを書きながら、私の中にはその都度、違う根っ子がありました。ある時は容認(愛)であり歎きであり、ある時は愚痴、ある時は憤怒、そしてある時は面白がるという、変化がありました。それは私にしかわからない推移です。今思うと彼を語ることは、そのときどきの私の吐物のようなものだったと思います。」

実際その通りなのだろうな、と思う。それが著者の実感であり、だからこそ書かねばならないのだろう。続けて475ページで著者はこうも語っている。
「畑中辰彦というこの非現実的な不可解な男は、書いても書いても、いや、書けば書くほどわからない男なのでした。刀折れ矢尽きた思いの中で、漸く「わからなくてもいい」「不可能だ」という思いに到達しました。」

ここまで不可解な存在であり著者を振り回し続けた田畑氏に著者がこだわる理由も455ページに書かれている。
「心配するな、大丈夫。
 いつもそういった。どん底をどん底と思わなかった。彼の思うことは常に「可能性の追求」だったから。彼は「30パーセントの成功」というその可能性に賭けた。」
答えはこの前向きなエネルギーにあるのだろう。そこに著者は佐藤家の血につながるものを感じたのではないだろうか。

著者は『血脈』で描いたとおり、自らに流れる佐藤家の荒ぶる血を持て余しつつ、なぜ佐藤家に群がる人々は血脈を共有していないのに不可解きわまりないのか、という疑問を持ち続けていたのだろう。思うに著者にとっては小説を書く作業とは、その疑問を解き明かすために不可欠な営みだったのではないだろうか。そんな著者にとって、血のつながらない不可解の人間の代表がすなわち田畑麦彦氏であったに違いない。『血脈』を書き上げてもなお、容易に解き明かすことを許さない田畑氏の人生の不可解。本書でついに著者がたどり着いた結論が「わからなくてもいい」「不可能だ」というのも面白い。 人はしょせん人からの理解を拒む生き物なのだろうか。頭ではわかったつもりでも、実は人が人を理解することなど、どだい無理なのだ。

著者は90年を超える人生を生き、作家として佐藤家の血を飼いならすことに血道を上げてきた。それでもなお、人を理解しきれなかった。だからこそ、90を超えても作家としてやっていけるのかもしれない。もっとはやく人生を達観していれば、ここまで長きに渡って第一線で活躍できたのかどうか。2017年に著者が発表したベストセラー『九十歳。何がめでたい』も、著者のこの達観が書かせたのではないかと思う。これらのエッセイも、『血脈』『戦いすんで日が暮れて』そして本作を読んで初めて背景を含めて味わえるのではないかと思っている。

‘2016/12/24-2016/12/25


佐藤家の人びと―「血脈」と私


本書は本来なら血脈各巻の解説として巻末に附されるべきものだ。

しかし、上中下巻あわせて原稿用紙3400枚ともいう大作「血脈」。その解説には、語り尽くすべき内容が多すぎる。多彩な登場人物、無数のエピソード、何箇所もの舞台。一族の大河を描いた3400枚の中にはあまりにも多くの情報が込められている。

特に、血脈の登場人物には著者自身も含め、個性的な人物が多い。著者の筆があまりにも活き活きと登場人物を描くものだから、読者はついその人の顔をみたくなる。放蕩の限りを尽くすこの節という人物はどんな面構えなんだろう。狂恋に翻弄されシナを振り回す洽六の馬面とは、そして洽六をそうまでさせる女優シナの容姿とは。さらに、作者の子供時代のあどけなくも意志を感じさせる顔とは。本書には読者にとって興味の対象である登場人物達の写真が豊富に載せられている。

私は「血脈」上中下巻を読み通す間、いったい何度本書を繙いたか。十回や二十回どころではない。それこそ数えきれないくらいだ。弥六から洽六。シナの女学生時代や女優時代。洽六の一人目の妻ハツと、八郎、節、久の兄弟。夭折した長女喜美子。さらには早苗と愛子姉妹。八郎の息子たちに、八郎や愛子とは腹違いの真田与四男。八郎の師匠である福士幸次郎。個性的な人物の肖像がすぐに確認できる座右にあることで、血脈本編をめくる手にも一層熱がこもるというものだ。

また、本書には血脈登場人物の家系図も掲載されている。それによって読者は複雑な佐藤家の血脈関係を確認しながら本編を読み進めることができる。

また、本書にはいわゆる著者による謎解き的な解説文も豊富に掲載されている。私はそれらの文については、本編を読む間は一顧だにせず、本編読了後にまとめて読んだ。しかし、本書に収められた解説を読んでから再度本編を読み直すと、一層本編の理解も深まることは間違いない。著者自身による「血脈」や佐藤家の一族を語る冒頭から、著者と豊田氏、著者と長部氏、著者と大村氏による対談、さらには血脈の本編を補強するエピソードの数々。これほどの内容が載っているからこそ、本来は解説として下巻の巻末に附されるべき本書が独立した書籍として刊行されたのだろう。まさしく著者畢生の大作に相応しい扱いだともいえる。

本書を読んで、改めて「血脈」についてまとまった感想を述べてみたいと思う。

それは、特定の人物を小説のモデルにする、ということの是非についてだ。おそらくは「血脈」に出てくる内容のほとんどは限りなく事実に近いと思う。それは佐藤家の登場人物にとっては自分の悪行が暴かれ、読者にさらされることを意味する。しかも死後に。よくある評伝や伝記は、モデルの死後、生前のモデルを知らぬ人物によって書かれることが多い。よくある暴露本の類はモデルに近い人物によって書かれることが多いが、それは亡くなってすぐに書かれるため、生々しい内容になりがちだ。

「血脈」に登場する人物のほとんどは、なくなった後随分経ってからモデル化されている。存命だが、著者に色々と書かれた人物といえば、サトウハチロー記念館館長を務めているハチローの息子四郎ぐらいだろうか。あと、ハチローの孫にあたる佐藤家の嫡男恵も忘れてはならない。「血脈」は恵が著者に会いに来る場面で終わる。八百屋の引き売りになるという、佐藤家の血脈を引くに相応しい世俗的な栄華とは無縁の生き様を見せる一方で、荒ぶる血が鎮まったかのように細く落ち着く様子が本書の幕切れとして鮮やかな効果を与えている。つまり、恵は著者によって貶されるどころか佐藤家の血を鎮める役割として好意的に描かれている。

