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カエルの楽園


40も半ばになって、いまだに理想主義な部分をひきずっている私。そんな私が、SEALD’sや反安倍首相の運動を繰り広げる左派の人々に共感できない理由。それは現実からあまりに遊離した彼らの主張にある。それは、私が大人になり、社会にもまれる中で理想はただ掲げていても何の効力も発揮しないことを知ったからだろう。現実を懸命に生きようと努力している時、見えてくるのは理想の脆さ、そして現実の強靭な強さだ。現実を前にすると、人とは理想だけで動かないことをいやが応にも思い知る。契約をきちんと締結しておかないと、商売相手に裏切られ、損を見てしまう現実。

そもそも、人が生きていくには人間に備わっている欲望を認め、それを清濁併せのむように受け入れる必要がある。私はそうした現実の手強さをこれまでの40数年の人生で思い知らされてきた。

人は思いのほか弱い。一度、自分の思想を宣言してしまうとその過ちを認めづらくなる。右派も左派もそれはおなじ。だから、論壇で非難の応酬がされているのを見るにつけ、どっちもどっちだと思う。

そんな論壇で生き残るには、論者自身がキャラを確立させなければならない。そして自らが確立したキャラに自らが縛られる。そのことに無自覚な人もいれば、あえて自らが確立したキャラに引きずられることも厭わず自覚する人もいる。後者の方の場合、自らのキャラクターの属性として、主張を愚直に繰り返す。

私にとって右だ左だと極論を主張している論者からはそんな感じを受ける。だから私は引いてしまう。そして、簡単に引いてしまうので論壇で生き残れないだろう。柔軟すぎるのは論壇において弱点なのだと思う。そんなシビアな論壇で生き残るには、硬直したキャラ設定のもとで愚直に振舞うか、右や左にとらわれない高い視野から全てを望み、それでいてミクロのレベルでも知識を備える知性が必要だ。私は、右派と左派の喧々諤々とした論争には、いつまでたっても終わりがこないだろう、と半ばあきらめていた。

ところが、本書が登場した。本書はひょっとすると右だ左だの論争に対する一つの答えとなるかもしれない。いや、左派の人々は、本書をそもそも読まないから、本書に込められた痛烈な皮肉を目にすることはないだろう。何しろ著者は右派の論客として名をあげている。そんな本を読むことはないのかもしれない。

私は著者の本を何度か当ブログでも取り上げた。著者の本を読む度に思うことがある。それは、著者はマスコミで発言するほどには、イデオロギーの色が濃くないのではないか、ということだ。少なくとも著作の上では。国粋思想に凝り固まった右向け右の書籍や、革命やブルジョアジーや反乱分子といった古臭い言葉が乱発される左巻き書籍と比べると、著者の作品は一線を画している。それは著者が放送作家として公共の電波に乗る番組を作ってきたことで培われた作家のスキルなのだろう。要するに読みやすい。右だ左だといったイデオロギーの色が薄いのだ。

本書の価値は、著者が作家としてのスキルを発揮し、童話の形でイデオロギーを書いたことにある。いわば、現代版の『動物農場』と言ったところか。本書に登場する個々のカエルや出来事のモデルとなった対象を見つけるのは簡単だ。本書のあちこちにヒントは提示されている。対象とは日本であり、中国であり、北朝鮮であり、韓国だ。在日朝鮮人もいれば、アメリカもいる。著者自身も登場するし、左翼文化人も登場する。自衛隊も出てくるし、尖閣や竹島と思われる場所も登場する。非核三原則や朝日新聞、日本国憲法九条すら本書には登場する。

カエルの暮らしをモデルとし、それを現実の国際政治を思わせるように仕立てる。それだけで著者は日本の置かれた状況や、日本の中で現実を見ずに理想を追い、自滅へ向かう人々を痛烈に皮肉ることに成功している。物事を単純化し、寓話として描くこと。それによって物事の本質をより一層クリアに、そして鮮明に浮かび上がらせる。著者の狙いは寓話化することによって、左派の人々の主張がどのように現実から離れ、それがなぜ危険なのかを雄弁に語っている。

