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逸翁自叙伝 阪急創業者・小林一三の回想


本書こそまさに自伝と呼ぶべき一冊。本当の自伝を読みたいと願う読書人に薦められる一冊であると思う。

阪急電鉄を大手私鉄の雄に育て上げただけではなく、宝塚歌劇団や東宝グルーブ、阪急ブレーブスの創設など興業の世界でも日本で有数の企業を育て上げた立志伝中の人。
線と点からなる鉄道を面の事業として発展させ、鉄道を軸にした都市開発や地域開発に先鞭をつけたアイデアマン。
独創的な着眼点でわが国の近代企業史に燦然と輝く経済人。
小林一三。ロマンチストであり続けながら経営の世界でも実績と伝説を残した希有の人物である。

明治以降、わが国の財界は多くの人物を輩出してきた。それら錚々たる人物列伝の筆頭に挙げられる人物こそ、小林一三ではあるまいか。
本書はその小林一三が自らしたためた自伝だ。しかも財界人が自らを思い返したただの随想ではない。かつて作家を目指し、新聞に連載小説を受け持っていた人物が書く自伝である。それが本書を興味深い一冊にしている。

小林一三が残した遺産の多くは、幼い頃の私にとっておなじみのものだった。阪急電車。西宮スタジアム。西宮球技場。宝塚ファミリーランド。宝塚大温泉。
私の人間形成において、おそらく小林一三が残した影響はいまだに残っているに違いない。
だが、このブログでも何度も書いたとおり、私は今の宝塚歌劇団の経営姿勢に良い印象を持っていない。

その一方で、小林一三が宝塚少女歌劇団を創設したときの純粋な志まで否定するつもりはない。少女歌劇を立ち上げるにあたっての試行錯誤は、小林一三が作家として挫折した思いを考えると尊い。
不評で廃業したプールの上に蓋をした「ドンブラコ」から始まったタカラヅカは、いくつもの試練を乗り越え、100年続く劇団に育った。その功績は小林一三のものだ。
自ら戯曲を書き、作詞まで手がけた異彩の人を抜きにしてタカラヅカは語れない。

小林一三は「私が死んでもタカラヅカとブレーブスは売るな」と言い残したと伝えられている。が、今の阪急グループを見て小林一三は何を思うだろうか。ロマンチストのアイデアがふんだんに盛り込まれたはずの事業は、企業を存続させるための論理の前にはかなくついえた。しかも阪急自身の手によって。
阪急ブレーブスはとうの昔に身売りされた。タカラヅカも少しずつ公演の重心を有楽町に移しつつある。宝塚ファミリーランドはなくなり、跡地にはどこにでもある商業施設がのさばっている。
本稿をアップする三週間ほど前、宝塚ファミリーランド跡地の横を車で走り抜けた。が、何の感興も湧かなかった。無惨と言うしかない。

今の阪急グループは大企業となった。つまり、株主や投資家の期待に応え、従業員を養わねばならない。それはわかる。だが、今の阪急グループにワクワクする感じを期待する事は出来ない。
経営が現実の中に縛られてしまっているのだ。経営が現実の中に逃げ込むほど、ロマンチストの思いを経営に色濃く反映させた小林一三の凄さは際立つ。
私は小林一三には尊敬の念しかない。
文学で身を立てようとして挫折し、実業界で才能を発揮した転身の妙。それも私には強烈な魅力として映る。
同じ経営者として、小林一三のユニークな経歴から学ぶべきことは多い。憧れと言ってもよい。

その型破りな発想の秘訣はなんだろうか。その発想の源泉はどこにあるのか。
その答えは、著者が自分を語る本書に載っているはずだ。小林一三が若き日の無軌道な振る舞いの中に。

著者は自分の幼いころからの日々を振り返り、その中で犯した過ちも包み隠さず書いている。

大学を十二月に卒業し、三井銀行に就職が決まった後も、入社式や卒業式もほったらかしで熱海に逗留しつづけ、そこで知り合った女性のことが忘れられず、ズルズルと出社を延ばして、結局三カ月も出社しなかったという。今の世では絶対に許されない行いだろう。
考えてみればのどかな時代ではある。現代の方が物質的にも技術的にもきらびやかで洗練されている。技術も進歩し生活も豊かである。が、実は日本人の精神力は半比例するように硬く貧しくなり、衰えているのではなかろうか。小林一三の破天荒な青年時代はそんなことさえ思わせる。

本書で語られる前半生の著者を見ていると、自分の核がない代わりに、降ってくる話を拒まない。自らの天分と天職に巡り合うまで、自らの境遇を定めずにいる。まず飛び込んでから身の振り方を考えている。
その姿勢こそが著者の大器を晩成させたのだろう。
その姿勢は、上にも書いた通り、本気で作家を目指していた著者の資質から導かれたものだろう。

慶応大に在学中の著者が山梨日日新聞に連載していた小説「練絲痕」も本書には収められている。
いくら当時の文壇が発展途上だからといって、新聞に連載を持ったことは大したことだ。著者は半ば職業作家だった。そして、そのような経歴の持ち主で、かつ著者ほどの実績を打ち立てた経営者を私は知らない。
著者の前半生は、謹厳な経営者とは真逆だ。無頼派と呼ぶにふさわしい乱脈なその姿は、作家が文士と呼ばれた頃のそれを思わせる。

著書がすごいのは、そこから生まれ変わったかのように経営に目覚めたこと。そして、経営にしっかりと若き日の自由な発想を活かしたことにある。
それでいながら、鉄道の開通にあたって資金繰りの厳しい時に見せた辛抱強さなど、それまでの著者とは打って変わった人間性を見せた事も著者の人生を決定づけたはずだ。

こうした著者の動きを念頭におき、仮に著者が同じ人格を持っていたとしよう。ここでもし著者が世間に合わせて勤め人であろうとし、冒険を控えていたらどうだっただろう。あくまでも仮定でしかないが、阪急で成し遂げたような多角化の発想は生まれなかったのではないだろうか。
自由な発想の持ち主が心の赴くまま、自由な振る舞いにおぼれ、存分に自らの心魂を理解したからこそ、経営者になった著者の脳内には発想の豊かな泉が涸れずに残ったのではないかと思う。

今のわが国の停滞が叫ばれて久しい。
その理由を画一的な学校教育に求める人も多い。
だが、同じくらい企業文化の中にも画一化の罠が潜んでいるように思う。

本書を読み、経営者としての目標の一つに著者を設定した。

2020/11/7-2020/11/10


立花三将伝


2020年の夏に福岡へ出張した先のお客様が歴史に深い関心を持ち、立花宗茂を敬愛しておられる方だった。その方のお住まいも立花山城の近くだとか。伺った際に、歴史談義で大いに盛り上がってしまった。
私もせっかくのご縁なので、図書館で見かけた本書を手に取った。また福岡に来ることもあるだろうし。

だが、実は本書には立花宗茂はほぼ出てこない。プロローグとエピローグで立花家の主として間接的に触れられるぐらい。
立花宗茂の父である立花道雪は、本書の後半に重要なキャラクターとして登場する。だが、立花道雪も本書の中では本名である戸次鑑連の名前で描かれる。

立花家と言えば立花道雪と宗茂の親子が有名だ。たが、その二人は実の親子ではない。しかも、二人とも立花家の血筋を引いていない。
立花宗茂の実の親は岩屋城の戦いで知られた高橋紹運。立花道雪に請われて高橋家からの養子として迎えられたのが宗茂。そして、立花道雪のもともとの苗字は戸次。
立花家は、立花宗茂や立花道雪がその名を全国に知らしめる前に筑前で勢力を保っていた。だが、主家である大友家に二度にわたって反旗を翻したことで、結果として廃絶させられている。家名だけ存続させ、主人は戸次鑑連が大友家の命で就いた。立花家の人から見ると乗っ取られたのに等しい。

立花家とはそもそも大友家の家臣として長年奉公してきた。たが、その本拠地は筑前、つまり今の福岡にある。立花家の拠点である立花山城は博多と宗像の中間あたりに位置している。主家である大友家は豊後、つまり大分に本拠を構えており、筑前に盤石の基盤を築いていた訳ではない。
立花山城は、天然の良港である博多を見下ろす要衝にあり、良港を擁するこの辺りは、戦国時代の初期から、立花家、原田家、宗像家、秋月家などで小競り合いが続いていた。
さらにその周囲には龍造寺家や大内家が虎視眈々と狙っており、のちには毛利家や島津家にも狙われる。

立花家が道雪と宗茂によって全国的に名が知られる前の立花家は、不安定な領地を確保する小勢力に過ぎなかった。
そのような脆弱な立花家で奮闘する三人の将の物語。それこそが本書だ。
タイトルにも登場する三将とは、薦野弥十郎こと薦野増時と、米多比三左衛門こと米多比鎮久、そして藤木和泉の三名を指す。私は本書を読むまで、この三将のことは全く知らなかった。三将のうち先に挙げた二人はWikipediaにも項目として設けられている。が、もう一人の藤木和泉はWikipediaでは項目としてすら設けられていない。

Wikipediaで藤木和泉を検索しても、ヒットするのは上のWikipediaに登場する二人の記事のみ。
記事の中では、藤木和泉の名は、薦野増時と米多比鎮久を討伐するため、立花鑑載によって差し向けられた将として言及されている。
しかし、これ以外にあったはずの藤木和泉の事績や生涯の起伏にはWikipediaでは全く触れられていない。

頭ではわかっているつもりでもついつい忘れてしまうこと。それは戦国時代とは、有名な大名や軍師や武将だけの時代ではなかったことだ。庶民には庶民の暮らしがあり、悲喜こもごもの生活を繰り返していた。武将も同じ。巷間に伝えられるエピソードを持つ武将などほんの一部でしかない。ほとんどの武将は伝えるにふさわしいエピソードを持っていても、それが後世に伝わらぬままに戦場で死んでいく。私が知らないあまたの武将たちは、それぞれがそれぞれの縄張りを守るため、必死に戦っていた。彼らの逸話は語り継がれていないだけで、有名な武将たちに遜色のない、むしろそれ以上に勇壮で悲惨な武勇伝や挫折が無数にあったはずだ。

だが、後世の人たちがそれを知る術はない。私たちは藤木和泉が何をした人物かを知らない。ましてや、日々の暮らしでどのような悲しみや喜びを感じ、戦場ではどれほどの苦しみと昂りに炙られていたのかも知らない。

若いころから、米多比三左衛門と薦野弥十郎とともに立花家に忠節を貫いていた藤木和泉。だが、主君が大友家に反旗を翻したことによって家が二つに割れた。それによって固い友情を抱きながらも、三人は敵と味方に分かれ、その結果、生と死も分かれてしまった。米多比三左衛門と薦野弥十郎にとってかけがえのない友であり、名将の資質を存分に発揮していた藤木和泉。たが、若くして亡くなったため、名も残さぬままに戦国の渦の中に消えてしまった。後世の私たちに伝えられることもなく。

ここで登場する立花鑑載が、藤木和泉にとっての宿命だった。立花鑑載は大友家を二度にわたって裏切り、薦野増時と米多比鎮久の二名はその乱の中で親を殺されている。だが、下克上の世にあって藤木和泉は立花鑑載を主君として立てつづけ、忠誠を貫き通した。そして結局は立花家を後世に残すため、従容として死についた。
その覚悟を決めた姿はまさに本作のクライマックスといえる。

本書のプロローグは老年に差し掛かった米多比三左衛門が、関ヶ原の戦いで西軍に身を投じようとする直前にかつての友たちを懐かしむ。また、エピローグも隠居した米多比三左衛門が登場する。
そこに共通するのは時の流れだ。時の流れは斟酌せず、誰の上にも等しく影響を及ぼす。

著者は本書において、歴史に名を残さなかった者に光を当てようとする。歴史に名が残せるかどうかは、本人の能力や運もあるし、周りの協力があってこそだ。その人の実績を悪様に書かれても、本人には修正のしようがない。
それは今の私たちにも通じる。
今の私たちから数百年後の人類に私たちの日々の暮らしや実績を伝えられるだろうか。それはほぼ期待しない方がよい。だが、私たちは日々の生活を真剣に懸命に生きる。それが人生というものだから。

藤木和泉のように歴史に名を残さぬまま、優れた人物だった人は他にも無数にいるだろう。私たちは歴史小説を読むとき、そうした人のあり方にも心を向けたいものだ。

2020/10/12-2020/10/14


球界に咲いた月見草 野村克也物語


本書を読んだのは、野村克也氏が亡くなって三カ月後のことだ。

もちろん私は野村氏の現役時代を知らない。野村氏は私が7歳の頃に現役を引退しているからだ。
ただ、野村氏が南海ホークスの選手だった頃に住んでいた家が、私の実家から歩いて数分に位置していたと聞いている。ひょっとしたら幼い時にどこかですれ違っていたかもしれない。

現役時代から、解説者として監督として。野村氏の成し遂げた偉大な功績は今更言うまでもない。
また、野村氏は多くの著書を著したことでも知られる。実は私はそれらの著書は読んだことがない。ただ、野村氏の場合はその生涯がそもそも含蓄に富んでいる。

その生涯を一言で表現すると”反骨”の一言に尽きるだろう。本書のタイトルにそれは現れている。月見草。この草は600本の本塁打を打った際、インタビューを受けて語った中に登場する。野村氏の生きざまの体現として知られた。

本書は、野村克也という一人の野球人の生涯を丹念に追った伝記だ。本人も含めて多くの人に証言を得ている。
幼い頃、父が中国で戦死し、母も大病を患うなど貧しさの少年時代を過ごしたこと。高校の野球部長が伝をたどってつないでくれた南海ホークスとのわずかな縁をモノにして入団したものの、一年でクビを告げられたこと。そこから捕手として、打者として努力を重ね、戦後初の三冠王に輝いたこと。選手で一流になるまでにはさまざまな運にも助けられたこと。
南海ホークスでは選手兼任監督として八シーズンの間、捕手と四番と監督の三つの役割を兼任したこと。ささやき戦術や打撃論、キャッチャーのポジションの奥深さ。王選手や張本選手との打撃タイトルや通算成績の熾烈な争い。