しかし、血脈を体現する主要人物はそうでもない。ワルとされる人物達は著者の人生にあまりにも深く関わっている。著者にとって愛憎半ばというより憎さも一入だったかもしれない。それは「血脈」や本書を読めば容易に感じられる。彼らは自らを憎む著者によってモデル化され、私生活が暴かれていく。自らの悪行を近しい娘であり妹であり姪である著者から書かれるということは、モデルとなった人物にとって何を意味するのか。私は結局のところ、それはどうでもよいことだと思う。彼らにとってみても、自分の人生がどう書かれようとどうでもよかったに違いない。やりたいようにやり切った人生は自分だけの物。死後に誰に何を書かれようとどうでもいい。そう思っていたのではないだろうか。少なくとも自分の行動が死後どのように書かれるか計算しながら生きた人物の人生など、他人から取り上げられることなどそうないだろう。彼らはそんな心配など一瞬たりとも考えずに人生を送ったに違いない。死後に何を書かれようとも気にしない。それは多分、評伝を書かれるような人物全てが思うことだと思う。墓に入ってしまえば何も反論できない。逆に生者たちが何を噂しようとも、死者には何の影響も与えまい。

でも、亡くなった方がつとに願うのは、自らの人生が嘘や捻じ曲げによる情報で汚されないことではないだろうか。どう思われようとも自分がやっていないことが事実としてまかり通ることは嫌だろうな、と思う。その人物を非難できるのはその人物と同じ時代を生きた人にだけ許されること。その人物の成した行為によって直接の影響を与えられた人物にしか非難する資格は与えられない。それは常々私がこうありたいと思う歴史への向き合い方だ。違う時代の人物によって書かれる評伝が学問として認められるのは、そこに取り上げられる対象の人物を非難するからではなく、歴史の正確性を期すためだからだ。一方で、同時代の著者によって書かれる暴露本が軽く見られるのは、生々しく利害がぶつかる内容であり、出来事から発生する波紋がまだ収まっておらず、確定していない事実を描くからだ。

では、「血脈」はどうなのだろうか。モデルとなった人物と同じ時代を過ごした著者によって書かれた「血脈」は、それが許される作品として考えてよいと思う。彼らの生きた人生をモデル化するのも非難するのも、彼らに近しい著者だから出来たこと。洽六もハチローも節も忠も五郎も、さらにはシナやカズ子やるり子や蘭子や早苗も、他人はともあれ愛子には書かれる資格があったのではないだろうか。そして、ここで言っておかねばならないのは、著者は決して彼らを憎しみだけで見ていたわけではなかったことだ。本書の36Pで書かれているが、著者が自伝「愛子」を上梓した際、室生犀星氏から手紙をもらったことが紹介されている。そこには「小説を書くことは、親を討ち、兄弟姉妹を討ち、友を討ち、己を討つことです」とあったという。この言葉がずぅーっと著者の中にあったとか。でも、著者は「血脈」を書く中で、彼らをただ討つだけではない高みに登っていったと思う。ユーモアもある愛すべき点もある人物として。それはたとえば、「佐藤家の人間はしょうがない連中だけど、ユーモラスなんですよ。で、それがあるから助かってる。それがなかったら悲惨な、読むに耐えない小説になったと思います」(P61-62)や、「佐藤家は悪口と怒りが渦巻く一家だった。だが背中合せに濃密な愛があった。「血脈」を描いてそれがわかったことが、私はうれしい」(P168)といった記述にそれが現れている。

どんな奇想天外な人生でも、どんなに人に迷惑をかけた人生でも、死ねば時がその苦さを薄めてゆく。故人をいつまでも非難するのではなく、きちんと向き合い、全力で理解しようと努める。本書は佐藤家の血脈を非難する本ではなく、肉親たちを鎮魂する本なのだ。

特定の人物を小説のモデルにするということは、ただ単に憎み貶すだけでは何物も産みださない。そうではなく本書のようにそこにある人間としての救いを描かないと駄目なのだ。それが本書の優れた点であり、構成に残すべきモデル小説として推薦する点だと思う。

‘2015/09/12-2015/09/15


血脈(下)


洽六亡き後、佐藤家の棟梁は八郎に移る。

サトウハチローとしての名声を確立した八郎だが、私生活は放恣そのもの。子供達も放ったらかしで、気ままな人生を歩む。裸で過ごす夏。寝そべったまま書いては発表する文章。 ヒロポンに頼る日々。洽六と節がいなくなったことで、権威と化した八郎を諌めるものは誰もいない。まさに裸の王様。今の我々にとってサトウ八チローとは「りんごの唄」や「ちいさい秋みつけた」や「うれしいひなまつり」の作詞家である。サトウハチロー記念館のWebサイトに掲げられているサトウハチローの紹介文には、放恣な私生活を思わせる記述はない。しかし本書では八郎の私生活が異母妹である著者によって容赦なく晒される。そこに棟梁としての威厳はない。それが小説的な演出なのかどうかは今となっては著者にしかわからないのだが。

一章「渦の行方」では、洽六亡き後、シナがかつての日々を追憶するところから始まる。 弥六から洽六へと受け継がれた津軽の血が、何を佐藤家の一族に伝えたか。その放埓な自己抑制のかけらもない自由な生き様。明日のことなど知ったこっちゃないといわんばかりの破滅的な生き方。そんな荒ぶる男たちの大半は中巻までの、太平洋戦争をはさんだ数年間で死ぬ。そんな中、八郎だけが天皇陛下に伺候できる立場になった。しかし、そこで物語が落ち着いてしまわないのが佐藤家の血の業である。

一章「渦の行方」を通して描かれるのは八郎一家の放埓な日々だ。八郎の実際の私生活はどうあれ、その不埒な性質は子供たちにも受け継がれていったようだ。長男忠はまっとうに働き、妻子まで設けたにもかかわらず、佐藤家の荒ぶる血が彼を徐々に生活無能力者へと変える。神童だった五郎は一転、中学を出たあたりから八郎の弟久を思わせる無気力な人間となる。佐藤家のお手伝いのような扱いを受けている典子は、八郎のお手つきを受けた身だが、ヒロポンにおぼれ、無気力な人間となった五郎の世話を焼くうちに駆け落ちを持ちかけられ、共に方々を転々とする身になる。典子の献身にも関わらず素行を改めない五郎は、典子のヒモ一歩手前の自堕落な性格を改めようとしない。五郎の兄四郎は、本稿を書いている2016年夏の時点ではサトウハチロー記念館の館長を勤めている。佐藤家の男としては珍しく自滅せずに生涯を全うしつつあるように思えるが、本書によると四郎もまた五郎に負けず劣らずの自由気ままな日々を送っていたようだ。父八郎への反抗と満たされぬ自らの性向を持て余す日々。