これは、まさにユニークな書である。収拾のつきそうにない右と左の論争に対する、右からの効果的な一撃だ。戦後の日本を束縛してきた平和主義。戦争放棄を日本国憲法がうたったことにより、成し遂げられた平和。だが、それが通用したのは僅かな期間にすぎない。第二次大戦で戦場となり疲弊した中華人民共和国と韓国と北朝鮮。ところが高度経済成長を謳歌した日本のバブルがはじけ、長期間の不況に沈んでいる間に状況は変わった。

中国は社会主義の建前の裏で経済成長を果たした。そしていまや領土拡張の野心を隠そうともしない。韓国と北朝鮮も半島の統一の意志を捨てず、過去の戦争犯罪を持ち出しては日本を踏み台にしようともくろんでいる。世界の警察であり続けることに疲れたアメリカは、少しずつ、かつてのモンロー主義のような内向きの外交策にこもろうと機会をうかがっている。つまり、どう考えても今の国際関係は70年前のそれとは変わっている。

それを著者はアマガエルのソクラテスとロベルトの視点から見たカエルの国として描く。敵のカエルに襲われる日々から脱出するため、長い旅に出たカエルたち。ナパージュに着いた時、たくさんのカエルは、ソクラテスとロベルトの二匹だけになっていた。ナパージュはツチガエルたちの国。そして高い崖の上にあり、外敵がいない。だからツチガエルたちは外敵に襲われることなど絶対にないと信じている。なぜ信じているのか。それは発言者であるデイブレイクが集会でツチガエルたちにくどいほど説いているからだ。さらにデイブレイクは、三戒を説く。三戒があるからこそ私たちツチガエルは平和に暮らせているのだと。三戒がなければツチガエルたちは昔犯した過ちを繰り返してしまうだろうと。ツチガエルは本来は悪の存在であって、三戒があるから平和でいられるのだ。と。

カエルを信じろ
カエルと争うな
争うための力を持つな

三戒が繰り返し唱えられる。それを冷ややかに見る嫌われ者のハンドレッド。そしてかつて三戒を作り、ツチガエルたちに教えたという巨大なワシのスチームボート。ツチガエルによく似た姿かたちだが、ヌマガエルという別の種族のピエール。デイブレイクからは忌み嫌われているが、実は実力者のハンニバルとその弟ワグルラとゴヤスレイ。ナパージュを統治する元老院には三戒に縛られる議員もいれば、プロメテウスのように改革を叫ぶ議員もいる。一方で、子育てのような苦しいことがいやで楽しくいきたいと願うローラのようなメスガエルも。

そんなツチガエルの国ナパージュを、南の沼からウシガエルが伺う。ウシガエルの集団が少しずつナパージュの領土を侵そうとする。元老院は紛糾する。デイブレイクはウシガエルに侵略の意図はなく、反撃してはならないと叫ぶ。あげくにはウシガエルを撃退したワグルラを処刑し、ハンニバルたち兄弟を無力化する。スチームボートはいずこへか去ってしまい、ウシガエルたちに対抗する力はナパージュにはない。ウシガエルたちが侵略の範囲を広げつつある中、議論に明け暮れる元老院。全ツチガエルの投票を行い、投票で決をとるツチガエルたち。ナパージュはどうなってしまうのか。

上に書いた粗筋の中で誰が何を表わしているかおわかりだろうか。この名前の由来がどこから来ているのかにも興味が尽きない。ハンドレッド、などは明らかに著者を指していてわかりやすい。デイブレイクが朝日というのも一目瞭然だ。スチームボートはアメリカ文化の象徴、ミッキーマウスからきているのだろう。だが、ハンニバルとワグルラとゴヤスレイが自衛隊の何を表わしてそのような名前にしたのかがわからなかった。ほかにも私が分からなかった名前がいくつか。

そうしたわかりやすい比喩は、本書の寓話を損なわない。そして、本書の結末はここには書かない。ナパージュがどうなったのか。著者は本書で何を訴えようとしているのか。

私の中の理想主義が訴える。相手を信じなくては何も始まらないと。私の中の現実主義が危ぶむ。備えは必要だと。そして現実では、日韓の関係が壊れかけている。まだまだ東アジアには風雲が起こるだろう。理想主義者ははたして、どういう寓話で本書に応えるのか。

‘2018/08/21-2018/08/21



本書を読んでいて、私が台湾を扱った小説をほとんど読んだことがないことに気づいた。本書は私にとって台湾を扱った初めての小説かもしれない。本書を読んで台湾がとても懐かしくなった。