南海ホークスから女性問題で解任されたあとも、生涯一捕手としてボロボロになるまでロッテ、西武と移り、45歳まで捕手を務め上げたこと。
その後解説者として腕を磨き、ノムラスコープと言う言葉で野球解説に新風を送り込み、請われて就任したヤクルト・スワローズでは三回の日本一に輝いた。本書の冒頭はその一回目の優勝のシーンで始まっている。

本書には書かれていないが、その後も阪神タイガースや楽天イーグルスの監督を務め、社会人野球の監督まで経験した。
楽天イーグルスの監督時代には、そのキャラクターの魅力が脚光を浴び、スポーツニュースでもコーナーが作られるまでになった。

本書には月見草を語ったインタビューの一節が載っている。
「自分をこれまで支えてきたのは、王や長嶋がいてくれたからだと思う。彼らは常に、人の目の前で華々しい野球をやり、こっちは人の目のふれない場所で寂しくやってきた。悔しい思いもしたが、花の中にだってヒマワリもあれば、人目につかない所でひっそりと咲く月見草もある。自己満足かもしれないが、そんな花もあっていい。月見草の意地に徹し切れたのが、六○○号への積み重ねになった」(230ページ)

長年日の当たらないパ・リーグにいた野村氏。だが、その生涯を通して眺めれば、月見草どころか超一流のヒマワリであったことは間違いない。
ただ、その結果がヒマワリだったからと言って、野村氏のことをあの人は才能があったから、と特別に見てはならない。
確かに、野村氏の生涯は、結果だけ見れば圧倒的な実績に目がくらむ。そして、野村氏のキャラクターには悪く言えばひがみっぽさもある。
たが、そうした境遇を反骨精神として自らのエネルギーに変え、自らを開花させたのも本人の意思と努力があってこそ。
努力を成し遂げられる能力そのものを才能と片付けてしまうのは、あまりにも野村氏に失礼だと思う。

本書の中には、野村氏に師匠がいなかったことを惜しむ声が度々取り上げられる。かの王選手を育てた荒川博氏も本書で語っている。遠回りせずに実績を残せたのに、と。一人の力で野村氏は自らを作り上げてきたのだ。荒川氏はそれが後年の野村氏に役立っているとも述べている。

私が野村氏の生涯でもっとも共感し、目標にできるのは独りで学んだことだ。なぜなら私も独学の人生だから。
一方、私が野村氏の生涯でもっともうらやましいと思うのは、幼い頃に苦難を味わったことだ。私は両親の恩恵を受けて育ち、その恩に強く感謝している。だが、そのために私が試練に立ち向かったのは社会に揉まれてからだ。今になって、子供の頃により強靭な試練に巡り合っていれば、と思う。そう思う最近の自分を逆に残念に感じるのだが。

野村氏がさまざまな書物を著していることは上に書いた。
おそらくそれらの書物には、ビジネスの上で世の中を渡るために役に立つ情報が詰まっているだろう。
私がそれらの本を読んでいないことを承知で言うと、野村氏の反骨の精神がどういう境遇から生み出されたのかを学ぶ方が必要ではないかと思う。あえてその境遇に自分を置かずにビジネスメソッドだけ抽出しても、実践には程遠いのではないか。
今、私も自分の生き方を変えなければならない時期に来ている。ちょうど野村氏が選手を引退してから、評論家として生きていた年齢だ。私は野村氏のような名伯楽になれるだろうか。今、私にはそれが試されている。

くしくも本稿を書き始めた日、日本シリーズでヤクルト・スワローズが20年ぶりに日本一に輝いた。スワローズの高津監督は野村氏の教え子の一人として著名だ。
人が遺すべきものとして金、仕事、人がある。言うまでもなく、最上は人た。
亡くなった野村氏はこの度のスワローズの日本一を通し、人を遺した功績で今もたたえられている。

私も人を遺すことに自分のマインドを変えていかないと。もちろん金もある程度は稼がなければならないが。
それらを実現するためにも、本書は手元に持ち続けたいと思う。そして、本書が少しでも読まれることを願う。

‘2020/05/25-2020/05/25


伊達政宗 謎解き散歩


続けて、伊達政宗を扱った書籍を読む。

本書は、磐越西線の車中で読んだ。ちょうど摺上原の戦いの舞台を車窓から見つつ、雄大な磐梯山の麓を駆ける武者たちを想像しながら。

伊達政宗の生涯を眺めると、大きく二つの時期に分かれていることに気づく。
前半は南東北の覇者となるまでの時期。そして、後半は天下取りを虎視眈々と画策しながら、仙台藩主として内政に専念した時期。
本書はそれに合わせ、前者を第1章「戦国武将政宗編」とし、後者を第2章「近世大名政宗編」としている。

本書が、伊達政宗の生涯を彩ったさまざまの出来事をQandAの形で紹介している。QandAで問いと答えを用意しながら、同時に伊達政宗の魅力を描いている。
本書はまた、カラー写真がふんだんに用いられている。それが功を奏しており、とても読みやすい。また、QandAの形式になっていることで、読者はテーマと内容と結論が明確に理解できる。

読みやすい構成になっている本書だが、本書は「秀吉、家康を手玉に取った男「東北の独眼竜」伊達政宗」に比べると学術的に詳しく踏み込んでいる印象を受けた。本書の中には書状が引用され、古図面が載っている。それらは本書に学術の香りを漂わせる。だが、難しいと思われかねない内容もあえて載せていることが本書の特徴だ。そうした配慮には、著者が元仙台市博物館館長という背景もあるはずだ。
また、本書には著者の個人的な意見や思いや推論はあまり登場しない。「秀吉、家康を手玉に取った男「東北の独眼竜」伊達政宗」には、伊達政宗は天下への野心をどれだけ持っていたかという著者の推論が載っていた。それに比べると、本書の編集方針はより明確だ。

第3章「趣味・教養・その他編」は、戦国時代でも有数の傾奇者だったとされる伊達政宗の文化的な側面に焦点を当てている。
その教養は、幼い時期に師として薫陶を受けた虎哉宗乙からの教えの影響が大きい。だが、戦国の殺伐とした日々の合間を縫って伊達政宗自身が精進した結果でもあると思う。
伊達政宗がそのように自己研鑽を欠かさなかったのも、みちのおく(陸奥)と呼ばれた地に脈々と受け継がれた伊達家の歴史が積み上げた文化や環境の影響があったに違いない。

文武に励んだからこそ、後世まで語り継がれる武将となったこと。
培った素養が伊達政宗の生涯にぶち当たったさまざまな苦難を乗り越える助けになったことも。

武だけで戦国の世は生き抜けない。機転も利かせなければ。それでこそ人間の真価が問われる。機転を利かせるには豊富な前例を知っていたほうがよいことは言うまでもない。
戦国はまた、外交の腕も試される時代だ。外交には交渉や駆け引きの能力が必要。時には故事を引用した文も取り交わされる。
文を受けたとき、とっさに適切な故事を交えた文を返せなければ恥をかく。極端な例では、それがもとで国を喪うことだってある。武将といえども教養が求められるのだ。
この章はそうした教養を備えた武将であった伊達政宗の姿を描いている。

特に筆まめな武将であったとされる伊達政宗の一面を紹介する際は、コミュニケーションに長けていた姿が強調されている。
おそらくコミュニケーションに長けた能力は、伊達家の内政と外交を巧みにさばいていくにあたって大いに助けになったはずだ。

本書を読んで感じた気づき。それは、戦国武将が戦国の世を生き抜くのに最も必要な能力とは対人折衝能力ではないかということだ。
知力や武力といった分かりやすい能力よりも、部下を慰撫して忠誠心を集め、他国の武将と交流してその表裏を見極める能力。それこそが戦国の世にあって最も大切だったのではないか。これは大名や武将だけでなく、農民や商人や僧も含めての話だ。

ただ、歴史上の人物を評する上で対人折衝能力はあまり取り上げられないようだ。
信長の野望などのシミュレーションゲームにおいては、戦国武将を能力値で評価する。
例えば「信長の野望 創造」の場合、武将のパラメーターは「統率」「武勇」「知略」「政治」「主義」「士道」「必要忠誠」が用意されている。
もちろん統率や政治に対人折衝能力が必要なことは言うまでもない。対人折衝能力の総体が統率や政治としてあらわれるのだから。
だが、対人折衝能力だけを抽出しても、戦国武将のパラメーターとしては成り立つように思うがいかがか。

伊達政宗の場合、もちろん知力や武力が人より抜きんでていたことは間違いない。
だが、本書を読んで伊達政宗の生涯を振り返ってみると、戦場で圧倒的な武力を見せつけたような印象は受けない。また味方をも欺く剃刀のような智謀を発揮した形跡も見えない。
そのかわり、人と交渉することで死地を切り抜け、部下から信望を受け、領国を統治してきた繰り返しが伊達政宗の生涯には感じられる。

なぜそう思えたのか。それは今、私自身が会社を経営しているからだ。
社長とは一国一城の主。弊社のような零細企業であっても主には違いない。
経営してみると分かるが、社長には知力や武力は必要ない。むしろ人とのコミュニケーション能力こそが重要。他社や自社、協力社との対人折衝能力。それこそが社長のスキルであることが分かってきた。

その視点から本書を読むと、実は伊達政宗とはコミュニケーションに長けた武将であることに気づく。また、その能力に秀でていたからこそ苛烈な戦国の世を生き抜き、最後は御三家をも上回る待遇を得たのだ。
言うまでもないが、コミュニケーション能力とは阿諛追従のことではない。実力がないのに人との交流を対等にこなせるわけがない。人と対するには、裏側に確かな武術の素養と文化への教養を備えていなければ。
私も伊達政宗の達した高みを目指そう。そう思った。

‘2020/01/16-2020/01/18


秀吉、家康を手玉に取った男 「東北の独眼竜」伊達政宗


福島県お試しテレワークツアーに参加し、猪苗代と会津を訪れた。
猪苗代は磐梯山の麓に広がる。そこは、摺上原の戦いの行われた地。
その戦いで伊達政宗は蘆名氏を破り、会津の地を得た。

本書を読んだのは、摺上原の近くを訪れるにあたり、その背景を知っておこうと思ったからだ。
戦いのことを知っておくには、戦いの当事者も理解しておきたい。とくに、その戦いで勝者となった伊達政宗についてはもっとよく知る必要がある。そもそも伊達政宗の生涯については戦国ファンとしてより詳しくなっておきたい。
そんな動機で本書を手に取った。

政宗は、本書の帯にも書かれている通り、戦国武将の中でも屈指の人気を誇っている。

その生涯は劇的なエピソードに満ちている。単に自己顕示に長けているだけの武将かといえば、そうではない。中身も備わった武将との印象が強い。
晩年まで天下を狙える実力も野心も備えながら、とうとう時の運に恵まれずに仙台の一大名として終わった人物。後世の私たちは伊達政宗に対してそのような印象を持っているのではないか。

悲運に振り回されながら、実力もピカイチ。そんな二面性が人々を魅了するのだろう。
そんな伊達政宗が若き日に雄飛するきっかけとなったのが人取橋の戦いと摺上原の戦いである。

本書では、それらの戦いにも触れている。だが、それは本書全体の中ではごく一部にすぎない。
むしろ本書は、伊達政宗の生涯と人物を多面から光を当て、その人物像を多様な角度から立体的に浮き上がらせることに専心している。

1章「政宗の魅力〜数々の名シーン〜」では生涯を彩ったさまざまな劇的な出来事だけを取り上げている。それは以下のような内容だ。
疱瘡を煩った政宗の右目をくりぬいた片倉小十郎とのエピソード。
父輝宗が拉致され、それを助けようとしたがはたせず、敵もろとも父を撃ち倒した件。
そして圧倒的に不利な条件から、南奥州の覇を打ち立てた戦いの数々。
実の母から毒殺されかかったことで弟に死を命じ、母を二十年以上も実家に追放した一件。
小田原戦に遅参し、死を覚悟した死に装束を身にまとって豊臣秀吉の前に参じた件。
大崎一揆の黒幕と疑われ、花押の違いを言い訳にして逃れた件。
支倉常長をヨーロッパに派遣し、徳川家の覇権が定まりつつある中でも野心を隠さずにいた後半生。

どの挿話も伊達政宗が一生を濃密に生きた証しであるはずだ。これらの挿話から、現代人にとって伊達政宗が憧れの対象となるのもよくわかる。

続いて本書は派手な面だけでない伊達政宗の一生を追ってゆく。伊達政宗は堅実な一面も兼ね備えていた。伊達という言葉から連想される外見だけの一生ではなかったことがわかる。
2章「政宗の野望」ではそうした部分が活写される。

また、伊達政宗は短歌や連歌をたしなみ、風流人としての一面も持っていた。
晩年、最後に江戸へ参勤交代で参る際には鳥の初音を聞きに仙台の山を訪ね歩いたという。また、伊達政宗は筆まめで手紙をよくしたともいう。そうした武張っただけではない文化人としての一面も紹介する。
3章「政宗のすごさに迫る!」では、そうした伊達政宗の別の面も紹介する。

伊達政宗は家臣にも恵まれていた。文武両面で伊達政宗を支えた人々の列伝が4章「政宗を支えた家臣たち」だ。

続いては5章「伊達氏の歴史と名当主たち」で伊達家に連綿と伝えられた伝統を語る。
そもそも伊達政宗という人物は一人ではない。私たちがよく知る伊達政宗は二代目。一代目の伊達政宗は九代目当主にあたる。室町時代に活躍し、伊達家を雄飛させた明主であり、十七代伊達政宗はその先祖にあやかって名付けられたという。
塵芥集を編んだ伊達稙宗や父の伊達輝宗の事績もきちんと紹介されている。そうした伝統の積み重ねがあってこそ伊達政宗が形作られたことを書いている。

本書が良いのは、見開き二ページを一つの項目としている本書において、項目ごとに内容を図示して読者の理解を深めようとしてくれている点だ。
それによって単なる文の羅列だけでは理解しにくい伊達政宗の人物の魅力がさまざまな角度から伝わってくる。