ここで書かれるのは八郎一家の規格外れの日常だけではない。サトウハチローという才能にも改めて著者は筆を入れる。 著者の今までの作品リストを見るに、父佐藤紅緑を扱った作品や母横田シナを取りあげたものはあるようだ。しかし、兄サトウハチローを扱った作品はどうやらなさそうだ。おそらく「血脈」で初めて兄を本格的に書いたのかもしれない。兄への複雑な感情の丈をぶつけるかのように、著者は本章においてハチローを徹底的に描いている。サトウハチローを描くにあたって著者は、八郎家の日常と木曜会という八郎を囲んだ童謡の勉強会に焦点を当てる。そこに集う詩人たちが八郎のペースに巻き込まれ、生活を犠牲にして佐藤家に尽くす様子が描かれる。先に書いた典子も元々は八郎の元へ童謡の勉強に来たはずが、いつの間にか手を付けられ、挙げ句の果てに使用人として扱われた人だ。様々な詩人志望者が木曜会に参加するが、八郎とは付き合いきれないと一人一人木曜会から離れてゆく。

本書の中でこれまで何度か引用されていたハチローの詩。ここで著者は改めてサトウハチローという詩人の分析も行う。愛子が好きな詩は「象のシワ」という詩だ。本書48Pに詩の全文が引用されているが、「その詩ひとつで愛子は兄の欠点をすべて許す気になったものだ」と好意的に評している。その一方で著者は凡庸なハチローの詩については容赦なく攻撃する。とくにハチローが母を詠った詩については筆鋒鋭いものがある。それは著者が愛子として見聞きしたサトウハチローの実際の私生活や、ハチローの母ハルが洽六やハチローからどのようなひどい扱いを受けたかを知るからこそ言えることなのだろう。だが著者は、それだけ酷い扱いを母に対してしたハチローだからこそ、その悔恨をこめてお母さんの詩を沢山書いたのではないかと擁護も含めて推測している。

一方で、本章では愛子が小説家として習作に手を染めるまでの経緯も書く。シナに勧められ、父洽六にも励まされた愛子の文筆修行。それはやがて同人仲間に迎え入れられるまでになる。さらには同人仲間の一人である田畑麦彦との再婚にも踏み切る。そういった経緯が書かれるのも本章だ。

洽六から始まる放蕩の血は、実は芸術家としての類まれなる才能を与える血でもあった。洽六にハチローに愛子。だが、実は他にもいたのである。洽六の芸術の血を引く者が。その人の名は真田与四男。筆名大垣肇として演劇史に名を残す人物である。実はこの人物は上巻からすでに登場していた。洽六がまだシナと出会う前、ハルという正妻がいながら真田いねという愛人も囲っていた。与四男はそのいねと洽六の間に出来た子である。その与四男は洽六の津軽の放蕩の血をさほど引かず、劇作家として真面目にキャリアを積み重ねてきた。

このあたりから、物語には著者の視点が増え始める。著者が一番脂の乗った時期。小説家としても女性としても。ハチローもシナも老いた今、佐藤家を支えるのは愛子であるかのように。しかし愛子は放蕩に身を持ち崩さない替わりに、配偶者に恵まれない。著者が直木賞を受賞した「戦いすんで日が暮れて」は、田畑麦彦が商売に失敗し、その負債を背負わされた著者による奮闘を描いた作品だという。そのあたりの経緯についても本章で触れられている。配偶者のだらしなさに苦労させられるのは佐藤家の嫁に共通の業だが、愛子は佐藤家の血を引きながら逆の立場でその業にはまり込むのが面白い。そして、配偶者に恵まれないのは愛子の姉早苗も同じ。佐藤家の男達に振り回される女どもを見てきた早苗は、同じ轍は踏むまいと実直な村井雄介を選び、結婚前のお転婆ぶりが一転、貞淑な妻として過ごす。ところが当初からこの結婚に乗り気でなかったシナが危惧していたとおり、早苗にノイローゼの危機が。それをきっかけに徐々に二人の関係も壊れ始めてゆく。雄介は放恣どころか生真面目なのだが融通が利かず鈍感。

この雄介という人物は中巻から登場し、下巻の終盤ではかなりの頻度で登場する。が、ほとんどの主要人物の写真が載っている「佐藤家の人びと-「血脈」と私」に雄介の写真は載らない。それもあってか今一つ現実味に欠けるキライがあるのが雄介だ。佐藤家の血脈を描く上で欠かせない人物であるにもかかわらず。ほとんどの人物が実名で登場する本書の場合、モデル化され、赤裸々に書かれることを嫌がる人物もいるだろう。特に雄介と早苗夫婦の場合、子供たちも名前が出される。となると、村木という苗字が仮名であってもおかしくない。実際に本書の中で登場する人物で実名と違う名前で登場する人物はいる。それは、愛子の初婚の相手である。本書では守田悟という名で登場するが、実際の名前は森川弘といったらしい。また愛子は実子として守田との間に二人の子を設けているが、以降、ほとんど二人の子の消息には触れられない。同様に、他にも仮名で登場する人物が多数いるのだろう。特に木曜会関係ではそういう方が多そうだ。平成28年の今もまだ木曜会が続いている以上は。

やがて八郎も紫綬褒章を受章し、老いが進む。そんな中、シナも死にゆく。自分を持ち、人に媚びる事をよしとしなかった人生。著者はシナの一生を情感をこめて描く。世間を少し斜めに見、女優を諦めた自分の人生を失敗と思っている母シナの一生には、確かに意味があったのだと言い聞かせるように。シナは死に、その死を八郎に伝える電話で、愛子と八郎が兄妹であることを確認する。

第三章の「彗芒」は、八郎の同士でもあった劇作家の菊田一夫の死去で始まる。そしてそのまま本章は、叙勲を受けた日の八郎急死でクライマックスを迎える。八郎がなくなり、「親父の血を一番濃く引いているのは愛子だな」(384P)という言葉を残した八郎もいなくなったことは、佐藤家のあらぶる血の行く末を見届けるのが愛子しかいなくなったことを表す。

さらに第四章の「宿命」も短い章である。本章はこのような文章で幕を開ける。「愛子はようやく気がついた。佐藤洽六の血を引く者はみな、滅びるべくして滅んでいく宿命を背負っているらしいことに」と。そして本章は短い。もはや登場人物たちの人生に語るべき滋養がなくなってきたと言うかのように。シナの死前後からギクシャクし始めた早苗と雄介の仲は、とうとう忍耐の尾が切れた早苗の佐藤家の男を思わせるようなはじけっぷりから、破滅へと向かう。

さらに忠は廃人と化し、ハチローの死去で受け取った巨額の遺産を使い切って無一文で野垂れ死にする。五郎の末路も似たようなもの。佐藤家の放蕩の血を引くものが一人また一人と舞台から退場していく。大垣肇こと真田与四男もまたそう。

第五章の「暮れて行く」は長きにわたった本書の最終章である。人々の生と滅びの姿を書きつくしてきたかに見える本書にも、まだ書けていない点がある。それは著者自身の老いである。しかし、まだ本章ではそのことは出てこない。本章は著者の姉早苗の死から始まる。とうとう和解も救いもないままに。その原因を掴めぬままに雄介も早苗の死から一年たたずに死ぬ。八郎の最後の妻蘭子も、波乱の人生の幕を閉じる。