台湾は私にとって思い出の深い島だ。かつて、民国84年の夏に台湾を訪れたことがある。この夏、私は自転車で台湾を一周した。その経験は若い日の私に鮮烈な印象を与えた。あれから年以上たった今もなお、台湾には再訪したいと願っている。なお、民国84年とは台湾で使われている民国歴のことだ。西暦では1995年、和暦では平成七年を指す。

本書は台北に住む葉秋生が主人公だ。時代は民国64年。つまり1975年だ。この年、台湾の蒋介石総統が死去した。本書はその出来事で幕を開ける。その年、葉秋生は17才。まだ世間と自分との折り合いをつけられず、真面目に学業を送っていた秋生が描かれる。

本書はそこからいろいろな出来事が葉秋生に起こる。本書は成長した秋生が民国64年から民国70年代までの自らを振り返り、かつての自分を振り返る文体で描かれている。その中で秋生は人生の現実に振り回されつつ、成長を遂げていく。そのきっかけとなったのは、秋生をかわいがってくれた祖父が殺された現場を目撃したことだ。その経験が秋生の人生を大きく変えてゆく。秋生が成長しつつ、祖父の歴史を探りながら、自分の中にある中華と台湾の血を深めてゆくのが本書の趣向だ。

本書のタイトル「流」とは彼の人生の流れゆくさまを描いた言葉だ。それは国民党と共産党の争い、日本軍との争いに翻弄された人々の運命にも通じている。本書に登場する台湾と中国本土の人々は、大きな意味で中華民族に属している。だが、正確には近代の歴史の変転が中華民族を台湾海峡を隔てた溝を作ってしまった。本書の扉にもそれを思わせる言葉が描かれている。

  魚が言いました・・わたしは水のなかで暮らしているのだから
  あなたにはわたしの涙が見えません
             王璇「魚問」より

ここでいう水とは、中華民族を大きく包む文化を指すのだろう。涙とは同じ中華民族が国民党と共産党に分かれて争うことを余儀なくされた悲しみを指すのだろうか。それとは別の解釈として、海に囲まれた台湾に追いやられた悲しみは中国大陸には理解できないとも読める。また、この一節は別の読み方もできる。それは関係が近ければ近いほど、かえってお互いが抱える苦しみが見えなくなることへの比喩だ。本書は結ばれることのない恋愛も描いている。その恋愛のゆくえに上の一節が投影されているとも取れる。

本書が描こうとしているのは、共通した文化がありながら、台湾と中国本土の間に横たわる微妙な差異だ。だが、その前に台湾の人々の気性をしっかりと書く。台湾の中にも本省人や外省人といった違いはある。例えば本省人が日本人に対して持つ感情と、外省人が日本人に対して持つ感情は当然違う。それは私も訪問して感じたことだ。外省人は、国共内戦で敗れた国民党が台湾に本拠を求めた時期と前後して台湾に住んだ人々の事だ。一方の本省人は、それ以前から台湾に住んでいた人々だ。日清戦争で日本が台湾を領有した時期も知っている。本書の中でも岳さんが日本統治時代のすべてが悪いわけではなかったと述懐するシーンがあり、そこにも本省人と外省人の考え方の違いがにじみ出ている。

著者は台湾で生まれ、五歳までそこで過ごしたという。その経験は、著者にしか書き分けられない台湾と日本と中国の微妙な違いを本書に与えていることだろう。とはいえ、私には本書から台湾人の感性を読み取ることは難しかった。しょせん、二週間訪れただけでは分かるはずがないのだ。だが、本書には細かいエピソードや会話があちこちにちりばめられ、台湾の日常の感性がよく描かれている。また、全編を通して感じられるのは洗練とは遠い台湾の日常だ。それは粗野といってもよいくらいだ。 例えば秋生が軍隊でしごかれるシーンなどはそれに当たるのと思うだろうか。ドラム缶に入れられ、斜面に転がり落とされる軍隊流の仕打ちなどは、常に中国大陸からの侵攻におびえる台湾の現状を端的に表しているといえるのかもしれない。