著者は歴史ライターだそうだ。そして、おそらくそれ以上に伊達政宗ファンに違いない。
ファンである以上、歴史のロマンも持っているはずだ。例えば、伊達政宗が持っていた野心とはどの程度のものだったのか、という問いとして。
歴史/政宗ファンがみた伊達政宗の魅力の一つは、十分な実力と人望を持ちながら生まれる時代が遅かったため、ついに天下を取れなかったという悲劇性にある。
そのため、ファンは勝手にこう望んでしまう。伊達政宗には死ぬまで天下への野心を持っていてほしい、と。

伊達政宗の生涯は華やかだったが、一方では実力を持っている故の葛藤と妥協の連続だったはずだ。
仮に天下への野望を抱いたとして、それはいつ頃からだったのか。そして、その野望はいつまで現実的な目標として抱き続けていたのだろうか。

著者はその仮説を6章「『独眼竜』政宗の野心を検証する」と題した章で開陳する。
さまざまな想像と史実を比べつつ、読者の前に仮説として提示してくれている。だが、著者はファンでありながらも野心については案外冷静に観察しているようだ。
畿内だろうが地方だろうが関係はなく、戦国大名は領国の統治と周囲の大名との関係に気を回すだけで精一杯なのが普通。織田信長こそがむしろ当時にあって異常だったと指摘する。
そこから著者が導いた伊達政宗の具体的な天下への野心を持ち始めた時期は、天下の帰趨が定まった奥州仕置きのあとの時代だと著者は考える。

その野心とは、以下の事績にも表れている。支倉常長をローマに派遣し、改易された松平忠輝に娘の五郎八姫を嫁がせ、大久保長安事件に関連した謀反の黒幕と目されたこと。
どれもが伊達政宗の天下への野心に関連していると著者はみる。だが、本格的な行動を起こすほど伊達政宗に分別はなかったと書いていない。
ここは歴史の愛好家が好きずきに想像すればよいのだろう。

私も猪苗代や会津を訪れた際、伊達政宗が駆けた戦国の残り香は感じられなかった。だが、摺上原の戦いの詳細が本書から詳しく学べなかったとしても、伊達政宗の魅力には触れられた。それが本書を読んだ成果だ。

‘2020/01/14-2020/01/15


劇団四季と浅利慶太


本書を読む数カ月前に浅利慶太氏が亡くなった。
演劇に一時代を築いた方の逝去とあって、盛大なお別れ会が帝国ホテルで催され、大勢の参列者が来場した。私も友人に誘われて参列した。

すべての参列者に配られた浅利慶太氏の年譜には、演劇を愛する一人の気持ちが込められていた。
その年譜には劇団四季の創立時に浅利慶太氏が書いた文章が収められていて、既存の劇団にケンカを売るような若い勢いのある文章からは、演劇への理想が強くにじみ出ていた。
また、豪華に飾られた棺の両脇には演出家として俳優に指導する姿や演劇論を語る在りし日の浅利氏の映像が流されており、棺の前で黙祷する列に並びながら、参列者が浅利氏について思いを致せるように配慮されていた。

「なぜ宝塚歌劇に客は押し寄せるのか」でも書いた通り、宝塚歌劇の運営体制の裏側を知ってしまってからというもの、私は演劇の理想を見失いかけていた。
そんな私は、浅利氏の説く演劇論に救いを感じた。
劇団四季を宝塚と並び称される劇団にまで育て上げた浅利氏は、劇団の運営をどう考えているのだろうか。
私は浅利氏のお別れ会に参列したのを機会に、浅利慶太氏と劇団四季についてきちんと本をよまねば、と決めた。タイトルそのものの本書を。

著者は政治について語る評論家だ。
そんな方がなぜ演劇を?と思う。だが、劇団四季の躍進を支えた一つの要因に浅利氏と政治家との関係があったことは言うまでもない。
そうした関係が劇団四季の経営を支えたことは、ネットで少し検索すればゴシップ記事として出てくる。
また、著者と劇団四季や浅利慶太氏の縁は、本書の「あとがき」で著者が語っている。血縁も地縁もなく、パーティーで浅利氏の知己を得たことで、著者は劇団四季や浅利慶太氏に物書きとしての興味を抱いたそうだ。
ゴシップ趣味ではなく、劇団四季や浅利慶太氏は本来、興行経営の観点から論じられるべきではないか、という著者の意志。それが本書を生んだ。
もちろん浅利氏と知己である以上、本書は劇団四季と浅利慶太氏の立場に立って論を進める。だから良い面しかみていない。それは前もって頭に入れておいても良いと思う。だが、それでも本書の分析は深いと思う。

まえがきに相当する「オーバーチュア」では、劇団四季の概要と本書がどういう方針で劇団四季と浅利氏を描くかを示す。
劇団四季に対する批判は昔から演劇界にあったらしい。その批判とは、セリフが明朗で聞き取りやすいがゆえに、かえって実生活とは乖離しているというもの。
え?と私は耳を疑う。私はあまり耳が良くない。なので、セリフがよく聞き取れない演目は評価しない。なので、セリフが聞き取れないことがなぜ批判の対象になるのか理解できない。
そもそも観客は舞台の全てを感じ取ろうとするはずではないのか。
私にとってはセリフも重要な舞台の要素だと思う。だが、昔の新劇にはそうした演劇論がまかり通っていたらしい。いわゆる「高尚」な芸術論というやつだろうか。
芸術は高尚であっても良いはず。だが、さすがにセリフが聞き取りずらい事を高尚とは認めたくない。浅利氏でなくても憤激するはずだ。そうした演劇論が「オーバーチュア」では紹介されている。かなり興味深い。

「第1章 ロングランかレパートリーか」
劇団四季は日本で唯一のロングラン・システムを演ずる劇団。それでありながらレパートリー・システムも手掛けている。
他の劇団、例えば宝塚歌劇団は五組がそれぞれに1~2カ月の公演期間の演目を切り替えるレパートリー・システムを採用している。
劇団四季は「キャッツ」や「オペラ座の怪人」「ライオン・キング」など、ロングランが多い印象がある。
それが実現できた背景には劇団四季の創意工夫があったことを著者は解き明かしてゆく。
例えば専用劇場。それによって常に劇団四季の演目が上演できるようになった。
また、地方の都市にある劇場でも演目が上演できるよう、シアター・イン・シアターという舞台装置のパッケージ化を進めるなど、効率化に工夫を重ねてきた。
そうした工夫の数々がロングランを可能にしたといえる。

「第2章 俳優」
この章は、私にとって関心が深い。もちろん宝塚歌劇団との対比において。
宝塚歌劇の場合、ジェンヌさんは生徒の扱いでありながら、実際は舞台の上ではプロとして演じている。そして生徒の扱いでありながら、公演以外のさまざまなイベントに駆り出される。
そのため、ジェンヌさんは舞台だけに集中できない。

それを補完するのが宝塚に独自のファンクラブシステムだ。
私設ファンクラブであるため宝塚歌劇団からは公認されない。当然、宝塚歌劇団からファンクラブの代表に対する手当は出ない。
ところが、実際はジェンヌさんのさまざまな雑事はファンクラブの代表が代行している。チケットの手配や席次までも。むろん、無償奉仕で。

一方の劇団四季には、そもそもそうした私設ファンクラブがない。属する俳優に序列は付けないのだ。
宝塚歌劇団は一度トップスターにになると、原則としてどの公演も主演が約束される。ところが劇団四季は各公演の配役をオーディションによって決める。毎回、公演ごとに出演が約束されていないため、出演機会も限られる。
それでありながら、団員には劇団から固定給と言う形で支払われている。
生活の基盤がきちんと保障されており、なおかつ課外活動のようにファンと触れ合う必要もない。お客様とのお食事に同席する必要もない。だから劇団四季の俳優は舞台だけに集中できる。
俳優が舞台だけに集中することが演目の質に良い影響すを与えることは言うまでもない。
本書には俳優の名簿も出ているし、給与システムや額までも掲載されている。

それでいながら、演目ごとのオーディションによって団員の中に慣れも甘えも許さない。
そうした四季の運営を窮屈だと独立し、離れた人もいる。その中には著名な俳優もいる。著者のそうした人に対する目は厳しい。
劇団四季に独自のセリフ回しや、稽古などは、他の劇団ではなかなかまねができないようだ。どちらが優れているというより、それこそが宝塚歌劇団との一番の違いではないだろうか。

「第3章 全国展開と劇場」
第1章でシアター・イン・シアターが登場した。
パッケージングされた劇場設営の仕組みは、ある程度限られた劇場にしか使えない。
だが、それ以外の地方都市までカバーし、劇団四季の公演は行われている。
劇場ごとに装置も大きさも形も違う中、演目によっては上演できる劇場との組み合わせがある。
本章には地方巡業の都市と演目のマトリクスが掲載されている。
それだけの巡業を可能とするノウハウが、劇団四季には備わっているということだ。

このノウハウはまさに劇団四季に独自かもしれない。
東京や大阪、名古屋、札幌、福岡といった大都市でなければ演劇が見られない。
そうした状態を解消し、演劇に関心を集める意味でも、劇団四季が全国を巡る意義は大きいと思う。

「第4章 経営&四季の会」
この章も私にとって関心が深い。
劇団四季は、ファンクラブによる無償の奉仕(宝塚歌劇団)のような方法を取らずに、いったいどうやって経営を成り立たせているのか。おそらく、経営の手法にも長年のノウハウが蓄積されていることだろう。
余計な人や空き時間が出ないような勤務体系が成されているに違いない。
一人の社員が複数のタスクでをこなしつつ、流動する柔軟な作業体制がつくられているのではないだろうか。その分、社員は大変かもしれないが。

また、ファンクラブを公認のみに一本化していることも特筆すべきだ。
一本化するかわりにサポートやサービスを手厚くしているのではないか。
さらに私設ファンクラブの場合、どうしてもファンクラブごとに方法やサービスやサポートに差が生じる。また、その活動が奉仕に頼っている以上、ファンクラブごとの資力の差がサービスの差となる。それはファンにとって不公平を生みかねない。
ファンクラブが一本化されていることでサービスは均質になる。密接な関係を持ちたいファンには不満だろうが、不公平さを覚えるファンも減る。

本書には、観客目線と言う言葉が頻出する。
この言葉が劇団四季と浅利氏の哲学の根底にあるのだろう。
もちろん本書が劇団四季にとってよいことを書く本であることは承知。それを踏まえると、経営の中には見えない闇もあることだろう。書けない内容もあるだろう。
それでも劇団四季がここまでの規模まで成長した事実は、政治家との関係が有利に働いただけでは説明できないと思う。
今までの歴史には経営や運営の数知れぬ試行錯誤があったに違いない。
本書には浅利氏が生涯の七割を経営に割いてきた、という言葉がある。おそらくその努力を軽く見てはならないはず。

「第5章 上演作品」
ロングラン・ミュージカル(海外)。オリジナル・ミュージカル。中型ミュージカル(海外)。ファミリーミュージカル。ストリートプレイ(海外)。現代日本創作劇。その他。
著者は劇団四季の上演する演目をこの七種類に分けている。
海外のミュージカルだけに限っても、劇団四季はかなり豊富なレパートリーを持っている。
そしてそれらの中には、劇団四季が独自に翻案し、その成果が本場からも評価されている演目があるという。もちろんそうした翻案には浅利慶太氏の手腕によるところが大きいはずだ。

結局、難解な芸術だけによっているだけでは、劇団の経営は立ちいかない。
だから、芸術を追求するストリートプレイも挟みつつ、有名なミュージカルでお客様を呼ぶ。そうした理想と現実を併用しながら劇団四季は経営されてきたのだろう。
ただ、本省に出ている現代日本創作劇の演出家がいないという浅利氏の嘆きが、少し気になる。
私もそれほど演劇には詳しくないが、日本にもよいシナリオがあるように思うのだが。

「第6章 半世紀の歴史」
この章では浅利慶太氏の生い立ちから、劇団四季の旗揚げとその後の発展を描いていく。
学生劇団として旗揚げしてから、さまざまな挫折をへて、今の劇団四季がある。本章では挫折の数々も描かれている。もちろん政治家との出会いについても描かれている。
もともと浅利氏の一族は政財界に顔が広かった。そうした持って生まれた環境が劇団四季の成長に寄与していることは間違いないだろう。
それでも、本書で描かれる歴史からは、日本の演劇を育ててきた浅利氏の執念を感じる。

本章で大事なのは、そうした挫折の中でどういう手を打ってきたか、だ。
劇団四季が日本屈指の劇団に成長したいきさからは経営の要諦を学べるはずだ。

「第7章 劇団四季の未来」
本書は浅利氏が存命のうちに書かれた。今から十六年前だ。
だが浅利氏はすでに社長と会長の座を降り、取締役芸術総監督の立場に降りていた。つまり経営を他の人間に任せていた。
任せるにあたっては、劇団四季は浅利慶太氏がいなくなっても独り立ちできると判断したのだろう。実際、そのような意味の言葉を浅利氏はたびたび発しているようだ。

その後、浅利氏がいなくなってからの劇団四季はどう成長するのか。著者は大丈夫だろうと書いている。
浅利氏も自らがいなくなった後の事には何度も言及しているようだ。
それらを引用しながら、舞台、経営、大道具、意匠、営業、人事、教育に至るまでの多彩な要素で劇団四季が盤石になっていることが書かれている。

私も本書を読んだ後、浅利慶太追悼公演の「エビータ」を見に行った。素晴らしい舞台であり、感動した。
あとは十数年たってどうなるか、だ。
宝塚歌劇団も小林一三翁がなくなって十数年後、ベルばらブームの成功によって当初の理想から変質していった。それは経営の正常化のためである。ただ、同じ轍を劇団四季が踏み、営利の海外ミュージカルのみを上演する劇団になってしまうのか。
それとも今のらしさを維持しつつ、世界でも通用する劇団に成長するのか。楽しみだ。

本書はそれを占うためにも有益な一冊だと思う。

‘2018/10/24-2018/10/25


人間臨終図鑑Ⅲ


そもそもこのシリーズを読み始めたのは、『人間臨終図鑑Ⅰ』のレビューにも書いた通り、武者小路実篤の最晩年に書かれたエッセイに衝撃を受けてだ。享年が若い順に著名人の生涯を追ってきた『人間臨終図鑑』シリーズも、ようやく本書が最終巻。本書になってようやく武者小路実篤も登場する。