節の妻のカズ子も死ぬ。阪急塚口にかつてあった「割烹旅館さとう」 は節の死後カズ子が切り盛りして繁盛していたとか。カズ子の死後、その場所は魚民となったそうだ。ちなみに大学一年の私は1992年ごろ、塚口のダイエー でバイトしていたのだが、この魚民では呑んだ事があるような気がする。もちろんカズ子や節のことなど何も知らない頃。甲子園の洽六邸といい、塚口の縁といい、ひょっとしたらまだ細かい縁で私と佐藤家は繋がっているのではないかという気すらする。

そして、本書は77歳になった著者の感慨で幕を閉じる。佐藤家を彩った人々は、皆物故者となった。著者愛子とハチローの息子四郎、さらにユリヤと鳩子が存命なだけで。ハチローの長男忠の長男恵も、この時点で44歳。ということは今は60歳近いということか。まったく、なんという一族なんだろうと思う。そしてその血を濃く受け継ぎながら、95歳にならんとする作者のたくましさといったら!! 私にとってもっとも身近な作家であったはずの著者のことを今まで知らずにいたことの悔しさよ。

‘2015/09/08-2015/09/12


血脈(中)


中巻では、久が心中した後の佐藤家の日々が描かれる。

本書の全体を通じて言えることだが、佐藤家の血脈を書き記すにあたり、著者は様々な人物の視点を借りる。本書第一章でもそれは同じ。「兄と弟」と銘打たれている本章だが、視点は八郎と節だけに留まらない。それ以外の人物、洽六、シナ、愛子、弥、カズ子、ユリヤからの視点が項ごとに入れ替わり現れる。特に本書の第一章ではそれが顕著だ。

ハチローは詩人として絶頂期にあり、洽六は小説家としての老いを感じるようになる。節の浮気相手の心中記事でも、佐藤紅緑の息子ではなく、ハチローの弟と書かれる始末。そんな洽六をシナは冷静に観察し、愛子は洽六の愛情が自分に注がれることを疎ましがる。節の乱脈は収まらないものの、ハチローが一人立ちし、シナが佐藤家の柱石としてがっしり固めるので、佐藤家の乱脈を描く本書においては、比較的小粒のエピソードが多い章である。とはいえ、世間一般的には充分に波乱万丈な訳だが。本書を読み進めるにあたっても、「佐藤家の人びと ー「血脈」と」は座右の書として手放せず、始終紐解きながらの読書となった。

心中した久を愛子が思い出すシーンでは、ブイブイを樹から落として捕まえるエピソードが登場する。ブイブイとはカナブンのこと。私も子供の時は普通にブイブイと呼んでいた。このような甲子園を思い出させる話が出て来るたび、私は本書に登場する人々の破天荒な人生から、自分の少年時代にも通ずる、かつての牧歌的な甲子園へと想いを馳せてしまうのだ。

第二章の「衰退」では、そんな甲子園の家を手放す日が描かれる。愛子の姉早苗が嫁ぎ、洽六の老いがますます進行し、小説家としては開店休業状態となる。世間では太平洋戦争が始まり、愛子にも縁談が舞い込む。素行が大分落ち着いてきた節とカズ子夫妻が一時甲子園の家に寓居するが、彼らも老化が進む洽六に窮屈を感じて出て行ってしまう。そんな訳で、日本の敗戦が濃厚となってきた昭和19年春、洽六とシナ夫妻は静岡の興津へと転居することになる。

一方で弥は徴兵され、理不尽な軍隊での日々を過ごす。そして兵役で留守中に妻に不貞を働かれる。戦局はますます破滅的な局面を示す。興津の家もどうなるか分からない。早苗には二人の、愛子には一人の子が産まれるが、それがシナの気苦労をかえって増やす。そんな中、興津の家も空襲の危険があるため、洽六とシナ夫妻は信州蓼科へと疎開する。

昭和20年。日本の敗北は誰の目にも明らか。そんな中、洽六の息子二人は揃って戦火に斃れる。洽六の枕元に現れた弥の幻像は、弥が戦死したことを知らせる。また、カズ子からの便りが、節が広島で原爆に焼かれたことを伝える。

衰退とは、日本の国運もそうだが、佐藤洽六の精神力にもいえること。本章ではそうした衰退の日々が克明に記される。甲子園の家は、以降の本書の中では一顧だにされない。まるで佐藤紅緑という人物の盛名とともに消え去ったかのように。私が本書を読むきっかけとなった佐藤紅緑の建てた豪邸は、僅か十数年の間しか存在しなかった。いつ家屋が壊されたのかは知らないが、実に儚いものだ。未だに石垣は残っているとはいえ。

第三章の「敗戦」もそう。節と弥が舞台から退場し、戦争も終わったはずの佐藤家であるが、まだまだ闘いは終わらない。愛子は結婚して子供まで授かったにも関わらず、亭主が戦時中に覚えたモルヒネ中毒により離縁の憂き目を見る。さらに八郎の師匠であり、紅緑の弟子として知られる福士幸次郎まで死ぬ。上巻から何度も登場しては洽六の世話を焼く福士幸次郎は、佐藤家の変人たちにも負けず劣らずの奇矯な人であり、奇人度では本書の中でも一、二を争うかもしれない。それでいて憎めない人物なのだ。その天衣無縫な言動は本書の中でも好感度が高い。

だが、福士幸次郎こそは佐藤紅緑が一番頼りにしていた人物。その人物が亡くなったことで、いよいよ紅緑の衰えに拍車がかかる。だが、紅録が戦前に発表し、一躍少年向け小説の対価となさしめた「あゝ玉杯に花うけて」がリバイバルヒットし、それを土産に洽六とシナは八郎卓へ寄寓することになる。

しかし八郎の生活も乱脈さでは父親に負けない。妻妾同居で暮らし、夏は裸で過ごす奇特な八郎。長男の忠は戦時中は予科練に志願するも、終戦で何もするでもなく無気力になり、妻妾同居の日々が正妻のるり子を遂に死に至らしめる。そんなるり子を悼んで発表した八郎の死は、忠から見て嘘八百。そんな日常に耐えられない洽六とシナ夫妻は、八郎宅を出て世田谷区上馬を終の家として求める。

第四章の「洽六の死」では、著者は愛子の目を借りて父が老い死んでいく姿を描く。冷酷なまでに。老残もいいところの洽六の最晩年は、かつての洽六に精力と威厳があっただけになおさら寂しいものがある。八郎が天皇から恩寵の品や勲章をもらったことで感極まった洽六は、若き日から欠かさずつけていた日記を断筆する。その日記こそは上中巻と著者が本書を書く上でかなりの貢献をしたと思われる。そしてその日記を執筆を辞めたことで、洽六にとっての最後の拠所が切れたかとでもいうように、洽六は一気に死へと駆け下りてゆく。