そうした台湾の日常は、秋生が中国大陸を訪ねるシーンで台湾と大陸の感性の違いとしてクローズアップされる。プロローグで秋生が山東省の沙河庄の碑を訪れるシーンから、その微妙な違いが随所に表現される。その地は秋生の祖父が日中戦争中に馬賊として犯した殺戮の事実を記す碑が建っている。その地を訪れた秋生が野ざらしでトイレを探す秋生に、タクシーの運転手がぽつんと荒野に立つ壁を指さすシーンなどにその広さやゆとりが感じられる。本書の表紙の写真がまさにその地のイメージをよく伝えているが、そこに見える茫洋とした地平は台湾では見られない光景のはず。本書の終盤にも秋生は中国大陸を訪れるが、そのシーンでは大陸と台湾の違いはより色濃く描かれている。

そのような違いにもかかわらず、同じ中華民族として共通する部分もある。例えば秋生が大陸で言葉を交わすシーンなどは、同じ言語を持つ民族の利点だろう。共通する文化があるのに、微妙な細かいところで違う。その文化の距離感が本書は絶妙なのだ。長じた秋生は日本で仕事を得ることになるが、日本という異郷を通すことで中国と台湾の違いを客観的に眺める。そうした設定も本書の文化的な描写の違いを際立たせている。

秋生が結婚することになる夏美玲が秋生にいうセリフ。「わたしたちはみんな、いつでもだれかのかわりなんだもん」。このセリフこそ、悠久の中華の歴史を一言で語っているのではないか。そこにあるのは台湾と中国の間にある共通の文化が培ってきた長い年月の重みだ。その悠長な歴史観は、台湾と中国の溝すらもいつかは埋まると楽観的に構えているに違いない。そうではないか。

私もまた近々、台湾に戻ろうと思う。台湾の今を知るために。悠久の歴史を知るために。私たちに親切にしてくれた人々の思い出に浸るために。これからも親日であり続けてほしいと願うために。そして大陸との統一の可能性を知るために。私にとっての20年の空白など、中国の長い歴史に比べるとちっぽけに過ぎないという卑小さを噛みしめるために。


人類5万年 文明の興亡 下


541年。著者はその年を東西の社会発展指数が逆転し、東洋が西洋を上回った年として特筆する。

それまでの秦漢帝国の時代で、西洋に遅れてではあるが発展を遂げた東洋。しかし「社会発展は、それを妨げる力を生み出す」パラドックスは東洋にも等しく起こる。三国志の時代から魏晋南北朝、そして五胡十六国の時代は東洋にとって停滞期だった。しかし、それにもかかわらず東洋は西洋に追いつき抜き去る。分裂と衰退の時期を乗り切った東洋に何が起こったのか。著者はここで東洋が西洋を上回った理由を入念に考察する。その理由を著者は東洋のコア地域が黄河流域から南の長江流域へと拡大し、稲作の穀倉地帯として拡大したことに帰する。東洋の拡大は、隋と唐の両帝国を生み出し、東洋は中国をコアとして繁栄への道をひた走る。一方、西洋はビザンティン帝国によるローマ帝国再興の試みがついえてしまう。そればかりか、西洋の停滞の間隙を縫ってムハンマドが創始したイスラム教が西洋世界を席巻する。

西洋は気候が温暖化したにもかかわらず、イスラム教によってコアが二分されてしまう。宗教的にも文化的にも。つまり西洋は集権化による発展の兆しが見いだせない状況に陥ったのだ。一方の東洋は、唐から宋に王朝が移ってもなお発展を続けていた。中でも著者は中国の石炭産業に注目する。豊かに産出する石炭を使った製鉄業。製鉄技術の進展がますます東洋を発展させる。東洋の発展は衰えを知らず、このまま歴史が進めば、上巻の冒頭で著者が描いた架空の歴史が示すように、清国の艦隊をヴィクトリア女王がロンドンで出迎える。そのような事実も起こりえたかもしれない。

だが、ここでも「社会発展は、それを妨げる力を生み出す」パラドックスが東洋の発展にブレーキをかける。ブレーキを掛けたのは異民族との抗争やモンゴルの勃興などだ。外部からの妨げる力は、洋の東西を問わず文明の発展に水をさす。この時、東洋は西洋を引き離すチャンスを逃してしまう。反対にいつ果てるとも知らぬ暗黒時代に沈んでいた西洋は、とどめとばかりに黒死病やモンゴルによる西征の悲劇に遭う。だがモンゴルによる侵略は、東洋の文化を西洋にもたらす。そして長きにわたったイスラムとの分断状態にも十字軍が派遣されるなど社会に流動性が生まれる。イスラムのオスマン・トルコが地中海の東部を手中に収めたことも西洋の自覚を促す。そういった歴史の積み重ねは、西洋を復活へと導いてゆく。