本書に登場するのは享年が73歳以降の人々。73歳といえば、そろそろやるべきことはやり終え、従容として死の床に就く年齢ではないだろうか。と言いたいところだが、本書に登場する人々のほとんどの死にざまからは死に従う姿勢が感じられない。そこに悟りはなく、死を全力で拒みつつ、いやいやながら、しぶしぶと死んでいった印象が強い。

有名なところでは葛飾北斎。90歳近くまで生き、死ぬに当たって後5年絵筆を握れれば、本物の絵師になれるのに、と嘆きつつ死んでいった。その様は従容と死を受け入れる姿からはあまりにかけ離れている。本書に登場する他の方もそう。悟りきって死ぬ人は少数派だ。本書は120歳でなくなった泉重千代さんで締めくくられている(本書の刊行後、120歳に達していなかったことが確認されたようだが)。私が子供の頃になくなった重千代さんは当時、長寿世界一の名声を受けていた方。眠るように死んでいったとの報道を見た記憶がある。例えトリを飾った方が消えるように亡くなっていても、他の方々の死にざまから受ける印象は、死を受け入れ、完全な悟りの中に死んでいった人が少ないということだ。多くの方は、十分に死なず、不十分に死んだという印象を受ける。

わたしは30代の後半になってから、残された人生の時間があまりにも少ない事に恐れおののき、焦りはじめた。そして、常駐などしている暇はないと仕事のスタイルを変えた。私の父方の家系は長命で、祖母は100歳、祖父も95歳まで生きた。今の私は45歳。長命な家計を信じたところで後50年ほどしか生きられないだろう。あるいは来年、不慮の事故で命を落とすかもしれない。そんな限られた人生なのに私のやりたいことは多すぎる。やりたいことを全てやり終えるには、あと数万年は生きなければとても全うできないだろう。歳をとればとるほど、人生の有限性を感じ、意志の力、体力の衰えをいやおうなしに感じる。好きなことは引退してから、という悠長な気分にはとてもなれない。

多分私は、死ぬ間際になっても未練だらけの心境で死んでいくことだろう。そしてそれは多くの人に共通するのではないだろうか。老いた人々の全てが悟って死ねるわけではないと思う。もちろん、恍惚となり、桃源郷に遊んだまま死ねる人もいるだろう。ひょっとしたら武者小路実篤だってそうだったかもしれない。そういう人はある意味で幸せなのかもしれない。ただ、そういう死に方が幸せかどうかは、その人しか決められない。人の死はそれぞれしか体験できないのだから。結局、その人の人生とは、他人には評価できないし、善悪も決められない。だから他人の人生をとやかくいうのは無意味だし、他人から人生をとやかく言われるいわれもない。

今まで何千億人もの人々が人生を生き、死んでいった。無数の人生があり、そこには同じ数だけの後悔と悟りがあったはず。己の人生の外にも、無数の人生があったことに気づくことはなかなかない。身内がなくなり、友人がなくなる経験をし、人の死を味わったつもりでいてもなお、その千億倍の生き方と死にざまがあったことを実感するのは難しい。

私もそう。まだ両親は健在だ。また、母方の祖父は私が生まれる前の年に亡くなった。遠方に住んでいた母方の祖母と父方の祖母がなくなった際は、仕事が重なりお通夜や告別式に参列すらできなかった。結局、私がひつぎの中に眠る死者の顔を見た経験は数えるほどしかない。ひつぎに眠る死者とは、生者にただ見られるだけの存在だ。二度と語ることのない口。開くことのない眼。ぴくりとも動かない顔は、こちらがいくら見つめようとも反応を返すことはない。私がそのような姿を見た経験は数えるほどしかない。父方の祖父。大学時代に亡くなった友人二人。かつての仕事場の同僚。あとは、6,7度お通夜に参列したことがあるぐらい。祖父と友人の場合はお骨拾いもさせていただいた。もう一人の友人はなくなる前夜、体中にチューブがまかれ、生命が維持されていた状態で対面した。私が経験した死の経験とはそれぐらいだ。ただ、その経験の多少に関係なく、私は今までに千億の人々が死んでいったこと、それぞれにそれぞれの人生があったことをまだよく実感できていない。

『人間臨終図鑑』シリーズが素晴らしいこと。それは、これだけ多くの人々が生き死にを繰り返した事実だけで占められていることだ。『人間臨終図鑑』シリーズに登場した多くの人々の生き死にを一気に読むことにより、読み手には人の生き死にには無数の種類があり、読み手もまた確実に死ぬことを教えてくれる。著者による人物評も載せられてはいるが、それよりも人の生き死にの事実が羅列されていることに本書の価値はある。

人生が有限であることを知って初めて、人は時間を大切にし始める。自分に限られた時間しか残されていないことを痛感し、時間の使い道を工夫しはじめる。私もそう。『人間臨終図鑑』シリーズを読んだことがきっかけの一つとなった。自らの人生があとわずかである実感が迫ってからというもの、SNSに使う時間を減らそうと思い、痛勤ラッシュに使う時間を無くそうと躍起になった。それでもまだ、私にとって自分の人生があとわずかしか残されていないとの焦りが去ってゆく気配はない。多分私は、死ぬまで焦り続けるのだろう。

子供の頃の私は、自分が死ねばどうなるのかを突き詰めて考えていた。自分が死んでも世の中は変わらず続いていき、自分の眼からみた世界は二度と見られない。二度と物を考えたりできない。それが永遠に続いていく。死ねば無になるということは本に書かれていても、それは自分の他のあらゆる人々についてのこと。自分という主体が死ねばどうなるのかについて、誰も答えを持っていなかった。それがとても怖く、そして恐ろしかった。だが、成長していくにつれ、世事の忙しさが私からそのような哲学的な思索にふける暇を奪っていった。本書を読んだ今もなお、自我の観点で自分が死ねばどうなるか、というあの頃感じていた恐怖が戻ってくることはない。

だが、死ねば誰もが一緒であり、どういう人生を送ろうと死ねば無になるのだから、人生のんびり行こうぜ、という心境にはとても至れそうにない。だからこそ私は自分がどう生きなければならないか、どう人生を豊かに実りあるものにするかを求めて日々をジタバタしているのだと思う。

あとは世間に自分の人生の成果をどう出せるか。ここに登場した方々は皆、その道で名を成した方々ばかり。世間に成果を問い、それが認められた方だ。私もまた、その中に連なりたい。自分自身を納得させるインプットを溜め込みつつ、万人に認められるアウトプットを発信する。その両立は本当に難しい。引き続き、精進しなければなるまい。できれば毎年、自分の誕生日に自分の享年で亡くなった人の記事を読み、自分を戒めるためにも本書は持っておきたい。

果たして私が死に臨んだ時、自分が永遠の無の中に消えていくことへの恐れは克服できるのだろうか。また、諦めではなく、自分のやりたいことを成し遂げたことを心から信じて死ねるのか。それは、これからの私の生き方にかかっているのかもしれない。

‘2017/07/25-2017/07/26


The Greatest Showman


私は劇場で舞台や映画を観る前にあまりパンフレットを読まない。だが、本作は珍しいことに見る前にパンフレットを読んでいた。なぜなら妻と長女が先に観ていて、パンフレットを購入していたからだ。だから軽くストーリーの概要だけは知った上でスクリーンの前に臨んだ。家族四人で観たのだが、妻と長女は二回目の鑑賞となる。妻子にとっては何度も観たいというほど、本作に惚れ込んでいるようだ。

妻子の言う通り、確かに本作は素晴らしい。何がいいって、とにかく曲がいい。本作にはとてもキャッチーで耳に残る楽曲が多い。ミュージカルが好きな妻子にとってはミュージカル映画の王道を行く本作はたまらないと思う。私もミュージカルの舞台や映画はよく見るのだが、本作に流れる曲の水準の高さは他の名作と呼ばれるミュージカル舞台や映画に比べても引けを取らないと思う。かなりお勧めだ。妻が最初の鑑賞でサウンドトラックを買った気持ちもわかる。

妻から事前に聞いていたのは、本作が多彩な切り口から楽しめること。だが、その切り口が何なのかは観るまでは分からなかった。そして観終わった今は分かる。それは例えば家族の愛だったり、ハンディキャップを持って生まれた方への真の意味の配慮だったり、挑戦する人生への賛歌だったり、19世紀には厳然とあった差別の現実だったり、夫と妻の間の視点の違いだったり、身分を超えた愛だったり、演劇史からみたサーカスの役割だったり、米国のエンターテイナーの実力の高さだったり、あまりCGを感じさせない本作の撮影技術だったり、いつのまにか日本のテレビから消えた障がい者だったり、本作の場面展開の鮮やかさだったり、事実を脚色する脚本の効果だったり、SING/シングのシナリオと本作のシナリオが似ていることだったり、YouTubeで流れるメイキングシーンを観たくなるほどの本作の魅力だったり、さまざまだ。

そのすべての切り口から、本作は語れると思う。なぜなら本作は、限られた尺の中で視点のヴァリエーションを持たせることに成功しているからだ。メリハリを持たせているといってもよい。本作の尺は105分とそれほど長くない。そんな短い時間の中であっても構成と映像に工夫を凝らし、これだけたくさんの切り口で語れるような物語を仕上げている。その演出手法は見事だ。

本作はどちらかといえば物語の展開を楽しむ類の作品ではない。19世紀のアメリカで異彩を放ったP・T・バーナムの生涯をモチーフとしているが、彼の生涯は詳細に語らず、端折るところは大胆に端折っている。特に、バーナムと妻のチャリティの出会いから子を持つまでの流れを「A Million Dreams」の曲に合わせて一気に描いているシーンがそうだ。曲の一番を子役の二人に歌わせ、そのあと、ヒュー・ジャックマンがふんする青年バーナムとミシェル・ウィリアムズの演ずるチャリティの声が二番を引き継ぐことで、観客は視覚と聴覚で二人の成長を知る。しかも、この流れの中で挟まれるシーンは、チャリティが身分の違うバーナムに一生をかけて添い遂げようとする意志の強さと、バーナムの上流階級を見返したいとの反骨の心を観客に伝えている。

本作には上に挙げたシーンのように、登場人物の視点や心の揺れを画面の動きだけで表す演出が目立つ。それによって映像の中に多種多様な物語をイメージとして詰め込んでいるのだ。だからこそ、上に挙げたようなさまざまな切り口を本作の中に描写できるのだろう。

私は先に挙げた切り口のうち、三つほどが特に印象に残った。それを書いてみたい。

まずは、障がい者の取り上げ方だ。かつてドリフターズがやっていた「8時だョ!全員集合」では何度か小人のレスラーがでていた。ところが、最近はそういった障がいのある方を笑うような番組は全く見かけなくなった。障がいのある方を笑うなどもってのほか、というわけだ。だが、もともとエンターテインメントとは、本作でもバーナムが語っていたように猥雑で日常には出会えない出来事を楽しめるイベントだったのではないか。障がいのあった方でも、喝采と拍手でたたえられるような場。観客が彼らを笑うのではなく、彼らが観客を笑わせる。それこそがエンターテインメントの存在意義ではないかと思うのだ。だからこそ、彼らが一団となって自分が自分であることを高らかに歌い上げる「This is me」がこれだけの感動を呼ぶのだ。

本作には大勢のフリークスと呼ばれる人々が登場する。体の一部に障がいをもち、普段は日陰に追いやられていた方々だ。本作に登場する障がい者のうち、犬男やヒゲ女、入れ墨男などは、特殊メイクだろう。だが、当時人気を博した親指トム将軍を演ずる方と巨人を演ずる方は、実際に小人症と巨人症を患いつつ俳優として糧を得ている方だと思われる。かつて「ウィロー」という、小人の俳優がたくさん出演する映画を劇場で観た。今の日本に、こういうハンディキャップを持った方々の活躍する場があり、エンターテインメントとして成立っていることを私は寡聞にして知らない。スポンサーに配慮しての、リスクを考えてのことなのかどうかも知らない。もしそうだとすれば、もし日本の一般的な娯楽であるテレビに昔日の勢いが失われているとすれば、そういう見せ物的な要素が今のテレビから失われたからではないだろうか。

もちろん、障がい者もさまざまな人がいる。人によっては表に出たくないと思う人もいるだろう。だが逆に、人前に出て自分を表現し、賞賛を受けたいと思う障がい者だっているはず。障がい者だからといって十把一絡げにあつかうのはどうだろう。本作にも、彼らのようなフリークスたちが、バーナムサーカスに入って初めて本当の家族を得たというセリフがある。とすれば、そういう場をもっと作っても良いと思うのだ。エンターテインメントとはお高くとまった娯楽であっても良いが、同時に猥雑で珍しいものという側面もなくてはならないはず。アンダーグラウンドで後ろ暗い要素は全て排除され、インターネットに逃げてしまった。それが今のテレビがオワコン扱いを受ける原因だと思う。本作は、今の我が国のエンターテインメントに足りないものを思い出させてくれる。

続いては、バーナムがパートナーのフィリップをバーでスカウトするシーンだ。「The Other Side」のナンバーに乗って二人が丁々発止のやりとりを繰り広げる。本作には記憶に残るシーンが数多くあるが、このシーンもその一つ。ミュージカルの楽しさがこれでもかと堪能できる。カクテルバーのフレアショーを思わせるようにグラスとボトルが飛び交う。今の地位を捨てて冒険しようぜと誘うバーナムと、上流階級に属する劇作家の地位を盾に拒むフィリップ。スリリングなグラスのやりとりに対応して、「The Other Side」の歌詞は男の人生観の対決そのものだ。もちろん人によって価値観はさまざま。どう受け取るかも自由だ。私の場合は言うまでもなくバーナムのリスクをとる生き方を選ぶ。バーナムが今もなお名を残す成功者であり、彼の後ろには何百人もの失敗者がいることは承知の上で。それは本作が多面的な視点で楽しむことができるのと同じだ。全ては人生観の問題に帰着する。でも、それを差し置いてもこのバーで二人が掛け合いを演ずるシーンは心が躍る。すてきな場面だと思う。