今回、本稿を書くにあたってところどころ拾い読みをした。改めて思ったのだが、洽六の老いから最期に至るまでの著者の筆は怖いまでに老いの惨めさと残酷さ描きだす。私はその老いのあまりのリアルさに、思わず老いから逃げるように50キロ以上、自転車で遠征の旅を敢行したほどだ。

‘2015/09/08-2015/09/12


血脈(上)


西宮ブログというブログがある。故郷の様子を知るための情報源としてたまに拝見している。

西宮ブログでは複数の常連ブロガーさんによる書き込みがブログ内ブログのような形で設けられている。常連ブロガーさんは、それぞれの興味分野について徒然に自由に記している。私にとってほとんど読まないブロガーさんもいれば、よく読ませて頂く方もいる。よく読むブロガーさんの一人に、seitaroさんがいる。seitaroさんが主宰するのは西宮が登場する文学や西宮にゆかりのある文人を詳しく紹介するブログである。それが阪急沿線文学散歩https://nishinomiya.areablog.jp/bungakusanpoだ。

本書の著者である佐藤愛子氏が甲子園に住まわれていたことを知ったのは、こちらのブログによる。著者は、父である著名な作家の佐藤紅緑氏とともに昭和初期の10数年にわたって甲子園で少女時代を過ごしたという。しかも2軒の家にまたがって。1軒目は甲子園球場のすぐ傍に建っていたようだ。今、阪神甲子園駅のバスターミナルに沿って三井住友銀行が支店を構えている。そのすぐ裏の区画、今は西畑公園になっている場所がどうやらそうらしい。2軒目の場所は、1軒目から今の甲子園線に沿って1.3kmほど北上したあたり。1軒目も2軒目も、私にとってよく知る場所だ。そらで道案内が出来るほど。それもそのはず、2軒目が建っていたのは私の実家から徒歩数分しか離れておらず、至近といってよい場所である。

私が幼稚園の頃から25歳まで大半を過ごした実家。その近くにこれほど有名な方が住まわれていたとはついぞ知らなかった。しかも著者はいまだ存命の方であるというのに。そもそも佐藤愛子氏の著書を読むのは本書が初めて。父である佐藤紅緑氏の本はまだ一度も読んだことがない。小学生の頃は、2軒目の家のすぐ近くに友だちの家があり、その傍の交差点でよく遊んでいたものだ。私の記憶では、通りがかりの老婦人に阪神タイガースの有名な選手の家があれ、と教えて頂いたことがある。確か名前に藤が付いていたように思う。藤がつく阪神の有名選手は多数いるが、おそらくはミスタータイガースこと藤村富美男選手の家だったのではないか。が、佐藤紅緑氏や愛子氏が近くに住んでいたことは誰にも教えてもらえなかった。そしてそのまま実家を離れ、40歳過ぎまで知らずにきてしまった。少し残念である。

本書を読み始めたのは丁度私の里心が増していた時期だった。seitaro氏のブログによれば、著者は西宮・甲子園を舞台に様々な作品を残しているという。俄然、著者に興味を持った私は色々と作品を調べてみた。そしてたどり着いたのが本書。著者の作品を始めて読む私にとって本書は相応しいはず。そう思って読み始めたのだが、読み終わった今はその判断が正しかったことを確信している。

佐藤紅緑から、息子のサトウハチロー、そして著者。日本文学史に燦然と名を残す三名が揃って登場する本書は、佐藤家の一族の血脈を余すところなく描いた大河小説である。そして本書には上に挙げた3名以外にも多数の人物が登場する。みなさん個性あふれる人物だ。そこで登場する佐藤家の人物のほとんどが社会不適合者であり、枠に収まること出来ぬ宿業を持て余す。ある者は野たれ死に、ある者は原爆で一瞬に焦がされ、ある者は行方不明となる。放恣な日々しか送ることのできない一族の血。それは血脈によって繋がり、登場人物たちを様々な運命へと追いやっていく。

身内を語る著者の筆には容赦がない。容赦がないというよりも、身内ゆえに手加減を知らないというべきか。その筆致は客観的でありながら、身内故の遠慮なさで著者自らを育てた一族を描き出す。血脈によってつながる一族の数奇な運命の流れを。

その流れが上中下巻に分かれた本書に収められている。上中下巻のそれぞれが文庫本としても厚めのページ数となっている。そのため本書は、全体としてかなりの分量となる。登場人物は別冊に収められている佐藤家の系図に載っているだけで62名。それに外部の関係者を加えると総勢100名は下らないだろう。膨大な登場人物を相手にするには少々心細いと思われる方には、本書の番外編として「佐藤家の人びと-「血脈」と私」がお勧めだ。私もその虎の巻ともいうべき本を座右に置きながら上中下巻を読み通した。その虎の巻には系図や年表、そして主な登場人物たちの写真が豊富に載っている。もし本書を読む方がいれば、是非とも「佐藤家の人びと-「血脈」と私」を併せて読まれることをお勧めする。

血脈の上中下三冊は2015年の私の読書歴でも印象深い読書だった。それは、本書がとても面白かったからだ。昔の甲子園のことが書かれているから、という気持ちで手に取った本書だが、それ以上に内容に引き込まれた。大正から昭和にかけてのわが国の文士といえば、無頼派という印象が強い。個性的で波乱万丈の。とはいえ、特別な興味がない限り無頼派の生活ぶりをわざわざ知ろうとは思わないはず。本書に描かれる生き様は無頼派のそれだが、著者はそのあたりを巧く小説として組み立て、本書を読みやすく面白い大河小説として仕立てている。

豪放でありながら繊細な佐藤紅緑こと洽六。その後妻である横田シナ。洽六の前妻のハル。ハルと洽六の間には五人の子供がいる。喜美子、八郎、節、弥、久。シナとの間には早世した六郎と早苗、そして著者。女好きでありながら国士のような激情家である洽六は、シナへの想いを抑え切れず、家庭を顧みず崩壊させる。その様が上巻である本書では書かれている。

本書の時代背景は大正四年から昭和九年まで。
第一章 予兆
第二章 崩壊のはじまり
第三章 彷徨う息子たち
第四章 明暗

第一章は八郎の視点で書かれている。女優としての成功を求め洽六邸へ寄宿する横田シナ。そんな横田シナへ想いを掛け、果ては狂恋に翻弄される洽六。その狂態が縦横に荒れ狂うのが本章である。それは正妻ハルの存在を瞬時にかき消す。そればかりか洽六の激情はハルや子供たちの存在を忘れ、去っていったシナを追って大阪まで旅立たせるほどのものである。しかもハルとの最初の子である長女の喜美子が結核で瀕死の状況でありながら。洽六が東京に戻って程なく喜美子は死ぬ。シナに翻弄され恋慕する父の狂態を見ながら成長する八郎と弟の節。八郎の少年としての性への興味が猥雑な歌や会話となって、ただでさえ強烈な本章に嵐の予感を振り撒く。あまりの不良っぷりに洽六の書生の福士幸次郎の付き添いで八丈島へと流されてしまう八郎を描いて本章は幕を閉じる。