東洋の衰えと西洋の復活。著者はここで、東洋が西洋を引き離し切れなかった要因を考察する。その要因として、著者は明の鄭和による大航海が東洋の優位と衰退を象徴することに着目する。鄭和艦隊の航海術。それは東洋を西洋に先んじてアメリカ大陸に到達させる力を持っていた。あるいはアステカ文明は、ピサロよりも先に中華文明によって絶滅に追いやられていたかもしれないのだ。そんな歴史のIF。そのIFは、マダガスカルやシリアまでも遠征し、当時としては卓越した航海術を擁した鄭和艦隊にとって不可能ではなかった。著者は鄭和艦隊を東洋の優位性を示す何よりの証拠と見ていた。

しかし明の皇帝たちは引き続いての艦隊の派遣に消極的となる。一方の西洋はバスコ・ダ・ガマやコロンブスなど航海によって大きく飛躍するのに。この差がなぜ生じたのか。この点を明らかにするため、著者はかなりのページ数を割いている。なぜならこの差こそが、541年から1773年まで1000年以上続いた東洋の優位を奪ったのだから。

あらためて著者の指摘する理由を挙げてみる。
・中国のルネッサンスは11世紀に訪れ、外遊の機運が盛り上がっていた。が、その時期には造船技術が進歩していなかった。一方、西洋のルネッサンスは16世紀に訪れたが、その際は東洋の造船技術が流入しており、労せずして西洋は航海技術を得ることができた。
・中国にとって西には西洋の文物があることを知っていた。だが、後進地域の西洋へと向かう動機が薄かった。また、東の果て、つまりアメリカ大陸までの道のりは間に太平洋を挟んでいたため遠方であった。つまり、東洋には距離的にも技術的にも未知の国へ向かわせるだけの動機が弱かった。東洋に比べて文化や技術で劣る西洋は距離的に大陸まで近く、技術の弱さが補えた。

東洋がダイナミズムを喪いつつある時期、われらが日本も登場する。その主役は豊臣秀吉だ。著者は本書の135ページで秀吉による日本統一をなぜか1582年と記している(私の意見では1590年の小田原征伐をもって日本は統一された)。が、そんな誤差はどうでもよい。肝心なのは、当時の世界史の潮流が地球的なスケールで複雑にうねっていたことだ。本書から読み取るべきは世界史の規模とその中の日本の締める位置なのだ。極東の島国は、この時ようやく世界史に名前が現れた程度でしかない。日本が範とし続けてきた中国は官僚による支配が顕著になり、ますます硬直化に拍車がかかる。ではもし、秀吉が明を征服していれば東洋にも違う未来が用意されていたのか。それは誰にもわからない。著者にも。

西洋はといえば、オスマントルコの脅威があらゆる面で西洋としての自覚が呼び覚ましていく。それは、ハプスブルク家による集権体制の確立の呼び水となる。西洋の発展には新たに発見された富の存在が欠かせない。その源泉はアメリカ南北大陸。精錬技術の発達と新たな農場経営の広がりが、西洋に計り知れない富と発展をもたらすことになる。そしてそれは産業革命へと西洋を導いてゆく。王権による集権化の恩恵をうけずに人々の暮らしが楽になる。それはさらなる富を生み出し技術発展の速度は速まる。全てが前向きなスパイラルとなって西洋を発展させる。かくして再び西洋が東洋を凌駕する日がやってくる。著者はそれを1773年としている。

1773年。この前後は西洋にとって重大な歴史的な変化が起こった。アメリカ独立戦争やフランス革命。もはや封建制は過去の遺物と化しつつあり、技術こそが人々を導く時代。ところが西洋に比べ、東洋では技術革新の波は訪れない。著者はなぜ東洋で技術発展が起きなかったのか、という「ニーダム問題」に答えを出す。その答えとは、硬直した科挙制から輩出された官僚が科学技術に価値を置かなかったことだ。東洋は後退し、いよいよ西洋と科学の時代がやって来たことを著者は宣言する。