あと一つは、結婚とは夫婦の感じ方の違いであることだ。バーナムは先に書いたとおり、成功に前のめりになる人物だ。リスクをとらない人生などつまらないと豪語し、フィリップを自らの生き方に巻き込む。だが、奥さんのチャリティはバーナムとは少し違う。彼女にとって成功はどうでもいいのだ。彼女は夫のバーナムが夢を追う姿に惹かれるのだから。そのため、バーナムが成功に浮かれ、夢を忘れた姿は見たくない。フリークスの仲間や家族を置いたまま、欧州から招いたジェニー・リンドとの興行に出かけるバーナムには夢を忘れて成功に溺れる姿しか感じない。そして、リンドとバーナムにスキャンダルの報道がでるに及んでチャリティは家を出てしまう。チャリティにとってみれば成功とはあくまでも結果に過ぎない。結果ではなく、経過。理想を見る男と現実を見る女の違いと言っても良いかもしれない。

つまり、本作はただ無責任にバーナムのような投機的な生き方をよしとする作品ではない。それとは逆のチャリティの価値観を置くことでバランスをとっている。それに応えるかのようにバーナムは最後までジェニー・リンドからの誘惑に揺るがず、妻子に操を立て続ける。彼が娘たちと妻を慈しむ心のなんと尊いことか。本作、そして主演のバーナムに魅力があるとすれば、この点だろう。山師の側面と家族に誠実な側面の釣り合いがとれていること。自らペテン師と大書されたシルクハットをかぶる姿も彼からうさん臭さを払拭している。

不具のフリークスたちをたくさん抱えてはいても、根本的に彼の側の人物で悪く書かれる人は登場しない。外見は中身の醜さに比例しないからだ。むしろ、つまらぬ差別意識で垣根を築こうとする上流階級の心の狭さこそが本作においては醜さの表れなのだ。本作は、一見するといびつな人物が多数登場するキワモノだ。だが、実は本作はあらゆるところでバランスをとっているのだ。それこそが本作を支える本質なのだと思う。

バーナムとチャリティは、身分の差を乗り越えて結ばれる。もう一組、身分の差を乗り越えて結ばれるカップルがいる。フィリップとアンだ。見た目や身分の壁を取っ払おうとする本作の試みがより強調されるのが、ザック・エフロンが演ずるフィリップとサーカスの空中ブランコ乗りアンにふんするゼンデイヤが夜の舞台で掛け合うシーンだ。演目に使うロープを使って二人が演ずるダイナミックな掛け合いは「Rewrite The Stars」のメロディに合わせ、サーカスを扱う本作にふさわしい見せ場を作る。ここも本作で見逃せないシーンの一つ。バーナムがとうとう義父と分かり合えなかったように、フィリップもアンとの恋を成就させるため両親と縁を切ってしまう。このシーンは、私が妻と結婚した頃のさまざまなことを思い出させる。立場は逆の。それもあって本作は私を魅了する。

本作はとにかく歌がよいと冒頭に書いた。それらの歌は、歌い手の姿が映えていればなおさら輝く。挿入歌が良い映画はたくさんある。だが、それらはあくまでも映像の後ろに流れる曲にすぎない。本作は演者がこれらの曲を歌いながら演ずる。曲はBGMではなく、作品そのものなのだ。全ての歌い手が輝いている。(ジェニー・リンドがステージで歌うシーンはさすがに吹き替えだったが。ミッション・インポッシブルであれだけのアクションをこなしていた彼女がこれだけ歌ったとすれば、それこそ感嘆する)。特にタイトルソングと上に書いた「This is me」はフリークスが勢ぞろいして見事なダンスを見せながら歌われるのだからたまらない。

欧米はミュージカルが芸術として欠かせない。我が国も宝塚や劇団四季、その他の劇団が頑張っているとはいえ、まだまだ主流にはなっていない。それは、テレビであまりミュージカルが流れてこないためもあると思う。たぶん、ミュージカルの魅力に気付いていない日本人はまだまだ多いはず。

今の私はジャニーズ事務所に何も含むところはない。秋元康さんにも。なので、ジャニーズ事務所や秋元康さんに逆にお願いしたいのだが、所属のアイドルの皆さんにはミュージカルで遜色なく歌い踊り演じられるぐらいのレベルになってほしいと思う。そうすれば、本作のようなレベルの作品が日本から生まれることだって夢ではなくなるのだから。

それこそ、何度でも本作をリピートしてみて欲しいと思う。

‘2018/03/10 イオンシネマ新百合ヶ丘


黄金の奴隷たるなかれ 出光佐三


『海賊と呼ばれた男』は、この国に出光佐三という快男児がいたことを高らかにうたいあげた一作だった。その中で舞台となる國岡商店は、出光商会をモデルとした百田氏の創作だ。その創業者國岡鐵造も同じく。

だが『海賊と呼ばれた男』はあくまで小説だ。作中の國岡鐵造は出光佐三をモデルにしているとはいえ、どこまで出光佐三の実像を捉えているか判断するには私の知識はいささか心もとない。そこであらためて実像の出光佐三を知りたくなった。そんなわけで二十年ぶりに出光佐三の伝記を読むことにした。

ところが本書を出光佐三の伝記として読むと少し座りの悪い気になる。本書はむしろ、出光商会の社史として読んだほうがしっくりくる。

あとがきで著者は書いている。本書は、社史を一般向けに書き直したものだ、と。本書の内容からは情念が感じられない。それは社史のように事実を丹念に追うスタイルを採っているからだ。さらに本書には、かなりの頻度で社史の記述が引用されている。

出光商会の沿革を並べることで、本書は客観的な視点を保ち続けていると言える。ただ間違えてはならないのは、客観的なのは文体であり筆致に限られていることだ。内容も客観的かと問われれば、それは違うと受け取るしかない。なぜなら社史とは往々にして手前味噌になってしまうものだから。そしてそもそも主観的なものだ。その傾向は本書からも感じられる。あちこちに引用される自画自賛とも取れる社史の記述から。

そもそも本書はタイトルからして出光佐三の伝記である。出光商会または出光興産の社史ではない。それなのに、出光佐三を語るのに出光商会の社史がふんだんに引用されるということは、それだけ出光佐三が会社経営に一生をささげた証だとも解釈できる。

ただ、誤解されがちなことがある。その誤解とは、出光佐三がビジネス一辺倒の人間味のない人物だということ。ところが私はそうではないと思っている。これはあくまでも私個人の想いだが、私が尊敬できる人物とはビジネスも遊びも一生懸命な人だ。もし出光佐三が私的な時間を顧みない仕事の鬼のような人物であれば尊敬はできない。ところが、出光佐三には、美術品収集の趣味があった。出光美術館の収蔵品が出光佐三の収集品をもとに開かれていることは有名だ。本書にもその辺りの経緯は出てくる。出光佐三にとって美術品の収集が遊びであるならば、彼は遊びにも全力を尽くした人物だったのだろう。そして、収集に情熱を捧げた出光佐三の人間味をより強く知りたいと思うのは私だけだろうか。本書に引用される出光佐三の口から出された名言は、あくまでビジネスの場での発言。彼の360度の人物像を知るには少し弱い。

もちろん、こういった編集方針は著者や編集者の意図であり、私がとやかく言うことではない。他方で『海賊と呼ばれた男』のように、国を思う熱い男として描かれた出光佐三もあるのだから。それと同じように、一人の男が成し遂げた成果として事実を羅列する本書の記述もあってよい。

ただ、出光佐三は人間を尊重する経営哲学で名高い。終戦直後、出光商会の海外事業の全てが失われた際、一人の社員も首にしなかったエピソードはよく知られている。『海賊と呼ばれた男』でもラジオ修理や海軍オイルタンク廃油くみ上げ事業が印象的に描かれていた。それに加えて本書には『海賊と呼ばれた男』で描かれなかった苦難の時期の業務が紹介される。それは例えば鳥取での農場経営や和歌山での漁業などだ。こういった事業が紹介されていることで、より出光商会が終戦後に追い込まれ、なりふり構わぬ状態だったことがわかる。それがよかった。それほどまでになりふり構わぬ状況でありながら、一人も解雇せずに乗り切ったのだから。その経営の信念の凄みが余計にわかるというものだ。

また、日田重太郎は出光商会創業資金やその後の数度にわたる出資で出光商会と佐三を助けた人物。『海賊と呼ばれた男』にも実名で登場する。彼もまた、出光商会の歴史には欠かせない。だが、本書には創業時の融資エピソードでしか登場しない。失敗したら「乞食になったらええやないか」と言い放ったエピソードも出てこない。そのかわりに、本書には銀行からの融資のエピソードが多く書かれている。二十三銀行からの融資で事業清算の瀬戸際から脱したエピソード。これは『海賊と呼ばれた男』の小説版でも少し扱われていた。そして、実際の経営の観点から見ると銀行から融資された金額こそが会社の危機を救ったのだろう。ただ、日田重太郎の挿話が劇的な分、そちらを小説や映画が重く取り上げるのもよくわかる。

日田重太郎の挿話だけではない。神出鬼没に海上給油を敢行し、出光商会を発展に導くきっかけとなった糸口も、日章丸事件の一連の経過も本書からは省かれている。ようするに本書は劇的な要素を一切取り除いているのだ。それは演出や感動など経営には必要ないと宣言するかのようだ。それによって本書は『海賊と呼ばれた男』で描かれた出光佐三の違う一面を彫りだしている。彼は海賊などでは決してなく、経営者として冷俐で優秀な人物だったのだろう。

ただ、本書には不満もある。『海賊と呼ばれた男』では徳山製油所の海上バース接続の苦労が描かれていた。本書にはそれが取り上げられていない。また、第一宗像丸の遭難事故についても本書では触れていない。社史をベースにしているとはいえ、良い面も悪い面も等しく取り上げるべきと思うのだが。それらの出来事は出光佐三の失策ではないし、彼の経歴に傷はつかない。それなのにいいことばかりを取り上げてしまうと、出光佐三を神格化することになりかねない。

さらに言うなら、出光興産では出光佐三の死の前年から不祥事がいくつか発生している。もちろんそれらも本書では触れていない。出光興産の悪口をはばかる気持ちはわかる、だが、それを書くことで、逆に出光佐三の存在がいかに出光商会にとって偉大だったかが一層際立つと思うのだが。

不世出の経営者として、近代日本に出光佐三がいたこと。それを知るためにも『海賊と呼ばれた男』と併せて本書を読むのは良いと思う。

‘2017/02/13-2017/02/14


大久保利通の肖像 その生と死をめぐって


私が本書を読んだ頃、我が家には薩摩弁が飛び交っていた。いや、飛び交っていたというのは正確ではない。話されていた、というのが正しい。誰によって話されていたかというと、うちの妻によって。

2016/11/20を千秋楽として、宝塚星組北翔海莉さんと妃海風さんのトップコンビが退団した。その退団公演のタイトルは「桜華に舞え」という。主人公は人斬り半次郎こと桐野利秋。全編を通して鹿児島訛り全開のこの作品を何度も観劇し、感化された妻は、日常の言葉すら薩摩訛りになったわけだ。

「桜華に舞え」は桐野利秋の生涯に男の散りざまを重ねた、北翔海莉さんの退団を飾るに相応しい作品だった。そして桐野利秋といえば西郷南州の右腕として、西南戦争でともに戦死したことでも知られる。

その西南戦争で薩摩出身でありながら、新政府軍側についたのが、本書で取り上げられている大久保利通だ。維新の薩摩を語るには欠かせない人物であり、維新の三傑であり、明治政府の元勲でもある。敵方だったためか「桜華に舞え」では脇役に甘んじている。そればかりか、明治維新に関する人物の中でも、大久保利通の人気は極めて低い。旧世代の士族につき、死んでいった桐野、西郷を見放し、敵に回したことで、情知らずのレッテルを貼られてしまったらしい。不平士族の不満の爆発に乗って乗せられた桐野、西郷の二人と違い、新生日本の理想を冷徹に見据えた大久保利通は、旧階級である氏族にくみするつもりなど毫もなかったはずだ。

大久保利通とは、情より論が勝った人物。それゆえに人気のなさは維新を彩った人士の中でも指折りだ。

だが、近年再評価の気運も高まっているという。

私自身、さまざまな書で大久保利通の事績や個人的なエピソードを知るにつけ、大久保利通とはたいした人物だと思うようになった。加えて、大久保利通が暗殺された紀尾井坂は、私が数年にわたって参画したプロジェクト現場に近い。清水谷公園に立つ大久保利通遭難碑は何度も訪れ、仰ぎ見たものだ。

本書を読むきっかけは、「桜華に舞え」以外にもある。それは仕事で郡山市を訪れたことだ。大久保利通最後の仕事となった安積開拓。それこそが今の郡山市発展の礎となった。私はそのことを郡山市開成館の充実した展示を読んで理解した。

安積開拓とは、猪苗代湖の水を安積の地、つまり、今の郡山市域に引き込み、巨大な農地に変える事業を指す。それによって明治日本の殖産を強力に推し進めようとした。その事業を通して大久保利通が発揮した着眼点や企画力は、まさに内政の真骨頂。その貢献度は、計り知れないものがある。

その貢献は、郡山市にあるという大久保神社の形をとって感謝されている。神殿こそないものの、祭神として大久保利通は祀られているという。まさに神だ。郡山市とは猪苗代湖を挟んで対岸に位置する会津若松が、いまだに戊辰戦争での薩長との遺恨を取り沙汰されていることを考えると、そこまで大久保利通の評価が高いことに驚くばかりだ。私は大久保神社の存在を本書によって教えられた。郡山の訪問時にそれを知っていれば訪れたものを。もし開成館の展示で紹介されていたとすれば、見落としたのかもしれない。不覚だ。