第二章は、勘当された八郎の替わりに、弟の節の視点で物語が進む。すでに三男の弥は五才になっていたが、もはや家族の体を為していない洽六邸から、西宮鳴尾の密蔵伯父宅へ里子にやられる。密蔵伯父とは洽六の兄である。当時、大阪毎日新聞の経済部長の職に就いていた。後年、この縁で洽六は鳴尾に住むことになる。そしてそれは、まだ甲子園球場が出来る前の話。甲子園が甲子園ではなかった時期から佐藤家は西宮に縁があった訳である。一方、洽六とシナの旗上げた劇団は上手くいかず、シナは洽六の束縛を逃れようと煩悶する。長男六郎を喪い、長女早苗が産まれたことで洽六に縛られてしまうことを厭うシナは、女優としての最後のチャンスをつかむために洽六の影響力のないところで己の力を試そうとする。もはや佐藤家は解体寸前であり、洽六はシナを我が物とするため、正妻であるハルを離縁しようとする。八郎は荒れ狂う血を発散させるため無軌道な日々を送り、節に世の道理を教えるものは誰もいない。洽六の抑えようもない狂恋だけが佐藤家を駆けまわる。シナへの抑えられない狂熱を鎮めるため、洽六はヨーロッパへと旅立つ。

第三章は「彷徨う息子たち」との題名通り、物語の視点も彷徨う。視点はシナだったり八郎だったり節だったり弥だったりとまちまちだ。外遊から帰国した洽六は映画撮影所長としての職を得、兄の住む甲子園に居を定める。ここで洽六はようやく大衆作家一本でやっていく覚悟を固める。シナは長女早苗を産んだ後、著者自身である愛子を産み、女優としての将来を断念して洽六に屈服することになる。しかし、東京に残した八郎と節の素行は改まるどころか放埓の限りを尽くす。八郎は詩に自らの道を見出そうとするが、節は人をだまし、人の好意に乗り、洽六の財布を当てにする自堕落な人間として成長する。実母のハルは亡くなり、三男の弥は、鳴尾で当てのない少年時代を送る。

私にとって本章で描かれる弥の少年時代は特に印象に残っている。鳴尾で少年時代を過ごした彼の日常には、私にとってお馴染みの地名が多数出てくるからだ。「鳴尾村で一番喧嘩が強いのは上鳴尾のガキらだった。上鳴尾ではおとなも喧嘩に強い。子供の喧嘩におとなが出てくる。知識階級の集落である西畑の子供は上鳴尾とは喧嘩をしない」(417P)
上鳴尾とは、今は八幡神社があるあたりだ。八幡神社には私も小学生の頃は夜店が楽しみでよく行った。私の悪ガキとしての思い出にも八幡神社は欠かせない場所だ。上鳴尾には小学校時代に遊んだ友人が沢山住んでいた。本書を読んで、そうか、上鳴尾は喧嘩が強かったんかぁ、と思った次第。西畑という集落は上に書いた著者の1軒目の家のあったところだ。ここで弥の親友として登場する菅沼久弥という少年は苗字を森繁と変え、枝川の向こう側の今津に引っ越していく。著者は敢えて久弥少年のその後には触れない。が、私にはピンと来た。後年の大名優が鳴尾甲子園にこのような縁で繋がっていたとは本書を読むまで知らなかった。

第三章に書かれているような甲子園の描写こそが、私を本書へと導いたことは間違いない。が、本書が描く濃密な血脈の模様は魅力となって私を取り込む。いまや、在りし日の甲子園が書かれている事だけが本書の魅力ではなくなってきた。佐藤家の奔放な血脈の魅力は甲子園が登場しようとしまいと私をがっちりと捕まえる。

八郎は詩人として名が売れ始める。身を固めるために結婚するが、箍の外れた生活態度はますます悪化するばかり。金があるだけになお始末が悪い。節も結婚するが、人の好意に付けこむ癖は改まることを知らない。弥は無気力な日々を送り、洽六に叱られては自殺を図って新聞に載る。シナは女優としての道を洽六に閉ざされ意気消沈するばかり。洽六はそんなシナを元気づけるために、1軒目の近くにシナの思うような家を建てさせようと決意する。その家こそが、私の実家から徒歩数分の2軒目の家である。

第四章は、大衆小説家として全盛期を迎えた洽六が描かれる。新たに建てた家は宏壮そのもの。私も本書を読んだ数か月後に訪れてみた。今は大阪ガスの寮として使われているらしく、家屋こそ失われている。が、石垣は今もなお健在。佐藤紅緑の全盛期を偲ばせるに充分な威容だった。

しかし、新しい家で新規一転といかないのが、佐藤家の血脈のなせる業である。四男の久も無気力な生活を立て直すため、仙台で嫁を娶って働くことになる。が、生活力がとにかく欠けているのが佐藤家の男の多くに見られる特徴である。自活できぬまま、洽六からの仕送りなしでは生きていくことの出来ない久。その仕送りさえも中間に入った節によって全て抜かれてしまう。貧窮の末、心中を図って死ぬ久。上巻の最後は、佐藤家の中で最大のロクデナシである節に対し、洽六が想いの丈をぶつける手紙が引用されて幕を閉じる。作家として成功したにも関わらず、家長としては失敗しかしていない洽六の反省の弁ともとれるのがこの場面。上中下を通じて、著者は残された実際の書簡類を多数引用する。よくもまあきちんと保管しておいたと思うばかりに。

ここまで上巻の大筋を書いてきた。本書は筋を書かねばレビューとして成り立たせるのが難しい。それほどに複雑に筋は分かれる。上に描いた以外にもエピソードがまだまだ沢山載っているのが本書だ。全ては血脈のなせる振る舞い。洽六とその父弥六から始まる津軽の血は、中巻に受け継がれてもまだ留まるところを知らない。

‘2015/08/31-2015/09/08


俳句と川柳 「笑い」と「切れ」の考え方、たのしみ方


鷹羽氏の俳句入門を読み終えた後、続けて本書に手を取った。
俳句と川柳。実際のところ、この二つの違いってよくわからない。季語があってワビサビがあるのが俳句。滑稽な風刺があれば川柳。こういう認識でしかなかった。

本書には、俳句と川柳の二つの違いが理解できればと思って臨んだのだが、期待はかなり裏切られた。それも良い方向と悪い方向に。

良い方向とは、この二つの違いが歴史も含めて大枠で理解できたこと。
悪い方向とは、自分の中で俳句を詠むことに対する自信が喪われたこと。

たが、本書は私にとって重要であり必要な一冊となった。その重要性は、本書を何度か読み返したいと思わせるほどであった。本稿執筆にあたりその思いはますます高じ、元々図書館で借りてきた本書を改めて購入した。