なぜ産業革命は東洋で起きなかったのか。著者は科挙制の弊害以外に労働者単価が低かったことを主な理由としている。そして19世紀になっても東洋で産業革命が起きていた確率はほぼなかっただろうと指摘する。

いずれにせよ、西洋主導で社会は動きはじめた。その後の歴史は周知の通り。1914年から1991年までの大きな戦争(と著者は第一、二次大戦と冷戦を一つの戦争の枠組みで捉えている)をはさんでも西洋主導の枠組みは動きそうにない。いまだにG8で非西洋の参加国は日本だけ。

だが、著者はその状態もそう長くないと見る。そして、ここからが著者が予測する未来こそが、本書の主眼となるのだ。上巻のレビューにも書いた通り、今まで延々と振り返った人類の歴史。われわれのたどってきた歴史こそが、人類の未来を占うための指標となる。著者はここであらためて世界史の流れをおさらいする。今度は始源から流れに乗るのではなく、2000年の西洋支配の現状から、少しずつ歴史をさかのぼり、どこで東洋と西洋の発展に差が生じたのかを抑えながら。その際に著者は、歴史にあえて仮定を加え、西洋と東洋の発展の歴史が違っていた可能性を検証する。

著者はその作業を通じて「二〇〇〇年までの西洋の支配は、長期的に固定されたものでも短期的な偶発的事件によるものでもないと結論づけることができる」(301P)と書く。つまり、長期的に妥当な必然が今の西洋支配につながっているのだ。

では、これからはどうなるのだろう。著者は2103年を「西洋の時代が終わると予測される一番遅い時点」(309P)と仮定する。

ここ250年、西洋は世界を支配してきた。その日々は東洋を西洋の一周縁地域へとおとしめた。では今後はどうなるのか。これからの人類を占う上で、人工知能の出現は避けては通れない。人工知能が人類の知恵を凌駕するタイミング。それを技術的特異点(シンギュラリティ)という。人工知能に関するコアワードとして、シンギュラリティは人口に膾炙しているといってよい。著者はシンギュラリティが引き起こす未来を詳細に予測するとともに、破滅的な人類の未来もあらゆる視点から予想する。そもそもシンギュラリティに到達した時点で西洋と東洋を分ける意味があるのか、という問い。それと同時に、破滅した世界で東洋と西洋とうんぬんする人間がいるのか、という問いも含めて。著者の問いは極めて重い。そもそも西洋と東洋を分けることの意味から問い直すのだから。

著者の予測する未来はどちらに転ぶともしれない不安定で騒々しいものだ。著者は人類の歴史を通じて西洋と東洋の発展の差を考察してきた。そして今までの考察で得た著者の結論とは、進化という長いスパンからみると東洋と西洋の差などたいした問題でないことだ。

地理学、生物学、社会学。著者はそれらの諸学問を駆使して壮大な人類史を捉えなおしてきた。そして著者は未来を救うための三つの勢力として考古学者、テレビ、歴史を提唱する。考古学者や歴史はまだしも、テレビ? つまり、著者に言わせると、テレビのような大量に流される情報の威力は、インターネットのような分散された細分化され拡散される情報に勝るということだ。

が予測する未来は破滅的な事態を防ぐことはできる、と前向きだ。その予測は私たちにとってとても勇気をもらえる。私が本書のレビューを書き上げようとする今、アメリカの今後を占う上で欠かせない人物が頻繁にツイートで世を騒がせている。トランプ大統領だ。現代の西洋とは、アメリカによって体現されている。繁栄も文化も。そんな西洋のメインファクターであるアメリカに、閉鎖的で懐古主義を標榜したリーダーが誕生したのだ。そして世界をつぶやきで日々おののかせている。トランプ大統領は西洋の衰退の象徴として後世に伝えられていくのか。それともトランプ大統領の発言などは世界の未来にとってごくわずかな揺り戻しにすぎず、トランプ大統領の存在がどうあれ、世界は人工知能が引き起こす予測のできない未来に突入してゆくのか、とても興味深いことだ。

未来に人類が成し得ることがあるとすれば、今までの歴史から学ぶことしかない。今までの教訓を今後にどう生かすか。そこに人類の、いや、地球の未来がかかっている。今こそ人類は歴史から学ぶべきなのだ。本書を読んで強くそう思った。

‘2016/10/21-2016/10/27