本書は、大久保利通にまつわる誤解を解くことをもっぱらの目的にしている。大久保利通にまつわる誤解。それは私が知るだけでもいくつかあるし、それらは本書にも網羅的に紹介されている。たとえば藩主後見の久光公に取り入るためだけに囲碁を身につけた、という処世術への軽蔑。紀尾井坂で暗殺された際、敵に背を向けた格好だったという汚名。佐賀の乱で刑死した江藤新平へ冷酷な対応をしたという伝聞。それらのエピソードを著者はおおくの資料を紐解くことで一つ一つ反論する。幕末の血なまぐさい日々にあって、志士達の前で示した勇敢なエピソード。佐賀の乱で刑死した江藤新平への残忍な態度だけが後世に伝えられた裏側の事情。征韓論に敗れて下野した西郷隆盛とは友情が保たれていたこと。西南戦争で示した大久保利通の心情の一端がこぼれ落ちた挿話。家族では子供思いであったこと、などなど。

そして著者がもっとも力を入れて反駁するのが、紀尾井坂で襲撃されたさい、見苦しい様を見せたという風評だ。著者はこの誤解を解き、悪評をすすぐため、あらゆる視点から当時の現場を分析する。私も本書を読むまで知らなかったのだが、紀尾井坂の変で襲撃を受けた時、大久保利通が乗っていた馬車は現存しているのだという。著者はその馬車の現物を見、馬車の室内に入って検分する。

そこで著者は馬車内で刺されたとか、馬車から引きずり出されたとかの目撃談が、遺された血痕の状況と矛盾していることを指摘する。つまり、大久保利通は、自らの意思で馬車の外に出て、襲撃者たちに相対したことを示す。背を向け、武士にあるまじき死にざまを見せたとの悪評とは逆の結論だ。

襲撃された際、大久保利通は護身用ピストルを修理に出していたという。間抜けなのか、それとも死生を超越した豪胆さからの行いかは分からない。だが、幕末から維新にかけ、血なまぐさい時代で名を遺すだけの才覚は持っていたはず。今さら無様な命乞いで末節を汚す男とは思えない。

だからこそ、本書には証拠となる馬車の写真は載せてほしかったし、イラストでよいから血痕の様子を図示して欲しかった。文章だけで書かれても説得力に欠けるのだ。大久保利通の最期が武士らしい決然としたものであってこそ、本書で著者が連綿と書き連ねた誤解への反論に箔が付くというもの。

最後にそれは本書の記述がもたらした、私にとってとても印象的なご縁について書き添えておきたい。そのご縁は、大久保利通と姫野公明師、そして私と妻を時空を超えて巡り合わせてくれた。

姫野公明師とは一説には明治天皇の御落胤とも言われる人物で、政財界に崇拝者も多いという。その姫野公明師が戸隠に移って建立した独立宗派の寺院が公明院となる。本書を読む5カ月前、私はとある団体の主催する戸隠参拝ツアーに参加し、公明院に入らせていただく機会を得た。公明院はとても興味深い場であり、護摩焚きの一部始終を見、貴重な写真や品々を拝見した。

大久保利通の最後を見届けた馬車が紀尾井坂から今の保存場所に行き着くまで。そこには、著者によるととても数奇な逸話があったらしい。そして、その際に多大な尽力をなしたのが姫野公明師だという。この記述に行き当たった時、わたしは期せずして身震いしてしまった。なぜかと言えば、ちょうどその時、私の妻が同じ戸隠参拝ツアーで公明院を訪れていたからだ。

わたしが文章を読んだ時刻と妻がが公明院を訪れた時刻が正確に一致したかどうか定かではない。ただ、ごく近しい時間だったのは確か。そんな限られた時間軸の中で姫野公明師と大久保利通、そして妻と私の間に強い引力が発生したのだ。そんな稀有な確率が発生することはそうそうない。スピリチュアルな力は皆無。占いも風水も心理学で解釈する私にして、このような偶然を確率で片付けることは、私にはとうてい無理だ。そもそも私がツアーに参加する少し前に、妻から公明院の由緒が記されたパンフレットを見せてもらうまで、姫野公明という人物の存在すら知らなかったのだから。今まで読んできた多くの本や雑誌でも姫野公明師が書かれた文章にはお目にかかったことがなかった。それなのに本書で姫野公明師が登場した記述を読んだ時、その公明院を妻が訪れている。これに何かの縁を感じても許されるはずだ。

戸隠から帰ってきた妻に本書の内容を教えたところ、とても驚いていた。そして本書を読んでみるという。普段、私が薦めた本は読まないのに。たぶん、本書を読んだ事で薩摩への妻の熱は少し長びいたことだろう。そのついでに、桐野、西郷の両雄と敵対することになった大久保利通についても理解を深めてくれればよいと思う。少なくとも怜悧で情の薄いだけの平面的な人物ではなく、多面的で立体的な人物だったことだろう。

私も引き続き、薩摩へ訪れる機会を伺い続け、いつかは明治を作った男たちの育った地を訪れたいと思う。

‘2016/11/20-2016/11/24


人間臨終図鑑II


本書では享年五十六歳から七十二歳までの間に亡くなった人々の死にざまが並べられる。五十六歳から七十二歳まで生きたとなれば、織田信長の時代であれば長生きの部類だ。当時にあっては長寿を全うしたともいえる。

人生の黄昏を意識し始めた人々は、死に際して諦めがいい。とはかぎらない。

本書に収められている以上は、それぞれがその世界で名を成した人々だ。努力に研鑽を重ね、なにがしかの実績を重ねて来た人々でもある。が、そういった人々こそ、まだまだ道なかば、と思いながら日々を生きているのではないか。死を前にして、自分はまだ若いと考えたことだろう。

人の死にざまを描くことで、その人の一生を総括できるのか。著者がこの図巻で試みようとするのは難儀な試みだ。その人の一生を知りたければ葬儀の参列者を観察すればいい。誰が言ったかは知らないが、一面の真理をついている。では、その人の死に方を観察すれば、その人の一生は理解できるのか。悟ったように従容と死に臨むことができれば、その人は生涯を悔いなく過ごせたといえるのか。これまた難しい問いだ。

私自身、齢四十三を数えた自らの人生を振り返ると、道半ばどころか、ひよっこもいいところだと思っている。まだまだ知りたいことやりたいことが無数に残っている。仮に今、死期を知らされたところで、きっと未練で取り乱すに違いない。

産まれた瞬間に死刑宣告を受けるのが生きとし生けるものの定め。それは頭ではわかっていても、悟りを開くにはやるべきことがまだまだ残っている。そう思っている。もちろん、一生を悟りの中に生きることもありだろう。だが、そこに諦めは持ち込みたくない。死に臨むなら、諦めの中でなく、やり切った満足の中に臨みたい。最後に一念発起し、盛大に花火を打ち上げるのも良いが、生半可な花火ではかえって悔いが残るかもしれない。それであれば体力のある今のうちにやりたいことをやっておきたい。

本書を読むと、否応なしに死に方について思いを致したくなる。日々を生きるのに精一杯な状態では、死に方について考える暇もないだろう。であれば、せめて他人が死に臨んでどのように納得したのか。どのように折り合いをつけたのか。その様を知り、自らの死生観を養うのがよい。いまだかつて、死で自らの生を終わらせなかった人間はいない。これを書いている私にもやがて死は訪れる。これを読んでくださっているあなたにも。死は等しくやってくる。

そして、死ぬ事を、頭のなかでわかったような気になっているのも私も含めて皆一緒だ。それであれば、少しでも自分の死に際して、慌てず騒がず、悔いなくその時を迎えるにはどうすればいいか。本書は、やがて訪れる死を前に、読んでおくべき一冊だと思う。

’2016/07/08-2016/07/10


人間臨終図鑑I


伝奇作家として知られる著者だが、有名な諸作品を読む前に著者の書いた伝記を読むことになってしまった。何を隠そう、私は著者の作品を今まで読んだことがなかったのだ。雑誌ではなく、書物で読むのは初めて。

本書は、古今東西の有名人の死に様を集めている。取り上げられているのは、享年が若い順だ。

冒頭をかざるのは、八百屋お七。想い人に逢いたいあまり放火をしでかした江戸の女性。享年十五歳。次は大石主税。忠臣蔵で知られる内蔵助の息子だ。父と共に吉良邸に討ち入りを果たし、切腹で生涯を終えた。享年十五歳。その次に登場するのは、ナチの強制収容所で命を落としたアンネ・フランク十六歳だ。

冒頭の若くして亡くなった三人は、どれも我が国では知られた存在だ。だが、人類の歴史を振り返れば享年十五歳未満で亡くなった人は他にもたくさんいるはずだ。だが、本書には登場しない。恐らくは本書に取り上げられるに足る業績がないためだろう。(放火を業績というのは憚られるが。)

なぜ、十五歳未満の人物が登場しないのか。それは、人生で成果を出し始める時期が十五歳以降であることを示す証拠だと思う。

本書は以降、十代から二十代、三十代と取り上げられる享年が上がってゆく。それに従い、紹介される死に様が変わっていくのが興味深い。

若いうちに亡くなる原因とは、不慮の事故であることがほとんどだ。もしくは若さ故の勇み足か。だが、将来を嘱望されながら、若くして病に世を去った方もいる。彼ら彼女らの無念も本書には取り上げられている。

三十代にもそれぞれの一生の締めくくりがあり、四十代にも死に至るまでの事情がある。著者がとりあげるのは、聖人君子だけではない。鬼畜な犯罪者だって革命家だって等しく取り上げる。いかに死んだのかを書く本書だが、何かを成し遂げないと本書には取り上げられないのだ。ただ死んだだけなら他にも該当者は沢山いる。諸外国にはその地で有名な若くして亡くなった人もいるだろうが、つまりは著者が取り上げるかどうかだ。やはり何をなしたか、が重要になるのかもしれない。

ただ、生前の業績が取り上げられる理由になるとはいえ、やはり本書は死に様を描く本だ。本書は享年五十五歳でなくなった大川橋蔵までが取り上げられている。人生五十年の信長の時代ならともかく、今から見ると五十代で死ぬのは若死にを意味する。

そのためだろうか、著者が書く若い人々の死に様には、どことなく哀惜の色が漂う。本書には32歳で暗殺された坂本竜馬も取り上げられているが、著者は以下のような言葉をはなむけに添えている。「もう少し生かしておきたかった、と思われる人間は史上そう多くないが、坂本竜馬はたしかにその一人である」。他に著者が本書内で同様に評価しているのは大杉栄、小栗虫太郎、島津斉彬などだ。

また、著者が作家なだけに、作家の訃報には紙数が割かれている。石川啄木や夏目漱石など。

本書は日本人の著者によって書かれただけに、日本人の割合が非常に高い。だからこそ、我々にとっては思い入れもあるし、日本人の死生観について興味深い例を教えてくれる。

自分がどうやって死ぬか。死ぬときには後世に恥じぬ死に様でありたい。そう思うのだが、まだまだそう思うには時間が掛かるのだろうな。

‘2016/07/06-2016/07/08


海賊とよばれた男


原作を読んだ時には泣かなかったのに、スクリーンの本作に泣かされた。

観る前の私の耳にちらほら漏れ聞こえてきた本作の評は、原作に比べてだいぶ端折られている、とか。果たして原作の良さがどこまで再現されているのか、不安を感じながら本作を観た。

そして、冒頭に書いたとおり泣かされた。

たしかに本作では原作から様々な場面がカットされ編集されている。その中にはよくもまあこのシーンをカットしたな、というところがなくもない。だが、私はよくぞここまで編集して素晴らしい作品に仕上げた、と好意的に思っている。

本作のパンフレットはかなり気合の入った作りで、是非読んでほしいと思うのだが、その中で原作者が2ページにわたってインタビューに答えている。もちろん原作や本作についても語っている。それによると、原作者からの評価も上々のようだ。つまり原作者からも本作の演出はありというお墨付きをもらったのだろう。

原作の「海賊とよばれた男」は、数ヶ月前に読み終えた。レビューについてもまだアップしていないだけで、すでに書き終えている。そちらに原作の筋書きや、國岡鐵造の人となりや思想については書いている。なのでこのレビューでは本作の筋書きそのものについては触れない。このレビューでは、本作と原作の違いについて綴ってみようと思う。

まず一つ目。

原作は上下二巻に分かれている。上巻では、最初の半分で戦後の混乱期を書き、残りで創業から戦前までの國岡商店の基盤づくりの時期を描く。下巻では戦後のGHQや石統との闘いを経て日章丸のイラン行き、そしてさまざまな國岡商店の移り変わりと鐵造の老境に至るまでの経緯が書かれている。つまり、過去の流れを挟んでいるが、全体としては時間の流れに沿ったものだ。

一方の本作は、戦後の國岡鐵造の時間軸で動く。その中で鐵造の追想が合間に挟まれ、そこで過去を振り返る構成になっている。この構成を小説で表現しようとすると、著者はとても神経を使い、読者もまた時間軸の変化をとらえながら読まねばならない。しかし文章と違って映像では國岡鐵造の容姿の違いを一目で観客に伝えることが可能だ。スクリーン上の時代が追想なのかそうでないか、観客はすぐ判断できる。つまり本作の構成は映像ならではの利点を生かしている。それによって、観客には本作の流れがとても理解しやすくなるのだ。

続いて二つ目。

本作では大胆なまでに様々なシーンを原作から削っている。例えば國岡鐵造が國岡商店を創業するまでの過程。ここもバッサリ削られている。國岡商店の創業にあたっては、大学の恩師(史実では内池廉吉博士)から示唆された商売人としての道(生産者より消費者への配給理念)が重要になるはずだ。しかしこのあらましは本作では省かれている。また、鐵造が石油に興味を持った経緯も全てカットされている。そういった思想的な背景は、本作のあるシーンでクローズアップされる「士魂商才」の語が書かれた額と、全編を通して岡田准一さんが演ずる國岡鐵造その人の言動から受け止めなくてはならない。この選択は、監督にとって演出上、勇気がいったと思う。

さらに大幅に削られているのが、日章丸事件の前段となるアバダン危機についての情報だ。本作では日承丸という船名になっているが、なぜ日承丸がイランまで行かねばならなかったか。この前提となる情報は本作ではほんのわずかなセリフとアバダンの人々の歓迎シーンだけで表されている。つまり、本作を鑑賞するにあたってセリフを聞き逃すと、背景が理解できない。これも監督の決断でカットされたのだろう。