「俳句が世界で一番短い詩型であるとするならば、川柳もまた、世界で一番短い詩型ということになる」

第一章「十七音の文芸」の冒頭は、このような文章から始まる。確かに。蒙を啓かれた思いだ。俳句が世界で一番短い詩であることは今までも意識していたが、川柳もまた同じであることには思い至らなかった。冒頭に置かれたこの文章から、私が川柳を俳句より一段下に置いていたことに気付かされた。

この文からも、著者は俳句と川柳に芸術の格差はなく、上下の区別を付ける必要もないことを読者に突きつける。俳句は連歌の発句に、川柳は連歌の平句に源を持つとの解説がある。なるほど、ともに連歌を発祥としているのか。ところが、俳句や短歌は辛うじて触れたことのある私だが、連歌となるとほとんど馴染みがない。発句や平句と云われてもピンとこないことを認めねばならない。しかし本書は連歌についても丁寧に説明があり、安心できる。本書を通じて、私は日本の国語教育から連歌や川柳への教えが抜けていることに疑問を抱いた。それほどに本書の記述には教えられることが多かった。

さて、本章で覚えておかねばならないのは、切字の存在。切字とは「古池や 蛙飛び込む 水の音」の3文字目の”や”のこと。この”や”によって、一句の中に、”古池”と”蛙の飛び込む音”の二つの構造が存在する。これを二重構造性と本書では呼んでいる。また、俳句といえば季語は欠かせない。連歌の冒頭を飾る発句には、必ず季語と切字がなくてはならない。これがお約束となる。逆をいえば季語があっても切字による二重構造性がなければ、例え五・七・五の形式であってもそれは平句であり川柳とされる。切字を川柳と俳句を分ける重要なファクターとして説く著者の持論は、本書を通して一貫している。

第二章「俳句に必要な「笑い」とは」では、川柳がお笑い専用で、俳句は文芸との固定観念に揺さぶりを掛ける。

俳句と聞けば厳粛な芸術であるとの固定観念が我々には根強く残っている。しかし著者は俳句もまた笑いの文芸であったことを説く。俳句の起源が連歌の発句であることは先に書いた。さらには、連歌は雅語で、俳句は俗語で、というのが定説だったらしい。そしてその流れからか、芭蕉が世に出る前は、俳句は滑稽な文芸であることは常識として世に通っていたという。では、芭蕉が俳句の笑いを殺し、侘び寂びの世界に閉じ込めた、と著者は断罪したいのだろうか。そうではない。むしろ著者は芭蕉にも笑いの精神があったことを指摘している。それは以下の文章にも表れている。

 芭蕉が求めた「笑い」とは、一句の中で「あはれ」と融合し、瀰漫した「笑い」(たはぶれこと)であったのかもしれない。(本書42-43頁)

しかも明治の子規や子規門下の俳人たちにとって、俳句にある笑いの要素は評価の対象だったことが記されている。しかし、その笑いへの認識はやがて歴史のかなたに消えてしまった。その原因として、著者は以下のように言っている。

例え芭蕉自身は「笑い」への配慮を怠らなかったとしても、俳諧の発句から「笑い」の要素が、少しずつ少しずつ影をひそめていったことは、否定できないのかもしれない。人々には、芭蕉の発句の「笑い」の質が見きわめにくいのである。(本書48頁)

続いて著者は、俳句の笑いを今に伝える句として、千代女の

朝顔に 釣瓶とられて もらひ水

を挙げる。有名な句である。そして、この句の3語目が“に”であることから、切字が無い句であることを指摘する。また、実はこの句には人口に膾炙していない双子の句があるという。

朝がほや つるべとられて もらひ水

こちらは、3語目が“や”となり、“朝がほ”と“や”を挟んだ“つるべ”以降が二重構造になっている。ここに俳句と川柳の違いがあると著者は云う。そして後者の切字のある句には前者の持つ分かりやすい笑いではなく、芭蕉のいう瀰漫した笑いがあるというのである。ちなみに、「瀰漫」という語彙の意味は、わたしもすぐに出てこなかったので記しておく。一面に広がり満ちること。はびこること、だそうである。

第三章「川柳のルーツを探る」では、様々な史料から例を挙げ、川柳の誕生時の由来に迫る。著者の論によると、俳句のアンソロジーを源流とするのが川柳であるそうだ。そしてアンソロジーの前書きとしての応募句を募ったところ、庶民から最高で23348句集まるほどに人気を集めたという。このあたりの感覚は、サラリーマン川柳に多数の応募が集まる現代にも通ずるところがある。サラリーマン川柳に注目する我々が当時を生きていたとすれば、同じように応募し、川柳の世界に嵌ったかもしれない。川柳が当時の江戸町衆から支持されたのもとっつきやすさにあったと著者は述べている。

第四章「発句・川柳句合競演」では、川柳と俳句の違いを改めて俯瞰する。俳句ばかりか川柳からも滑稽性が失われることを著者は憂えている。つまり滑稽の有無だけが俳句と川柳を分けるのではなく、むしろともに持つべきものであることを改めて宣言するのである。その上で、著者は切字の重要性を再度持ちだす。切字があるのが俳句であり、ないのが川柳であると。そして江戸期の句合集から、俳句と川柳で似たような意味をもつ句を並べて論評する。なるほど、本書のように並べられると俳句と川柳の違いもより分かろうというものだ。切字によって二重構造性を備えているのが俳句であり、切字がなく平易に流れるように一文が情景として浮かぶのが川柳と思えば分かりやすい。だが、本章は何度も何度も読みなおさねば川柳と俳句の違いは体得できないに違いない。

第五章「子規の俳句革新と川柳観」では、改めて俳句について分析を進める。それは芭蕉が確立した俳句ではない。明治に俳句を改革せんとした子規の俳句である。夏目漱石の友としてしられ、明治の俳壇に新風を巻き起こした正岡子規。陳腐化しつつあった俳句を建て直した人物として、今なお尊敬を集める人物である。著者は子規の俳句論に筆を進める前に、まず芭蕉を振り返る。芭蕉が俳句の笑いを重視していたことは第二章で触れた。芭蕉が目指したのは、笑いしか残らない俳句ではなく、笑いと芸術を両立させることにあったこと。著者はその点に改めて読者の注意を向ける。さらに、芭蕉の革新性とは、詠む対象と対峙し、よく見て良く聞いたことにあると喝破する。対象に対して自らが感動し、その感動を俳句として表す。そこに芭蕉の俳人としての姿勢があること。本章で著者は松尾芭蕉という俳人の凄さを、口を極めて述べる。私は本書を読む中で、自分自身の詠む句に徹底的に自信を無くすのだが、対象と対峙した句を詠む、という点だけは自負できるのではないかと思う。