また、原作下巻の半分を締める「第四章 玄冬」にあたる部分もほとんど削られている。日承丸が帰って来た後、画面にはその後の経緯がテロップとして表示される。テロップに続いてスクリーンに登場する鐵造は車椅子に乗った引退後の姿だ。日田重太郎との別れのシーンや油槽所建設、第一宗像丸遭難など、原作の山場と言えるシーンがかなり削られている。このあたりの監督の決断には目を瞠らされた。本作で木田として登場する日田重太郎との別れは、原作ではグッとくるシーンだ。しかし本作での木田は、戦後すぐの國岡商店の苦闘の中で、すでに写真の中の人物になってしまっている。木田との別れのシーンをカットすることで、上映時間の短縮の効果とあわせ、戦後復興にかける鐵造の想いと恩人木田への想いを掛け合わせる効果を狙っているのだろう。

さらに三つ目。

大胆にあちこちのシーンをカットする一方で、本作には監督の演出上の工夫が随所に施されている。アバダンを出港した日承丸が英国艦隊による拿捕を避けながらマラッカ海峡から太平洋に抜ける途中、英国軍艦と真正面に対峙するシーンがある。実は原作には本作に書かれたような船同士が対峙するシーンはない。原作で描かれていたのはむしろ国際法や政治関係上の闘争の方が主。アバダンからの帰路の描写はアレ?と拍子抜けするほどだった。しかし、それだと映像的に弱い。監督は映像的な弱さを補うため、本作のように船同士を対峙させ、すれすれですれ違わせるような演出にしたのだろう。それはそれで私にも理解できる。ただ、あんな至近距離ですれ違う操舵が実際に可能なのか、というツッコミは入れたいところだが。

もう一つ大きな変更点がある。それは東雲忠司という人物の描かれ方だ。本作で吉岡秀隆さんによって演じられた東雲は、かなり血肉の通った人物として描かれている。日承丸をイランに派遣するにあたって東雲が店主鐵造に大いに反抗し、番頭格の甲賀から頰を張られるシーンがある。このシーンは原作にはなく、監督独自の演出だ。でも、この演出によって戦時中の辛い思い出が思い起こされ、悲劇を乗り越えさらに國岡商店は進んで行かねばならない、という店主鐵造の想いの強さが観客に伝わる。この演出は原作者もパンフレットで認める通り、原作にない映画版の良さだと思う。

もう一つ、大きく違う点は弟正明の不在だ。正明は原作ではかなり主要な人物として登場する。戦時中は満鉄の部長であり、戦後は帰国して鐵造の片腕となった。だが、本作では全く登場しない。どういう演出上の意図があったのだろう。その理由を考えるに、そもそも本作では日承丸以降の出来事がほとんど描かれない。原作では日章丸事件以降も話はまだ終わらず、國岡商店を支える鐵造の後継者たちも交替していく様が書かれる。ところが本作からは後継者という要素が見事に抜け落ちている。國岡鐵造という人物を描くにあたり、監督は鐵造一人に焦点を合わせようとしたのではないか。そのため、後継者という要素を排除したのではないか。そして、後継者を排除した以上、正明を登場させるわけにはいかなかったのだと思う。

あと一つ、原作ではユキの大甥からの手紙が鐵造の元に届く。だが本作では、看護婦に連れられ車椅子に乗った鐵造が大姪の訪問を受ける設定に変わっている。ユキが残したスクラップブックを見、最後に挟まれていた二人で撮った写真を見て号泣する鐵造。観客の涙を誘うシーンだ。私が泣いたのもここ。手紙という伝達方法に比べると、直接映像で観客に届ける演出のほうが効果は高いに違いない。また、原作では子を産めないユキが、鐵造に相対してその旨をつげ、自ら身を引くという描写になっている。しかし、本作ではユキを引き合わせてくれた兄がユキからの手紙を鐵造に託ける設定となっており、ユキは姿を見せない。そしてユキからの手紙には、仕事でのすれ違いが原因で寂しさの余り身を引いたということが書かれている。原作の描写は時代背景を差し引いてもなお、女性にとって複雑な想いを抱かせかねない。監督はその辺りを配慮して、本作では子が産めないから自ら身を引くという描写ではなく、寂しいからという理由に和らげたのではないかと思う。

ここまで観ると、原作に比べて人名や船名が変わっていることも理解できる。日章丸と日承丸。日田重太郎と木田章太郎。新田船長と盛田船長。どれもが監督の演出によって原作と違った言動になった人物だ。その変化を宣言するためにも、登場人物の名前は変わらなければならなかった。そういうことだと私は受け止めている。

原作と映像作品は別物、と考える私は、本作で監督が施した一切の演出上の変更を支持したい。よくぞここまでまとめきったと思う。

そして監督の演出をスクリーン上に表現した俳優陣の頑張りにも拍手を送りたい。実は私は岡田さんを映画のスクリーンで観るのは初めて。同じ原作者による「永遠の0」も岡田さん主演だが、そちらもまだ観ていないのだ。そんな訳で初めて観た岡田さんの、20代から90代までの鐵造を演じ切ったその演技力には唸らされた。もはやジャニーズと言って鼻で笑うような人は私を含めていないのではないだろうか。その演技は一流俳優のそれだ。年齢に合わせて声色が替わり、鐵造の出身地である福岡訛りも私にすんなりと届いた。そもそも、最近のハリウッド作品で嫌なところがある。舞台が英語圏でないのに、役者たちが平気で英語を喋っていることだ。だが、本作ではそのあたりの
配慮がきちんとされていた。鐵造の福岡訛りもそうだし、GHQの将校の英語もそう。これはとてもうれしい。

他の俳優陣のみなさんもいちいち名前はあげないが、若い時分の姿から老けたところまでの、半纏を羽織って海へ乗り出して行く姿と背広を着てビジネスマン然とする姿、オイルタンクに潜って石油を組み上げる姿の喜びようなど素晴らしい演技で本作を支えていた。あと、ユキを演じた綾瀬はるかさんの演技も見逃すわけにはいかないだろう。ユキは、原作と違ってが何も言わず鐵造の元を去る。つまり、それまでのシーンで陰のある表情でその伏線を敷いておかねばならない。そして綾瀬さんの表情には決意を秘める女性のそれが刻まれていたと思う。その印象が観客の印象に残っていたからこそ、車椅子に乗った鐵造が大姪から見せられたスクラップブックと二人で撮った写真を見て慟哭するシーンの説得力が増すのだ。

本作を観たことで、俄然俳優岡田准一に興味がわいた。時間ができたらタオルを用意して「永遠の0」を観ようと思う。

’2017/01/07 イオンシネマ新百合ヶ丘


悪名の棺―笹川良一伝


パラ駅伝というイベントがある。健常者と障害者が八人で一チームを組み、義足や車椅子で駒沢オリンピック公園を八周する内容だ。

私が家族と見に行った11/29は、パラ駅伝 in TOKYO 2015という名称だった。桝添都知事やSMAP、宝塚歌劇団星組トップ北翔さんと妃海さん始め、多くの来賓も来ていた。その日は陸上競技場のスタンドで開会式から閉会式まで通しで見させていただいた。障害者スポーツについて、とても貴重な知見が得られたと思っている。しかし、残念なことが一つあった。それは、開会式と閉会式にたくさんの来賓から挨拶があったにも関わらず、マイクの調子のせいかほとんど私の耳に聞こえて来なかったことだ。だが、その中で一人だけ私の耳によく届いた声があった。その朗々たる声の持ち主こそ、日本財団の理事長笹川陽平氏であった。

笹川陽平氏のブログはたまに読ませてもらっている。もちろん、笹川陽平氏が日本財団に理事長である事を知った上で。そして陽平氏の父が笹川良一氏であり、日本財団とは、笹川良一氏が創設した日本船舶振興会の後継組織であることを知った上で。笹川良一氏といえば、今40歳以上の方にとってはおなじみの方ではないだろうか。私が子供の頃、日本船舶振興会のテレビCMが頻繁に流れていた。その中で一日一善や火の用心と叫んでいた人こそが、笹川良一氏であった。いまなお、ブラウン管の中の笹川良一氏の姿を思い浮かべることができるほど印象に残っている。幼い私にとっての笹川良一氏とは、ブラウン管の向こう側で一日一善や火の用心といったスローガンを叫び、壇上で賞状を授与されている何やら陽気で意味不明なお爺ちゃんであった。

昭和史に興味を持つようになってからは、笹川良一氏が単なる一日一善のお爺ちゃんではなく、昭和史に暗躍し後ろ暗い噂のつきまとう人物であることを知った。

では、笹川良一氏とは一体何者であったのか。そう自問すると、笹川良一氏のことを何も知らないことに気づく。週刊誌によるバッシング記事やWikipediaの記事を鵜呑みにするべきか。いや、そうではないはず。今回、笹川陽平氏の朗々と響く声をきっかけに笹川良一氏を一度知ってみようと思った。それが本書を手に取ったきっかけである。なお、本稿では笹川良一氏の事を以下良一氏と呼ぶことにする。

著者はノンフィクション作家である。そして著者もまた、私と同じように良一氏の実像に疑問を抱いたらしい。世間に流布している良一氏にまつわる話は、どこまでが伝説でどこまでが事実なのか。そんな疑問を解消するため、精力的に関係者へのインタビューを行った成果が本書である。著者の良一氏へのまなざしはさほど厳しくはない。礼賛とまではいかないにしろ、批判的要素はかなり薄いといってよい。著者は、取材対象である笹川陽平氏を初めとした縁故者への遠慮から批判的な論調を控えたのだろうか。それとも良一氏の真実の姿は本書に書かれたような無私の姿勢に彩られているのだろうか。ちまたでいわれるような政界の黒幕や右翼のフィクサーとのレッテルは、良一氏の表面しか見ていないのか。著者の人物探訪の旅は進む。

本書を読んだは良いが、私にはいまだに良一氏の全貌が把握できていない。むしろ、本書を読み終えた事で一層分からなくなったとさえ言える。分からなくなったのは、良一氏が黒幕か否かという表面的な部分ではない。私に分かったのは、良一氏はそんな表面的な毀誉褒貶を超えたところを生きた人物という事だ。おそらくは著者が本書で取材した内容は正しいのだろう。そしてそれは良一氏の一面でしかないはずだ。本書の及ばぬところ、例えば料亭の一室では良一氏は別の顔を演じていたに違いない。そこで話された内容の中には良一氏が黙したまま墓まで携えて行ったものもあるのだろう。大きく広い器の中に色々な世俗の清濁をあわせ呑んだまま、良一氏は96年の人生を生きぬいたのではないか。

本書を読む限りでは、良一氏の財力は本人の金儲けの才覚によるところが大きいという。だがそれは、裸一貫から築き上げた財力ではない。22歳にして父から莫大な遺産を受け継いで備わったものだ。著者は父からの相続額を今の金額にして1億2500万から3億の間ではないかと算出する。その遺産を元手に二度にわたって米相場で大儲けしたのが良一氏の冨の源泉だという。

このあたりの経歴については、本書にも確とした根拠が書かれているわけではない。全ては伝説の領域に属する話である。全ての冨が合法の下に蓄えられたかどうか、もはや誰にも分からない。しかし、一つだけ言えることがある。それは、当時いた多くの国士やフィクサー達と違い、良一氏が当初から金銭に困らぬ生まれ育ちだったということだ。その事実は、良一氏の生涯を理解する上で外せないポイントだ。

また、良一氏は、幼き頃川端康成氏と同じ郷里で育ったという。歳も近く、よく連れ立って遊んでいたのだとか。その事は本書で始めて知った事だ。川端康成氏の生家には20年ほど前に訪れたことがある。生家には川端という表札が掲げられ、今なお親族の方が住まわれている事が察せられた。偉大な作家の生家としては、生活感にあふれるたたずまいが記憶に残っている。本書によると良一氏の生家もその近くだとか。そして良一氏は、自らの生家に強い愛着を持ち、晩年になるまで妹さんの住む家を足しげく訪れていたという。私が川端氏の生家を訪れた頃は、まだ良一氏もご存命だった。あるいは出会えていたのかも知れない。

良一氏の人生に転機が訪れたのは1929年末。世界大恐慌である。その時期、良一氏は国粋大衆党を結党する。世界大恐慌はソビエトの共産主義革命により起こされた、そこから国を守るには右翼の力を強めねばならないという理屈だ。その解釈には疑問符が付くが、世界大恐慌でも破産しなかった良一氏は、資産家の右翼党首という珍しい立ち位置を手にする事になる。

良一氏は飛行機にも関心を持つ。自らも飛行機を操縦していたというから、本格的な関心だったのだろう。良一氏は東大阪あたりに広大な飛行場をつくる。そしてその飛行場を惜しげもなく軍に寄付する。このような行いこそが良一氏が誤解される一因なのだろう。実際、飛行場寄贈が後年、収賄の容疑をかけられる原因になり拘置までされたそうだ。だが飛行機好きの右翼党首という立場は、時代を下って山本五十六海軍元帥との交流につながる。

その交流は、海軍の飛行使節という形で良一氏を大戦前のイタリアへ赴かせる。そこで良一氏はムッソリーニとの会談を実現することになる。これもまた良一氏が生涯誤解され続けた原因の一つだろう。

開戦前から敗戦まで良一氏が過ごした日々の様子は、本書では簡潔に書かれている。山本元帥との交流は、良一氏に日独伊三国同盟や対英米戦にも反対の立場をとらせる。また良一氏は開戦後に行われた翼賛選挙に非推薦で出馬し、当選する。当選後は東條首相にも議会質問を行ったようだ。その質問内容も本書には紹介されている。それによると、東條内閣に恭順の意を示さなかったことで非推薦の扱いを受けたこと、非推薦候補であるがために受けた妨害の事実を糾弾した風にとれる。また、戦後社会党の党首となる西尾氏とは議員活動を通じて親しい交流も重ねたことも紹介されている。これらの戦前の活動からは良一氏の右翼や左翼といった型にはまらぬスケールのでかさがうかがえる。国粋大衆党の党首だから右翼の黒幕と決めつけることが、かえってつけた側の器の小ささを際立たせるような。もし著者が本書を良一氏の汚名を雪ぐ意図があって書いたのだとすれば、この辺りの事情についてもう少し紙数を割いてもよかったのではないか。

そのかわりに著者は、GHQによるA級戦犯調査の過程をつぶさに書いている。そこでもGHQが良一氏の扱いに困った様子が読み取れる。戦前の良一氏の活動は、右翼の黒幕として戦犯容疑の範囲に括れないスケールだったのだろう。著者が良一氏の替わりに批判の俎上に載せるのは児玉與志雄氏である。後年ロッキード事件で逮捕されたことでも知られる政界のフィクサーだ。著者は児玉氏こそが良一氏の悪評をばらまいた張本人である事を指摘する。戦前の良一氏の行いのあれやこれやが児玉氏によって非難され、罪とされたことが本書には記されている。良一氏は児玉氏による流言を知った上で素知らぬ風を装って遇していたらしい。その経緯が本当であれば、良一氏の器の広さはただ事ではない。

ではなぜ良一氏は進んで戦犯の汚名を被ったのか。それは、良一氏が戦犯として巣鴨プリズンに自ら望んで入獄したかったからだと著者は記す。自分自身が飛行場の収賄容疑で拘置された経験。この経験を元に他の入獄者の獄中生活の助けになりたかったのだという。にわかには信じられない話だ。それが本当なら、良一氏とは凄まじいまでの胆力の持ち主ではないか。

巣鴨での一挿話として東條元首相との関わりが紹介されている。東條元首相がGHQによる逮捕直前に自殺を図り、すんでの所で命を永らえたのは有名な話だ。その東條氏は東京裁判が始まるや態度を一転させ、昭和天皇に罪が及ばぬよう罪を自ら引き受ける堂々とした陳述を行なった事もよく知られている。本書では、東條元首相の態度が一変した裏に良一氏の貢献があったとしている。東條氏を諭したのが良一氏であったことは本書を読むまですっかり失念していた。

東京裁判の結果、七人のA級戦犯が刑場で処刑された。無罪として釈放された良一氏は、篤志匿名で遺族への援助に奔走する。幼い私の記憶に刻まれた日本船舶振興会だが、年度あたりの売り上げが兆を超していたという。そしてその売上の多くはABC級戦犯の遺族へ援助金として供出されたのだとか。ここまで来ると良一氏のスケールのあまりの巨大さに眉に唾つけて読みたくもなる。いったい、良一氏とはどのような人物なのか、本書を読むほどにその実像は遠ざかっていくようだ。

その一方で本書は良一氏の私的な部分にも踏み込む。公的な活動スケールの大きさは十分すぎるほどわかった。では良一氏の人間的な部分はどうなのか。これがまた規格外なのだ。聖人君子どころか英雄色を好むとの言葉そのものなのが良一氏の私生活のようだ。女性遍歴の豊かさについて本書は十分に書いている。浜松を境にして、東に行くと東京の愛妾を愛し、西に戻れば大阪の本妻に愛を注ぐ。それ以外にも陽平氏と兄二人の母がいて、さらに京都山科にも愛する女性がいて、隠れ家として使う。公的な伝説については虚実が曖昧だ。どこまでが本当なのか、それを知る本人はすでに泉下の人となっている。だが良一氏の私生活については深く関わった人々が存命だ。良一氏がパンツにうんこを付けて泰然としていたことや、性的な逸話など豊富に登場するのが本書だ。著者が陽平氏を初め、お手伝いさんや良一氏の愛妾など広く深く話を聞いた成果だと思われる。私的なエピソードからは良一氏の器のでかさよりは、幼いというか奔放な氏の性格が伺える。

著者は笹川陽平氏にも様々な私生活の良一氏を聞いたことだろう。本書における私的なエピソードの数々に登場するのは、息子からみた良一氏の素の姿。けちで有名だった良一氏からの極端でかつ筋の通った躾の数々。陽平氏と母は、東京大空襲の最中を九死に一生を得て生き延びたが、良一氏は当然そこにはいない。それでいて同居していなくても息子へのしつけは欠かさない。かなり規格外れの父親像ではないか。

しかし、陽平氏を初めとする三兄弟は、企業家として、議員として、日本財団の理事長として良一氏の残した物を守り継いでいる。その教育の証こそが、私が聞いた陽平氏の臍下丹田に力の入った声ではないだろうか。

結果として良一氏の破天荒な父親振りが良い父親だったとすれば、同じ父親として、私のあり方を省みて自信をなくすほかない。

そして、この期に及んでなお私は、幼き日に刷り込まれた良一氏による一日一善の言葉の底が、全く見えないことを知るのである。本書を読んで余計に良一氏が分からなくなったと書いたのは、そういうことである。

‘2015/12/04-2015/12/08


佐藤家の人びと―「血脈」と私


本書は本来なら血脈各巻の解説として巻末に附されるべきものだ。

しかし、上中下巻あわせて原稿用紙3400枚ともいう大作「血脈」。その解説には、語り尽くすべき内容が多すぎる。多彩な登場人物、無数のエピソード、何箇所もの舞台。一族の大河を描いた3400枚の中にはあまりにも多くの情報が込められている。

特に、血脈の登場人物には著者自身も含め、個性的な人物が多い。著者の筆があまりにも活き活きと登場人物を描くものだから、読者はついその人の顔をみたくなる。放蕩の限りを尽くすこの節という人物はどんな面構えなんだろう。狂恋に翻弄されシナを振り回す洽六の馬面とは、そして洽六をそうまでさせる女優シナの容姿とは。さらに、作者の子供時代のあどけなくも意志を感じさせる顔とは。本書には読者にとって興味の対象である登場人物達の写真が豊富に載せられている。

私は「血脈」上中下巻を読み通す間、いったい何度本書を繙いたか。十回や二十回どころではない。それこそ数えきれないくらいだ。弥六から洽六。シナの女学生時代や女優時代。洽六の一人目の妻ハツと、八郎、節、久の兄弟。夭折した長女喜美子。さらには早苗と愛子姉妹。八郎の息子たちに、八郎や愛子とは腹違いの真田与四男。八郎の師匠である福士幸次郎。個性的な人物の肖像がすぐに確認できる座右にあることで、血脈本編をめくる手にも一層熱がこもるというものだ。

また、本書には血脈登場人物の家系図も掲載されている。それによって読者は複雑な佐藤家の血脈関係を確認しながら本編を読み進めることができる。

また、本書にはいわゆる著者による謎解き的な解説文も豊富に掲載されている。私はそれらの文については、本編を読む間は一顧だにせず、本編読了後にまとめて読んだ。しかし、本書に収められた解説を読んでから再度本編を読み直すと、一層本編の理解も深まることは間違いない。著者自身による「血脈」や佐藤家の一族を語る冒頭から、著者と豊田氏、著者と長部氏、著者と大村氏による対談、さらには血脈の本編を補強するエピソードの数々。これほどの内容が載っているからこそ、本来は解説として下巻の巻末に附されるべき本書が独立した書籍として刊行されたのだろう。まさしく著者畢生の大作に相応しい扱いだともいえる。

本書を読んで、改めて「血脈」についてまとまった感想を述べてみたいと思う。

それは、特定の人物を小説のモデルにする、ということの是非についてだ。おそらくは「血脈」に出てくる内容のほとんどは限りなく事実に近いと思う。それは佐藤家の登場人物にとっては自分の悪行が暴かれ、読者にさらされることを意味する。しかも死後に。よくある評伝や伝記は、モデルの死後、生前のモデルを知らぬ人物によって書かれることが多い。よくある暴露本の類はモデルに近い人物によって書かれることが多いが、それは亡くなってすぐに書かれるため、生々しい内容になりがちだ。

「血脈」に登場する人物のほとんどは、なくなった後随分経ってからモデル化されている。存命だが、著者に色々と書かれた人物といえば、サトウハチロー記念館館長を務めているハチローの息子四郎ぐらいだろうか。あと、ハチローの孫にあたる佐藤家の嫡男恵も忘れてはならない。「血脈」は恵が著者に会いに来る場面で終わる。八百屋の引き売りになるという、佐藤家の血脈を引くに相応しい世俗的な栄華とは無縁の生き様を見せる一方で、荒ぶる血が鎮まったかのように細く落ち着く様子が本書の幕切れとして鮮やかな効果を与えている。つまり、恵は著者によって貶されるどころか佐藤家の血を鎮める役割として好意的に描かれている。

しかし、血脈を体現する主要人物はそうでもない。ワルとされる人物達は著者の人生にあまりにも深く関わっている。著者にとって愛憎半ばというより憎さも一入だったかもしれない。それは「血脈」や本書を読めば容易に感じられる。彼らは自らを憎む著者によってモデル化され、私生活が暴かれていく。自らの悪行を近しい娘であり妹であり姪である著者から書かれるということは、モデルとなった人物にとって何を意味するのか。私は結局のところ、それはどうでもよいことだと思う。彼らにとってみても、自分の人生がどう書かれようとどうでもよかったに違いない。やりたいようにやり切った人生は自分だけの物。死後に誰に何を書かれようとどうでもいい。そう思っていたのではないだろうか。少なくとも自分の行動が死後どのように書かれるか計算しながら生きた人物の人生など、他人から取り上げられることなどそうないだろう。彼らはそんな心配など一瞬たりとも考えずに人生を送ったに違いない。死後に何を書かれようとも気にしない。それは多分、評伝を書かれるような人物全てが思うことだと思う。墓に入ってしまえば何も反論できない。逆に生者たちが何を噂しようとも、死者には何の影響も与えまい。

でも、亡くなった方がつとに願うのは、自らの人生が嘘や捻じ曲げによる情報で汚されないことではないだろうか。どう思われようとも自分がやっていないことが事実としてまかり通ることは嫌だろうな、と思う。その人物を非難できるのはその人物と同じ時代を生きた人にだけ許されること。その人物の成した行為によって直接の影響を与えられた人物にしか非難する資格は与えられない。それは常々私がこうありたいと思う歴史への向き合い方だ。違う時代の人物によって書かれる評伝が学問として認められるのは、そこに取り上げられる対象の人物を非難するからではなく、歴史の正確性を期すためだからだ。一方で、同時代の著者によって書かれる暴露本が軽く見られるのは、生々しく利害がぶつかる内容であり、出来事から発生する波紋がまだ収まっておらず、確定していない事実を描くからだ。

では、「血脈」はどうなのだろうか。モデルとなった人物と同じ時代を過ごした著者によって書かれた「血脈」は、それが許される作品として考えてよいと思う。彼らの生きた人生をモデル化するのも非難するのも、彼らに近しい著者だから出来たこと。洽六もハチローも節も忠も五郎も、さらにはシナやカズ子やるり子や蘭子や早苗も、他人はともあれ愛子には書かれる資格があったのではないだろうか。そして、ここで言っておかねばならないのは、著者は決して彼らを憎しみだけで見ていたわけではなかったことだ。本書の36Pで書かれているが、著者が自伝「愛子」を上梓した際、室生犀星氏から手紙をもらったことが紹介されている。そこには「小説を書くことは、親を討ち、兄弟姉妹を討ち、友を討ち、己を討つことです」とあったという。この言葉がずぅーっと著者の中にあったとか。でも、著者は「血脈」を書く中で、彼らをただ討つだけではない高みに登っていったと思う。ユーモアもある愛すべき点もある人物として。それはたとえば、「佐藤家の人間はしょうがない連中だけど、ユーモラスなんですよ。で、それがあるから助かってる。それがなかったら悲惨な、読むに耐えない小説になったと思います」(P61-62)や、「佐藤家は悪口と怒りが渦巻く一家だった。だが背中合せに濃密な愛があった。「血脈」を描いてそれがわかったことが、私はうれしい」(P168)といった記述にそれが現れている。

どんな奇想天外な人生でも、どんなに人に迷惑をかけた人生でも、死ねば時がその苦さを薄めてゆく。故人をいつまでも非難するのではなく、きちんと向き合い、全力で理解しようと努める。本書は佐藤家の血脈を非難する本ではなく、肉親たちを鎮魂する本なのだ。

特定の人物を小説のモデルにするということは、ただ単に憎み貶すだけでは何物も産みださない。そうではなく本書のようにそこにある人間としての救いを描かないと駄目なのだ。それが本書の優れた点であり、構成に残すべきモデル小説として推薦する点だと思う。

‘2015/09/12-2015/09/15


運を天に任すなんて―人間・中山素平


自分が政治の世界に身を置いてみたところで、彼らを凌ぐような実績を残せる域にはまだ達していないと思うだけに、今の政治家の体たらくについてはあまり批判したくはないけれど、戦後の日本の高度成長を支えてくれた先達と比較して、これはという巨星が少ないような気がする。

日本の戦後復興にあたり、財界が果たした役割についての異論はないと思うけれど、財界に錚々たる人物が揃っていたことが、どれほど日本に発展をもたらしたか。

今までに様々な方を取り上げた評伝を幾冊も読んできたけれど、彼ら成功者と言われる方々に通ずるのは、運や能力よりも、意思の力が強い事ではないかと思う。特に会社勤めの頃よりも独立した今、そのことを感じるようになってきた。もとより自己啓発本の類はあまり手に取らない私だけれど、おそらく同じようなことが書かれているのではないかと思う。

本書のタイトルは、組織の中で理不尽とも思われる流れに逆らうことなく生きぬき、財界の重鎮となった中山素平氏に対して著者が言った言葉に対し、中山氏が返した強い反発の言をもとにしている。

中山氏の一生を概観すると、大勢の流れに抗せず、あるがままに生きたように見えるエピソードがあるため世間ではそのように評する向きもあったようだが、中山氏の中では、大したことでない場合には我を見せず、ここぞというところで意思を通したことに誇りを持たれているのだと思う。

実際、本書の中では中山氏の物事に拘泥しない普段のエピソードとともに、強固な意思の強さを表すエピソードも描かれている。その両のエピソードの結果として氏の社会的な実績が築きあげられたように受け取れた。

平素に柔軟な氏の人柄があったからこそ、肝心な時に意思を通せたのだということがよくわかる。どちらかが欠けても駄目なのであり、そのバランス感覚と、いざというときの抑揚、つまりメリハリの重要性が人生の荒波を乗り切るに有効であることを教えられる。

今年の一年をメリハリ、に置く私にとっても非常に参考になる生き方である。

’12/1/28-’12/1/30