ところで、芭蕉が革新的な人物であったことは子規もよく認識していた。では、それにも関わらず子規はなぜ、明治の俳壇に新風を巻き起こしたのだろうか。そこには蕉門廃れた後の俳壇の衰退があった。明治中期頃の俳壇は、月並調とも言われ、その句は実に退屈なものに堕ちていたという。子規も著者も、その点は一致している。本章では、月並調の特徴が紹介されている。著者が子規の論を5つにまとめたのが、以下に記したものとなる。
1. 読者の感情よりも、知識に訴えようとする。
2. 意匠(趣向)の陳腐を好み、新奇を嫌う。
3. 言語の懈弛を好み、緊密を嫌う。
4. 洋語を排斥し、漢語、雅語についても消極的である。
5. 特定の俳人の作品を無批判的に評価し、作品そのものを自らの基準で評価することをしない。
その後、月並調の俳句がずらりと俎上に上げられている。私のような素人ですら、そこには説明臭が強く、対象への感動が徹底的に欠けていることが理解できる。そしてそれらの句は私の作った駄句に似ている気がする。本稿の冒頭で、自分の中で俳句を詠むことに対する自信が喪われたと書いた。私の詠む句は月並調の俳句にも劣るのではないか。私はかなり凹んだ。本稿を書いている今もまだ凹んでいる。少なくとも俳句に関しては本書を読んでかなり凹まされた。

さて、子規である。本章では子規が起こした俳句革新運動の流れが事細かに記されている。俳句という言葉を発明したのも子規ならば、写生を大切にという運動を提唱したのも子規。若くして夭折したことが惜しまれる偉大なる文人だったといえよう。ただ、子規は俳句と川柳の違いを笑いの質に求めていたと著者は云う。しかし本書を通して著者は、俳句と川柳を分ける重要な要素を切字の有無としている。しかし子規は切字の有無は問うていない。それにも拘わらず著者は子規を一切批判しない。それでいいのかもしれないが、一抹の違和感は残った。

代わりに著者は、子規の述べた次の言葉を賞賛する。

俳句にして川柳に近きは、俳句の拙なる者。若し之を川柳とし見れば、更に拙なり。川柳にして俳句に近きは、川柳の拙なる者。若し之を俳句とし見れば、更に拙なり。

つまり川柳と俳句の境が曖昧な句はまずい、と。この文を読んだ私がさらに自分の句に自信を無くしたのは云うまでもない。つまり切字を意識していないし、滑稽も重視していない私の句への痛烈な一言である。別に著者に私の句を添削してもらった訳でもない。だが私自身、本書の随所に載っている俳句論の語句に堪えたのだ。つまり、川柳にも俳句にもあらず。そういう句をひたすら詠んでいるだけではないか、と。

しかし、両者の区別を付けること、両者の違いを曖昧にさせないことは、当世の川柳作者や俳人も認めており、実は苦心していることらしい。

第六章「久良岐と剣花坊の川柳革新」では、一世を風靡した川柳が、俳句と同じくすっかり明治になって理屈っぽくなり、面白くなくなっていたことを紹介する。そして、俳句における子規のように、川柳では阪井久良岐と井上剣花坊が川柳革新の旗を掲げた。それを著者は「よし」とする。しかし阪井久良岐は、それまでの川柳のつまらなさゆえに、性急に川柳に芸術性を与えようとしてしまった。そのことによって笑いを忘れたとの批判は忘れていない。ここでも著者は俳句と川柳に笑いを求める姿勢を繰り返し述べる。

それにしても明治という文明開化の世が、日本からすっかり余裕を失わせてしまったのだなあと思わざるを得ない。よく戦前の日本を描く際、明治はよかったが大正デモクラシーの後、昭和初期の暗さはよくないとされる。いわゆる「坂の上の雲」史観とでもいおうか。しかし本書を読むと、日本から諧謔や笑いやゆとりが奪い去られたのは昭和ではなくもっと早い明治だったのではないか。思考の硬直が起こった明治に端を発し、ますます生硬になり進路変更もままならなくなった日本が昭和20年まで突っ走ったともいえる。そういった通説をも覆すヒントにも本書は成り得る。

第七章「川柳作者の見た俳句」では、川柳作者も俳句作者もその依って立つ芸術の本質を見失っているのでは、という第五章の最後で取り上げた著者の問いをより深めた章である。ここで著者は日野草城という俳人を登場させる。日野草城は昭和初期に活躍した俳人であり、私も初めて聞く名である。草城は、俳句を五七五の定型として定義付けたという。そして著者はここでも切字の有無を主張する。川柳は「うなづかせる」文学であり、俳句は「感じさせる」文学との草城の主張に同意しつつも、その二つを分ける構成上の特質に切字があることに気付かない以上、草城の主張は全面的に賛成できない、と。ここまで来ると読者は切字の重要性をいやでも意識せねばならない。

ただ、草城はそれでも俳人でありながらその視線を川柳まで遣った。それは珍しいことと著者はいう。逆にいえばそれだけ他の俳人は川柳を無視しているのだろう。そして川柳作家は俳句を意識した発言が多いそうだ。そして俳句と川柳を融合させるという一部の試みについて著者ははっきりと釘を刺すことを忘れない。本書を読んだ以上、そのような試みについては私も反対の立場を採る。一方で、著者がいう「川柳とは何か」「俳句とは何か」を考え続けることの大切さにも同意しようと思う。私の作句の腕がどこまで上達するかにもよるのだが。

第八章「「切れ」とは何か」では、改めて切字が俳句を俳句足らしめることをまとめとして解説する。古池や~の句における“や”が切字であると著者は書いた。しかし、実は切字に拘らずとも、句に二重構造が成立していれば、その句は「切れ」ているのだ、と著者は云う。実際切字の使用率は低下しているのだとか。二重構造の片割れを「首部」、もう片割れを「飛躍切部」と呼び、そのブロックが一縷のイメージで繋がっていれば、その距離が離れていればいるほど面白い俳句、と著者は云う。その上で現代俳句。川柳の秀作を多数例に挙げている。ブロックによる二重構造性の保持。面白い。実に面白い。

本書は最後に俳句の国際化の例として英文の俳句にも言及する。そしてそこにも切れや二重構造性の法則は適用できることを述べる。その視点で見て行けば、日々の俳句欄もまた新鮮な目線で鑑賞できるかもしれない。

冒頭にも書いたとおり、本書からは刺激されたものが実に多かった。難解でありながら知的刺激に満ちた本書は、今後も折に触れて紐解こうと思う。レビューの執筆にもかなり難儀したが、再度きっちりと本稿を書けたことで、より本書の理解が深まったと思う。これはレビューを書くことの効能と言える。

‘2014/11/14-2014/11/17